●2010.04.07(Wed.) |
「古今伝授」「人丸」(柿本人麻呂)で検索していて、花部英雄氏の「呪歌と説話」という著書があるのを知り、そこから「まじない」で検索しまして。
各地にけっこうあるようで、高崎市の定家を祀る「定家神社」では、
半紙に「こぬひとをまつほのうらのゆうなぎにやくやもしほのみもこがれつつ」と書いて定家神社の木戸に貼っておくと、3日以内に失せ物が見つかるというものです。 (http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/shomu/shishi/dayori/28/minzoku.htm) |
とのことで、ほぉ〜、と思っていると、近くにあるという「常世神社」の御祭神:佐野源左衛門常世は定家同様「謡曲」になっており、「鉢木」に出てくるそうで何かありそうだな、と。
(http://ginhikari.cocolog-nifty.com/yamame/2007/03/post_8131.html)
(謡曲・鉢木:http://www.harusan1925.net/0604.html)
(バーチャル中山道:http://www5.big.or.jp/~ejiri/nakasen/vtkaid05.htm)
「定家神社」で検索すると、「中世歌人の名前に由来した名称の神社が県内に少なからず存在しているのはおもしろいことだ。」とあり、「定家神社」以外に藤原家隆を祀る「家隆神社」、源頼政を祀る「頼政神社」、花山院長親(後醍醐天皇に仕えた貴族)を祀る「妙義神社」があるそうで。
(http://www.gpwu.ac.jp/ext/gunma_studies/start/study_049.html)
「中世には前記の定家詠の「佐野」を高崎市の佐野と考える説もあったことが文献から確認される。その説が根拠なのだろう。」とのことだが、定家、家隆、「鵺退治」の頼政で思い出すのは「古今伝授」で、高崎市には何かあるのでは、と。
「花山院長親」についてはよく知らないので、ウィキペディアを見たら「宮廷歌人として名高く」とあり、「妙義神社」で検索したところ、近くに「諏訪神社」や「烏帽子」のつく山などがあることや、鎮座地が富岡市というのが気になった。
(花山院長親:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E9%95%B7%E8%A6%AA)
(妙義神社:http://www.city.tomioka.lg.jp/tourism/001/003/)
「妙義神社」はかつて「波己曽神社」と呼ばれていたようで、円空作の不動明王等があるそうで・・・って、以前調べたことがあるような気がする・・・2009.05.30分に少し書いてますね、「阿育王塔」からの検索で。
(http://www.manabi.pref.gunma.jp/bunkazai/ab136025.htm)
2009.05.30分の「能因法師が訪れて歌を詠んでいること」で書いているURL、今回改めて拝見して興味深いなと思った・・・能因法師と信生法師の歌は「ほととぎす」の正体を見よと言っているようで、「古今伝授」に繋がりそうで・・・小林氏の説にある「天武天皇」に関することかも?
で、富岡市は養蚕業が盛んで「富岡製糸場」があり、一宮の「貫前神社」は「物部姓磯部氏が氏神である経津主神」を祀ったのが始まりとされていて、「比売大神」も祀られていて。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AB%E5%89%8D%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
「貫前神社」は2009.06.02と2010.01.26分にも少し書いてますね。
(http://www.genbu.net/data/kouzuke/nukisaki_title.htm)
(http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/shinto-shu/files/36.html)
あ、「定家神社」に「松杉をほめてや風のかをる音」の歌碑があるそうで、芭蕉が京都で詠んだという、定家の「小倉山荘」に関する歌というあたり、「古今伝授」に関連しそうで。
(http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/matusugi.html)
上記URLに同じ歌碑がある神社等のリンクがあり、「頼むかなその名も知らぬ深山木に知る人得たる松と杉とを」という定家の歌と芭蕉の歌との関連を知る歌人が建てたのではないかと思われ、その歌人たちも「古今伝授」に精通していたのかも。
三浦市「海南神社」の「御手洗池」「筌龍弁財天」や、千葉氏の守護神「国常立命」を祀る松戸市の「蘇羽鷹神社」、茅野市の「粟沢観音」など、「瀬織津姫」が見えるように思えるのだが・・・。
で、高崎市の乗附小校門の庭園に鎮座している「お舟石」は、家隆が川のほとりの大石を舟に見立てて一首詠むと、大石が浮いて対岸まで行き、そのあと「家隆神社」まで行ったという伝説があるそうで、歌のもつ力を表しているのではないか、と。
(http://ted.city.takasaki.gunma.jp/notsuke_sho/syoukai/syoukai/isibune.htm)
「まじない」に戻りますが、「糟谷磯丸」という人物が検索で出てきて、
磯丸は数万首の歌を詠んだといわれているが、その歌は大きく次の三つに分類される。 1、新古今の流れを汲む歌 2、まじない歌 3、特殊技巧歌 (http://www.natural-wing.com/Vol-006/page4/index.html) |
とのことで調べてみると、かけ井の水のますうた「ねがわくは出よ眞清水君かため思ひかけ井のひきあまるまて」など、いろんな「まじない歌」を詠んでますね。
(http://www.geocities.co.jp/Outdoors-River/1555/jyu-kinn.html)
小野小町の「いとせめて 恋しきときは むばたまの 夜の衣を 反してぞ着る」や、家持の「あしひきの山の木末の寄生木取りて 插頭しつらくは千年寿くとそ」なども、「まじない歌」とされているそうで、やはり歌には何かしらの力を持っている、ということかと。
(http://www1.ocn.ne.jp/~iyasiro/maji/omajinai.html)
(http://www.asahi.com/kansai/entertainment/manyou/OSK200912250015.html)
そうそう、検索の途中で、「霊元天皇」から「古今伝授」を受けたという冷泉家中興の祖で江戸中期の公卿・歌人「冷泉為村」がヒットし、その門下に「柳原保光(土御門)」の名があった。
(http://www.kowado.net/jinmeiyy.htm)
そのページに「柳原白蓮」の名もあり、いずれも「藤原北家の日野家の分流」と思われることや、白蓮が「短歌は佐佐木信綱に師事」していたことなどから、「古今伝授」を知っていたのかも、と。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%8E%9F%E5%AE%B6)
(http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C2%E7%CB%DC%B6%B5&sk=1)
ということは、大本教・出口王仁三郎との繋がりにも、「古今伝授」があるのかも・・・。
(http://urooni.hustle.ne.jp/kensaku/kihshow.php?CD=586)
(http://www.asia2020.jp/japan/kokindenjyu.htm)
●2010.04.08(Thu.) |
