●2007.05.02(Wed.)・・・大山阿夫利神社など |
昨日、蘇我氏が頭の中で渦巻いていると書いたけど、他にもまだいろいろあるわけで、「とんでもニャ〜」は一旦終了したものの、検索は続行中だったりするわけで。
「飯豊女王」には「青」、「瀬織津姫」には「赤」がよく出てくる。そして「不動明王」も。
もし五行からなら、残りの「黄」「白」「黒」も出てくるのだろうか、とか、天海が絡んでいると思われる「五色不動」を調べなおしてたら、「長谷寺」が出てきて横道にそれてしまい、さらに奈良ではなく「甲斐」に飛んでしまった。
が、ちょい発見が。笛吹市(旧東山梨郡)春日居町の「鎮目寺」(廃寺)は、
「養老年間(717〜724)に僧行基が一本の柏の木より3躯の薬師如来像を彫り、そのうち一躯を鎮目寺に、次の一躯を柏尾山の大善寺に、次の一躯を永井の揄迦寺に安置したと云われる。(http://www.eps4.comlink.ne.jp/~kumagai/kasugai/tinmoku/tinmoku.htm) |
とのことで。「一本の柏の木より3躯の薬師如来像」ということで、先日来、気になっていたことと同じではないか、と。
永井の「揄迦寺」はわからなかったが、柏尾山の「大善寺」(http://katsunuma.ne.jp/~daizenji/engi.htm)は、行基が刻んだとされる、「右手にぶどうを持つ薬師如来」があるお寺。
どうも行基が絡むとムキになるようである。
上記のことが書かれていた「熊さんのホームページ」さんのサイト(http://www.eps4.comlink.ne.jp/~ooba-k/index.htm)に、「三柱大神」があり、
戦後社殿を修復し、「石尊神社」と改名した。祭神は崇神天皇、天照大神、阿不利大神が祀られていたが、戦後改名と同時に石尊大権現を祀った。 (http://www.eps4.comlink.ne.jp/~kumagai/kasugai/sanhasira/san.htm) |
とされていた。「阿不利大神」?と思っていたら、
石尊権現 御神体は神奈川県の石尊権現(大山阿夫利神社)が大本で、雨乞いの神として分霊されたものである。祭典は男集が川に入り、石尊の呪文を唱えながら川水をかけ合って六根の汚れを清める。 (http://www.eps4.comlink.ne.jp/~kumagai/kasugai/sekison/sekison.htm) |
とあり、石尊大権現=大山阿夫利神社の御祭神のようで。祭典は「禊」のように見受けられ、リンクにあった「石尊の呪文」を拝見して、さらにおやぁ?と。青面金剛と脇侍の不動明王、天狗・・・。
いや、その前に、しつこいようだが「大山阿夫利神社」と言えば、「ユダヤの祖モセス(ヨセフ)王の墓」とされていて、写真を拝見していると、石尊権現があちこち祀られているようで・・・「祭典は男集が川に入り」とあるように、川の中に祀られているということで、「水神」である「瀬織律姫」に思えたりするんだが。
あと、気になるのが、「春日居の町名はこの春日神社が元で、「春日の神います地」が語源」とされていること。
「賀茂春日神社」(http://www.eps4.comlink.ne.jp/~kumagai/kasugai/kamo/kamokasuga.htm)の御祭神に経津主命・武甕槌命もあるあたり、頭のイタイところで。はしょることにしよう。
で、「番外編」として「大王神社」があり、
長野県南安曇郡穂高町にある大王わさび園の中に鎮座。此の地一帯は、延暦年間(782〜805)に安曇平野に繁栄した原住民族の王「魏石鬼八面大王」が治めていたと云う。そのころ全国統一を目指す天孫族が南方より侵攻し熾烈な戦いが行われ、大王は一族を率いて勇戦敢斗したが、優勢な天孫族に捕らえられ処刑されたという。大王があまりに強かったため、その復活を恐れた天孫族は大王の遺体をバラバラにして埋めたと云う。その大王の胴体が葬られているのが大王神社だと云う。 (http://www.geocities.jp/bear7bear7/bangai/daiou/daiou.htm) |
延暦年間に「天孫族」との戦い?とか、原住民族の王「魏石鬼八面大王」?とか、疑問が多々わいたんだけど、それよりも驚いたのが、「大王の遺体をバラバラにして埋めたと云う。」そして「大王の胴体が葬られている」ということ。
「鎮目寺」(廃寺)同様、以前に書いてたことに繋がりそうだな、と。
で、「魏石鬼八面大王」を検索してみたところ、「天孫族」は「坂上田村麻呂」の軍のようで。(http://www.daiowasabi.co.jp/hachimen.htm)
「八面大王の首塚」は松本市筑摩の「筑摩神社」(主祭神:応神天皇・神功皇后・宗像三神)の向かいの雑木林の中(http://www.h2.dion.ne.jp/~frenzy/hachimen2.html)に祀られ、「八面大王の耳塚」は、安曇野市穂高有明の「大塚神社」(http://www.h2.dion.ne.jp/~frenzy/mimizuka.html)のようで。しかし、
この地の伝説には二通り有り、大和朝廷に進出により、苦しめられている農民を見るに見かねて八面大王が立ち上がったという話と、この地の農民を困らせていた八面大王を坂上田村麻呂が退治したという二通りの筋書きがあります。いずれにせよ、鬼と呼ばれた人たちと大和朝廷軍がこの地であらそったことを示しています。 (http://www.geocities.jp/tyuou59/hatimenndaiou.html) |
つまりは、龍の伝説その他も、「鉄」と「中央構造線」の問題に関わることになるのかなぁと思い、長くなりそうなのでまたはしょることに。
上記のことで山梨県での検索をしていて、住所のかわっているところがあるのがわかり、修正していたわけだが、次の長野県でもそういうところがあるのかなと検索してて、え?という場所があった。
「妙覚寺」(木曽郡大桑村野尻)で、大桑村のホームページを拝見したところ、「マリア観音」があるとのことで。
検索してみると、「野尻川向にあったものを、昭和46年に妙覚寺に移して安置」とのことだったが、そもそも縁というか繋がりというか、そういうのがあるからこそ安置されたように思いつつ、「木曽路のマリア観音・地蔵」というブログ(http://blog.so-net.ne.jp/bluemoonbay/2007-03-24)を拝見した。
すると・・・「天には太陽と月、地には三猿、そして両手で蛇を捕まえている。」という「青面金剛像」があった。
「マリア」を象徴する「三日月」と、「キリスト」の象徴である「太陽」?両手で捕まえている「蛇」は、「大物主神」?なーんて思ったわけで・・・。
相変わらず推測でしか書けないのであるが・・・。
さて、検索再開のきっかけとなった「五色不動」だけど、「まぼろしの五色不動」(http://machi.monokatari.jp/author/fudou.php)というブログがあった。
結論から言えば、天海は関与していないのではないか、とのことで。
ただ、かつて空海も最澄も行基のおっかけをしていたようなので、怪僧であれば、というか、逆らえない指示があった場合には、宗派を超えての活動もアリかもしれないなと、私自身は関与については何ともいえなかったりするが。
で、ブログで詳しく調べておられ、その中で「良弁」の話が出てきたのにはビックリした。(http://monokatari.jp/machi/c1.php?itemid=3962)
「我が姿を三体刻み、一体をここに安置せよ」と「不動明王」に霊告され、そのうちの1体が平井の「最勝寺」に伝わる「目黄不動」とされ、「相模国の大山不動(神奈川県丹沢山地の雨降山大山寺)はこのうちの一体である。」と。(もう1体は江東区亀戸の「東覚寺」?)
「良弁伝説」について検索すると、「安房の傳説」(http://www.smn.co.jp/takano/noto50.html)というのがあった。
「醇酒の池」が近くにあるようで、「イサギの池」で「雨乞い式」があったとのことだが・・・「イサク」の池で、禊に使われたのではないかと思えたりするわけで。
しかし、なんで「安房」なんだろ?と思ったが、鴨川市に「大山不動」があるそうで、「隅田川」と「醇酒の池」の違いがあるが、ここでもまた「日本武尊」と「石尊様」がでてきてビックリ。(http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/pdf/bousou.pdf)
しかも、のっけから3つの巨岩の写真で、さらにビックリ。ということで、その写真の「三石山観音寺」を調べてみたら、君津市草川原にあり、ご本尊は十一面観世音菩薩と薬師瑠璃光如来、とのことで。
(超歴史研究会さん:http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/mitsuisi.htm)
なんだか寄り道ばかりになったけど、どうも神奈川の「大山阿夫利神社」方面に行くような。これも「鉄」や「中央構造線」がらみってことかなぁ。
ん?「大王神社」に「首塚」っちゅうと、「将門」も「首塚」があって、「国王神社」が茨城県にありましたよね。で、「鉄」がらみだったりする・・・。
あ、そういえば、調べてる途中で「護良親王(1308〜1335)」の「首級」を祀ったとされる神社があったっけ。そうそう、「石船神社」っていう社名と、「復顔首級」が気になって、「復顔首級」はまるで立川流のご本尊のような・・・。(http://www.geocities.jp/bear7bear7/turu/isifune/isifune.htm)
やっと(無理矢理?)「五色不動」に戻るが、「目青不動」は「青山のお閻魔様」として親しまれた、とのことで。(http://monokatari.jp/machi/24.php?itemid=3969)
徳川家とのお付き合い(?)で、天海もまた奈良時代での改竄を知っていて、「瀬織津姫」を祀ったのではないかと思った、今までされてきたように姿を変えて。ただ、天海が「大山阿夫利神社」を意識してたかどうかは不明であるが。
●2007.05.03(Thu.)・・・滋賀の「日向山」など |
3つの石・・・磐座・・・あ、ペトログラフかぁ、なーんて発想になって。
で、昨日はだる〜い感じがするなぁと思いながら検索してて、いつもとはちゃうサイト(?)を拝見して・・・楽しかったんだけどね、アブナイ部分もあるかも、と。
でもね、御祭神の正式名称とかわかるの、今がいいタイミングかもしれないなぁって思った。
読んでおきながら忘れてたんだけど、「ダ・ヴィンチ・コード」がほぼノンフィクションらしいのね。で、拝見したサイトに「キリスト教2000年の歴史を揺るがす大事件≠ェ起きているのである。」と書かれてた。
(日本的霊性 神理研究会:http://f35.aaa.livedoor.jp/~shinri/petoro.html)
ばーちゃんに聞いたのよ、キリストのヨメのことを。そしたら、「そんなの、いてへんって。聞いたことないで。」と。だけど、「ダ・ヴィンチ・コード」には書かれてた。
チベット僧院の古文書「イエッサ伝」に、イエスがインドで修行していたことが書かれているそうで、仏教と通じる部分があっても不思議ではないと思われるわけで。
ってことは、日本の神との習合も自然なことであるなら、それがハッキリするのもいいかも、と。特に神話の部分で消されてしまった歴史を、知る機会があってもいいんじゃないか、とも。
で、いろいろと拝見してると、滋賀の「日向山」で「太陽に関する祭祀」が行なわれていたのではないかとされており、山頂に「岩上神社」があり、そこに「キリシタン燈籠」らしきものがあって。
