岩手県・浄法寺塗 土地の伝承によれば、神亀5年(728年)行基がこの地に天台寺を建立した時中央から僧侶が派遣され、自家用の什器を作るために漆工技術も伝えられました。
秋田県・白糸の滝 聖徳太子、行基、藤原秀衡など歴史上の人物が訪れたと言われている。
秋田県・大日堂 養老年間、美濃のほか、遠いみちのくにも醴泉伝説があって、内裏とも縁の深いことを知った朝廷では、行基をつかわして大日堂を再建させた。行基はまた霊夢によって、一本の桂から三体の如来 像を刻んで、小豆沢と、そこから6キロほど離れた長牛(なごし)、そして独鈷(とっこ)の各大日堂におさめたという。この開眼供養として奉納されたのが大日堂舞楽といわれる。
小豆沢大日堂の「大日霊貴社略縁起」 「人皇四十四代元正天皇養老二年(中略)継体天皇の創建し給ひし大日神霊社再興ありて両部の社堂に成され、東西南北大小竜神を勧請し天神地祇を奉り音楽を拝奏し正しく養老の礼を行われ国家の御守宝たるべき尊像を彫刻してその鎮となすべき勅あり、高貴の名僧、二匠、音楽師等下向せしめられ尊像は導師の任意たるべき旨勅諚あらせられたり名僧とは即ち行基菩薩なり」。
秋田県・杉宮村の伝説(雄勝郡羽後町田代字杉ノ宮) 「杉宮村の杉は、大和の国、杉宮山から一夜のうちに飛来也り、かくて大林となりたるよしを言い伝え、行基菩薩の開基の地なり」という伝説があります。
宮城県・柳津虚空蔵尊 「柳津虚空蔵尊」の七不思議の1つである「黄土山の黄金水」は、行基が黄土山頂上で秘法を行い湧き出た、無病息災の水とされている。
福島県・福島城 行基が建立したとされる大仏殿があったことから大仏城とも称される。
福島県・羽黒山湯上神社(福島県会津若松市) 明治の神仏分離までは東光寺南岳院により管理されていた修験道場で、天平年間(729〜49)行基が山頂に紫雲たなびくを見て登ると、三足の烏が飛来し、軍荼毘、妙見、聖観音が現れたので、三社権現として一寺を建立し東光寺と号した。後に蒲生氏が、東光寺が謀反を働いたとして寺領を没収したので寺運は衰微していき、明治廃寺され、多くの寺宝を失い、現神社のみが残った。
福島県・吉祥院(満福寺・安達郡) 852年慈覚大師円仁の開基といわれ、東北地方に弘教のため出羽(山形)に向う途中、白蛇が来て大師自作の毘沙門天を納めた笈を巻いたので、尊天有縁の地として里人に勧進し、一宇の小堂を建て白蛇明神の横額を書き、笈仏の本尊毘沙門天を勧請して「吉祥院」と称した。 源頼義が守本尊の地蔵(行基の作)を献じた時、僧が釜をもって飯を炊き、新しい折敷に盛って出し食べてもらった。それより飯出山とよばれるようになったと伝えられる。 嘉慶元年(1387)畠山国詮が、高国、國氏父子37回忌追善のため、境外に「嘉慶堂」を建立し、行基作と伝うる地蔵菩薩を安置し、鎌倉腰越郷竜護山満福寺をこの地に移した。享保6年(1721)嘉慶堂の台坐共8尺、行基作と伝うる地蔵尊を賽の河原の本尊として「奥の院」を建立したが、明治23年(1890)盗賊の放火によって本堂、奥の院、毘沙門堂、山門、庫裡全部焼失、現在の本堂は昭和28年(1953)に再建されたものである。
福島県・厩嶽山馬頭観音(耶麻郡磐梯町) 旅をかさねて、磐梯山ふもとの源橋村に至り、村の西の清流で水ごり(清水で心・身の汚れをとる)をとり、厩嶽山に馬頭観音をまつり、この地方の馬の無病息災の守りとしたそうです。以来、水ごりをとったところを 「秡川行場」といい、 行基が衣を脱いでかけた松を「行基袈裟懸の松」 と伝えられ、そこから東へ五十メートルはなれたところに行基菩薩の碑があります。(磐梯町の伝説と昔話より)
茨城県・月山寺(桜川市西小塙) 平安時代の初め徳一上人により法相宗の寺として中郡橋本の地に建立され、永享二年、光栄上人の代に天台宗に改宗したと伝えられる。奈良時代の末ごろ、法相宗の寺を開基した徳一上人が、当代随一の高僧として知られた行基上人との法論の末、日影の橋本の地に開山したと伝えられる。その後三十八世恵賢上人が現在地の西小塙に移転するまで、学問所として隆盛を極めたといわれる。
栃木県・行基平古墳(足利市) 行基の名前を冠しているのは、織姫山腹にある徳正寺を行基が開山していることに関係している。
栃木県・法楽寺(矢板市) 神亀元年(724)行基が高原山剣ヶ峰の麓に法楽寺を建立し、千手観音ならびに不動明王・毘沙門天の両脇侍を安置したが、延暦22年(803)雷火により観音堂を残し焼失したという。剣ヶ峰西下に法楽寺があったという観満平、その奥院があったという寺の在所という地名が残る。(現在の矢板市長井にある「観音寺」の前身)
