とんでもニャ〜Mの推測2−11
※役にたたない推測ばかりの駄文です。(爆)

2009.09.01(Tue.)

森氏の「東海学 事始め」の、「熱田神宮」に書かれている箇所を先に読んで、2009.08.26に森氏の著書から引用させていただいた古墳の「濠」についての、「大海に浮かぶ不老不死の理想郷「蓬莱山」などの信仰によるものではないか」とされる部分に、繋がりそうな感じがありまして。

熱田には「蓬莱伝説」があり、蓬莱伝説に由来している熱田のお寺には「亀」の字が用いられ、また熱田神宮の境内に「楊貴妃の墓」があったとされていて。
(http://homepage1.nifty.com/uni-hp/atsutakko/kyoudosi/hourai/hourai.html)

「徐福」を思い出したり、熱田に戻される前の出来事に関連があると思われる「阿遅速雄神社」を思い出したり、「亀」で「浦島太郎」「松尾大社」や、碑の台が「亀」の「湊川神社」などを思い出したりして、検索もあちこちに飛んでしまって・・・。

ん?そういえば以前、熱田さんの近くに行基ゆかりのお寺があって、「日置神社」もあって、みたいなのを検索したような・・・あ、水谷慶一氏著「知られざる古代」の続編「龍王のきた道」から、ですね。

2008.04.05や2008.05.14などに書いてますが・・・熱田でなく「大須観音」ですね。すみましぇん・・・。

あら、「大須文庫」は「真福寺文庫」とも言うんですね、「真福寺」は正式には「北野山真福寺宝生院」だそうで、元は岐阜にあって・・・って、これも調べたことがあるような・・・あ、2009.05.08分ですね。

いや、大須でなくて熱田だから・・・って、いずれ繋がったりして。(希望的観測)

追記:著書によると、「義楚六帖」に富士山の別名が「蓬莱」とされていて、「徐福」がこの地に渡来し、その子孫が「秦氏」とされているそうで。

ただ、神奈備さんのサイトで書かれているように、渡来の伝承地が数多くあり、定住した場所は不明だが、不老不死の理想郷「蓬莱山」の思いが強いこと、秦氏が絡んでいることは興味深いな、と。
(http://kamnavi.jp/ym/jofuku.htm)

2009.09.02(Wed.)

昨日、「熱田神宮」での検索で「神奈備にようこそ」さんのサイトを拝見してて、「粟田氏」が「熱田の社人として一族もろともに移り・・・」とあった。
(http://kamnavi.jp/mn/higasi/atuta.htm)

かつて「粟田氏」も「春日氏」などと同じく、ニギハヤヒを祀る氏族とされていたと思われるし、「アラハバキ神」であったならば、なおさら「ニギハヤヒ」を意識するが、書かれているように証拠はないわけで。

ま、相殿神が「草薙神剣とゆかりの深い神々で、宮簀媛命、建稲種命は尾張氏の遠祖として、仰がれた神々でもあります。」とあることから、関連が全くないわけではないと思われるが・・・。
(尾張戸神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E6%88%B8%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

で、「草薙剣」が天智7年に新羅の僧・道行に盗み出され、船での帰国途中に嵐に遭い、大和川河口で放り出して逃げたが、里人がそれを拾って「合祀奉斎」したとされるのが、鶴見区放出の「阿遅速雄神社」で。
(http://kamnavi.jp/ym/ajihayao.htm)

だが、神奈備さんのサイトにあるコメントによると、「熱田神宮から盗難にあった草薙御剣を百済船から奪還し、当社に御剣を安置」したのが「賀茂朝臣蝦夷」で、のちに「賀茂蝦夷朝臣が改めて土佐大神の名をもって、皇室返還を奏上」したことにより、熱田に返納された、ということのようで。

「賀茂蝦夷朝臣」は、壬申の乱の折、「天武天皇の側について石手道を守った」とのことで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E8%9D%A6%E5%A4%B7)

で、「土佐大神」を調べてみると、「一言主神」のような・・・。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%A8%80%E4%B8%BB)

能「葛城」では女神とされているあたり、気になるところで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%A8%80%E4%B8%BB)

「土佐神社」の公式サイトの、

また、朱鳥元(686)年の八月十三日の条に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神とされていますが、『土佐国風土記』逸文には「‥土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鋤高彦根尊なりといへり。」とあり、祭神の変化がみられ・・・
(http://www.tosajinja.i-tosa.com/gosaizinn.html)

と、秦氏の名があるあたりも気になる。

が、はっきりしたことがわからず検索を続けると、安曇野市の「高根神社」がヒットし、

七貴地区の産土神社で、御祭神は味耜高彦根命です。この神は大国主神と宗像の三女神の多紀理姫との間の子神で、はじめ古代祭祀氏族の鴨氏が葛城の高鴨阿知須岐託彦根命神社で奉斎し、賀茂大神と呼ばれていました。それが雄略天皇が葛城山で狩りをした時に、天皇の怒りにふれて、四国の土佐に流され、土佐神社に祀られて後は土佐大神とも呼ばれました。
(http://5.real-sound.net/~tetsuyosie/nagano/azuminosi/takane/takane.html)

とあった。味耜高彦根命=一言主神となっているようで。

ただ、「籠神社の秘伝書に『賀茂の神は当社と同じ神』とありましたので」とのことで、つまりはニギハヤヒかと。
(http://www1.kcn.ne.jp/~kikujo/11.html)

うーん、上記URLでは、味耜高彦根命について、「彼は大国主と日向妻の多紀理姫との間に生まれた長男で、宇摩志麻治とは同じく出雲系の従兄弟に当たります。」とありますが、「大国主は饒速日の妹の婿養子です。」とあって・・・ヒミコが瀬織津姫で、スサノオのヨメともあって。
(http://www1.kcn.ne.jp/~kikujo/18.html)
(http://www1.kcn.ne.jp/~kikujo/12.html)

ただ、灰燼に帰すことによって「真実を隠そうとした」というあたりには、大きく頷いたが。

2007.05.26分に、「浦島太郎=道満=ホアカリ=ニギハヤヒ=継体天皇」というような連想をしており、頭がウニに。

そういえば・・・と、突然思い出したのが、行基ゆかりの神社に海部郡蟹江町須成の「八剣社」があり、「草薙神霊・熱田五神」が祀られていて。
(http://homepage2.nifty.com/yagi_m/amatsushima/kanie.html)
(須成神社:http://www.town.kanie.aichi.jp/rekishi_sunari.html#01)

行基が「猪名野笠原」開拓の祈願所として「スサノオ」を勧請した、というのはあったので、「冨吉建速神社」はわかるけど、「八剱社」は・・・本当はスサノオが祀られている、ということかも?