(http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/nikkou.html)
さらに読んでいると、「五色不動」の元になっているのではないかと思われる、京都の「四岩倉」が出てきて、その「東岩倉」とされる「大日山」の近くに「日向大神宮」があって。(地図:http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=25000&el=135%2F47%2F53.462&pnf=1&size=500%2C500&nl=35%2F00%2F13.057)
●2007.05.04(Fri.)・・・甕速日神(ミカハヤヒノカミ)など |
昨日はちょこちょこ読んでた「古代出雲王国の謎」を、ようやく読み終えたあと、一昨日おじゃましたサイトを再び拝見して・・・いたら、本の内容を忘れた。
いや、頭の中で消化できないままだったから、また読みなおさなきゃいけないようで。いやはや。
本の内容を蹴散らす(?)ほど、やはり行基のパワーはすごいようで、行基ゆかりの地をじっくり拝見していたところ、みょ〜な推測(?)がわいてきた・・・行基たちはひょっとして、像を刻む=ペトログラフのように考えていたのかも、と。
何のためか・・・やはり、朝廷に消された神々を祀ろうとしていたのでは、と。
最近とんでもニャ〜にちらっと書いたことがあると思うけど、世田姫=与止日女=豊(ゆた)姫=豊玉姫とされていて、さらに「与止日女神社」では、與止日女命=神功皇后の妹、豊玉姫命=竜宮城の乙姫とされていて。(http://www.genbu.net/data/hizen/kawakami_title.htm)
で、御由緒に「此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。」とあり、たぶんその近所と思われる川に「八大竜王」と刻まれた石があるそうで、それが行基ゆかりとされる「仁比山神社」から見えるとか・・・。
ま、それが行基が刻んだものかどうか、その石も「世田姫」と言われる「石神」かどうかはわからないけど、「吉野ヶ里遺跡」のすぐ西側ということで、「石」(巨岩らしい)が気になってて。
ま、その地についてはそれ以上はわからなかったので、一昨日拝見した続きから、奈良の「神野寺」(山添村)のレポートを半日かけて拝見してて。知る人ぞ知る巨岩ゴロゴロの、行基ゆかりのお寺のある地でして。
(http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/yamazoe1top.html)
神野山のほぼ山頂に「王塚」があるそうで、村の言い伝えでは「カンハヤヒノミコト」が祀られているとか。それが「記紀」に出てくる「樋速日神」と同神だそうで。
樋速日神は女神で、伊勢に住んでいたといわれています。絶世の美貌を持っていたため、多くの神々から付きまとわれていたそうです。それを避けようと樋速日神は神野山まで逃れてきて、神野山南方にある弁天池の中に入り、大蛇と化したそうです。 そんなことを知らず、ある男の神が樋速日神を追って弁天池まで来た時、樋速日神の化した大蛇を切り殺してしまいました。そうすると大蛇は樋速日神の姿に戻って死んでしまったので、それを見た男神は大いに嘆き悲しみ、せめてもの弔いとして、この神野山の頂上に墓を造ったのだといいます。これが王塚の築造伝説です。 |
そして、
王塚に隣接して神野山大神を祀る神野大明神が鎮座していますが、その祭神(つまり神野山大神)は甕速日神(ミカハヤヒノカミ)とされています。 |
とあり、さらに、
とのことで。
このあたりのややこしさ、「瀬織津姫」に通じるものがあるように思えたんですよね。「神野寺」は行基ゆかりの真言宗寺院で、空海もこの地を訪れており、近くの「神波多神社」では、「牛頭天王信仰」が普及されている・・・。
そして、天王の森頂上巨岩群の手前に移設された「首切り地蔵」の横には、「宝篋印塔」があった。
(http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/yamazoe24tennou.html)
そうそう、「宝篋印塔」の「笠」の部分を見てると、どうも「四隅突出型墳丘墓」を思い出すのは、私だけでしょうか・・・。
●2007.05.05(Sat.)・・・奈良の行基ゆかりのお寺など |
ひゃ〜、ビックリ!画像の整理しながらテレビ見てたら、「八角堂」が!どこかと思いきや、「川崎大師」で、「八角五重塔」だった・・・うーん、真言宗智山派ね。「聖徳太子堂」もあるんですね。って、続きしなきゃ。
って、何の続きやねん?って話でんな。いや、実は意外と奈良が近くなっちゃって。南阪奈道路を使うと30分で行けちゃうのね、葛城市新庄町まで。で、乗せてってもろて。
ただ、いつもの如く、丘陵地に多いんですね、行基ゆかりのお寺って。しかも一定の間隔(?)を置いてるんで、行くのがけっこう大変で。
だから、予定してた御所市には行けなかった・・・が、やはり共通するものが見つかったんですね〜。ということで、
本日の小ネタ:ありました〜。
![]() 浄願寺にあった五輪塔 | ![]() 浄願寺にあった石造五重塔 | |
![]() 置恩寺にあった宝篋印塔 | ![]() 極楽寺にあった石造十三重塔 | |
![]() 笛吹神社神宮寺かも?の宝篋印塔 | ![]() 観音寺にあった石造十三重塔 |
疲れて行けなかったんだけど、新庄町の「諸鍬(もろくわ)神社」、気になるんですよね。
「奈良観光」さんのホームページによりますと、
宇佐八幡とも称し、領主の桑山氏が本貫地尾張國海東(かいとう)郡にあった産土神、「諸鍬神社」を転封の課程で但馬國や紀伊國に勧請・遷座し、1601年(慶長6年)桑山一晴が新庄へ入部して弁之庄に奉還したが、1680年(延宝8年)新庄藩主桑山一尹が北花内村(葛城市新庄北花内)の飯豊青皇女の墓と云う三才山(さんさいやま)に遷祀し、「宇佐の社」と称したが、その後、一尹が改易されて、1864年(元治元年)旧知に復祀しました。 (http://urano.org/kankou/sinjo/sinjo02.html#morokuwa) |
とのことで。御祭神は応神天皇(品陀和気命)、神功皇后(息長帯比売命)、玉依比売命。
(詳細「ななかまど」さんのホームページ:http://www.7kamado.net/morosuki.html)
やはり繋がっていくのかな、と。あ、古墳の航空写真、三角形でしたね・・・。(北花内大塚古墳)
昨日お参りした「葛木坐火雷神社」、笛吹にあって「笛吹神社」とも称し、「天香山命の子孫笛吹連」の本拠地のようで。
で、2日に書いてたのが山梨県笛吹市のことで、メンヒルが気になってた。すると「笛吹神社」の鳥居のすぐ近くに、「陽石」らしきものがあった・・・天香山命・・・「ニギハヤヒ」がいずれにも関係するんだろうか。
和歌山の「射矢止神社」では、神功皇后やウカノミタマと共に御祭神とされているが。天香山命の妃であったとされる「大屋都姫命」って・・・。
(http://www.kamnavi.net/ki/city/iyato.htm)
で、天香山命は音楽の神様とされていて、な〜んとなく秦氏と繋がるよ〜な気がするんだが。うーん・・・。
あ、神奈備さんの「都麻津姫神社」(和歌山市平尾:http://kamnavi.jp/it/kii/tumatu2.htm)に、「五十猛命は別名大屋毘古命で、その正妻が大屋都姫命、二位の后が都麻津姫命との解釈もある。」とありますね。
そして、「事代主=一言主=イタテ=イタケ=五十猛」と「イヤヒコ=天のカゴヤマ」もイコールになる、と。(http://www.dai3gen.net/itate2.htm)
でも、「先代旧事本紀」から、大屋津媛=穂屋姫ならカゴヤマ=ニギハヤヒとなるだろうけど、「カゴヤマはニギハヤヒと天道日女の子」とは異なることになる・・・って、「大国主命」でもよく見た矛盾のようで。
で、「大屋都姫命」「抓津姫命」を見た時に、「呉服神社」を思い出したのは何故だろう?
「葛木坐火雷神社」の境内社「梅室神社」と、「呉服神社」の説明版にある「伊居太神社(上の宮)の梅室」に、繋がるものがあるような、そして「葛木坐火雷神社」の境内社「浅間神社」がどこかで繋がりが見られそうな・・・。
って、推測を通り越して勘だけで書いてるようで、もう少し調べてみないと、と・・・中途半端でごめんなちゃい。
●2007.05.06(Sun.)・・・鏡池 |
一昨日の「鏡池」が気になってて、確か貝塚市の「水間寺」の「行基堂」のところにあったよなぁ、とか、和泉市の「聖神社」にもあったっけ、とか考えてて。
で、検索してみると、戸隠の「鏡池」がほとんどで、それを何気なく見てて「戸隠神社」のホームページに辿りついた。(http://www.togakushi-jinja.jp/)
そこに「戸隠昔語り」があり、「三本杉の話」の図を見て「これって・・・」と。中社の鳥居を挟むようにY字の参道らしきものがあり、そこに正三角形に配置された杉が。
「ダビデの星」ですよね、これって。その真ん中に中社の鳥居。はて、何を言わんとしているのか・・・。で、次のお話が「流された美女 呉羽」ってことで、はぁ?と。
「会津に生まれた美女」とあるが・・・。5つめの「かまど池の話」も気になる、というか、どれも繋がりがありそうな・・・。「鏡池」の近くにあるという「天命稲荷」も気になってるんだけど、詳しく書かれてないんですね・・・。
あと、「鏡池」で出てきたのが「出羽」。「御手洗池」が本当(?)の名らしいが、「出羽」ということで何かありそうな、と。
あ、「伝説松山鏡 鏡が池」というのがあった。(http://www5.ocn.ne.jp/~sh00/matuyamakagami/matuyamakagami.htm)
松之山町ってどこ?と思ってたら、
松之山町(まつのやままち)は、新潟県の南西にあった東頸城郡の東端に位置していた町である。2005年4月1日に十日町市および東頸城郡松代町、中魚沼郡川西町・中里村と合併し新設の十日町市となったため消滅した。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B9%8B%E5%B1%B1%E7%94%BA) |
とのことで。「大伴家持」は藤原広嗣の乱の際、「聖武天皇」の伊勢行幸に随行してる。で、「頸城」っていうと、「日本霊異記」に行基の出身地としている場所・・・うーん。
愛知県津島市に「鏡池山 瑞泉寺」があり、「牛頭天王降臨ましまして御影は池水に移らせ玉ふ。」と。
(http://www.d1.dion.ne.jp/~22ito/page035.html)
ん?何でこんな後の方に出てくる?もっと早くてもいいはず・・・と思ったのが、「東大寺」の「鏡池」(http://urano.org/kankou/toudaiji/todaiji2.htm)
そして「法隆寺」の「聖霊院」の南には「鏡池」が。(http://urano.org/kankou/ikaruga/west.htm)
土佐市高岡町にある行基開基の真言寺院「医王山 鏡池院 清滝寺」・・・行基が本尊薬師如来を刻んで開基とされているということは、「鏡池」があった、ということだろうか。
(http://ko-pri.com/88/kochi/35/35_kiyotakiji.htm)
あ、空海なのね。(http://www.fmkagawa.co.jp/yomu/88/88-35.htm)
毎度の横道になるけど、最近「仁」のつく地名とかをよく目にする。上記URLの「仁淀川」もそうだが、「仁比山」(佐賀)、「仁井田」(高知・岩本寺)、「島根県仁多郡仁多町」など、行基か空海がらみってのが気になるわけで。
「丹」が「仁」になったとか?