栃木県・半蔵山(宇都宮市) 山名の由来を示す資料は無いが、山の半腹に行基作の傳法寺本尊薬師仏が蔵されることに拠るとの説がある。
埼玉県・桂木山 地名は行基菩薩が東国を行脚した時、大和の葛城山に似ているところからカツラキと名付けたと伝えられる。
埼玉県・菖蒲町(南埼玉郡) 奈良時代に行基が下野巡錫の道すがら、この地に着いた時には日がとっぷり暮れ、宿を探したが人家もなく、南の方角に沼が白く光っていて、その辺り一面に菖蒲や柳が密集していたことによるという。(菖蒲町歴史ガイド)
千葉県・房総の行基伝承 房総半島には,[行基・慈覚大師円仁・源頼朝]などに関する伝承が多く残っています。 (日本文化論:http://rizardon.com/~nakai/gyouki.htm)
東京都・高尾山 天平16年(744)聖武天皇の勅命により行基が開山したとされる修験道の霊場。山上には、薬師如来を本尊とした東国鎮護の薬王院有喜寺がある。その有喜寺には「隠れ蓑」という民話があり、そこに出てくる天狗「螺善坊(らぜんぼう)」の名付け親が、行基とされている。
東京都・江戸六阿弥陀めぐり 由来:その昔、足立村の長者の娘(足立姫)が豊島村の由緒ある家へ嫁いだが姑の嫁いびりに耐え切れず、5人の侍女ともども荒川に身を投げてしまったそれを僧・行基が哀れみ六体の阿弥陀仏を彫ってこのあたり一帯の寺にまつり供養したことに由来するものらしい 第1番・西福寺(豊島区) 第2番・恵明寺(足立区下沼田町) 第3番・無量寺(北区西ヶ原) 第4番・与楽寺(北区田端) 第5番・常楽院(台東区上野)→多摩市移転 第6番・常光寺(江東区亀戸)
神奈川県・星の井(星月夜の井) 行基がこの地で虚空蔵求聞持の法を修したとき、七夜井戸の中に三つの星が輝いて昼間でも星の陰が見えたというが、賤女が誤って菜切包丁を落としてからは見えなくなってしまったといわれている。
神奈川県・延命寺(逗子市) 延命寺の行基作と伝えられている延命地蔵尊が、里氏から尊信されたことにより、この像を安置する厨子(ずし)が、いつしかこの土地を称して厨子と呼ぶようになったと伝えられている。
神奈川県・毘沙門大堂 金剛寺(廃寺?)にあったお堂のようで、行基作の約七寸の坐像があったとされている。
神奈川県・わくり井戸(霊泉)(三浦市) 古文書に「天平元己巳年(729)、僧・行基当国行脚のみぎり、塔の台に来たり給い、その麓の西にあたりて、湧きいずる、泉に感じたまい、延命地像菩薩の尊像を彫刻し、塔の台に一宇を建立して、これに安置したまへり。」とある。霊泉を「大井戸」と呼び、三浦七井の随一で、五劫寺が管理している。
神奈川県・高麗寺(廃寺)(中郡大磯町) 養老元年に行基僧正が巡国の折にお祀りしてある千手観音を高麗権現の本地佛とお定めになりました。これより神仏習合の地として山頂の高麗権現と下宮の千手観音とを併せ祀り、高麗寺別当の司る所となりました。(高来神社(高麗寺)の由来より)
神奈川県・飯山の七不思議「久保の万年橋」(厚木市飯山) 飯山に来た行基が光福寺の前の小川に橋を架けた。その橋が一度も架け替えられたことがなかったため「万年橋」と呼ばれていたという。
山梨県・瑠璃山鎮目寺跡(笛吹市(旧東山梨郡)春日居町) 明治7年(1874)に廃寺となる。養老年間(717〜724)に行基が一本の柏の木より3躯の薬師如来像を彫り、そのうち一躯を鎮目寺に、次の一躯を柏尾山の大善寺に、次の一躯を永井の揄迦寺に安置したと云われる。明治中期ごろまでは「お薬師さん」の祭りも盛大に行われたと云う。
長野県・行基さんと荒瀬原(上水内郡信濃町荒瀬原) 夢でのお告げにより、行基が二体の薬師如来像を刻み、里人を救ったとされる民話。
長野県・布引山釈尊寺縁起 牛に引かれて布引の 山々布引く釈尊寺 御寺を詣る人々は 山の縁起をたづね見よ 寺は聖武の御時に 僧の行基が開基より 西行法師も三年へて 晒らす御歌を残しけり それその昔なつかしく 千曲川辺の赤岩や 信心浅き夫婦等が 世にも稀なる言ひ傳ひ 或日媼は留守居して 川に布をば晒せしが 一匹の牛現れて 布をば角にかけり行く 媼驚き後追いて 北へ走れば善光寺 思はず詣る御仏の 光り仰ぎてひざまづく 戻りて仰ぐ布引や 山風時にあれいでて それかと見れば岩上に 晒せし布を吹きつけぬ 今布岩の名もそれよ 取るにすべなき岩壁を 見る見る媼は日を過し いつか化石となりにけり 翁媼を探しきて 化石となれる悲しみに 岩にまばゆき布見つつ 烟と遂に消へ失せぬ 後人それを憐れんで 祠を立ててまつれるか 牛と化せしもありがたや 聖徳太子の観世音 霊験日々に新たにて 光りかがやく布引の 山の真清水くむ人は 心すまさぬものぞなき