「とはずがたり」では、ヤマトタケル=スサノオを主張、とあったし、ウィキペディアに「熱田大神は日本武尊のことであるとする説も根強い。」とあって。
(http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mitamura-masako-gofukakusainnijo.htm)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E7%94%B0%E7%A5%9E%E5%AE%AE)

熱田神宮の炎上のウラには、大宮司職が尾張氏から藤原南家の藤原季範に移ったことに何かあったりして・・・。

ということで、以上が昨日・今日の検索で、著書の内容から外れ、自分は一体何を調べたかったのかを見失っていた、という証(?)となったようで・・・いやはや。

あ、著書で少々気になったことが。

・熱田にあるという「断夫山古墳」には「濠」があったらしいが埋められていたそうで、なぜ埋められたのか。

・春日井市にある「味美二子山古墳」は、「断夫山古墳」とは「大きさに差はあるものの、同一の設計企画で造営されていて、二つの古墳の被葬者のあいだに血縁関係があると考えてよい。」とされており、尾張連草香の娘・目子媛が「味美二子山古墳」の被葬者の有力候補だそうで、想像するに「断夫山古墳」は目子媛の夫・継体天皇か尾張連草香か・・・継体天皇陵は「今城塚古墳」と思われるし・・・。

・著書で「味美二子山古墳」の写真を見た時、「北花内大塚古墳」(飯豊天皇陵)に似ているように思えて・・・。
(味美二子山古墳:http://www.city.kasugai.lg.jp/machi/park/hutakoyamakoen.html)


「葛城市歴史博物館」の床にあった航空写真
(http://bell.jp/pancho/kasihara_diary/2005_12_08.htm)

・「断夫山古墳に次ぐ規模があったと考えられている。」「尾張地域を支配した首長の墓と考えられている。」という、「大須二子山古墳」も関連があるのかどうか、気になるところで、「大須二子山古墳」があったと思われる場所(名古屋スポーツセンター)と「大須観音」との間に、「善光寺」や行基ゆかりの「七寺」、「富士浅間神社」があり、名古屋スポーツセンターの南に「日置神社」があるあたり、興味深いですね。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A0%88%E4%BA%8C%E5%AD%90%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3)
(http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.15366083&lon=136.90325778&ac=23106&az=24&v=2&sc=3)

ん?「埼玉古墳群内」にある「二子山古墳」も、前方後円墳なんですね、6世紀前半の。行田市には物部氏の足跡が見受けられ、「方形の二重周濠を持つ、埼玉県内で最大の前方後円墳である。」というあたり、こちらも関連の有無が気になるところで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AD%90%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3_(%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C))

前橋市の「天川二子山古墳」も前方後円墳で、6世紀後半の築造と推定されているそうで、「周堀がめぐらされていた様子もうかがえる」とのことで。
(http://www15.wind.ne.jp/~Glauben_leben/Shihi/Futagoyama.html)

同じく前橋市の「総社二子山古墳」は、「前方後円墳で古代総社の施政者だった「豊城入彦命の墓と言う説があります」とのことで、6世紀頃の造成と見られており、こちらも「濠」があったようですね。
(http://i329805.town-web.net/04point_02/23futago/00.html)
(http://www.geocities.jp/gl_kanko/Kofun/GLK-Soujya-Futagoyama-Kofun.html)

茨木市の「二子山古墳」は「太田茶臼山古墳」の近くのようで、「継体天皇陵の陪冢」として宮内庁の管理下にあるそうで。
(http://www.y-morimoto.com/kofun/baicho.html)

かつて高崎市にも「舟形石棺」が出土したという「岩鼻二子山古墳」があったそうで、こちらもまた前方後円墳で濠があったようだが、5世紀後半の築造と考えられているそうで。
(http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/shomu/shishi/dayori/02/gensi.htm)

「車持氏族の首長?」とされている高崎市の「井出二子山古墳」、以前何かで見たような・・・。「5世紀第3四半期半」の築造で、こちらも前方後円墳で二重の堀があるそうで。
(http://members3.jcom.home.ne.jp/yoshi-cp/ghotoda.htm#hotoda)

これらの古墳に何か繋がりがありそうな気がするのは、素人考えだからだろうか・・・。

あ!春日井市の「白山神社」のところに、「物部氏の可美真手命もしくは御子の味饒田命の墓と言われる前方後円墳の頂上に神明造の本殿が鎮座。二子山古墳の一角、5世紀末6世紀始めの古墳群。」とあった。
(http://kamnavi.jp/mn/higasi/hakusan.htm)

さらに横道にそれるが、「越前漆器のルーツは継体大王に遡るとされています」というのは興味深いですね。「甚目寺」との関連が気になるところで。
(http://info.pref.fukui.jp/keitaidaio/legend/index.html)

2009.09.03(Thu.)

