とんでもニャ〜Mの推測 1-16
※役にたたない推測ばかりの駄文です。(爆)

2007.04.20(Fri.)

いやはや、ずっと「風琳堂」さんのホームページに入り浸ってまして。面白い、というか、なるほど、と。「閻魔」が絡んでくる理由もわかったし、「庚申」についても当然絡んでくるんだなぁ、と。

泰澄と円空からのご推察に、行基ゆかりのお寺や行基の足跡、そして坂上田村麻呂等が出てきましたが、できれば聖徳太子も絡ませていただけたら、と。

でも、木津温泉の行基ゆかりの「中性院」の境内の「金毘羅神社」に、大物主命・佐田比古神・瀬織津女命が祀られていたことに、法印「河田慈源」さんってばやるじゃん、てな感じですね。

で、「瀬織津姫」の本地仏が「十一面観音」ということで、2007.03.17(Sat.)分で迷走(?)してたことに、なんとか収拾ついた感じがするが、まだ私の中では「国常立尊」と「天御中主神」がごちゃっとした感じで。

ふと、同神?なーんて思ってしまったりもして・・・。

古事記の巨木伝説(枯野)による「樹齢信仰」と「太陽信仰」の聖地とされる、高石の「等乃伎神社」、「巨木」は末社の「天御中主命」かと思いつつも、「国常立尊」のように思えて。

ま、いずれにしても、「風琳堂」さんのサイトで伺えるタブーに加え、行基たちの背後に見えるものや、「蜂子皇子」たちの偶然(?)は、国内だけのことでは済まないのかもしれないな、と。

聖徳太子不在説は、貝になりたい方々(?)にとってはありがたい傾向かも。

アイドルはトイレには行かないという気持ち、わからなくはないけど、アイドルとて同じ人間として見て欲しいと思うこともあるだろうし、いつまでも理想像としていられないと思うんだけどなぁ・・・。

とか言いつつ、昨夜ヨン様を見てふにゃけてたりしたMであった。

千早ぶる神世もきかず竜田川 からくれないに水くくるとは

業平サンは知っていたのかも・・・。

一昨日のヨン様よりコーフンして見ている自分を、「アブナイやっちゃ。」と捉えるあなざ〜ぱ〜とおぶみ〜がいた・・・。

2007.04.21(Sat.)

「風琳堂」さんとこのネタは、こちらで書いていこうかなと思ってるわけだけど、今興味を持ってるのが「オオトシとホアカリが同神」とされていることで。

もしそうならば、「オオトシ」の子とされる「阿須波神」がハッキリするかも。だけど、「大物主命」と「オオトシ」が同じとする何かを見つけるのは、ちょい難しいかも。

「大物主命」が「オオクニヌシ」や「オオナムチ」と同神とするのは、あちこちで見たりするけど、「オオトシ」はなかったような気がするんだが。

「ホアカリ」の祖父「高皇産霊尊」は「御井神」「木俣神」とされているけど、「御井神」「木俣神」は「大国主命(大穴牟遅神)」と「八上比売」の子とされている・・・ややこしいなぁ。

とか何とか言いながら、ついつい検索に没頭して更新をすっかり忘れてたりする・・・。

「神功皇后」で検索してて、偶然佐賀で行基ゆかりのお寺と神社を見つけたんですよ。

「仁比山(にいやま)神社」といい、行基が京都・松尾大社から御祭神の大山咋命を勧請したそうで。お寺はその神宮寺だった「護国寺」のうちの「地蔵院」。行基作とされる千手観音が御本尊で。

「山王さん」らしいが、「大巳貴神」は祀られてないようなのが、みょ〜だな、と。

で、検索で気になったのが、神功皇后の妹とされる「虚空津姫」。

「河上の世田姫=与止日女=豊(ゆた)姫=豊玉姫の持っていた川と海の水を操作できる二つの珠は、神功皇后という八幡の女神に取り上げられ、地元集団は大和に帰順したのです。」

というのと、

「志賀海神社には神功皇后の故事に倣って、祈願成就のお礼に鹿の角を奉納してきた「鹿の角の奉納庫」が存在している。」
(http://www.valdes.titech.ac.jp/~kuwako/saga 3.pdf)

ってのが、気になって。


そっか〜、「円空」はそもそも「泰澄」のおっかけしてて、秋田では行基のおっかけになり、場所によっては坂上田村麻呂のおっかけになってた、ということのようで。

いやしかし、また行基ゆかりのお寺がわかったのは嬉しいことで。

「湯殿山龍泉寺」なんだが、初めのおっかけ人(?)は、「舎人親王の御弟で阿彦三位浮房卿」だそうで。真意のほどは定かではないが、「舎人親王の御弟」なだけに、御縁起に何かするのではないかとおっかけてきたのかも?

しばらくは検索が続きそうだわ。(爆)

「風琳堂」さんのサイトは情報量が多く、詳しく書かれていて、まだ全部を拝見したわけではないけど、まずは事の起こりを書いておかないとわかりにくいですよね。

「元正天皇」の勅とされる、元明天皇&藤原氏の御祭神の消去活動(?)により、「熊野神・瀬織津姫」が宮城県の唐桑半島に上陸したのが養老2年(718)。

紀州名草の「穂積重義」「湯浅権太夫玄晴」および家臣らの船団にて、「南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し」て辿りついたようで。

養老2年(718)というと不比等が亡くなる2年前で、高野皇女(孝謙天皇・称徳天皇)が誕生した年。

つまり、行基が「藤白神社」で「熊野三山に皇子誕生を祈った」のはそれ以前ということになり、祈ったのはやはり「瀬織津姫」にであったことが伺える、と。

のちに「高野皇女ご誕生によって御母光明皇后は神域を広め、整え、熊野三山の御祭神を勧請」したそうだが、想像するに、元明天皇&不比等の没後の722年以降かと。

光明皇后の勧請により、御祭神が「ニギハヤヒ」と「熊野神」になって、粋なはからいをされたなぁ、と。

しかし、何故、宮城県の唐桑半島だったのか。「福島県小手郷堂平に安住の地を見出され」たとされる「小手姫皇后」と、何か繋がりがあるのだろうか。

「瀬織津姫」と「出羽」との繋がりから、何かありそうな感じがするのだが・・・。

神功皇后の妹とされる「虚空津姫」が、「世田姫」ではないかとされているようだったが、ひいては「瀬織津姫」になるような気がして。世田姫=与止日女=豊姫=豊玉姫=瀬織津姫、イコール卑弥呼の後継者「トヨ」だったりして?

さらに「瀬織津姫」あるいは「神功皇后」が、「マリア」に繋がるような、という、トンデモな推測が。

上記の佐賀と秋田の件、どちらにも行基が関係してるようで、それならば「瀬織津姫」が「神功皇后」とも繋がるのは自然なのかな、とも思えて。

ん?豊玉姫=瀬織津姫だとすると、ウガヤフキアエズの母ということになるなぁ。個人的な推測としては、ウガヤフキアエズのヨメのような感じがするが。

ということは、豊玉姫=神功皇后、妹の玉依姫=瀬織津姫か。いや、豊玉姫=虚空津姫で神功皇后の妹とのことで、名前に「津」があるから「瀬織津姫」か・・・。あ、「瀬織津姫」が「神功皇后」ということも考えられるかも。

うーん、ややこしい。

が、神武東征に際して、大叔父(曽祖父の兄)を「日前宮」の地に祀り、母あるいは祖母(叔母)を「熊野神」とした、ということになるのかな、と。

もし・・・「瀬織津姫」あるいは「神功皇后」が「マリア」に繋がるなら、秦氏はネストリウス派ではないのかも、と。豊玉姫も玉依姫も「処女受胎」ではないと思う・・・でないと、仲哀天皇の立場(?)がないような。

やっぱ、ややこしい・・・。

2007.04.22(Sun.)

