とんでもニャ〜Mの推測 1−2
※役にたたない推測ばかりの駄文です。(爆)

[其の31] 2001/07/01(sun.)

先日大阪のローカル番組で、カシミヤのマフラーを起毛するのに、岸和田特産の植物が使われるということで、地元の工場が取材されていました。あざみの一種で、「なべな科おになべな」もしくは「チーゼル」「ティーズル」と呼ばれる植物を乾燥させ、回転するドラムの表面に設置し、マフラーの生地を機械で流して起毛させているようです。「チーゼル」はマンゴーくらいの大きさのようですが、「ひっつき虫」と言ってた小指の先くらいの大きさのものを、小学生の頃に川の近くで遊んでいる時、友達の服に投げつけあったりしました。チーゼルの小さい版と言いましょうか、同じように表面がかぎ状の突起になっていて、服にひっつくとなかなか取れないんですよ。みんなそれを全身にくっつけたまま家に帰り、よく怒られたものです。最近では、土手は整備されているところが増えたので、見かけることも少なくなりましたね。紡績の機械を見て育ったようなものですが、そういえば地場産業の発祥については調べたことがないなと、これを機会に少し調べてみることにしました。

まず、「チーゼル」を使って起毛するということが、生活の知恵から起こったように思われ、ひょっとしたらこれも「機織り」のルーツと思われる秦氏に関連があるのかなという疑問が湧き、いつ岸和田の特産品となるくらい栽培が盛んになったのかを調べてみたのですが、ネット及び手持ちの資料では、残念ながら探せませんでした。

次に、地場産業である「毛布」の起源について調べてみたところ、「真田幸村公が考案した真田織の技術が泉州に伝えられ、地元の木綿織の技術とドッキングしたものが、毛布技術の始まりといわれています。」とありました。そこで真田幸村の系図を探してみましたが、これもまたわかりませんでした。

「地元の木綿織の技術」と思われる「泉州綿スフ織物」について、「和泉市産業・観光振興会のホームページ」で調べてみたところ、「起源は平安時代に弘法大師空海が遣唐使として唐より持ち帰った綿の種をこの地で蒔いたといわれ、その後室町時代に至ってそれを手紡して白木綿が製織されたと言われています。」とありました。そういえば、真田幸村について調べている時に、高野山に配流されていた頃について書かれていたホームページがあったので、真田紐はその頃考案もしくは伝承され、泉州にもたらされたのかなと、ふと思いました。

結局詳しくはわからないままですが、キーワードはどうやら「空海」にあるように思われます。「空海」の入唐のウラには、山岳修験者の影があり、秦氏との何らかの繋がりもあるかと思われます。

織物に関する余談ですが、「ワッフル・ピケ」は蜂巣織りの桝目の小さい綿織物の一種で、「蜂巣織り」とは布面に細かい方形の凹凸をつくった織物組織で、おもに敷布・手拭・婦人服地などに用いられ、「枡織」とも言われています。「蜂巣」と言えば「蓮」に関連があることは[其の21]で少し書きましたが、「蓮の糸」は蓮の根の中にある糸で、極楽往生の縁を結ぶとされているそうです。話がそれてしまいますが、興味深いなと思ったのが「八木(はちぼく)」についてで、@松・柏・桑・棗(ナツメ)・橘・柘植(ツゲ)・楡(ニレ)・竹の称。A(「米」の字を分ければ「八木」となるからいう) 米の異称。(CD辞書:広辞苑第四版より)とありました。そうすると、「夜疑」=「八木(やぎ)」=「八木(はちぼく)」となって、「8種類の樹木」や「米」と繋がるということになるとしたら・・・ と、またしてもとんでもニャ〜推測にハマりそうです。


[其の32] 2001/07/05(thu.)

「霊魂をめぐる日本の深層」という本の、「序言 祖霊信仰と稲作、狩猟」を梅原氏が担当されているのですが、その中で、中国の揚子江沿岸に米文明があったとされています。4200年前、その文明都市は「黄帝」によって滅ぼされたとされていますが、「(しゆう)」と称したとされるその都市は、「虫」から蛇や蚕をイメージするため、「その蛇を崇拝し、そして蚕をつくっている人々を滅ぼしたということになっています。」とありました。

[其の26・27] で書きましたが、大阪の「池上曽根遺跡」と奈良の「唐古・鍵遺跡」の炭化米のDNAが、中国大陸の品種ではないかとされていました。DNA鑑定されたかどうかはわからないのですが、同じ弥生時代の遺跡である「青谷上寺地遺跡」からは、炭化米と一緒に「絹」も出土していますね・・・「蛇を崇拝」「蚕をつくっている人々」、梅原氏の書かれている「(しゆう)」と称したとされる都市の人々が、身のまわりのものをすべて持って日本に渡って来たという可能性もあり、「蚕をつくっている人々」から秦氏のルーツと関係のある人々の可能性が考えられ、「蛇を崇拝」というと[其の20]での大神神社等のことが思いおこされ、弥生時代の遺跡にはそれらを繋ぐ何かが、まだまだ眠っていそうな気がします。

そういえば、[其の30]で書いた717年の「僧尼令違反」による禁圧は、藤原不比等によるものかと思われますが、それが許されたのが不比等歿後の731年であるということは、4人の息子達が天然痘で亡くなる6年前だから、彼らには容認されていたということになるんでしょうか?不比等歿後から、急速に聖武天皇との関係が深まったと思われるので、そのバックアップによって、彼らは黙認せざるを得なかったのかもしれませんが、行基の足跡を辿ると謎が深まるばかりです。行基が養老3年(719)に、正観世音の仏像と仮面を作って奉納したことが始まりとされている「西浦田楽」が何故か気になっているのですが、いつものとんでもニャ〜推測で言いますと、ひょっとしたらこの頃の行基は、役小角の足跡を辿っていたのかな、と。そういう風に書かれた文献は、今のところないみたいですが。


[其の33] 2001/07/06(fri.)

「天平の都・紫香楽」というホームページを拝見していたところ、「聖武天皇と行基の間を取り持った人物 橘諸兄」と書かれていて、ほ〜!と。行基と特別な間柄であったことを暗示する史料があるそうで、しかも行基が天平12年に建てた「泉橋院」が、「泉橘院」とも呼ばれてきたそうで・・・初めて知ったのですが、これで秦氏・土師氏に加えての関係というだけでなく、橘諸兄という人物から、母親の県犬養宿禰三千代とも繋がるし、同じ年代の氏族のみならず、過去にも未来にも繋がっていくように思えます。

で、「宮町遺跡」についても書かれていて、遺跡から「ベニバナなどの花粉が検出され、ナツメ、ブドウなどの種子も出土された。」ともありました。そして、「ナツメは仙人の食物とされていたもの」という説明もあり、さらに道教的なイメージを感じました。仏教、道教、そしてここに儒教が加われば、「三教一致」の思想となって聖徳太子に繋がるんですね。梅原氏の「聖徳太子」の本で、「憲法十七条」について詳しく分析されていたのですが、そこに「三教一致」の思想があることを示唆されていました。

昨日も書きましたが、717年に「僧尼令違反」による禁圧があり、731年にそれが許され、天平17年(745)1月21日に聖武天皇は行基を日本で最初の「大僧正」に任命されたわけですが、その方面で調べていると、こういうことが書かれてました

この奈良の大仏の建築成功には、行基菩薩の指揮とともに、欠くべからざるあと2つの要素がありました。ひとつは天平21年東北で大量の金が産出され、これが献上されたことです。大仏は大量の金を使用しますが、その素材がすみやかに調達できたことは、たいへんな幸運でした。もうひとつは八幡神を頂く九州の宇佐一族の協力です。彼らは溶かした金を非常に薄く均一に型に流し込むという、現代でもかなり困難な、高度な技術を持っていました。

それにより、八幡神が国家守護の神として認定され、八幡大菩薩として仏教の仏としてもあがめられることになったそうですが、タイミング良く「東北で金が産出」されたウラには、な〜んかありそうな気がするんですよね。それと「宇佐一族の協力」、これは聖武天皇の繋がりによるものなのか、それとも他に何かあるのかと、やはりとんでもニャ〜推測にハマらずにはいられないですね。


[其の34] 2001/07/07(sat.)