熱田神宮から少し離れますが、森氏の著書に「鳳来山」が聖地であることが書かれていて、多くの「鏡」が奉納されていたそうで。

そうした例として、法隆寺の「西円堂」や山形の「羽黒神社」の「鏡池」を、「鏡を奉納した聖地として有名」とされていて、それを初めて知ったのでちょっとビックリしてまして。

法隆寺の「西円堂」は、橘美千代の発願により行基が創建し、橘美千代が阿弥陀如来を納めていたことは知ってたけど、鏡は知らなかったどころか、かつて「鏡池」や「鏡岩」で検索した時にも目にしたことがなく・・・。

いや、見落としてたんですね、検索すると、「西円堂」の薬師如来像に「鏡が納入されていた」、とあった。
(http://www.lit.kyushu-u.ac.jp/aesthe/gakkai2007/pdf/E1.pdf)

また、公式サイトには、「平成6年、銅鏡を復元した奉納鏡が柱に付けられ、これを記念して大般若経転読法要が厳修され、以後は年中行事となりました。」とも。
(http://www.horyuji.or.jp/saiendohoyo.htm)

そして、新たに「日本最古最大の脱空乾漆像」であることも知った。
(http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/narayaku/houryuji04.html)

そこで「乾漆」について検索すると、「器物の雌型(石膏・粘土・張り子等)を造り、これに麻布と漆を幾重にも塗布し形態を造り剥離することによって、乾漆素地ができあがります。」とあり、漆部伊波や麻積などの繋がりが見えそう・・・継体天皇も、かな。
(http://www.ikesho-wajima.com/tx_kanshitu.htm)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%BE%E6%BC%86%E9%80%A0)

追記:「鳳来山」について検索したところ、「鳳来寺山」を開いたとされる「利修仙人」は、「西暦570年に山城国(京都)に生まれ・・・」とあり、秦氏の本拠地の1つと思われるので、何か繋がりがあるかも、と。
(http://homepage3.nifty.com/imaizumi/plofile.44.html)

また、「本尊は薬師如来で、「峯の薬師」として知られ、四周の信仰を集める。」とのことで、法隆寺の「西円堂」も同じく「峯の薬師」とあったので、そのあたりにも繋がりがありそうで。
(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_horaiji.htm)

ちょっと気になったので「峯の薬師」で検索すると、東京・大田区の「観蔵院」がヒットしたが、なぜそう呼ばれたかなどの詳細は不明で。
(http://www.ji-sha.com/teratabi/jisya/jisya_info.php?key_id=031313111110055018252&sub_key=000001)

同様に、詳細は不明だが、福島県耶麻郡の「大正寺」も「峯の薬師」と言われたそうで。
(http://www.aiaiaizu.com/aizumeguri/12yakushi.html)

神奈川県相模原市の「大覚山東慶寺」は、「峰の薬師」とも「三井の薬師」とも呼ばれたとか。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B0%E3%81%AE%E8%96%AC%E5%B8%AB)

木更津市にもあるそうで、こちらは行基絡みのようだが、そのサイトの方が調べたところによると、「峯の薬師」は163件ヒットしたそうで。
(http://www.geocities.jp/marusyou03/sub31.html)

奈良・吉野の「金峯山寺」に、「山下蔵王堂安置の薬師如来は峯の薬師堂安置仏と言われる。」とあることから、ルーツはここなのかもしれないように思われるが、「鏡」との関連はわからず・・・。
(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_yosino.htm)

「峯」は山の頂をさすのか、片刃の剣の刃のない方をさすのか、他にも何か意味するものがあるのか・・・。

行基が刻んだとされる像の中では、薬師如来が最も多いようで、温泉や井戸などの「水」に関連する場所、特に鉱物が作用しているであろう場所に多く見受けられ、資源の恵みを感じさせるものがあり、「鏡」との関連で言うならば、森氏の著書にもあったように「水銀」が関係しているようで。

伊勢に「三種の神器」の「八咫鏡」が祀られた経緯には、鏡を磨くための水銀が取れることと、鏡を見るために「目」に効く仙薬「鮑」がとれる地であることが、関係しているのではないかとされていて・・・。

だが、そうすると「羽黒神社」の「鏡池」との繋がりは?

「羽黒」と言えば「蜂子皇子」が思い出され、また、「ニギハヤヒ」が「鳥海山」に降臨したという伝承があることからも、太子や物部氏が浮かび、行基とも繋がるような気はするが・・・ということで検索してみた。

古い書物に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませている。祭神は伊氏波神すなわち稲倉魂命である。
(http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file2/dewa3zan.htm)

とあり、薬師如来も稲倉魂命も「瀬織津姫」に繋がるようで。泰澄や真言宗・天台宗も絡んでいるようだし、「祓川」や「須賀の滝」があるようで・・・。
(http://www.dewasanzan.jp/keidai/haguro1.html)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%BE%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

2009.09.04(Fri.)

「東海学事始め」を読み終え、ひょっとしたら東海から東の国々への伝播が早く、しかも浸透力が強いのかなと思った。

そして、著書にあるように、東海は何かある土地なのかも、と。東国の太子の伝承や、守屋の次男のこと、秦氏の動きも関連するようで気になっていて。

でも、検索ではそれを確認できるような事柄を探せず、また、「何か」の1つに、以前調べた「和妙」には三河国の「赤引の糸」を服部が用いていた、というあたりが関連するかも、と検索しても、前回同様見出すことができなくて。

ただ、伝播の早さや浸透力の強さを感じたウラには、移住した氏族間での繋がりの強さみたいなものを見たように思え、ゆえにプロジェクトを敢行することができたのかも、と。

古墳造営から寺院建立への変化は、プロジェクトに大きな混乱はなかったように思われるが、そこに神社の御祭神の守護のための措置や、その流れに伴った仏像の多様化(?)などが加わったことは、氏族のあり方においても影響を及ぼしたのでは、と。

勧進聖の背後に、名を出せない氏族のネットワークが関係していたように思われ、それが現代の政治献金の一部の流れを見て浮かんだあたり、心境は複雑だが・・・。

追記:著書に、渥美郡の山中で見つかった「阿育王の宝鐸」という銅鐸を、政府に献上したことが、「三代実録」に書かれていたというのを引用されていて。

検索してみたところ、2009.05.24に書いた、太子創建の伝承のある「阿育王山 石塔寺」と繋がる部分があるようで。
(http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/houtaku.htm)
(http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/yaridama24.html)

歯科医の臼田先生は「銅鐸」を「情報伝達手段」とされており、「漢字」を伝達手段とする民族との対立により、銅鐸が姿を消した、ということのようで。
(http://www7.ocn.ne.jp/~tmdua-11/2-11-02.htm)

そうすると、畿内の銅鐸とはタイプが異なると思われる三河・遠江方面では畿内とは祭祀が異なっていたが、のちに両方の伝達手段が伝わった、ということだろうか・・・。
(http://www.city.yasu.lg.jp/doc/kyouikubu/hakubutukan/20071215.html)

2009.09.13(Sun.)