新潟県・五頭山(阿賀野市〜東蒲原郡阿賀町) 五つの峰を持つことから五頭山と言われる標高912mの山。大同4(809)年に弘法大師が開山したと伝えられ、五つの峰にはそれぞれ大師ゆかりの仏像が祭られている。 観世音菩薩(行基菩薩之御作)・薬師如来(恵心僧都之御作)・不動明王(行基菩薩之御作)・毘沙門天(行基菩薩之御作)・地蔵菩薩(聖徳太子之御作)
新潟県・二王子山(新発田市と黒川町の境界) この山にも役の行者伝説があり、その後行基が二王子岳に不動尊、一の峰に熊野権現、三の峰に蔵王権現を祀ったとある。田貝川に沿った平野部に、田貝修験が多数院坊を構えていた。大峰・熊 野信仰が強かったとある。(登山口の二王子神社の祭神は大国主命)
富山市・不動滝(三枚滝)(大山町) 不動滝(三枚滝)が落ちる西側の岩石に行基作といわれる不動明王が彫られている。大岩の不動と兄弟であるとされる。
静岡県・蓮台寺 行基の創建とされている。蓮台寺温泉の西はずれに、承久年中(1220年頃)にあったという。
静岡県・行基の滝 吉奈温泉近くにある行基修業の滝。
静岡県・法多山 神亀2年(725)、行基により開基された真言宗の名刹。
静岡県・久能山 推古天皇(592年〜628年)のころ、久能忠仁が久能寺を建立し、行基を始め、静岡茶の始祖といわれる聖一国師など、多くの名僧が往来し隆盛をきわめた。
静岡県・西浦田楽(水窪町の祭り) 伝説によると養老3年(719)に行基菩薩、この地に来て正観世音の仏像と数個の仮面をつくり、その年の7月10日より田楽がはじまり今日に及んだものであると伝えられている。行基が旅の途中に立ち寄り観音像をつくったという伝説は、付近に現存する観音堂、薬師堂に共通のものである。
岐阜県・日向滝 天平年間(729〜749)に行基がこの地にきたとき、自らの手で不動尊を彫り、滝のほとりにお堂を建て安置されたということから、別名不動滝とも呼ばれている。
岐阜県・稲荷山長国寺 「昔聖徳太子が百済の香木に彫ったものといい、太子は法隆寺の夢殿に安置してまつっていたが、ある日突然空に舞い上がり東方に飛び、大井の里へ来た」という「妊観音」がある「長興寺」にお参りして子が授かったという「根津甚平是行」(鎌倉時代頼朝の家臣で信濃根津の郷の城主)が、行基が創建したという「長谷教寺」を再興し、甚平の守り本尊の運慶作の地蔵菩薩と夫人の聖観音等を寄進したという。
愛知県・岩屋観音 天平2年(730)行基がこの地に赴き、その風景に魅せられて千手観音像を刻んで岩穴に安置したのが起源とされている。
愛知県・蒲郡市五井町のお話 観音堂にまつわる〔子供の好きな観音様〕のお話しがあり、その観音が行基作とされている。
愛知県・全福寺跡(蒲郡市相楽町) 神亀年中、行基が十一面観音を刻み、これを祀ったのが起源という。その後、源頼朝 が三河の守護安達藤九郎盛長 に命じて堂塔を建立させて三河七御堂の一つとして栄え、12僧院を備えた大規模な寺院で、天台宗に属する台密の修行道場でもあった。
石川県・金沢市森本地区 盆踊り唄[森本はいやさんかさ] 来たりさ来なんだり夏日の水は |
| 誰がサ上を止めたやら | 親のサ意見と | なすびの花は |
| 千に一つの | あだはない | さつきサ上りの | ささげ餅のうまさ |
| お殿様でも | わかるまい | 四坊のサ地蔵様に | すげ笠かぶしよ |
| 夏のサ | 日ざしは暑うかろに | 山もサ深谷 | なさけのいで湯 |
| 行基サ菩薩のおめぐみじゃ | 流れサ絶やさぬ | 森本川の |
| 肥やすサ | 田畑は五万石 |
福井県・日野山 養老2年(718)泰澄によって参道が開かれ、南社殿に不動明王、中央の社殿に文殊菩薩、北社殿に観音菩薩を奉り、日野権現と言ったが、一説には、これらの仏像は泰澄・行基の作だとも言われている。
三重県・伊賀四十九院(上野市) 行基が聖武天皇の勅を奉じ諸国に四十九院を創建し、その1つが当地に建てられ四十九院村と呼ばれる。
