●2007.06.04(Mon.)・・・頗梨采女 |
コミック「陰陽師」12巻に「頗梨采女」のことが出てくる。
「大嘗祭」で主上とともに、神との「饗」の事を行なうのが2人の采女で、「頗梨」は純粋な液化した「水精」で、「ゆっくりと冷やされ、結晶を結ぶ」のだそうで。
そして「別の次元では、八隅知之大王の八角形と、水精の采女の六角形の結合となる」とのことで。
「八隅知之大王」は「万葉集」にあるように、「天皇」のことをさすようだが、「頗梨采女」とは?と、少し調べてみた。
「伏姫屋敷」さんのサイト(http://homepage2.nifty.com/fusehime/index.htm)によると、
神仏習合の考えによってスサノオと牛頭天王、クシイナダ姫と頗梨采女、八柱の御子神と八王子が同一のものとされていたのである。 この頗梨采女であるが、『伊呂波字類抄』は彼女を沙竭羅竜王の三女とする(『神道集』、天野信景『牛頭天王弁』では二女)。 |
とされていて、また、
『牛頭天王縁起』には、牛頭天王の本地は薬師如来、頗梨采女は十一面観音、八王子は文殊菩薩ともある。 (http://homepage2.nifty.com/fusehime/no255.htm) |
とあり、「水精」が「頗梨采女」のことと限定されるなら、先日の「乙姫」他に繋がるのではないかと思われ、そうすると「八隅知之大王」は「スサノオ」をさすことになるようで。
しかし、小浜市の「広峰神社」の「祇園祭」の御神輿3基のうち、1基の屋根が「八角形」で「おヒメさん」と呼ばれ、あとの2基の屋根は「四角形」で、1基は「スサノオ」、もう1基が「ヤマタのオロチ」と呼ばれているあたり、どうなのかなぁと。
上記サイトの「伏姫の変容」によると、
「民衆宗教における両性具有観」は、「世界の多くの民族に見出される両性具有観は、原始時代の神―大地母神が虚無から生じ、一身に男女両性を併せ持っていたとする観念で、歴史上にその存続が見出されるのである」とする。 (http://homepage2.nifty.com/fusehime/no75.htm) |
とされており、それが「八隅知之大王の八角形と、水精の采女の六角形の結合」に繋がるように思われ、すなわちそれが「大嘗祭」の意味するところなのかもと思うが、「一対神」が「両性具有観」として捉えられているのかも、とも。
ま、それらの推測は別として、コミックでは「大嘗祭」を語るだけでなく、「スサノオ」と「2人の采女」という、「隠された神々」についてを語ろうとされていたのかなという推測が。
妥女というと、「奈良時代、四代の天皇(元正聖武淳仁孝謙)に仕えた」とされる「丹生山 近長谷寺」の「飯高諸高」のことを思い出した。
「近長谷寺」の御本尊が「十一面観音」で、奈良「長谷寺」との関連があるようだし、「飯高諸高」とほぼ同時代の采女「安積采女」の伝説との関連も何かありそうな気がするのだが。
(http://www.mynara.co.jp/1DPic/d1-17.html・http://www.ko-cci.or.jp/event/maturi/densetu.html)
「飯高諸高」や「安積采女」が、「頗梨采女」と繋がるかどうかは不明で、何かしらの関連があるような気がするものの、「スサノオ」と「2人の采女」に繋がりそうな事柄は、検索では出てこない・・・。
ちなみに「牛頭天王」と「頗梨采女」の間に生まれた「八王子」(八将神)とは、「太歳神」「大将軍」「太陰神」「歳刑神」「歳破神」「歳殺神」「黄幡神」「豹尾神」で、「頗梨采女」は「歳徳神」。
(http://www.h4.dion.ne.jp/~tenshagu/a008hatishojin.html)
「ホツマツタヱには、天照大神の妹和歌姫(稚日女尊・シタテルヒメ)が、神上(かみあ)がってから後に、歳徳神と称えられたと記されている。」というあたり、興味深いですよね。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%BE%B3%E7%A5%9E)
先日引用させていただいたように、「シタテルヒメ」は「豊受姫神」とのことで・・・。
牛頭天王は竜宮城で頗梨采女(歳徳(としとく)神)を娶ります。
(祇園牛頭天王縁起:http://www.geocities.co.jp/Milkyway/4567/koyomi/saijiki06.html)
とのことで、「浦嶋子」は「牛頭天王」であり、「スサノオ」である、ということなのかも。
でもその場合、「乙姫」は「櫛稲田姫」ではなく「瀬織津姫」(撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊)のように思われるのだが・・・同一人物?
もし同一人物なら、「奇稲田姫命は、出雲国足名椎手名椎の御子神」とされているので、出雲国「足名椎」が頗梨采女の父「沙竭羅竜王」ということになるようだが・・・。
●2007.06.23(Sat.)・・・梅原氏の「歓喜する円空」について |
やっと読み終えまして、梅原氏の「歓喜する円空」を。
「泰澄・行基こそこの十年来、私が最も関心を持っている歴史上の人物であった。」と、前の方に書かれてたので、円空が泰澄や行基の足跡をいかにして巡ったか、詳しく書かれているのかなぁと期待していたんだが・・・。
ま、それでも行基が受け継いだ思いは、最澄や空海を経て、後の世でもちゃんと受け継がれていたんだなぁという気がして。というか・・・。
円空の時代でも、まだ真の神の名は明かせずにいたんだなぁ、と。だから、今の世でも不明ではあるんだが。
でも、な〜んとなくヒントは出してくれている気がするし、「いつか明かしてほしい」という訴えが、円空の和歌や像にあるように思えて。
そのキーワード的な人物のひとり、「柿本人麿」がちょっと気になっているんだが。
「一木を3分して作られているような感がある。」という、「高賀神社」の十一面観音と脇侍の善女龍王・善財童子の像は、まさに書かれているような思いが込められているのではないかと思う。
また、他の十一面観音とは違った感じがするとされる「太平寺観音堂」の、「桜」の木で作られた十一面観音像は、円空の特別な思い入れがあったように感じて。
ただ、写真を見て、「龍」と「神功皇后」を思い浮かべたあたり、うーん・・・と。
円空は十一面観音に姿を託された、真の神とひとつになるべく、入水したのかも・・・。
●2007.06.30(Sat.)・・・山部赤人など |
「石見銀山」が世界遺産に登録されたそうで。おめでとうございます。
英文による政府の反論書の効果があった、ということのようだけど、キリスト教の影響があったあたりからも、世界的に重要度の高い鉱山だと思われ、登録されない方が不思議だなと思っていたわけで。
「石見銀山」と「行基」が関連するお寺として、「宝塔山 永林寺」が検索で出てくる。
(http://www.haginet.ne.jp/users/bukkyo-0/bhp-eirinji/j-eirinji.htm)
他にも、江津市(旧邑智郡)桜江町坂本の「甘南備寺」などは、比較的近くなのかな、と。「宝塔山 永林寺」も「甘南備寺」も「真言宗」だそうで、やはり・・・と。
他にもちと検索してみたところ、「島根県の山紀行(石見地方)」さんのページがヒットした。
(http://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/simane-iwami.htm)
見出しの、「玉依姫を孕ませた丹塗矢はこの山から飛んだ」や、「島根県では滅多にお目にかかれない神を祀っている」というあたり、興味深いですよね。
後者に書かれている「山辺八代姫命神社」は、「奈良時代の終わり頃、大和国から大江高山のふもとに山辺族が開拓民として移住して」きたことによる勧請のようで。
(http://www.mihara-es.kawamoto-town.jp/14hp/site4/taue1.htm)
ふと、「オオタタネコ」が呼ばれ、三輪山に「オオモノヌシ」を祀らせたというのを思い出したりした・・・。
で、「山辺族」というのは「山部赤人」の祖?「島根県の山紀行(石見地方)」さんに、「大昔隕石が落ちた山、そして人麻呂伝説の山」として、江津市の「島の星山」のことが書かれていたが、歌人との繋がりが深い?だとしたら何故?