「風琳堂」さんとこの続編ですが、「千時千一夜 ──瀬織津姫&円空情報館」に、

岩鬼山にも、岩木山の鬼神の懐に秘祭される原初の太陽神信仰があるのだろう。おもえば、岩木山三峰の一つである鳥海山は、出羽においては、物部氏の祖神・ニギハヤヒが降臨した山と伝えられる。

と、書かれていた。ということは・・・「ニギハヤヒ」が「蜂子皇子」?じゃ、「小手姫皇后」が「瀬織津姫」?

私、寝ぼけているのかなぁ・・・。

でもね、泰澄はある種、改竄の責任をわざと被って、他に影響が出ないように食い止めたのかもしれないな、と。

だから、それらを理解してる行基一派が「十一面観音」と習合させたり、聖武天皇・光明皇后が国分寺・国分尼寺を全国に建立して、不比等らに消された神を祀るための場所を確保しようとしたのではないかと思うわけで。

725年に行基が白山で泰澄と会ったのは、そういう背景もあってのことなのではないか、と。そしてその後、守りをさらに固めようとしたのが空海かと。

いや、行基一派や空海等も、守りを固めるために「習合」という手段をとったことにより、本当の御祭神名を消したことになるかもしれないが・・・。

「瀬織津姫」だけでなく、いろいろと繋がりのある方々も、習合させて守っていなければ、完全に抹消されていたであろうから・・・。

だから、それほどに偉大な「神」なのではないか、とも思えるわけで。となると、「マリア」が浮かんできたりするわけで。卑弥呼や神功皇后は「マリア」的存在だったのかも、とも。

そうか・・・男女一対の神を祀っているように見受けられたり、「瀬織津姫」は「十一面観音」とされているあたりに司馬氏は気付かれ、それで「立川流」を調べたのかも。昇天、ちゃう、聖天さんでんな。

歓喜天
長い鼻をもつ象頭人身の像で、日本では男女2体の像が向き合って抱擁している形に表わすものが多い。他に単体のものや多臂像(腕が4本または6本)もあるが、造像例は少ない。男女抱擁像のいわれは、もともと乱暴な神であった歓喜天の欲望を鎮めるために、十一面観音が天女の姿に化身して抱擁したというものである。

密教では福徳を祈る歓喜天法(聖天法)の本尊とされているが、一般には夫婦和合、子授けの神として信仰されている。奈良県生駒市の宝山寺(通称生駒聖天)、東京都台東区の本龍院(通称待乳山聖天)、埼玉県熊谷市の歓喜院(通称妻沼聖天)を日本三大聖天と称している。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%93%E5%96%9C%E5%A4%A9)

箕面の「もみじの天ぷら」は、行基も1枚かんでたりするんだな。
(参照:http://www.geocities.jp/easyclub_choro/afu38.htm)

天王山を登らなきゃいけないし、暖かくなるとスズメバチが出たり、冬は雪が積もるのでなかなか行けないんだが、京都・山崎の「宝積寺」近くには「山崎聖天」があり、いずれも真言宗で。
(宝積寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E7%A9%8D%E5%AF%BA)
(山崎聖天:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E8%81%96%E5%A4%A9)

みっしぃはんのどういうご意向かは不明だが、事務所から初詣に行くのが「生駒聖天」で。「商売繁盛」だけか?(爆)

話を戻しますが、仙台の町割にはある法則性があるとされており、稲辺勲氏が『星の街 仙台』として「町割り全体が、仙台城本丸から鬼門に向けた六芒星(ろくぼうせい)を形づくる二つの三角形をなぞられたからの傾きだとしております。」とされている。

さらに、「同書の中で、仙台には「四神」も配されている」とされており、「玄武」の「亀」が、「仙台城の北に位置する「亀岡八幡神社」が担っているとされております。」と。

また、京都の「六角堂」のことも書かれてる。下北半島・佐井村に「もと真言宗六角堂」があったとか。「六角堂」のルーツを聖徳太子と「六角堂」に求めておられるようで・・・。

両者にキリシタンの姿が見えるように思うのは、私だけでしょうか?

そして両者とも、秦氏が見えてくるような・・・京都の亀岡一帯は秦一族が開拓したと思われ、嵐山には亀山があり、秦氏ゆかりで行基創建の「法輪寺」がある。で、太子と秦河勝の関係は、ほとんどの方がご存知でしょう。

なかなか興味深いですね。続きを早く読み終えなきゃ。

「風琳堂」さんとこのリンク集に、「たんたんぺろぺろ祭り」というのがあり、それが「浜下り神事」と呼ばれているもので、検索してみたところ、日立市の「大田楽」に辿りついた。

神事が行なわれるのが「東金砂神社」「西金砂神社」で、以前調べたことがあった。2003/03/05(wed.)分。

2002/11/20(wed.)に、東京競馬場から「遠賀川式土器」が出土したというニュースをきっかけに、「闇の日本史」さんの掲示板で拝見した「金砂大田楽」へと。

「西金砂神社」の御祭神が「大己貴命・少彦名命・国常立命」ということで、「大己貴命・少彦名命」繋がりの展開だったけど、今は「国常立命」が気になった。

偶然にも、昨日が東京競馬場の「グランドオープン」の日。「足かけ8年に及ぶ改築工事」だったわけだが、「武蔵国総社」が呼んでたとか?

ま、それはさておき、「大国魂神社」の御祭神が「大麻止乃豆乃天神社」ではないかとされていたことから検索すると、「武蔵御嶽神社」が出てきた。
(http://www21.big.or.jp/~tetsuki/shuin/touto_jinja/26_musashi_mitake.html)

「天平8年(736)に行基が東国鎮護を祈願して、蔵王権現像を安置」したとされる行基ゆかりの神社。

神社のウラに行基ありってことかなと、「大国魂神社」のことを読み返すと、合祀されたうちの1社に埼玉県児玉の「金佐奈神社」があった。

御神体とされる「金鑚山」の「金佐奈」は、「砂金のことであろう。」とのことで。
(http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/tam/tama/ara/r017/r017t.htm)

字から、「西金砂神社」や「佐久奈度神社」も関連があるのかな、とか思ったりするけど、詳細は不明。だが、行基や「瀬織津姫」に繋がる神社なので、何かありそうで・・・。

「玄松子」さんのサイトの、東京都稲城市の「大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのあまつかみのやしろ)」に、

延喜式大和國十市郡の天香山坐櫛眞命神社(天香山神社・國常立神社)の項に元名大麻等乃知神とあることから、当社も同じ祭神であるとされている。
(http://www.genbu.net/data/musasi/ooomatonotu_title.htm)

とあった。

天香山神社の「櫛真命神」、「国常立神社」の「國常立命」、「西金砂神社」の「国常立神」、「武蔵御嶽神社」の「蔵王権現」、「大国魂神社」の「大麻止乃豆乃天神社」は、流れから考えるに「瀬織津姫」を思わせるわけで。

それにしても、この先「瀬織津姫」「小手姫皇后」「神功皇后」「マリヤ」がどう繋がるか、が気になるところで。ようやく読み終えた「千時千一夜 ──瀬織津姫&円空情報館」に、「白衣観音」も出てきていたが・・・。


検索して納得・・・眠気が吹っ飛びました、はい。

「瀬織津姫」の別名が、「八十禍津日神」「大屋毘古神」だそうで、これらの神は「五十猛命」だそうで。

「五十猛命」と「阿須波神」は同神とされており、鈴鹿越えの官道に「瀬織津姫」の伝説があることから、「阿須波道」と言われるようになったのでは、と。

ん?では、「日前大神」に場所を譲った「伊太祁曽神社」は、「瀬織津姫」を祀っておられる、ということですよね。じゃ、「秋月遺跡」に埋葬されてたのは「瀬織津姫」ということになる?