「鏡池」に戻るが、群馬県草津町の「白根山」に「鏡池」があるとか。
(http://www.fsci.ne.jp/members/okumura/16nenn/kusatusirane4-10-5.htm)
うーん、愛知県知多市や小牧市の町名に「鏡池」があり、千種区には「鏡池通り」があるそうで。
で、霊峰富士の湧水が湧き出す8つの湧水池「忍野八海」の1つが、山梨県南都留郡忍野村忍草にある「鏡池」で、「麻那斯竜王」が祀られているそうで。(http://www.asahi-net.or.jp/~cv9t-sum/fly4_4.htm)
(忍野八海:http://erc2.suiri.tsukuba.ac.jp/~tyam/exc2005yamanakako/gallery/oshino.htm)
ほぅ、「厳島神社」には「鏡池秋月」があるんですね。
(http://www.hiroshima-cdas.or.jp/home/okazaki/jpn/guide/jinjya.html)
「銀閣寺」には「錦鏡池」があるそうで、「義政と世阿弥の指導によって作成されたとされる庭園」ということで、ちょい気になる。
(http://user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~g550420/ginkaku.html)
奈良・田原本町の「鏡作坐天照御魂神社」に「鏡池」がある(あった?)そうで、御由緒が興味深い。
社伝によると、「崇神天皇六年九月三日、この地において日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。本社は其の(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ。」とあり、ご祭神は鏡作三所大明神として称えられていた。 御祭神:天照国照彦火明命・石凝姥命・天糠戸命 (http://www.genbu.net/data/yamato/kagami1_title.htm) (田原本町に伝わる昔話: http://www.town.tawaramoto.nara.jp/03_sightseeing/story/legend_10.html) |
ということで、「鏡池」検索結果約64,900件中200件目でリタイアしたが、なーんか面白くなってきた、というか、ますますややこしくなってきた、というか。
さて、これからどう調べたら繋がっていくのやら・・・。
田原本町の近くに「唐古・鍵遺跡」があり、「秦庄」という地名がある。ということで検索してみたら、そこに行基ゆかりの「安養寺」があった。
(http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2003_04_10.htm)
やはり行基の足跡には、何かあるように思いながら、上記URLの「Don Pancho」さんのホームページを拝見していると、「大山阿夫利神社」「大山寺」もあった。そこには見事な「宝筐印塔」が。
(http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2007_01_01.htm)
あと、気になったのが、「子の権現・天龍寺」。「子の権現がこの地に十一面観音像を祀って天龍寺を創建したのが始まりである」とされており、子の聖は「能除太子の徳を慕って諸国をまわり・・・」とのことで、これまた何かありそうだな、と。ここではとりあえず覚え書きということで。
(http://homepage3.nifty.com/youzantei/mitisirube/nenogongen.html)
というのも、「鍵・唐子遺跡」の検索から別のブラウザで「鍵の蛇巻き・今里の蛇巻き」というのを開いたままだったので。すると先日拝見した「とんでもとらべる」さんのサイトのリンクがあった。
(http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/event/tawaramoto-jyamaki-01.htm)
やはり詳しく書かれていた。で、「今里の蛇巻き」の最後のページに書かれているように、「ここでは、なにか出雲だけでなく、高木神、高皇産霊神の神さまに、合体されちゃったような気がしないでもないですね。」と私も思った。
そう、片方の蛇が「瀬織津姫」、もう片方が「大物主命」に思え、一対神による雨乞いのお祭りのような・・・。
で、こちらにも「唐子・鍵遺跡」のページがあったので拝見して・・・「沼名川=姫川」とあったことから、ふと「沼河比売」も「瀬織津姫」かも、と。そうすると、大物主命=大国主命となるが。
かつて、「沼河比売」は「神功皇后」かと思ってたことがあって・・・。
(http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/burial-mound/karako-kagi-iseki-07.htm)
あ、「秦庄」に秦氏ゆかりの真言寺院「秦楽寺」があるようで。千手観音がご本尊で、聖徳太子・秦河勝が脇侍ですか・・・。
(http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/jinrakuji-temple-01.htm)
聖天さんが祀られ、そして庚申さん。池があってそこに十三石塔も。「円満井」のことも書かれてますが、これで吹田の行基ゆかりのお寺と、秦氏の繋がりもおわかりいただけるかな、と。
で、境内に春日神社があるそうで、そこでのご説明になるほど〜、と。
うーん、磯城郡川西町の「糸井神社」を拝見してると、「綾羽」「呉羽」が出てきた。あ、「世阿弥」も、ですね。(http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/itoi-shrine01.htm)
宇陀郡榛原町の「墨坂神社」(http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/sumisaka-shrine05.htm)に、「山の神 大山祇神社」があるそうで、「小さな祠の裏には、塀越しにバッテン印のような注連縄が貼られていました。」と書かれていて、「大山阿夫利神社」の御祭神と同じだし、ひょっとしてそれって隠しクロス(?)かな、なーんて・・・。
で、境内の池にある祠の1つは、「鏡」から「ニギハヤヒ」、もう1つは「磐」から「瀬織津姫」かな、と。
今まで調べたことがなかった・・・聖武天皇陵の封土が「五角形」で、光明皇后の陵は「六角形」だそうで、書かれているように五芒星+六芒星・・・ということは、やはり繋がるのか・・・。
(http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/burial-mound/45-syoumu-02.htm)
で、もう1つ別に開いていたブラウザが斑鳩の「法輪寺」(http://www1.kcn.ne.jp/~horinji/gaiyou/gaiyouframe.html)で、沿革に「三井(みい)の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地にお移しになったところから起こったと伝えています。」とあり、滋賀の「三井寺」との関連や、どこの井戸を移してきたのかを探してみた。
が、今のところわからず・・・。
で、また別のブラウザを開いたのが、ちょくちょく拝見する「塔婆」に関するサイトの「神仏分離」のページ。
(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sinbutubunri.htm)
「星田妙見」のご神体が「織姫石」あるいは「妙見石」のようで、御祭神には「造化三神」の3柱が書かれていた。また、但馬・八鹿の「名草神社」についてもその御祭神のことにふれておられ、なるほど、と。
(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken44_4.htm)
そこからまた別のブラウザで「但馬妙見 日光院」さんに。「すり替えの歴史」が興味深いですね。余談だけど、養父市には行基ゆかりのお寺が3社あり、そのうち2社が「行基菩薩」記載のお寺で、そのうちの1社が八鹿町にあって。
(http://www.fureai-net.tv/myoukensan/page102.html)
と、更新ほったらかしで、しかも見たまま思ったままを書き連ねているだけとなってしまった・・・まとめる能力が乏しい結果なわけで、まことに申し訳なく思っております、はい。
●2007.05.07(Mon.) |
神奈備さんの掲示板によりますと、
浦嶋子は住吉の地で姫神である豊受大神を祭っていたのですが、これが神功皇后に置き換わってしまったということ。 (http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/kambbs.cgi) |
とのことで、「豊受大神」は「金星」とされるのに相応しい神・・・わたしゃてっきり朝廷の策にハマった、ってなとこでしょうね。ま、おつむが弱い証拠とも言えますが。
「滝原宮から内宮へ天照大神が遷座」・・・ということは、「滝原宮」が「瀬織津姫」だとしたら、その座を奪ったことになるようだけど、「天照大神」は「火明命」が元の神だと言われている・・・のが、すりかえられた部分ってことのようで。
カップルでお伊勢さんにお参りすると別れるって言われてるけど、さもありなんってことで、今の世の中「いじめ」が問題になるの、当然じゃないかと思えるんだが・・・。
今日もまた、午前中は検索三昧だったんだけど、ちーと頭を休めた方がいいかな、と。
そもそもデキの悪い頭なんだから、一気にあれこれまとめられるわけがない。って、開き直ってるんじゃないんだけど、読み直して全体的に見てみないといけないかな、と。
で、リンクが1つもないってのも何ですので、「ひふみ便り」さんのサイトの「天皇」を。
(http://hifumi.sakura.ne.jp/sumeramikoto.html)
今まで参考にさせていただいたサイトの方々は、「何か」に気付いておられるように思うんですね、私の場合だと行基を追って「何かある」と感じたのと同じような・・・。
いや、私は他の方々のようには、まともなことが書けずにいるわけだから、同じと表現するのは申し訳ないんだけど。
ということで、行基の足跡には何かあるんだと強く思うようになり、行基を追った空海・最澄やその他の人々も、その何かを知っていたのではないかと思い、さらに各方面のサイトを拝見して学ばさせていただきたいな、と。
が、その前に、メモ帳を開くと、まだ書いてなかったことがあったので・・・。
「泊瀬」が気になってたですわ、「崇峻天皇」は「泊瀬部天皇」(長谷部の若雀(わかささぎ)天皇)ということもあり、また桜井市初瀬にある「長谷寺」で、行基が導師として本尊の開眼供養を行ったとされているので。
また、第25代「武烈天皇」は「小泊瀬稚鷦鷯尊(おばつせわかさざきのみこと)」(古事記では小長谷若雀命)とされていて、名前が似すぎているのが気になってたわけで。
すると「調月の歴史」さんのサイトに辿りついた。(http://syamashita.bne.jp/)
うーん・・・そうかも、と思うところもあり、そうかな?とも思ったりして、またわからなくなってきたような。ただ、記紀の中で同じ人物を幾人かに分けて書いたりしてるように思うので、架空の人物だと言い切れないような気がして・・・。
つまり、探しきれなかったわけだが、行基の足跡には「何かある」ことを信じて調べていきたいな、と。
●2007.05.09(Wed.)・・・長谷寺について |
5日に「仁」のつく地名とかをよく目にするって書いたけど、今日もみつけた。福島県岩瀬郡鏡石町に「仁井田双式来迎三尊図像磨崖板碑」というのがあるらしい。また、「鏡沼」もあるようで。
いずれも史跡だそうだが、前者は約650年前の2組の阿弥陀如来像、後者は鎌倉時代のお話らしいので、先日調べてたことに繋がるかどうかは不明で。
(http://www.town.kagamiishi.fukushima.jp/sogo/niita.html)
で、ちょい疑問。「口伝」って覚えていられるものだろうか?
祭文のように、毎日、あるいは一定の間隔(?)で唱えるなら覚えられるだろうけど、寿命のなが〜い天皇の、なが〜い諡号や宮の場所、陵の地など、本当に全て覚えていた人がいたのだろうか?
