とんでもニャ〜Mの推測2−9
※役にたたない推測ばかりの駄文です。(爆)

2009.05.01(Fri.)

水曜に行った「弘川寺」と「狭山神社」、いずれも「九曜紋」だったんですよね、行基の「家原寺」と同じく。


家原寺本堂の合格祈願のハンカチ

狭山神社のお賽銭箱

「九曜紋」で思い出したのが千葉氏で、ウィキペディアで遡っていくと、桓武平氏の祖・葛原親王に辿りつき、父は桓武天皇で、母は多冶比真宗(多治比真人長野の子・貞子)とあった。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E7%8E%8B)

母が「多冶比氏」ということと、葛原親王の「葛」が気になり、ちょこっと調べてみたら、「嵯峨天皇」の異腹の兄弟で、玄孫に「平将門」がいるんですね。
(http://www007.upp.so-net.ne.jp/ofg/katurahara.htm)

「葛原親王関連史跡」が気になりますね、葛原親王の屋敷跡とされる乙訓郡大山崎町といえば、行基の「山崎院」のあった近くと思われ、一帯は秦氏のテリトリーで、「嵯峨天皇」の「河陽離宮」(現・離宮八幡宮)も同様かと。
(http://chiba504.hp.infoseek.co.jp/NEWPAGE3.HTM)
(http://kamnavi.jp/yamasiro/rikyuu8.htm)

森氏の著書の続きが、行基ゆかりの「法輪寺」が「葛井寺」だったことから、「葛井氏」との関連を探っておられたけど、「葛井氏」もまた秦氏との繋がりを感じられるわけで。

話を戻しますが、「葛原親王」が「平等寺」を太秦に建立したということも、秦氏との繋がりによるものかと思われ、「葛原親王」の領地説のある寝屋川市葛原が、異母弟の「万多親王」(茨田親王)と伝承が混同されているかもしれないが、「茨田堤」の繋がりから、秦氏と茨田氏の繋がりを表しているものと思われるわけで。

余談になりますが、万多親王の母は藤原北家魚名流・藤原鷲取の娘・藤原小屎だそうで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%A4%9A%E8%A6%AA%E7%8E%8B)

山科の「毘沙門堂門跡」、関連史跡の表には書かれてないが、行基と天海の名が出てくるお寺で、ウラでの秦氏の存在が見えるようで。

葛井親王が「上野太守」になったのも気になりますね、先日書いてた毛野国の開祖「豊城入彦命」の話に繋がりそうだし、8年後に「上野太守」になった「阿保親王」の子が業平だし・・・。

挙げていくといくらでも出てきそうですね。

「迦葉山龍華院弥勒護国禅寺」の「菊紋・菊水紋の服を着た大権さま風の木造は、葛原親王か?」とあるが、もしそうだとしたら、後醍醐天皇や正成に繋がる可能性もあるかも。

「甲斐国巨麻郡の牧であった「馬相野空閑地五百町」(旧山梨県中巨摩郡八田村・白根町、現南アルプス市)を与えられている。」の「八田村」も、先日書いたように秦氏のテリトリーかと。

南アルプス市(旧八田村)榎原にある「八田山 長谷寺」は、行基による創建で、御本尊の十一面観音は行基作とされているそうで。

で、他の「九曜紋」を用いる氏族も調べてみた。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%8F)

「佐久間氏」は、「三浦義明の三男である義春の四男、家村が安房国狭隈郷(現千葉県鋸南町下佐久間〜上佐久間)で称したのが始まりと言われる。」とのことで、「三浦義明」を調べたら「桓武平氏の流れをくむ相模介義継の子。」とあり、「葛原親王」か同母の兄弟に繋がるかと。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F)

「望月氏」は、「信濃国佐久郡望月地方を本貫地とした武家の氏族。」で、「滋野氏の流れを汲む」そうで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E6%B0%8F)

滋野氏
清和天皇の第4皇子貞保親王(陽成天皇の同腹の弟)が信濃国海野庄(現長野県東御市本海野)に住し、その孫の善淵王が延喜5年(905年)に醍醐天皇より滋野姓を下賜(滋野善淵)されたことに始まるとされる。
(中略)
「日本古代氏族人名辞典」によると「滋野氏は、紀(直)氏と同系氏族」とされており、紀伊国造と同系の楢原氏が最初と思われる。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%8B%E9%87%8E%E6%B0%8F)

とあり、「紀氏」と秦氏の繋がりからのものもあるかと思われるわけで。

「細川氏」は、「本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。家系は清和源氏の一流河内源氏の流れを汲む足利氏の支流。」とのことで、「清和源氏」については先日書いたと思うので割愛します。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F)

で、「相馬藩」の「相馬氏」は「葛原親王」の流れからでしょう。

ということで、行基や空海らが行なう「星祭り」も、秦氏との繋がりから、ということが言えるのかも。

葛−国栖・国巣・国樔−九頭・・・このあたりはかつて神奈備さんの掲示板で拝見して。
(http://kamnavi.jp/log/miwakuzu.htm)

葛と九曜を繋ぐのは、ラーフ?摩利支天や伏龍観とも繋がる?
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B9%A1%E7%A5%9E)

2009.05.02(Sat.)

森氏の著書で、後醍醐天皇の陵が「塔尾陵」というのを初めて知った。

愛宕での崇徳院が、「鳶」の翼をつけた天狗の姿である、というのは、何かで読んだような気がする。

が、「塔尾陵」と「鳶」を15ページほどの隔たりで見て、付箋を貼った部分を読み直して気になって。

「石上神宮」の元宮との伝説のある「桃尾の滝の石上神社」の、「桃尾を、饒速日尊が降臨した地とされる「とび:鳥見?」と読む異説もある。」と同じ「とび」かと思われて。

著書に「尾」は「小高い岡」を意味するとあり、「塔の尾」は「塔のある(あった)小高い岡」と思うが、「とび:鳥見?」と読む異説、つまりニギハヤヒや物部氏のテリトリーであることも意味してるように思えて。

「塔尾陵」は「とうのおのみささぎ」と読み、吉野の如意輪寺にあるそうで。
(http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/096/index.html)
(http://www.nyoirinji.com/tounou.html)

ということで、「塔の尾」で検索してみた。

兵庫県香美に「塔の尾城」があるようで、「飛鳥時代の679(天武天皇7)年、有馬皇子がこの地に逃れてきて、出石小坂の女との間にもうけた志乃武王がこの山に築城し、居城したと言われます。」とのことで。
(http://ameblo.jp/de1gts/entry-10225755455.html)
(http://k.fine.to/tajimanosiro/kino2.htm)

「有馬皇子」というと、中大兄皇子によって処刑されたんでしたよね、藤白坂で。無実の罪で。斉明天皇4年(658年)に。処刑されずに21年間、どこかに隠れてた?
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%96%93%E7%9A%87%E5%AD%90)

のちに行基ゆかりとなる「藤白神社」はニギハヤヒが祀られていて、「有馬皇子神社」がある・・・物部氏が逃したのかも?
(http://kamnavi.jp/mn/kinki/fujisi.htm)

滋賀・木之本町大音の現地案内板(大音区賤ヶ岳観光協会)に、「小字<塔の尾>にあり、浄明寺(廃寺)の西塔跡と伝える。 現在も地下に基礎の石が残っている。三重塔であった。」とあるそうで。
(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/h20040803.htm)
(http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2004toba/zyomyoji12.jpg)

木之本町というと、行基が開き、最澄がおっかけしてきた「鶏足寺」や、天火明命(ニギハヤヒ)を祀る「石作神社」や、空海ゆかりのお寺もあるし、道真の伝説もあって。

河内長野市天野町の行基ゆかりの「金剛寺」に、「銭弘俶塔」という府指定文化財があるそうで、「忍実上人が当山の塔の尾にて感得・・・」とあって。
(https://www.city.kawachinagano.osaka.jp/kakuka/kyousha/history-hp/bunkazai/date-base/isan-date/osaka-pre/kouko/fu13.html)

大分県臼杵市の「鎮南山」に「塔の尾」がある?「鎮南山と呼んでいる塔の尾」ともあって・・・。
(http://ai200108.cside.com/0203usuki.htm)
(http://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/ooita1.htm)
(http://www.city.usuki.oita.jp/modules/usuki_back/99/html/99_262.html)

山口・長門市の「湯本塔の尾」は小高い丘のようですね。
(http://www.gotjp.com/kitaura100/contents/173.html)

福岡県宇美町には「塔の尾公園」があり、詳しくはわからなかったが、宇美町は神功皇后が応神天皇を出産した地だそうで。
(http://ekoen.jp/fukuoka/c%B1%A7%C8%FE%C4%AE/d9677/)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E7%BE%8E%E7%94%BA)

あ、岡山県西粟倉村にも「塔の尾城」(堂の尾城)があるようですが、兵庫県香美の「塔の尾城」とともに「赤松氏」の名前があり、気になるところで。
(http://ns.vill.nishiawakura.okayama.jp/C.edu/02rekishi/C0214.01.html)

「赤松円心」は後醍醐天皇のため戦った人ですよね・・・村上源氏ですか。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E5%86%86%E5%BF%83)

西粟倉村の長尾にある「岩倉寺」、真言宗で小角の開基、御本尊が十一面観音、お寺の名前の由来となった「岩倉」、なーんか気になりますね。
(http://djv.libnet.pref.okayama.jp/mmhp/kyodo/kenmin/eyo/eyo-jisya-mimasaka03.htm)

長崎・西海市に「塔の尾」という地名があるようだが、詳しくはわからず・・・。
(http://www1.odn.ne.jp/tomas/ootao.htm)

山口・防府市桑山に、太子の弟・来目皇子の陵「塔の尾古墳」があるそうで。
(http://www.hofu.co.jp/colum/colum.cgi?ac=view&p=1003)

瀬戸内側の防府市と日本海側の長門市、関連はよくわからないけど、「来目皇子」の「陵」というあたり、気になりますね。

京都の綾部市と舞鶴市の境にある行基ゆかりの「弥仙山」、「塔の在りし所を塔の尾」とありますね。ここも小角の名前があり、ちと気になりますね。
(http://oyogi.haru.gs/misensangaido.html)

宮崎の西臼杵郡高千穂町大字岩戸塔の尾には慰霊碑があるそうだが、「天岩戸神社」近くのようで。
(http://miyazaki-sensokiroku.jp/modules/myalbum1/photo.php?lid=135&cid=17)

住所での検索では、大分県宇佐市安心院町塔尾、富山県南砺市塔尾、石川県加賀市塔尾町と、上記の長崎県西海市大島町(塔尾)があったが、いずれもよくわからず・・・。

で、愛宕の崇徳院は、

天狗はしばしば輝く鳥として描かれ、松明丸、魔縁とも呼ばれた。怨霊となった崇徳上皇が、天狗の王として金色の鷲として描かれるのはこのためである。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%8B%97)

とのことで、ウィキペディアに崇徳院を祀る「白峯神宮」のリンクがあり、見てみたところ、「飛鳥井家の屋敷の跡地」とあり、「飛鳥井家」は「藤原北家師実流」とのことで、妙な縁だな、と。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B3%AF%E7%A5%9E%E5%AE%AE)

「天狗」のところに書かれてた、「長い翼を持つ沙門となった後鳥羽上皇、龍車を駆る後醍醐天皇・・・」が興味深く、森氏も後醍醐天皇の恨みの深さについて、書かれてたし・・・。

で、「天狗と呼称されるもの」に「第六天魔王/第六天神社_(飯能市) 」があり、かつて調べたことがあった・・・「面足命・惶根命」、2008.11.10(Mon.)分に書いているが、はっきりした繋がりはわからず・・・。

「天狗」「金色のとび」で検索したら、「とんでもとらべる」さんのサイトの、奈良の「等弥神社」があった。
(http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/sakurai-tomi-shrine04.htm)

あ、「とんでもとらべる」さんの「崇道天皇社」のところに、「崇道天皇社の南に、l城寺というお寺があります。この崇道天皇社は、紀氏の氏寺である「l城寺」の鎮守としても祀られていたとも、紀寺天王とも、称されたらしいです。」とあって、「l城寺」といえば紀氏&行基ゆかりのお寺だったなぁ、と。
(http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/sudou-shrine03.htm)

そういえば・・・堺市内にも「登美丘」があるし、以前ちらっと書いたように津久野は「踞尾」で「尾」がつく・・・。

「登美丘」は「狭山池」の北約1.5キロあたり、「陶荒田神社」の北東約1.5キロあたりの場所で、「津久野」は「家原寺」の近くだから、いずれも秦氏あるいは近い氏族(物部氏・土師氏等)のテリトリーかと。

うーん・・・想像してた繋がりはあるような、ないようなで、結局は曖昧なままで終わってしまった・・・。

あ、「大日如来」の「三昧耶形」が「宝塔」だから、「塔の尾」はそのあたりと関連があるのかも?

2009.05.03(Sun.)