「円空」は「牛頭天王」を「女神」として刻んだそうだが、すなわちそれが「瀬織津姫」で、スサノオということになる?それとも、スサノオと対になる神として「牛頭天王」があるのか・・・。

そうなると、「伊太祁曽神社」の西にある、神武の兄を祀った「竈山神社」、「秋葉山」、神武東征で「名草戸畔」に対しての陣地を構えたとの伝承のある「矢宮神社」、そして行基が熊野三山に祈った「藤白神社」の関係は・・・。

ん?「阿須波神」が「五十猛神」なら、「廣田神社」の脇殿の「諏訪健御名方大神」と同神?いや、真ん中におられるのが「瀬織津姫」でしたよね。「八幡大神」も「瀬織津姫」とされてて。

で、「高皇産霊大神」が「ニギハヤヒ」ということ・・・でしたよね。うーん・・・。

横道にそれるが、行基のおっかけをしてた天台宗の僧という共通項(?)から、な〜んとなく「円空」と「性空」で検索してみた。「乙丸乙護法」というのがあった。

乙丸乙護法とは、播磨の書写山円教寺の開山、性空上人に乙丸、若丸の二護法が随伴していろいろの奇瑞を現したといわれています。この荒子観音寺の住職円盛上人もその範により、乙・若、二護法を同寺の鎮守神に祀ろうとして、円空にその造顕を依頼したのが本像でしょう。
(http://www.kyotokagaku.co.jp/online/shop53/y58064/y58064.htm)

とのことで、名古屋市中川区荒子町の「荒子観音」を調べてみたら、「天平元年(729年)、泰澄の草創」とあった。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%AD%90%E8%A6%B3%E9%9F%B3)

「天正4年(1576年):前田利家により本堂が再建される。」とのことだが、たしか利家はキリシタンとの繋がりがあったような・・・あ、高槻の右近だな。

秦野市にあるカトリック教会のホームページに、「ヤソ神様」による「雨乞い」のことが書かれてたけど、ひょっとして「瀬織津姫」に繋がるとか・・・?
(http://www.h2.dion.ne.jp/~ptrnet/kakurekirishitan.htm)

「円空」は旅の途中でさまざまなことに気付き、そして傷ついていく心を、像を刻むことで癒していたのかも・・・。

2007.04.24(Tue.)

「十一面観音」、「一対で祀られている神」ということから、「歓喜天」について書いたけど、行基ゆかりのお寺で「歓喜天」を祀ってるところがけっこうあり、それが行基ゆかりのお寺として、ここでも何度か書いてたりするお寺で。

たとえば、お墓があるという岐阜の「行基寺」、先日テレビでも放送されてた岸和田の「久米田寺」、伊丹の「昆陽寺」など、行基が池を掘った近くに建てた、あるいは大きな川の近くのお寺だったりするわけで。

あと、行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりのお寺にも、いくつか聖天さんを祀っておられるところがあって、そのほとんどが真言宗寺院で。

「日本三大聖天」に行基の名前はなかったけど、生駒市の「宝山寺」の近くには行基ゆかりの「興法寺」があり、台東区の「本龍院」や熊谷市の「歓喜院」も、行基とゆかりがありそうで。

というか、妻沼には他に「聖天院」ってあるのかな?

行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院に、大里郡妻沼町妻沼の「聖天院」があるけど、「妻沼聖天」で検索しても行基の名前は出てこなかった。

が、気になる像があった。池のほとりに「軍荼利明王」を祀った小さな「滝」があるそうだが、「熊野神」とされることでもわかるように、「瀬織津姫」は「滝神」とされているわけで。
(http://www.ksky.ne.jp/~shouden/index.html)

50キロほど南にある行基ゆかりのお寺に、こういうことが書かれていた。

高貴山 常楽院(高山不動尊)埼玉県飯能市
霊亀2年(716)行基によって一根五枝の大木で五大尊明王像を刻して奉安したが、後に軍茶利明王像を除く四尊が焼失した。
(http://homepage3.nifty.com/youzantei/mitisirube/sisunmiti/sisunmiti_takayamafudou.html)

「妻沼聖天」のように、「滝」もしくは池や川などの水辺に祀られていて難を逃れたのではないかと思われるわけで。

「五大明王」とは、不動明王、隆三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王。

「高尾山薬王院」では、「飯縄大権現様は不動明王・歓喜天・迦楼羅天・叱枳尼天・弁財天の五相を合体されたお姿である。」とされていて、「五大明王」のようであるが・・・。

「軍荼利明王」は南方に配されている。また、八大明王として祀られる時には「大咲明王」と名が変わる。阿修羅や悪鬼といったあらゆる外敵から人間を守護し、障害を取り除いてくれる。また、歓喜天を支配してもいる。

「宝生如来」の変化した姿であり、4つの顔で4本の腕をもつもの、1つの顔で4本の腕をもつもの、1つの顔で8本の腕をもつものなどのバリエーションがある。いずれも、首や手足に赤い蛇がまとわりついており、それは執念を象徴している。
(http://www.pandaemonium.net/menu/devil/Myouou.html)

「首や手足に赤い蛇がまとわりついており」ということから、茨城県若柴(牛久沼)の「星宮神社」での、首にウナギの巻きついた「天御中主命」のことが思い出される。

「瀬織津姫」は「軍荼利明王」「天御中主命」と習合された、という証しなのか・・・。

で、その「高山不動尊」だが、

「白雉五年(654)、藤原鎌足公より関東視察の命を受けた鎌足公第二子・長覚坊上人(多武峯定恵の弟子)、大和三輪神社別当宝勝坊上人、鎌足公の臣岩田三兄弟の五人が下向した事にはじまる。

とのことで、「永住の地とした」そうだが、「高山に国家安穏東国平定鎮護となる一宇を建立」は建て前で、何か鉱物が出る場所だから占有したのではないかという推測が。

行基が登山して山籠し、霊夢で「三輪明神」の御託宣により、五大尊明王像を彫ったとされているのは、「わしの土地をちゃんと祀れ」と行基がオオタタネコになるよう命じられた(?)ような感じがして・・・。

で、「軍荼利明王」だけが残り、「瀬織津姫」は永住の地を得ることができたのかも。

空海が「一・七(七日間)二十一座八千枚の護摩を修法して真言両部の秘法を伝えた。」のは、「瀬織津姫」の供養のため、荒ぶる御魂を癒すための修法かと。

「高山不動尊」で行基が五大尊明王像を刻して奉安した年に、以下のようなこともあったようで。

高麗山聖天院勝楽寺(埼玉県日高市)
霊亀2年(716)国難を避け日本に渡来した高句麗人1799人の首長高麗王若光、侍念僧勝楽、弟子聖雲を始めとする一族の菩提寺として奈良時代に創建された。

僧勝楽により開基、聖雲と弘仁により落成され、 本尊には王が守護仏として故国より将来した歓喜天(聖天尊)を祀った、故に聖天院勝楽寺と稱する。

本尊:不動明王(胎内仏弘法大師御作)
(http://www.hi-ho.ne.jp/c-ogawa/s-syoudennenn.htm)

「歓喜天」は高句麗の神?