昨日書いてた花部英雄氏の「呪歌と説話」という著書の古書を入手し、半分ほど読んだのですが、父の叔父の書いた「民俗文学へのいざなひ」に似てる部分があるなと思ったら、参考文献の中に別の著書名があった。
「民俗文学へのいざなひ」では、伝承を年数を空けて同じ人に聞きに行き、そのびみょ〜な変化などを検証する、というような作業を記したような感じで、「呪歌と説話」の場合は各地にある同じ内容の伝承のびみょ〜な変化を見る、という感じで。
具体的に書くと、「民俗文学へのいざなひ」の伝承では、旅の商人が松葉をくわえたカニに、「所も明石、身も赤し、月もよし、何が暗うて松葉をともす」と言うと、カニが止まって動かなくなってしまった、と。
困った顔をした商人から事情を聞いた西行が、「造作もないことだ」と「月もよし、所も明石、身も赤し、奥が暗うて松葉ともす」と言うと、カニは喜んで行ってしまった、と。
そのやりとりにより、「西行は頓知の法師だといふ伝説的イメージができ上つてゐる。」とされていて。
「呪歌と説話」では、宝暦十年刊行の「勧化一声電」での西行咄は、西行が「鼓が滝」を詠んだ歌を宿を借りた先の姥・亭主・子の3人に推敲されるという内容で、「一念仏意に契うことの難しさを説く」という「説教」だったが、のちに「昔話」となって伝わるうちに、伝承の舞台となった場所や歌の内容などが変化し、それを一覧表などを用いて挙げておられて。
(鼓が滝と西行法師:http://www.city.kawanishi.hyogo.jp/shokai/kankouannai/kawanishinazo/saigyou.html)
(西行鼓ヶ滝:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%BC%93%E3%83%B6%E6%BB%9D)
「西行鼓ヶ滝」の本歌は「拾遺和歌集」の「音に聞く鼓の滝をうち見ればただ山川のなるにぞありける」(556)で、世阿弥作の謡曲「鼓滝」が「狂言(和泉流狂言・鼓滝)のもととなり、また西行鼓ヶ滝の原形となったと思われる。」(p73)とあり、「説教」から「昔話」になっていったようで。
(拾遺和歌集:http://www.takachiho.ac.jp/~eshibuya/sihu1.html)
著書に書かれている昔話のタイトルも、熊本・城山村では「西行の話」、大分・大野町では「歌自慢」、和歌山県・すさみ町では「西行法師と歌」、福井県・名田庄村では「西行の歌作り」、岩手県・遠野市では「西行とタイコの滝」と、異なっていて。
そうした伝承の差異は、時代による脚色や「古今伝授」での解釈の違いなどが関連しているようで、他にも「鯖大師」が行基から空海の話へと変化していたり、柿本人麻呂の歌の在り方も多様化しているようで、その経緯についても書かれているのだが、それらを読んで思ったのは、そもそも歌や人物についてが、伝承されるに至る元となっているのではないか、と。
(八坂寺(鯖伝説):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E5%AF%BA_(%E6%B5%B7%E9%99%BD%E7%94%BA))
(鯖大師の歴史:http://www.sabadaishihonbou.jp/history/index2.html)
つまり、「西行鼓ヶ滝」で伝え広めたかったことは、「西行」と「和歌三神」(住吉明神、人丸明神、玉津島明神)の繋がりだったのでは、と。
著書の付記に、著者が平成9年に有馬の「鼓滝」を訪れると、「西行」が近くの茶屋に5〜6年前に来て歌を書き残したという紙には、「西行法師御歌/名も高き鼓ヶ滝を望むれば岸辺に咲けるたんぽぽの花/住吉神社、玉津島、竹生の御三方の歌の神様がなおす/音に聞く鼓ヶ滝を打ち見れば川辺に咲けるたんぽぽの花」とあったそうで。(p85)
それについて、
サイギョウと呼ばれる渡り職人の事例は関東辺には多いが、乞食僧については長野県下伊那郡でわずかに聞いたことがある(拙著「西行伝承の世界」)。 ただこの鼓滝のような、当地即妙の歌を残していったとは他に知らない。酔狂とだけは思えない。何か隠されたネットワークのようなものがあるのだろうか。 |
とされていて、現代にもそうしたネットワークがあるやもしれないというのは興味深いですね。
で、「和歌三神」がウィキペディアでは「住吉明神、人丸明神、玉津島明神」とあり、付記の「御三方の歌の神様」では「住吉神社、玉津島、竹生」とあったが、人丸明神=竹生となることについても著書に書かれており、竹生というと行基も関連していることや、風琳堂さんの掲示板から察するに、瀬織津姫と習合しているようで。
(宝厳寺:http://www.saikoku33.gr.jp/30/)
(謡曲・竹生島:http://www.harusan1925.net/0328.html)
(琵琶湖の水神と大祓神─伊吹山・三井寺と円空(2):http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_plain?base=561&range=20)
柿本人麻呂について、「ほのぼのと明石の浦の朝霧に 嶋がくれ行く舟をしぞ思ふ」が、「今昔物語」では小野篁の歌とされていることや、「古今集注」によれば武市皇子薨去説とされていることなどが書かれていて、それを下記URLで先に拝見したのが著書を読もうと思ったきっかけでして。
(http://www.geocities.jp/astpa693/engi.html)
(http://www.geocities.jp/astpa693/honobono.html)
著書によると、「玉伝深秘巻」に「大同二年七月十三日に人丸を近江の国竹生島にあがめたてまつる」とあるようで、「新撰歌枕名寄」には「人丸と弁才天、そして龍神との脈絡が述べられている。」とのことで、「謡曲「景清」で悪七衛景清の娘を人丸と称したのも、弁才天と人丸とのつながりを予想させるものである。」(p104)と。
(謡曲・景清:http://www.harusan1925.net/1213.html)
のちに、「歌が意味性を離れ、人丸信仰具現のための呪文の役割を果たしていく契機がある。」とされており、「人丸信仰の家には火災をまぬかる」「人丸明神を祀りて懐妊したる例」などがあったようで。
「まじない歌」になったあたりは、中臣氏の祭文に封じ込められたことと似ているようにも思えるが、住吉三神が人体に現れたのが「人丸・赤人・衣通姫」で、その本体となるのが人丸(三神三聖人丸)=日留であり、「根源としての太陽(日留)が人体に宿り、さらに陰陽妙合して火となり、新しい生命体を生み出すというプロセス」であることから、人丸=懐妊の神と、斉藤茂吉氏の「超大極秘人丸傳」にあるそうで。(p107)
ということは、人丸が懐妊の神とされるのは、安産の神としての瀬織津姫によるものと思われるので、神威だけを頼みにするのではなく、根底にあるものは伝えられているように思えるが・・・。
2010.01.10分での、枚方市の「日置天神社」で「惟喬親王」が「日を止め置かせ給え」と天神に祈願したという伝承は、人丸(瀬織津姫)を勧請したようにも思われ、惟喬親王と瀬織津姫の繋がりを表さんとしているのかも・・・惟喬親王は歌人との交流があったし、近江にいたようだし・・・。
(http://www.asahi-net.or.jp/~UZ5A-FRT/god/shrn/hiokiten/hiokiten.html)
(http://www.y-morimoto.com/kanko/kimihata.html)
●2010.04.09(Fri.) |
7日に書いた「定家神社」や「家隆神社」など、歌人に関連する神社の創建には「人丸信仰」が絡んでいるのかも。
「防長人丸社新考」さんのサイトの「人丸社石祠の菊紋の考察」に、「下野国天明宿(栃木県佐野市)の天明鋳物は、天応元年(781)に河内(大阪府堺市)から移住してきた河内鋳物師によって始まったと伝えられるが(中略)「菊花紋」の刻まれた不詳石祠や他社名の石祠は、もとは木地屋や鋳物師の信奉する「人丸社」であったと十分に想像ができる。」とあった。