2009.04.29(Wed.)分に「和気清麻呂」のことを書きましたが、著書で再度出てきまして、姉の夫が「葛木戸主」ということで、「葛城氏」のことをすっかり忘れてたなぁ、と。

去年行きそびれた奈良の御所あたりは葛城氏の本拠地と思われ、近くには秦氏や行基の足跡も多く、古くから関連があるようで。

和気氏と秦氏も同様に、古くから繋がりがあるようで、

和気氏の元祖「鐸石別命」は日本書紀に記されている。古事記では「沼帯別」と記されている。河内国大県郡高雄山に葬られたとされ、鐸彦神社として秦氏などの金属技術集団が奉斎してきたとされている。
(http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-29.html)

とのことで、さらに、

「別(わけ)」は元々天皇・皇族の名前・称号であった。(例:「鐸石別命」・「武国凝別命」・「御諸別」・「千摩大別」など)その皇族が地方に領地をもらって地方官となったとき、その地方の地名を冠して「○○別」(例:磐梨別)と称するようになり、自然に皇別の地方官の通称になった。
(中略)
少なくとも彼等(広虫・清麻呂)が活躍を始める頃には和気氏が皇族出身の貴なる氏族であることは、公知になっていたわけである。
(中略)
要するに和気氏は、これらの殖産的金属製造技術を秦氏と関係しながら育成し、発展してきた氏族だったのである。これが土豪和気氏の原点的姿なのである。

とされており、秦氏やその関連する人たちが、「猪」の可能性が高そうで。

長岡京から平安京へ移ることを奏上したのが清麻呂で、そのことについて、

正四位下の清麻呂が上記のような最大の機密・重大事項を天皇に直接奏することが可能だったのである。勿論これは和気清麻呂自身を利する提言ではない。一つ間違えば打ち首・左遷ものの提言である。別のいい方をすれば、清麻呂しか出来なかった提言であった。

とされているあたり、興味深いですね。

長岡京の地も平安京の地も秦氏のテリトリーで、つまりは清麻呂が秦氏と桓武天皇の中継ぎをしたと思われるわけだが、遷都には「早良親王の祟り」以外の理由がありそうで。

長岡京造営の目的の1つには、「東大寺や大安寺などの南都寺院の影響力排除」があり、藤原種継暗殺に、東大寺と繋がりの深い早良親王が関与していたとされているが、秦氏は「東大寺」にかなり関わっていると思われることから、「南都寺院の影響力排除」をするようには思えないんだが・・・。

それに、「祟り」なら井上内親王(聖武天皇の娘)・他戸親王親子も、早良親王なみにあると思うのに、それほどのことは書かれてないようなのが不自然な気がして。

このあたりについてはかつて調べたことがあるが、何も見出すことはできず・・・。

で、著書にもあるように、一時期、空海と最澄がともに「神護寺」にいたようで。

上記サイトにも、「805年唐から帰国した最澄を和気広世がこの高雄山寺に招いて灌頂式を行っている。」とあり、そのことから最澄が「神護寺」に入るのはわかるが、空海と秦氏の繋がりがいまいち不明だった・・・が、

本論で記した和気氏は、11垂仁天皇を出自とする氏族であるが、参考系図に示したのは12景行天皇を元祖とする氏族である。有名な「倭建」の皇子「十城別」から「伊予別」が発生し、伊予国の和気氏はこの流れである。「武国凝別命」からは「御村別君」が派生している。別子銅山はこの流れが開発したとされている。

他に「別君氏」がおり、この流れは途中「因支首」姓を名乗るが、和気公姓となり、「和気公宅成」と空海の妹または姪と言われる娘との間に「円珍僧都(智証大師)」という名僧を輩出した。

とあり、「空海と讃岐和気氏の深い関係が窺える。」とのことで、なるほど、と。

推測を加えれば、讃岐和気氏の系図のどこかで物部氏が入ってるような気がして、それにより大伴氏の流れを汲むと思われる空海との繋がりが生じた、というのもあるのでは、と。

その推測のきっかけが、著書にあった「清麻呂と広虫との緊密な関係は、古代社会でも珍しいことであったらしい。」という部分で、その関係のたとえとして「卑弥呼」とその「男弟」のことを引用されており、そこから広虫がシャーマン的な存在に思われ、それは物部氏の血を引くからではないか、と。

で、著書の続きには、「神護寺」にある2体の「薬師如来」は、元は「神願寺」にあったものではないかとされていて、それらと清麻呂が宇佐に向かう途中で「脚が萎えていて立つことができなかった」と伝えられていることに、「関係はないだろうか。」と書かれていて。

それで思い出したのが、秦氏である「服部連」が祀る豊中の「服部天神宮」で、ここでは道真が脚気で「脚がむくんであるけなくなった」が、小祠に平癒祈願すると治ったので「足の神様」とされている・・・のが、医薬の祖神「少彦名命」で。

「薬師如来」も「少彦名命」も「瀬織津姫」と繋がると思われるので、そのあたりからも物部氏が浮かんできて。

と、今回もまた曖昧なままですが・・・。

このあと「神護寺」を再興した「文覚」について、森氏は「好きになれない」とされているし、ウィキペディアを見ると、ほんまに僧か?と思えるようだが、「文覚」「西行」で検索して出てきた、「西行学習ノート」を拝見し、「頓阿『井蛙抄』の中に西行がその文覚と対面する説話がある。」と、以下のことが書かれていた。

西行が訪ねてくると聞いて、日頃から西行のことを快く思っていなかった文覚が、今日こそは目に物言わせんと待ち構えている。文覚の弟子たちははらはらしているが、いざ西行と対面すると、和やかなふんいきのうちに終わって、何事もなかったように西行は帰って行く。そこで、弟子がどうしたことかと聞くと、 『西行は自分にぶたれるような面構えか、こちらのほうこそやられてしまう』と言ったという。
(http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/saigyo2/n004_1.html)

その文の下の段に、「文覚作と伝えられている西行像」の写真もあったが、よっぽど行基の方が強面のような気はするが。(苦笑)

どちらもかつて「北面の武士」で、その頃は「後に寺院の強訴や僧兵に対抗する時も効果を発揮した。」ということのようだったことから、そういう面を強調しての書き方をされたようにも思えて。

だから、山田昭全氏の「なまなかな僧でなかったらしい文覚をも威圧した西行の面構えは、信仰に裏打ちされたものではなかったか」で、「信仰の強さ」を「強面」で表現したのではと思った次第で。

それにしても、「文覚」「西行」「道鏡」、二条の「とはずがたり」での「有明の月」など、「僧」がやたら悪く書かれているように思い、そうした先入観によって何かを隠そうとしているようにも思えるんだが。

のちに真言寺院が焼き討ちにあったりしたことなどを考えると、時の流れとともに信仰も形態を変えることを知っている氏族が背後にいて、「真意を隠す」ことの必要性から、表現がそういう風になってるような。

だから「文覚」が配流されたのも、何かの目的や使命によるもので、それをを隠すために「強訴した」からということにして、「北面の武士」だったことを連想させるような書き方をしたのでは、と。

「伊豆国」で同じく配流の身だった頼朝に、「平家打倒の挙兵を促す」のは、何かのカモフラージュのような気がして・・・。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%A6%9A)

ん?頭の中に「摩利支天」が浮かんだ・・・。

そういえば頼朝は行基ファンだったように思うし、後白河天皇の信仰の中に瀬織津姫がおられたように思うから、「配流」という形をとって何かを「伝達」させたのかも・・・。

2009.05.04(Mon.)

昨日書いてた「文覚」のことから「不動明王」の話へと森氏の著書は移行し、場所も千葉へと。

コミック「陰陽師」を読んだことがある方なら、1巻で道真のすぐあとに出てきたので名前をご存知かと思われますが、「遍照寺」の「寛朝」が、「神護寺」の「不動明王」を持って行って将門調伏の祈願をした、と。

その際の「不動明王」を御本尊としたのが「成田山新勝寺」で。
(http://www.naritasan.or.jp/syoukai.html)

不動明王VS毘沙門天ですね、「寛朝」と「将門」を信仰の面で捉えると。

これに近いものを検索から引用させていただきましたね、2009.04.29(Wed.)に・・・「風林火山 摩利支天と毘沙門天の戦い」は「軍師と軍神の戦い?」というのを。

ウィキペディアを見てると、「山本勘助」が実在したか否かで意見が分かれているようだけど、そのあたりのことはよくわからないものの、「将門」の時も同様に、「軍師」と「軍神」の戦いの構図はあったのでは、と。

ちょっと複雑、というか、私自身もどう解釈していいやらと思っているところだが、信奉する人によって「軍師」と捉えるか、それとも「軍神」と捉えるかの違いと言いましょうか・・・。

元は同じだけど、たとえば「プロテスタント」と「カトリック」の違いや、真言宗でも「派」による違いみたいな感じ?春日神の1柱「姫神」と捉えるか、「瀬織津姫」と捉えるかの違いというか・・・。

違ってたらごめんなさい・・・でも、なんとなくそういう感じがして、そうなると信仰心よりも、自分の派閥の意見に従って捉えている、みたいな感じもあり、その神が傀儡というか、大義名分のようになっているようで、真意を忘れられているような気がして・・・。

それの最新版(?)が、明治から昭和にかけてのあたりのような感じもして・・・。

そう思うと、隠されている方が利用されるよりはいいのかな、という考えが浮かんだりもして・・・。

考えすぎ、というか、見当違いであればいいけど・・・。

いちばんいいのは、真意を歪められることなく正しく解釈されることだと思うが、資本主義社会の中においては、キビシイものがあるだろうな・・・。

私自身、えらそうにいえる立場じゃなく、アンチノミーな事柄について、自己の欲がつきまとっていることを承知しつつも、それを払拭しきれずにいて・・・。

話を著書に戻します。(苦笑)

あ、その前に余談・・・2日に検索で出た「塔尾」がつく住所を書きましたが、わりと近くに行基ゆかりのお寺があったので、一応書いておきます。

大分県宇佐市安心院町塔尾の西約12キロの院内町に「龍岩寺」、富山県南砺市塔尾の南西約2キロの城端西上に「善徳寺」、石川県加賀市塔尾町南西約3キロの山代温泉に「温泉寺」。

で、本はようやく半分ちょっとまで進み、次に書かれているのが「明恵」で、かつて和歌山の行基ゆかりのお寺を地図で見てた時、「明恵」という名のついた場所をみつけ、検索したことがあって・・・2007.01.18ですね。

自分で書いた文を読んではぁ?と思ったが、「旧吉備中学校校庭遺跡」での現説に行こうとしてて、「吉備インターで降りて鳥尾川に向かうらしく・・・」って・・・「鳥尾川」は「とびがわ」とも読めますよね。

しかし、「吉備インター」は「有田インター」に名前が変わってるようだし、「鳥尾川」を検索してもよくわからなくて。
(http://www.wabunse.or.jp/wakayamakennorekishi/aridagawachou/arigdagawachouchiritekikankyou.htm)

弥生時代の「旧吉備中学校校庭遺」があることから、その集落の信仰はあったのではないかと思われるが・・・。
(http://www.gensetsu.com/060826kibi/doc1.htm)

「有田川町」には、空海が「丹生高野雨宮と麻利支天を勧請し之を岩倉大明神となづけり」という「粟生岩倉神社」や、明恵ゆかりの「浄教寺」などがあり、山手だから滝も多くあるようですね。
(http://www.town.aridagawa.lg.jp/asobu/index.html)
(http://www.yumearida.jp/guide/theme/spot.php?mode=list&cate=2&ofst=10)
(粟生岩倉神社:http://www.naxnet.or.jp/~sanso-ao/tpc-jinjya.htm)

で、広島県の「鳥尾川」もヒットして、「太古の伝説を秘めた比婆山連峰」や「牛曳山」とかが気になったけど、こちらも詳しくはわからなくて。
(http://www.geocities.jp/heartland_kaede9328/kena.htm)
(http://homepage2.nifty.com/sakai070403/GPS/hibayamajyusoo.htm)

ふと「比婆神社」で検索してみると、のりちゃんさんのサイトの彦根の神社がヒットし、「古事記には、こうあります。『このお隠れになった伊邪那美の命は出雲の国と伯耆の国との境にある比婆の山にお葬り申し上げました』」とのことで、関連がありそうな気もして。
(http://www.norichan.jp/jinja/renai2/hiba.htm)
(神社近辺の山の写真他:http://cont4.mech.usp.ac.jp/~minagawa/ryozen/hiba,iwasu.html)

のりちゃんさんが書かれている俗信、以前ちょこっと書いたけど、瀬織津姫が連想される場所にもあって・・・。

「比婆山」で検索していると、「霊仙山は白鳳9年(681)役行者が開山、霊仙寺は奈良興福寺の末寺として養老元年(717)毘廬舎那如来(大日如来)を本尊として泰澄が開基」とあった。
(http://www.geocities.jp/ishildsp2004/kikou/siga2.htm)

そのページのすぐ下に、「虎姫山(虎姫町)の虎御前姫は、水神であったが今は、阪神タイガースの勝利の女神となっているので・・・」とあり、瀬織津姫とのご縁がここにも?と。

上記ページの「三子山」に、瀬織津姫、気吹戸主命、速佐須良命が祀られていたことと、西行の歌が書かれていた・・・やはり西行は瀬織津姫を想っていたんだなぁ、と。

さらにその下の「那須ヶ原山」のところには、栃木県の茶臼岳の山麓にある「那須野ヶ原」との関係を気にされているようで。

「下野国」「芭蕉」の文字を見て、関係がありそうだし、「油日神社」は「ずずい子」さんですね、「田遊び」の。こちらもまた瀬織津姫に繋がるのかも・・・。
(http://www.norichan.jp/jinja/shigoto2/aburahi.htm)

庄原市の「比婆山」には「伊弉冉尊の御陵」があるそうで。
(http://www.geocities.jp/ishildsp2004/kikou/hirosima2.htm#27)

安来市のサイトによると、「比婆山」に「久米神社」があるようで。
(http://www.city.yasugi.shimane.jp/p/2/11/4/6/)
(http://www.geocities.jp/ishildsp2004/kikou/simane-izumo.htm#5)

うーん、本題に入る前に座ってるだけでもキビシくなってきたので、明日体調が良ければ「明恵」について書こうと思います、すみません。

2009.05.06(Wed.)