三河など東海方面について、この先、何をどう調べればいいのやら・・・と思ってたところ、「掲示板 古代神都・東三河」さんに、太子と三河を繋ぐ説が書かれていて、ほぉ〜、と。
(http://6327.teacup.com/maeda/bbs)

繋がりはあるように思えたものの、その繋がりについて調べきれず、何か書物で探るしかないのかなと思ってたので、とても嬉しく拝読させていただいて。

で、その中で気になったのが、もうひとりの太子が「多米王」とあり、コミック「日出処の天子」では「田目皇子」とされていて、太子の母が再婚した相手とされていたような・・・。

もし「多米王」がもうひとりの太子で、居住地とされていたのが掲示板にあるように豊川に面した海岸の「豊浦」で、「金田町に上浦、西浦の地名がある」のならば、行基たちがそこに足跡を残したあと、信濃入りしたと思われるわけで。

そうして信濃入りできたということは、「行基プロジェクト」の背後に「豊浦の太子」と繋がる氏族がいた証明にもなるだろうし、守屋の次男が建てたお寺というのも、「豊浦の太子」に繋がるのでは、と。

そして、埼玉での太子の足跡・伝承も同様かと。

で、東三河に「砥鹿神社」があるそうで、社名の由来は豊川説、平原説、「神の始めの神」が現れたという伝説など、いろいろあるようですが、私としては「日の出」に関する場所で、日置氏が絡んでいるのではないかと思われるわけで・・・。

と言っても、調べたわけじゃないんで、あくまで推測ですが。

2009.09.17(Wed.)

先日に、ちょっとお高くて手が出なかった本を買ってもらい、半分ほど読んだけど、なんだかイマイチ要領を得ないと言いましょうか・・・。

検証しようとされているのはわかるけど、それを何度も繰り返すだけで確証があるようには思えず、どうなんだろ?という感じでして。

興味を持ったのが、現存する「牙笏」が5枚で、道真のものが「道明寺天満宮」に1枚、聖武天皇のものと思われるのが「東大寺正倉院」に2枚、太子のものと思われるのが「法隆寺」に1枚、持統天皇から贈られたとされるものが「戸隠神社」に1枚、とのことで、関連性がありそうかな、と。
(道明寺天満宮の牙笏:http://www.domyojitenmangu.com/gesyaku.shtml)

だが、

かつては五位以上の者は牙笏、六位以下は木笏と決まっていたが、後に位階に関係なく礼服のときにのみ牙笏を用い、普段は木笏を用いるようになった。今日神職が用いているのは木笏である。牙笏は象牙や犀角、木笏はイチイやサクラの木材を用いて製作した。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%8F)

とのことで、偶然残っていただけなのか、道真以外は使った人がはっきり特定されてないが、残っていることに何か意味があるのか、本でもネット検索でも不明で。

何気なく「道明寺天満宮」の「宝物」のところを見てると、「漆皮鏡筥」について、

こうした筥は正倉院には多数ありますが、他には四天王寺と東寺に伝わるのみです。
(http://www.domyojitenmangu.com/box2.shtml)

とあることから、偶然ではないような感じもあって。

「道明寺天満宮」のすぐ隣にある「道明寺」は、「伝承では聖徳太子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたという。」ということからも、繋がりがみられそうで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%98%8E%E5%AF%BA%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE)

あと、「天武天皇」が、「684年三野王を信濃に派遣し地図を作らせ、翌685年に朝臣3人を派遣して仮の宮を造らせた」とされているのが「戸隠神社」で、派遣された「三野王」は、聖武天皇の側近だった「橘諸兄」の父というあたりも、気になるところで。
(戸隠神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%9A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(美努王:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%87%8E%E7%8E%8B)

上記URLでの「戸隠神社」について、

持統天皇が691年に使者を遣わし、信濃の国の須波、水内などの神を祭らせ、この時犀角牙笏を奉納したとされていて、この水内の神が戸隠神社とする説もある。

というのも、本にも書かれていたが、それ以上の詳しいことはまだ不明だが、後半にも同じことが出てくるようなので、全体を読んでから再度検索してみようかな、と。

地主神である「九頭龍大神」や、「水内神」が、「瀬織津姫」に繋がると思われるので、天武天皇の信濃遷都の背景には、「瀬織津姫」と、「瀬織津姫」を祀っていた氏族との関連が伺われ、それを繋ぐ人物が「三野王」のようで。

そして持統天皇が天武天皇の遺志を継いで本気で「遷都」を考えていたのか、背後の不比等によってそれが大義名分にしかすぎないことなのかは、見抜かれていたので、「遷都」は叶わなかったのではないかと思われて。

「信濃遷都」には、「風水」に傾倒していた天武天皇の、「国土の中央に都を置く」というのもあったかもしれないが、それは逆に「国土の中央」を意識して移住した人々の、「守るべきもの」に対する意識が強かったことを表しているように思えて。

だから、642年に「皇極天皇」は、旧水内郡の現在地に「善光寺」を遷座させたのでは・・・。

うーん、善光寺の初代上人が太子のヨメだし、信濃には「牙笏」を用いた「王」がいて、それがもうひとりの「太子」なのかも?それにより、「太子」同士の間では、連絡が密に行われていたのでは・・・。

2009.10.14(Wed.)