ってことで、飛鳥以前は重複、年数の水増しがまずややこしくしているんだな、と。今頃そんなこと言ってるの?って言われるかもしれないけど、一応書いておこうと思って。
で、気になったのが、一昨日書いてた「長谷寺」。検索はしばらくお休みしようと思ったけど、そうもいかなかった。
いやはや。
「新長谷寺」を含めて、行基ゆかりのお寺は13社、その他5社、「長谷寺」という寺名ではないが、行基ゆかりで「長谷寺」と繋がりがありそうなお寺が9社。以下、長いです。(苦笑)
●「行基菩薩」記載の長谷寺・新長谷寺
・槙牧山 平等院 長谷寺(槙寺・長谷禅寺) 高知県香南市夜須町羽尾 臨済宗妙心寺派の末寺で、本尊は十一面観音。伝説によれば、神亀四年(727)行基によって開かれ、はじめ物部村中津尾にあり、のち芸西村に移り、さらに現在地に移転してきたものといわれ、とも高知市五台山の吸江寺に属していました。 (行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院) (http://www.kochinet.ed.jp/yasu-t/bunkazai/bm_haoc.htm) |
・新長谷寺 四国中央市寒川町 西暦714年、西国第八番の長谷寺(奈良県桜井市)の本尊を造刻するにあたり、試みに造られた6尺2分の十一面観世音菩薩がこの寺の本尊です。 (行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院) (http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/9808/hasedera/) |
・長谷寺 兵庫県城崎郡香住町無南垣 聖武天皇の勅願により行基が開創し、大和長谷寺観音と同木異体の聖観音を作って本尊とした。もと安国寺とされている。 (行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院) |
・飯上山 長谷寺(飯山観音) 神奈川県厚木市飯山 高野山真言宗。本尊は十一面観音。縁起が2つあり、1つは神亀2年(725)に巡錫中の行基が観音像を刻み、胎内に泉の観音に入っていただいて寺院を設けて祀ったとされており、もう1つは810年ころに旅僧が、大和長谷寺の仏材で行基が刻んだ観音像をもたらしたとされている。建久年間(1190〜99)に、源頼朝が堂宇を造営させたのが始まりと伝えられる。 (行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院) (http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/reikenki/bando/reijo06.html) |
・光海山 長谷寺(長谷観音) 神奈川県鎌倉市長谷 寺伝によれば、天平8年(736年)、大和の長谷寺の開基でもある徳道上人を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。すなわち、養老5年(721年)に徳道は楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体(本)を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう1体(末)を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされる。 (行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院) (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%AF%BA_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82)) |
・根越山 長谷寺 静岡県熱海市網代542 行基が伊豆を行脚中(668〜749)、網代の屏風ヶ岩で修行中に、付近に漂着した木が、大和の長谷観音の末木の霊木と知り、観音像を彫り洞窟の中に安置し、里人たちが末永く、信奉しこの洞窟を、観音堂、観音山、と言うようになった、1521(大永元年)善修院の僧、大祝宗興が現在地に移した。 (行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院) (http://yuzuho0118.hp.infoseek.co.jp/no26tyoukokuji.html) |
・亀甲山 長谷寺 福岡県鞍手郡鞍手町長谷 行基が開基。木造十一面観音立像は平安期の仏像で、また行基の作とも伝えられる。元正天皇の養老5年(721)、僧行基は木曽の山中で一本の楠の霊木から三体の像を彫ったという。一体は大和長谷寺、また一体を鎌倉長谷寺に、そしてもう一体は鞍手の長谷寺に納められた。 (行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院) (http://jns.ixla.jp/users/iwamiya966/topics2_002.htm) |
・長谷寺 熊本市春日町 (行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院) |
●行基ゆかりとされる長谷寺
・長谷寺 奈良県桜井市初瀬 天武天皇の勅により道明が開基、のちに行基を導師として本尊の開眼供養を行う。 自然石の磐座の上に高さ約8mの十一面観音が本尊としてお立ちになっている |
・長谷寺(白岩観音) 群馬県群馬郡榛名町白岩 「坂東霊場記」では、郷士の高崎氏が42歳の厄年に悩んでいたところに訪れた行基が、 役行者の修行した跡地に生えていた柳の木で、大和初瀬の十一面観音を模した尊像を 作って与えたとされている。 (http://www.bandou.gr.jp/15.htm) |
・菩提山 長谷寺(ちょうこくじ) 山梨県笛吹市春日居町 養老6年(722)、行基によって創設されたと云われる真言密教の寺院で、別名女人高野とも呼ばれ、盛んな時期には僧坊千坊といわれたほど数多くの修行僧がいた。本尊は十一面観世音菩薩で、脇土は不動明王と毘沙門天。 (http://www.eps4.comlink.ne.jp/~kumagai/kasugai/tyoukokuji/tyokoku.htm) |
・八田山 長谷寺 山梨県南アルプス市榎原 真言宗智山派。本尊は十一面観音。 行基が8世紀の天平年間に大和の長谷寺を模して建立したと伝えられ、空海が開創したという。 (http://www.minamialps-net.jp/data/article/873.html) |
・浦岳山 長谷寺(ちょうこくじ) 静岡県下田市田牛 もとは昌善寺と言い、行基の創設による真言宗の古寺であったと伝えられる。 (http://www.izu.co.jp/~p-boo/chokokuji.html) |
●奈良・長谷寺と関連する伝承のあるお寺等
・吉田山 新長谷寺(しんちょうこくじ・吉田観音) 岐阜県関市長谷寺町 本尊:十一面観世音菩薩。開山:護忍上人。 貞応元年(1232)に護忍上人が人々の救世利益を願い、大和初瀬の長谷寺に参籠し修行されていたとき、夢に観音様が示現されて瑞麗な尊像を置き去ったので、護忍上人はこの観音様の霊力によって広大な寺領に七堂伽藍と子院16坊を建立されたことに始まる。 (http://www.kotobuki-p.co.jp/kensaku/data/12si36.htm) |
・目白不動尊(金乗院の境内に金乗院と目白不動堂がある) 神霊山 金乗院(こんじょういん)慈眼寺(旧 真言宗 東豊山(とうぶさん)新長谷寺) 豊島区高田2−12−39 金乗院御本尊は聖観世音菩薩。 文京区関口駒井町にあったが、昭和20年5月25日の戦災にて焼失したため、金乗院に合併し、本尊目白不動明王を金乗院に移した。新長谷寺は奈良県桜井市真言宗豊山派総本山長谷寺末。 (http://www.asahi-net.or.jp/~HM9K-AJM/musasinorekisi/gosikifudoutomusasino/mejirofudou/mejirofudou.htm) |
・丹生山 近長谷寺(きんちょうこくじ) 三重県多気町長谷202 真言宗山階派に属し、丹生山近長谷寺と称して、仁和元年(885)伊勢の国の豪族「飯高宿禰諸氏」が、人皇五八代光孝天皇の勅願所として、内外近親等に勧進して建立されたものである。飯高氏は奈良時代、四代の天皇(元正聖武淳仁孝謙)に仕えた妥女「飯高諸高」を送り出した豪族で、諸高は、性甚謙謹・志慕貞潔・典従三位を賜り、宝亀八年(777)八十歳で奈保山に葬られるまで、多気郡勢和村丹生から産出する「水銀」で富を築き上げた。(続日本記より)御本尊十一面観音は、奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺とともに「日本三観音(三体の仏像を一本の樟から造られたものと伝えられている)」のひとつとして広く知られ、全国に二百ヶ寺以上あるといわれる大和長谷型観音に属するもので、なかでも右手に錫杖を添える姿は、日本唯一のものである。 (http://www.ma.mctv.ne.jp/~jr2uat/temple/hase.htm) |
・近田山 長谷寺 三重県津市片田町長谷 当山は文武天皇の時代(大宝年間)徳道上人が身の丈二丈六尺(約7.9m)の十一面観世音菩薩三体を彫刻させ、その内の一体を当寺の御本尊として安置し、以来国家鎮護の勅願所となりました。 (当寺十一面観世音菩薩縁起、奥院縁起による) また、大和の長谷寺を模したものとして多気郡多気町にある真言宗山階派の近長谷寺に対し遠長谷寺とも呼ばれております。もともとは真言宗であったが現在は臨済宗相国寺派に属しております。 (http://www.chokoku-ji.com/) |
・松涼山 善福院(ゆきぬけ寺) 三重県上野市寺町1176 真言宗豊山派。徳道上人開基、本尊は大和長谷寺と同木同作で長谷試みの観音とよばれる。 (http://jr2uat.net/space/press2003/hotnewsT.htm) |
・吉田山 新長谷寺(真如堂) 京都市左京区浄土寺真如町82 陽成天皇の時代(877〜884)、越前守藤原高房が子供を伴っての西国赴任のおり、漁師が海亀を捕まえようとしているところに出会い、高房はその海亀を助けてやりました。翌朝、船は出帆しましたが海は荒れ高房の子供は海に落ち、もはや諦めていたところ、子供は前日に助けた海亀に助けられたのでした。 (http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/sinhase.html) |
・総持寺 大阪府茨木市総持寺1丁目 吉田山 新長谷寺(真如堂)の御縁起の一部(詳細は下記URLをご覧ください) 造仏を初めてより千日目の早朝、「長谷の観音様はどちらに」と声が聞こえると仏舎より「行基菩薩よ、今帰るところよ」との答えがあり童子は空に飛び立ちました。山蔭卿が急いで仏舎に駆けつけると、千日間の食事を御供えされた千手観音様が亀の座に立った御姿で、お奉りされていました。」 (http://www.sojiji.or.jp/cnt_info2.html) |
・正法寺 山形県東村山郡中山町 本尊の千手観音は大和長谷寺の観音と同木の白檀香木をもって彫刻され、雨乞い観音として、有名である。このいわれは、行基菩薩がこの地を訪れた時、あまりにも激しいかんばつに見舞われていたので、農民は行基菩薩に雨乞いを願った。行基菩薩はこの請いをいれて観音の前で誦経祈念したところ、一点にわかにかき曇って大雨がふったという。 (行基とみちのくの古寺:http://www.asahi-net.or.jp/~YU5K-HKC/denrai4.html) |
・長登寺(長登観音) 山形県西村山郡西川町睦合 本尊十一面観音は行基菩薩の作と伝える。かつて、行基菩薩が禅念を修行しているとき、十一面観音が忽然とあらわれ、「我が真体を図像にして結縁せよ」と告げた。そこで、たまたま紀州那智の浦に浮び出た都かや榧の大木をもって観音像を四体刻んだ。その四体を山城国宇治・和泉国高市・上野国長谷寺、およびこの地羽州長登の四所にそれぞれ安置した。 (行基とみちのくの古寺:http://www.asahi-net.or.jp/~YU5K-HKC/denrai4.html) |
「きのさき」という名は、どのようにして生まれたのか。温泉寺本尊の十一面観音像が長谷寺(奈良県)の本尊と同材、同作で、同じ材木のうち木の先の部分で作られたため「きのさき」となった−という駄洒落めいた話もある。 (http://kinosaki.co.jp/kinosakifaq.htm) |
●その他の長谷寺・新長谷寺
・太光山 新長谷寺 (八町観音) 茨城県結城郡八千代町八町149 御本尊の十一面観世音菩薩は運慶作の日本三大長谷観音のひとつに数えられ、安産、子育て、厄除けなどの御利益がある。 (http://bany.bz/qukai/entry_21552.php) |
・長谷観音 茨城県古河市長谷町5-1 足利氏の一族によって建立された寺。日本三大観音のひとつとされている。鎌倉の長谷観音から勧請したといわれる全長約2mの十一面観音が、本堂に安置されている。 (http://travel.nifty.com/cs/catalog/travel_595/catalog_8000137_1.htm) |
・写清山 新長谷寺 神戸市西区櫨谷町友清字畑田東 天台宗。本尊は十一面観音菩薩。 (http://www.city.kobe.jp/cityoffice/89/marugoto/shigen/hasetani28.html) |
・宇治山 長谷寺 福島県いわき市常磐上湯長谷町堀之内 大同2年(807)に法相宗の高僧、徳一大師さまによってお観音さまを本尊として開かれました。 (http://www5.ocn.ne.jp/~hasedera/rekisi.htm) |
・真田山 長谷寺(しんでんざんちょうこくじ) 長野県小県郡真田町大字長小字旗見原 曹洞宗。天文16年(1547)に真田幸隆公が上州(群馬県安中市上後閑)の長源寺より『伝為晃運 大和尚』を招し一宇を建立し「真田山 種月院 長谷寺」と号したのが最初になります。 (http://www.chouk.or.jp/info/enkaku.htm) |
はて、これはどういうことでしょうかね。何を言わんとしているのだろうか・・・行基にとって「大和初瀬」は特別な地のようであり、「十一面観音」に対する造詣が深い、というか何というか。
それに対してそれぞれの「長谷寺」は、賛同しているような感じがしなくもないなと、またしても推測のような勘のような言葉になってしまうんだが。
もう1つ付け加えるなら、怪僧天海はやはり何かを知ってて五色不動を祀った?先日見落としてましたよ、「目白不動尊」が奈良の「長谷寺」を意識していた(?)ということを・・・。
いや、奈良の「長谷寺」を意識して「十一面観音」を御本尊としているお寺は、行基の意図(?)を汲んでハッキリした意思表示をしていたのかも、と。ま、それが何らかの形で示されれば、いろいろ繋がりがわかるんだろうけど・・・。
って、実は福岡の「長谷寺」から、「竈門神社」が気になってしまってたりするという・・・。
社伝によると天智3年大宰府の鬼門(北東)に八百万神が祀られたのが始まりといわれています。延喜3年山頂の上宮を遷して、玉依姫、八幡神、神功皇后を祀る式内社、竈門神社が創建された。 (http://jns.ixla.jp/users/iwamiya966/yukemuri2_005.htm) |
何で「竈門神社」に祀られているのがこのお3方(?)なのか。天智3年・・・その4年後には諸兄のじーちゃん「栗隈王」が筑紫率に任命されて赴いてる。なーんかありそうだな、と。長崎には「栗隈王」に関する伝説があるそうだし。
あと、「681年(天武天皇11年)川島皇子らと「帝記」及び上古における事柄の記録・校定に従事した。」と、ウィキペディアに書かれていたが、「川島皇子」の家系、父:天智天皇、母:忍海造色夫古娘(父:忍海造小竜)、妹:大江皇女(夫:天武天皇)・泉皇女(伊勢斎王)というのも気になるあたりで。
忍海造色夫古娘についても、忍海造小竜についても、詳しくは調べられなかったし、「忍海」の読み方が違うみたいなので、飯豊さんとの関係は把握できないんだけど・・・。
あ、「かぐや姫」?