よく拝見している「闇の日本史」の、「new平将門怨念ツアー 平将門を探して 〜平将門写真資料集〜」が更新されていて、「静岡 十九首」を拝見してビックリ![其の19]で調べていた「掛川」が出てきたじゃあ〜りませんか。直接「行基」と繋がるわけじゃないのですが、平将門と安倍晴明とが繋がるということで、ひょっとしたらどこかで、行基と平将門が繋がる可能性があるかもしれない・・・いや〜、そうなったらスゴイですよね。


[其の35] 2001/07/21(sat.)

今朝の新聞に、「土塔」のことが載っていて、室町時代に行基の信徒集団が、行基の遺物を求めて掘削し、そのあと丁寧に埋め戻したとされる跡が見つかったそうです。「中世に発掘が行われたのは、行基にちなんだ事例以外には聞いたことがなく、遺構の検出も初めてだろう。」とのことで、行基信仰の熱心さがうかがえるのですが、最近とんでもニャ〜推測のワナ(?)にはまってしまっている私には、それは信仰によるものだけでなく、行基の意向を知るために行われたのではないかと思われ、ふと脳裏に弘法大師等がよぎるのであった。


[其の36] 2001/07/22(sun.)

昨日購入した「ムー」という雑誌に、「隠された十字架の謎」という特集がありました。タイトルからわかるように、キリストについて書かれている部分があり、「河合神社」が出てきたりします。

井上薫著「行基」によりますと、行基の父方の里である高石には、大工村があったとされており、現在その地には「河合」の姓を名乗る家が多くあって、明治維新頃まで「宮大工」と呼ばれて、京都皇居の造営修理を担当していたそうです。また、「西文(かわちのふみ)」(書首(ふみのおびと))氏の一族を称するものに、来栖首・武生宿禰・桜野首・古志連(河内国諸蕃)・古志連(和泉国諸蕃)の五氏があり、行基の父方の高志氏は古志氏と同じとされています。(【諸蕃】「新撰姓氏録」に見られる分類で、古代、渡来人の子孫と称した氏。秦氏・漢氏・百済氏の類。蕃別は俗称。[CD辞書:広辞苑 第4版より])

大工、「河合」の姓、一族の中の来栖首など、「隠された十字架の謎」に関連しそうな事柄がいくつか見られ、すなわちそれらが秦氏や聖徳太子等との繋がりや役行者との繋がりを感じさせ、昨日の記事にあった「行基の遺物を求めての掘削」についても、何かしらオーバーラップするものを感じ、後世での安倍晴明にも通じる何かを感じずにはいられないのですが・・・私の中では、天孫降臨以前の民族と、その後の人々の繋がりについて、いまいち把握しきれておらず、[其の33]での「奈良の大仏の建築成功」にある、「東北での金の産出」や「宇佐一族の協力」について、推測すればするほどに深みにハマっております。この特集を読み、行基に対する謎を解く鍵も、多くの真実を封印してきた「藤原不比等」にやはりあるように思いました。

また横道にそれるかもしれませんが、道鏡や和気清麻呂についても、もう少し調べてみたいですね。和気清麻呂は、「KOBE七福神めぐり」でお参りした「大龍寺」の御縁起に「大蛇」とともに出てきましたし、「天王寺七宮」の「河掘稲生神社」の御由緒にも出てきますので、前から気にはなっていて、特に「河堀」跡であるJR天王寺駅に行くと、ふと四天王寺の方を振り返ってしまうんですよね。そうすると、真田幸村等のこととかも気になりだして、また迷宮へと入り込んでしまうのですが。


[其の37] 2001/07/25(wed.)

先日「にっき」の方に、函館競馬場での「八雲特別」のことを書きましたが、大阪にも「八雲」という地名があったのを忘れてました。「大阪府立弥生文化博物館」でいただいたパンフレットに、「12.八雲遺跡(守口市)」とありました。父親に返し忘れてる「地名辞典」で調べてみたところ、明治16年頃からの地名のようです。また、大阪北区にも「八雲町」があったようですが、こちらは昭和2〜43年の地名で、「旧市岡新田の開拓経営を市岡家からひきついだ旧地主和田家の所有した茶器の名に由来する。」とのことです。はてさて、名の由来となった「茶器」とは???
で、競馬の話に戻りますが、「夏競馬」で開催地が小倉になり、「九州産馬」というのを耳にしてから、ちょこっと調べものをしていました。

「九州産馬」というのは九州生まれの馬のことで、生産牧場はだいたい鹿児島50%、宮崎30%、熊本20%だそうです。
鹿児島では、大崎・串良・鹿屋方面に、生産・育成牧場の他にもジャパントレーニングセンター等があり、大崎町野方の(社)日本軽種馬協会九州種馬場には、「競争馬のふるさと案内所」があります。串木野市では毎年4月に「串木野浜競馬」が行われ、加治木町にはキングヘイロー(2000/03/26に行われたG1レース「高松宮記念」の覇者)の協和牧場の鹿児島分場があるそうです。
宮崎では、市内にあった競馬場が、現在「中央競馬会宮崎育成牧場」となっており、都城・綾町・延岡・川南には生産・育成牧場があり、串間市の都井岬では国の天然記念物である野生の在来馬「御崎馬」が見られるそうです。
熊本では、熊本市及び周辺に生産牧場があり、阿蘇では放牧された馬がいるそうで、荒尾市の藤本牧場にはスティールキャスト(大逃げした馬で有名らしい)がおり、市役所の近くには地方競馬の荒尾競馬場があります。

「中央競馬会育成牧場」は北海道の日高にもあり、浦河町内には約300の生産・育成牧場があるそうです。天馬街道と呼ばれる国道236号沿いには、日本でも最大級の馬の総合テーマパークである「うらかわ優駿ビレッジAERU」や、乗馬療育インストラクター養成学校、乗馬公園、馬事資料館等、馬に関する建物が続いているそうです。

さて、これらを何故ここに書いたのかですが、交通・運搬手段として馬は古くから使われており、歴史的に大きな役割を果たしていたのではないかと思われます。「馬」は、[其の34]でふれました「平将門」と切っても切れないものだと思われますし、聖徳太子にまつわる話の中にも登場します。そこで、馬がどのようにして歴史に関わってきたのかを、現在の生産・育成牧場のある地から見てみることにしました。・・・と言ったものの、実は少々カベにぶつかっているんですけどね A~_~;)

「北海道日高支庁のホームページ」を拝見したところ、「日高国への馬の導入」は、「寛文9年(1669)のシャクシャイン(*1)の戦いをきっかけに、松前の守備のため改良された南部馬(*2)が道内(蝦夷地)に大量移入。」とされており、「日高地方での牧場のはじまり」については、「寛政11年(1799)に幕府が南部から馬60頭・牛4頭を購入し、その後各会所に設置し、会所間の人や荷物の逓送用・駄載用に利用されていた。」とのことで、当時馬は幕府の所有となっており、場所請負人が飼養・管理して、民間に必要時に借用する「伝馬制」という制度をしいていたそうです。

(*1)【沙牟奢允(シャクシャイン)】江戸前期、日高地方のシブチャリ(今、静内町)‐アイヌの首長。寛文九年(1669)松前藩の交易独占強化に反対するアイヌを率いて北海道各地で商船を襲わせ、さらに松前を攻めようとして謀殺された。(〜1669)
(*2)【南部馬】青森・岩手・秋田地方から産する日本馬。体躯大で強健。

[CD辞書:広辞苑 第4版より]

