烏帽子形神社:大阪府河内長野市喜多町 |
[2005/10/16撮影]
烏帽子形山の東麓に位置します。発見された棟札によりますと、文明12年(1480)に石川八郎が建立したことが知られます。また、江戸時代初め、この地の領主で最後の烏帽子形城主であったと言われている甲斐庄喜右衛門正房の子、旗本甲斐庄喜右衛門正保が、元和3年(1617)に四天王寺の譜請奉行を勤め、そのときの余材を使用して元和8年に神社の修繕を行ったと記録されています。
神社には徳寿院蒿福寺という天台宗の神宮寺がありました。この寺のものである鐘が奈良県五條市西吉野町賀名生の堀家に伝えられています。その銘文に河内蒿福寺と康元元年(1256)の年号が見られます。 (河内長野市教育委員会のチラシより)
言い伝えによれば、当烏帽子形山は応神天皇の別宮があった所で、山嶺は殿閣のあった跡とも言われている他、京都石清水八幡宮の例祭放生会の放魚の儀は、当烏帽子形神社により川に放魚を行なったときが、初めとするとも言われている。 (御由緒より抜粋) |
烏帽子形神社の鳥居
左側には「黒谷翁之碑」という石碑がありました。
石段の途中にある「恵比須社」(元高良神社)
[拝殿]
御祭神:素盞嗚命、足仲彦命、神功皇后、応神天皇
境内社・比良野社
境内社・稲荷社
高野街道は古来より物流・交通のうえで重要な役割を担ってきました。この道が高野詣に使われたのは平安時代の末ごろからで、高野街道の通称で呼ばれ始めたのは室町時代ごろからと考えられます。江戸時代になると、物流や交通はますます盛んになる一方で、幕府による整備と厳しい統制が加えられました。この様子を知るうえで重要な史料が「木製 三日市宿高札」です。(神社にて保管)
(河内長野市教育委員会のチラシより) |
烏帽子形公園の道標
烏帽子山を登るけもの道(?)がありました。
烏帽子形神社前の高野街道
*** 烏帽子形城 ***
標高182mの烏帽子形山山頂に築かれてた中世から織豊時代にかけての山城です。伝説では楠木正成が築いた「楠木七城」の一つといわれています。しかし、残されている土塁や空掘などの城の縄張りや公園整備に伴って発掘調査し検出された礎石建物や瓦などから、現在の姿は天正12年(1584)に豊臣秀吉が小牧・長久手の戦いに際し、紀州側への防衛として修復させた当時のものと考えられます。 織田信長が畿内を平定した元亀から天正にかけて、城主として2名のキリシタン大名がいたことが、フロイス「日本史」やイエズス会日本年報に記されています。烏帽子形は南河内のキリシタンの拠点となり、城下の500人(300人とも)がキリシタンとなって、教会も建てられていました。また、天正9年(1581)イエズス会の巡察師バリヤーノが京へ行く途中に立ち寄っています。 (河内長野市教育委員会のチラシより) | |
烏帽子形公園案内図 42KB | 烏帽子形城縄張り図 63KB |