先日ちらっと書いたように、2007.01.18分では現説に行く目的で地図を見て、それにより「明恵」を知って、行基ゆかりのお寺近くということで、関連があるかどうかを少し調べてて。

今回、森氏の著書を拝見しているうちに、これはじっくり調べなければ、と。

2007.01.18分に書いたように祖父は「湯浅宗重」だが、ウィキペディアによると「湯浅宗重」は「藤原北家流藤原宗永の子とされる」とのことで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B5%85%E5%AE%97%E9%87%8D)

明恵は神護寺に文覚の弟子「上覚」を師として出家したが、「上覚」は明恵の叔父で湯浅宗重の子であることから、神護寺には来るべくして来た、という感じのようで、瀬織津姫が見えるような・・・。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E8%A6%9A)

その「神護寺」と、のちに賜る「高山寺」だが、その位置関係すら知らなかったので地図を見たところ、「神護寺」と「高山寺」の間に「西明寺」があり、「西明寺」を調べると、空海の弟子・智泉が「神護寺」の別院として建立した、とのことで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82))

で、「高山寺」は「創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。」と。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%AF%BA)

今の高山寺の地にあったとされる「度賀尾寺」は、「都賀」は「日の出」を表すと思われるので、「日の出の光の射す丘」のようで、明恵はこの地と「日出先照高山之寺」という扁額を「後鳥羽天皇から賜った」と、著書にあった。

ただ、著書によるとあまり高くない山だそうなので、推測するに、お寺というよりも秦氏が祭祀を行なう場所としていたのでは、と思われて。

で、「明恵」で検索してヒットした「臨済禅 黄檗禅 公式サイト」に、

西行と明恵は同時代人で奇しくもこの二人は、一夜、相い逢うて歌談を交わしたと、明恵の伝記は記している。
(中略)
涅槃会に因んで、西行と明恵という純一無雑に釈尊を恋慕しつくした二人の仏者のことを、思わずにはいれないのである。
(http://www.rinnou.net/cont_04/myoshin/2002-02a.html)

とあり、森氏の著書にも明恵が歌を詠んだことが書かれていたが、「一夜、相い逢うて歌談を交わした」り、「恋慕しつくした」のは、瀬織津姫のことなのでは、と。

「西行が明恵に対して和歌の道に入ってゆくための心得を説いたもの」として詠んだとされる、

山ふかくさこそ心はかよふとも すまであはれは知らんものかは
(山深く心を通わせても、住むことがなかったなら、どうして「あはれ」を知ることができるだろうか)

(http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/saigyo2/n013_3.html)

は、「心を通わせても」に瀬織津姫への想いが込められているようで、西行が明恵に語ったという「和歌観」、

歌は即ち如来(仏)の真の姿なり、されば一首詠んでは
一体の仏像を彫り上げる思い、秘密の真言を唱える思いだ
(http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic23.html)

というあたりに表れているようで。

「明恵」での検索の続きで、

明恵はまた、「月の歌人」として知られ、数多くの月の歌を詠んでおられます。
(http://59155480.at.webry.info/200804/article_3.html)

とあり、

書きつくる跡に光のかかやけば冥(くら)き道にも闇ははるらむ
(人が書き付けた筆跡に、この光明真言が光り輝けば、冥土の闇路も明るく照ることでしょう。)

(http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/myoue.html)

と詠まれているあたり、意味深ですよね。

で、上記の「時空を越えて」さんのページの最初に出てくる「明恵上人樹上坐禅像」について、著書によると「地上には明恵が脱いだ歯の高い下駄が置いてある。」とのことで、よく見ると木の根元に下駄があり、「天狗」として描かせたのかも・・・。

「後白河天皇」は頼朝に「日本一の大天狗」と評されたようだが、その立ち回りのことだけでなく、千手観音への信仰心に「天狗」(山の神?)を連想させるものがあり、明恵もまたそれに近づこうとして歯の高い下駄を履き、それを描かせたのではないだろうか・・・。
(http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic23.html)
(後白河天皇:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87)

で、「時空を越えて」さんの「明恵 運命の恋」を拝見すると、「明恵上人( 1173-1232 )は義湘と善妙の物語に深く心を寄せました。」とあり、その物語の中に、

はるか沖に、彼を乗せた船を見つけると、悲しみの余り海に飛び込み、龍に姿を変え、義湘の船を守り,無事故国、新羅まで送り届けたのです。
(http://59155480.at.webry.info/200808/article_1.html)

とあって、「善妙」が瀬織津姫に繋がるのかも・・・だから、明恵建立の尼院「為因寺」が、初めは「善妙寺」とされたのではないかと。

そのページには、

名古屋大学教授の磯部隆氏は、その著「華厳宗沙門 明恵の生涯」の中で、善妙のモデルとなった女性は実在し、それは明恵の叔父、湯浅宗光の妻、糸野御前である、としています。

とあり、森氏の著書では、「母への追慕の心と関係するのであろう」とあったけど、西行と明恵、円空もだと思うけど、「恋慕」したのは瀬織津姫なのでは、と・・・。

明恵が2度もインドへの旅を計画したのは、瀬織津姫−善妙に出会うためと思われるが、糸野御前が「春日明神」の神がかりとなって旅を中止させるのは、インドではなく、今は日本におられることを言いたかったのかも。

「時空を越えて」さんの「明恵上人4」で、

ユング心理学者の河合隼雄氏はその著書、「明恵 夢を生きる」のなかで、「明恵の渡天中止とインドにおける仏教滅亡の年が重なり、この共時性(シンクロニシティー)にわれわれも心を打たれるのである」と述べています。

と、ありますが・・・。

糸野御前もまた、瀬織津姫への思いにより出家したように思われ、「明恵 運命の恋」のページに、「春日明神」は「ただ勧請奉りて御体安置せず」とあるのは、春日神の1柱「姫神」は瀬織津姫の本来のお姿ではない、ということを言わんとしているようで・・・。

明恵が玄奘の旅行記を参考に企画していたようだが、それは玄奘のインド行きが、経典を持ち帰るだけの目的ではなく、瀬織津姫のルーツ(善妙?)を探しに行った、ということだったのかも・・・。

ということで、「時空を越えて」さんのサイトで多くを学ばせていただきました。

ただ、「明恵上人」のリンクがちとわかりにくかったので、ご興味がある方で順に読まれるのを希望される場合、以下のURL順にコピペされると読みやすいと思われます。
(拝見してる時、すでに出てた分を含めてブラウザが11個になりました。苦笑)

明恵上人1(京都 神護寺を訪ねて):http://59155480.at.webry.info/200804/article_3.html
明恵上人2(京都 高山寺を訪ねて):http://59155480.at.webry.info/200804/article_4.html
明恵上人3(明恵上人の「不思議」な現象と 「あるべきようは」):http://59155480.at.webry.info/200805/article_2.html
明恵上人4(生涯の夢破れる時 渡天(インド行き)の中止):http://59155480.at.webry.info/200805/article_4.html
明恵上人5(明恵 夢記(1)耳切り事件):http://59155480.at.webry.info/200806/article_2.html
明恵上人6(明恵 夢記(2)大孔雀王の夢、塔を昇る夢):http://59155480.at.webry.info/200807/article_1.html
明恵上人7(明恵と女性):http://59155480.at.webry.info/200807/article_4.html
明恵上人8(明恵 運命の恋):http://59155480.at.webry.info/200808/article_1.html

義湘(625〜702):新羅の僧で、新羅における華厳宗の祖。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E6%B9%98)

元暁(617〜686):新羅の華厳宗の僧侶。新羅浄土教の先駆者。興輪寺の法蔵に華厳を学び、650年, 義湘と共に唐に渡ろうとしようとしたが、高句麗軍隊のために失敗した。661年また義湘と唐に渡ろうとしようとしたが、偶然に骸骨に溜まった水を飲んで真理を悟って帰って来た。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%9A%81)

浮石寺:義湘大師が華厳経を広める為に建てたという華厳十刹の一つで、「善妙龍は寺の守護神として、無量寿殿の本尊の下で石龍と化して現在もその鱗模様をほんのりさせていると・・・・」とのことで。
(http://www.jade.dti.ne.jp/~kocha/meisatsu/data/pusok/pusok1.html)
(http://www4.nasuinfo.or.jp/~kaki/tabi/2008/pusoku/index.html)

森氏の著書によると、「華厳縁起」の絵巻は明恵の構想によって作られたと言われているそうで、絵巻の「元暁」は、「明恵上人樹上坐禅像」の明恵に似ているとか。

「義湘」は「中国の玄奘がインドからもたらした新唯識を習うために、同学である元暁(617-686)と共に中国留学の旅に出た。」とのことで。
(http://jp.koreanbuddhism.net/master/priest_view.asp?cat_seq=407&priest_seq=74&page=1)

玄奘と唯識・・・瀬織津姫のルーツのヒントかも?

明恵は「善妙寺」を「蓮華谷」に建てたそうで、そこは「善妙大明神」が祀られている場所の北東だそうだが、検索ではそのサイトしか出てこなくて・・・。
(http://kaiyu.omiki.com/zenmyo/zenmyo.html)

そういえば・・・2004/02/18に書いてましたね、
「瑜伽師地論」が弥勒菩薩との関係が深いこと(瑜伽師地論は弥勒または無着の著)
「宇佐八幡宮神宮寺」が「弥勒寺」(もと虚空蔵寺)であること
「弥勒」と「新羅明神」は一体であると「園城寺縁起」に書かれているとのこと
と・・・。


上記で西行の文字を見てて、先日お参りした「弘川寺」の鎮守社の「八所権現」が気になり、検索したところ、見つかった神社・寺院は以下の通りです。

■小菅神社
長野県飯山市大字瑞穂内山
主祭神:八所権現
・諸伝承によれば、役小角が開山した修験寺院・小菅山元隆寺が小菅神社の起源。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%8F%85%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E9%A3%AF%E5%B1%B1%E5%B8%82))
・後に行基菩薩登拝され八所権現の本地の尊像を彫刻し一堂を建立して加耶吉利(カヤキリ)堂と名ずけられた。

(中略)
桓武天皇延歴年中征夷大将軍坂上田村麿東夷征伐の折り参拝し戦勝を祈り凱旋後平城天皇の大同元年(806)1,180年前にその報賽として八所権現の本宮とカヤキリ堂を再建した。
(http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/honji/files/KOSUGE.html)

■真弓神社
茨城県常陸太田市真弓町陣ケ峰
御祭神:大己貴命・少彦名命
・大同2年(807)創立(社伝)。坂上田村麿、大伴乙麿、北征の日此処に八所権現を斎祀。
(http://www.oyashiro.or.jp/link/0002.html)

■雄鋭神社
宮城県栗原市栗駒稲屋敷高松
御祭神:速須佐之男命(合祀:軻遇突智命)
・人皇第十二代景行天皇の御宇、日本武尊東夷征伐のおりに勧請されたという。後、大同二年(807)坂上田村麿により再建。
(http://www.genbu.net/data/mutu/odono_title.htm)

■岩本山 実相寺
静岡県富士市岩本
御本尊:十界曼荼羅、鎮守:八所権現
・開創は平安末期の久安年間(1145〜50)。比叡山・横川の智印が、鳥羽法皇の勅願寺として建立した天台密教の寺院だった。
(http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-7.html)

■真福寺
愛知県岡崎市真福寺町薬師山
御本尊:薬師如来
・伝説によれば物部守屋の次男 真福が山上に湧き出る泉を発見し、これを広く世の人に分け与えようと、聖徳太子に願い出て建立した寺といわれています。
創立年代は明らかではありません。真福寺創建以前すでに御霊を祀った祠があり、その祠を八所権現と称し白山比当スを祀る白山社を奥の院と称しました。
(http://okazaki-city.forluck.info/400/120_1/)

■坂井熊野神社
鹿児島県熊毛郡中種子町
御祭神:熊野権現
・享徳元年(一四五二年鉄砲伝来の九十一年前)、第十代島主種子島幡時公が、平素から崇拝していた紀州(和歌山県)熊野権現に詣でて、小さな小石を御分霊として請うて帰り、島内の地熊野山中に点祀したのが始まりです。その後、周辺に豊受神社、恵美寿神、霧島神社等を八ヶ所に配祀して八所権現、八方神と称し本社を守護しているといいます。
(http://www.furusato-tanegashima.net/ky-geinou/kumano-urayasunomai.html)

■御器所八幡宮
愛知県名古屋市昭和区御器所四丁目
御祭神:品陀和気命、木花開耶姫命、五男三女神、天児屋根命、弥豆波能女命、菊里媛命、天照大御神、熊野大神、八剱大神、高蔵大神、山王大神
・創立年代不詳と伝えられております。一説には五十四代帝であらせられる仁明天皇勅願社熱田神宮鬼門方位の守護として鎮座されたとも伝えられており、嘉吉元年(西暦1441年)の棟札によれば八所大明神として尊称され、現名古屋市昭和区の東部に位置しており、御器所荘一帯の総鎮守として鎮斎されていた社であります。
(http://www015.upp.so-net.ne.jp/gokiso/)

■杉山社
神奈川県横浜市都筑区
御祭神:?
・除地、詳ならず、村の北にあり、上屋二間半に三間、内に僅かなる本社を置南 向なり、神体は木の立像、束帯の状にて長二尺許、古き神体は不動木の立像長一尺五寸許、凡作にあらずと云、秘して妄(みだり)に拝せしめず、本地は 八所権現 なり、いま其社は村の北の方に立り
(http://home.s08.itscom.net/wtnb36/basyo/50ikebe.html)

■牧峯神社
大分県速見郡日出町赤松
御祭神:?
・昔から八所権現といい享禄元年(1528年)両子峰より遷座して願成就寺と同一境内にあったが、明治の神仏分離令で願成就寺が現在の位置に移転したものである。
(http://www3.coara.or.jp/~chidokan/anani-huziwara.html)
(http://tenjin.coara.or.jp/~primrose/zenzin1.html)

■八所権現
新潟県笹神村(権現山)
御祭神:?