届いたばかりの中古の本を読もうとしたら、28ページ目に早速ネタがあった。

「貴人のご落胤伝説」という見出しにあったのは、「光明皇后」が「女鹿」の子で、父は「利修仙人」とされているが、「天武天皇」の子ではないか、という推測のようで、「利修仙人」というと2009.09.03(Thu.)分で書いてたけど、この伝説については見つけられなかったんですね。

「鳳来寺興記」にある伝説からの引用のようで、「鳳来寺興記」「伝説」で検索すると、<早川孝太郎『猪・鹿・狸』「鹿」>の「浄瑠璃御前と鹿」というタイトルで書かれたブログ(?)があった。
(http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/77.html)

早川孝太郎さんは民俗学者で、「猪・鹿・狸」は大正15年に発行されたようで、他の著書も興味深いタイトルが並んでますね。
(http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/8,3156,150,html)
(http://www.geocities.jp/kasaamiryou/topix4/topix4.html)

「於大の方が鳳来寺薬師如来に祈願して家康が生まれた」という伝説もあるようで、それによって「鳳来山東照宮」を家光が造営したとか。
(http://joyoasis.blog.ocn.ne.jp/room/2009/08/post_3976.html)

徳川が絡んでくるあたり、何かあるんだなというのが感じられ・・・というか、「瀬織津姫」かと思われるんだが・・・。

話を戻しますが、「光明皇后」が女鹿の子という伝説は、「なんでもアルバム」の「和泉国分寺」に書いてますが、「国分寺の高僧と鹿の間に生まれた女児」というのがあって。

それらのことから推測すると、「光明皇后」は美千代と不比等の子とされているが、子を宿した美千代を不比等が囲い込んで、産まれた子を自分の子としたのではないか、と。

その子を「繋がり」として不比等は信濃侵略を目論んだ・・・天武天皇時代の貴人で信濃との繋がりを持つ人物といえば、美千代の夫である「三野王」で、諸兄の父であることから、聖武天皇に重用された部分もあるのかも。

ということで、本とは推測が異なりますが、共通するような伝説があるのはとても興味深いですよね。

「女鹿」で検索したところ、「奈古湾」に「男鹿島と女鹿島」があるのを知り(http://www.mapple.net/spots/G03500004201.htm)、「奈古湾」で検索すると、

奈古の地名は何から起こってきたかという点で、もともと海から来たのであるというのが通説であり、また妥当な語源学上の根拠を持っている。それは、奈古湾は今でも阿胡之海と呼ばれているが、阿胡之海は元来海女児の海と呼ばれていたものが次第に省略されて海士児の海となり、さらに吾児の海となり、後に阿胡なる漢字が当てられたと言われている。海士児の海とは、その字が語るように、もともと海士男児の海と言う意味があって、海士部の児ら、すなわち海軍の軍人の活躍する海を指す。
(http://www.sanjo.co.jp/kankou/hgz/akimoto.html)
(http://www.sanjo.co.jp/kankou/hgz/ono.html)

とのことで、「英虞湾」や「名古曽(なこそ)の滝」との関連が気になるところで。
(阿胡の浦と英虞湾:http://www.ekakinomachi.com/scenery/agowan/index.html)
(名古曽の滝:http://kakitutei.gozaru.jp/kyoto07may/20-1.html)

あと、「女鹿神楽」というのが、「岩手県一戸町郷土芸能祭」で行われるようで、そこには「根反鹿踊り」というのもあり、かつて拝見したことがあったなぁと調べてみたら、「飯豊神楽」での検索で拝見してたようで。
(女鹿神楽:http://www.h3.dion.ne.jp/~iwagei/ichinohematuri04.htm)
(女鹿神楽・根反鹿踊り:http://minzoku-geinou.com/cgi/inf11/inf11.cgi)
(飯豊神楽:http://www.bunka.pref.iwate.jp/dentou/kyodo/list/kagura.html)

「鹿踊り」には「女鹿隠し」というのもあるようなんですが、こちらも興味深い内容で。
(女鹿隠し:http://kita.lowland.but.jp/?eid=878270)

他には、「慈光七石」の1つとして「男鹿岩と女鹿岩」があるというお寺に伝説が載っていて、同じページの他の石の伝説も、「七井」にまつわる説話も、御縁起に家光の関係者が絡むあたりも、瀬織津姫に繋がりそうな感じがあり、「比企郡」ということで、天武天皇時代のプロジェクトの関与がありそうな・・・。
(慈光寺:http://www.temple.or.jp/freepage_27_1.html)

こうして推測していると、鎌足同様、不比等の本当の子っていたのかな?という疑問がわいてきた。不比等自身も鎌足の子かどうか・・・のようだし。

で、「貴人のご落胤伝説」にある貴人と僧との関連は、「とはずがたり」での内容を彷彿させるようで興味深いのですが、体調を悪化させない程度に読み進みたいと思います。

余談:森氏の著書で「幡豆郡」が出てきた時、どっかで見たことがあるなぁと思ってて、昨日ふと思い出し、確認したところ、祖母の継母の本籍が「幡豆郡西尾町」だった。

血の繋がりはないけど、不思議な縁ではありますね・・・名前が「しか」さんだし。

2009.10.16(Fri.)

本を読み終えて・・・うーん、違和感みたいなのがあるのは何でだろ?