『日本書紀』に葛城襲津彦が新羅草羅城から連れ帰った捕虜が忍海に住み、その裔が忍海造大国と記す。 (http://www.rinku.zaq.ne.jp/kodaibunka/kako/den1_1.html) 月の都については、中国古典に「月は原初の水、雨を齎し植生を養成、月の周期的再生は水の受動性と女性の生産性に気吹もの」と、神女の玉依による豊穣祭祀を伝えるが、これに関連して翁伝承地の巣山古墳から水辺祭祀跡が出土している。 |
と。葛城襲津彦の娘・磐之媛の孫が「飯豊青命」とされてた、新庄町忍海の「角刺神社」で。その後の文章も気になって引用させていただいたけど、頭がオーバーヒートしそう。もう1回じっくり拝見せねば。
諸兄の妹とされる「光明皇后」、こちらでは「国分寺の高僧と鹿の間に生まれた女児」とされていて、不比等の養女となったとされてたりするわけで。
ま、「式家」の「宇合」も、香川の「志度寺」だったかな?の伝説になってる海女が母親だとされてたような・・・。
あ、もう1つ、福岡の「長谷寺」「竈門神社」を拝見させていただいたサイトに、「桜井神社」があった。御祭神が「与止姫」で、「桜井大神宮」には「与止姫大明神の御神託で建立され、伊勢皇大明神の分神が祭られている。」そうで。
(http://jns.ixla.jp/users/iwamiya966/topics4_006.htm)
(http://sunset.waveact.com/sakurai.html)
造営した「黒田忠之」は、ウィキペディアによると「黒田官兵衛の孫」だそうだが、「黒田官兵衛」って、たしかキリシタンでしたよね・・・。
おなじみ「京都競馬場」最寄駅の京阪淀駅横に、「與杼神社」がある。
御由緒によると、「僧の千観内供が第六十二代村上天皇の御代の応和年間(961〜963)に、肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村鎮座の与止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとあるが、延喜式(927)第九巻「山城国乙訓郡」中に、すでに與杼神社の名が見える処から推して、創祀は応和年間より以前と考えらる」とのことで。
だが、御祭神は速秋津姫命(左)・豊玉姫命(中央)・高皇産霊神(右)となっていた。
となりの「淀城跡」には「稲葉神社」があり、「稲葉正成」が祀られているようだが、小早川氏の家臣でしたっけ?小早川氏もキリシタンだったような。で、伏見区のそのあたりって、秦氏のテリトリーだったような・・・。
で、「桜井神社」って堺市にもあるんですよ。国宝に指定されているそうで。
創建は遠い悠久の昔で祭神は定かではありませんが、平安時代の法令集「延喜式」に記述の見える由緒ある古社で、日本最大の須恵器産地として知られるこの辺りに、須恵器作りの技術を伝えた桜井氏の祖先を祀ったのが起源といわれています。推古天皇五年(597)に八幡宮を合祀し、上神谷(にわだに)八幡宮とも言われるようになり、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を奉斎しました。中世に至るまで、神仏 習合の霊場として隆盛を極めましたが、1577年織田信長の兵火にあい、拝殿と本殿を除いて消失しました。その拝殿は、鎌倉時代前期の建物で「割拝殿(わりはいでん)」と呼ばれる様式で、日本にはここを含め2ヶ所が国宝に指定されています。 (http://www.semboku.jp/ensen/1-08sakurai.html) |
はて、どこでどう繋がっていくのか、それとも全く無関係なのか・・・。
で、京都・淀の「與杼神社」は佐賀郡大和町の「与止日女神社」を勧請した、とのことだったが、「与止日女神社」では與止日女命=神功皇后の妹=豊玉姫命=竜宮城の乙姫様と伝えられているそうで。
ほかの御祭神の「速秋津姫命」は大祓えの神の1柱、「高皇産霊神」は高木神etc。
ってことは、やっぱり「瀬織津姫」「玉依姫」と繋がる?「豊受大神」は?竜宮城に連れて行っただけではないような気がするんだが・・・。で、堺の「桜井神社」の「割拝殿」ってなんだろ?って検索したら、「とんでもとらべる」さんのサイトに到着。
(http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/sounomiagata-mitugarasu02.htm)
「添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)」(奈良市三碓町)も昔は「割拝殿」だったそうで、「真ん中に通路がある拝殿」のことだそうで。うーん、「千鳥破風」って、見ようによっちゃクロスのような・・・。
こちらの御祭神、書かれているのを引用させていただくと、真ん中の祠が「八王子」「武乳速命」、南の祠が「牛頭天王」「建速須佐之男」、北の祠が「婆利采女」「櫛稲田姫之命」とのことで。
北の祠が「飯高諸高」の祖かなと思ったけど、「蛇の体を持つ奥方」ってことは、「瀬織津姫」かなぁ・・・。真ん中の祠の「武乳速命」は「ニギハヤヒ」?いや、ちゃうよなぁ・・・。
うーん、「根聖院」には宝篋印塔ありーの、いろんな石がありーので、様々な推測がふつふつと。
●2007.05.10(Thu.)・・・和泉市〜堺市の神社他 |
朝刊の「大和時空散歩」というコラムで、箸墓古墳のことが書かれていて、和田先生が「モモソヒメは第7代の孝霊天皇の皇女なので、崇神の姑とするのはおかしい。」とされているのを読んで嬉しく(?)なったのと、偶然茨城の「総持寺」の「包丁式」の記事があって、何かいいことありそうだな、と。
コースは、和泉市の「女鹿坂」バス停〜光明池〜和泉国分寺〜男乃宇刀神社〜阿弥陀寺〜春日神社〜堺市の桜井神社。「男乃宇刀神社」「春日神社」は偶然通りかかったついでにお参りして。ということで、
本日の小ネタ:テリトリー巡り?
阿弥陀寺の子授産神権現
(左:弁財天、右:産神権現)
槙尾山の山すそで、石段を登った阿弥陀寺本堂の裏あたり
桜井神社の幣殿横にあったキリシタン燈籠
和泉国分寺の創建と光明皇后の年代が合わないみたいだから、伝説が何を言わんとしているのか、よくわからないんだが、不比等のヨメとされる県犬養美千代の何かを隠そうとしてたのかなぁ。
だから諸兄も動いた?でも、岸和田の久米田寺近くに諸兄の墓があるとかっていうウワサ(?)もあるようだし、泉大津の泉穴師神社の「飯之山神事」には、諸兄も関係しているようなので、同族が和泉の国にいたのかも。
で、阿弥陀寺の御縁起によると、行基は槙尾山の滝で秘法を修したそうな。
行基ゆかりのお寺って、けっこう安産やら子授けをご利益としているところがあるが、「子授産神権現」は「山の神」に思え、「瀬織津姫」のように思われるのだが・・・。
奈良・山添村での「王塚」のように、カンハヤヒノミコトが、弁財天(美の神・水の神・智の神)と同一視されているように、阿弥陀寺でもそうなのかもしれないな、と。
あ、「塚」で思い出したけど、「桜井神社」に「亀塚」があるそうで、「福塚」とも言われているようで。御由緒に、
当社本殿の傍にあり、正八幡宮縁起に推古天皇五年八月八日亀乙と呼ぶ老翁現われ当社御神像を刻んで形亡せその跡に土を封じて亀塚と名づく。神仏混淆時代境内には神宮寺があり、山号は亀遊山である。 |
とのことで。「封じる」ってのはどういうことだろ?本殿の傍にあり、と書かれていたが、見当たらなかったような・・・。
で、「男乃宇刀神社」「春日神社」は偶然通りかかったと書いたけど、ほんと、行ってビックリでしたわ。どちらも「白山大神」が祀られていて。
「春日神社」では「その後、天児屋根命、比売妻大神を祀り・・・」とあったのには、なるほどなぁ、と。
それにしても、随分変わったんだなぁと、ビックリしたのもある。
横山高校には30年ほど前に、幼馴染に招待してもろて文化祭に行ったことがあるけど、な〜んにもないところで、ほんまにバスが通れるの?っていう、せま〜いクネクネ道だったのに、広くてきれいな道になって住宅があちこちに。
たった30年(?)で浦島子だった私・・・。
それにしても、子どもがほしくてもなかなかできない人が多いようで、4日の「浄願寺」には2組ほど子授け祈願に来られてて、昨日の阿弥陀寺では、祈祷の相談の電話がずっとかかってて、お寺の方も用事をされながら対応されてて。
祈願されたみなさんの願いが叶えられますように・・・。
●2007.05.11(Fri.) |
先日、「かぐや姫」?って書いたものの、しっかり読んでなかったんで詳しくかけなかったけど、じっくり読んでも書けない・・・情けねぇ。(伝承と古代文化の集い:http://www.rinku.zaq.ne.jp/kodaibunka/kako/den1_1.html)
勘(?)では関連ありそうな気がするんだけどね、今まで諸説あっても、あくまで「物語」として扱われているようで、そうなるとやはり推測の域を出ないわけで。
しかし、事情により「真実」をそのまま伝えられないのを、伝説・物語・謡曲等で残そうとされてたように思うのね。
だから、「竹取物語」のタイトル自体も、「竹は蛇と同一視」とされていることから推測すれば、「蛇」の所領を乗っ取る課程が語られている、という風にも捉えられるような。(とすると、かぐや姫は存在を抹消された?)
で、上記URLの第九章「天の羽ごろも」にあったのが、先日引用させていただいた「日本書紀」に書かれていたという、葛城襲津彦と忍海造大国のことで、物語では「頭中将高野大国」をさしているようで。
「中将」というと、忍海の「角刺神社」の「鏡池」には、「當麻寺の中将姫が曼荼羅を織るための蓮糸をこの池から採ったといわれています。」という伝承があるようで、繋がりを感じられるわけで。
となると、「中将姫伝説」も絡んでくる。(参照:http://ganjouji.web.infoseek.co.jp/chujou2.htm)
「長谷寺」「十一面観世音菩薩」が出てきてますね。で、「願成寺」には行基も泰澄も絡んでる。
そうそう、不比等がらみだと、「宮子」の伝説もありますね、「安珍・清姫」で有名な和歌山の「道成寺」に。「竹取物語」の車持の皇子も不比等ではないかという説もあり、「光明皇后」「房前」「宮子」も不比等がらみの伝説となるわけで。
やっぱり何かありそうに思うのだが・・・。
「光明池」「志度寺」に加え、「道成寺」にも行基の名が出てくるというのは、単なる偶然ではないよね・・・。
(http://www.geocities.jp/noharakamemushi/Koshaji/Nanki2/Doujouji.html)
うーん、大阪再発見さんのサイトを拝見したところ、ありますね〜五輪塔や宝篋印塔が。
(http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage461.htm)
ご参考までに、房前についての謡曲はこちら↓。「龍宮」が気になる・・・。
(http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkcwx505/Nohpage/NohSenryu/NohSenryu03.html)
「竹取物語」に戻りますが、「竹取物語の背景と物語の希求」の段に、
丹後「奈具社羽衣伝承」の竹姫は、伊勢外宮豊受大神(止由気比売)に由来して祭られる。更に竹取翁の里に所在する讃岐神社宗社、広瀬神社の水神屋船豊受大神に由縁する。讃岐神社祭神は讃岐伊能城命といい穀物神だが水神とは一対神。 |
神奈備さんの掲示板で書かれていることと繋がるように思え、そして「瀬織津姫」に繋がるのでは、と・・・。
「水神とは一対神」ということは「内宮」と「外宮」が一対神、つまり、「ニギハヤヒ」と「瀬織津姫」が一対神として祀られているのが本来の姿、ということですよね・・・。
あ、「房前についての謡曲」が志度寺に関する伝説なんですが、先日「房前」じゃなく「宇合」って書いてしまって。(すみません。)
しかし、「宇合」と行基が絡んでるお寺、たしかあったような、と検索したら、「海岸山 観音寺」がヒットしたが、なぜか「房総の万葉紀行」さんのサイトにハマって。(http://www.uzushio.net/wakaran/waka06.htm)
南房総市の「石堂寺(石堂観音)」と、宇合が常陸国守として赴任した時のことが同じところに書かれてたのでヒットしたようだが、そこに出てきた「高橋連虫麻呂」が気になった。
そして「やまとうた」さんのサイトに辿りついた。
(http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/musi_ta.html)
興味深い歌がいろいろと。「検税使大伴卿、筑波山に登る時の歌一首」は特にそうですね。あとは「水江(みづのえ)の浦の島子(しまこ)を詠む歌一首」。
【語釈】に、「日本書紀や丹後国風土記(釈日本紀所引)によれば丹後国となるが、掲出歌では摂津国住吉のあたりの入江ということになる。」とのことで、え!?と。
それがもしそうだったなら、他の歌もいろいろと参考になりそうだな、と。
●2007.05.12(Sat.)・・・不破内親王など |
印旛郡印旛村にある行基ゆかりの「医王院 松蟲寺」に、聖武天皇の娘(不破内親王)にまつわる伝説があり、検索すると「松虫寺の概要」というページがあったので、拝見させていただいて。
(http://www.chinjuh.mydns.jp/ohanasi/tanbou/0007.htm)
都に戻ったあと、いろいろあったようで、「旅の記録と歴史の記憶」さんのサイトに詳しく書かれていた。
(http://kenichsberg.hp.infoseek.co.jp/fuwa/fuwaprofile.html)
岸和田に不破内親王ゆかりの「淡路神社」があるということで、母・県犬養広刀自ひいては橘氏(諸兄)のテリトリーが、泉州にあったということを示すのだろうか、と。
「淡路神社」は、先日写真を撮りに行った光明皇后の伝説に因む「女鹿坂」から西に3キロほどのところで、行基ゆかりの「久米田池」から北東に1.5キロのところ。あとで出てくる「楠木神社」は、「久米田池」から西南西に1キロほど。
うーん、「菅原神社」がこのあたりに多いのは何でだろ?