九州の方ですが、「いいね鹿児島ふるさと情報」に、大崎の「横瀬古墳」について、「この古墳の造営方式が畿内地方のものと同じであることから、当時すでに相当な権力者がおり、中央政権との交渉があったことを意味しています。」と書かれていたので、それに付随して馬の交流もあったのではないかと思われます。また「宮崎育成牧場」は、「神武天皇」を主祭神とする「宮崎神宮」のすぐ近くで、大和橿原で即位した神武天皇を宮崎神宮に祀ったのは、神武天皇の孫で「阿蘇神社」の祭神となった「健磐龍命」とされているそうです。

あと、鹿児島県大崎町野方以外の「競争馬のふるさと案内所」として、北海道の静内町神森・白老郡白老町社台(日本軽種馬協会胆振種馬場内)・中川郡幕別町猿別(十勝軽種馬農業協同組合種馬所内)、青森県八戸市、千葉県印旛郡富里町(千葉県両総馬匹農業協同組合内)、栃木県那須郡西那須野井口(日本軽種馬協会那須種馬場内)があります。種馬場の約半数は昭和30年代後半に作られたようですが、牧場見学の案内所がそこにあるということは、古くから多くの牧場がその近辺にあったことを、示唆しているようにも思われます。今回書いた地名の7〜8割が「太平洋側」にある、そしてほとんどが「火山」に比較的近い場所であるという共通点は、何かを示しているのではないかと思われます。

「南部」についても調べてみたところ、「@陸中・陸奥の豪族。甲斐源氏の南部三郎光行(甲州南部郷を名字の地とする)が頼朝の奥州征伐に従い、八戸に住して氏としたと伝える。A南部氏の旧領地の通称。青森・岩手・秋田三県にまたがる。特に、盛岡をいう。」と書かれていました。八戸での馬の歴史については、鎌倉時代までは遡ることができ、また、蹄鉄等の資源や技術についても、南部氏の城下町で鋳物・鉄器を産していた「盛岡」によるものかと思われます。また「荒尾」について、「かつては三池炭田の炭鉱都市として栄えた。」とあり、「串木野」では「金鉱がある。」とのことで、やはり馬のいた地域には、馬具に必要な資源があったのではないかと思われます。
先週、橿原の「植山古墳」から馬具の飾金具等が発掘されましたが、馬のいるところには馬具があり、それに伴う資源・技術があった、もしくは集積されて、文化が栄えていったのでしょう。過去の人々が遺してくれたものを各方面から検証し、正しい歴史を学びたいですね。


[其の38] 2001/09/04(tue.)

今朝の新聞に、「幻の和泉宮跡か」という見出しで、和泉市の上町遺跡の発掘調査について書かれてました。見出しの理由として、「『続日本紀』では、奈良時代になって大阪府南部に離宮『和泉宮』が造営され、元正、聖武の二代の天皇が行幸したとの記述がある。」とのことから、「和泉宮の関連遺構と考えられる」とされているようです。「続日本紀」の「元正、聖武の二代の天皇が行幸した」という記述、そして和泉市という場所から、背後に行基の姿がひしひしと感じられます。

上町遺跡のすぐ隣が、行基の父方の本拠地とされている高石市で、行基の生家である家原寺−高石市−和泉市の上町遺跡−行基による開基の久米田寺−水間寺−長慶寺・・・というコースは、和泉山脈に並行した丘陵地で、行基が修行したとされる施福寺のある一帯との間には断層が2つあり、その近辺には須恵器が作られていた「陶邑」の遺構もあります。行基の足跡の共通点として、丘陵地や断層に近いところ等、鉱物資源があったと思われる場所が多く、宮町遺跡と紫香楽宮との関連性から、上町遺跡が和泉宮かもしれないなと思えたりもします。

で、おもしろいなと思ったのが位置関係で、上町遺跡の近くには熊野街道があり、遺跡の西約1キロのところに「葛葉稲荷神社」、南に約1キロのところに「聖神社」、すぐ北には高石市があるのですが、その間に「舞町」があって、かつて陰陽師が「岸和田暦」を作って売っていたとされる場所です。また、南西に約2キロのところには、先日DNA鑑定で、中国大陸から持ち込まれたのではないかとされる炭化米が出土した「池上曽根遺跡」があり、いただいたパンフレットによりますと、「池上曽根遺跡の御柱は冬至の正中線上に並び、冬至の日には南の柱から北の柱に向かって影が伸びます。また、夏至には池上曽根の神奈備山である三国山に上った朝日によって、刳り抜き井戸に北の柱の影が落ちます。」とされています。

関裕二氏の「闇の修験者」によりますと、日本古来から信仰されてきたものは、修験者らによって引き継がれ、広められていったのではないかとされており、和泉市に残る山岳修験者の行基の足跡、都市としての機能を有していたと思われる「池上曽根遺跡」での信仰、陰陽師が暦を作っていたとされる場所や、安倍晴明の伝承を持つ神社・・・関氏の著書に、陰陽師は修験者の要素を持ちあわせているとされており、これらのことから、この一帯における「文化」があったのではないかと思われるのですが、そんな中にある上町遺跡、とても興味深いですね。


[其の39] 2001/09/06(thu.)

上町遺跡の位置関係の続編ですが、北約1キロには、古事記の巨木伝説(枯野)による樹齢信仰と太陽信仰の聖地とされていた「等乃伎神社」(御祭神:天児屋根命・大齢大神・壷大神(太陽神)・菅原道真公・誉田別尊、摂社:宇賀之御魂神、末社:天御中主神)があり、北東約1キロには「日部神社」(御祭神:彦坐命)があり、北西約1キロのあたりは「加茂」という地名で、南東約1キロには「大野池」があります。また、池上曽根遺跡のすぐ隣(南西約2キロ)には「曽根神社」(御祭神:伊香我色雄命・菅原道真公)があります。

なんだか、あらゆる渡来系氏族の名前が見うけられるようですね。また、祀られている神々や、距離などは異なりますが、四天王寺とその鎮守・守護のための神社の配置に、なんとなく似ているものを感じます。一説には、四天王寺は元伊勢ではないかとされているようですが、そうすると上町遺跡もそれに近い何かがあったと考えることができるかもしれませんね。近所には、黄金塚古墳や信太寺跡等があり、JR和泉府中駅の近くには和泉国府跡もありますので、今後の発掘調査による新たな発見を、期待しております。


[其の40] 2001/10/23(tue.)

腰痛・筋肉痛・軽い頭痛でここ数日バテてましたが、頭の中でこんがらがっていた出雲族や出雲王朝について解明(?)した勢いで、関裕二著の「鬼の王権・聖徳太子の謎」「聖徳太子は蘇我入鹿だった」を一気に読んでおりました。[其の5]で、「それにしても道昭はなぜ「飛鳥寺」におられたのでしょうね。聖徳太子の鎮魂のため?それとも蘇我氏の鎮魂のため?」と書きましたが、関説によるとひょっとしたらとんでもニャ〜推測でもなさそうな気もしますが、もしそうであったとしても、それは表向きの理由のように思えてきました。

「遣唐使」として道昭は唐に渡り、玄奘から法相を学びましたが、その際に鎌足の長男・定恵が同船しています。「聖徳太子は蘇我入鹿だった」で、定恵は「高向玄理を暗殺する密命を帯びて唐に渡った・・・」とされていますが、果たして11歳の子にそれが可能かどうかが疑問に思われ、逆に、道昭らによって、秘密裏に「本当の事」を教えられたのではないかという気がします。「日本霊異記」に、道昭が唐に渡った時に五百の虎の招きで新羅に行き、山中で法華経を講じていると、虎の群れの中に日本の言葉を話す人がいて、名を尋ねると「役の優婆塞」であった、と第二十八話にあり、これが本当にあったこと(五百の虎の招きとは、五百の新羅系伽耶の人と思われる)だとしたら、道昭や役行者の目的に定恵の教育(洗脳?)もあったのではないかと思われ、同じく唐に渡った人物で亡くなった人もいる中、道昭は役行者に守られていたのではないかな、と。そして、そういうこと(教育・洗脳のための布教活動?)を一般社会で行わせないために、藤原不比等は道昭に、僧としての地位を与えて飛鳥寺に幽閉したのではないかな、と。そして、帰国後わずか3ヶ月で定恵はこの世を去った・・・