「高麗王若光」といえば、行基に香木を与え、「日向薬師」開山に協力したので、薬師の守護神として「熊野権現」を勧請してともに祀ったという、伊勢原市日向の「白髭神社」がある。

なぜ「熊野権現」を勧請?「瀬織津姫」は「高句麗から来た」ということを言わんとしているのだろうか・・・。

そういえば埼玉県本庄市中央に、「寿永年間(1182〜1184)に当地の領主本庄荘太郎家長が信仰していた「大山阿夫利神社」を領地内に勧請したのが始まり」とする「阿夫利天神社」があった。

「大山阿夫利神社」というと、「ユダヤの祖モセス(ヨセフ)王の墓」とされてましたね、神奈川県秦野市にあるカトリック教会のサイトで。(http://www.h2.dion.ne.jp/~ptrnet/kakurekirishitan.htm)

そして、行基の弟子が行基作の「十一面観音」を安置しているという・・・。

あ、本庄市にも「金鑚神社」があった。旧暦の11月1日に「神迎祭」があるらしく、気になったけど調べきれなくって。

また大里郡妻沼に戻るけど、行基ゆかりとされる「能護寺」の境内に「虚空蔵堂」があるそうで、「閻魔大王」「十王像」「脱衣婆」とかも安置されているとか。このあたりも「瀬織津姫」になりそうで。

埼玉に長居したので、そろそろほかのところも書こうかなと思うわけだけど、「歓喜天」が祀られている行基ゆかりのお寺で気になったところが2つあって。

1つは静岡県周智郡森町「大日山 金剛院」。「八角堂」に「歓喜天」が祀られているそうで。

もう1つは京都・山科区安朱稲荷山の「毘沙門堂」。「寛文5年(1665)天海僧正によって現在地に再興。」だそうだが、何の思惑があったのか、と。

そしてその近くにある「双林院(山科聖天)」では、「聖天さんは、十一面観音と大日如来の化身の姿という。」と。(http://raku.city.kyoto.jp/sight/new/view_sight.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000147)

ということは、「ニギハヤヒ」は「大日如来」で「キリスト」で、「高句麗から来た」と?

あ、もう1つあった。福岡県築上郡吉富町の「金華山 鈴熊寺」の有形文化財。(http://www.town.yoshitomi.lg.jp/p/1/9/2/27/3/2/)

「木造宇賀神像」が「人頭蛇身」で老人の顔・・・「脱衣婆」のイメージっぽいなと思い、「瀬織津姫」なのかも、と。

白蛇を梵語で「ウガヤ」というそうだが、「ウガヤフキアエズ」は白蛇をいただくことができなかったから、子の神武が東征することになったのかも、とも。

で、「天正6(1578)年には、鈴熊寺住持が豊後の大友義統(宗麟の子)の使僧として活躍」とされているが、「大友義統」はキリシタン大名だったような・・・。

検索で半日、文章をまとめるのに半日、あ、まとまってないかも?なのに新しくネタを見つけてしまった・・・。

今日書いたうちに、聖天院勝楽寺(埼玉県日高市)、白髭神社(伊勢原市日向)、日向薬師があったが、地図を見てると、群馬に「伊勢崎」というところがあった。何か関連があるのだろうか、と。

あ、神奈川にもありましたね、♪あなた知ってる〜港ヨコハマ・・・あ、字がちゃう?

2007.04.24(Tue.)

昨日の「伊勢崎」検索すると、「飛鳥時代に行基によって開湯されたという伝説が残っている」という「やぶ塚温泉」が出てきた。

かつて、住所は群馬県新田郡薮塚本町ってことだったけど、桐生市・太田市・伊勢崎市の中間点にあるそうで。
(http://www.jomonet.co.jp/kanko/kanko_bak041116/spa/yabuzuka.htm)

で、今は新田郡薮塚本町じゃなく太田市だそうで、更新しなきゃ、と。
(http://www.city.isesaki.lg.jp/syoukai/profile/index.htm)

いやはや、ウィキペディアにツッコミ入れられたわ。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B4%8E)

「伊勢崎銘仙」、これかな、次の課題は。(http://www.kougei.or.jp/isesaki/at0103-a01.html)

ま、その前に本からトリップした飛鳥時代のことを少々・・・だけど、もうちょっと調べなきゃ。

2007.04.25(Wed.)

西大寺の東塔の基壇の発掘調査で、「八角の遺構」が確認されたらしいわ。
(参照:http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/saidaiji-temple04.htm)
(西大寺東西両塔配置図:http://nihonotoba2.cool.ne.jp/2007to/saidaiji61.jpg)

という話しをてて、「ヘキサゴンって何やったっけ?」と聞かれ、調べてみたら「六角形」だった。「じゃ、ペンタゴンは?」と聞かれ、調べたら「五角形」だった。

八角形で検索してみた。

八角形は8つの方向に広がる形、つまり宇宙を表す形。
風水では陰と陽の中間である八角形は鬼門に対して柔軟に対処できるので八方位に気を配り、エネルギーを引き寄せ、守りを置いて身を守ることができるといわれています。
世界からの幸運をキャッチできる八角形を目にするたびにバランス感覚がよくなり、望む幸運が得られるとも。
日本でも昔から八は末広がりで縁起がよいと言われてきた形。
キリスト教の教義では、8は霊魂の再生、復活を表す数字とされており、エルサレムの聖母教会など教会には八角形の建物が多く見られます。
(http://www.toso.co.jp/la_finestra/topics/06/page6.html)

とのことだった。やはりそうか・・・。

続日本書記によると、称徳天皇は瑠璃瓦葺の八角七重塔の造営を考えていたが、祟りによってダメになってしまい、結局 四角五重塔となったといいます
(参照:http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/saidaiji-temple04.htm)

とのことで。称徳天皇は聖武天皇の娘。「とんでもとらべる」さんのサイトで写真を拝見したところ、「四王堂」のご本尊は「十一面観音」で、お堂の横には「宝篋印塔」が・・・。


四条畷市に「権現滝」という、行基と龍にまつわる伝説がある。
(http://www.city.shijonawate.lg.jp/h130101/fixed/03/16/031606.htm)

龍頭寺(龍光寺・大東市)、龍腹寺(龍間寺・大東市)、龍尾寺(四条暇市)が、その伝説に関係のあるお寺だそうだが、同じような話が奈良にもあった。
(http://blog.kansai.com/kasutera7966/452)

そして紀州には、神武東征の際に誅されたという「名草戸畔」が、同じように3ヶ所に祀られているとされ、そのうち「胴」を祀ったとされる「杉尾神社」のでは、「名草戸畔」ではなく「龍」の腹部とされていて。

思うに、「龍」とされる力を持った神が、そのご神体を3つの名前に分けて祀られたということを言わんとしているのではないかと思えるわけで。

その例(?)として、紀州では「名草戸畔」という名前の神だったのではないか、と。そしてそれが「瀬織津姫」なのかも。

「権現」「滝」がキーワードにあり、また、古い樹木に「龍王」という神名がついていたりするのは、「瀬織津姫」と同様に本来の名前を隠された「瀬織津姫」の夫神ではないかと・・・。


大阪・豊中市の「椋橋総社」には「里人伝説」があり、行基「は村人に鯉をとったり、食べることを禁じた。」とされており、同神社の伝記に、「遠き神代の昔、素盞嗚尊が高天原から鯉に乗り神崎の水門を経て当地に来られた」とのことで、神社では鯉を養殖されており、死んだ鯉のための「鯉塚」がある。

「天武天皇」は

天武5年(675年)4月17日のいわゆる肉食禁止令で、4月1日から9月30日までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・イヌ・ニホンザル・ニワトリ)の肉食を禁止する。

庚寅詔諸國曰 自今以後 制諸漁猟者 莫造檻? 及施機槍等類 亦四月朔以後 九月三十日以前 莫置比滿沙伎理梁 且莫食牛 馬 犬 猿 鶏之肉 以外不在禁例 若有犯者罪之 - 『日本書紀』
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87)

と、されたそうで。

岡山・倉敷の「鯉喰神社」には「吉備津彦の温羅退治の伝説」があり、鯉になって逃げた「温羅」を、鵜になった「吉備津彦」が捕らえたとされている。

そういえば、何故「温羅の髑髏」を「竃殿」の下に埋めたのだろうか?