三重県・菩提山 この山のかなしさ告げよ野老掘 伊勢の菩提山(ぼだいせん)神宮寺は、行基の開基の寺と言い伝えられていたが芭蕉が訪れたこの時代すでに荒れ果て、山野に変わっていた。見る影もない悲しい状態が一句の動機。
三重県・多宝山智積寺(四日市市) 正治年中(1199〜1200)に造立され、御本尊は行基菩薩の御作とされる薬師如来である。「伊勢暴動」のため焼失。
大阪府・高瀬大橋(大阪市) 行基が全国に布教しながら各地で優姿塞を組織して灌漑施設や道路、橋の建設をした一つとされる橋で、現在の豊里大橋の近くに架けられたと推定されている。
大阪府・高瀬寺跡(大阪市) 行基が建立したと伝えられる七堂伽藍を備えた寺院跡で、大正7〜8年頃に奈良時代後期の複弁蓮華文軒丸瓦を初め、多数の瓦が出土したことにより、その存在が推定できる。
大阪府・高瀬橋院(高瀬寺)(守口市) 行基四十九院の一つで、「高瀬神社」の宮寺としても機能したものらしい。聖徳太子が建立したとされる茨田寺の跡に創建されたのではないかとの説もある。応仁の乱で焼失し、その後は再興されていない。
大阪府・深井(堺市) 行基がこの地の人々の生活のために深い井戸を掘ったことから、いつごろからか深井と呼ばれるようになる。 また、明治初年まで香林寺(行基建立の49院の1院)は、深井・野々宮神社と併存していた
大阪府・向井(堺市) 方違社のやしろの畔にあり。僧正行基、此水を閼伽として、つねに仏に供ず。相伝う、衆病を除き、眼目を洗えば、晶か也という。(和泉名所圖會より)
大阪府・潮風呂(堺市) 行基が海辺に井戸を掘ったところ清らかな水が湧き出て、この水を沸かして入浴すると、どんな病気でも治ったそうで、「しほゆあみ」(塩湯)が、病気を治してくれるというので、熊野まいりの人々によって、京の都に知れわたり、大勢の人が堺の浜までやってきた。のちに塩湯は旭蓮社(堺市・現 大阿弥陀経寺)に寄進された。
大阪府・七堂浜(堺市) 行基創建の「清浄土院高渚寺」の七堂伽藍があったらしい。 (現在の堺市・高須神社あたりと思われ、西100mほどのところに行基が掘ったとされる井戸跡がある。)
大阪府・七道の由来(堺市堺区) 行基が建立したという「高須寺(廃寺)」に七堂伽藍があって、その七つのお堂から七道に変わったという説がある。
大阪府・千日井(堺市堺区) 「高渚寺」(高須寺)の閼伽井で、隣の石碑はかつて「土居川」に架けられていた「千日橋」のたもとにあったもの。
大阪府・大鳥大社(堺市・勧学院神鳳寺) 聖武天皇の勅願により、神宮寺として建立。明治の神仏分離により廃寺。
大阪府・三国山 向泉寺(堺市・廃寺) 方違神社の神宮寺。天平15年(743)、方違神社の南側に開基。「閼伽井」という井戸を掘り、後に諸堂宇を立てた。井戸に向って堂宇を建てたので「向泉寺」と名づけた。この井戸水を沸かして湯浴びすると諸病に霊験があり、特に、皮膚病によく効くと評判であった。永正年間(1504〜1520)の兵火で焼失した。
大阪府・常楽寺(塩穴寺)(堺市・大仙西町遺跡) 行基による開創と伝えられている。(泉州路 中世寺院の探訪より)
大阪府・櫟木山真福寺(堺市美原区) 天平年間、行基による開基で、のちに叡尊がこのお寺で布教活動した。明徳2年(1391)頃に兵火によって焼失した。(大阪府地名大辞典より)
大阪府・瑠璃窟(堺市) 大塚山薬師堂の傍にあり。深サ弍間余。横巾壱間許。いにしへは、成願寺といふ浄刹あり。慶雲年中(704〜708)、僧正行基の開創なり。世の人、行興寺の奥之院といふ。(和泉名所圖會より)
大阪府・雨乞いに関する伝説 「龍にまつわる伝説」「落ちてきた龍」「権現滝」などがあり、龍頭寺(龍光寺・大東市)、龍腹寺(龍間寺、現鎮宅霊符教本部・大東市)、龍尾寺(四条暇市・奈良時代中期に行基によって建立されたと伝えられている。)が伝説に関連する寺院とされている。
大阪府・神宮寺墓地(八尾市) 行基菩薩の作った、いわゆる河内七墓の一つ。天平時代に、はやり病で死んだ屍が道端に打ち捨てられてあるのを、行基が哀れと思われて一カ所づつに集めて火葬された所といわれている。 神宮寺墓地・垣内墓地・額田墓地・岩田墓地・荒馬墓地・植松墓地・神立墓地
大阪府・行基様思し召しの柿(松原市・民話) 『行基様の思し召し』『行基様へ』『行基さんの柿』などの言い回しを含めて、はっきりとした名称はありませんが、蜜柑や柿、田の稲の一株、野菜の一株としたかたちで、作物の一つだけ残す形がほんの少し前までありました。
大阪府・久米田池(岸和田市) 水面積では府下最大のため池。