「中臣氏・大中臣氏考」さんのページに、「中臣可多能祐」の妻「山部歌子連女那爾毛古娘」(伊予来目部播磨国司山部小楯孫、万葉歌人山部赤人も一族)とあった。
(http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-23.html)
「久米氏・山部氏」さんのページに、赤人の祖父「山部比治」について、
「播磨国風土記〜穴禾(しさは)の郡〜」に、「孝徳天皇(第36代天皇。在位645〜654年)の御世に、揖保の郡を分割して穴禾の郡を作った時、山部比治(やまべのひじ)が任命されて里長となったので、この人の名前により、比治の里という。」という記事がある。比治の真名井は、籠神社の奥の宮、真名井神社が比定地の一つとされる、「天の羽衣伝説」の伝承地である。 (http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kume.htm) |
と、されていたが、関連があるのだろうか。リンクされている別のページには、「柿本人麻呂」についても触れておられるが・・・。(http://homepage2.nifty.com/amanokuni/wani.htm#hitomaro)
そういえば、先日新庄方面に行った時、「柿本神社」の近くを2〜3回通ったのにもかかわらず、時間の都合で行かなかったんだが、ひょっとしたら呼んでたのかも?
で、「天の羽衣伝説」といえば、滋賀の余呉だったかな?行基ゆかりのお寺近くでもあったような。道真が関係してたような・・・。
あ、「近江湖北二十七名刹巡礼」という本があり、そのトップに道真が天女の子とされる伝説が書かれていて、隣町などの札所に行基ゆかりのお寺があるのね。
道真といえば、コミック「陰陽師」で「ポエマー」と表現されていたりもするんで、人麻呂や赤人同様に気になるわけで。あ、業平さんも、でんな。
「島根県の山紀行(石見地方)」さんのページに戻ると、浜田市「三階山」のところには、「日月星の三神を祀り三光峰といった」という見出しがあり、「大般若理趣分経の碑」がある、とのことで。
「日月星」に「理趣分」の碑というのも興味深い・・・。
●2007.07.26(Thu.)・・・堺市の石津太神社など |
昨日お参りした神社にちーと疑問が。
まず「石津太神社」、御由緒の「靭(うつぼ)大神宮」が、境内の堺市による説明板では、天照皇大神、豊受大神、イザナミ、イザナギになっていた・・・はて。
で、「石津太神社」近くの「五色の石」の石碑に、「蛭子の命が石津の浜に流れ着いた時、天磐樟船に蛭子の命と一緒に積んであった五色の宝石(神社の御神体)を埋めてある場所」とあった。
が、「石津神社」御由緒には「往古、事代主神、此地に降臨のとき五色の神石を携えて来りて此に置き給う、故に石津と名づく。」と。
同神?「石津太神社」には事代主命も蛭子命も祀られていて、いずれも(戎さん)と御由緒にも書かれていて。
それにしても、土師氏、というか、「天穂日命」の末裔のテリトリーが、堺市のほぼ全域にあたるかも、と。
「石津太神社」は堺市西区、土師町のあるのが堺市中区、日置氏の祀る「萩原天神」は堺市東区。石津近辺での行基の足跡はまだ探せてないけど、石津川から2〜3キロ南に行くと、行基の父方の本拠地・高石市。
堺区には行基ゆかりとされるお寺も神社もあって。
そうそう、「宿院頓宮」の御由緒に、奈良時代にすでに「大祓」が行なわれていたことが、「住吉大社神代記」に書かれているとのことで、それが「開口水門姫神社」でのことである、と。
「開口水門姫神社」とは、行基とも関連のある「開口神社」のことで。
「水門姫」は祓えの神と思われ、ふと瀬織津姫かな、と。うーん、「飯匙堀」の磐が気になるなぁ・・・。
気になると言えば、「宿院頓宮」のおみくじ、「大蛇切散兆[吉]」とあり、スサノオが「草薙太刀」を得たことを引用し、「勇敢に大志をいだきて進めば大吉なり。」とのことで、最後は「摂津国一之宮 住吉大社」となっていた。
勇敢に大志をいだきて・・・どこに進めばいいのか・・・で、私にとっての大吉とは?
●2007.08.26(Sun.)・・・瑜伽師地論と弥勒菩薩との関係など |
風琳堂さんのサイトにある「瀬織津姫&円空情報館」を拝見してて、行基の名前がいっぱい出てきたのが嬉しくて・・・。
ずっと「竹生島」は気になっていたんですわ、木ノ本近辺の行基ゆかりのお寺を訪ねてから。と言いつつも、行基ゆかりのお寺には1ヶ月近く行ってないし、木ノ本方面に行ったのは7年前だが。
奈良の行基ゆかりの神野寺近辺を調べてて、弁天さんと十一面観音と瀬織津姫の関係が気になり、竹生島のことが気になっていたものの、検索では情報を見出すことができずにいて・・・。
さらに、「三井寺」のことも出てきた。ここは何かと疑問が残るお寺だったりするから、展開が楽しみだったりするが、次回は「弥勒菩薩に化身した白山神──生きている円空思想」の予定だそうで。
うーん。でも、「弥勒信仰」も気になってるのね、河勝や太子のこともあって。で、宇佐で「虚空蔵信仰」とごっちゃになって、そこから秋田方面に飛んで、うやむやに終わってたような。
あ、とんでもニャ〜の2004/02/18分に、「自分で前にここに書いた内容をすっかり忘れたので」と、書いてあるのにまた忘れてる。なさけね〜。
「瑜伽師地論」が弥勒菩薩との関係が深い、「宇佐八幡宮神宮寺」が「弥勒寺」(もと虚空蔵寺)、「弥勒」と「新羅明神」は一体であると「園城寺縁起」に書かれている・・・これらが円空にも繋がるのかも?