で、キリスト教では、戒律の中に「肉を食べてはいけない日」が制定されており、そのために食用の鯉の養殖が盛んになった、とされていて。
(http://www.ucatv.ne.jp/~ymiwa/carp_history_christ.htm)

「松尾大社」では「鯉」と「亀」が「松尾大神様のお使い」とされているわけで・・・。

「鯉」が重要な役割を持っているという点では、鯉になって逃げた「温羅」以外、共通するところはあるようだが、「椋橋総社」以外では、「ありがたく頂く」という解釈ができるかもしれないな、と。

そういえば「松尾大社」の「亀」を、「玄武」の1つとして見ると、もう1つの「蛇」の相方として捉えられるのかな、と。「玄武」は「北」で、「天御中主神」を連想するのだが・・・。

「亀」っていうと「浦島太郎」の伝説もある。「椎根津彦」も乗ってた?

で、「天武天皇」が「肉食禁止令」を出された頃、「龍田大社・廣瀬神社にて、風水を治め奉る事により、国家安泰を祈願された。」とのことで。
(http://www.hirosetaisya.com/saijin.htm)

これは今読んでいる本で初めて知ったのですが、「広瀬大社」の主神「若宇加能売命」は、上記URLにあるように、「豊宇気比売大神」であり「宇加之御魂神」で。

「龍田大社」の御祭神は「天御柱命」「国御柱命」で、「級長津彦命」「級長戸部」と異名同神とされており、「風神」で。そして

例祭四月四日。前日に本社から○・五キロにある滝津瀬川で梁を張り魚を取る。それを岩瀬の森の川神に神饌を供え奉告の後、荷桶に入れて本社に担ぎ帰り四日奉献の後、もとの河に放魚する。これを滝祭りという。
(http://www.genbu.net/data/yamato/tatuta2_title.htm)

とのことで。

「天武天皇」のこの2つの事柄には繋がりがありそうで、その背後には「瀬織津姫」が見えるような・・・。

「龍田神社」には「聖徳太子にまつわる伝説」があるそうで、龍田明神の化身からの進言により、斑鳩にも龍田神社を祀って法隆寺の鎮守とした、とのことで。
(http://www.kcn.ne.jp/netpress/kurashi/index.html)

つまり、太子も「龍田明神」との繋がりがある、ということのようですね。

聖徳太子といえば、先日「小手姫皇后」「蜂子皇子」を東北に行かせたという、天王寺区の「河堀神社」の御由緒について書きましたが、ウィキペディアによると、

蜂子皇子(波知乃子王)
欽明天皇23年(562年) - 舒明天皇13年(641年)
[経歴]
562年(欽明23年)- 誕生。
585年(用明元年)- 聖徳太子の勧めにより宮中を脱出。
592年11月3日 - 父崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺される。

593年(推古元年)- 由良の八乙女の海岸にたどり着き、羽黒山を開山。3年間崖下の岩窟で修行。羽黒修験の元になったと言われる。引き続き、月山も開山。
605年(推古13年)- 湯殿山に湯殿山神社を建てる。
641年(舒明13年)- 羽黒で死去(享年80)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E5%AD%90%E7%9A%87%E5%AD%90)

となっており、7年の空白は何を意味するのかな、と。

「史実を基にした伝説」で、「羽黒山→月館→川俣→飯館と伝播した。」とされているが・・・。
(http://www.musubu.jp/kyoudokawamatayamakage.htm)

で、同サイトで「小手郷」が「川俣町・飯野町・月舘町などを含めた地域」とあり、川俣町のホームページを拝見することにしたが、町を流れる「広瀬川」を「小手川」とされているあたり、ちょっと気になるが・・・。

木幡山蔵王経塚(川俣町大綱木字陣具形山)川俣町と東和町境の木幡山山頂に蔵王経塚がある。
(中略)
経塚の北端には磐座とするにふさわしい3つに裂けた巨岩があり、奈良金剛山頂の蔵王権現湧出岩にみたてられているようで、この立石遺跡から土師器と宋銭が出土し、これは経塚造営に先行する祭祀遺跡と解される。
(http://www.town.kawamata.fukushima.jp/gaiyou/kanko-yama/4-densetu.html)

とのことで、奈良金剛山頂の「蔵王権現湧出岩」について調べてみると、

金峰山秘密伝行生記によれば、
”役行者が大峰の本尊を向かえる為に、現在の湧出岩で祈られたところ、初めに、大聖釈迦牟尼佛が現前され、次に千手観音が出現され、さらには弥勒慈尊が現れた。再び祈念を凝らすと天地震動し憤怒の相貌恐ろしく、右手に五股杵を振り上げ、左手に刀印を結んで腰に安じ、右足を上げて立つ金剛不壊の蔵王権現が岩上に湧出せられた。”とある。
役行者は憤怒形の仏こそ己の修行に相応しいと本尊として向かえられたのです。
釈迦、観音、弥勒は過去、現在、未来の三世の仏であり、その三仏を本地、権現として蔵王が現れられた。他の説に弁天、地蔵、蔵王と出現されたという説も有ります。
(http://www.shogoin.or.jp/shokuwa.html)

とあり、四条畷市の「権現滝」の伝説、奈良の「龍腹寺の由来」、紀州の「名草戸畔」のことと似てるような・・・。あ、奈良の太子ゆかりとされる「橘寺」の「三光石」も。

ひょっとしたら、「春日神」がややこしく(?)なってしまっているあたりを、示しているのかもしれないが、それがのちに上記のことと繋がってくる可能性がなきにしもあらず、というような気もして・・・。
(http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/tatuiti-shrine02.htm)

「鎌足公より関東視察の命を受けた」5人の、「高山不動尊」への下向と似ているようなのが、気になるわけで。

だから今、頭の中でうようよしているのが、聖武天皇、天武天皇、聖徳太子、小手姫皇后、蜂子皇子、瀬織津姫、そして行基、泰澄、役小角、空海、不比等&元明天皇、坂上田村麻呂、楠木正成などに加え、様々な神や仏。

福島の「小手郷」の蚕養産業のルーツと、群馬の「伊勢崎市」近辺における織物産業のルーツが、この先繋がりをもって何かを示してくれるといいんだが・・・。

2007.04.26(Thu.)