(http://www.geocities.jp/astpa693/kikumon.html)
(佐野天明鋳物の歴史:http://www.tochigi-edu.ed.jp/dentou/sano/what/history.shtml)
「群馬県神流町」のホームページに、「元禄14(1701)年5月に上州下丹生村(現富岡市)の柳田権之丞という鋳物師が製作」したという「東福寺の殿鐘」について書かれており、「この鐘を作った柳田も、佐野鋳物師の別家のさらに別家として太田姓を名乗るようになりますが・・・」とあり、「天明鋳物師」と繋がるようで。
(http://www.town.kanna.gunma.jp/home/local/bunkazai/60.html)
群馬県多野郡上野村の「上野村商工会」のホームページの「木地師と上野村の関り」には、上野村の木地師が惟喬親王を祖とする「近江系」であることが書かれていて、「防長人丸社新考」さんのサイトにあるように、「木地屋による人丸伝承を証明するもの」と思われるわけで。
(http://user.uenomura.ne.jp/ueno2254/arts/kijisi_ueno.html)
(http://www.geocities.jp/astpa693/kijiya.html)
「信州系」にも「行基プロジェクト」の関連氏族がいたと思われ、「近江系」と工法は違ったとしても同じ信仰があり、平家もまた瀬織津姫を信仰していたと思われることから、のちに人丸が祀られたのではないか、と。
いつ頃移動したのか、神社創建の年代と合致するのか等、詳細はわからないけど、「定家神社」が高崎市下佐野町にあることや、群馬には人丸を祀る神社が6社あることなど、歌人に関する神社と鋳物師・木地屋等の移動に繋がりが見えるようで。
(http://kamnavi.jp/as/kakijinja.htm)
「河内鋳物師」については何度か書いているように日置氏や行基に関連する、というか、「行基プロジェクト」の繋がりが見え、人丸と瀬織津姫が習合していることを表しているように思われるが、「萩原天神」の御祭神の道真と瀬織津姫が習合しているようにも思われるので、そのあたりがひっかかってはいるが・・・。
(萩原天神:http://www33.ocn.ne.jp/~hagizin/)
(河内国丹南郡日置荘について:http://www33.ocn.ne.jp/~hagizin/toti.html)
疑問は残るものの、鋳物師などの人々が同族のもとに移住し、信仰を広めたように思われ、「行基プロジェクト」の活動に近いものを感じ、山口の「萩」と堺市の「萩原天神」の繋がりもその1つかと。
河内鋳物師と関連があると思われる日置氏や、惟喬親王の母方の紀氏は、「行基プロジェクト」に関連のある氏族だったと思われるので、人丸信仰には背後に瀬織津姫が見えるように思うのだが・・・。
「防長人丸社新考」さんのサイトの「紙漉き職人による(人丸)伝承」では、「楮」が用いられていることから物部氏が主に関わっていたのではないかと思われ、やはり人丸の背後に瀬織津姫が見えるような感じがして。
(http://www.geocities.jp/astpa693/kamisuki.html)
人丸も道真も、瀬織津姫の血を引く人物だった?と、思えたりして・・・。
「呪歌と説話」の後半に、和泉式部が詠んだとされる「ゑのこ草をのか種とてある物をあはかなるとはたれかいひけん」という歌が、阿波の「鳴門鎮めの呪い歌」に転用されていた、とあった。(p147)
それに「猿丸太夫」が絡んだ話として、「ゑのこ草」は元は猿丸太夫の歌だったが、それを和泉式部が盗作したという笑い話(?)として広まったようで、差異のあまりないものや本歌とりのような歌など、いくつか挙げておられて。
((一例)横山の禰宜:http://nire.main.jp/rouman/fudoki/03ihat05.htm)
猿丸太夫=人丸という説もあることから、和泉式部と猿丸太夫の伝承は、瀬織津姫と人丸信仰の逆を見ているようで気になるんだが、詳しいことはわからず・・・。
●2010.04.10(Sat.) |
花部英雄氏の「呪歌と説話」で、初めは「安積山の歌」から書かれていて、調べてから書いてみようと後回しにしたけど、やっぱりわからない・・・。
この歌から転用された歌を、鉄砲を持って入山する時に唱えるらしいが、「山の精霊に対して己の存在を主張し、無事を祈念するというように読み取ることができる。」とされるのには違和感があるような・・・。
どちらかと言うと、「暗号 山上億良」さんの、「安積山の歌と難波津の歌を「手習ふ人の、初めにもしける」という仮名序の記述がおかしいことを確認させることではないでしょうか。」とされているのと関連があるように思えて。
(千年を経て解けた岩代の結び松の謎:http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0kininaru-0a.htm)
だが、それ以上は読み取れなくて・・・。
「大和物語」の故事にもとづく物語が「今昔物語」にあるそうで、そちらでは、
と詠まれていることが書かれてましたが、修験道系の狩猟秘伝書として鹿児島県肝属郡に伝わる「山神之本地」の「鉄砲を持って入山する時に唱える歌」は、
とあり、「呪歌の機能は、歌の向こうにある物語の主題を享受するという仕方とはちがった働きである。」とされているのだが、それならばこの歌でなくても他に転用できる歌があったのでは?と思えたりするわけで。
「今昔物語」というと、一昨日書いた人麻呂の「ほのぼのと」の歌が、小野篁の歌とされているあたりも気になっていて、「今昔物語」も「秘伝書」も、何を伝えようとされているのだろう、と・・・。
で、昨日「ゑのこ草」について少し書きましたが、「猿丸太夫」が絡んだ話の1つが福井県南条郡にあると書かれていて、「猿丸太夫は杣山神社の神主として設定されていることは注意を要する。」とあったのが気になって。(p152)
だが、「鎌倉時代には山頂に杣山城があった」というのはあったが、祠すらないようで。
(杣山:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A3%E5%B1%B1)
(権現山・杣山:http://tekuteku.chu.jp/20-0413gonngen-sobayama.htm)
もし「山王山の中腹にある杣山式内総社鵜甘宮」が「杣山神社」だとしたら、「継体天皇が越前に御潜龍の時、「足羽の水源神」として祀られた古社」というあたりが関連しそうだが。
(鵜甘神社:http://www.mitene.or.jp/~hayamine/ukan.html)
(鵜甘神社:http://www.genbu.net/data/etizen/ukan4_title.htm)
(南越前町観光マップ:http://www.minamiechizen.syokokai.com/gmap.html)
著書によると、和泉式部にまつわる伝説の内容や場所が「水辺に関わる」ようで、また、「神との歌の交感を中心とした話が多い。」とのことで、猿丸太夫が「杣山神社の神主として設定されている」ことで、2人の職能を表しているのかも、と。(p146)
和泉式部が「巫女的役割を担った」とあり、その1つとして熊野参詣での「もとよりも塵にまじはる神なれば月の障も何かくるしき」と詠んだことによって「神の感応を得た」という話が書かれていたが、検索では「時衆の念仏聖たちがこのようなお話を作り出したのでしょう。」ともされていて。
(http://www.mikumano.net/uta/izumi.html)
そのあたりの真偽はわからないものの、和泉式部の巫女的役割を担った伝説を受け継ぎ伝えた人々も、お話を作り出したとされる時衆の念仏聖たちも、「熊野の神」のことをよく知っていてそれを伝えたかったのかも・・・。