大阪府・極楽寺(泉大津市) 天平年間に僧行基によって創建され、七堂伽藍を備え西は紀州街道、東は虫取まで及ぶ広大な境内をもつ寺院である。地内北側の旭小学校付近に「院内橋」、浜側に「蓮池」、戎小学校前に「経塚」などの字名が残る。天正9年信長が高野山を攻めたとき真言宗であるため焼き払われ廃寺となり、虫取浄忠寺にある「石仏阿弥陀如来」、春日町上品寺の「阿弥陀如来坐像」は、もと極楽寺の仏像といわれる。
大阪府・安明寺(和泉市黒鳥町) 慶雲(704〜708)頃、行基によって草創された。本尊は薬師如来。菅原神社付近にあったが、今では遺跡を全くとどめていない。(泉州路 中世寺院の探訪より)
大阪府・願泉寺(貝塚市) 「貝塚寺基立書」によると、天平12年(740)、聖武天皇の勅命を受け行基がこの地に一庵寺を建立した。この庵はのちに蓮如上人がとどまり、浄土真宗の教えを説いた場所であり、願泉寺の前身であると伝えている。 (泉州路 中世寺院の探訪より)
大阪府・貝塚市の地名の由来(貝塚市) 「水間」のように地形の特色から生まれたもの、「半田」・「小瀬」・「永吉」のように歴史的背景から生まれたもの、「地蔵堂」や「王子」のように民間信仰から生まれたもの、「海塚」・「鳥羽」・「神前」・「清児」・「木積」のように行基伝説から生まれたものなど、地名にはさまざま由来があります。 「海塚」の地名の由来については、『貝恷s史』に「行基菩薩が塚を海辺に築いたが、海中に没し、干潮時、波間に隠見する」という行基伝説から生まれた伝承を記しています。
大阪府・稚児塚(貝塚市) 奈良時代、僧行基が一羽の白鳥に導かれ現在の貝塚市鳥羽付近まで来たところで白鳥は羽根を落として飛び去ってしまった。その為彼は道に迷ったが、この塚あたりで一人の童子が現れ水間の地まで案内して姿を消した。この童子が実は十六童子の化身であったため、以後この地に塚を築き祭祀した。この伝説が清児(せちご)の地名の起こりと伝えられている。水間街道沿いに伝えられる行基の水間寺建立にまつわる伝説の一つ。
大阪府・谷川瓦(岬町) 言い伝えによると、文徳天皇(860年)の頃、行基がこの地を訪れ、山土が瓦に適していることから、瓦製法を伝えたと言われている。
大阪府・行基焼(堺市) 須恵器の俗称。和泉国大鳥郡で産したねずみ色の素焼きの陶器。行基が指図して焼きはじめたという。(デジタル大辞泉)
大阪府・常林寺(羽曳野市) 江戸時代まであったという行基が開基した「飛鳥戸神社」の神宮寺で、聖武天皇の勅願所とされた。
大阪府・石連寺(豊中市若竹町) 住吉神社(石連寺の跡に平清盛が創祀した厳島神社が神社の起源)の隣に天平年間に行基が興した寺院があったとされる。平清盛に破却された。
兵庫県・室津 もともと地形に恵まれた天然の良港だったが、天平年間(729〜749)に行基により整備され、摂播五泊(河尻(尼崎)、大輪田(兵庫)、魚住(明石)、韓(的形)、室津)の一つとして発展した。
兵庫県・江井島、魚住の泊 行基がつくったと伝えられている。
兵庫県・大輪田泊 大輪田泊を開いた際、神功皇后の神霊がお告げをし、「この港を往来する船を守護する」という神託に応え、祓殿塚の旧跡に祠を立ててお祀りし、往来神・雪気神(ゆきけのかみ)という神号をつけたという記述が残されています。(『西摂大観』)
兵庫県・妙見山 行基が開いたと言われている。
兵庫県・日光寺跡 大野山の頂上に行基の開基といわれる大野山日光寺の七堂伽藍の跡がある。
兵庫県・塩通山 法恩寺(芦屋廃寺) 阪急芦屋川駅から西へ300mあたりの場所に、その昔行基が寺を開き、その後平安時代の歌人で芦屋とも関係の深い在原業平がお寺を建てたと伝えられている。
兵庫県・昆陽池 昆陽池を通りかかった行基が、薬師如来の変身の旅人に魚を食べさせ、食べのこした魚を池に放ったところ、一切れずつがみんなの一匹ずつの魚になって泳ぎ出したという「片目のフナの伝説」がある。
兵庫県・福島大池(三田市) 行基にまつわる歴史が残っています。三田では、深田、川除、大原に集中しているようです。武庫川の改修や灌漑堰の設置、福島大池の築造などに関わったとされています。
兵庫県・三田市の民話 川除(かわよけ)の地名の由来。村が洪水に悩まされていることを聞いた行基は、「松山のゆ」を作って用水路を引いたり、川を遠ざけて洪水から村を守るなどの治水工事を行った。