話がそれてしまったが、「松虫寺の薬師堂の裏手の松虫姫御廟は、御遺言により分骨埋葬されたものと伝えている。」とのことで、ふと思い出したことが。
箕面・西江寺には、行基が行脚中に虫のなきがらを腰に下げた壷に拾い集め、虫塚を建てて供養したという伝説による「蟲塚」がある。
上記の不破内親王のことと繋がるのかどうか、今のところまだわかってないのだが、なーんか気になるわけで。「壷」という字の中に「クロス」があり、キリシタンとの繋がりがあるとされていることから、その方面に関することかも、とも。
で、不破内親王について書かれたサイトにあった「県犬養八重」が気になり、その夫「葛井広成」について調べてみたところ、「葛井寺」がヒットした。
(http://www.geocities.jp/noharakamemushi/Koshaji/Saigoku/Fujiidera.html)
聖武天皇が脱活乾漆造の千手観音の造像を命じ、行基菩薩を導師として、神亀2年(725)3月18日に開眼法要が行われた。このとき、勅使をつとめたのは藤原房前である。 大同元年(806)には阿保親王(平城天皇の皇子)が勅命で伽藍の整備をし、ついでその子の歌人、在原業平は奥の院を造営してしばらく住んでいたという。 |
とあった。「葛井寺」草創の頃、「広成が葛井氏の中心人物であった」とされており、その繋がりの中で、業平はやはり何かを知ったのではないかと思い、近々歌人の足跡を追うことになるのかも、と。
それにしても、行基の墓が今のことろ3つあるようだけど、他にもありそうな気が。
たった3人でほぼ全国は行けないのでは・・・「行基」の名をもって、全国に行かなきゃならない理由があったと思われるので、もっと多くの「行基」がいたように思うのだが。
不破内親王ゆかりとされる「淡路神社」を調べていて、「延喜式神社の調査」さんのサイトを拝見したところ、御祭神:菅原道真、『大日本史神祇志』水霊、『神名帳考証』大国御魂神、不破内親王とあった。
(http://www.geocities.jp/engishiki01/izumi/bun/iz050215-01.html)
不破内親王が淡路に配されたのち、
延暦14年さらに和泉に徒せられた折、淡路国津名郡の伊佐奈岐神社より勧請されたのが当社であるともいう。また、古事記の仁徳天皇の條文を引用して、楠本神社を木霊、淡路神社を水霊を祀るとする。 |
とのことで、それを「のりちゃんず」さんのサイトからも拝見することができた。
楠本神社 古老の伝説に依れば其の道真公を併祀したるは織田信長の時代なりとし、且来詣道なる畑の中にはもと鳥居ありて包近の捨鳥居と呼び白河法皇の宸筆の額を揚げたりしに、烈風暴雨の為牛滝川に吹き流され伊勢の白子里に上りて今も同所に存し其の額には白髪大明神と書せりと云ふ。旧祭神の詳ならざる為、神名帳考証には船玉神なりとし、神社覈録には古事記仁徳天皇の段に兎寸川之西有一高樹と見申る高樹は楠なるべく当社はその楠の本にありて木霊を祀り摩湯村の淡路神社は其の水霊ならんとし、大日本史も亦之と同様の説を記してゐる(大阪府全史記載文より) (http://www.norichan.jp/jinja/renai2/kusumotoizumi.htm) |
「白髪大明神」っていうと、「猿田彦大神」とされているが、私見では「高麗王若光」という名がどうも絡んでくるように思われ、「兎寸川之西有一高樹」は、高石市の「等乃伎神社」が思い出される。
で、境内社の「壷大神」が、キリシタンとの繋がりを思わせる・・・。
「楠本神社」の御祭神は楠本大神、菅原道眞になっていて、「菅原道眞」は後世併祀されたようで、「楠本大神」は合祀された「楠木正成」の祈願所だった村社「八幡宮」の御祀神の「品陀別命」と思われるのだが。
「木霊」とは、「延喜式内の神社」で北方字宮山に鎮座されてた頃からの御祭神を言うのだろうか?
のちに「河内の天野山に納めし」とのことで移されたようだが、村社「八幡宮」に楠木正成が寄附されたものがあったようなので、多少なりとも楠木正成との繋がりがみられ、キリシタンとの繋がりも考えうるわけで。
のりちゃんさんもその方面のことを書かれていて、なるほど、と。
しかし・・・「木霊」と「水霊」ということで、「瀬織津姫」のことを思い出すのだが・・・。
「船玉神」で思い出すのは、「住吉大社」の境内社(御祭神:天鳥船命・猿田彦命)だが・・・ん?「船玉神」が「木霊」?「等乃伎神社」で言うなら、たぶん「天御中主命」と思われ、それが「白髪大明神」ということに?
あ、「住吉大社」の「児安社」の御祭神が「興台産霊神」ですと?「児安社」は「子安社」とも書きますよね。先日書いた「子の権現」と繋がるのかな。「阿弥陀寺」の「産神権現」も。
うっ、胃痛が。続きは起きてから・・・できるかなぁ。
●2007.05.13(Sun.)・・・吹田市の行基ゆかりの地など |
昨日の「淡路神社」の検索では、神奈備さんのサイトの「伊射奈岐神社」に、「伊弉諾神、伊弉冉神を祭る神社」があり、その1社が「淡路神社」だった。(http://kamnavi.jp/en/settu/saidera.htm)
『神社明細帳』によると、雄略天皇二十二年、豊受大神が丹波国与謝郡真名井の原から豊受大神を伊勢国山田原へ遷座の際、 倭姫命の教えにより摂津国三島郷山田の原へ斎祭る伊射奈岐神社二座の一とされる。 (御祭神:伊射奈岐命、配祀:八幡大神、素盞嗚大神、摂社:大将軍社「天水分之神」、稲荷社「豊受姫神」) |
吹田市佐井寺・・・行基が中興した「佐井寺」の近くかと思われるので、また何かありそうな予感が。元は「山田寺」だったらしいし・・・。
検索すると、以下のように書かれていた。
佐井寺村(吹田市佐井寺二) 元禄寺社吟味帳に現れる、文献上は千里の愛宕社中最古のものの一つ。永らく山田寺の行基開基伝説と結びつけて「行基山」の名で知られた。また、東麓から「佐井の清水」が湧出していた。この山の西は、墓之谷と呼ばれ、現在まで続く村墓は谷の西側にあるが、谷の東側、行基山西麓は「元墓」とされ、多くの小石仏が出土した。古い信仰スポットであることが想像できる。 (http://homepage.mac.com/ryomasuda/Saigoku/history/KamiGami/Atago3.html) |
「山田寺の行基開基伝説」が気になったが、先に検索を続けると、「伊射奈岐神社」のことが出てきた。
伊射奈岐神社(大阪府吹田市佐井寺2) 伊射奈岐神を祀り、山田の姫宮に対する奥宮ともいわれる当神社は、元禄5(1692)の記録には「春日大明神 正八幡 牛頭天王」社とあって、山田寺(佐井寺)が神主の役目を勤めていたと記しています。 (http://www.suita.ed.jp/hak/bun/rekishi/bun_r5.html) |
「行基山」は御本尊(栴檀の十一面観音像)を掘り出した場所だそうで、これが「開基伝説」のようで、佐井寺境内にある「薬師堂」は、元は「伊射奈岐神社」が鎮座する場所にあったとか。
それにしても、「月輪板」「佐井の清水」「おかうずゐ池」など、気になることがいろいろと。
さらに検索してみたところ、
伊射奈岐神社(大阪府吹田市山田東2-3-1) 伊射奈岐大神の進まれた道筋には、淡路島の伊弉諾神宮、千里(当地と山田)の伊射奈岐神社、近江の多賀大社(伊邪那岐二神)があり、この三社の位地が直線上にあって、ほぼ中間に本神社があるのも不思議である。また阿波国の伊佐奈美神社も同一線上にある。 (http://www.geocities.jp/engisiki/settu/bun/st060511-01.html) (地図:http://homepage.mac.com/ryomasuda/Saigoku/history/Izanagi/ryakushi.html) |
とのことだった。
で、1187年に頼朝がこのあたりを寄進したことにより「八幡大神」が祀られ、1142年に藤原忠道が奈良の春日神社へ寄進したことにより、春日神社領となって春日明神を合わせ祀るようになった、とのことで。
織田信長が天照大御神、春日明神、八幡神、牛頭天王を祭る社は焼き討ちしなかったので、免れんがため伊射奈岐神を隠し、「伊射奈岐神社」が記録から消えたとも考えられる。 |
とされているあたり、興味深いな、と。
あ、興味深いで書き忘れてたことが。佐井寺の「おかうずゐ池」の北畔にあるという、江戸時代においても既に有名であったとされる石塔「五衰殿塔」について調べてみた。
一般に「熊野の本地」または「五衰殿」として知られる物語だそうで、「熊野権現の本生譚として、説教師や熊野比丘尼により口誦され、後には御伽草子として流布した」とのことで。
山中で斬首された五衰殿女御の遺体の乳房によって育った王子が、ラスト近くで母の首を所望した後、法力で母が生き返る系統の伝本もあれば、そうではなく熊野に飛来してから首を本尊として祀るという記述のものもある。 (http://homepage.mac.com/ryomasuda/Saigoku/history/Saidera/gosuiden.html) |
場所柄「名草戸畔」を思いだしたが、他にもいろいろ繋がりそうな話ですよね。「遺体の乳房」というと、房前の母が「海女」だったとする謡曲に通じるものがある、というように。
つまり、「山田寺の行基開基伝説」は、隠された神に光をあてようと掘り起こしたか、掘り起こしたということにして祀ったんだと思う・・・が、「薬師堂」を移転させて「伊射奈岐大神」を祀らなければ、現在まで残ってなかったのかも。
地中から掘り出したとされる「十一面観音像」「地蔵菩薩立像」と「薬師如来」、そして「五衰殿塔」は、信仰を受け継いできた人々が守り、伝えようとしてきたものと思うが、まだ推測でしか書けないわけで・・・。
「墓所の三昧聖を中心とした行基信仰の浸透」があり、「18世紀半ばの行基一千年忌」や「常光円満寺」の再興により、「佐井寺」も復興の兆しが見え、そして「春日明神が蛇体となって現れ」て再興を強く促し、一人の村民の宗教的体験から復興が成就した、とのことで、その背後には「三昧聖」が存在した、と。あるいは、「村外の真言僧あるいは真言系の修験者」が関係していたのではないか、と。
(http://homepage.mac.com/ryomasuda/Saigoku/history/Saidera/02.html)
こうして伝承が詳しく語られ、残されていくことを願うばかりです・・・。
●2007.05.14(Mon.)・・・貝塚・孝恩寺 |
本日の小ネタ:やはり?