で、何故同じようなタイトルの本を2冊読んだかと言いますと、聖徳太子=蘇我入鹿説を検討するにあたって、関説を詳しく知りたかったためで、行基に繋がるであろう秦氏の存在を、その2冊によって何かわからないだろうかと思って読みましたが、残念ながら「秦氏」の文字が出てきたのは1度だけで、聖徳太子=蘇我入鹿説による秦氏の存在を、またしてもあれこれと推測しておりました。で、1つ思い浮かんだのは、[其の21] に書きました「堀越神社」の御由緒の、配神である「蜂子皇子」を北陸より海路出羽へと向かわせたのが聖徳太子と秦氏ではないかと思われ、もしそうであるとしたら、秦氏が聖徳太子の子孫を、絶対に公に出さないようにして養育した可能性も、ひょっとしたらあるのではないかな、と。「白壁王」は、天智天皇の孫で施基皇子の子とされているようですが、「施基皇子」は天武天皇の皇子である「磯城皇子」ではないかとされる説もあり、そのあたりに秦氏の影を感じたりしています。

関説を全面的に信じているとは言いきれませんが、聖徳太子にある蘇我色というのは、疑問を1つ解消して下さったように思います。「鬼の王権・聖徳太子の謎」で、「なぜ創建法隆寺は分解され、大切な位置をずらされたのであろうか」という文章で、今まで何度も焼けている四天王寺が、ずっと同じ場所に建てられているということを思い出し、前から気になっていた四天王寺とその守護・鎮守として聖徳太子が祀ったとされる「天王寺七宮」の位置関係を、改めて考えてみました。火災で焼失しても、同じ場所に建て直すということは、宗教的意味を持つとされる「聖点」を四天王寺は守りつづけた、そして「聖域」を築くために、「聖なる角度」に守護・鎮守として「天王寺七宮」を祀ったのかな、と。そして、これは単なる偶然かと思われますが、聖徳太子の創建とされる四天王寺・全興寺・中山寺は、北からほぼ30度西に傾いたライン上にあり、四天王寺・畝傍山・極楽寺(有馬)を結ぶラインは、北からほぼ45度西に傾いています。

余談ですが、「日本書紀」に乙巳の変の前年には、「豊浦大臣(入鹿?)の大津(和泉国)の家の蔵にフクロウが子を生んだ」と書かれているそうですが、「大津(和泉国)の家」というのが気になりますね。「池上曽根遺跡」は、和泉市池上町と泉大津市曽根町にまたがっているので「池上曽根遺跡」と呼ばれています。[其の39]に書きましたように、遺跡のすぐ隣には天武天皇四年創建の、「伊香我色雄命」を御祭神とする「曽根神社」があり、著書で蘇我氏と同族とされている「物部氏の後裔」がいたと思われます。関氏の他の著書で、天武天皇は入鹿の子ではないかとされており、また、聖武天皇は天武天皇の足跡を辿ったのではないかと思われる行動があるようで、それらを含めて考えると、和泉市の「上町遺跡」は、「和泉宮」である可能性も、「豊浦大臣の大津(和泉国)の家」である可能性もあるのではないかと思われます。


[其の41] 2001/11/03(sat.)

今朝の新聞の1面に、「ハイテク 長江文明 裏付け」という見出しが、でかでかと載ってました。とんでもニャ〜の[其の32]で書いた、「4200年前、その文明都市は「黄帝」によって滅ぼされた」とされる、「蚩尤(しゆう)」と称したとされる都市かもしれませんね。もしそうだとしたら、「池上曽根遺跡」や「唐古・鍵遺跡」への、「ライスロード」の出発点だったかもしれないし、それが秦氏に関係する氏族によるものだったのかもしれないんですね。いや〜、今日も空想の世界に浸りながら、良い夢が見られそうです、ちょろぷ〜に起こされない限りは。


[其の42] 2001/11/05(mon.)

父親から借りた、千田稔著「聖徳太子と斑鳩」という本に、偶然にも「蚩尤(しゆう)」が出てきました。「聖徳太子」と秦氏との関係や、「斑鳩」の「藤ノ木古墳」から出土した金銅装の「鞍金具」と秦氏との関係から、埋葬されていたのは「紀氏」の可能性が高いとされており、そのポイントとなるのが、「鞍金具」にある「蚩尤(しゆう)」のようです。

千田氏の著書によりますと、「史記」に、秦の始皇帝は泰山で「封禅の儀」を行ったあと、山東半島に道中・名山・大川と八神(天主・地主・兵主・陰主・陽主・月主・日主・四時主)を祀ったとされているそうで、その中の「兵主」に、「黄帝と戦ったという中国古伝説上の人物、蚩尤を祀ったという・・・」とあり、また「八神は紀元前3世紀以前から祀られていたらしい。」とされていました。

また、「蚩尤」について、貝塚茂樹氏の著書によりますと、「風を支配してきた蚩尤はまた、ふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり・・・」とされていて、その「兵主の神:蚩尤」と、「記紀」にある新羅の王子「天之日矛」の伝説が、よく似ているとする説があるそうです。また、「穴師」という地名と「兵主」とは、関係が深いのではないかともされていました。

「兵主」と秦氏の関係については、以前「闇の日本史」の掲示板で、あかねさんという方から教えていただいてましたが、御祭神が天照皇大神・八幡大神・菅原道真公である岸和田市の「兵主神社」と、天忍穂耳尊と栲幡千千姫が御祭神である泉大津市の「泉穴師神社」が、頭の中でうまく繋がらずに壁にぶちあたってました。そして、「日本霊異記」に「穴師」の地名の由来が書かれていることから、あれこれと推測だけを巡らせていました。

父親から借りた「地名辞典」によりますと、「穴師」は「痛脚」「直師」「安那志」「阿那師」とも書いたとされていますが、古代氏族として名前が出てくるのは、二田造・曽禰連・穴師神主・我孫公で、「穴師」と「兵主」との関連や、秦氏や上記氏族と秦氏との繋がり等については、書かれていませんでした。しかし、二田造・曽禰連は物部氏の流れをくんでおり、そこから秦氏との関連も考えられ、御祭神の「栲幡千千姫」も秦氏を思わせます。そして、「泉穴師神社」の御祭神には異説があるそうで、「「五畿内志」「泉州志」は級長津彦命・級長津姫命とし、天富貴神・古佐麻槌大神とするものもある。」とされていました。また、「泉穴師神社」の近くから、弥生時代後期の壷棺墓が出土されたり、池上・曽根遺跡の近くにあった要池遺跡からは、近畿ではめずらしい「有鈎銅釧」が出土した(東大阪市の巨摩遺跡からも出土)そうで、「鍛冶」に関する何かがあった気配を感じます。

岸和田市の「兵主神社」ですが、「雨降の神」として崇敬されていたそうで、御由緒に「昔より奈良、大坂より能役者を雇い、氏子とも相加わり、正月一七日、八月一日、一年に二度づつ祭礼をよろこび能仕候」とあり、その能舞に用いられたと思われる「天降の面」九面が現存し、その写真が載っています。「必らず氏子総出にて 一種独特の踊を奏したるなり、此の踊は笹踊又は花笠踊という、種々仮装をなし、花笠を冠り、笹を持ち太鼓に合せて踊るなり、踊の種類二十六、それぞれの歌詞、道歌がある。」とも書かれており、明治初期まで伝えられていたとのことです。奈良・大坂から雇ったとされる「能役者」については書かれていませんが、「能舞」ということから秦氏が見え隠れし、「久米田寺」の西約2キロほどの場所にあることから、行基と秦氏の関連も見え隠れしているように思われます。

「聖徳太子と斑鳩」によりますと、「藤ノ木古墳」からベニバナも出土したそうで、「宮町遺跡」のように道教的なイメージがするあたりから秦氏の関連性を想像し、そして行基と秦氏の関連性等、推測の幅を広げたりしておりますが、いずれにしても推測の域を出ないのがちと残念です。
「天之日矛」と「赤留比売」、「命」と「下照比売命」、「金山彦神」と「金山姫神」、「武内宿禰」と「神功皇后」、「級長津彦命」と「級長津姫命」、「天富貴神」と「古佐麻槌大神」等々、まだ詳しく調べてませんが、共通する何かがあるように思え、さらに推測を深めていく今日このごろです。


[其の43] 2001/11/09(fri.)