「猿田彦大神=白髭大神=高麗王若光=新羅明神(=五十猛尊=摩多羅神)=弥勒で、薬師如来の守護神?それにしても、この迷宮にハマるのって何度目だろうか・・・。」とも書いてるなぁ。
いや、他人事でなく、書いたのは私自身なんだけど、今思うに、薬師如来の守護神というより、相方(?)かもしれないな、と。
行基は初め、水神として薬師如来を刻んでいたように思うのね。そして十一面観音に変わっていって、それが「瀬織津姫」ならば上記の等式は、ともに祀られるべき男神ではないだろうか、と。
もしそうであれば、埼玉の「高麗山聖天院勝楽寺」が気になる。高麗王若光一族の菩提寺として創建されたんですよね。不動明王の胎内仏は、空海作だそうだし・・・。
(http://homepage3.nifty.com/youzantei/mitisirube/komaou.html)
あと、行基ゆかりとされる伊勢原市の「白髭神社」、御祭神が高麗王若光、熊野権現で、熊野権現は瀬織津姫とされているし、和歌山の「藤白神社」の御祭神は饒速日命、熊野坐大神で・・・。
(白髭神社:http://ktan.fc2web.com/txt0/kn2hnt2.htm)
(藤白神社:http://www.ohagi.com/jisha/kumano/tsukumooji/hujishiro.htm)
そういえば、湖北は行基と泰澄の足跡がうかがえる場所で、湖北ほどではないが、同じように和泉市の山手にもそういうところがあったりするんだけど、そこにも円空の足跡が見られるのだろうか・・・。
・・・やぁだ、私ったらボケボケね。え?いつものこととちゃうの、と?いやはや、まったくその通りで。
「弥勒菩薩に化身した白山神」ということは、「弥勒菩薩」は「瀬織津姫」ってことになるんですよね。つまりは等式がごっちゃになってる、ということで。そもそも、サルタヒコ=ニギハヤヒってのはおかしいよね・・・。
あ、「園城寺縁起」に書かれているという、「弥勒」と「新羅明神」は一体というのは、同体ではなく一対だったら、行基ゆかりとされる神社では、祀られるべき形になっている、ということになるよね・・・。
徳島の東福寺の「三井曼荼羅」、興味深いでんな。
(http://www.toufukuji.or.jp/cgi-bin/toufukuji/sitemaker.cgi?mode=page&page=page2&category=1)
●2007.09.08(Sat.)・・・瀬織津姫&円空情報館を拝見して |
風琳堂さんのサイトの更新を昨日知り、拝見していたところ、ずっと気になってたことがいくつか出てきた。
(瀬織津姫&円空情報館:http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_plain)
かつての円空ならば、神明神社には天照男神像か薬師如来を、白山神社ならば白山女神像か十一面観音を彫像・奉納しておかしくはなかった。 |
「天照男神像」イコール「薬師如来」というのは行基もそうだったのかな、と。だとすると、私ってば自分でややこしくしてたんだなぁ、とも。
山梨の「柏尾山 大善寺」には、行基作とされるぶどうを持った「薬師如来」像があり、行基がぶどう栽培を勧められたという伝説があるそうで。
(http://katsunuma.ne.jp/~daizenji/engi.htm)
植樹のお告げということで、ふと思い浮かんだのは「五十猛尊」。神奈川の「白髭神社」は、「薬師三尊像」を彫るための香木を与えた「高麗王若光」と、「熊野権現」が祀られている・・・。
で、「神明神社」が南海本線堺駅近くにある。
これもまた「祭神の曖昧化」かな、と。(http://www.geocities.jp/easyclub_choro/ajys3.htm)
さらに、書かれていた続きには
ただし、養老の滝神をまつる養老神社の神は、「天照皇大神」(菅原道真を合祀)と奇妙な祭神表示がなされている(多岐行宮神社由緒)。これも、滝神である「天照大神(天照皇大神)荒魂」の「荒魂」を意図的に削除したものであろう。 『改訂近江国坂田郡志』(第五巻)は、志賀神社の祭神・由緒について、次のように書いていた。東黒田村大字志賀谷に鎮座す。同社は正治元年四月、摂津国武庫の地なる広田の神を勧請して志賀江安房倉社と称し、八幡宮と共に二社の土産神有りしが、明治二十五年十月是れを一社に合祀し、志賀神社と称するに至る。祭神天照大神、誉田別尊の二座なり。 |
とあり、なるほど〜と思いましたよ。
「天照皇大神」はほんと、ナゾでしたね。「応神天皇」とともに祀られていたし。空海の勧請ということで、何かあるだろうなと。
(http://www.geocities.jp/easyclub_choro/ajyy18.htm)
で、御前崎市佐倉に「池宮神社」があり、境内社「桜之宮」の御祭神が瀬織津姫ではないかとされていて、ふと思い出したことが。
大阪市内でまだ行ってない行基ゆかりのお寺、「九品寺」は北区同心にあり、電車なら環状線「桜ノ宮駅」が最寄駅で。その名の通り、桜の名所でもあり・・・ラブホ街でも有名だったりする。
駅名は近くの「桜宮神社」からかと思われるが、ネットでわかったことは、
善源寺の楠神社は桜宮神社の御旅所であること(http://www.ne.jp/asahi/m/mana/topic/2004maturi/kusunoki.html)
元和6年(1620年)の洪水で社殿が漂流してきたのを建立祭祀したのがはじまりと伝えられている、ということ
(http://www.asahi-net.or.jp/~PU7T-KMR/suntv1/suntv6.htm)
くらいだったが、「洪水で社殿が漂流してきたのを建立祭祀・・・」というあたりは興味深いですよね。
あ・・・行基の名前が出てきた。米原市の行基ゆかりのお寺というのは、初めて知った・・・ので、更新させていただきました。ご主人、ありがとうございます。と、ここで書いても、だけど。
うーん、弥勒信仰との関わりを考えると、聖徳太子もまた歴史から抹消したかった人物だったのかもしれないな、と。現に教科書から消されつつある。
行基がもう少し早い時代の人だったら、太子同様消される対象であったのかも、と。
だから秦氏は影の存在に徹していたのかも・・・。
●2007.09.16(Sun.)・・・瀬織津姫&円空情報館を拝見して |
「瀬織津姫&円空情報館」(http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_plain)で秀衡のことが書かれていて、かつてとんでもニャ〜で奥州について調べたことがあったなぁと探したら、2002/02/01(fri.)分にあった。
5年も前になるんだなぁ・・・。
で、その際に調べてた分に藤原清衡が出てきてたので、検索してみたところ、豪族亘理経清と安倍氏の女の間の子で、亘理氏は藤原北家の藤原秀郷(俵藤太)の子孫とされていた。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B8%85%E8%A1%A1)
藤原秀衡は清衡の孫。「北家」といえば先日もありましたが、「房前」の末裔ということになる。
で、「武隈の里」さんのサイト(http://www016.upp.so-net.ne.jp/otenki/index.html)を拝見していると、「陸奥守」に橘氏の名前もけっこうあるんだなぁ、と。「能因の跡を偲んで陸奥へ」と赴いた「西行」が興味深い。