メンヒル?
メンヒル?
燈籠?2m以上あったと思う。
「なんでもアルバム」の方にも写真を置いてますが、こうして他にも宝篋印塔・五輪塔があり、だんじり庫には「菊水」の紋が。六角形のお堂に、左から竜・花・雲と書かれた額のようなものが置いてあったけど、はて、何だったのか・・・。
ウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%81%A9%E5%AF%BA)から一部引用させていただいたけど、重要文化財が興味深い。特に阿弥陀三尊像。
境内の説明板にあった、「地方色豊かな19体の仏像群が重要文化財に指定され、安置されている。」というのも気になるところで。
しかし、あらかじめ電話連絡しないと拝見できないようで、温泉の帰りに寄っただけでは無理だった・・・。
●2007.05.16(Wed.)・・・法道寺、しほゆあみなど |
堺市内の行基ゆかりのお寺で、まだ行ってないところを調べようとしたら、「和泉の国再発見」さんのサイト(http://www2.pf-x.net/~izuminokuni/)にたどり着き、新たにゆかりのお寺・場所がわかった。
が、「和泉名所圖會」は江戸時代のものだから、そのあとのことを再度調べなおして、横道にそれて。
先日「櫻井神社」にお参りしてきたけど、実は1ヶ所行けなかったんですよ。「長谷寺」や「慈愍山 観音寺」で行基とともに名が出てきてた「法道上人」が気になってて、その法道上人の開創という「法道寺」が堺市内にあって。
「和泉名所圖會」には「法道寺」も載ってて、
国神社(名所図会には菅葺社また鎮守と記載されています。) 垂仁天皇8年、天照大神が鳳凰と化して襲峯(当地)に降臨し、同55年に鳳凰は千種の森に移り、ここに大鳥社を祀るという当社は大鳥神社の元社に該当するという。明治43年2月、延喜式内社桜井神社へ合祀された。 (http://www2.pf-x.net/~izuminokuni/modules/meishozue002/index.php/content0053.html) |
とのことで。「櫻井神社」の「幣殿」の右に石碑があり、式内 國神社:天照皇大神、熊野大神皇、山王大神、金峯大神、白山大神、とあった。
天照皇大神は「ニギハヤヒ」と思われ、それ以外は「瀬織津姫」に関連があるとされている神々・・・。
ひょっとして、天照皇大神=ニギハヤヒ=ヤマトタケル?応神天皇?豊玉彦命もそうかも?
で、もひとつ気になったのが、住吉大社・大鳥大社のお旅所の「大鳥井瀬神社」(御祭神:弟橘姫命)、「住吉神三韓を退治ありてこゝに還り、冑を蔵むる地」とされる「冑社」(かぶとの社)の旧蹟で、近くに「飯匙池」があるそうで。
宿院にあり。池の形、飯匙に似たるゆえ、名とす。地神四代彦炎出見尊は、塩津翁即すなわち、三村明神の功によって、海台に至り、豊玉妃と契をむすびたまいて、干珠満珠を聟(むこ)引出物に得給うとかや。海台より還給いて、干珠は、宿院此地に蔵め、満珠は、住吉の玉出嶋に蔵め給う。南は陽にて、干珠をこゝに納め、六月の御禊あり。北は陰にて、満珠を玉出嶋に納め、九月卅日に、神輿をわたし、両珠をすゝしめ奉る也。六月九月は陰陽の御禊という。 或説曰、干満の二珠は、紀州日前宮に蔵む。又、曰、肥前国佐賀郡、河上宮に蔵むという。[宇佐御託宣]に曰、双珠は八幡宮に在と云云。 (http://www2.pf-x.net/~izuminokuni/modules/meishozue001/index.php/content0019.html) |
が、気になるのは「或説曰、干満の二珠は、紀州日前宮に蔵む。又、曰、肥前国佐賀郡、河上宮に蔵むむという。[宇佐御託宣]に曰、双珠は八幡宮に在と云云。」。
「日前さん」といえば、とんでもニャ〜14の2007.03.14(Wed.)分などに書いたけど、「紀氏と秦氏は国懸神を氏神としているようで、同根だったと言える。これは宇佐神宮の辛島氏などとも同根。」と、神奈備さんのホームページに書かれていたことから、「紀州日前宮に蔵む。」と「八幡宮に在と云云。」は通じるものがあるかもしれない。
ということは、「肥前国佐賀郡、河上宮に蔵むという。」、つまり「与止日女神社」の御由緒にある、「御祭神 與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)」にも繋がる・・・ということを言わんとしているのかも。
ま、それはさておき、行基がらみでおもしろい話があった。
平安時代、「さかい」は「しほゆあみ」の名所でした。 「しほゆあみ」とは、体を海水に浸すのではなく、海水を沸かして入浴することです。それ以前、奈良時代に行基と言うお坊さんが、海辺に井戸を掘ったところ清らかな水が湧き出ました。この水を沸かして入浴しますと、どんな病気でも治ったそうです。この水には、塩分が含まれていたと思われます。 また、和歌山県の熊野神社の方から流れてきた海水が、大阪湾沿いに堺をとおり、大阪の住吉大社で今度は、逆に流れ、再度、堺に戻って来る、もどり湯という考えがあり、堺周辺の海水には、熊野と住吉さんの両方のご利益があると信じられていました。 この「しほゆあみ」(塩湯)が、病気を治してくれるというので、熊野まいりの人々によって、京の都に知れわたり、大勢の人が堺の浜までやってきました。 |
今でも1軒だけ「しほゆあみ」できるところがあるそうで、そちらのホームページを拝見したら、「マッドソープ」(死海の泥石鹸)を販売されていて、「死海はイスラエルにある海水湖。聖書の時代から皮膚病の治療薬に訪れる人が後をたちません。」とあった。行基はそのことを知っていたのだろうか・・・。(http://shioyu.hp.infoseek.co.jp/index.html)
●2007.05.20(Sun.)・・・空海・最澄など |
「長谷の鎮守」という行基草創の「甘縄神明神社」が、ちょい気になって調べてみたら、社容をととのえたという「染谷太郎時忠」、藤原氏らしいのね。で、藤原鎌足の玄孫で「良弁」の父とされていて。
じゃ、鷲にさらわれて、奈良の春日神社の杉の木に捨てられたところを「義淵」に拾われて育てられたという伝説は、何を言わんとしているんだろ、と。
で、行基と絡んで名前が出てくるうちのひとりである「徳一」も藤原氏で、藤原仲麻呂(恵美押勝)の子だそうな。不比等と蘇我氏のヨメに生まれた長子が武智麻呂(南家)で、その子が仲麻呂だったと思う。
藤原氏にもいろいろいる、ってことになるのかな。
系図がわからないんだけど、ひょっとしたら「染谷太郎時忠」も、武智麻呂(南家)か房前(北家)の裔になるのかな、と。
週明けの検索はこのあたりのことになるのか、それとも思いつきで別方向に行くのか、私自身わからなかったりするんだが・・・。
房前の孫に藤原小黒麻呂がいて、その妻の姉が北家の人で「最澄」の母だそうで。
小黒麻呂の子・葛野麻呂の妻が秦氏の出で、「最澄」の師の「近江国分寺」の大国師「行表」も秦氏の出で、行基・勤操・行教らと同様「大安寺」にいたことがある。
小黒麻呂なきあと、最澄のバックにいたうちのひとりが、和気清麻呂の子・広世。
「大安寺」は太子ゆかりの「熊凝精舎」がその草創で、長安の「西明寺」を模しており、のちに空海もいた。
「造東大寺長官」だった「佐伯今毛人」は大伴氏系だそうで、讃岐佐伯氏つまり空海の実家とは出自が異なるらしいが、中央佐伯氏の氏寺に空海は出入りしてたであろうとのことで、その氏寺は「大安寺」のとなりにあったそうで。
「佐伯今毛人」は、行基と同時期に東大寺にかかわっていたようで、その時の財政担当は秦氏。
空海・最澄と同じ遣唐使船には、諸兄の孫・橘逸勢も乗っていた・・・。
昨日届いた司馬氏の「空海の風景」、上巻の半分ちょいまでに書かれていた事柄に、関連することを加えたわけだが、秦氏をはじめとする関連氏族(?)が、影で動いているのが感じられるなぁ、と。
密教の仏具その他を揃えるための費用を、空海が各方面に働きかけて捻出したように司馬氏は考えておられたようだが、それだけでは無理があるように思い、影の人々による強力な支援がなければ無理なように思えて。
ま、ひょっとしたら司馬氏もそう思われていたかもしれないが・・・。
最澄も空海も「華厳経」に重きを置いていたようで、「インド思想」を意識していたようだが、イエスがインドで修行していた時期があったということから、密教の内容が気になるところで。
本の続きが楽しみなんだが、ちょい眠い・・・。
●2007.05.22(Tue.)・・・空海の風景より |
「空海の風景」の上巻を読み終えたが、最後の方の数ページに「え!?」と。コミックの「玄奘西域記」を読んでるみたいで。(玄奘西域記年表:http://www.eonet.ne.jp/~suwasekai/nenpyo-genjou.htm)
描かれた諏訪緑氏は、たぶん「大唐西域記」をベースにされてると思うんだけど、例えば空海に梵語を教えたうちの一人とされる「般若三蔵」、その容貌について下巻の初めに書かれているが、それが「玄奘西域記」で玄奘に梵語を教える「ハザク」にそっくりで。
また、「般若三蔵」の生まれを問うと、「カシミール」と空海に答えたそうだが、「ハザク」の母が「カシミール」の歌姫であったということになっていて。
余談だが、「ハザク」の父は突厥の「葉護可汗」とされていて。
(玄奘三蔵ゆかりの砕葉城:http://ww5.enjoy.ne.jp/~s-mattsun/essei/essei.htm)
他にも、訪れるのを待っていたかのように、老僧がすべての教えを伝授するというような流れや、大事な経典を託されるというあたりなど、似ているように思われる部分がある。
が、「取経」の場合、同じような道を辿るのかもしれないので、単なる偶然かもしれないが・・・。
で、その「般若三蔵」は、「徳宗」の勅命で「六波羅密多経」の翻訳をすることになるが、イラン語で書かれているため、イラン人で景教の布教で長安にいた「景浄」とともに漢文に直す作業を行なったそうで。
ところが、「景浄」がキリスト教寄りの訳になってたため、「般若三蔵」が「大秦寺」に行き、大喧嘩になったとか・・・。
(大秦景ヘ流行中國碑頌:http://homepage.mac.com/two_yossy/fang-hu_island/02-sibu/10-shakushi/001-0-text_01.html)
玄奘は旅の途中で様々な宗教を知るようだが、空海の場合は長安でそれらに接することになったようで、「般若三蔵」の上記の件があったあたり、翻訳した経典にキリスト教的な部分が残ってないとも限らないのかも、と。
大喧嘩のあと、その経典の訳がどうなったか書かれてないのでよくわからないが、本来の文がわからなければ翻訳の手直しも難しいだろうな、と・・・。
コミックでは、玄奘と偉い老僧をひきあわせるのが、旅の途中で知り合った「プラジュニャーカラ」という僧で、「プラジュニャー」とは「般若」つまり智慧であり、「般若」は「方便」という活動を伴って初めて人に真理を現せる、とのことで。
だから、「景浄」によるキリスト教寄りの解釈のままかもしれないなという気がしなくもないわけで・・・。
大辞泉によると「六波羅蜜」は、菩薩が涅槃に至るための六つの徳目「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」のことを言うそうだが、「景浄」と「般若三蔵」による訳と玄奘訳のものとは、かなり違うものなのだろうか?