それらから連想すると、「猿丸太夫」が「神主」という設定は、「猿丸太夫」が「三輪高市麻呂」であるということを言わんとしているのかも?ならば、「猿丸太夫」が人丸であることにも繋がると思われるが・・・。
(万葉集から分かる柿本人麻呂の実名:http://www.geocities.jp/yasuko8787/kokindenzyu.htm#zitumei)
著書には、「人丸・赤人は、同人もしくは近似の間柄の人物として古今伝授の世界で扱われてきた部分がある。」とあった。(p174)
元禄12年(1699)刊の「呪詛重宝記」に火除けのまじないに、「焼亡ハ柿の本まで来たれども赤人なればそこで人丸」というのがあることが書かれていて、「赤人」の部分が「般若坊」「明石」「高津」などの人名・地名や、別の句に変化している例をあげておられたけど、「古今伝授の世界で扱われてきた部分」の方が気になるわけで・・・。
「玉伝深秘巻」の「自性論灌頂」では「人丸と赤人が同人になっている」と引用されているが、同人とされる経緯についてを引用されたあとに、「歴史的事実からすれば荒唐無稽の内容になっている。」と・・・。
本当のことを書けないから、「荒唐無稽の内容」であっても、人丸=赤人であることを伝えたかったのかも、と、思えたりするんだが・・・。
一昨日、住吉三神が人体に現れたのが「人丸・赤人・衣通姫」とされている斉藤茂吉氏の引用文、これも気になっているのだが、2009.05.14分の「精霊の王」にあった「後戸の神」に繋がりそうですね。
金春禅竹の「明宿集」に、「「翁」と「人丸(柿本人麻呂)」の御一体のこと。」、「一説には「三人の翁」とは、山部赤人・在原業平・あるいは橘諸兄のことでもあるといい、とかく諸説が多い。いずれの説も捨ててはならない。」とあるとのことだし・・・。
となると、
『鹽竈社縁起』では鹽竈六所明神で、猿田彦命、事勝国勝命、塩土老翁、岐神、興玉命、太田命の同体異名の6座であるとするが、この説によれば『延喜式内陸奥一百座』が指摘するように、鹽竈神社祭神の塩土老翁神と鼻節神社祭神の猿田彦命は同一の神であることになる。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%BB%E7%AF%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE) |
とされる宮城の「鼻節神社」との関連が気になるが。
話が変わりますが、「暗号 山上億良」さんの「訓読「妹」が示す万葉集巻五の特異性」を拝見していて、ふと、「妹」は「芋」で「疱瘡の神」に繋がるのかも、と。
(http://www.geocities.jp/yasuko8787/o-500-hint.htm#imo)
「妹」「芋」「疱瘡の神」の繋がりを探そうとしたら、貫之の「思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり」が、芭蕉の「星崎の闇を見よとや啼千鳥」について書かれているサイトにあった。
(http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/oinokobumi/oino05.htm)
「名古屋の鳴海は古来千鳥の名所で歌枕」とのことで他にも7首書かれていて、芭蕉絡みということでこちらも気になりますね。
(尾張鳴海:http://www.finvic.com/syumi-14.html)
「笠森観音(千葉)と笠寺(名古屋)」というページがあり、「笠森寺と笠寺の共通項」として、「天皇勅願・十一面観音・雨に濡れた観音様に娘が笠を懸ける・京都に行く・貴種と結婚する・観音に帰依・寺を建立・芭蕉が句を詠む」とあった。
(http://rizardon.com/~nakai/kasamori.htm)
そのことが書かれた下に「星崎の宮」(御祭神:香香背男神)について書かれていて、「海の信仰:北斗七星・妙見信仰・船霊様など」とあり、「笠森観音」のところに書かれている「この天狗に関する信仰は、妙見信仰や海の修験道とも深く関わっていたはずです。」とされていることに繋がりそうで。
「北斗七星」や「妙見信仰」から「月」を連想できそうだが、それが「妹」や冬の季語「千鳥」と繋がるのかどうか・・・芭蕉は雨の夜に「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」を詠むことで、何を伝えたかったのだろうか。
「月(芋)」も「星」も隠されて「闇」の中であること?それを千鳥が哀れんで啼いている?だが、千鳥は夜啼かないそうで。
(http://questionbox.jp.msn.com/qa3412986.html)
ということは、貫之の「思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥鳴くなり」にも同じことが言えそうで、この歌が何か言わんとしていることに気づくようにと、芭蕉は詠んだのかも・・・。
●2010.04.13(Tue.) |
芭蕉について調べていたら、今までに名を見たことだけはあった「去来」「知足」のほかに、「其角」や「古今伝授」を受けたという三河の「太田白雪」、同じく「古今伝授」を受けたという伊丹の「上島鬼貫」などが出てきた。
そしてその人々に関連するサイトもいくつか拝見した。
(太田白雪:http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/tousan/104/104.htm)
(其角とその周辺:http://yahantei.blogspot.com/2007/02/blog-post.html)
(去来抄:http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/reference/kyoraisyou/sensihyo/00sensihyoh_index.htm)
(上島鬼貫:http://bunkazai.hustle.ne.jp/onitura.html)
上島鬼貫は「有賀長伯」から古今伝授をうけたそうだが、太田白雪は探しきれず・・・有賀長伯は二条派から伝授されたのではないかと思われるが、師事していた「中西信慶」は「契沖」と親交があったようなので、そちらからの伝授かも。
(有賀長伯:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyouhaku.html)
(中西信慶:http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_aiu.php?key=na&s=60)
「中西信慶」は外宮禰宜で「秦氏」だったようですね・・・ということは、外宮に「古今伝授」の外宮に関わる部分は伝わっていた、と考えられなくはないような。
(森繁夫「中西信慶と契沖・長伯・長雅」:http://uwazura.seesaa.net/article/3798448.html)
上記URLの森繁夫氏の「人物百談」には、「中西信慶と契沖・長伯・長雅」以外も拝見でき、「西行法師終焉地の話」にある西行を慕った「似雲」の友人という「並河五一郎」という学者は、まるで「古今伝授」を知っていたかのようで・・・。
「似雲」の終焉の地について、「泉州踞尾村の北村六右衛門境内常楽庵」とあるが、津久野の近辺なのか、北村六右衛門が開拓した泉尾(現大正区)かは不明で。
(似雲:http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/daiou/23.html)
(大正区ウォーカー:http://rakish.org/genesis/individual/cat30/post_2.html)
また「古織茶湯傳」によると、古田織部と契沖が「伏屋氏」を介して繋がるようで、また「淀屋」も2人との繋がりを持つようで、和田岬で知った「北風家」が「淀屋」と繋がりそうで、それぞれが興味深いな、と。
(古織茶湯傳:http://uwazura.seesaa.net/article/3739082.html)