ただ、いちばん納得したのは、

持統太上天皇の三河行幸を境に、「砥鹿神社」以外の主だった神社は、祭神として天照大神を受け入れいる代わりに天児屋根命を祖神として受け入れ、式内社の格式ないしそれに次ぐ社格を取得したものと思われるのである。(p213)

とされていることで。(砥鹿神社:http://www.togajinja.or.jp/)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E7%B9%94%E6%B4%A5%E5%A7%AB)

で、先日書いた「初めて知ったこと」というのは、用明天皇や草壁皇子が三河にいたであろうということで、多米王が第二の聖徳太子とされるあたりは、用明天皇が三河にいたことによるものかなと思えたりした。

草壁皇子の壬生が日下部氏だからとされるあたりや、皇子のはたらきによって「壬申の乱」での天武天皇の勝利があったとされるあたり、納得できるような感じもするんだが、違和感も多少・・・。

そういえば、豊橋市日色野町に「菱木野神社」があるそうで、御祭神がわからなかったんだけど、2009.08.26分に書いた堺市の「菱木神社」との関連が気になるところで。
(菱木野神社:http://childhp.sakura.ne.jp/minwa/koukumei/38maeshiba/suzume/suzume.htm)
(菱木神社:http://www.sakai.zaq.ne.jp/dudrs406/)

あと、三河には物部氏や秦氏より多く「倭漢氏」がいたとされており、「阿志神社」は奈良の「於美阿志神社」と同様、阿知使主の系統が奉斎したのであろうとされている部分で、奈良の「於美阿志神社」が気になった。

神奈備さんのサイトを拝見し、檜前の地は紀氏のテリトリーと思われることから、祀られているのは天道根命と宇摩志摩治命、あるいは五十猛命とスサノオという可能性のあることに納得。
(http://kamnavi.jp/as/omiasi.htm)

また、池田市の「伊居太神社」では、阿知使主が「猪名津彦大明神」として祀られ、猪名野にいた行基プロジェクトが東海から諏訪方面に行ったと思われるので、詳しく調べると何か見えてくるかもしれないが・・・。
(伊居太神社:http://kamnavi.jp/ym/osaka/ikeda.htm)

あ、神奈備さんのサイトに「安仁神を阿知使主や吉備海部の祖神とする説がある。(岡山県岡山市西大寺一宮・安仁神社)」というのも気になりますね、本に三河と「牛窓」に関連があるやも、みたいなことが書かれてたので。
(安仁神社:http://www.genbu.net/data/bizen/ani_title.htm)

偶然みつけたのりちゃんさんのサイトの高市郡明日香村の「呉津孫神社」、渥美の「阿志神社」と同じく御祭神が「木花咲耶姫命」で興味深いな、と。
(http://www.norichan.jp/jinja/benkyou/kuretsuhiko.htm)

奈良の「於美阿志神社」に戻りますが、「おみあし」と言う名について、三河に「兎足神社」や「兎頭神社」(宝飯郡小坂井町)があるようで、コミック「真カルラ舞う2」にある和歌山の「千種神社」や「宇賀部神社」を思い出し、「名草戸畔」との関連が三河にもあるのかも、と。
(兎足神社:http://www.genbu.net/data/mikawa/utari_title.htm)
(宇賀部神社他:http://kamnavi.jp/ki/city/nagusa.htm)
(名草戸畔:http://studiomog.ne.jp/kodaishi/001_nagusa/index.html)

「兎足神社と徐福伝説」として、豊橋市日色野町にには、「秦氏の祖先は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来たという言い伝えがある」と記載されている。(p96)

とのことですし、「三河は物部氏勢力の拠点」として、安本美典氏の著書から「静岡県」「愛知県」「滋賀県」「和歌山県」「大阪府」を「ニギハヤヒ王国」の構成地域と指摘する(p146)、と引用されているのも興味深いところで。

このあたりですでに「瀬織津姫」が見え隠れしてるように思われるのだが、宝飯郡の「形原神社」のように、「蔵王権現」を「安閑天皇」として祀られているあたりや、「穂国における神社の誕生は、荒吐神への信仰が原点と思われる。(p211)」とされていること、秦氏が持ち込んだとされる「原始巫教」として、「摩多羅神」「荒神」「宿神」「石神」「才の神」「境界神」等を挙げておられる(p90)のを見ると、やはり、と。

先ほどののりちゃんさんのサイトの高市郡明日香村の「呉津孫神社」に「安羅」が出てきており、本にも「アラコ」という地名が多いことが書かれていて(p114)、「アラコ」で思い出すのが「円空仏」のある「荒子観音寺」で。

泰澄ゆかりのお寺で「アラコ」という名であるあたりに、円空が訪れた意味があるように思え、「瀬織津姫」は秦氏・倭漢氏等のいた「安羅」の女神だったのかも、と・・・。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%AD%90%E8%A6%B3%E9%9F%B3)


荒子観音寺の隣にある「神明社」に、円空が彫ったという「鹿島大明神像」があるそうで、ちと気になりますね。
(円空さんを訪ねる旅26:http://shigeru.kommy.com/enkuu26arakokannonji.htm)

いくつも付箋を貼ったわりには、書けることはこのくらいしかなく、あとは本のタイトルにもある「持統天皇の陰謀」についての違和感・・・持統天皇に罪をかぶらせた「不比等の陰謀」のように思えて。
(http://blogs.dion.ne.jp/yakamihakuto/archives/cat_304174-1.html)

同時代の「則天武后」まで例に出して、持統天皇の非道さを書かれているが、

持統天皇は、初の女天皇誕生を正当化するため、伊勢に女神である天照大御神を奉祭し、女神天照大御神を最高神とし、禊と祓を神道の基本概念とする中臣神道を、三輪神道に代え、朝廷の精神的バックボーンの中枢に据えようするのが持統天皇の伊勢行幸の目的の1つであったと言われる。(p232)

とされる部分を読めば、不比等の陰謀丸出しのように思えて。

三河行幸の目的の中には、天武天皇のご落胤を探し出し、根絶やしにするため(p241)とあったが、それもウラで不比等が絡んでいるように思え、不比等に弱みを握られて「ゆすり」のタネにされないよう、先に見つけ出そう、という考えだったのではないだろうかと・・・。

690年に持統天皇によって再移住させられた人々がいた(p248)ようだが、「中臣神道を朝廷の精神的バックボーンの中枢に」という不比等の陰謀により、本来の御祭神が消されないよう、神域を乗っ取られないよう、遠くへと逃がしたように思えるんだが・・・。