空海の足跡を追って讃岐を旅したこと、陸奥には東大寺再建の勧進のために行き、その途中で鎌倉で頼朝と会っていること、伊勢に数年住ったあと河内弘川寺(大阪府河南町・空海が中興)に庵居したことなど、行基との繋がりを感じられ、世阿弥作「西行桜」には何やらありそうな・・・。
(参照「弘川寺」http://homepage1.nifty.com/PUU/newpage473.htm)
「西行の生涯を知る上で重要な書物の1つである「西行物語絵巻」」が、阿波蜂須賀家に伝来したというのも何やらありそうで。阿波蜂須賀氏は、たしかキリシタンだったような・・・。
しかし、藤原秀郷の流れをくむ秀郷流の武門の家柄である佐藤氏の嫡子として生まれながらも、保延3年(1137)に「北面の武士として奉仕」していたとされるあたり、びみょ〜だなぁ、と。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C)
(http://www.ochakaido.com/rekisi/jinup/jinup06.htm)
で、能因法師もまた橘氏の裔のようで、つまりは、諸兄と行基の繋がりを陸奥でも見られるような感じがして、秀衡と白山信仰の繋がりのウラには、橘氏の存在があるのでは、と。
もちろんそこには、秦氏らの存在もあるのではないだろうか、と・・・。
そういえば、2002/02/01(fri.)分に書いてる中で、清衡がどういう繋がりで近江鋳物師を招いたかが気になるなぁ。
「近江には栗東市辻をはじめ」として、鋳物師が活躍していたそうで。(http://www2.city.ritto.shiga.jp/hakubutsukan/sub18.htm)
栗東市辻の「辻遺跡」からは、古墳時代〜飛鳥時代にかけての住居跡や鏡の破片、平安時代後期の建物跡から銅製の小型仏像なども出土していて。
(http://www.pref.shiga.jp/edu/content/10_cultural_assets/gakushu2/data/2051/index.html)
栗東といえばJRAのトレセンのあるところで、書いた当時は馬との繋がりから、陸奥と近江鋳物師との繋がりを知ったわけで、奥州藤原氏の栄華をあらわすキーワードの「仏教・黄金・馬」を実感したのが、こんな風にに繋がるというのも不思議な縁で。
(http://myn.north-tohoku.gr.jp/kodawari/db01-m002-t007.php3)
で、当時もう1つ気になっていたのが「隼人」だけど、710年の「元日朝賀」に蝦夷と参加しているようで(http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/emisi.html)、その繋がりから移住した(させられた?)隼人がいたのかもしれない・・・ということは、阿部氏と大伴氏の繋がりから、ということになるのだろうか・・・。
●2007.09.17(Mon.)・・・京都・清水寺の地主神社について |
敬老の日ですね。森氏の著書によると、5年前の今日「アテルイの日」が制定されたそうで。
ようやく半分ちょっと読むことができ、そこに2度行基の名前が出てきて、後半に繋がるお話がでてきそうなので、それまで置いておきますが、「アテルイ」そして「坂上田村麻呂」のことが出てきたので、そのことについて書こうかな、と。
かつて行基の足跡を追って東北方面を調べてた時、田村麻呂と重複している、あるいは行基の跡を追ったかのような感じがしていて、どちらもそこでは敵視されていたわけじゃないように思えた。
でなければ、寺院や神社の建立はできないのでは、と。たとえ強制的にできたとしても、その地域の人々による維持・運営は、難しいように思うのね。
森氏もまた同じようなお考えでおられるように思い、発掘による考古学の方面からの解明を望んでおられるようで。
また、アテルイをはじめとする、蝦夷たちの供養の寺でもあってほしいと書かれていたのが「清水寺」で。
そもそものお寺の始まりは、「滝」がきっかけだったようで。そして御本尊は十一面観音。著書に、清水の舞台は御本尊にお見せするために造られたのではないかとされていて。
(「清水寺の縁起」http://www.kiyomizudera.or.jp/engi-yurai.html)
また、鎮守の「地主神社」では出雲の神々が祀られ、「祓戸大神」も祀られている。
(http://www.jishujinja.or.jp/jishu/kamisama/index.html)
つまり、田村麻呂は「瀬織津姫」のことをよく知っていて、東北で信仰されていることも知っているから、東征というより親睦という形で接していたのではないかと思われるわけで。
それは阿部氏らも同様と思われ、たとえ朝廷から弾圧の指示があったとしても、立場的には折り合いをつけて、いずれは和睦の方向へと考えていたのでは、と。
清水寺御由緒にある「子嶋寺」は「孝謙天皇」の勅願所とされており、「孝謙天皇」は聖武天皇の娘で、延鎮は法相宗の僧。行基と田村麻呂を繋ぐ糸が見えるようで・・・。
地主神社の「桜」、「世阿弥」の名があったりして、何やら気になりますね。
(http://www.jishujinja.or.jp/jishu/history/index.html#tyusei)
「御車返しの桜」といえば、住吉大社にもありました。
(http://www.geocities.jp/easyclub_choro/aha131.htm)
嵯峨天皇といえば、空海と繋がりがありましたよね・・・その関係から、田村麻呂との繋がりも考えられますね。
なお、ホームページにありますように、今日地主神社では午後2時から、65歳以上の方に「長寿箸」「開運こづち」が授与されるそうです。
●2007.09.18(Tue.)・・・森氏の著書より |
昨日の「清水寺」は、森氏の著書の第3部11章に書かれていて、12章では「法観寺」のことが。
写真は今年3月にゆーこが、「京都・東山花灯路2007」に行った時に撮って来たものだが、この塔が傾いていたのを法力で直したとされるのが、「浄蔵」という天台宗の僧で。
父は三善清行で、入手した五条の化け物屋敷から、化け物たちを諭して追い払ったとされる場面が、コミック「陰陽師」にありましたね。
また、その父と浄蔵が「道真」を調伏しようとする場面もあり、「新カルラ舞う」の番外編では、「浄蔵」が「将門」を調伏しようとしているのを、晴明がとめに入るという場面も。
で、著書に、「浄蔵」が「泰澄」の伝記を口伝したことが書かれていて、これってどこかで見たことがあるぞ、と。
そう、コミック「陰陽師」10巻で、「浄蔵」が塔を直したことについての場面のあと、晴明との会話にあった。そして道真の調伏をやめたのは、道真の背後にいる「菊理姫」の存在の大きさからではないかと、晴明が問うという・・・。
「浄蔵」が「泰澄」の伝記を知った経緯・・・田村麻呂の妻は「三善高子」とのことで、「浄蔵」との関連が想像され、その繋がりからのことかもしれないな、と。
そしてそのウラには、「スサノオ」の存在があるのかも・・・円空は「スサノオ」を女神として刻んでいたことがあるそうで、道真の背後におられるのは「瀬織津姫」ではないかと、コミックから感じ取れるわけで。
晴明はやはりこのあたりを知っていて、不動明王ファン(?)の道長との繋がりが深まったのかも・・・。
じゃ、道真との繋がりは?と、「菅原道真」「菊理姫」で検索してみたところ、いきなり行基ゆかりの神社が出てきた。
(http://www.fushikijinjya.or.jp/houmujinjya/main_houmu02.htm)
そこで「日枝神社」(六渡寺日枝神社)を検索したところ、