(淀屋研究会:http://www.ric.hi-ho.ne.jp/yodoya-ken/yd-23.html)
(淀屋:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B1%8B%E8%BE%B0%E4%BA%94%E9%83%8E)
話がそれてしまいましたが、「其角とその周辺」というブログにあった、
「わが庵は月と花との間なり」」(古川柳)は、あにはからんや、百人一首の、阿部仲麻呂の「天の原ふりさけみればかすがなる三笠の山に出でし月かも」の「月」と小野小町の「花の色はうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに」の「花」との間に挟まれている、喜撰法師の「我庵は都のたつみしかぞすむ世を宇治山と人はいふなり」の、その「わが庵」という解もあるようなのである(池田弥三郎『百人一首』)。 |
について、「作者の「こころ」(当の本人さえ把握困難のような「こころ」)のようなものを、「あれかこれか」と「謎解き」をするようなものかと思えてきたのである。」と書かれていて、仰る通りであり、そこに何かあるように思えるのだが・・・。
「去来抄」の「散銭も用意がほ也はなの森」などは意味ありげな感じがあり、ブログ「其角とその周辺」にもあった「まんぢうで人を尋ねよ山ざくら」なども同様に思われるが、私にはよくわからなくて。
(http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/reference/kyoraisyou/sensihyo/s15_sansen.htm)
(其角とその周辺その九:http://yahantei.blogspot.com/2007/05/blog-post.html)
後世に伝えようと残された文献の中で、どれを見れば行基たちの守ろうとした神の姿が見えるのだろうか・・・。
●2010.04.16(Fri.) |
な〜んとなく行基について検索していると、小浜市の「釣姫神社」がヒットしまして。
すると、行基ゆかりとされる「羽賀寺」の、「堂裏の薬師如来は、西津(羽賀寺の隣の集落)にある、鵺の頼政の娘・二条院讃岐を祀ったという釣姫(ツルベ)神社の本地仏だったようです。」とのことで。
(http://blog.goo.ne.jp/bessyamigo/e/4d9faa95a78b122226397796cc0f6710)
「釣姫神社」についての詳細は、検索で見出すことはできなかったが、「創建年代も場所も不明であるが、大日靈貴尊と薬師如来が合祀され、薬師の森と呼ばれていた。」というあたりは興味深いですね。
(http://www.city.obama.fukui.jp/maturi/nisidumaturi.htm)
あと、福岡県糟屋郡の「清瀧寺」は、「亀々元年(724年)、丹治峯廷公(柳川藩立花家の祖)が高僧行基菩産を筑後観音寺建立成就して後すぐに招いて建立されたと伝える。」とあった。
(http://www.tendai924.com/komono-seiryuji/)
立花氏は「藤原氏秀郷流大友氏族」とされていて、2010.01.23分に多治比氏について書いた時に拝見したサイトから推測すると、「丹治峯廷」が「武藏丹党関係の人物」である「多治峯信」ならば、「北家」の房前の母方が「丹治氏」に繋がる、ということかもしれないな、と。
(立花氏:http://www.www2.harimaya.com/sengoku/html/tati_k.html)
(多治比氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-21.html)
他に「清瀧寺」について書かれたサイトが見つからず、詳細は不明で。
で、「伊勢神宮の謎」というページの、「奇妙な逸話−−大仏建立に感激した天照大御神」という箇所に、「元享釈書」という鎌倉時代に撰せられた日本仏教の史伝には、「聖武天皇は行基に一粒の仏舎利(釈迦の骨)を与え、これを伊勢神宮に奉納せよと命じた。」とあった。
(伊勢神宮の謎:http://www.saigyo.org/saigyo/html/himitu.html)
それにより、「大仏を建立する聖武天皇の大願にアマテラスは大感激」して、「その舎利は飯高の地に埋蔵せよ」と告げたとあり、その感激を表す「渡りに舟を得たようだとか、闇夜に燈を得たようだとか仰せられた」ことについて諸氏が「虚偽」とされているようだが、「此の虚偽を事実であろうと信用するほどの交渉が、古い神と、仏との間に在ったことだけは、注意せねばならぬ。」とされているのは気になりますね。
(日本巫女史/第二篇/第三章/第四節:http://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AF%80)
その場合、大感激した「アマテラス」は、不比等によって変えられてしまう前の男神だったのでは・・・「飯高」は和邇氏のテリトリーだったようなので。
(和邇氏族概観:http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/sizokugairan/wani1g.htm)
「日本巫女史」は先日拝見していた花部英雄氏の「呪歌と説話」と繋がりそうで、「物部が霊界に通ずる者の部曲(母能々布(モノノフ)の部曲)」とされていることや、「桂女(古くは桂姫と称した)に関する伝説は、此の御陣女揩フ事実を克明に保存しているのである。」になるほど、と。
(日本巫女史/第一篇/第八章/第一節:http://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%85%AB%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80)
「神と仏の歩み寄り」は、本来の神が隠されたことによるものと思われ、著者の中山太郎氏や柳田氏、折口氏など、その方面の方々は気づいておられたのでしょうね・・・。
(日本巫女史/第二篇/第四章/第一節:http://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%80)
「七難の揃毛」というのがあって、伊豆の箱根権現、竹生島の弁才天祠、讃岐国大川郡誉水村の水主神社の御祭神(比売神)などが関連しているのも興味深くて。
(日本巫女史/第一篇/第五章/第五節:http://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%AF%80)
先日、「似雲」の終焉の地について書いた「泉州踞尾村の北村六右衛門境内常楽庵」の「北村六右衛門」の名が、「神子」の経済状況を示す部分に出てきたということは、よほど信仰心の篤い人物だったのだろうかと・・・開拓には「土地の変更」に関する事柄もあっただろうし。
(日本巫女史/第三篇/第三章/第二節:http://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%80)
ひょっとしたら8日の「鯖大師」の元は「散飯神」のように思われ、「豊宇賀能売命が伊勢に祭られたのは、とりも直さず、皇大神宮に対する散飯神(サバカミ)であって、穀物神に仕えた巫女の神格化と信ずるものである。」と関連しそうですね。
(日本巫女史/第一篇/第八章/第三節:http://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%85%AB%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80)
「サンバイサン」が「穀神」で「散飯神」の転訛とされているのは、「萩原天神」のサイトにあった「バンジサン」と言っている「三十番神」と似ているような・・・。