「群馬県繊維工業試験場」さんのサイトに、「ぐんま繊維スポット 伊勢崎市」というページがあった。
(http://www.ttrl.pref.gunma.jp/spot/isesakishi.htm)

伊勢崎市東上之宮町甲380「倭文(しどり)神社」
上野十二社の一つ。倭文とは「しずおり」で平絹を意味するとされる。この地域に早くから住みついた織物の職業 人倭文部(しどりべ)の民が信仰した神である。古くから伊勢崎で織物が織られていた事を示している。

「倭文神社」は奈良にもあった・・・「龍の伝説」がある龍頭山「西福院」は、奈良市西九条町の総社「倭文神社」の境内にあるそうで。

御祭神を調べようと検索したら、伊勢崎市・奈良市以外にもあったので、引用させていただくことに。(ここで書いても、だけど、引用させていただいているサイトの方々には、心より感謝しております。)

倭文(しとり)神社
伊勢崎市東上之宮町甲380
御祭神:天羽槌雄命
配祀:倉稻魂命,菅原道眞,豐受姫命,木花咲耶姫命,大己貴命
配祀:大山祇命,譽田別命,素盞嗚命,菊理姫命
利根川の対岸に下の宮という地があり、そこには式内・火雷神社が鎮座している。
(http://www.genbu.net/data/kouzuke/sitori_title.htm)

倭文神社
奈良市西九条町
御祭神:武羽槌雄命、経津主命、誉田別命
境内社:若宮社(大鷦鷯命)、蛇塚神社「八阪神社」(須佐之男命)
称徳天皇の神護景雲2年(768)中臣時風・秀行の勧請と伝わる古社
祭神の武羽槌雄命は、天羽槌雄命と同名で織部の神
倭文しずり氏はその後裔。
辰市郷に住んで神衣を織ったと伝えられています。
(http://blog.kansai.com/kasutera7966/445)

倭文神社
静岡県富士宮市星山
御祭神:健羽雷神
合祀:大屋毘古神 大山祇神 熊王山神 高皇産靈神 伊邪那岐神
星山の地は、神代、香々背男が支配し、中央に叛いたため、当社祭神・健羽雷神によって討たれ、後、健羽雷神によって、織物・製紙などの産業が発展した地。
(http://www.genbu.net/data/suruga/sitori_title.htm)

倭文神社
静岡県伊豆市大野
御祭神:不明
伊豆箱根鉄道・修善寺駅から北東へ5Kmほどの大野に鎮座。
(http://www.genbu.net/data/izu/sitori_title.htm)

鍬戸(くわと)神社
静岡県三島市長伏字石原
御祭神:倭文神(祭神不詳)
詳細は不明。南北朝時代の『伊豆国神階帳』記載の「従四位上くわとの明神」が当社であるらしい。よって、鍬手明神とも称していた。
(http://www.genbu.net/data/izu/kuwato_title.htm)

倭文神社
山梨県韮崎市穂坂町宮久保字降宮
御祭神:天羽槌雄命,天棚機姫命
創祀年代は不詳。通称、降宮という。社伝によると、古社地・柳平から降って来た意味らしいが、境内の案内には、「降宮=織宮」。祭神が機織りの祖神であることが理由のように書かれていた
(http://www.genbu.net/data/kai/sizuri_title.htm)

諏訪大神社
山梨県甲斐市宇津谷
御祭神:建御名方命
御神体の一尺五寸の石神に「倭文神社」、その裏に、「大同二年」とあるそうで、日本武尊による創建と伝えられている。
別名、十五所明神。正式名称は、穂坂惣社拾五社大明神宇津之谷諏訪大神社。穂坂地域の惣社で、武田信玄によって諏訪神が祀られたという
(http://www.genbu.net/data/kai/suwadai_title.htm)

倭文神社
鳥取県倉吉市志津
御祭神:経津主神,武葉槌神,下照姫命
合祀:伊弉諾命,伊弉冉命,譽田別命
『当社縁起』には、往時この一帯が織物が盛んな地で、機織の祖先武羽槌神を祀ったとある。
(http://www.genbu.net/data/houki/sitori_title.htm)

大甕倭文神社
茨城県日立市大みか町
御祭神:武葉槌命
『大甕倭文縁起』には概ね次のように伝えられております。天祖天照大御神が天孫瓊瓊岐尊を豊葦原中津国に降臨させるに当たり、鹿島・香取の二神は葦原中津国の国津神・荒ぶる神々を鎮撫あるいは掃蕩する任を負わされておりました。
武神として誉の高い二神は国津神等の国攘り、荒ぶる神々の掃蕩、更には国中の草木石類に至るまで平定いたしましたが、まだ常陸国に悪神がおり、名を天津甕星、またの名を天香々背男といい、大甕山上に陣取り東国地方の陸地はおろか海上にまで一大勢力をもっておりました。
さすがの鹿島・香取の神もこの勇猛なる大勢力の前に為す術がありませんでした。
その時にこの武神である二神に代って甕星香々背男討伐の大任を負わされたのが、当社の御祭神武葉槌命でありました。
命は武神としてもさることながら、智恵の加味としてことに優れており、(我国において織物を始めとする組織的な産業を最初に起こされた神であります)命の智恵を駆使した巧みな戦略の前に甕星香々背男の一大勢力も敢え無い最後を遂げることになり、その様は今に様々な伝説となり伝えられております。
(http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto/omika.htm)

静(しず)神社
茨城県那珂市瓜連静
御祭神:建葉槌命(武神) 名倭文神(織物の祖神)
相殿神:手力雄命高皇産霊命 高皇産霊命 思兼命
創建は不明であるが国史上、850年以前(文徳実録 「文徳帝嘉祥3年(850年)9月使を遣わして静神社に奉幣せしむ」とある)と推定され、日本書紀(720年)、古語拾遺(807年)にも主祭神 武葉槌命の記載がある。
いにしえより機織の神様として信仰があります。結城紬や関東の織物業者の崇拝も厚く、織物業者の組合から織姫像も寄贈されました。白く山に垂れかけられた白きぬを白蛇にたとえ白蛇伝説となりました。
(http://www.e-naka.jp/shizu/index.htm)

倭文神社
岩手県遠野市土渕町土渕
御祭神:天照皇大神,下照姫命,瀬織津姫命
明治までは文殊様と呼ばれており、現在も拝殿の額には、「文殊社」とある。文殊菩薩は、普賢菩薩と共に、釈迦如来の脇侍。
(http://www.genbu.net/data/mutu/sitori_title.htm)


天津甕星(あまつみかぼし)は、日本神話に登場する星の神である。別名、天香香背男(あめのかがせお)、香香背男(かがせお)。

茨城県日立市の大甕神社は、天津甕星を服従させた建葉槌命を祭神としている。
社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。
大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男の荒魂を封じ込めた石であると伝えられている。
一説には、建葉槌命によって封じられた後も天津甕星が祟りをなしたため、それを鎮めるために建葉槌命を祭神とする大甕神社が創建されたという。

葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方と同一神とされることもあり、また、北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E7%94%95%E6%98%9F)


神奈備さんのホームページ:「天香香背男命」を祀る神社

http://www.kamnavi.jp/jm/kakaseo.htm

常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている「天香香背男」を、「経津主神」「武甕槌命」は誅することができなかったが、「建葉槌命」が服従させた。

しかし、「封じられた後も天津甕星が祟りをなしたため、それを鎮めるために建葉槌命を祭神とする大甕神社が創建された」ということのようで・・・。

文中にもあるように、「建御名方神」に似てると思うし、「吉備津彦神社」の「竃殿」の下に埋められた「温羅」にも似ているようにも思われるわけで。

で・・・推測として浮かんだのが、祟りをなした「香香背男」を封じようとしたのが中臣氏で、「香香背男」を誅することができなかった「経津主神」「武甕槌命」を倒し(まるめこんだ?)、中臣時風・秀行が「経津主神」「武甕槌命」「建葉槌命」を奈良市西九条町の地に連れてったのではないか、と。