今日の朝刊に、「大型船団描いた板出土 大陸と直接交流か」という見出しで、鳥取県の青谷上寺地遺跡のことが書かれていました。今まで「神話」の世界のものとされていた「出雲王朝」が、発掘調査によって次々とその実態を、顕わしてきているようですね。そして、サメを描いた土器片も見つかったそうで、「因幡の白うさぎ」も「よく見た風景」としての昔話と言える気がします。あ、今年もその白兎海岸でサメが見つかって、遊泳禁止になってしまったのですから、ある意味「風物詩」的に捉えることもできそうに思われます。これからの更なる発見が楽しみです。

昨日・一昨日のニュースによりますと、奈良県御所市の北窪遺跡から、銀製のかんざし等が発掘されたそうですね。うちの新聞にはなかったので、ネットで調べてみたところ、「渡来系の技術者集団・朝妻氏と密接な関係がありそう」と書かれていました。また、天武天皇が680年に「朝嬬(あさづま)」を訪れたという記事が「日本書紀」にあるそうで、「天皇を受け入れられる施設」である規模の大きさを示すような、整然と並んだ掘っ立て柱跡の列も見つかったそうです。さて、それでは「渡来系の技術者集団・朝妻氏」とは?

ネットで調べたところ、うまく探せなかったのですが、「半月城通信」さんのホームページで、森浩一・門脇禎二編『渡来人』から、「伊吹山西麓の鉄の生産には息長氏と海語連朝妻氏があたり、 東麓の鉄の生産には海部尾張氏と伊福部氏があたっていたと考えられる。」と書かれており、古墳の造営から寺院の建立への変遷と鍛冶、出土したかんざし等の関連が見えるように思われます。

また、「家紋World」さんのホームページで、平城天皇−阿保親王−(在原)行平---(あいだの6代省略)---(近江坂田郡司)行康−(朝妻兵衛尉)行綱、という系図が見られ、時代を隔てて朝妻氏を名乗った行綱と、行綱以前の「朝妻氏」の関連に興味が涌きました。ルーツとなる「在原行平」は、腹違いの弟(とされている)業平と共に「在原朝臣」の姓を受けた人物で、「ゆきひら鍋」のルーツ(?)でもあるんですね。父・阿保親王は、「薬子の変」で太宰府に流され、行平はその時にできた子ではないかともされているようです。その阿保親王の父である平城天皇は桓武天皇の子、その桓武天皇の曾祖父にあたる「白壁王」は、天智天皇の孫「施基皇子」ではなく天武天皇の子「磯城皇子」ではないかという説があり、そして阿保親王と天武天皇の子・高市皇子とを重ねて見るふしもあるとか・・・「朝妻氏」と「天武天皇」との関係が、行綱の時代まで受け継がれているのかどうかは定かではありませんが、なんだか気になります。ちなみに、明日の午後2時から現地説明会があるそうです。

追加余談:天智天皇の孫「施基皇子」と天武天皇の子「磯城皇子」も調べてみたのですが、「施基皇子」は「藤井家」の先祖、「磯城皇子」は五代孫「坂井王」が「清原真人」を賜姓(日本三代実録) 、「三園真人」と「笠原真人」の祖(新撰姓氏録) ぐらいしかわかりませんでした。さらに、「坂井王」「清原真人」「三園真人」「笠原真人」も調べてみましたが、さっぱりわかりましぇ〜ん。(-_-;)

そうそう、一昨年「飛鳥池遺跡」で「富本銭」が出土しましたが、群馬県藤岡市の「上栗須遺跡」や、長野県高森町の「武陵地1号古墳」・飯田市の「高岡新井原古墳群」で出土したものも、同じ「富本銭」だそうですね。「上栗須遺跡」のは16年前に出土したものだそうで、しかも、どの遺跡も「天武天皇」が絡んでいるようで・・・さらに発掘調査が進むと、背後でサポートしたであろう氏族や修験者も、いつか見えてくるような気がします。


[其の44] 2001/11/12(mon.)

ゴロゴロしながら、「縄文人国家=出雲王朝の謎」という関氏の本を読んでいたのですが、この本によりますと日本人は単一民族ではなく、大まかには古モンゴロイド(縄文人)と新モンゴロイド(弥生人)に分けられるそうです。かつて[其の13]あたりから、何回か「遺伝」について書きましたが、それで言いますと、私や父親は古モンゴロイドの系統がわりと残っている新モンゴロイドとの混血のようで、妹・母親・Yあたりは新モンゴロイドの系統に近い混血のようです。で、Y's父の一族は、東北から畿内へと移動してきた古モンゴロイド系のようですが、Y's父の母親が新モンゴロイド系なので、やはり混血ではあるようです。


[其の45] 2001/11/17(sat.)

「朕意ふ所有るに縁りて、今月の末暫く関東に往かむ。その時に非ずといへども、事巳むこと能はず。将軍それを知るとも、驚き怪しむべからず。」と、「関東行幸の勅」を発し、聖武天皇は天平十二年(740)の藤原広嗣の乱の折、旅立ったそうです。非常時の行幸なので、「ノイローゼ説」まであるようですが、関氏の「鬼の帝 聖武天皇」によりますと、天武天皇が「壬申の乱」の時の東国行きの行程とほぼ同じであるとし、その背後に、東国の人々<蝦夷>の勢力との結びつきを感じさせ、そしてそれが「藤原氏封じ込め」の策として捉えておられるようです。で、その行程を考え導いたのは、吉備真備や橘諸兄等ではないかとされており、特に吉備真備によるものかと思われておられるようですが、ここでふとあることが頭の中をよぎり、推測がふつふつと涌いております。そのポイントとなったのが、「闇の日本史」の竹内氏の、「平将門」と「安倍晴明」との関係における説と、「ホキ抄」での吉備真備の話・・・

「ホキ抄」に、安倍晴明出生の地とされる「茨城県真壁郡明野町」の猫島に住む安倍仲麻呂の子孫を探して、陰陽道の秘伝書「金烏玉兎集」を、真備が譲り渡したとされているそうです。それが、晴明の出生に直接関係があるかどうかはわかりませんが、晴明が隠密のうちに生ませた将門の子であるとするならば、その前例があったのではないかと想像し、それが真備と何かしらの関係があるのではないかと推測しております。すなわち、聖武天皇も天武天皇も、東国行幸の際、極秘で子孫を残していたのではないか、と。

「怨霊」とされている人物に、「親王」と称される人がいたりしますが、神話の時代から、台頭する要人の暗殺やその子孫の断絶があったりしますよね。また、継体天皇や光仁天皇のような形で天皇の位につく場合もある・・・それらを考えた場合、安全と思える地での子孫の繁栄を、願わずにはいられないのではないのかなと思えたりします。特に、出雲系とされる氏族にとっては、その気持ちが強いのではないかと思われます。聖武天皇には、天智天皇の血も藤原の血も入ってますが、「天武天皇のひ孫」でもあり、関氏の説の天武天皇の父=蘇我入鹿(聖徳太子)ならば、聖武天皇の血をどうしても守りぬきたいと、私が出雲系の人間ならそう思うのですが・・・

今回もまた推測でしかありませんし、もしそういうことがあったとしても、「秘密」を隠し通さなければ命が狙われかねないので、証拠となるものは残されていないでしょう。あ、聖徳太子の道後温泉行きにも、「ノイローゼ説」があるようですが、ひょっとしてその行幸のウラにも、同じ仮説が立てられるのかも・・・と、さらに推測は続くのであった。

あ、今回「行基」のことは書いてませんが、天平十三年の聖武天皇の「泉橋院行幸」に同行していたものと思われ、ここで橘諸兄等との、大仏造営も含めた話し合いがもたれたのではないかと思われます。そういえば先日の新聞に、「紫香楽宮」の朝堂院の構成が南北120mを越すもので、従来の推定を上回る規模だったことが書かれていました。火事や地震がなければ、都としてかなり栄えたでしょうね。

余談:関氏の著書に、絶版・重版未定 の「聖徳太子はだれに殺されたのか」というのがあり、そこで犯人は秦河勝とされているようなのですが・・・先日観た「聖徳太子」での、秦河勝と小野妹子との関係を考えると、それはありえないのではないかなと思うのですが・・・ま、読んでないので何とも言えませんが。それにしても、小野妹子役を演じた今田さん、めっちゃ緊張してはったんとちゃう?