(日本巫女史/第一篇/第八章/第三節:http://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%85%AB%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80)
(萩原天神http://www33.ocn.ne.jp/~hagizin/toti.html)
(三十番神:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E7%95%AA%E7%A5%9E)
また、「オナリは一にヒルマモチとも云われている」とあるが、2009.11.26分で「善光寺如来」の行方を追って調べた時に出てきた「昼飯町」、あるいは「善光寺如来」は、「オナリ」と関連がありそうな・・・。
(昼飯:http://www2.odn.ne.jp/mochiaruki/chimei/hirui/hirui.htm)
うーん、「巫女」と2010.02.21分の「焼火明神」が繋がるようで、瀬織津姫に繋がるかと・・・柳田氏が「西行橋」を「女性の試験所であった」として書かれているそうで、すなわち「西行」が瀬織津姫を意識してのことかと。
(日本巫女史/第一篇/第八章/第六節:http://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E5%85%AB%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AF%80)
(日本巫女史/第二篇/第三章/第五節:http://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%AF%80)
(上白沢慧音さんの歴史講座「伝承文化と民間信仰」:http://www.geocities.jp/edelfalter/rec_saigyou.htm)
「丹波国多紀郡の母上(ハハカミ)神社は、後世には多田満仲の母を祭ったものだと伝えているが、これは古く神名帳の大比売社であって、母上は即ち母神の仮字であるから、神母か巫娼に関係ある神のように考えられる。」も繋がりそうな。
(日本巫女史/第二篇/第三章/第五節:http://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%AF%80)
「母上神社」を検索で見つけられなかったが、「惟喬親王」を退けて皇太子となった清和天皇の曾孫・満仲、酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の伝説をもつ子の頼光(摂津源氏)、頼光の後裔である「鵺」の頼政、なーんか気になりますね。
久々知須佐男神社隣の広済寺の「妙見堂山門」
(広済寺 歴史:http://www.kosaiji.org/kosaiji/rekishi.htm)
満仲は行基建立の「楊津院(天沢寺)」に帰依しており、広済寺近辺から伊丹にかけて、秦氏らのテリトリーで行基の足跡が多く見られ、「能勢妙見宮」は行基が開いたとされているが・・・。
(http://www.osaka-info.jp/jp/search/detail/sightseeing_5361.html)
●2010.04.19(Mon.) |
ほぉ・・・「星宮神社」に残る円空が書いた縁起に「鵺」が出てくるんですね・・・郡上というあたり、やはり「古今伝授」をご存知だったようで。
(星宮神社http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E9%83%A1%E4%B8%8A%E5%B8%82))
そのあたり、もっと掘り下げて取材してほしかったなと思うし、部分的にではなく巻物の全体を拝見したかったなぁ。
(http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0411/index.html)
藤原氏が隠したことを明らかにされたのは嬉しく思ったけど、「土着の神」というより、本来祀られるべき神でしょ、行基たちが、そして同じ思いを抱いた人々が守ろうとした神・・・。
●2010.04.20(Tue.) |
昨日、ニュースを見ながら検索していると、未来狂冗談氏が書かれた「大日本史の謎・仮説小説◆大王(おおきみ・天皇)の密命◆」の「皇統と鵺の影人」がヒットし、なるほどと納得したり、ん?と首をかしげたりしつつ拝見してまして。
(http://jiyoudan.hp.infoseek.co.jp/nue.html)
けっこう長いので途中までしか読めなかったんですが、けっこう面白くて・・・「同朋衆」や「竹阿弥」(秀長の父)は初めて知りました、はい。
(http://jiyoudan.hp.infoseek.co.jp/yon_nue.html)
「勘解由小路党」との繋がりから、光秀=天海というのもありえそうで。
「影のプロジェクト」のルーツは、「行基プロジェクト」だったりして・・・と考えるには、ちと矛盾を感じる部分もあったりするが、秘密裏に伝達することに関しては、近いものがあるように思えるのは、私だけでしょうか・・・。
16日に書いてた満仲、頼光、頼政のまつわる伝説の「討伐」や「退治」を、「手を結んだ」と置き換えた方がしっくりくるような気がするのも、私だけでしょうか・・・。
●2010.04.21(Wed.) |
「笠沙路探訪」さんの今月分のページを遅ればせながら拝見していたところ、そろそろ瀬織津姫の名が出そうな感じが。
(http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage35.html)
「地元では『神話の鹿葦津姫』は『笠狭の岬の野間神社の祭神』としてあり、『亦の名・木花之佐久夜毘売命』は『富士山本宮浅間大社の主祭神』としても見える。」とされており、「暗号 山上億良」さんの「上賀茂神社と古代史の暗号」にある、「韓国岳と野間岬を結ぶ直線が、東北方向側では、その名によって伊勢神宮を想起する、門川町の五十鈴川の河口になっているからです。」とされているのとも繋がりそうで。
(http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0tikyu-2.htm)
さらに、「韓国岳と野間岬を結ぶ直線」の間に「高千穂峰」があり、「野間岳と伊吹山を結ぶ直線」の間には「かつてはそこに広田神社の神祇官が居住されていたようです。」という西宮市内の「神祇官町」も通るようで。
(神祇官町(八上 白兎神社:広田神社):http://blogs.dion.ne.jp/yakamihakuto/archives/6129060.html)
伊丹の「昆陽寺」近くにも「野間」という地名があり、スサノオを祀る「健速神社」の近くもラインが通るようだが、「野間」は関連があるっていうことかも・・・あ、空港近くの火明命・火闌降命・素盞嗚尊を祀る「桑津神社」の近くもラインが通りますね。
(健速神社:http://wagamachi-itami.jp/shrine/shrine19/shrine19.html)
(桑津神社:http://wagamachi-itami.jp/shrine/shrine10/shrine10.html)
そういえば能勢にも「野間神社」があり、「別説に當社は饒速日命奉祀の前に鹿屋野比賣を奉祀して居ったいう説がある」とのことで、伊丹同様、秦氏・物部氏らのテリトリーかと。
(http://kamnavi.jp/mn/osaka/noma.htm)
(http://www.eonet.ne.jp/~yoshita/sub8.html)
(http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto/noma.htm)
「野間姫」はひょっとして2010.02.05分での「敏馬神社」に出てくる「能勢の美奴売山」の神?2009.12.29分での「媽祖」?