「この日枝神社は、一説に養老元年(717年)、全国行脚で知られるかの行基が、当地と二上村に滞在し、この社の境内に養老寺を建立したとの伝承があるほど、起源の古い聖地です。また、六渡寺の名は、平安時代に京都の六道珍皇寺から起こったものと言われています。」 (http://www.murocho.com/aji/kojyou5/kojyou5_7.html) |
とあった。
「六道珍皇寺」については、著書にもあったのでビックリし、さらにそのサイトの「味・歴史めぐり」には、キリシタンについてのことが書かれていて、宝篋印塔の写真も・・・。
(http://www.murocho.com/aji/index_aji.html)
「日枝神社」というと、滋賀・高月町の行基ゆかりの「赤後寺」のとなりにあったっけ。で、二上村の「養老寺」との関連については、行基ゆかりの「射水神社」に書かれてますね。「二上権現」は「ニニギノミコト」ですか・・・。
(http://www.imizujinjya.or.jp/kami/kami1_set.html)
あ、著書にあった「六道珍皇寺」については、「六波羅密寺」なども含めて書かれていて、頼朝のことも出てきたりするので、ちょっと調べてからでないと書けないなと、後回しにしておりまして・・・。
小野氏のことも含まれており、行基と小野氏も少なからず繋がりがあったように記憶しているものの、内容についてはほぼ忘れており、「閻魔」がそのうちの1つだったと思うんだが、そうなると「田村麻呂」にも繋がってくるんですよね。
大阪・平野区の「長寶寺」(御本尊:十一面観音)には、「閻魔王に関する伝承」がある。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%9D%E5%AF%BA)
また、その近所の「全興寺」には、聖徳太子作と伝えられている御本尊:薬師如来があり、境内には「地獄堂」が。
(http://allabout.co.jp/gs/eventkansai/closeup/CU20070123A/index2.htm)
それらのお寺の南約1キロのあたりは、道昭あるいは空海の伝承にちなんだ「瓜破」という地があり、そこから南東約1キロの大和川にほど近いところには、後期旧石器時代から江戸時代にかけての複合遺跡「長原遺跡」があって、その続きかと思われる「八尾南遺跡」からは、「龍」の絵画土器が出土しているんですね。
だんだんややこしくなってきましたが、森氏も何かお気づきなのではと、思ったりするわけで・・・。
続編。
「清水寺」の御縁起にある「延鎮」について、「子嶋寺」のファイルを表示しましたが、開山した「報恩大徳」について、とんでもニャ〜の2004/03/25(Thu.)分に覚え書きが。行基との関連、「スサノオ」「吉備津彦」との関連は謎のままだが。
「備前四十八ヶ寺」については、「Country Uncle」さんのサイトに詳細があり、「第1番 (銘金山観音寺遍照院)金山寺」に、「報恩大徳」について書かれているものの、「孝謙天皇」の加持祈祷を行うに至るまでがわからない・・・。
(http://www.asahi-net.or.jp/~wj8t-okmt/400-02-00oteraindex-bizen48.htm)
(http://mryanagi.hp.infoseek.co.jp/new_page_10.htm)
で、行基と小野氏の繋がりは、厚木市の「小野神社」にあるようですね。
(http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt0/kn2on1.htm)
「アラハバキ」が元の神社名「閑香明神社」の御祭神:閑香大明神ではないかと思われ、行基が刻んだ「薬師如来」であり、ひいては「瀬織津姫」かな、と。
ん?「横山党」って、和泉市の「男乃宇刀神社」の御由緒にある「横山彦命」と繋がりはあるのかな?「八坂神社」が関係しているようなので、気になったんだけど・・・。
話を「小野神社」に戻しますが、府中市と多摩市にもありますね。
(http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/tam/tama/tam/t007/t007t.htm)
厚木市の「小野神社」との繋がりが伺えるだけでえなく、「瀬織津姫」が祀られていたと、2007.04.19(Thu.)分に「風琳堂ホームページ」さんから引用させていただいていて。
また、府中市・多摩市の「小野神社」と、あきるの市の「小河神社」、大宮市の「氷川神社」、秩父市の「秩父神社」、埼玉県児玉の「金佐奈神社」、横浜市の「杉山神社」を合祀しているのが「大国魂神社」で、「六所宮」「六所明神」「武蔵総社六所宮」と呼ばれていて、行基との関連があるというのをとんでもニャ〜のどっかに書いたような・・・。
「小野神社」の小野氏・・・著書に、「六道珍皇寺」は平安時代に「愛宕寺」とも言われていて、山城の1つの郡で、小野氏の同族がいたとされており、それらが繋がるのではないかと思われるわけで。
で、太字にした「六」が、「六道」に関連があるかと思っていたんだけど、「六角形」「六芒星」かもしれないなと、ふと思ったりもして・・・。
先に「小野氏」と「閻魔」について書きましたが、2007.04.16(Mon.)分や2007.03.14(Wed.)分にも書いてまして。
著書では、「閻魔」と「地蔵」の関係について書かれていて、その中に行基ゆかりの「泉橋寺」のことがあり、また、「六波羅蜜寺」などにおける「泥塔」についての考察の中に、行基の「土塔」のことが書かれていて、これらをまとめて書くのに脳みその少ない頭を悩ませていて、結局はこんな書き方になってしまいまして。
石塔についての最後の方には、秀衡の家来「佐藤継信・忠信の石塔」のことや、鹿児島の「隼人塚」のこともあったし、「法西」という僧が「六波羅蜜寺」近辺や塔についての手掛かりになりそうとのことだったので、じっくり調べてみなければ、と・・・。
あ、「六波羅蜜寺」のことについて書かれている部分には、「空也」の「踊念仏」が行なわれていることも書かれていて、その舞台にある厨子には、中央に「十一面観音立像」が、その脇には「地蔵菩薩」「薬師如来」がある、とのことで、これも興味深いですよね。
2007.09.08(Sat.)分の「天照皇大神」についての追加。
2007.03.03(Sat.)分に、「「四天王寺」の鎮守とされていた「四天王寺七宮」の1つ、「大江神社」の南に「キリシタン燈籠」があり・・・」と書いてますが、その「四天王寺七宮」の1つ、「久保神社」の御祭神に「天照皇大神」がありました。
(参照:とんでもニャ〜6・2003/03/21(fri.) Vol.2分)
「久保神社」は「関帝廟」のとなりにあり、どちらもゆーこが小学生の頃、よく行ってた場所で。「天照皇大神」のほかに「熊野大神」「稲荷大神」も祀られていて、少し離れたところにあるスーパーの横には「熊野大神宮」跡の石碑があって。
また、「五條宮」の末社にも「天照皇大神社」がありますね。
聖徳太子ゆかりとされていることから、「瀬織津姫」との関連が気になり、東北へと向かった「蜂子皇子」がやはり気になるところで。
●2007.09.20(Thu.)・・・奪衣婆について |
18日に長々と書いたものの、読み返すと書いた本人でさえ何を言わんとしてるのかがわからん・・・すんません。
ただ、偶然にも森氏の著書に、「瀬織津姫」に繋がるであろう事柄があり、それが行基や秦氏、あるいは、それらに繋がるであろう氏族・事柄とかも絡んでたりするわけで。
推測の域を出ないから、思い込みであったりするかもしれないけど・・・。