しかし東国においても、そのような乗っ取りが行われそうだったのを、倭漢氏の後裔である田村麻呂が、御祭神名を変えたり、仏教に取り入れるなど、行基プロジェクトの一端を担い、表向きは東征、実は祖先の神を守ろうとしたのでは、と。

それらのことを含め、以前書きましたように、天武天皇の信濃遷都の遺志を引き継ぐ気持ちを持統天皇に持たせておきつつ、実は不比等は東国の天皇に成り代わろうという算段だったのではないか、と思われて。

渥美の「阿志神社」の御祭神が、「尾参郷土史」では「諏訪大明神」とされていたそうで(p127)、倭漢氏と諏訪信仰が繋がりをもつと捉えられており、そこから推測するに、海路での信濃入りにおける「関」が三河だったのかも、と。

本では諏訪に「古人大兄皇子」の墓があるという伝承があることなどから、「古人大兄皇子」イコール「天武天皇」とされていて、信濃遷都もその繋がりからと思われ、まずは持統天皇を利用して三河を手中に治めてから、不比等は陰謀を果たすつもりだったのでは・・・。

私の推測の中では、不比等はとんでもない人物になってますね。(苦笑)

本の中で参考にされていた「穂国幻史考」さんのサイトが、本として出てるようで読んでみたいんですが、ちと手が出なくて・・・「牛窪考」も気になるが・・・。
(http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/)

2009.10.17(Sat.)

「行基と渡来人文化」という本を読み返し、「猪名野にいた行基プロジェクト」の中心だったと思われる「猪名部氏」についての足跡が、三重・員弁町の「猪名部神社」や、「兎頭神社」のある宝飯郡小坂井町に「伊奈」の字地名がある(p59)、とあった。

ほかに、信濃や越前にも同じように猪名部氏の名前が残ってるようで、そのあたりについてネットでも調べてみたらいくつかあったので、URLを書いておきます。
(Web版尼崎地域史事典:http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%C3%F6%CC%BE%C9%F4)
(猪名部神社:http://www.inabe-jinjya.or.jp/index2.html)
(どうして伊那は「いな」っていうの:http://www.valley.ne.jp/~zaza/inabe-why.htm)

神奈備さんのサイトの「白井神社」に、「穴太氏は古代朝鮮の伽耶地方の安羅の人々の末とされる。」とあり、穴太氏、猪名部氏(物部氏)、秦氏、倭漢氏は「安羅」で繋がるということになりますね。
(白井神社(尼崎市):http://kamnavi.jp/ym/hiboko/siraki.htm)

「日抱尊でもある天手力男命が祭神でも不思議ではない。」とありますが、「日抱尊」については以前調べて書いたことがあり、「日を抱く母神の信仰」があったようで、円空も彫ってるようですね。
(日抱神社:http://www.gifu-hemp.net/hidakison.html)
(瀬織津姫祭祀・岩手県:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/15550793.html)

近江国栗太郡穴村の「安羅神社」は「天日槍命」が祀られているようですが、「日本書紀」にある「天日槍命」が来たという「吾名邑」の候補地はいくつかあるようで。
(http://www2.odn.ne.jp/cbm54970/anamuranew.html)

のりちゃんさんのサイトによると、草津市の「安羅神社」には「素盞鳴尊」「速佐須良姫神」「天満天神」が祀られていて、のりちゃんさんの「ひとこと」が興味深いですね。
(http://www.norichan.jp/jinja/kenkou/yasura.htm)

神奈備さんのサイトに戻りますが、「兵主神社一覧」の中に姫路の「安志姫神社」があり、御祭神の「安志姫命」は「地元で祭られていた女神と産鉄神の習合神。」とのことで。
(http://kamnavi.jp/ym/hiboko/index.htm)
(http://kamnavi.jp/ym/hiboko/anjihime.htm)

渥美郡の「 阿志神社」の「木花咲耶姫命」、「安羅神社」の「速佐須良姫神」との関連が見えそうですね。

長野県下伊那郡阿智村の「阿智神社」の御祭神・高皇産霊尊、児天八意思兼命、天表春命も、「猪名部氏」との関連があるようですが、さらに「駒場町の阿布知神社」も同様に守護神で、「ア・フチ」が原形ならばアイヌ語で「我らの・(老女)女神と理解することもできる」とのことで。
(伊那・伊奈・いな・否?:http://www.dai3gen.net/ina.htm)
(安布知神社:http://5.real-sound.net/~tetsuyosie/nagano/simoinagun/afuchi/afuchi.html)

さらにそのページには、「阿智神社の周辺の地名が山形県西置賜郡小国町周辺と共通していそうなお話です。」と表記されていて、その中には「飯豊町」もあって興味深いなと。

小国町のサイトを見ると「大宮子易両神社」があり、「安産、子育ての神として有名」とあり、御祭神は「大宮神社」が「大己貴命」、「子易神社」は「国常立尊」「高皇霊尊」「神皇産霊尊」「木花咲姫命」とのことで、繋がったように思えるわけで。
(http://www.town.oguni.yamagata.jp/tourist/map/spot/look/oomiya/oomiya.html)
(http://tabidoki.jrnets.co.jp/e07/spot/18017.html)

「和銅5年(712年)遠江の国周知郡から勧請した神社」とのことで、戻ってきたかなという思いで検索すると、森町に「小國神社」があった。
(http://www.yamagatakanko.com/yodf/01/10/01/1611.html)
(http://www.genbu.net/data/toutoumi/okuni_title.htm)

ご由緒に「御神霊が鎮斎せられた」という「本宮山」は、「大己貴命荒魂」が祀られている、ということで、やはり繋がってますね。
(http://www.okunijinja.jp/8/sw3.html)

ほぉ〜、「十二段舞楽」の番外が「花の舞」で、「祓の舞」なんですね。
(http://www.okunijinja.jp/3/6.html)

「許当麻知(コトマチ)神社」「事任(コトノママ)神社」と呼ばれていたそうで、「境内の事待池に由来する。」とのことですが、「許当麻知」を見て、八尾市の太子ゆかりの「許麻神社」(スサノオ他)や、東住吉区の行基ゆかりの「阿麻美許曾神社」(スサノオ他)を思い出し、そういえば「下照比売命」を祀っているのは「比売許曽神社」だなぁ、と。