(http://www.geocities.jp/ishildsp2004/kikou/niigata3.htm#19)

■言代神社
大阪府茨木市大字佐保
御祭神:言代主命
・江戸時代は八所大明神叉は八所権現と称していた。
(http://miya1999.hp.infoseek.co.jp/kotosirojinja.htm)

いずれも気になるのですが、長野県飯山市の「小菅神社」が「役小角が開山」、のちに行基が訪れているということで、「弘川寺」に近いように思い、まず「本地垂迹資料便覧」さんから抜粋させていただくと、

役小角、諸国遍歴の折当地に逍遥してその山容の秀麗と霊気に感じ絶頂に登って神人(素盞雄尊即馬頭観世音の化身)の霊告を受け、岩窟内に一祠を建て馬頭観世音(素盞雄尊)を祀り、めい目合掌していると熊野・金峰・白山・立山・山王・走湯・戸隠等七ヶ所の諸神忽然と出現したまう。

とあり、ウィキペディアでは、

小菅山八所権現
権現(神名)勧請元本地仏
熊野権現(伊弉冉命)熊野三山阿弥陀如来
金峯権現(安閑天王)金峯山(吉野)釈迦如来
白山権現(伊弉諾命)白山十一面観音
立山権現(大国魂命)立山無量寿仏
山王権現(大己貴命)蔵王薬師如来
戸隠権現(手力男命)戸隠山正観音
小菅権現(摩多羅神)(小菅山主神)馬頭観音

とのことで、多少ズレがあるように思うが、多くは瀬織津姫に繋がるかと思われ、ウィキペディアの「小菅権現」に相当するのが、「本地垂迹資料便覧」さんの「走湯権現」のようで、「走湯権現」は「伊豆権現」で「瀬織津姫」であるのは、風琳堂さんのブログに詳しく書かれていて。
(http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C1%F6%C5%F2&sk=1)

「小菅権現」の「摩多羅神」について2008.04.20分に、「仏になればアミダとなり神になればマタラジン」、「楚の太陽神であり竈神」と引用させていてだいてて、後者は現在URL切れになってましたが、前者の分はありました。
(http://www.st.rim.or.jp/~success/ennin_ye.html)

で、「安閑天王」は以前にも首をかしげてたような・・・。

堺市美原区(旧 南河内郡美原町)の「広国神社」の主祭神で、

和風諡号は、『古事記』に広国押建金日命、『日本書紀』に広国押武金日天皇とある。また『日本書紀』では、諱を勾大兄皇子としている。
継体天皇の長子。母は尾張目子媛。
(中略)
後世、神仏習合の教説で蔵王権現と同一視されたため、明治時代の神仏分離以降に、従来蔵王権現を祭神としていた神社で安閑天皇を祭神とし直したところが多い。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%96%91%E5%A4%A9%E7%9A%87)

安閑天皇が亡くなったとき、その子供が居なかったために弟の宣化天皇が即位した。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%8C%96%E5%A4%A9%E7%9A%87)

「尾張目子媛」もかつて出てきたことがあって気になるんだが、頭の中がごちゃごちゃで・・・。

2007.05.26分に、「そうすると、浦島太郎=道満=ホアカリ=ニギハヤヒ=継体天皇、乙姫=弁財天=継体天皇妃であり、乙姫=豊玉姫=豊受=瀬織津姫=神功皇后の妹、という図式になったりするようだが。」としていて、「乙姫と八百比丘尼の関係が気になるし、道満は秦氏でしたよね。ホアカリは物部氏で。」とも。

うーん・・・。

それにしても、かつて書いた日光街道近くにあるという行基ゆかりのお寺に安置されていた「馬頭観音」は、やはり瀬織津姫だったんですね。

そしてスサノオも繋がったわけで・・・。

2009.05.08(Fri.)

6日の検索であった岡崎市の「真福寺」の、「伝説によれば物部守屋の次男 真福が山上に湧き出る泉を発見し、これを広く世の人に分け与えようと、聖徳太子に願い出て建立した寺といわれています。」というが気になってまして。

お寺の公式サイトによると、「本堂の中心に八角の御堂があり、 その中の井戸の水が本尊である。(中略)水の信仰がつづいている。」ということで、「日吉神社」を思い出し、こちらも瀬織津姫ではないかと。

「毘沙門天開山堂」の説明にある「開山、真福(まさち)長者は、毘沙門天の化身であることから、 堂内に本尊として、お祀りしてある。」というのも気になりますね。
(http://www.shinpukuji.com/jiin/index.htm)

上記の分でちと気になったので、ウィキペディアに載っている「真福寺」を見たところ、「1612年(慶長17年)、徳川家康の命令で犬山城主の成瀬正茂によって、真福寺の一院である「宝生院」が名古屋城城下に移転」したという「大須観音」も、また関連がありそうで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A0%88%E8%A6%B3%E9%9F%B3)

「宝生院」があったとされる「真福寺」は、岐阜県羽島市にある真言宗の寺院で、

元亨4年(1324年)に後醍醐天皇が大須郷(現岐阜県羽島市桑原町大須)に北野天満宮を創建。元弘3年(1333年)に同社の別当寺として僧能信が創建した真福寺が当寺の始まりである。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%A6%8F%E5%AF%BA_(%E7%BE%BD%E5%B3%B6%E5%B8%82))

とされていて、「真福寺」の隣には「徳林寺」があり、文化財の1つに円空作の「不動明王坐像」があるそうで、家康はそれらを知っていて大須に移したのでは・・・。

で、宮城県仙台市の「真福寺」は、

若林区土樋にある時宗の仏教寺院である。広沢山無量院と号す。広瀬川の左岸に位置する。13世紀に葛西領の登米郡で建てられ、伊達氏の支配下で岩出山に、ついで仙台へと移った。
(中略)
はじめ真福寺が立てられたのは登米郡にある葛西氏本拠地の城下であった。
(中略)
境内に一つの仏堂があり、安国上人と子育明神を合わせ祀る。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%A6%8F%E5%AF%BA_(%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82))

とのことで、「伊達氏の支配下で岩出山に、ついで仙台へと移った。」という寺社は数多くあるようだが、現在仙台市太白区向山にある「愛宕神社」も同様のようで。

「愛宕神社」の場合、伊達氏の本拠地・山形県米沢市から移されたようで、「天狗」の絵馬があり、「伊達氏の武将片倉重長が大坂の陣で戦功を立てたときに烏天狗を夢に見たことにより、片倉氏の子孫が奉納したもの」だそうで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82))

「片倉重長」は「片倉景綱」の子で、紋は「九曜」なんですね。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%80%89%E6%B0%8F)

「片倉景綱」は米沢・広幡町の「成島八幡神社」の神職・片倉景長の次男だそうで、「成島八幡神社」は「蝦夷討伐のためこの地に下ってきた大伴駿河麿によって宝亀8年(777年)に建立されたといわれている。」とのことで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%B3%B6%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

「大伴駿河麿」が気になりますね。茨城県常陸太田市に大同2年に田村麻呂と「八所権現を斎祀」したという「大伴乙麿」が、大伴駿河麿と同じように北征しているというのも。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E9%BA%BB%E5%91%82)

で、「成島八幡神社」が「分霊」したという仙台市青葉区の「大崎八幡宮」は、

社伝では坂上田村麻呂が宇佐神宮を鎮守府(胆沢城)に勧請し鎮守府八幡宮と称したことに始まり、室町時代に入り奥州管領であった大崎氏が本拠地(現宮城県大崎市)に遷したため、大崎八幡宮と呼ばれるようになったという。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE)

とのことで、このあたりには繋がりがあるように思われて・・・やはり「瀬織津姫」ではないかと。

「青葉神社」の神主は、「仙台藩家老・白石城主片倉家の16代当主」だそうで、「伊勢神宮地方と同じ様に、毎月初めの午前10時から「朔日参り」の祓いが今も続けられている。」というあたりなども・・・。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E8%91%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

宮城県仙台市の「真福寺」にあった「安国上人」と「葛西氏」が気になり、検索してみたところ、

「安国上人」は、「大崎義孝」(大崎氏第13代当主大崎義隆?)の子という伝承や、晴明のように「狐の子」という伝承もあるようで・・・それってひょっとしたら、お稲荷さんとの関連のあることを示唆している?

だとすると、秦氏との関連も考えられるわけで・・・。
(http://legend.main.jp/50-wakabayashiku-018-kaminikyouikusaretasou-00-a.htm)

後醍醐天皇皇女「瓊子内親王」は、「安国上人の弟子となり西月院宮安養尼と称し、父の開運を祈りその後天皇の勅願所として安養寺を建立した。」とのことで、後醍醐天皇と安国上人の繋がりも気になるところで。
(http://www.eonet.ne.jp/~a-honda/anyojitera/tottori724.htm)

「時宗遊行派で本尊は阿弥陀如来。寺伝には正中二年(1325)、安国上人の開基で、片倉小十郎景綱の時代に現在地に移った」という白石市の「常林寺」について、他には情報を得られなかったが、元はどこにあったのか、現在地に移った経緯など、気になりますね。
(http://accord.at.infoseek.co.jp/VOL5/tera.htm)

単なる偶然かもしれませんが、京都市左京区にある「常林寺」には、「常林寺が建つ以前からこの地に祀られ」ていたという「世継子育地蔵尊」があるそうで、仙台市の「真福寺」で安国上人と「子育明神」が合わせ祀られていることから、繋がりがありそうな気もして。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%9E%97%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82))

で、「葛西氏」は、「葛西氏初代の葛西清重は平姓秩父氏一族の豊島氏当主豊島清元(清光)の三男」で、豊島清元は「桓武平氏の流れを汲む坂東八平氏のひとつ秩父氏の一族」とのことで、先日書いた「葛原親王」あるいはその三男・高見王の子・高望王に繋がるかと。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B3%B6%E6%B8%85%E5%85%83)

で、仙台市太白区向山にある「愛宕神社」の建つ「愛宕山」から、大窪谷地という谷をはさんで南に「大年寺山」があるそうで、「愛宕山」が「向山」であることと「大年」に関連がありそうな気がして。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E5%B1%B1_(%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82))

伊達綱村は1696年(元禄9年)に、廃寺になっていた仙英寺を茂ヶ崎に移し、大規模な寺院の造営に乗り出した。翌年、黄檗宗の鉄牛和尚が招かれ両足山大年寺を開いた。これ以後伊達家代々の墓所となり、江戸時代にはその保護を受けて広壮な伽藍を営んだ。当時の大年寺は、全国の黄檗宗の寺院の中でも規模が大きいものであった。明治になってから廃仏の風潮を受けて伊達家が仏式を止めたため、荒廃した。今も残る建築物は南の入り口にある惣門だけである。
(中略)
伊達家との関係が切れた黄檗宗は、昭和の初めに大年寺を再興した。これが現在の大年寺で、昔の門前にあたる山麓にある。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B9%B4%E5%AF%BA%E5%B1%B1)

とのことで、山の名は「大年寺」に由来するようだが、寺名の由来はわからなくて・・・ひょっとしたら「大歳神」が祀られてたのかな、と思ったんだが。

ただ、「古墳時代には中腹にたくさんの横穴墓が作られた。」とあり、「茂ヶ崎横穴墓群」について、

造成された時期には、南西に数キロはなれたところに当時の陸奥国府である郡山遺跡があり、向山横穴墓群にはこれとの関連が指摘されている。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%82%E3%83%B6%E5%B4%8E%E6%A8%AA%E7%A9%B4%E5%A2%93%E7%BE%A4)

とのことで、「向山」と「陸奥国府」との関連によって伊達家が移ってきたとも考えられそうで。

で、時間がなかったので、その他の真福寺を詳しく調べられなかったが、堺市美原区の地名についてを「大阪府地名大辞典」で見たところ、「地名は式内社と伝える櫟本神社の別当寺櫟木山真福寺にちなむ。」とあった。

「櫟木山真福寺」は、天平年間、行基による開基で、のちに叡尊がこのお寺で布教活動したそうだが、明徳2年(1391)頃に兵火によって焼失した、とのことで。

「櫟本神社」は現在「丹比神社」に合祀されているが、

創立の時この地に櫟の大木があり、応神天皇の御孫瑞歯別皇子(反正天皇)が、この大樹を賞して「丹比の櫟本」と名づけたのに由来すると伝えられている。
(http://www.geocities.jp/engisiki/kawachi/html/041308-01.html)

とのことで、「江戸時代は「八幡」と称していた」と・・・。

「丹比神社」は「江戸時代は「若松天神」と称していた」そうで、「丹比連の祖神を祀ったのが創建」とあり、御祭神は火明命、瑞歯別命(反正天皇)。
(http://www.geocities.jp/engisiki/kawachi/html/041301-01.html)

「火明命」はニギハヤヒで・・・。

「櫟」というと、京都「松尾大社」の摂社「櫟谷神社」が思い出され、御祭神「奥津島姫命」は日本書紀第三の一書に「市杵嶋姫」とあり、瀬織津姫かと・・・。

岡崎市の「真福寺」同様、物部氏が絡んでいるように思え、その背後には秦氏などが見え隠れしているようで。

「開山、真福(まさち)長者は、毘沙門天の化身」から、著書にあった「毘沙門天」に繋ごうかと思ったけど、長くなってしまったので明日にします。(苦笑)

2009.05.09(Sat.)