さて、「閻魔」のことを先日書きましたが、「地蔵十王経」によると「閻魔」の本地仏が「地蔵」だそうで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BB%E9%AD%94)
上記URLにある「合邦辻閻魔堂西方寺」、創建は伝・聖徳太子とあるが、行基という説もあるようで、行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院であったりする。
とんでもニャ〜2007.04.16(Mon.)分に書いているように、行基ゆかりのお寺などに「閻魔」が出てきたりして、それらは「地蔵」や「奪衣婆」を意識してのことかと思われるわけで。
「全興寺」のことが書かれている「All About」のサイト(http://allabout.co.jp/gs/eventkansai/closeup/CU20070123A/index2.htm)に、「地獄堂」の写真があり、その中に「奪衣婆」の写真もあり、それが「瀬織津姫」と習合しているところもあるようで。
そして「奪衣婆」と「地蔵」も習合されている、あるいは同じような意識を持って刻まれているのかもしれないなと、森氏の著書を拝見してて思った次第で。
著書の中で最初に行基の名前が出てきたのは、「川を橋で渡ったところに地蔵が祀られている」例の1つとして、行基建立の京都「泉橋寺」があった。
そこから80ページほど読み進んだところに、清水寺本坊の「成就院」が、参拝用に架けた橋の通行料を徴収していたとみられることが書かれていて、「成就院」には「姥堂」があり、かつては橋のたもとにあったのではないかと思われているようで、「後考をまつ。」とのことで。
「奪衣婆」を祀る「姥堂」が川のたもとにある、というのが森氏の考古学的視野からのお考えかと思われ、同じような条件の場所に祀られている「地蔵菩薩」は、「奪衣婆」との関連があるのではないかと、私は思ったわけで。
今では少し離れているが、「閻魔」と「六地蔵」が安置されていた大阪・吹田の「常光円満寺」は、海上交通の要衝の地だったようで。
で、「六波羅蜜寺」(御本尊:十一面観音)には、重要文化財の1つに「地蔵菩薩」があり、その関連が気になるところで。
(六波羅密寺・六道珍皇寺:http://www.ne.jp/asahi/kiwameru/kyo/rokuhara.htm)
埼玉の空海ゆかりの「西福寺」にも、「閻魔」や「奪衣婆」が祀られていますね。
(http://www.ukima.info/meisho/kawaguti/saihukuji/kannondo.htm)
「長谷寺」にも「奪衣婆」が。
(http://www.hasedera.jp/kids/jizou1.htm)
栃木の行基ゆかりの「益子西明寺」にも、「閻魔」「奪衣婆」があるんですね。
(http://www2.ucatv.ne.jp/~jata-45.snow/q-saimyo.htm)
新宿の「太宗寺」には、「地蔵」「閻魔」「奪衣婆」だけでなく、「キリシタン灯籠」も・・・。近くにあるのは、玉川?蟹川?
(http://www.the-shinjuku.ne.jp/CONTENTS/IN/SPECIAL/2CHOME/TAIKEN/taishuji.html)
(http://c-kitamura.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/73_9aee.html)
(http://bird.zero.ad.jp/~zam77093/rokujizo2.htm)
「泉橋寺」とともに著書にあった宇治の「橋寺放生院」、太子の発願による河勝の建立で御本尊が地蔵菩薩・不動明王であることや、「十三重石塔」のあるあたり、興味深いですね。
(http://www.bukkyo.net/hasidera/)
あ、脱線してしまいましたが、「地蔵信仰」と「塔」に関連があるとして、著書に行基の「土塔」のことが出てきたので、「地蔵信仰」と「塔」で検索してみた。
「庚申信仰と地蔵信仰が習合していたしていたことが文面からも分かります。」と、平塚の「延命寺」の「六地蔵庚申塔」がヒットした。
(http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/zukan/sanpo/sanp0206.htm)
塔の六角柱になっている部分を見ると、他の信仰も習合されているように思えたりもするわけで、それが秋田の「道祖神」に見られるようで。
(http://www.geocities.jp/akitasaisei/ninngyou-gaso/ninngyou-hyou.html)
以上のことから思ったこととして、「地蔵信仰の霊場」や「六波羅蜜寺」の場所が、「閻魔」や「奪衣婆」との繋がりを想像させ、信仰が一般的になったり、習合することにより「塔」や「道祖神」、「石仏」などになったのかな、と。
(http://www41.tok2.com/home/kanihei5/iwafune.html)
そしてその根底にあるのが「愛」なのかな、と・・・。
「地蔵信仰」の1つとされる八尾の「常光寺」は、行基創建とされており、御本尊が小野篁の作「地蔵菩薩」で、狂言「八尾」の地蔵だそうで。(http://funabenkei.daa.jp/kyogen/yao.html)
「地蔵菩薩」によく見られるけど、篁の作である「地蔵菩薩」も、「安産」の霊験があるとのことで、行基ゆかりの安産のお寺の御本尊「阿弥陀如来」との関係が気になってきた・・・が、それは後日、ということで。
話がそれますが、拝見するサイトで多く目にするのが「芭蕉」の句碑や「謡曲」「浄瑠璃」「狂言」などで、後世に伝えたい「何か」があるんじゃないかと思えますね。
●2007.09.27(Thu.)・・・京都・隼神社など |
眠れなくなる前に読んでたコミック、先日ピラミッドを見て急に読みたくなった「陰陽師」の13巻で、そこに書かれてた「隼神社」が気になり、てっきり「隼人」と関係があるかと思いきや、「神奈備にようこそ」さんのサイトによると、御祭神:建甕槌神、配祀:經津主神とのことで。
(http://kamnavi.jp/yamasiro/hayabusa.htm)
社殿が2つ並んでおり、右がその「隼神社」で、左は「元祇園梛神社」で御祭神:素盞嗚尊、配祀:宇賀御魂命、伊弉冉尊、誉田別尊などで、876年に播磨国広峰から勧請された、と。
播磨国広峰・・・なーんか聞いたことあるなぁと調べてみたら、真備と聖武天皇が関係しているんですね。「素戔嗚尊・五十猛命を主祭神として正殿に祀り、左殿に奇稲田姫尊・足摩乳命・手摩乳命、右殿に宗像三女神・天忍穂耳命・天穂日命ほかを祀る。」と。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%AF%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
コミック「新カルラ舞う」で、真備が彫った「牛頭天王印」の板が祀られているとされているのを、2003/08/28(thu.)分に書いていて、2003/09/07(sun.)に上記の広峰に牛頭天王が祀られることになった経緯が、大阪・平野区の「旭神社」の御由緒に書かれていたことを書いていて。
「旭神社」もまた社殿が2つ並んでいるんですよね、いちょうを挟んで。
真備は何かを探しに唐に行った?広峰でお告げを聞いたのち、持ち帰った「砂」を祀った(尼崎・吉備彦神社)のには、何か深い意味がある?その影響もあって、行基は伊丹・尼崎でスサノオを祀った?