で・・・「香香背男」ってひょっとして「風神」なんじゃないか、と。「龍田大社」の御祭神「天御柱命」「国御柱命」で、「ニギハヤヒ」「瀬織津姫」かなぁ、と。

で、「ニギハヤヒ」が「高木神」と繋がるのであれば、「建御名方神」と「天香香背男」も繋がるかも、と。

ただ・・・「とんでもとらべる」さんとこを拝見してて、気にかかってることが。

称徳天皇ゆかりの「西大寺」の鎮守社「八幡神社」、御祭神の右殿が「気長足媛命」(神功皇后)、中殿が「誉田別命」(応神天皇)、左殿が「玉依姫命」(神武天皇の母)となってて、境内社「住吉神社」の御祭神が「天照皇大神」「健御名方命」「表筒男命」「中筒男命」「底筒男命」「息長帯比売命」ってのは・・・?
(http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/saidaiji-temple10.htm)

あと、奈良市石木町の「登弥神社」、御祭神は「饒速日命」で「木嶋明神」と。

「木嶋明神」といえば、京都・太秦の「蚕ノ社」は「木嶋坐天照御魂神社」で、御祭神は「火明命」つまり「ニギハヤヒ」で。秦氏がなぜ物部氏の祖を?

秦氏の祀る「大酒神社」の御祭神「天御中主命」「大避大神」が、「エホバ」「ダビデ」の変名ではないかと司馬氏も書かれてたけど、「ニギハヤヒ」は「キリスト」に?

で、偶然かどうかわからないけど、「蜂子皇子」の経歴にある「593年(推古元年)- 由良の八乙女の海岸にたどり着き、羽黒山を開山。」で、「由良の八乙女の海岸」ってどこかな、と。

丹後国の由良(京都府)から船で日本海を北上した。
そしてこの地の海岸の岩の上で八人の美しい乙女が笛に合わせて舞っているのを見つけて皇子は喜んでこの地に上陸したという。
この八人の乙女が踊ったところを八乙女浦と呼び、由良から出航した皇子が上陸したことからこの地も由良と名づけられた。
蜂子皇子はこの後、三本足の烏に導かれて羽黒山に入り出羽三山の開祖となる。八乙女浦の洞窟は羽黒山の神の井戸と繋がっているともされる。
(http://www3.omn.ne.jp/~nishiki/yura.htm)

はて・・・。それにしても、ここんとこ行基と入力するのが減ってる。ちょいさみすぃ。

2007.04.27(Fri.)

昨夜、「女帝」について考えてて・・・「天皇」になった人と、そうでない人に分かれるのではないか、と。しかも、そうでない方々の方が、イメージとしてシャーマン的な感じがするのでは、と。

太子の母・穴穂部間人皇女、天智の妹・間人皇女、天智・天武の両方に嫁した額田王、そして午前2時まで検索を続けることとなった飯豊王女。

ウィキペディアに、「岩手県の北上市内の地名。早池峰バスのバス停の一つにもなっている。 」とあり、また岩手県の北上市に伝わるという「飯豊鬼剣舞」に五大明王と思われる面があって、「瀬織津姫」に繋がるのかも、と。

しかも、宮城県加美郡加美町の「飯豊神社」は、聖武天皇の時代に「大野東人」が社殿を造営し、御祭神「足魂産霊大神」は「保食神」、またの名を「豊受姫神」と。
(http://www5e.biglobe.ne.jp/~ALLURE/iitoyo.html)

また、御祭神が「飯豊比売神」とされる福島県白河市の「飯豊比売神社」は

鹿島宮とも呼ばれる神社。鎮座地は豊地という。

近くに飯土用という地があり、社号標にも「飯土用姫命」と記されている。飯土用とは、井伊出(イイデ)と同語らしく、会津では高山のことをイイデと呼ぶとか、湯出から転じたものなどいろいろと説がある。

また、飯豊山は、豊岡姫命(豊受大神の別名)の忌庭というらしい。
(http://www.genbu.net/data/mutu/iitoyo_title.htm)

とあり、「飯豊山」には小角、行基、空海も登っているとか。(http://www.inet-shibata.or.jp/~iide/renpou/renpou.html)

「井伊出」の伊をとると、諸兄の菩提寺「井出寺」に通じるようにも思い、「鹿島宮とも呼ばれる神社」と「高山(いいで)」から、「高山不動尊」との関連もありそうな。

そして、行基たちが登っているというあたり、何かありそうだな、と。

また、福井県大飯郡高浜町の「青海神社」には、「飯豊女王」が禊をしたという池があり、「若狭高浜むかしばなし」によると、その池に蛇の尻尾が青葉山から飛んできて、それを祀ったそうで。
(http://www.norichan.jp/jinja/renai/aoumi.htm)

まるで行基の雨乞いの伝説や、奈良の「龍腹寺の由来」等のようで・・・。

で、「奈良県葛城市の「角刺神社」は飯豊女王の「角刺宮」跡と伝えられ境内に飯豊王女が鏡として使ったという池がある。」とのことで調べてみると、葛城市新庄町とのことで、おや?と。行基ゆかりのお寺が4社ある。

地図を見たら、近くに「飯豊天皇陵」があり、「天皇陵」?とか思いつつ検索したら、「三角形」に改造されていた、と。
(http://club-urawa.main.jp/sub/yoshikata4/1211.html)

そして偶然にも、「神奈備」さんの掲示板に「浦嶋子と豊受大神」が書かれていて、「飯盛の神とは稲作だけではなく水と火(竈)の神でもあったのでしょう。」と・・・。

「亀」や住吉三神のことも書かれてるし、生駒山系の「飯盛山」といえば、行基や楠木正成が絡んでくる・・・。

午前2時に考えるには無理があったので、ここで一旦PCを終了させたわけだが、福井県大飯郡高浜町の「青海神社」の御祭神、亀に乗って釣りをしていたという「椎根津彦命」も気になってたりするわけで。

さて、どこから調べたらいいのかなぁ・・・。ちーと座ってるのがしんどかったりするし・・・。

2007.04.28(Sat.)

昨日はほとんど調べられなかったんだけど、「豊受大神」が丹後にいたと書かれていたことから、「穴穂部間人皇女」とどうもダブって見えて。というか、朝廷とは別に「丹後王国」は、やはりあったような気がして。

系図を平面的に書かれていて、あたかも1つの系統のように見えるけど、立体的に2つの系統に分けられるのではないかな、と。そのポイントとなるのが「穴穂部間人皇女」だったり、「飯豊王女」だったり・・・。

で、国譲りさせて闇に葬った人々を、祟りをなさないようにと祀りあげようとした・・・が、祟られた、のかも。

で、「祟る神」を篤く祀らなければならないが、それをハッキリ書くとマズいことがあるから、御祭神をいくつも仕立て上げて祀っていたような感じがするが、それでは本末転倒のような気もして。

鎮まることを願うのなら、違う神名ではなく統一して、しっかり祀ってほしいんじゃないかなって思い、こうして後の世、ジグソーのパーツを手繰り寄せてでないとわからないようじゃ、見せかけだけの祀り方でしかないような・・・。

「私は本妻なのに、何で違う名前で、まるで愛人のような形で、バラバラに祀られなきゃなんないのよっ!」ってな感じで、かえって怒らせて「荒魂」にさせるような気がするんだが。あ、こういう例えの書き方はマズイかな?