みょ〜に長野県飯山市の「小菅神社」の「加耶吉利(カヤキリ)堂」が気になる・・・。

が、検索では「加耶吉利堂」という名前になった理由とかはわからなくて。

ひょっとしたら、と思ったのが「馬頭観音秘密呪法」の「護身結界呪法」の真言「おん となとな またまた かたかた かやきりば うんうんばった そばか」で。
(http://www5.ocn.ne.jp/~hoci/mikyo/batou.htm)

他にも少しわかったことがあるので、そのあたりを書きますと、「八所権現」は奥社に祀られているようで。

「内陣東端には甘露池と呼ばれる小さな池があり、これも他の宮殿とともに神格化されている。」とされており、別のサイトによると「小菅山は、自然信仰の時代には水分神が祀られ・・・」とのことで、「甘露池」が祭祀の対象になっていたと思われ、すなわち瀬織津姫なのでは、と。
(http://www.city.iiyama.nagano.jp/gyousei-jouhou/gj-kanrigakusyu/furusato/bunkazai/kosuge-okusha.html)
(http://www.janis.or.jp/users/tks/kosuge1.htm)
(http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/1066800/%8F%AC%90%9B%90_%8E%D0+(%94%D1%8ER%8Es)/9/)

で、同じ地区に「犬飼神社」があり、「葛木犬養神」とあったのが気になったので検索してみまして。

すると、「犬飼神社」は飯山市のほかに長野市にもあり、松本市は「犬飼山御嶽神社」があって。
(長野市・上中犬飼神社:http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/chubu/shrine/kaminaka/kaminaka.htm)
(飯山市・飯山・犬飼神社:http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/chubu/shrine/inukai/inukai.htm)
(犬飼山御嶽神社:http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/chubu/shrine/inukaisanontake/inukaisanontake.htm)

「上中犬飼神社」のところに、「戸隠山は手力雄命を氏神とした犬飼氏が紀州から移住してきた地として知られ、戸隠神社の代々の宮司は犬飼氏が務めてきました。」とあり、紀州からの移住には、行基・小角・空海などの足跡が見られることなどから、紀氏や秦氏が絡んでいるのかも、と。

そして「結界」という言葉が出てきたので、「かやきり」は「馬頭観音秘密呪法」なのかも、と。

で、「葛木犬養神」で検索したら奈良・御所市の「駒形大重神社」がヒットし、「駒形神社」は「木股神」といわれているが不詳、「大重神社」には「葛城雅犬養連網田」とも「滋野貞主」とも書かれており、祀られている神がはっきりしないようで。

大重神社は延喜式(10世紀初頭に完成)に登場する神社ですが、それよりも約200年ほど古い文献の大和史料には「葛木犬養神」と記されています。醍醐天皇の時代に、藤原時平が平安時代に編纂した延喜式には大重となっているから、犬養を大重と写し間違えられたものと思われます。
(http://www.city.gose.nara.jp/kankou/gra/1katsuragi_5komagata.html)
(http://kamnavi.jp/as/katuragi/komagata.htm)
(http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2007/08/post-97de.html)

とされているので、「犬飼神社」との繋がりがあるとすれば、「大重神社」には「葛城雅犬養連網田」が祀られていると思われるのだが・・・。
(葛城雅犬養連網田・滋野貞主についてはのりちゃんさんのサイトに書かれていました。http://www.norichan.jp/jinja/shigoto/komagataoshige.htm)

あ、「楢原氏が祖とする滋野貞主を祀った滋野神社建立。これをを式内大重神社に比定したもの。」とのことで、「大重神社」の御祭神が重複してるのかも?
(http://www.geocities.jp/engishiki01/yamato/html/030510-01.html)

で、「木股神」はとんでもニャ〜2006.11.24分に書いてたりするんですが、「御井神」であり、「高木神」であり、「坐摩神」のうちの「生井神・栄井神・綱長井神」である、と。

でも、それ以上はわからなかったんで改めて検索すると、長野市武石村の「子檀嶺神社」では、「宇賀御魂命(別名、木股神『神名帳考證』)」とされていて。
(http://blog.goo.ne.jp/ypjcd447/e/1e34a5db6d3d79ea5ad4f1df6d236e00)

「宇賀御魂命」は「瀬織津姫」と思われるわけで・・・「駒形神社」は「馬」に関連があり、「馬頭観音」に繋がり、やはり「瀬織津姫」に繋がる・・・。

「犬養部は犬を用いて屯倉の守衛をしていたという説」があるそうだが、のちに「牧」の管理にも犬を用いて携わっていたとしたら「馬頭観音」と繋がるようにも思われるので、「駒形神社」との方が繋がるような気もする。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E9%83%A8)

ま、それは「駒形大重神社」が合祀された理由が、そうした関連性があってのことならば、という前提での推測になるが・・・。

余談ですが、長野県松本市の「浅間温泉」は、「939年(天慶2年)に地元の豪族犬養氏が発見し、「犬養の湯」と呼ばれていたこともあります。」とのことで、移ったのはそれ以前のようですね。
(http://www.onsenba.com/100/post_70.html#more)

そういえば、R309を走ってて弘川寺へ向かうのに左折する前、「このまままっすぐ行って水越峠越えたら、御所市通って吉野に行くねんで。」と言われたっけ・・・。

あ、コミック「陰陽師」10巻に、「駒とは龍・・・頭の白蛇がミソでな」と・・・。

2009.05.10(Sun.)

検索してて夢枕獏さんの記事に辿りつき、「西行」についての連載を「一冊の本」という月刊誌でされているというのを知り、とあるブログを拝見して、まだ核心に触れるところまではいってないのかな、と。
(http://ak7kagekiyo.way-nifty.com/blog/cat7533448/index.html)

「精霊の王」を読んでみたい・・・。(http://book.asahi.com/clip/TKY200612190369.html)

森氏の著書から、「毘沙門天」のことを書く予定をしてて、先を読んでいるうちに「摩多羅神」が出てきて、「摩多羅神の曼陀羅」に「北斗七星」があるということから、「坂上田村麻呂」と「毘沙門天」を連想し、「摩多羅神」と「毘沙門天」が繋がらないかと検索していて、上記のを拝見したわけで。

「摩多羅神」の検索で、天台宗の「玄旨帰命壇」は「比叡山の常行三昧堂の本尊である摩多羅神を祀って修する一種の口伝灌頂」で、「淫祠邪教扱い」されたとあり、真言宗の「理趣経」と似ているのかも、と。
(http://www.weblio.jp/content/%E7%8E%84%E6%97%A8%E5%B8%B0%E5%91%BD%E5%A3%87)

「理趣経」は「不空」が訳したとされるが、「玄奘訳の『大般若経』の中に『理趣経』の原初的な文面が見出されるため・・・」とあり、インド行きを計画した「明恵」や、先日書いた「「然」が宋で知りたかったのは、「理趣経」「阿弥陀経」「東寺の夜叉神」と、「玄旨帰命壇」「魔多羅神」との相違のことのように思えて。
(http://www.weblio.jp/content/%E7%90%86%E8%B6%A3%E7%B5%8C)

その理由が、

円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して常行堂へ勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めた

ということからかと思われ、「「然」は宋で「五台山」を巡礼した・・・のかもしれないが、なぜ「阿弥陀如来像」ではなく、「三国伝来の釈迦像」と呼ばれる「釈迦像」を模刻して持ち帰り、「棲霞寺」の境内に「五台山清凉寺」を建立して安置しようとしたのか?となるが。

そもそも「棲霞寺」には、源融の発願による「阿弥陀三尊像」を安置していたから?それとも「阿弥陀三尊像」と「釈迦像」は、「対」を成す像だと捉えていた?

となると、明恵ゆかりの「高山寺」に「兜跋毘沙門天」の像を安置したのは、空海に真言密教を伝授した恵果の師である「不空」が考案したとされるから?「不空」の肖像画があるということは、その信仰心の強さゆえ?

ただ、コミック「陰陽師」に、晴明が愛宕に登ると中国の「五台山」に通じていて「龍」が来た、という場面があり、誰かが愛宕と五台山を繋いだ?って呟いているけど、繋いだのは「「然」と思われ、繋がったのは「釈迦像」が安置されたから、ということのようで、愛宕に現れた「龍」が「魔多羅神」なのかも。

「「然」は938年2月25日〜1016年4月25日、晴明は921年〜1005年10月31日で、晴明の墓所は「京都嵯峨にあり、渡月橋の近くにひっそりと眠っている。」とのことだから、生前嵯峨野で遭遇してたかもしれないが・・・。

それにしても、持ち帰ったという「釈迦像」に、「「然」が「へその緒」を入れたというのは呪術的な感じがするが、「不空」の肖像画もそうなのだろうか・・・。

で、今のところ、「摩多羅神」と「毘沙門天」での検索で見つかったのは、

〔日本の巫覡とミトラの出会い〕
古代・中世・近世の日本において、ミトラを降ろした巫子は何人もいたであろう。
(中略)
彼らのもとには、神道・陰陽道・修験宗・仏教の知識しかなかったので、自分たちが出会った神にもっとも近いイメージをこれらの中から探して、弥勒・妙見・毘沙門天・摩多羅神であると考えた。
(http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraic_Theology_Comic_Itsuki.html)

で、「ミトラ(ミスラ)」とは、

イラン神話に登場し、英雄神として西アジアからギリシア・ローマに至る広い範囲で崇められた神。インド神話の神ミトラと起源を同じくする、インド・イラン共通時代にまで遡る古い神格である。その名は本来「契約」を意味する。
(http://www.weblio.jp/content/%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%A9)

とのことで、「瀬織津姫」や「善妙龍」などに繋がるのかも・・・?

このあたりについては、かつて「とんでもニャ〜」でも調べたことがあったと思うが、その頃から今にかけてもまだよくわからずにいるわけで・・・。

夢枕獏さんの連載「宿神」は、中沢新一氏著「精霊の王」を絡めて書かれているふしがあり、「精霊の王」について書かれているサイトを拝見すると、「魔多羅神」は「宿神」のようで、瀬織津姫に繋がるようだが・・・。
(http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seireo00.html)


「魔多羅神」の左右の丁禮多・爾子多のニ童子が、「左手に茗荷を持って舞う姿をしている。」というのが気になり、「茗荷」で検索してみたところ、京都府与謝郡与謝野町明石の「須代神社」の「みょうが祭」がヒットした。
(http://nodagawa.ktr-tetsudo.jp/2009/02/post-358.php)
(http://www.kamimoude.org/jinjya/yosa-distr/yosano-cho/ys-sushiro/index.html)

さらに検索すると、

境内にあるみょうが田の発芽状況で、その年の稲作豊況を占う神事。須代神社の茗荷祭の起こりは、明治30年頃、綾部市にある阿須々岐神社から当時の氏子が茗荷の苗 を譲り受け、須代神社の神田に移植したのが始まりだそうです。
(http://www.hotel-kitanoya.jp/main/amanohashidate/topics.cgi)

とあったので、「阿須須伎神社」を検索すると、京都府綾部市金河内町東谷に鎮座されているようで。
(http://www.kamimoude.org/jinjya/ayabe-city/sanku/ab-asusugi/index.html)
(http://www.geocities.jp/k_saito_site/album16.html)
(http://www.genbu.net/data/tanba/asusuki_title.htm)

あと、兵庫県美方郡新温泉町竹田の「面沼神社」には「お茗荷祭り」があるそうで。
(http://www.genbu.net/data/tajima/menuma_title.htm)
(http://www.tanshin.co.jp/zaidan/2bunka/37omyouga/index1.html)

また、広島県尾道市瀬戸田町の「茗荷神社」の末社「生石神社」では、例祭に「茗荷神楽」があり、その内容が興味深くて。
(http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200904060065.html)
(http://blog.livedoor.jp/tossan5/)

兵庫県朝来市山東町粟鹿の「粟鹿神社」では、「茗荷神社」に「草野姫命」が祀られていて、この神については以前「牛」での検索で出てきて、別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」と。
(古事記では鹿屋野比売、日本書紀では草野姫)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E9%87%8E%E5%A7%AB)

「鹿屋野比売」は2009.03.17分の「樽前山神社」で出てきてますね。

「草野姫命」で検索を続けると、和歌山県海南市重根の「千種神社」(あしがみさん)が出てきて、以前書いたことがあったなぁ、と。
(http://gejirin.com/src/dic/DIC_Ti.html)

あと、関連についてははっきりしないが、栃木県那須塩原市塩原に「茗荷温泉神社」があった。
(http://www.city.nasushiobara.lg.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1141987893636&SiteID=0000000000000&FP=seclist&RK=1195398511036)
(http://www.geocities.jp/momiji0286/bunkazai.html)

地名では、新潟県南魚沼市茗荷沢に「諏訪神社」が。
(http://www.niigata-u.com/files/ngt2007h/070804b1.html)

関連性は調べてないが、「茗荷」のつく地名は検索では9つあった。

福島県古殿町(石川郡)大久田(字茗荷)
福島県矢祭町(東白川郡)茗荷(字歯朶平)
福島県福島市立子山(字茗荷作)
福島県喜多方市山都町木幡(字茗荷乙)
岩手県陸前高田市小友町(字茗荷)
宮城県東松島市宮戸(字茗荷)
奈良県奈良市茗荷町
福井県越前町(丹生郡)茗荷

で、おまけ(?)として、

[ミョウガの名前の由来]
大陸からショウガとともに持ち込まれた際、香りの強いほうを「兄香(せのか)」、弱いほうを「妹香(めのか)」と呼んだことから、これがのちにショウガ・ミョウガに転訛したとの説が有力である。なお、名の由来に関しては下に挙げるような俗説がある。

釈迦の弟子である周利槃特(梵語:チューラパンタカの音写で、しゅりはんどく、スリバンドクなど)が、自分の名前を忘れてしまうため、釈迦が首に名札をかけさせた。しかし名札をかけたことさえも忘れてしまい、とうとう死ぬまで名前を覚えることができなかった。その後、死んだ周梨槃特の墓にいくと、見慣れない草が生えていた。そこで「彼は自分の名前を荷って苦労してきた」ということで、「名」を「荷う」ことから、この草に茗荷と名付けた。

この説は前掲の「物忘れがひどくなる」という話とともに、民話「みょうが宿」から一般化し、人口に膾炙(かいしゃ)するようになったもので、学術的な根拠はない。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%97%E8%8D%B7)

とのことで。

2009.03.23に「はじかみ」を祀る「波自加彌神社」のことを書いたけど、関連がありそうな予感も・・・。
(http://www.genbu.net/data/kaga/hajikami_title.htm)

2009.05.11(Mon.)

2009.04.07のナイショにゃに「とはずがたり」にある「今様」のことを書き、「西行を意識しての虚構なのか、それとも他に何か意味があるのか、よくわからないでいるが、上記の「蹴鞠」と繋がるような気もして・・・。」のあたり、惜しいな、と。(苦笑)

先に夢枕獏さんの連載のことを知っていたら、中沢氏の著書を読んでいたら、「とはずがたり」の見方も違ったかもしれないし、すんなりと森氏の著書にある「魔多羅神」が繋がっただろうに・・・。

ま、2008.11.07分に書いてた「それにしても・・・大黒天はリンガ?金精様?オシリス?なーんて思ったりしましたよ、ウィキペディアのリンクを辿っていると。」は繋がるみたいで、らっき〜、と。

まだまだ繋がりは断片的のような感じですね、現状としては。

ということで、に買ってもらった「精霊の王」、先に読んでみようかな、と。

ひょっとしたら、森氏の著書にあったが調べきれなかった「パルメット文」や、そのあとに出てくる「車折神社」にも、繋がるものがあるかもしれないし・・・。

うーん、「八帖花伝書」の記述の解釈、

楽屋は暗黒の空間であり、出番を待ってこの中にじっと身を潜めている芸人は、自分はいま母親の胎内にいるのだと観想しなければならない。

興味深いですね。コミック「陰陽師」では、異なる場所にいながらにして、晴明が博雅の音を繋いでいたりして、「空間」における神秘性を感じますね。

蹴鞠の達人・藤原成通:熊野の説話(http://www.mikumano.net/setsuwa/kemari.html)
謡蹟めぐり 翁(http://www.harusan1925.net/1205.html)
花伝書(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E4%BC%9D%E6%9B%B8)

2009.05.12(Tue.)