兵庫県・南光町(佐用郡)のいわれ 聖武天皇の命により、僧行基が開基した船越山 南光坊 瑠璃寺(南光町船越)にちなむ。南光坊は西播磨地方の住民の崇敬するところ。南光というのは、風土気候温順に住民安堵して克(よ)く業に励むの意。
兵庫県・武庫(尼崎市・ソラマメ(蚕豆)の来歴) わが国への渡来は聖武天皇時の天平年間の729〜749で、インドの僧侶の菩提仙那が中国経由で来朝し、摂津難波津に出迎えた行基上人に「王墳豆」の種子一袋を手渡し、武庫(尼崎市)の岡治氏がこれを試作したことに始まったとされています。
兵庫県・淡路島(洲本市) 洲本市物部の第二十四番札所にあたる、「亀谷薬師堂」の本尊が「亀の背中に乗った薬師如来像」で、『淡路草』の上巻に「亀谷庵 万年山亀谷にある禅庵也 本尊薬師長三尺余乗亀像也 行基作 脇士右は達磨左は準提 堂瓦葺 寅夘向二間半に四間半」とある。しかし、火災で焼失、現在は石造りの「亀に乗った薬師如来像」が祀られている。
京都府・泉橋 恭仁京遷都に伴い、天平13年(741)木津川を越えて新京を造るため泉河にいくつかの橋がわたされ、そのなかで行基が優婆塞らの弟子を率いて同年の7月から10月に現在の国道24号線木津町と山城町とを結ぶ泉大橋の近くに造営した。
京都府・深泥池 行基がこの池で修法をしたとき、弥勒菩薩が池の中から現れたという伝説がある。 (小松和彦氏著「京都魔界案内」より)
京都府・音羽の里(山科区) 音羽の里には行基の故事により、井戸水が出ないという伝説があったらしい。 (蓮如上人御指図の井近辺/実悟『捨塵記』)
京都府・弥仙山 大宝年間に行基が開山。
京都府・(旧)鳥辺山 行基が開いたとされている。(小松和彦氏著「京都魔界案内」より) 行基が山腹に阿弥陀像を安置して阿弥陀が峰と呼ばれるようになった。
京都府・久住山(木積山) 木積山山頂に行基開基と伝える大伽藍があったという。中世には木積山城が築かれていた。
京都府・乙訓郡大山崎町 行基と人柱(京都 乙訓・山城の伝説(京都新聞社編・刊)より)
京都府・鷲尾山 尾坂寺(廃寺・現廣通寺近く) 天平年間(729〜749)に行基が巡回のとき、多くの人びとが尾坂に霊地があると申し出た。そこで行基が現地にやってきて尾坂山をみたところ、山が険しくそびえ立ち三方の峰に紫の雲がたなびき、不思議なことにその雲の中から観音様の姿が現れた。参詣者たちはその尊像を拝むため群れをなし続々と集まってきた。本尊の聖観世音菩薩は、この時行基が遥か彼方の尊像を自ら彫刻したものと伝えられている。人びとは浄財を集めて寺を建て、行基はこの寺に鷲尾山尾坂寺と名付けた。釈迦が説法を行ったとされるインドの霊鷲山(りょうじゅせん)地帯のやまなみと尾坂周辺の川とがよく似ているからだといわれている。(尾坂観音堂縁起)
奈良県・高宮寺(廃寺) 691年に行基は徳光禅師について具足戒を受け、正式な僧となる。山岳密教の霊地で、寺伝によると、川原寺の道明上人が686年に天武天皇の病気平癒を祈って小堂を建て、「銅板法華説相図」を安置して供養したのが始まりで、721年初瀬寺(長谷寺)の徳道上人が8尺7寸の千手千眼の尊像を刻み、高宮の凡室に安置したとされている。
奈良県・龍福寺(廃寺) 桃尾の滝近くの弘法大師再興の「桃尾山 蓮華王院 龍福寺」が元で、「大親寺」の堂が残る。「龍福寺」は和銅年間に義淵が小堂を建立、天平年間に行基が堂塔を建立し、十六坊を配する大伽藍を完成。中世には五百石分、江戸時代には百石分の寺領を有したが、明治初期に廃仏毀釈で廃寺となった。(石上神社が境内にあった)
滋賀県・江州音頭 経文祭文をとりいれた一般民衆向きの音頭で、弘化年間に作られたもので、豊郷・八日市を中心に近江路一帯に広がった。行基の名前や、行基による創建の「千樹寺」の寺名が、歌の中におりこまれている。
滋賀県・天狗の爪(竹生島宝厳寺) 行基が島に渡って、思念を凝らしていると、天狗共にはその微妙な誦経の声が邪魔になって仕方が無い。そこで首領の行神坊が、眷属を率いて、さまざまな妨害を試みたが、相手が行基菩薩では一向に通じない。とうとう行基の法力に折伏されて、行神坊をはじめ眷属の天狗一同が行基に帰依して、爾来長く島の護法となることを誓い、その験しとして天狗行神坊が、自分の十指の生爪を剥がして献じた。その生爪2個であると縁起にある。(知切光歳氏著「天狗の研究」より)