[其の46] 2001/11/19(mon.)

[其の43]で「北窪遺跡」について書きましたが、その中の「朝妻氏」ってどこかで見たような気がして、ぱらぱらっと本を見てみたところ、井上薫氏著「行基」にありました。

『正倉院文書』に、勝宝二年(750)正月に朝妻望麻呂は工人三人とともに銅鉄工として造東大寺寺司に出仕しているそうで、ここにも「朝妻氏は金作・銅工・鉄工の技術をもっていたことがわかる。」とされていました。さらに『続紀』養老四年(720)十二月二十一条から、「東宮坊少初位上朝妻金作大蔵・同族河麻呂の二人、ならびに男女の雑戸の籍を除き、大蔵に池上の君の姓、河麻呂に河合の君の姓を賜う」と引用されており、その「河合君河麻呂」は、行基の父方の本貫とされる高石市に多い「河合」の氏名と一致する、とありました。

その高石市の「河合」について、「大工村の地にはいま河合の姓を名乗る家が二四軒あり、明治維新ごろまで宮大工とよばれて京都皇居の造営修理を担当し、明治四十二年(1909)まで村内の八栄神社は素盞嗚命を祀って天王講を称え、工匠座を組織し、共有田畑をもっていたという(河合儀兵衛『輝く高石町史蹟』)。」とありました。

行基の父方の高志氏は、王仁の後裔の「書首(西文氏)」から分派した氏族とされていますが、その本家である「書氏」は、「壬申の乱」の際に大海人皇子(天武天皇)に従って東国入りしている人もいるそうです。また、蘇我氏による統率の下、秦氏らとともに大蔵(皇室の屯倉の租税を納める倉)の管理を司っていたそうです。

上記の「朝妻氏」「河合君河麻呂」「書首」「蘇我氏」「秦氏」等と、行基との直接的な関連について、はっきりしたことはわかりませんが、天武天皇・出雲系とされる氏族・渡来系氏族等との接点を、ここで見られるように思います。そしてそれらが、行基の社会事業における活動や、仏像を造るにあたっての、大きな力となっていたのではないかと考えており、それぞれの関連性をさらに探ってみたいと思い、現在しつこいくらいに行基の追っかけ(?)をしているという状況です。

余談:井上薫氏著「行基」に、堺市の「土塔」が保存されるにあたっての経緯が書かれており、それによりますと、末永雅雄博士や森浩一氏による論文発表において、保存の必要性を当局や識者に熱心に訴えたことにより、破壊を免れたそうです。そして、大阪府がその土地を買い上げて史跡に指定し、堺市が管理することになったとのことです。いくつか遺跡のあった場所に行きましたが、そのほとんどが埋め戻された後、スーパーや道路等になっていて、遺跡のあったことを示す石碑だけになっているのを、とても残念に思います。


[其の47] 2001/11/27(tue.)

24日の夕刊の1面に、「天武天皇の夢『東国の都』」「信濃遷都計画」という見出しがありました。それによりますと、「美濃(岐阜県)、尾張(愛知県西部)などの東国の国々は、壬申の乱で、天武天皇軍の主力をなした地域・・・」とされており、そこで「信濃遷都」によって「東の拠点づくり」が計画されたのではないかとされていました。そして、「天武十四年十月、信濃に天皇行幸のための「行宮(かりみや)」を建設するよう命令が出されている。」とあり、書記の記載から、松本市内の温泉に行かれたのではないかとも推測されており、松本市の温泉街に近い「弘法山古墳」の写真が掲載されていました。

先日[其の43]で書きました、「富本銭」の出土した高森町の「武陵地1号古墳」・飯田市の「高岡新井原古墳群」と、松本市の「弘法山古墳」との関係を地図で調べてみたところ、100キロほど離れているものの、いずれもJR飯田線沿線で「フォッサマグナ」のところなんですね。松本市の近くには「諏訪湖」があり、何やらまた推測を巡らせるネタに遭遇したように思います。

ところ変わりまして奈良県御所市の「北窪遺跡」、ここについても「天武天皇関連」ということで同じ[其の43]に書いてますが、「渡来系の技術者集団」について、最近読み始めた加藤謙吉氏著「秦氏とその民」に出てきました。

当麻町で竹内街道と交差する南北の道路にそって、「北窪」「朝妻」があり、「北窪」の北側の「南郷」「佐田」「井戸」「下茶屋」の地域にまたがる「南郷遺跡群」では、石垣をともなう五世紀第2四半紀の大壁建物が検出、またその周辺から、鉄器生産や玉生産を行った渡来人の集落とみられる遺物が出土しているそうです。「和名抄」の大和国葛上郡高宮郷を中心とした一帯は、五世紀の大豪族「葛城氏」の中心勢力の本拠地で、多く居住していた渡来系の人々の中に、「応神紀十四年是歳条」にある、葛城襲津彦により召喚された「弓月君」の支配下の人夫、すなわち秦氏の一部が、葛城氏の支配下に置かれて、この地に居住していたのではないかと推測できるようです。

鉄器生産や玉生産を行った渡来人の集落の「大和国葛上郡高宮郷」、「富本銭」の出土・「遷都」が計画されたのではないかと考えられる「信濃」、壬申の乱で天武天皇軍の主力をなした「美濃」「尾張」等、「天武天皇」によって「東国の国々」や「渡来系の技術集団」が繋がり、そのウラには「鉱物」が関連しているようですが、ここに時代が変わって「聖武天皇」「行基」も関連してくると思われます。「朝妻」の「河合君河麻呂」と「秦氏」の関連は、かなり興味深く思っています。寄り道が多くなりますが、「天武天皇」の足跡を探り、推測を深めながら「行基」の足跡を探してみたいです。


[其の48] 2001/11/28(wed.)

603年
(12階)
647年
(13階)
649年
(19階)
664年
(26階)
685年
(48階)
701年
(30階)

大織
小織
大繍
小繍
大紫
小紫
大織
小織
大繍
小繍
大紫
小紫
大織
小織
大縫
小縫
大紫
小紫

(8階級)
正一位
従一位
正二位
従二位
正三位
従三位
大徳
小徳
大錦大花上
大花下
大錦上
大錦中
大錦下

(8階級)
正四位上
正四位下
従四位上
従四位下
大仁
小仁
小錦小花上
小花下
小錦上
小錦中
小錦下
正五位上
正五位下
従五位上
従五位下
大礼
小礼
大青大山上
大山下
大山上
大山中
大山下