でも、実際に祟られたか、もしくは祟りと称して何かあったのかも。

行基が示そうとしていたことは、そのあたりのこともあるのかな、と思えたりして。体調が良くなったら、行基ゆかりのお寺とか、いろいろお参りしたいなぁ・・・。

ま、行基が、というよりも、行基の名前を代表(?)とした、同じ思いを持って活動をされてた方々が、行基の名前を通して呼びかけているのかも、とも思うが。

それにしても、さすが奈良と言いましょうか、新庄町から御所市だけで、すんごい数のお寺や神社、古墳が。

行基ゆかりのところと、興味のある場所だけで表ができたよ。伊丹・尼崎以来の多さだわ。(爆)

●平岡山 極楽寺[新庄町平岡]
●橋本院(高天寺)[御所市高天字三の谷]
●布施山 浄願寺[新庄町寺口]
●来迎院[御所市竹田]
●医王山 置恩寺[新庄町寺口]
●九品寺[御所市楢原字田口]
●観音寺[新庄町北花内]
●医王山 船宿寺[御所市五百家]
○葛木坐火雷神社(笛吹神社)[新庄町笛吹]
○吉祥草寺[御所市]
○葛木御県神社[新庄町葛木]
○鴨都波神社[御所市宮前町]
○角刺神社[新庄町忍海]
○高天彦神社[御所市高天]
○諸鍬神社[新庄町弁之庄]
○葛木御歳神社[御所市東持田]
○飯豊天皇陵[新庄町]
○葛木坐一言主神社[御所市森脇字角田]
(●が行基ゆかりのお寺、○が興味のある場所)

2007.04.29(Sun.)

本を読んでて東三河の「文武天皇の伝説」が気になった。

「石巻山」がでてきたが、山の近くには行基が762年に開いたという真言宗寺院「赤岩寺」がある。ちなみに行基入滅は749年とされているので、行基について不安を覚えることとなったお寺の1つなわけで。

近くには天竜川があり、ちょくちょく書いてた「西浦田楽」を行基が伝えたとされる「水窪」も、そう遠くはないかも、と。

で、「石巻山」「文武天皇」で検索してみたところ、「東三河のピラミッドと東ヤマト」がヒットした。
(http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/page005.html)

文武天皇の伝説については、上記URLの「古代神都・東三河」さんのサイト(http://homepage2.nifty.com/kodaishinto/index.html)の掲示板に詳細が書かれていて、上記のページを拝見した時に、これで謎がほぼ繋がったかなぁ、と。

で、本のことに戻るが、天白神=オシラ様=瀬織津姫とのことで、天白神の伝播が伊勢〜尾張・三河〜美濃〜白山へ、そして白山信仰が出羽三山信仰を経由し、遠野のオシラ神信仰と混淆したのではないかとされていて。

「天白神」は「瀬織津姫」だけでなく、「香香背男」や「ウカノミタマ」であったりするようだが・・・。

ひょっとしたら遠野から、福島・茨城にも伝播したのではないかと思えたりするが、ルートでは「瀬織津姫」と「小手姫皇后」に重なる部分があるものの、年代が合わなくなるかな、と。

それに、「飯豊女王」や「豊受大神」はどうなるんだろうっていう部分もあって・・・。

ただ、「遠野物語」の69話に、オシラ様を桑の枝で作ったものが3つあり、それが別々に祀られているとされているあたり、四条畷市の「権現滝」の伝説、奈良の「龍腹寺の由来」、紀州の「名草戸畔」、「橘寺」の「三光石」、「蔵王権現湧出岩」等に通じるものがあるように思われるわけで。

あ、「神功皇后」もありますね。

(三韓征伐の際)お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石をあててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は三つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市及び京都市の月読神社と福岡県二丈町の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E)

で、個人的な思いなんだけど、「瀬織津姫」が「荒魂」とされるあたり、実はカモフラージュに用いられているのではないかとも思えて・・・実際に怒りを露にしていたのは、女神にかえられてしまった「ニギハヤヒ」の方ではないかな、と。

それで行基や泰澄は「十一面観音」を刻んで祀り、空海は「歓喜天」を祀って、その荒ぶる御魂を慰めようとしたのではないか、と。

「記紀」ができるまでに非業の死や謎の死、あるいは暗殺説がある人物として浮かぶのは、仲哀天皇、崇峻天皇(母・蘇我小姉君)、蘇我蝦夷・入鹿、山背大兄王(上宮王家一族)、大友皇子、高市皇子、大津皇子あたりかな?

あ、「聖徳太子」も。梅原氏の本にありましたね、光背がじかに打ち付けられているのは、怨霊封じではないかと。

山背大兄王の父・聖徳太子側の祖母・穴穂部間人皇女、祖父・用明天皇ともに母が蘇我氏で、妻は蝦夷の子、蘇我入鹿が乙巳の変で暗殺され、蝦夷は自害し、蘇我氏本家滅亡となったが・・・。

「皇極天皇」は「高向王」と結婚して「漢皇子」を産んだ後、舒明天皇の皇后となったそうだが、「記紀」での創作だとされる説があるとか。

しかし、「漢皇子」が「天武天皇」で、父「高向王」が蘇我氏ではないかとされる説もあり、そうなると蘇我氏本家の末裔ということになり、また、丹後王国との繋がりを持った人物だったのではないかという、とんでもニャ〜な推測が。

蘇我氏がえらい悪者に書かれてたりするけど、そのあたりどうかなぁという気がしなくもないわけで。

「持統天皇」にとって、父方の「天智天皇」の血筋は残ったけど、夫「天武天皇」との血筋は、「称徳天皇」で途絶えてしまうことになったあたり、「持統天皇」自身に流れる蘇我氏の血が、やはりそれを危惧していたのでは。

子・草壁の子孫が後の世に続くことを願い、祟りのないようにと祀ろうとしたのではないか、と。

不比等の子「武智麻呂」(南家)、「房前」(北家)らの母は「蘇我娼子」だが、不比等はその血筋を利用することは考えても、祀ることには積極的ではなかったのでは。それが持統天皇が亡くなる年の「三河幸行」にあったのでは、と。

だけど、それがどういう風に「大物主神」や「瀬織津姫」に繋がるのかは、私自身まだ混乱してて、頭の中で渦巻いていたりするんだが・・・。

2007.04.30(Mon.)

本を読み終え、「古代神都・東三河」さんのサイトを拝見し、いずれもたしかにそうかもしれないという部分が多いように思われるが、私にはそうであると言い切れるほどの智識がない・・・。

でも、「古代神都・東三河」さんのサイトで、行基とキリスト教が繋がるであろう共通性があるよう思われ、また「風琳堂」さんのサイトでも行基が出てきてるので、「東大寺」関連以外でも、いずれ行基やその背後の氏族の名前が出てくるんじゃないか、と。

って思ったら、ちょっと力が抜けたかなぁ。

あとは文章力があって、しっかりとした裏づけをもって、どなたかが書いてくださるだろう、と。私には文章力もなく、ネットでのみなさまのお力をお借りしてここまで来れたのだが、ぼちぼち限界かなぁ、と。

文献からの智識が足りないということと、やはり現地でお話を聞くことが必要なのではと思うわけで・・・。

ということで、このコーナーは一旦終了させていただこうかと思いまして。

参考とさせていただいたサイトのみなさま、そして駄文をここまで読んでくださったみなさまに、大変感謝しております。

ありがとうございましたm(_ _)m


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