昨日の夜、チュートリアルのお2人が、大日のあたりを歩いておられるのを見て、そういえば何で「大日」なのかな、と。

検索しても出てこなくて、地名辞典で調べたら「茨田郡にあった大日堂に由来する。」とのことで。

「茨田郡」というと、秦氏や行基などに関連のあるお寺だったのかもしれないなと思いつつ検索していると、「河内十七箇所」がヒットした。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E5%8D%81%E4%B8%83%E7%AE%87%E6%89%80)

「鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部(現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪市鶴見区中・東部)に存在した17箇所の荘園(後、惣村)群のこと。」だそうで、「大庭庄:(守口市佐太、大日、大庭町、八雲)佐太はかつて菅原道真領」と。

さらに「現在の佐太天神社は大宰府配流の途上、道明寺(当時は土師寺の名である)に伯母を訪ねる前に道真が滞在した代官白太夫の邸宅跡に当たると言われる。」とあった。
(佐太神社:http://kamnavi.jp/en/kawati/sataten.htm)

「代官白太夫の邸宅跡」というのは、かつて調べてた「渡会春彦」の邸宅跡かと思ったが、「大江匡房の『傀儡子記』に傀儡子が百神を祀る」とされる「百太夫」のことかも、と。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%A4%AA%E5%A4%AB)

「佐太神社」というと島根県松江市鹿島町にあり、主祭神が「佐太御子大神」だが、「百太夫」との関連性が気になるところで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%A4%AA%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

「百太夫」もまた「摩多羅神」と何らかの繋がりがあるかもしれないし・・・秦河勝が「大夫」とされていたらしいし、能「翁」では翁役の大夫(シテ方)は「宿神」で、「この世とあの世を繋ぐ精霊のようなもの」とされているようで。

秦河勝の「大避神社」について、森氏の著書にも出てきましたし・・・。
(大避神社:http://www.norichan.jp/jinja/shigoto2/osake.htm)

昨日は眠くてほとんど読めなかったから、今日こそは読み進めるようにしよう。

2009.05.13(Wed.)

「精霊の王」、ようやく半分読み終えたけど、哲学を理解できるほどの脳みそを持ち合わせてないんで、どう書いたらいいのやら・・・と。

「蹴鞠」、「猿楽」、「ミシャグジ」の哲学的概念の根底にあるのが「魔多羅神」?天台宗の「後戸の神」であることから「玄旨帰命壇」や、真言宗の「理趣経」に繋がる・・・のかな?

そのルーツが「クルド」にあって、高山寺の像に「パルメット文」が見られるのは、「クルド」からの流れかと・・・。

「後戸の神」のいる空間は、クルド人形・民話などにおける「ずきん」で、先日引用させていただいた「八帖花伝書」での「楽屋」は母親の胎内であり「胞衣」で、「古層の神」の居ますところかと。

宿神が住まいし、宿神が守護する空間のなかでは、植物や動物が人間に姿を変えたり、目に見えない霊的な存在が人間の世界にあらわれたりする、「変身」の過程がごく自然におこる。

というのをわかりやすく表現されているのが、金春禅竹作「芭蕉」である、とのことで。
(http://www.harusan1925.net/0603.html)

上記URLにあるように、著書でも「芭蕉の精」は「有情」「非情」の差別を否定している、とされており、「芭蕉の精であるこの女性を、ミッション・セールのような哲学者だと『ノワーズ』の存在である、と言うだろう」と。

「ノワーズnoise」とは古いフランス語で「諍い」らしいが、英語では「ノイズ」ですよね。

「ノイズ」で思い出したのが、日渡早紀さんのコミック「未来のうてな」で、「有情」「非情」を「南一」「北一」で描いておられるような感じで、「和魂」「荒魂」もそれになるのかな。

アンチノミーも一元的に捉えるなら、ノワーズは存在しないのかも?だが、そうもいかなくて日々修行(?)ということになるんだろうな。それが「煩悩即菩提」に通じるのかな、「古層の神」によると。

ま、それでも、アンチノミーを認識することは大切かな、と・・・いや、詭弁やないって。(苦笑)

「魔多羅神」の左右の丁禮多・爾子多のニ童子が持つ「茗荷」が煩悩をあらわし、「笹」が悟りを意味するそうで、ニ童子は「ヴァギナとアヌスの快感を讃える歌を歌っている」んだそうで。

私にとってコンサート会場が「胞衣」であり、その空間における神との交合によって新しく宿る自分自身を体得し、生まれ変わってコンサート会場を出る・・・という疑似体験しているような感じかな。

「能」の場合もそれに近いと思われ、「蹴鞠」では「艮にサクラ、巽にヤナギ、坤にカエデ、乾にマツ」を植えた空間がそれにあたるかと。

「空間における神」が「魔多羅神」であり、ステージ全体(舞台)が「魔多羅神」によって繋がれている、ということになるのかな。

なのに、それを錯覚して、恋慕の情を抱いてしまうことも・・・すると「ノイズ」が登場して欲に食らいつくんだろうな。

話がそれた。

「生まれ変わる」ことが「胎生学」に繋がり、それをイメージしたものが諏訪の「ミシャグジ」や「大黒天」、「リンガ」などになるのかな。

コミック「陰陽師」で晴明が我が子を「ちいさいひと」と呼んでいたのも、「精霊」としての表現かと。

で、著書によると、天台宗を中心として広がった「本覚思想」は、「外道哲学」のひとつとされる「インド哲学におけるサーンキヤ学派の思想」に接近している、とあった。

そのことから、「魔多羅神」は「隠された神」となったのではないかと思われるわけで。
(サーンキヤ学派:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE)

間違った解釈をしてたらごめんなさい・・・。

2009.05.14(Thu.)

「精霊の王」を読んでて思ったんだけど、「魔多羅神」は「芸能」だけの神ではなく、庭師や大工などの「技能」を持った人々の神でもあったわけで、当然のことながら行基にも関係する神であったと思われるわけで。

となると、土木工事を行なうに当たり、工事の無事を願って守護の神を祀っていたと思われるわけで、伊丹ではそれと思われるのがスサノオを祀る神社だったりした。

が、他ではあまり見受けられないのはなぜかと考えた時、開拓以外の工事、特に行基ゆかりのお寺でよく見る「交通の要衝」の地の場合、そこにはそもそも「古層の神」が祀られていたのではないか、と。

それが春日神や経津主神、梅宮大社などのように、不比等らによって乗っ取られていくのを食い止めようとした時、どうするかといえば、インドで玄奘が託された仏教のように、遠くへと疎開させるのではないだろうか、と。

秦氏や物部氏、および同じ神を祀る人々によってそれが実行され、一時、行基らが動きを封じ込められていた時期は、そうした移動や寺院建立などに対する制裁だったのではないかと思われて。

「交通の要衝」の次によく見られる足跡は、小角たちが聖域とした高い山と平野部の間の、標高300mほどの山のあたりで。

しかし、そのあたりでさえ不比等らの手が伸びてきたと思われ、神の名を変えたり、より遠くへと移動させたようで。

その前例が、以前書いたと思いますが、飛鳥時代における「善光寺」の阿弥陀如来などの移動ではないかと。

そういえば今ご開帳されているのはお前立ちですよね、テレビで見たんだけど、右手の指に五色の糸が結んであって、それが「回向柱」に繋がっている、と。

その「回向柱」を触るとご利益があるとされていたと思うんだけど、秘仏である阿弥陀如来が「後戸の神」となり、お前立ちとの空間で起こる霊威を「回向柱」に繋いでいるから、そのご利益がある、ということかな、と。

話があちこち飛びますが、8日に書いた岡崎市の「真福寺」の伝説を知ってから、「廃仏派」として仏像を捨てたりしたのって、本当は中臣氏だったんじゃないかと思えて。

中臣氏からの弾圧から、守屋は諏訪に逃がされたように思われ、それを利用して日本書紀には全て守屋のしたことにして、それによって物部氏の神官の後釜に中臣氏が入るという形の専横の正当性を主張し、乗っ取りを大々的に行なったのではないか、と・・・。

ま、太子が物部氏だったという推測の元での話だが、守屋の代わりを太子が務めたであろうことさえも利用し、四天王寺の建立なども、「守屋との戦に勝ったから」ということにして、太子の出自を隠したのでは・・・。

太子も大工等との繋がりがあり、「古層の神」を祀っていたと思われるが、仏教に取り入れて祀り、神仏習合の先駆者となったのかも・・・いや、秦氏によるアドバイスよってそうされたのかもしれませんね。

守屋が諏訪他で祀った「ミシャグチ」を守護神とし、さらに中臣氏から守るためのお寺を、太子たちは建立していったように思われて。

それを引き継いでいったのが、行基であり、空海であり、田村麻呂等だったように思われ、後醍醐天皇など、それらの経緯などを知っていた人たちは、その足跡を辿ったように思われて。

話を戻しますが、「精霊の王」によると、「金春禅竹」が「明宿集」で、「魔多羅神」と同体とされているものとして、住吉大神(塩土老翁神)、三輪大神、春日明神、伊勢(外宮)、走湯山などを挙げていた。

住吉大神は「海の浄化力」を、塩土老翁神は「塩」の持つ浄化と転換の力が「翁」だとされているようで、いずれも「禊」を意味しているあたり、「瀬織津姫」に繋がるようで。

「走湯山」については、風琳堂さんがブログで詳しく書かれており、「瀬織津姫」であることが明らかで。
(http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C1%F6%C5%F2&sk=1)

三輪大神は「長谷寺」「与喜神社」を、春日明神は「奈良豆比古神社」を、伊勢(外宮)は「高倉山の岩窟」を「後戸」の空間と捉え、それぞれの神を「翁」だとされているようで、その神々もまた瀬織津姫と繋がりそうで。
(奈良豆比古神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E8%B1%86%E6%AF%94%E5%8F%A4%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

で、著書にはなかったけど、「住吉大神」も「後戸」の空間と思われる神社があり、「依代」と思われるのが、

開口大神(塩土老翁神)がご影向の時、その石に腰かけられ、その後住吉へ向かわれ住吉の神となったとも、行基上人と法談した場所とも、弘法大師と御対面された時の御座所ともいわれる石である。

とされている堺市の「開口神社」の「影向石」で。

あと、柿本人麻呂や在原業平も「翁」と捉えておられたようで、「和歌に蔵された「喩」の力による転換力」を「翁」とし、さらに、

男と女はそれぞれ違うものとして、たがいに結び合う必要がある。もしも男とは違う感情や生理の平面を生きている女を、男の思考感情と同じ平面で結び合わせてしまおうとすると、そこで女は抑圧されてしまう。在五中将業平のもっとも嫌ったのは、女性とのこのような接し方であった。彼は男と女がそれぞれの特性を保ったまま結合できる道を探っていた。性の行為においても、男は女の体と心から、自発的な悦びがあふれ出てくるようなやり方を研究していた。性愛の行為は詩歌における「喩」のようでなければならない、と彼は思考していたのであろう。

と、「翁」としての在原業平は「性の行為に備わった転換力」により、「性愛の技をとおして、女性を自由に導いた」とされているそうで・・・男性のバイブルにしてほしいですね。(笑)

ま、人間関係全般に言え換えることができるだろうし、仕事の上でも当てはまる精神ではないかと。

残りのページには瀬織津姫も、行基や西行や明恵も名前が出てこず、「後醍醐天皇」だけ出てきたけど、今まで調べてきたことから、白河天皇や嵯峨天皇など、そして晴明らも、繋がりがあったような感じがして。

内容ははしょりますが、不動明王や「水の女神」という言葉も出てきて、やはりと思った反面、「アーサー王」や「聖杯伝説」などが出てきて、「後戸の神」と似ている部分があるとされることについては、どうなんだろうと疑問を残していて。

「プラトン」の「ティマイオス」に出てくる「コーラ」の概念(絶対差異の無限参照(の場))が、「古層の神」に繋がるようなことも書かれてましたが、哲学はお手上げですのでこれもはしょります、すみません。
(http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/NIKKI3/225.html)

最後に載っている、現代語訳「明宿集」が興味深く、ちょこっと引用させていただくと、

・住吉大神(塩土老翁神)は諏訪明神でもある。

・「翁」(宿神)の面にある7つの穴は「北斗七星」であり、「山王上七社」であり、「山王権現」であり、「医王善逝薬師如来」としての意味がこめられており、「三輪大神」でもある。

・「太陽」「月」「星」の3つの光は、猿楽にいう「式三番」に対応するもので、宿神である。

・「春日」は「二つの大日」という意味があり、神と仏の世界をあわせた「両部曼荼羅」である。

・「翁」の芸道こそ「法華経」に説かれている教えなのである。

・「閻魔大王」も「翁」の分身である。

・「翁」と「人丸(柿本人麻呂)」の御一体のこと。

・一説には「三人の翁」とは、山部赤人・在原業平・あるいは橘諸兄のことでもあるといい、とかく諸説が多い。いずれの説も捨ててはならない。

などがあり、摩利支天・歓喜天・弁財天・五大尊・四天王も「宿神」とされているが、「愛染明王・不動明王については大日如来の二つの変化身であるが、この秘密についてはあきらかにしないでおこう。」とあるのは、何故なのかが気になるところで。

ということで、明日からは森氏の著書の続きについて、考えていきたいと思います。

2009.05.15(Fri.)