玄奘訳『大般若波羅蜜多経・第十会・般若理趣分』は、真言宗で重用する理趣経即ち『大楽金剛不空真実三摩耶経 般若波羅蜜多理趣品』不空訳(720年 − 774年)と比較的近いサンスクリット本の翻訳とされている。 |
と、「ウィキペディア」にありますね。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E7%B5%8C)
で、本によると密教には2つの体系があり、そのうちの「金剛頂経系」を「不空」から、「大日経系」を「玄超」から学んだ「恵果」が、それらのすべてを空海に伝授した、とのことで。
(両部大経:http://www10.ocn.ne.jp/~mk123456/kyoten/ryoubukyou.htm)
しかし、「大日経系」を長安に伝えたのは、「玄超」の師である「善無畏」だそうで、それってひょっとしたら先に日本で学んでいたかも?と。
「とんでもニャ〜」の2007.04.02(Sun.)分に書いたように、富山県南砺市安居の「安居寺」や、横浜市南区弘明寺の「弘明寺」は、善無畏が開き、のちに行基が像を刻んで安置し、空海も訪れているお寺で。
だから、法具の有無は別として、経典は「東大寺」もしくは行基ゆかりの「大安寺」にあったのではないかと思われ、それを事前に空海も目にしていたのでは、と思われるわけで。
しかも「ウィキペディア」によると、「般若心経」最古のサンスクリット本が「法隆寺」に伝わってるそうで。
ちょい寄り道になるが、「インド錬金術が密教となり錬金術そのものであったとの説もとなえられている。」と、「ウィキペディア」に書かれていた。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99)
「八宗の祖」である「龍樹」は「錬金術師」だそうで・・・ん?ちゃう?同名の後世の人のこと?しかし、玄奘の取経の旅にある場面と「龍樹菩薩伝」に、似ているところがあったりして・・・。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E6%A8%B9)
ということで、本の続きを読むことにしよう。
●2007.05.23(Wed.)・・・空海・最澄の足跡 |
昨日の西日が保温(?)されてたようで、昨夜は寝苦しくて・・・本を読みきってしまった。
結局、行基という名前は出てこなかったし、2人とも多忙な日々を送ってたということだったが、最澄が全国的に巡錫された期間があったことが書かれていて、それが空海より前なのか後なのか、調べてみないとわからないなぁ、と。
あ、最澄が東国に行ったのは815年で、空海の空白期間(?)のうちの、唐から戻って筑紫に滞在中の頃は、長崎や壱岐などで伝承があるので、そのあたりにいたのでは、と。
「四国八十八ヵ所霊場」のうち、霊山寺・極楽寺・切幡寺・藤井寺などが、815年に空海が開いたとされていますね。816年に最澄と訣別、817年に高野山開創。
ということは、同時期に2人は巡錫の旅に出て、「徳一」とのことも含めて、翌年訣別ということになるようで。
で、推測なんだが、空海が体系化した中に、段階的に各宗派を位置づけているようなので、その中にキリスト教のみならず、他の宗教が混在している可能性もあるかも、と。密教とラマ教は似ているところがあるそうだし。
あ、華厳学の本山である「東大寺」で、空海による密教的な部分が残ってるそうで、「理趣教」が大仏さまの前で毎日あげられているとか・・・。
上巻の初めのほうに「理趣教」について書かれていて・・・立川流の経典であって・・・。
司馬氏もビックリされたそうだが、読んで私もビックリした。
「妙適清浄の句、是菩薩の位なり」だそうで・・・。
●2007.05.25(Fri.)・・・空海・最澄の足跡 |
815年のちょい前あたりに、行基を支えてきた氏族たちから、空海と最澄は概要を聞いたのかも。
行基ゆかりの寺院の存続、地域の発展、教えの強化などを、未来に繋げられる活動をした方に後々まで支援をする、みたいなことだったんじゃないか、と。それで実行に移したのが815年で。
行基たちは存続のための資金である鉱物の眠る地に寺院を建て、地域住民と協力して運営し、信仰を守ってきた。その後を継げるのは真言宗か天台宗か、ということになれば、整備・布教に力を入れますよね。
四国八十八ヶ所霊場になっている寺院は、行基ゆかりのお寺だけでなく、ラインを見極めて自分でも建立し、信仰の地として多くの人々が訪れる・・・こういう視点で言いたくはないが、今日の世にまで経済効果を波及してる。
結果、軍配が上がったのが空海だったので、聖地「高野山」は空海のものになったのかも。ん?ひょっとして高野山はユダヤ教・キリスト教・イスラム教にも共通の聖地かも?
東密にはあらゆる宗教を包含する要素があると、行基たちの背後の氏族は判断した、いや、そうするように空海を支援して唐に取経に行かせ、それらをもとに体系化させた、ということなのかも。
と、考えると、最澄も別の組織(?)からそういう要請があったかもしれず、だけどあまりに最澄には荷が重過ぎるように見えたので、空海は経典の貸し出しを許し、協力してた面もあったのかも・・・。
だけど最澄はそれらのことに気付くことができなかった・・・。
さらに空海は、隠された神々も「密教」で祀ってるんですね。
また「佐井寺」のように、後年も「高野聖」たちによって荒廃しかけている寺院を興してる。
どういう神々が祀られ、どのような形で現在まで遺されたかという人々の努力や信仰について、受験用に学ぶのではなく、文化として後の世に伝えていけるといいですね。
●2007.05.26(Sat.)・・・滋賀県甲賀郡「油日神社」のお祭りなど |
以前星羅さんに教えていただいて購入した「陰陽の世界」を、昨夜寝る前に読み返していて眠れなくなってしまった。
「年中行事と卜占」の2月分に行基による京都「宝積寺」の「星供節分会」のことが載っていて、眠れなくなったのは5月分の「獅子と厄祓い」。滋賀県甲賀郡「油日神社」のお祭り。
「卜占は男女一対となって行なわれる。その場には、おそらく天皇の即位式・大嘗祭で用いられる高御座・御帳台のような形の、天蓋のついた「おこもり」の装置がしつらえられていたのではないか。」 |
と、「蚊帳吊り神事」について書かれていた中にあり、「妙適清浄の句、是菩薩の位なり」と繋がるのではないか、と。
「卜占は男女一対となって行なわれる。」というのは、「妙適」によってのものではないか、と。互いの心身ともに、宇宙をも体感できるような境地に至るか否かが、その吉凶を示している、というような。
卑弥呼の時代、男王が立った時に世の中が治まらなかったというのは、「妙適」にそれが現われていて、男王は相手をかまわずに「制覇」するという自己欲が顕著だったのかも。
田に恵みを「満たす」ことができるかどうかで、豊作になるか凶作になるかがかかっているだろうから、女神が卜占の要となり、男神が潤すことによって豊穣がもたらされ、世の中が治まる、という構図になるのかな、と。
すなわち、「吉」となりうる時が「菩薩の位なり」なのかも。
も、そうであるから、コミック「陰陽師」でも描かれているのかも・・・。
で、眠れなくなった理由というのが、「年中行事と卜占」のほとんどが上記のことに繋がるようで、それが「瀬織津姫」に関連しているように思えて。
で、そのあとに載っている「ものがたりという呪力」には、八百比丘尼入定の地とされる小浜の「空印寺」に「八百比丘尼縁起」とされる絵巻があるそうで、鯰に乗る「弁財天」と、龍宮の蓬莱の亀に乗る「道満」が描かれている、と。
「弁財天」は「乙姫」である、と書かれているが、それならなぜ「道満」?と。
かと思えば、舞鶴市の「雄嶋」に祀られる「老人嶋明神」はいろんな名を持っていて、一説に「ホアカリ」と継体天皇妃「目子郎女」とされているそうで。
また「浦島太郎」説もあり、「人の立ち入れぬ禁忌の島に坐す」とされているとか。
そうすると、浦島太郎=道満=ホアカリ=ニギハヤヒ=継体天皇、乙姫=弁財天=継体天皇妃であり、乙姫=豊玉姫=豊受=瀬織津姫=神功皇后の妹、という図式になったりするようだが。
乙姫と八百比丘尼の関係が気になるし、道満は秦氏でしたよね。ホアカリは物部氏で。
また、小浜市の「広峰神社」の「祇園祭」の御神輿3基のうち、1基の屋根が「八角形」で「おヒメさん」と呼ばれ、あとの2基の屋根は「四角形」で、1基は「スサノオ」、もう1基が「ヤマタのオロチ」と呼ばれているそうで。
御旅所の小松原は「八百比丘尼」出生地伝承があるそうで、産土神「宗像神社」は通称「弁天」さんだそうで。
宗像神と瀬織津姫が同神とされたり、宗像神と弁天さまが同神とされたりしてるから、それらは繋がる、ということですよね。すなわち、八角形の御神輿の「おヒメさん」かと。
じゃ、「ヤマタのオロチ」は、「クシナダヒメ」のことなのだろうか?
そうして頭が眠りに逃げ込もうとする時、上記の油日神社および油日岳の「ずヾい子さん・火中誕生譚」が。
火の中で生まれ、蚊帳の中で泣く赤子が「ずヾい子さん」で、「鈴」い子さんであり、「山の神の御子」ということで、「金」偏がついている、と。
山に帰った母に会いたいと泣くが、春まで「田遊び」しましょうとひきとめる。「ずヾい子さん」は田の豊穣のためにお働きになるそうで・・・ということは、田を耕すための鉄製品、ということでしょうか。
ここでは母が魔除けを施したという、「ずヾい子さん」の黒いお顔だけを写したものだったが、雑誌の最後に全体像の写真があって、「道鏡か!?」と呟いてしまうような、すりこぎ状の馬並(?)のモノがついた裸像だった。
(http://www.jungle.or.jp/fujiwara/bunkazai/koka2.html/p42.html)
母は「瀬織津姫」、「ずヾい子さん」は「アジスキタカヒコネ」で「ニギハヤヒ」に繋がるのかな?と思いつつ、ふと「嫁果の呪」を思い出した。
いやはや・・・。
●2007.05.31(Thu.)・・・天道根命など |
上記の「油日神社」、聖徳太子が「油日大明神」を祀ったと伝えられているそうで、「種まき神事」に用いられた祭具「ずヾい子さん」は、「田の神」かつ「鉱物の神」と思われ、太子の頃から続いている神事であるとすると、「水稲栽培」をもたらした渡来人との関係が深いのかも、と。
ま、すぐに浮かぶのは秦氏だが。面もあるからなおのこと。
となると、舞や歌もあったかと思われるのだが、今のところ検索では出てこない。歌には「ずヾい子さん」の母の名前もあったりするのではないかと期待していたのだが・・・。
神奈備さんの掲示板に、「天道根命とは天日槍命のことであると云ってもいいのかも。」とあり、また、「比売語曽社の神とは赤留比売神であるとか下照比売神とされていますが、実は豊受姫神だったのです。」とあって、繋がりがありそうに思え、興味深いところである。
「天道根命」から、紀氏と秦氏の繋がりが見受けられる。
そして「住吉大社神大記」によると、「赤留比売」も「下照比売」も「住吉大神の御子神」とされているそうで。
(http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/136.htm)
また、赤留比売命=丹生都比売=玉依姫とも思われ、赤玉から生まれた「赤留比売命」と、大物主神による「丹塗矢」の伝説に、共通するものがあるように思われるわけで。
それにしても、一体どれだけの神名が作られたのやらと、頭をかかえるMであった。