(8階級)
正六位上
正六位下
従六位上
従六位下
大信
小信
小青小山上
小山下
小山上
小山中
小山下

(8階級)
正七位上
正七位下
従七位上
従七位下
大義
小義
大黒大乙上
大乙下
大乙上
大乙中
大乙下

(8階級)
正八位上
正八位下
従八位上
従八位下
大智
小智
小黒小乙上
小乙下
小乙上
小乙中
小乙下

(8階級)
大初位上
大初位下
少初位上
少初位下

建武立身大建
小建


[官位相当表]
位階/官庁神祇官太政官中務省衛府太宰府勲位
正一位
従一位

太政
大臣






正二位
従二位

左大臣
右大臣






正三位
大納言




勲一等
従三位
中納言



勲二等
正四位上





勲三等
正四位下
参議



従四位上
左大弁
右大弁





勲四等
従四位下





正五位上
左中弁
右中弁
大輔
衛門督大弐
勲五等
正五位下
左少弁
右少弁

大輔
大判事



従五位上

少輔
兵衛督
大国守勲六等
従五位下大副少納言侍従少輔衛門佐少弐上国守
正六位上少副左弁大史
右弁大史





勲七等
正六位下

大丞大丞
中判事
兵衛佐大監大国介
中国守
従六位上大祐
少丞
少監上国介勲八等
従六位下少祐

少判事衛門大尉
下国守
正七位上
大外記
左弁少史
右弁少史
大録衛門少尉大典・
防人正

勲九等
正七位下

大主鈴判事大属兵衛大尉主神大国大掾
従七位上
少外記

兵衛少尉
大国少掾
上国掾
勲十等
従七位下




博士
正八位上

少録
少主鈴
少録
大典・
防人佑
中国掾勲十一等
正八位下大史

判事少属衛門大志

従八位上少史


衛門少志
兵衛大志

大国大目勲十二等
従八位下



兵衛少志
大国少目
上国目
大初位上




判事大令史

大初位下




判事少令史中国目
少初位上





下国目
少初位下







[四等官制]

神祇官太政官衛府太宰府鎮守府
長官太政大臣
左大臣
右大臣
大領将軍
次官大副
少副
大納言大輔
少輔
大弐
少弐
少領副将軍
判官大祐
少祐
少大納言
左大中少弁
右大中少弁
大丞
少丞
大尉
少尉
大監
少監
大掾
少掾
主政軍監
主典大史
少史
左弁大少史
右弁大少史
大外記
少外記
大録
少録
大志
少志
大典
少典
大目
少目
主帳軍曹

「新詳日本史図説」より

今朝の新聞に、堺の「土塔」の塔頂部付近から「和同開珎」(708年鋳造)が、南側斜面の下層付近から「神功開寶」(765年鋳造)が見つかったことが書かれていました。いずれも奈良時代以降の地層からの出土で、地鎮のための埋設か、賽銭のようなものではないかと考えられているようです。現地説明会は、12月2日午後2時〜4時とのことです。


[其の49] 2001/12/02(sun.)

30日の新聞に、奈良の四世紀末の前方後円墳「赤土山古墳」で、ほぼ完形の埴輪列が見つかったという記事とその写真が掲載されていて、1日の朝刊の1面には、奈良の「箸墓古墳」の周濠から、木製馬具「鐙」が見つかったという記事とその写真が掲載されていました。どちらも「すごい!」と思いましたが、やはり関心を持ったのが「鐙」ですね。

今まで出土したものが、四世紀後半から五世紀初めのものであるのに対し、今回のものは四世紀初頭とされていることや、大きな見出しになっていた「学会の定説覆す」という文字に、ドキドキしております。さらに今日の新聞には、「ひも通す穴 未知の縦型」とあり、五世紀代のが横穴であるのに対し、今回のは縦1.5cm・横1cmの縦型とあり、さらに関心が深まってきました。「鐙」は、騎馬民族に比べて乗馬の下手な漢人が発明したという説があるそうで、最古のものは中国・西晋時代(302)の俑(よう:人の形にかたどった人形で、死者を葬る時に一緒に埋めた。)に見られるそうです。また、乗馬の上手な騎馬民族が「鐙」を使い出したのは、7世紀以降とされているようです。

「箸墓古墳」の周濠から見つかった、四世紀初頭のものとされている「鐙」は、「弥生時代から日本人が木製品に使ってきた材料」とされる「アカガシ」をくりぬいて作られているそうで、「馬具」がどこから伝来して作られたものなのか、日本における「馬」と人との関係が、これからの発掘調査により、さらに詳しくわかることを期待しております。

余談:各地の神社で、「神事」として「流鏑馬」や「競べ馬」等があり、古代ローマでも、コロシアムが作られ、競馬のようなものがあったそうですから、日本でも「競馬」に似た行事が、古代からあったのではないかと想像しております。


[其の50] 2001/12/07(fri.)

Y&Mのにっき [8][9][10]に書いた遺跡関係についてのものを、こちらに移すことにしました。これからも、なるべく遺跡関係については、こちらに書いていきたいと思っていますが、たまに「にっき」に書いて、後でこちらに移すこともあるかもしれませんが、そのあたりについては、どうぞご了承くださいませ。

●2001/10/09(tue.)
ネットで検索していると、「祭文」から「馬娘婚姻譚」や「オシラ祭文−きまん長者物語」が見つかり、そこで「馬頭観音様」は出てきましたが、残念ながら「お勝全様・お蒼前様」については、わかりませんでした。もし何かわかったら、とんでもニャ〜の方に書けたんだけどなぁ・・・で、「オシラサマ」は東北地方に代々伝わってきた民間信仰で、様々な御利益をもたらす神様だそうですが、「養蚕の神様」でもあり、起源として「白山信仰」からきた説、「熊野信仰」からきた説等、いろいろあるようです。「南部の曲がり家」や「塩の長司」で祭文等について語る人が言うように、馬を大切にして一緒に生活することから、馬が「オシラサマ」の御神体にもなっているようです。あ、「千と千尋の神隠し」では、「大根の神様」として出てきます。

●2001/10/18(thu.)
出雲族について、頭の中を整理すべく、引き続き関裕二著の「卑弥呼はふたりいた」を読みましたが・・・混乱していたことについて、これではっきりとわかりましたが、ただ、神話に出てくる神々で、著書には出てこない神は、どう比定されているのかを知りたいなと思いました。それと、「日本霊異記」を読んで気になっていたことに、「行基は越のひとである。」というのがあり、それについて否定する説が多くありますが、行基と役行者との繋がりや活動から、百済系渡来氏族という色合いよりも、出雲族の色合いの方が強く感じられ、著書にあった「天日槍」が新羅系伽耶の人と思われるように、行基のルーツは百済系伽耶の人で、「越のから来たひと」という可能性もあるように思われました。父方の名前が「高志氏」ですし。あ、そう言えば「行基」は、名前が「行基」だけなんですよね、知っている限りでは。あ、「道昭」もそうだったかなぁ?幼少の頃の名前や諡号が、どこにも記載されてないんですよね。

●2001/10/21(sun.)
詳しくは、「なんでもアルバム:神社お参り編」に近々Upする予定ですが、どちらの神社も創建の詳細はわからなかったものの、「放出」の地名の由来について、「阿遅速雄神社」の「八劔大神奉斎の御由緒」に書かれていましたので、抜粋して書きます。あ、「放出」は「はなてん」と読みます。

天智天皇七年十一月、新羅の僧 道行 尾張国熱田宮に鎮り座す、御神劔 天叢雲劔 即ち 草薙御劔を盗み出し、船にて本国へ帰途 難波の津で大嵐に遇ひ流し流され 古代の大和川河口であった当地で嵐は更に激しく、これ御神罰なりと御神威に恐れをなし、御劔を河中に放り出し 逃げ去りたり
(之が地名となり、放手(はなちて) 放出(はなつて) 放出(はなつてん) 今「はなてん」と云う)

さて、新聞からのネタですが、佐賀県の「菜畑遺跡」から出土した古代米が、池上曽根遺跡等から出土したのと同じ「熱帯型ジャポニカ種」であることが、DNA鑑定で判明したようですね。朝鮮半島に近い遺跡での、中国から伝わったとされる炭化米の出土ということで、さらに交流の広がりを感じます。遺跡は「歴史の宝箱」のようで、これからのさらなる発掘調査に期待が膨らみます。