森氏の著書の続きですが、「然のすぐあとに出てきたのは「車折神社」で、「清原頼業」が御祭神で。
(車折神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8A%E6%8A%98%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

著書にあるように、清原頼業が御祭神とされていることについて違和感があり、境内社に天宇受売命を祀る「芸能神社」があることと、「車裂」とも書くあたりに何かありそうだな、と。
(清原頼業:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E6%A5%AD)

河勝が晩年をすごし、御祭神として祀られているという赤穂市坂越の「大避神社」は、「大酒」「大裂」とも書くそうで、「裂」が共通することと「芸能神社」があることから、「翁」に繋がるのかも。

ただ、秦氏と清原頼業の繋がりがどこにあるのか、ということになるが・・・。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

あ、秦氏の奥都城とされる「双ヶ丘」に、「清原夏野」に関する石碑があり、邸があったということで、その頃にはすでに繋がりがあったようですね。

気になるのは清原夏野の曽祖父が、日本書紀の編集も総裁した「舎人親王」で、「道尽敬皇帝と追号された」というのは「怨霊鎮め」の意味があるのかも、と思えることで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%8E%E4%BA%BA%E8%A6%AA%E7%8E%8B)

「車裂」は祟りによって車が裂けた、とも考えられ、それにより「車折大明神」の神号と正一位の神階を賜ったという可能性もあって。

「清原頼業」は清原氏中興の祖で、「清原家」は「漢文の注釈などを家業にする文章の家」ということで、ふと道真が思い出され、同じような道を辿ったのかも、とも。

道真は薨去後、「右大臣に復し、贈正二位」になり、さらに「正一位左大臣」となったあと、「太政大臣」が追贈されていて。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F)

「出羽清原氏」と「安倍氏」の関係も、気になるところですね。

第五章は「太秦・花園・御室」で、その中で坂越の「大避神社」の「牛祭」について書かれており、河勝の命日に行なわれていたことから、「河勝にたいする鎮魂」であったのでは、とされていて。

「明宿集」によると河勝もまた「魔多羅神」であるようで、「牛祭」は「魔多羅神」のお祭りで、「大避」は「大裂」でもあり、上記の「清原頼業」のこともあるので、「鎮魂」の祭りの可能性もありますね。

「牛」といえば、道真も関連があって・・・「恵心僧都」作の祭文に何かありそう。

「恵心僧都」で検索すると、父は卜部正親、母は清原氏、とあり、清原氏と秦氏とは「魔多羅神」で繋がり、祭文が作られたのかも。

恵心僧都の臨終の際、「阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら入滅」というあたり、長野の「善光寺」を思い出した・・・。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E5%BF%83%E5%83%A7%E9%83%BD)

名古屋の善光寺街道に「石山寺」があるそうで、「本尊は阿弥陀如来で、 薬師如来、釈迦如来とともに 木像3体が恵心僧都の作といわれる。」とあった。
(http://www5.ocn.ne.jp/~kazuotk/zenkouji/zenkouji-mizuya.htm)

で、「光州石山寺の本尊と同じ木の十一面観音が当寺の本尊である事から、石山寺と命名。」とのことだが・・・光州?
(http://www.tokaikyoku.jp/contents/jiin/03.html)

うーん、祭文の内容については出てこない・・・が、「魔多羅神」の「転換力」を頼みにするならば、鎮魂のための祭文でしょうね。

かつて「大和国石上神社や和泉国大鳥神社」や「車折神社」の神官(宮司)を勤め、「大和国の式内社加夜奈留美命神社を復興」し、「魔多羅神」の「面」をデザインし、明治20年に「広隆寺」の「牛祭」の復活に関わっていると思われる「富岡鉄斎」なら、何かご存知かも・・・。
(http://www.muian.com/muian11/muian11.htm)

あ、宝塚の「清荒神」に「鉄斎美術館」がありましたね。去年、時間がなくて行きそびれて。
(http://www.kiyoshikojin.or.jp/tessai/tessai.html)

そういえば、「護法堂」の真後ろにある、「荒神影向の榊」にお姿を現されたという「荒神様」って、「魔多羅神」?

「本堂」に安置されているのが「大日如来」だから、どちらも同じ神(仏)を祀っているってことですよね・・・。

話がそれましたが、「牛祭」では牛に罵声を浴びせるそうだが、八雲市の「熊野大社」の「鑚火祭」で、餅の出来栄えについて文句を言うことなども、他のお祭りにはあまりないことと思われるので、何か関連がありそうな気もして・・・。

「出雲」がキーワードかと思われるものの、検索では見出すことができず・・・。

で、次に出てくる「木島神社」と「三面鳥居」について、著書で「秦氏との関わりは史料の上からは解けない」とされていて。

最近、太子は物部氏でもあるのではないかと推測しており、「木島神社」は太子の氏神が祀られ、「三面鳥居」は秦氏・物部氏らの「禊」を行なう祭祀場だったように思われて。

で、鳥居のある位置は、風琳堂さんのブログにあった「日吉大社第六殿」での瀬織津姫を思い出して・・・。
(http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%C6%FC%B5%C8%C2%E7%BC%D2&sk=1)

「蚕」や「たまご」は、繭や殻の中で「変化」するものとして、昨日まで書いてた「翁」と同じだから、「蚕の社」は「後戸の神」のいるところ、ということかなと。

そうすると、御祭神である「ホアカリ」(ニギハヤヒ)は「翁」、すなわち「魔多羅神」ということになるような・・・。

で、昨日気になってた「愛染明王・不動明王については大日如来の二つの変化身」を推測すると、「大日如来の二つの変化身」は「春日」の2柱「天児屋根命」「比売神」で、「ニギハヤヒ」「瀬織津姫」と思われ、「不動明王」が「瀬織津姫」と思われるので、「愛染明王」は「ニギハヤヒ」かと。

ん?逆だっけ?「謹奉勧請河内二宮末社 猿田彦命・本地大聖不動明王、天鈿女命・本地金剛愛染明王云々」という棟札が、枚方市の「二の宮神社」の「猿田彦神社」にあったそうだが・・・。
http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hira-jinjya-1.html)

円空が「荒子観音寺」で「両頭愛染法」を書写してるそうで、「「両頭愛染法」については、愛染明王と不動明王の「両頭」をもつ、その名も両頭愛染明王という変化[へんげ]明王に関する修法」とのことで・・・。
(http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_tree?base=549&range=20)

頭の中がどうも混乱しているみたいだから、覚え書きでもしてるんだなと、読み流してくださいませ・・・。

2009.05.16(Sat.)

森氏の著書もかなり読み進み、双ヶ丘などの秦氏の奥都城についてのあとは、古墳から寺院へと変わっていったことに触れておられて。

「大覚寺」「天竜寺」「清凉寺」「法金剛寺」「妙心寺」などの大寺院の建立により、「土地の生産性を奪い続けることにもなっている。」と・・・。

当時はそうだったかもしれないが、今となってはそういう場所がないから観光地化し、人が絶えることなく訪れていて、現在は経済効果はかなりあるようには思える。

テリトリーとしていた秦氏の財力は、たとえ嵯峨野の生産性を欠いたとしても、他で補えたのであろうと思われ、大陸にいた頃の人々の知恵が、長い歴史をかけた土地活用のすべを見出していたのかもしれないな、と。

で、それら大寺院の中の「妙心寺」について、「建物が郡在し中央に広い空間のないこと」を奇異に感じておられ、「塔頭」の多さは、「妙心寺の歴史に関係がありそうである。」と。

そこで検索してみたところ、「妙心寺」の公式サイトの「よくあるご質問」に、「塔頭というのは元来は高僧の墓のことで、その近くに小庵を建てて弟子たちがそこを守っていました。」とあった。
(http://www.myoshinji.or.jp/faq/faq_02.html)

「妙心寺」は、開基(創立者)である「花園法皇」が、禅の上での師「宗峰妙超」(大徳寺開山)の臨終の際、

「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙した。その頃、美濃(岐阜県)の山奥で修行に明け暮れていた関山は、都に戻ることを渋っていたが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5年/康永元年(1342年)、妙心寺の開山となった。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E5%BF%83%E5%AF%BA)

ということがあったようで、それから想像するに、各地で修行している臨済宗の僧が、「法嗣」という「師匠から弟子へと悟りの伝達」のための場を「妙心寺」にしていたのでは、と。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AE%97)

そうして「妙心寺」に来た僧、あるいはその弟子たちの中には、秦氏の影の事業(?)に携わっていた人もいたかと思われ、秦氏にとっての情報センターであったのかも、と。

ちょっと寄り道しますが、ウィキペディアの「臨済宗」のところを見ていると、「国泰寺派:総本山は明治時代に山岡鉄舟の尽力で再興した富山県高岡市にある国泰寺。鉄舟開基の谷中の全生庵も国泰寺派の名刹である。」と、またしても「鉄舟」の名が・・・。

「国泰寺」は「1296年(永仁2年)慈雲妙意が二上山に立てた草庵に始まるとされる。」とあり、「二上権現社」の別当で行基創建の「養老寺」との関連が気になるところで。

「天台宗(?)養老寺時代」の「二上射水神社」の儀礼は、「荒魂(山宮)の和魂への転化・再生を現わすものとされる。」とあり、「魔多羅神」ではないかと思われるわけで。
(http://www2.komatsu-c.ac.jp/~yositani/futa2.htm)

また、行基ゆかりの「清水寺」は現在「臨済宗向嶽寺派」の小寺で、「向嶽寺」とは徒歩13分ほどの距離で。
(http://hidemori.jp/index.php?id=5)

「敵に塩をおくる」のウラには「魔多羅神」が関係してたりして・・・。

あ、「塩市」(飴市)というのがあったんですね、これがこのあと著書にある「桂女」に繋がりそうな感じも・・・ん?明治から「飴市」になったのなら、違うかな。
(http://www.localinfo.nagano-idc.com/kita/kanko/dento/ameiti/yurai.html)

「飴」といえば、鈴鹿峠のところに「蟹」にまつわる伝説があって、今でも飴が売られてたと・・・あ、「蟹ヶ坂飴」ですね。天台宗がらみというあたりが気になる。
(http://www.human-dy.com/tokaido-4.19.06.17.html)

とことん話がそれていきそうなので、「臨済宗」に戻りますが、建仁寺派の「栄西」、行基、空海、後醍醐天皇などが、山口の「狗留孫山修禅寺」の歴史で出てきてますね。
(http://www.kurusonzan.or.jp/History.htm)

また、「栄西」が「明恵」に「お茶」の実(種?)を贈っていて交流もあったようで、秦氏との繋がりはあったものと思われて。

次に「妙心寺」の「銅鐘」について書かれており、ウィキペディアにも「西暦698年にあたる年の銘文がある、日本最古の紀年銘鐘」とあり、「九州方面で制作されたもの」とあって。

著書によると銘文の後半に、「糟屋評造舂米連広国鋳鍾」とあり、「糟屋評」は「筑前国「糟屋郡」の古い表記で、「舂米連」の史料はないそうだが「舂米宿禰。石上同祖」とあり、「物部氏の一氏族」とのことで。

その「銅鐘」について、「西園寺」の鐘を「黄鐘調」に作らせようとしたがうまくいかず、「遠国より尋ねだしたのが、亀山殿の法金剛院にある鐘なのだ。」と、双ヶ丘の麓に住んでいた「吉田兼好」が、「徒然草」でご近所ネタを書いていたようで。

「妙心寺」の「銅鐘」が、元は「法金剛院」のものだった、ということであれば、「遠国より尋ねだした」のは、鋳鍾した物部氏か、一帯をテリトリーとする秦氏と思われるのだが、詳細はわからず・・・。

法金剛院:京都市右京区花園扇野町
平安前期、右大臣清原夏野の山荘だったものを死後双丘寺とし、天安2年(858年)文徳天皇の勅願によって天安寺が建立されたが、その後荒廃し、大治5年(1130年)になって待賢門院が復興したものである。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%85%E8%B3%A2%E9%96%80%E9%99%A2)

「待賢門院」というと、「西行」が恋した相手、ということになってますね・・・そういえば、吉田兼好もまた「北面の武士」だったようで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%85%BC%E5%A5%BD)

「法金剛院」には「青女の滝」があり、

青女とは淮南子にでてくる霜・雪を降らす女神または大女とある。滝をこのように異常に大きくしたのは、滝即不動明王の信仰があったから、とのこと
(http://muso.to/teienn-houkonngouinn.htm)

とあり、「滝即不動明王の信仰」には、滝=不動明王=女神という信仰があった、ということですね。

「妙心寺」の「銅鐘」に戻りますが、「大きさ形状がそっくりの京都・妙心寺の梵鐘と兄弟鐘といわれており・・・」とされているのが、太宰府市「清水山 観世音寺」の「梵鐘」で。
(http://www.yado.co.jp/kankou/fukuoka/dazaifu/kanzeon/kanzeon.htm)

本尊は阿弥陀如来(金堂本尊)と聖観音(本堂本尊)、開基は天智天皇である。
(中略)
『続日本紀』(しょくにほんぎ)の記述によると、観世音寺は、天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願したもので、斉明天皇は661年に没していることから、それからほどなく造営が始められたと思われる。『続日本紀』の和銅2年(709年)の記事によると、この時点で造営はまだ完了しておらず、完了したのは発願から約80年も経った天平18年(746年)のこととされている。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E4%B8%96%E9%9F%B3%E5%AF%BA)

なぜ天智天皇は大宰府に建立したのか、なぜ同じ鋳型で鐘が作られたのか、気になりますね。

「養老七年(723)に、造観世音寺別当として西下してきた沙弥満誓は、太宰帥大伴旅人、筑前守山上憶良などの協力を得て工事を促進」とあり、天智天皇の発願?と思えるような・・・。
(http://www.st.rim.or.jp/~komatsu/chikuzen.html)

だが、「観世音寺」の鐘の方が古い、とされているようで。
(http://www.crossroadfukuoka.jp/dic/detail.php?ID=4000000000544)

「観世音寺」の鐘は、「「都府楼はわずかに瓦の色を看、観音寺はただ鐘の声を聞く」と菅原道真の詩句にもうたわれている名鐘の音色だ。」と、道真がいた頃にはあったようだが。
(http://www-gis2.nies.go.jp/oto/data/scene/index.asp?info=86)

大伴旅人、山上憶良、菅原道真の名が出てくるあたり、気になりますね。真備 、諸兄の祖父・栗隈王、業平の父・阿保親王も大宰府にいたことがあったし・・・。

沙弥満誓も歌人のようで、「造筑紫観世音寺別当沙弥満誓の歌一首」を拝見すると、補記以外の解釈もできそうな感じがして、ふと西行を思い出した。
(http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/manzei.html)

あと、物部氏の分流と伝えられる阿刀氏の「玄ぼう(日へんに方)」が、745年11月に観世音寺に左遷され、

『尊卑分脉』註には、大宰府観音寺供養の日、導師となり、腰輿に乗って供養していたとき、空に声がしてその身が突然消えうせた。後日興福寺唐院に首が落ちてきた、とある。
『東大寺要録』によれば「忽然として空に登ること数丈、地に落ちて已に死せり。更に血と骨と無し」。
『続日本紀』没伝に、当時の人々は玄ぼうが藤原広嗣の亡霊により殺されたと噂した、とある。
(http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/genbou.html)

と、されているのが気になりますね、大宰府に関連する人の中には、「怨霊」とされた道真や、死後に一品の品位を追贈されている「阿保親王」がいて・・・。

藤原広嗣が玄ぼうを排除しようとしたウラには、聖武天皇の母・藤原宮子の病気を祈祷により回復させたあたりに、何かあったのかも、と。

宮子は不比等と賀茂比売の子とされているが、和歌山の御坊市で生まれたという伝承もあり、病ではなく幽閉されていたという説も、どこかで見たように思い、宮子の「回復」が広嗣にとって不都合があったのでは、と・・・。
(http://www.dojoji.com/kaminaga/kaminaga.html)
(http://www.asukanet.gr.jp/cha-san/densetsu.htm)

あ、広嗣もまた「怨霊」として祀られているようで・・・「比売神社」の瀬織津姫による鎮魂を願った?「高畑」ということは秦氏のテリトリーだったのでしょうか。
(http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/temple/kagami-takabatake-shrine01.htm)

と、またしても寄り道が多くなり、寄り道の分だけわからないことが増えたような・・・すみません。

2009.05.17(Sun.)