あ、「比売語曽神社」は大分にもありますね。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%A3%B2%E8%AA%9E%E6%9B%BD%E7%A4%BE)

かなり寄り道してしまいましたが、「行基と渡来人文化」に「日下部氏も猪名部首と並ぶ開発当事者の有力な候補ではないかと考えられる。(p108)」とあり、「プロジェクト」の主だった関係者たちは、氏族間の繋がりを大事にし、継承していたようで・・・まさに「和を以って尊しとなす」ですね。

だから、「談合」や「水面下での事前交渉成立」で使われるのはどうかと・・・。(苦笑)
(http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E5%92%8C%E3%82%92%E4%BB%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E5%B0%8A%E3%81%97%E3%81%A8%E6%88%90%E3%81%99)

さて・・・聖徳太子のヨメが初代上人で、行基プロジェクトが絡み、「牛に引かれて」でわかるという「善光寺」、戦国武将が御本尊を手元に置きたがり、天武天皇が遷都を考えた、それだけでも「何かある」ことがわかりますよね。

絶対秘仏の「阿弥陀如来」は真実を知っているんでしょうね・・・。

「三種の神器」の「八尺瓊勾玉」があるように推測してたり、瀬織津姫に関する何かがあるようにも思えたりするんだけど、どうなんでしょうね・・・。

2009.10.22(Thu.)

徹夜しなかったけど読み終えた、小椋一葉氏著「覇王転生」を。

予感通り、「ニギハヤヒ」を「瀬織津姫」に置き換えられる、というか、一例を挙げれば十一面観音=ニギハヤヒであり、妙見菩薩=ニギハヤヒ=不動明王、宇佐八幡=ニギハヤヒ、生駒明神=スサノオ等、とされていただけでなく、ウガノミタマやトヨウケが十一面観音となっていて、女性を思わせる像であっても、ニギハヤヒに繋がるであろうとしか書かれておらず、そしてトヨウケ=十一面観音は不比等の思惑によるものである、とも・・・。(p157)

ま、13年前の著書で、今はどうおっしゃってるのかはわかりませんが、ニギハヤヒの子の1人としてサルタヒコを挙げていて、サルタヒコとイチシキマの子がトヨウケである、と・・・。(p18)

行基の名前やゆかりのお寺もけっこう出てきて、女性を思わせる像の1体は行基作とされる「羽賀寺」の十一面観音で、元正天皇を模して作らせ、安置させたのが「不比等の野望」によるものである、と。(140)

それってありえないと思うんだけどなぁ、羽賀寺の一件は716年のこととされているんだけど、翌年から不比等は律令の編纂を始め、行基は「僧尼令違反」として禁圧されてますがな、不比等に。

のちに羽賀寺が焼けて再建される時、2社が鎮守社として建てられたそうだが、そのうちの1社「羽賀宮神社」の御祭神は「下照姫命」とあり、検索したところ、神奈備さんのサイトに「『羽賀姫大明神宮、本地十一面観音』と古文書にある。」とあり、瀬織津姫なんじゃないかと思うんですけどね・・・。
(http://www.kamnavi.jp/en/wakasa/hagahime.htm)

ま、他にも、太子、法道上人、空海、田村麻呂、円空等の名前も、長谷寺や若狭姫神社等もいろいろ出てきて、検証されているんですけど、全部書いていくのも何ですから、行基ゆかりのお寺として書かれていた1社を、とりあえず挙げてみましたが。

神奈備さんのサイトの同じページにあった「奈古の姫宮神社」は気になりますね、2009.10.14分に書いた「奈古湾」に繋がりそうで。

あと、羽賀寺の鎮守社のもう1社である「阿奈志神社」は「大己貴命」が祀られていて、「本殿に左手の祠には、豊受大神宮と書かれていたが、その下は井戸でもありそうな雰囲気。」というあたり、興味深いですね。
(http://www.genbu.net/data/wakasa/anasi_title.htm)

「阿奈志神社」で検索を続けると、知多郡美浜町にもあり、「江戸時代の中期頃は、八剣社と称していた」そうで、こちらの御祭神は調べきれなかったが、津島市の「津島神社」の境外末社「八剣社」は「須佐之男命荒御魂」が祀られており、行基ゆかりの海部郡蟹江町の「八剣社」は草薙神霊・熱田五神(天照大神、日本武尊、宮簀姫命、建稲種命、素盞鳴尊)なので、はて・・・と。
(美浜町・阿奈志神社:http://www.jalan.net/kankou/spt_23446ac2100137045.html)
(美浜町・阿奈志神社:http://www.arkworld.co.jp/oidetita/text/rj/wr/wr04.html)
(津島神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

「阿奈志神社」にある「ホルトの木」を検索すると、偶然行基ゆかりの神奈川の「神武寺」がヒットした・・・「なんじゃもんじゃの木」が「ホルトの木」のようで。
(http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/horutonoki.htm)

あ、十一面観音=ニギハヤヒについてのきっかけは、「大神神社」近くの太子ゆかりの「平等寺」に、「賊徒平定を三輪明神に祈願し、平定後に聖徳太子が十一面観音を刻んで「大三輪寺」として建立」という説明板があったことからのようで。(p14)

平等寺のホームページには「十一面観音信仰発祥の寺」とはありましたが、説明板のように詳しくは書かれておらず・・・。
(平等寺:http://www.geocities.jp/byoudouji/yuisyo.htm)

ただ、「奈良・七福八宝めぐり」で「大神神社」に行った際に「平等寺」にお参りしてて、本と同じ内容を書いていたが、それによって十一面観音=ニギハヤヒになるのかについては何とも言えず・・・。
(http://www.geocities.jp/easyclub_choro/ajyn8.htm#b)

ということで、次はどうしようかな、と。(苦笑)


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