(「野間」の地名:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin03/imai1.html)
「野間神社」は今治市にもあるようで、「怒麻国造となった若弥尾命が、その祖・飽速玉命を奉斎したことに始まると考えられている」とあり、御祭神の1柱・野間姫命は「若弥尾命の妻とされる。」とのことで、「野間姫命は、一般に草野姫と呼ばれる草木の祖神。」ともあり、やはり瀬織津姫かと。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E9%96%93%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BB%8A%E6%B2%BB%E5%B8%82))
(http://www.genbu.net/data/iyo/noma_title.htm)
話を「野間岳と伊吹山を結ぶ直線」に戻しますが、猪名川を越えて吹田市の「宮山町」、箕面の「桜井」のあたりを通り、「平安神宮」「銀閣寺」や、「貫之の墓」、「日吉大社」などの近く、そして長浜市の「蛭子神社」を通って「伊吹山」に至るようで。
ラインをもっと伸ばして「善光寺」のあたりを通るとなると、瀬織津姫で繋がるのかも。
で、「狛犬」が「龍」である高知の神社のリンクがあったが、それで思い出したのが「伏見稲荷大社」の境内社「神寶神社」で、「『隼人のまつりの玉・お守り』を口にくわえる『神獣』を、『衛門・ゆげい』として『随神門』に侍らせる『宇奈多理座高御魂神社』である。」とされていて、やはり隼人と秦氏・物部氏らは絡んでいるんだなぁ、と。
(伏見神寶神社:http://kamnavi.jp/mn/kinki/fusimika.htm)
(宇奈太理坐高御魂神社:http://kamnavi.jp/as/unatari.htm)
「宇奈太理坐高御魂神社」の御祭神の1柱・太玉命は、2008.11.01あたりで調べたことがあり、「天児屋根命」と繋がることから、中臣氏が祭祀を掌握して神域を乗っ取ったのではないかと思われ、すなわちそれは2008.11.08分の検索では太玉命は「忌部氏」に繋がると思われることから、物部氏のテリトリーを乗っ取っていった、ということではないか、と。
あと、「彦狭嶋王」についても書かれており、そのあたりは2009.04.25分などで調べていて、そこでも物部氏が見えるような。
で、「智通」についても書かれていて、行基の師とされる「道昭」の5年後に唐に渡っているようで、同じく玄奘から法相宗を学んだようだけど、「智通」という人を検索したことがなくて・・・行基の兄弟子にあたるのかも?
(智通:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%BA%E9%80%9A)
(法相宗:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97)
(薬師寺:http://www.nara-yakushiji.com/guide/hosso.html)
「修験道の開祖役行者(634〜706)は、19歳の時に法相宗の智通和尚にともない、飯豊山(2,105m)を開山したと縁起伝承されている。」とあり、大和郡山市では「智通」の他に「額田部連比羅夫」「行基」などが出てきて興味深いですね。
(会津ものしり検定:http://www.aizumonosiri.com/category/4859020-1.html、音に注意)
(歴史年表:http://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/rekisi/src/nenpyo.html)
「長良川が出水時に智通上人が念仏を、唱えると亀が現れ、その背中に乗って対岸へ渡ったと伝えられ居ます。」というのもありますね・・・検索では見出せなかったが、行基と智通の繋がりが気になるところで。
(亀の渡しの由来:http://nakasanp.hp.infoseek.co.jp/Dmino104.htm)
「智通」の俗姓は「湯坐氏」ということで検索すると「御机神社」がヒットし、「ミツクエはミツクイ(水咋)やミゾクイ(溝咋)に通じ水神を祀っていたとの説もある」とのことで、「大山咋神」と対をなす神に思え、「新撰姓氏録河内国神別に「津夫江連。額田部湯坐連同祖。天津彦根命之後也」とある同祖氏族には額田部湯坐連,凡河内忌寸、大県主等がある尾張氏系の氏族」とあり、やはり物部氏と繋がるのでは・・・。
(http://www.oct.zaq.ne.jp/yasuo26/mitukuejinjya.html)
(左京神別下:http://mononobe.nobody.jp/siryou/sujroku/17syouji.htm)
上記URLの「左京神別下」に、「允恭天皇の御世に、薩摩国に遣されて、隼人を平(ことむ)けて・・・」とあるが、記紀などと同様にそのまま読めないように思われ、同族が仲介役として「朝廷がこう言ってるから、ちょっとだけ言うことを聞いてやって。」と言いに行ったくらいのことをそのまま書けないから、見栄を張った表現をしてるように思う。
あ、「天津彦根命」は「多度大社」の御祭神で、別宮「一目連神社」の「天目一箇命」は天津彦根神の御子神で伊勢忌部氏の祖神、阿波忌部氏の祖神が「天日鷲命」でしたね。
(忌部氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E9%83%A8%E6%B0%8F)
(忌部神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
「常陸国誌」に、「日本書記には天津彦根命は茨城国造の額田部連等の祖」とあるそうで、崇神天皇の時代には、「筑波・新治・茨城の三国の国造として物部氏」が奉祀したようで、額田部連と物部氏は繋がるような。
(http://www.kotabe.e-naka.jp/cgi-local/news/news.cgi?id=667&userid=44)
(筑波山神社:http://www.norichan.jp/jinja/renai/tsukubasan.htm)
2010.01.16分に書いた、「景行天皇四十年(西暦111)十月、日本武尊、伊勢神宮の荒祭宮である礒宮を此の地へ移祀したと伝えられる」とされる、茨城県桜川市の「桜川磯部稲村神社」と「女体山」は、10キロほどのところのようで、「桜川磯部稲村神社」には天太玉命も瀬織津姫命も祀られてますね。
で、初めの方に書かれている「大宮姫」は、「秀真伝」では「東殿の典侍」とあったが、瀬織津姫でもあるような・・・。
(聖地 探訪ノート:http://hwm5.gyao.ne.jp/tukinohikari/3_report/04_hayasasurahimekami/report_hayasasurahime_4.html)
京都市上京区にある「大宮姫命稲荷大神」では、「大宮姫命」は「太玉命の御子神」とのことで。