滋賀県・荒神山「へび岩」伝説 荒神山の東面の山腹に「へび岩」という大きなへびの頭ににた岩があり、「むかし天竺の霊鷲山の一岳を、大へびが背に乗せて月氏國(げっしこく)を経て日本に化来し、大へびは岩と化し、毎朝東にむかって三度口を開いて、日光を呑む。」という伝説がある。当時、荒神山の山上は、神の場として犬上・愛知・神崎・蒲生四郡の祓所となっていたが、行基によって奥山寺が建立され、その縁起として、日本への仏教伝来の歴史的事実をもとにしたこの「へび岩」伝説がつくられた。(故久木恒太郎氏の「亀山学区報」掲載文より)
愛媛県・双岩の古木(イブキ) 地元では行基が立ち寄ったときに植えたと言い伝えが残っている。
香川県・からふろ 古代版サウナ。行基菩薩が作ったと伝えられている。
香川県・文京町 その昔、一帯は海岸で、遍歴中の行基が漂着した魚の白骨を集めて魚御堂に祀ったとも伝えられている。
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香川県・魚御堂の碑 (日本武尊の子・武殻王による悪魚退治伝説のその後) 伝説によれば、大魚は死して遂に白骨となりましたが、その魂が骨にとどまり化け物となって、多くの人々を悩ましました。そのため聖武天皇の時代、布教のため諸国を廻っていた行基が福江を訪れ、人々の難儀を救うため、白骨に火をかけ、その灰で「薬師如来像」を造り一寺を建立したと伝えられています。この寺が法軍寺また魚御堂です。この魚御堂も、長曾我部軍の兵火で焼失し、慶長14年(1609年)に再建されました。しかし明治34年4月県立商業高校が建設されたことにより、建物は横潮神社へ移され現在に至っています。
徳島県・鯖大師伝説(八坂寺) 行基が四国を巡錫している時にこの地を訪れた際、鯖を馬に背負わせた馬追が通りがかった。行基が鯖を所望したところ、馬追はこれを断った。行基はこれに対し「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれで馬の腹や(病)む」と歌を詠んだ。すると、馬は急に腹痛で動かなくなった。困った馬追は行基に鯖を差し出した。行基は今度は「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれて馬の腹や(止)む」と、「くれで」を「くれて」と1文字変えて詠むだけで、馬の苦しみは治まった。
岡山県・由加山 天平5年(733)に行基により開かれたとされている。
岡山県・福田海(ふくでんかい) 吉備津彦神社と吉備津神社を結ぶ古道の途中にある。中枢施設「中堂」の周囲の石塔は、行基の説く弥勒四十九ヶ院浄土説法にもとづくもの、とのこと。
広島県・五日市の行基と空海の伝説 奈良時代、行基が東大寺の大仏殿建立で諸国を巡っていたおり、厳島に立ち寄り、そこから極楽寺(廿日市町)あたりをみると、光をはなっている不思議な木があったという。 行基が訪れてみると巨大な杉で、その杉で極楽寺の本尊・千手観音を刻み、 残木で保井田正楽寺の薬師仏、田中寺の阿弥陀仏を掘ったという伝説がある。そして、その杉のあったところが、大杉という地名となっている。その後、大同年間に空海が、千手観音と薬師寺の開眼供養をおこなったといわれている。
広島県・宮内光代寺(廿日市) 行基作という千手観音像があった。 光代寺は広大寺、広代寺、光大寺などとも記されており、厳島社の末社天王社の別当職を勤めていた。 光代寺の初見は天文20年(1551)で以降史料で散見されるが寺歴は定かでない。
広島県・木造釈迦如来坐像(廿日市) 行基作とされる像。木造阿難尊者立像・木造迦葉尊者立像(ともに重文)と一具。江戸時代までは厳島神社の大経堂本尊だった。
広島県・白滝山・黒滝山 標高340mの山頂は、行基が本尊十一面観音菩薩を作り、開山したと伝えられている。
広島県・権現山(広島市安佐南区) 治暦元年(1065)修行僧教道が行基作の毘沙門天を祀ったのが始まり。(広島新四国八十八ヶ所第19番霊場)
広島県・行基にかかる伝説(廿日市・五日市) [行基作とされる像] 極楽寺千手観音像 宮内光代寺千手観音像 正行寺阿弥陀如来像 地御前観音堂十一面観音像 地御前毘沙門堂毘沙門天像 原浄楽寺珪大日如来像 原国実薬師十二神像 石内浄安寺薬師如来像 保井田正柴寺薬師如来像 中地田中寺大仏像
島根県・天川の水(隠岐郡海士町保々見) 環境省選定の名水100選の一つで、1日400トンの水がこんこんと湧く池。天平年間(729〜749)に僧行基が発見し、天恵の川(天川)と名付けたと伝わる。湧出しているのは清水寺の境内で、ここに本尊として祭られる聖観世音菩薩は、行基の作という隠岐で最も古い仏像。(Yahoo!トラベルより)