行基ゆかりの「富松神社」は、「23坊の1つにして祓所として、素盞鳴尊、薬師仏を祀り・・・」と御由緒にあり、末社に「熊野三山神社・皇大神宮(天照座皇大神)・白山比売神社」がある。
スサノオを祀る本社を北斗七星の柄の先端に、ひしゃくの底にあたる部分にそれらの末社が置かれている・・・。
うーん、ダメだ、寝ぼけたアタマじゃこんがらがるだけで・・・なーんか気になるんだけど、どう書けばいいのかがわからなくなってる。
ということで、一応覚え書きということで、読み流してくださいませ。すんましぇん。
ただ・・・原作の夢枕獏さんもまた、何かを言わんとしているってことなんだろうなぁ。「陰陽師」の13巻などにある、ピラミッドとの関連も気になるところだが・・・眠い。
●2007.10.10(Wed.)・・・房前について |
ゆっくり調べる時間がなくて、ぼ〜んやりと推測を重ねている事柄に「北家」のことがある。
そもそも「房前」自身もそうだが、「道長」「純友」「秀郷」「秀衡」そして佐藤氏の「西行」など、藤原家の中でも何か違うような気がして。
かつて調べてた時、「ウィキペディア」に、「邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。」とあった。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8C%97%E5%AE%B6)
兄の家よりも「北」に住んでいたというのは、意図的なものではないかと思い、兄の母方「蘇我氏」よりも「北」に居を構えられる立場というと、「物部氏」くらいしかないのでは、と。
馬子の本妻はたしか物部氏で、その娘は太子の子・山背にに嫁いだとされていたと思う。物部守屋の件があったとしても、豪族の血を取り込むにははずせない氏族だったと思われ、故に「北」に住んでいたのでは、と。
だけど「日本書紀」編纂の際には、その事実を隠さねばならなかったので、兄と同じ母であるとされていたのかもしれないが、地位の違い(?)は母方の違いを表し、住む場所で明らかになったとか・・・。
そうした背景が、秀郷と将門、頼朝と義経の関係にもあるのではないかと思えたりもするわけで、頼朝が行基ファンだったと思われるため、背後にはさらなる因縁みたいなものがあるように思えて。
が、しかし、奈良時代から外れると未踏の部分が多く、じっくりと調べないと繋がりはなかなか見出せないだろうなと思われ、今回もまた覚え書きに留まるわけでして・・・。
●2007.11.01(Thu.)・・・国栖一族など |
昨日の朝刊のコラム「大和時空散歩」で、「日本書紀」に応神天皇が吉野宮に行幸したことが書かれていて、その関連から「もみ」について書かれていて。
応神天皇の吉野宮行幸の際、「国栖」の人々が「浄見原神社」で舞でもてなしたという伝承があるそうで、その時に産物を持って行ったそうだが、吉野川上流に住む「国栖」の人々は、「味がよい」ことを「もみ」と言ってたそうで。
古代語「もみ」の否定語「もみなし」が「もみない」になり、さらに「もむない」になったのではないかとされていて、「大和に住み日頃『もみない』と言っている私は・・・」と、和田先生が書かれていて「え!?」と。
「もむない」って泉州弁だと思っていたんですよ。
かつて泉州人以外には通じなかったし、ずっと大阪市内に住んでてルーツが奈良(田原本町あたり)のヲタさんに「もむない」って言って通じなかったことがあり、改めて聞いてみても「聞いたことも言ったこともない。」と。
ということは、泉州人のルーツの多くは、吉野川上流の「国栖」の人々だった、もしくはその逆、あるいは分れ住んだ同族なのかな、と。
いや〜、変形しているとはいえ、古代語をしゃべってたというのを知り、おもしろいなぁ、と。
で、ちょっと調べてみた。
「神武天皇の東征のおり岩のなかからでてきたのが国栖(くず)一族」だそうで、「吉野首の祖」とのことで。(http://www.dab.hi-ho.ne.jp/ima2315/yoshino3/kuzu/kuzu.html)
「国栖奏」について→http://www.eonet.ne.jp/~azami/kuzu.htm
能「国栖」について→http://www.noh-kyogen.com/story/ka/kuzu.html
「蔵王権現」ですか。で、魚が生き返ったという話、行基にもあったような。たしか、刺身を口にして吐き出すと、小魚になって泳ぎだしたという・・・。
あ、「吉野首の祖」には「井光族」もおり、吉野・川上村に「井光神社」があるそうで。
(http://kamnavi.jp/ny/ikari.htm)
空海も立ち寄ったとされる「井光山」の、「井光大神」の縦穴式住居があったとされる近くに「善福寺」があるそうで、ご本尊が「薬師瑠璃光如来」、左脇侍が「役行者」、右脇侍が「蔵王権現」だそうで。
(http://urano.org/kankou/yoshino/yoshino8.html)
話がそれてしまいますが、「秘法蔵王権現浴油法ができるお寺」とあり、ちょいと気になりまして。
「浴油法」というと、聖天さんだけかと思ってたけど、検索したところ、仙台の「大観密寺」では「大黒天」が、奈良・信貴山の「玉蔵院」では「毘沙門天」が、「浴油法」によって供養されるそうで。
「大観密寺」http://www.daikannon.com/daikoku.html
「玉蔵院」http://homepage1.nifty.com/teapot/13butu-11.html
あれ?「善福寺」さんのサイトでは、脇侍は日光・月光菩薩になってるが・・・。(http://www.sikasenbey.or.jp/~zenpukuji/3.html)
ん?信貴山の「毘沙門天」は「双身」で、「千手院」で浴油法が行われていた?(http://syukubo.com/spot/05kinki/naraken007.html)
「吉祥天」と一体となったのが、「双身毘沙門天」ですか。(http://www.ne.jp/asahi/spring/jihou/bisyamon.pro.htm)
「仏母寺」さんのサイトによると、ご本尊「三尊尊王」は「毘沙門天」のことだそうで、全大日如来、不動明王、毘沙門天王の3つの姿を秘めておられる、とのことで。
また、「吉祥天」は「毘沙門天」の妻で、「吉祥天と弁財天は同じ」である、とのことで。
(http://www.butsumodera.com/cgi-bin/butsumodera/sitemaker.cgi?mode=page&page=page1&category=0)
あ・・・最澄が感得したとされる比叡山の「三面大黒天」は、「毘沙門天と弁才天が合体した福徳神」とのことで。
(http://www.biwa.ne.jp/~kanden/data/sitifuku/sitifuku.html)
「歓喜天」は「大日如来」と「十一面観音」とされていて。
(http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/kannki.htm)
で、「毘沙門天」と「吉祥天」であり、「三面大黒天」である、ということに?