(http://www.genbu.net/data/yamasiro/oomiya_title.htm)
長野県飯田市大町の「遠山天満宮」での「霜月祭」では、「大宮姫命」の面は「翁の表情」だそうで、「後戸の神」(式三番)を思い出した・・・「下伊那」ということは猪名部氏のテリトリーと思われ、猪名部氏・忌部氏・員弁氏は同族ですなわち物部氏かと。
(http://senshohamada.hp.infoseek.co.jp/oomati-oomoyahime.htm)
(後戸の神と戌亥:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/usiinui.html)
●2010.04.22(Thu.) |
昨日、佐賀の行基ゆかりとされるお寺を見つけ、そこに書かれていたことに首をかしげた。
佐賀市白山にある「瑞石山龍造寺(高寺)」は、
和銅四年(711)、行基開山。薬師如来は行基作(本尊は十一面観音。この観音は讃州志度寺からやって来たという) (http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Mother.html#anchor743273) |
とあって、2010.01.20分には、三重の「金剛座寺」の公式サイトのトップページに、「昔より菩提の樹それながら出し佛の影ぞ残れる」という西行の歌があったことと、
『金剛座寺略縁起』によると讃岐の四国八十六番札所 志度寺の別当寺として十一面観音をご本尊としておりましたが、持統七年(693)頃に不比等公が、内妻の菩提寺とすべく行基菩薩刻彫の如意輪観音を志度寺から遷座し、行基菩薩開眼のうえ本尊にしたと伝えられております。 (http://www.renge.net/kongozaji_frame.htm) |
というのを引用させていただいていたので、改めて「志度寺」について検索してみたが、上記のような御本尊の移動については書かれてなくて。
(志度寺:http://ew.sanuki.ne.jp/sidobunk/sidoji.html)
(志度寺16度市本尊御開帳:http://ameblo.jp/tekutekushido/entry-10038293864.html)
(中世志度の景観:http://www.pref.kagawa.jp/USERS/s12730/kmuseum/tyousakenkyu/minatomachi/shido.pdf)
ただ、共通するのが「西行」のようで、三重の「金剛座寺」は西行が訪れ、詠んだ歌がご詠歌になったとされており、佐賀の「龍造寺」は、「藤原秀郷六代の孫で、西行法師(佐藤義清)の叔父(一説には祖父)といわれる藤原季清」が「龍造寺氏」を名乗ったようで、子の季喜は「佐嘉郡高木の城主藤原季経の次男を養子として家を譲り、兄の子西行とともに四方に行脚したという。」とのことで。
(http://www2.harimaya.com/ryu/ryu_root.html)
「龍造寺」は「龍造寺八幡宮」の神宮寺として建てられたそうだが、季喜が家を譲った「高木氏」(北家)は、「佐賀郡川上にある与止日女神社の大宮司職の家といわれている。」とあり、「與止日女神社」の神宮寺が行基ゆかりの「河上山 神通密寺 実相院」なので、繋がりがあると思われ、それらを西行はよく知っていたとも思われるわけで。
(龍造寺八幡宮:http://homepage3.nifty.com/kencho/ryuuzouji.html)
すなわちそれは、西行が瀬織津姫のことをよく知っていた、ということではないかと。
余談になりますが、検索の途中で「行基菩薩の墓石が祀られています」と書かれていたのを拝見し、九州担当の行基は2人いたのかもしれないな、と・・・。
(宝琳院沿革:http://www.tendai924.com/hourinin/enkaku.html)
●2010.04.26(Mon.) |
古いノートで書いてます。(苦笑)
デスクトップを新調してもらったらブラウザが違うバージョンで使いにくいのと、体調不良と、現実逃避で、PCからちと遠ざかってましたが、ちょっと興味深い本を読んだので検索してまして。
「ダビンチ・コード」についてはここでも少し引用させていただいたりしましたが、その第三弾が「フリーメイソン」絡みのようで、それはまだ読んでないものの、本屋さんで横に置いてあった「ロスト・シンボルの謎 フリーメイソンの正体」というのを読みまして。
(フリーメイソン:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3)
フリーメイソンの日本進出は1804年の長崎だそうだが、「ニュートン極秘文書」はまるで「古今伝授」のようだし、「フリーメイソン起源説3」(ソロモン神殿建築家説)にある女神・アシュトレトは、
メソポタミア神話のイナンナ、イシュタル、ギリシア神話のアプロディテなどと起源を同じくする女神と考えられ、また周辺地域のさまざまな女神と習合している。 (アスタルト:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%88) |
とあり、
古代オリエントにおいて、「天の女王」は有力な女神の称号として多用されたが(例えばメソポタミア神話の女神イナンナもそう呼ばれている)、『エレミヤ書』のこの女神はアスタルトを中心にアーシラトやアナーヒターなどの女神が習合した豊穣の女神と考えられている。
(天の女王:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B) |
とのことで、2010.02.28分に、そして瀬織津姫に繋がりそうな感じがして、「ソロモン神殿建築家説」には「行基プロジェクト」に近いものを感じるのだが。
ネタばれになりますが、「ロスト・シンボルの謎 フリーメイソンの正体」の最後に、フリーメイソンの悲願として「エルサレムでのソロモン神殿の再建」を挙げておられますが、それが現在の「春日大社」とダブって見えるようで、また、目指しているという「ワンワールド」は、コミックの「ぼくの地球を守って」や「ボクを包む月の光」と似ている部分があるように思われ、それってどうなのかなぁと思ったりして・・・。
あと、最近読み直したコミックに、「ホトトギス」に「魂迎鳥」という別名があることを知り、蜀の時代の故事からのものということと、「躑躅」に関連があるというのは拝見したけど、そのくらいしかわからず・・・。
(http://www5f.biglobe.ne.jp/~homepagehide3/torituyakuyou/hagyou/hototogisu.html)
(http://hp.vector.co.jp/authors/VA003100/flower4/hototogisu.htm)
やはり「天武天皇」のことを言わんとしているのかも、と思うが・・・。
ちと気力を無くしつつあって、趣味が違うからここは書けないと思うけど、世代交代ということで、このままに管理全般をお任せしようかと思ったり・・・。
♪フェイドアウトにちょうど似合いさ・・・ってな感じでしょうか・・・。