鳥取県・米子の水(やな井の水)(米子市) 大山の『大山寺縁起』に、「神亀5年(728)のこと。有名な僧の行基は大山で昼夜七日間の修行をしたが、仏に供える水が近くにないので、僧は「水をたれ給へ」と祈念して金剛杵で近くの岩を突いたところ水が僧の「御手の下より露しただりて、ほどなく器に満ちにけり。 それよりこのかた尽くる事なく」あふれ出るようになった」、と「大山の利生水」(井戸)の起源を説いています。 その大山の伏流水のわき出る井戸が、法城寺前の連理水・加茂神社の宮水・米子城の鈴の井戸と桂住寺入口にあるやな井です。
鳥取県・利生水(西伯郡大山町) 大山寺本堂から上ワタリを渡り釈迦堂跡を通り阿弥陀堂に向かう中間あたりにある。 その昔、行基が水輪の法を修せられたところ、たちまち浄水が涌き出たと伝えられる伝説の地。
福岡県・舎利山勝宝寺(福津市舎利蔵) 養老2年(718年)、名僧行基(ぎょうき)が仏舎利を安置して舎利山勝宝寺(しゃりさんしょうほうじ)を開基し、舎利蔵の地名の由来になったという。子院15坊を抱える大寺でしたが、今は廃寺となり、観音堂などの小庵が残るだけ。自然林の入り口には、福津市の「舎利蔵自然林」の解説板が建っています。
佐賀県・川古(かわご)の大くす この木には、行基が彫ったと言われる高さ2.4mの観音像が彫り込まれていたが、昭和60年に木から分離された。
佐賀県・小田宿の馬頭観音と大楠 奈良時代、行基が大楠に彫ったと伝えられる馬頭観世音があって、楠樹観音として近郊の信仰を得ていた。シーボルトも江戸参府日記に書いているが、幕末に火災に遭い、大楠は幹が空洞になってしまった。
佐賀県・太良嶽神社(金泉寺)(藤津郡太良町) 和銅二年、行基菩薩、金泉寺を建立してより紀州の熊野、豊前の英彦山と共に西国修験道場の一つとして、又、太良嶽大権現として殷賑を極めしも天正年間、兵火に罹りて灰燼に帰し天和二年、諫早藩主をして再興。
長崎県・雲仙 行基は宝平元年(749年)、雲仙の地で入寂したと伝えられている。現在、行基の墓は、寺の馬場にひっそりとたたずんでおり、信心深い人達が花や線香を捧げて徳を偲んでいる。
長崎県他・行基菩薩の七観音 奈良時代の初め、天皇の命により仏教布教のため諸国を廻っているときに、肥後の国宇土郡で橋の袂で苦しんでいた娘を介抱し、村人から大川に架かる橋が、通行人に祟っていると聞いた。村人の話によると、この橋の材料となった大木は、遠く朝鮮半島の百済から大津波により流され、この地で橋にされたという。 行基菩薩は、「橋というものは人を渡して多くの人を助ける慈悲の心がなければならぬのに、人に祟るとはなにごとぞ、仏に代わって汝を七つに切り海中に投じ流れ着いた所を仏縁の地とし観音を刻んで人々を救う霊場としよう」と言って、錫杖で、はっしと打たれると橋げたは七つに割れて海上を流れていったという。 行基菩薩は、流れ着いた浦々を廻り、観音を刻んで本尊として霊場を開かれた。 熊本県宇土郡:岩戸観音 佐賀県藤津郡:竹崎観音 長崎県南高来郡:堂崎観音 長崎県北高来郡:田結観音 長崎県西彼杵郡:脇崎観音 長崎県佐世保市:福石観音 長崎県北高来郡:和銅寺観音 (山崎 諭著「諫早街道を訪ねて」の法川山和銅寺の項より)
長崎県・御手水観音の磨崖仏群(諫早市御手水町) 市指定文化財。和銅2年(709年)、諸国巡礼中の行基が開いたとされる「御手水観音」の霊場に向かう参道左手の岸壁に刻まれた49体の磨崖仏群。もともとは彩色されていたと思われる。
長崎県・御手水観音の伝承 大昔、長田川の上に夜な夜な光を放つものがあり人々を恐れさせていた。そこに諸国巡歴の行基菩薩が通りかかり村人の話を聞いて川上の山中に分け入った。そこには大楠が亭々とそびえ、洞穴から眩い光が出ていた。行基菩薩は、この光こそ世の迷闇に悩んでいる人々を救う不可思議の光明ならんと伏し拝み、この大木を倒して衆生を済度する観音を刻んで、ここに宇堂を建てて観音を安置なされた。そして傍らの岸壁に梵字ア・ウン・ダの三字を彫り外魔を払う霊場とされた。
大分県・伝説「行基僧と乳銀杏」(日田市天瀬) 伝承によると僧行基が大同2年(807年)、観音像を彫るために枝を切った跡があるという。(高塚愛宕地蔵尊)
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