●2001/10/30(tue.)
東京に「銀座」がありますよね?地方の繁華街にも、「○○銀座」という通りがあったりしますが、辞書によりますと、江戸幕府が東京に銀貨の鋳造・発行所を1612年に置いたことにより、ついた地名だそうです。初めは伏見と駿府におかれたのが、京都と江戸に移されたそうで、また、大坂や長崎にもおかれたそうですが、のちに江戸銀座に統一されたそうです。そして、堺の商人・湯浅常是の子孫「大黒家」が、頭役を世襲したとのことです。そもそも「銀座」の起源は、慶長3年(1598)に徳川家康が、伏見に銀貨鋳造所を設けたのに始まるそうで、「大坂銀座」では「主に生野・石見銀山の産銀や、粗銅から抽出した銀を京都に回送する役割を担った。」とのことです。

で、銀貨の鋳造や発行所のことを「銀座」というのなら、「金貨」や「銅貨」にもそういうのがあるのかなと続けて調べてみると、やっぱりあったようでした。金貨の鋳造・発行所は「金座」で、初めは江戸・駿府・佐渡・京都に設置されたそうですが、江戸中期までに江戸金座を残して他は廃止・縮小され、明治元年(1868)に廃止されたそうです。また、銅は長崎貿易の重要な輸出品だったそうで、精錬・専売を司った役所を「銅座」と言ったそうです。

文章の大半が「歴史の散歩道(大阪市史跡連絡遊歩道)」というホームページの受け売りです。そのサイトによりますと、大坂銅座の跡が淀屋橋の愛珠幼稚園前に、大坂銀座の跡が天神橋にあるそうです。で、Yに聞いたところによりますと、京街道・中国街道・紀州街道などへの道のりや、車馬賃の起点となった江戸時代の里程計算の起点である「里程元標」の跡が、会社の近所にあるそうです。

●2001/11/17(sat.)
今朝の新聞に、「植山古墳」が史跡指定されたという記事がありました。「推古朝有力者の墓」ということが、やはり大きなポイントなんでしょうね。「池上曽根遺跡」は現在史跡公園になってますが、それは発掘されたうちの一部で、某スーパーの駐車場や、道路の下に眠っている部分もあり、別の遺跡の上には団地が建ってたりします。また、平野区の遺跡の上にも、某スーパーができています。最近どうなっているのかわからないのですが、説明会に行った貝塚市の「加治・神前・畠中遺跡」も、羽曳野市の「郡戸遺跡」も、道路予定地でしたので、埋められてしまうのでしょうね。とても残念なことだと思います。

●2001/11/18(sun.)
昨日の新聞に、堺市にある行基関連の遺跡「土塔」で、使われたであろう瓦は約6万枚であることが、堺市文化財センターの調査でわかったそうです。この遺跡のことを考える時、「ピラミッド」を意識してのものなのか、そればらばその意識する元はどこからもたらされたものなのか、もし「ピラミッド」を意識したものでないならば、四角錐の意味するものは「方位」かと思われるものの、四十九院の1つである大野寺との位置関係は、何を表わしているのか等、わからないことばかりです。土塔は大野寺の南東にあるのですが、そのライン上にニサンザイ古墳や仁徳陵古墳があり、またその古墳が、それぞれ違う方向に向いてたりするので、頭の中がややこしくなるばかりです。

●2001/12/05(wed.)
奈良の磐余古墳(小立古墳)から、飛鳥時代後半とされる車輪が出土したそうですね!これも先日の鐙(あぶみ)同様、アカガシ材によるものだそうで、牛車の車輪の構造と似ているとのことで、特権階級が所有していたものではないかとされているようです。出土例が少なく、しかも文献に出てくるのは奈良時代になってからだそうで、これからの貴重な資料となるとのことで、さらなる調査結果に興味が涌きます。

ネット検索していると、ニュースの中に「近畿地方北部の遺跡に関する論文や資料をまとめた「北近畿の考古学」が、このほど両丹考古学研究会と但馬考古学研究会から発行された。」とあり、B5判、350ページ、2,500円(送料別)だそうです。「旧石器・縄文時代から江戸時代まで、時代ごとに地域の遺跡を詳しく解説している。」とのことで、同志社大名誉教授の森浩一氏の講演記録「但馬・丹後を考えるために」も収録されているそうです。見てみたいなぁ・・・あ、お問い合わせは、綾部市資料館の三好さんTel:0773(43)1366とのことです。

おぉ!栃木県で、「壬生町教委が発掘調査を進めている桃花原(とうかはら)古墳(同町羽生田)で、県内最大の「前庭部」がほぼ完全な形で見つかり、2日に出土品とともに一般公開された。」という記事が!!「埋葬者に対する祭祀的儀式を行ったとみられ、全国でも最大級とみられる。」とのことで、これも見てみたいです。でもこの記事、こちらでは載ってなかったような・・・やっぱりネットって便利ですね。しみじみ思います。あ、これらの記事は、Yahoo!ニュースの「遺跡」検索で見られます。

●2001/12/07(fri.)
今朝の新聞の1面を見て、「おぉ!」と唸りました。2つの遺跡、これまたスゴイ!昨日の新聞に、「キトラ古墳」の3度目の撮影が行われることが書かれていて、きっとこれは何かあるだろうなと思っていましたが、北斗七星に金箔!千数百年の時を経ても残ってるんですね。何とか保存して、後世の人々も過去の浪漫を味わってほしいものです。

そして、もう1つの滋賀の「伊勢遺跡」、これもすごいですよ!!サークル状の祭殿、レンガ状の建材・・・あれ、新聞に載っている「建物跡の配置」の図って、かつて猫バス堂さんのホームページで拝見した、「田野・本野原遺跡」に似ているような・・・いずれにしても、過去の大切な遺産であり、日本の文化等のルーツを知る手掛かりになるのですから、さらに調査されて新たな発見のあることを願っています。あ、こちらは一般対象の説明会が、8日午後2時から行われるとのことです。JR栗東駅から徒歩で北東に約12分。ということは、JRAの栗東トレセンより北になるのでしょうか。

そうか・・・「伊勢遺跡」と「栗東トレセン」って、比較的近いですよね。また、「宮町遺跡」とも近い・・・JRAの関連施設って、馬の歴史と密着しているように思い、すなわちそれは、過去の文化との密着を示すでもあり、祭祀との関わりを示していると思われます。先日出土した「鐙」の年代を、四世紀初めとすることに慎重な意見があるそうですが、「鐙」が木製なら老朽化したものは燃料等になり、鉄製なら溶かして再利用されると思われるので、逆にこうして出土されるのは極めて「まれ」なことのように思い、何故残っていたのかが返って気になったりします。それで推測として、古墳の埋葬品以外で出土する可能性を考えると、飼育されていた地域で何らかの形で置き去られたもの、あるいは「いくさ」等で偶然その場に残っていたもの等ではないかと思われます。

夕刊によりますと、上記の「キトラ古墳」の撮影により、壁画が「高松塚古墳」のものよりも古い年代であるかもしれないとのことです。そしてその記事の下には、カリブ深海に古代都市遺跡のあることがわかったという記事があり、ピラミッド状で6000年前に建造されたのではないかとされているそうで、来年1月に再度海底探査を実施するそうです。どちらの記事も、今後の調査結果が楽しみですね。

お詫び:「伊勢遺跡」は弥生時代後期の古墳で、「田野・本野原遺跡」は縄文時代後期の古墳ですので、「似ている」と思ったのは、私の思い込みでした。すみません。m(__)m

●2001/12/08(sat.)
今朝の新聞に、奈良の「清水谷遺跡」で、古墳時代中期(5世紀後半)の大壁建物と呼ばれる朝鮮半島系の建物跡が出土したという記事があり、その建物跡のいくつかには、床暖房の「オンドル」があるのが確認されたとのことです。大壁建物は「朝鮮半島の高度な建築技法」だそうで、遺跡のあるあたりは渡来系氏族の東漢氏の本拠地だったことから、東漢氏の邸宅だったのではないかと思われるようです。「オンドル」は、大津市の「穴太遺跡」からも出土しているそうですが、それよりも1世紀近く溯り、かつ飛鳥地方では初めての出土だそうで、いつもと同じ感想になりますが、これからの調査結果がとても楽しみです。

●2001/12/09(sun.)
「田野・本野原遺跡」について、載っていました。


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