「蔵王権現」と「十一面観音」、「薬師如来」と「不動明王」の関係が気になるところであり、「弁才天」で奈良・神野山の「王塚」の伝説や、行基ゆかりの竹生島「宝厳寺」の「弁財天」と「千手観音」もまた気になるところで。
信貴山に行ったのは6年前のことで、半年前、いや、昨日のことですら忘れていることが多いから、どこにどんなお堂があったか、よく覚えてなかったりする。
本堂で「戒壇巡り」をしたことと、「空鉢堂」に行く途中に「行者堂」があったのは覚えているが・・・。
ということで、信貴山のホームページを拝見した。(http://www.sigisan.or.jp/)
鉄砲のことで調べていた時に出てきた「覚鑁上人」ゆかりのお寺が「玉蔵院」で、「千手院は山内では最古の由緒ある寺」とのことで。
そういえば、「奈良・七福八宝めぐり」での「大黒天」は「子嶋寺」、「弁財天」は「安倍文殊院」で、「安倍文殊院」には「白山堂」が。
「子嶋寺」の「延鎮上人」が「千手観音像」を彫作し、音羽山麓の滝のほとりにいた行叡居士の旧庵にまつったのが、「清水寺」のおこりだそうで、脇侍は「地蔵菩薩」「毘沙門天」。
うーん、「瀬織津姫」が頭をよぎるのだが・・・。
●2007.12.06(Thu.)・・・雷神不動北山桜より |
朝はちょろぷ〜&小夏のトイレラッシュでバタバタしてるんだけど、午前2時過ぎにちょろぷ〜が1つ事を済ませてくれたので、テレビを見ている時間もできて。
ちょうど海老蔵さんのインタビューの時で、公演のタイトルを見てちと気になり、が出勤してすぐ、PCを立ち上げて調べてみまして。
「雷神不動北山桜」で五役をこなされるそうで、そのうちの「不動明王」、タイトルの「雷神」と「桜」、あらすじで出てくる「木の島明神」「閻魔大王」「雨乞い」「竜神竜女」あたり、な〜んか気になるんですよね・・・。(http://www.geocities.jp/gaulare/contents/best18/danjou_narukami.html)
(鳴神:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E7%A5%9E)
しかし、これ以上はわからず、そうなると余計に気になるもので。うーん・・・。
あ、あった、京都市北区雲ケ畑出谷町の「岩屋山・志明院」(http://www.kadode.com/simyouin.htm)に、「水の伝説として有名な歌舞伎十八番「鳴神」がある。」と書かれている。
御本尊が不動明王、内陣右が大日如来、両脇士が毘沙門天、歓喜天で、小角創建で空海が絡んでいるとなると、ますます何かありそう・・・。
ん?「奥院である根本中院には菅原道真の手彫と伝える眼力不動明王を安置」とあった。道真がなぜ???(http://tencoo.fc2web.com/jinja/xshimyo.htm)
(岩屋山・志明院の写真:http://ojiisan.seesaa.net/article/32095747.html)
そうか、コミック「陰陽師」でありましたね、道真の背後におられるのは「菊理姫」・・・だけど、それが実は「瀬織津姫」のようで、それならば道真が「不動明王」を刻んでも不思議はないのかも。
ということは、道真が祀られる以前から、瀬織津姫との繋がりがある、ということですよね。うーん・・・。
●2007.12.20(Thu.)・・・橋姫伝説など |
風琳堂のご主人が、「橋姫神について」を更新されていて、和久峻三氏の「遠野京都橋姫鬼女伝説の旅殺人事件」は、「遠野と橋姫を結びつけた作者の発想は実に興味深い。」とあった。
橋姫=瀬織津姫神で、すっかり忘れていたが、とんでもニャ〜の2004/10/27(Wed.)分に、小松和彦氏の「京都魔界案内」から引用させていただいて、そのことを書いていた。
御伽草子「鉄輪」は「橋姫」の伝説をもとに書かれているのが所以なのか、「遠野京都橋姫鬼女伝説の旅殺人事件」では、橋姫=縁切りの神とされ、宇治の「橋姫神社」が登場するようで。
たしか、ここも気になっている場所だったと思う・・・どこに書いたか忘れたけど、石造十三重塔とかがあったような。そして引用されているように、太子や河勝が絡んでいる・・・。
ま、それについてはもう少し調べてから書くとして、気になったのが「縁切りの神」。
9日にカラオケで歌った「縁切寺」との関連が気になったわけで。歌詞の♪源氏山から北鎌倉へ・・・から「東慶寺」のことで、「ウィキペディア」によると、「本尊は釈迦如来、開基は北条貞時、開山(初代住職)は覚山尼」。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%85%B6%E5%AF%BA)
文化財のところで、
「葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(ぶどうまきえらでん せいへいばこ)-いわゆる「南蛮漆芸」の遺品。「聖餅箱」はキリスト教のミサで用いる道具で、なぜ仏教寺院である東慶寺に伝わるかは定かでない。 |
とされていたが、もしどこかで行基が繋がるなら、さもありなん、なことで。
鎌倉には行ったことはないが、行基ゆかりとされるお寺がいくつかあり、頼朝・義経等と絡んで名前をみることが多かったから、そのあたりから繋がるのかも。
で、「縁切寺」は群馬県太田市の「満徳寺」もそうで、御本尊は阿弥陀如来、徳川氏の祖とされる得川義季の開基、とのことで。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%BE%B3%E5%AF%BA)
まだ行基との繋がりを探ってないんだが、まず「満徳寺」のホームページを拝見したところ、「縁切・縁結厠」に、
大阪の持明院に「縁切厠(えんきりかわや)」があり、その中で離縁を祈れば必ず縁が切れたといい、また京都の清水寺にも、縁切り・縁結び用の厠が二か所並んで建っていたと『浪華百事談』に記述されている。持明院の縁切厠(向かって右)には、橋姫大明神が、その背中合わせに縁結びの卯之日大明神が祀られている。 (http://www8.wind.ne.jp/mantokuji/shiryoukan/shiryou.html) |
とあった。「橋姫大明神」と「卯之日大明神」が、「一対神」として祀られているってことですよね・・・。
「卯之日大明神」と「清水寺」の厠についてはまだ調べてないけど、ふと「縁切坂」というのがあったのを思い出した。「高津宮」の「西坂」が旧「縁切坂」で、本殿横の「比売古曾神社」と関連がありそうで・・・。
(http://www.kouzu.or.jp/keidai.html)
調べる時間がなく、気になることが増えていくばかりで、ふと東北方面での、キリストの墓、応神天皇の伝説、蜂子皇子の行方もまだ調べてなかったな、と。
あと、太子が瀬織津姫が消されそうになっているのを知って祀り、それにより太子自身も消されかけているのかもしれない、というような気がして、それが何故なのかを調べてなくて。
また、瀬織津姫と道真の関係もそう・・・。
ただ、みょ〜な偶然があった、さださんの「縁切寺」の他に、「まほろば」では春日山が、「飛梅」では道真ゆかりの太宰府天満宮が出てくる。
繋がってるといえば繋がってるのかなぁ・・・「祓所」とされた行基ゆかりの「富松神社」に「春日大社遥拝所」があり、春日山あたりの地図を見たら「白藤滝」があった。
行基はその滝に想いを馳せていたのかも。行基ゆかりの和歌山の「藤白神社」、奈良の「白藤滝」、何かが隠されているような気がして・・・。