昨日ちらっと書いてた「桂女」について「大辞泉」には、

1.京都の桂に住み、神功皇后を祭神とする伏見の御香宮や石清水八幡宮に奉仕したという巫女。祝い事のある貴族の邸へ行って祝言を述べ、後には疱瘡や安産の守り札を売り歩くこともした。桂姫。
2.桂の里に住み、桂川の鮎や飴などを京都の町で売り歩いた女。頭を布で巻く風俗が特徴。
3.昔、貴人の婚礼のとき、花嫁の供をした女。鬘女(かずらめ)。
(http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E5%A5%B3&dtype=0&stype=3&dname=0na&pagenum=71&index=04176503425900)

とあり、また、

彼女たちは代々、桂川西岸の桂の地を中心に古くから住む、女系相続を明治期まで続けた巫女・シャーマンの一族集団でした。
(中略)
一説では、打ち落とされた敵将の首を洗い清め、死化粧を施し、怨霊を鎮めたともいいます。桂女の巫力だからこそ、御霊の魂鎮めも可能だったのです。
(http://blog.goo.ne.jp/0000cdw/e/eb1d9adf553f15113f51cddb23fca0d3)

と書かれたサイトがあり、「御霊の魂鎮め」のことや、「風俗博物館」のサイトにある「桂女」の画像の「頭を布で巻く」姿は、「魔多羅神」を彷彿とさせるものがあって。
(http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000098)

神功皇后の時代、大臣武内宿弥の娘で桂姫と呼ばれる女人が皇后の傍に仕えていたが、皇后が皇子(のちの応神天皇)を出産すると、手作りの飴で養育した。その後、桂姫は山城の国・桂の地を皇子の葆地としてたまわり、その地で飴の製法を伝えた。これが「桂の飴」の起こりであるという。
(中略)
「あめ」の呼び名は、飴という食べ物に、天が万物を育成し、雨が草木を潤すのと同じ効果があるからだという。主成分が穀物だけというこの麦芽糖の飴には、体の中から毒素を取り去り、養分を与える力があるという。
(中略)
遠山氏はもとは美濃苗木城の城主だったのが、明暦年間(1655〜57)ごろにこの地に来て、飴作りを始めたらしい。なぜ飴屋となったのかは定かではないが、中部地方や北陸地方などでは古くから飴が作られているため、その地で身につけた製法と、桂の地に伝わっていた製法とを融合して作り始めたのではないかと遠山さんは見ている。
(http://www.kyoto-np.co.jp/kp/rensai/wagashi/w-19.html)

と、著書にも上記の「桂飴本家 養老亭」さんの「桂飴の由来」が書かれていて、ふと幽霊が飴で赤ちゃんを育てるという話を思い出し、「飴」について興味深く思って。

ただ、「塩市が飴市にかわった例は、日本全国の各地にあります。」と書かれたサイトがあったので、「塩」との直接的な関係はわからず・・・。
http://www.city.matsumoto.nagano.jp/daisuki/miryoku/karuta/karuta_o/index.html)

飴での検索の続きですが、宮城県黒川郡大和町の「吉岡八幡神社」では、縁結びの「島田飴まつり」があり、「島田飴の伝説」を見ると「島田」は髪型のようで、「大辞泉」の3に近いようですね。
(http://www.nanatumori.com/shimadaame/legend.html)

仙台「玉澤」さんでは、1675年に初代店主・玉澤伝蔵さんが、「伊達家第四代藩主綱村公に近江の国から招かれた」そうで、「晒よし飴」は「江戸時代・仙台藩主家中において創製された」とのことで。
(http://www.tamazawa.jp/body_about.html)

「桂の飴」のように、加賀米と大麦だけで作る麦芽糖の飴「吸坂飴」というのがあるそうで、

加賀の吸坂という地名の小さな村の茶屋に、昔、弘法大師が立ち寄り、出された水を飲んだところ、あまりにおいしいので、この水で飴を作ることを村人に教えて、作られるようになったと言われている。
(http://kagabiyori.seesaa.net/article/25564578.html)

とあった・・・が、「吸坂飴」が作られたのは寛永八年(1631)、「晒よし飴」は江戸時代、「桂飴本家 養老亭」さんも「明暦年間(1655〜57)ごろ」とあり、ウィキペディアにも、

文献上は、神武天皇が大和の国を平定した際に大和高尾で水無飴を作ったという記載が日本書紀にある。また、正倉院に収蔵されている古文書に阿米という記載があり、飴を意味していると考えられており、8世紀前半には日本で飴が作られていた事がわかる。なお、日本書紀は神話であり神武天皇の時代に飴が作られていたかは分からないが、明らかなのは、日本書紀が編纂された720年には既に飴が存在したということである。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%B4)

とされていることから、「飴」が販売された記録があるのは、江戸時代からなのかも・・・。

で、昨日書いてた「蟹ヶ坂飴」の伝説で、蟹を退治したのは「恵心僧都」という説もあるようで、「往生要集」は恵心僧都が著したものなので、「説き聞かせる」のはありうるかな、と。
(http://www.geocities.jp/mrmaxtoukai/49-tsutiyama.html)

ということで、飴の起源は古いようだが、江戸時代までの用い方については、検索ではわからなかった。

引用させていただいたサイトによると、遠山氏が美濃、「島田飴」が宮城県黒川郡、「玉澤」さんは近江の国、「吸坂飴」が加賀、「蟹ヶ坂飴」は鈴鹿峠(滋賀?)だが、「塩市」が「飴市」になったのが松本ということで、「塩の道」との関連があるのかも、と。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E3%81%AE%E9%81%93_(%E6%97%A5%E6%9C%AC))

もち米を原料とした麦芽水飴を乾燥して粉末にした漢方薬の膠飴(こうい)は、滋養強壮作用・健胃作用などがあるとされている。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%A3%B4)

とあり、清めの作用のある「塩」と、漢方薬にもなる「飴」は、その効用や、どちらも煮詰めて「変化」させたものであることから、神聖視されていた部分があると思われるわけで。

というのも、著書に唐の「月宮鏡」のことがかかれていて、その鏡背に「桂」の大木が描かれ、その幹をガマガエルが登っており、その横には、「不老不死の薬」をもつ仙女が翔ぶ姿と、杵と臼で仙薬を作る兎がいて、「仙郷」を表しているようで。

「山背国風土記」には、「月読尊」が「湯津桂」に寄って立った、と書かれているそうで、その木のある地が「月読神社」のある「桂」で、古代から「不老長寿の仙郷」とみられていた、ということのようで。
(月読神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E8%AA%AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82))

「神宮皇后」の伝説があり、神宮皇后の腹帯を巻いたとされる「桂女」の姿は「魔多羅神」のようで、材料を「変化」させて作られた「飴」や、伝説にまつわる「鮎」の加工物の「鮨鮎」は、「不老長寿の仙薬」のようであり、それを売り歩いた「桂女」に巫力を見出されたのかも。

あるいは、「魔多羅神」を信仰し、その力を有するとされていたのが「桂女」だったのかも・・・。

ということで、一応最後まで読み終え、パーツが繋がったと思われるのもあり、さらに謎が増えたのもあり、まだまだ調べていかなければいけないなと思った次第でして。

しばらくはこんなに書くこともないかもしれないんで、そのギャップの激しさを何とかしないといけないかも?(苦笑)

2009.05.24(Sun.)

20日に「金剛寺」に行ったのは、行基ゆかりのお寺だからというのと、2009.05.02(Sat.)に書いたことも気になってまして。

「塔の尾」は「塔のある(あった)小高い岡」と思われ、ニギハヤヒや物部氏のテリトリーであることも意味してるように思う、と書いて、検索での金剛寺の「銭弘俶塔」という府指定文化財と、「忍実上人が当山の塔の尾にて感得・・・」というのがどう繋がるのかな、と。

「銭弘俶塔」について、もう少し長めに引用させていただきますと、

福岡県誓願寺、京都府金胎寺、和歌山県那智山経塚例などに見られるものである。「河内名所図会」には、天竺阿育王鉄塔と呼び、正和3年(1314)忍実上人が当山の塔の尾にて感得したものと記しており「河州錦部郡天野山金剛寺古記写」にも塔の尾より往昔奉納の品として発見されたものであることを記し、のち慶長11年(1606)の再興まで多宝塔の心柱に収められていたと記している。
(https://www.city.kawachinagano.osaka.jp/kakuka/kyousha/history-hp/bunkazai/date-base/isan-date/osaka-pre/kouko/fu13.html)

とのことで。


多宝塔(塔婆)

記載にある、「銭弘俶塔」が出土した寺院について検索してみると、和歌山県那智山経塚についてはわからず、福岡市西区今津の「誓願寺」は、栄西禅師の縁のお寺で、「東大寺の再建勧進を行った重源もこの寺に滞在し、渡宋したと伝えられている。」とあり、興味深いな、と。
(http://www.k2.dion.ne.jp/~kisa/fukuoka_f13.html)

「栄西」は、16日に「妙心寺」について書いてた時に出てきてましたし、「重源」についてもかつて書いており、「東大寺」と「狭山池」で行基に繋がる流れを持っているのでは、と思われて。

相楽郡和束町釜塚生水の「鷲峰山金胎寺」は、

天武天皇白鳳4年(675年)9月、役小角(役行者)によって開かれたといわれる鷲峰山は、奈良時代、平城京の鬼門封じとして、聖武天皇によって堂が建立され勅願寺となりました。
(中略)
元弘元年(1331年)9月、鷲峰山を経て、笠置へと落ちのびていった後醍醐天皇の後を追う鎌倉幕府軍によって、寺は焼き討ちされ、さらに暦応3年(1340年)の出火によって多くの堂塔を失いました。
(http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/tourist/walk/p17.html)

とのことで、このところよく書いているお名前が並んでますね。

しかも、「大峯山寺で銭弘俶塔の一部発見(2003年7月27日)」とあり、

奈良県天川村の大峯山寺で中国の銭弘俶塔の隅飾りの一部が発見された。
銭弘俶塔は、中国・呉越国の王、銭弘俶(948-978年)が、インドのアショカ王が仏舎利を分けて8万4千の塔を全国に建てたという故事に習い、戦没者の供養を願って作らせ、宝篋印心呪経を納めて諸国に配布したというもので、このうち500基が957年に呉越から帰国した日本の天台僧、日延が分与されたという。
(http://www.bunkaken.net/index.files/topics/toku2003.html)

そして先日購入した「金剛寺小志」によると、「当山は、その昔阿育王が造立された塔の1つを基として、行基菩薩が聖武天皇の勅願によって開基した寺であります。」と、初めのページに書かれていて。

「とんでもニャ〜」で、「徳一」と行基の繋がりとして浮かんできたのが「宝篋印塔」だったので、かつて調べたことがありますが、

中国の呉越王・銭弘俶(せんこうしゅく)が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔の形をまねて簡略化したものだとされている。
これは、インドのアショーカ王が釈迦の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して、新たに8万4千塔に分納したという故事に習ったものだという。
日本には鎌倉中期以後に造立が盛んになった。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E7%AF%8B%E5%8D%B0%E5%A1%94)

とのことで、そもそもは「阿育王」すなわち「アショカ王」に繋がるようで。

滋賀県東近江市の、太子創建の伝承のある「阿育王山 石塔寺」の、「阿育王塔」について、

平安時代の長保3年(1003年)に唐に留学した比叡山の僧・寂照法師は、五台山に滞在中、五台山の僧から、「昔インドの阿育王が仏教隆盛を願って三千世界に撒布した8万4千基の仏舎利塔のうち、2基が日本に飛来しており、1基は琵琶湖の湖中に沈み、1基は近江国渡来山(わたらいやま)の土中にある」と聞いた。寂照は日本に手紙を送ってこのことを知らせた。3年後の寛弘3年(1006年)、播州明石(兵庫県明石市)の僧・義観僧都がこの手紙を入手し、一条天皇に上奏した。そして、一条天皇の勅命により、塔の探索を行ったところ、武士の野谷光盛なる者が、石塔寺の裏山に大きな塚を発見した。野谷光盛と天皇の勅使平恒昌が掘ってみたところ、阿育王塔が出土した。一条天皇は大変喜び、七堂伽藍を新たに建立し、寺号を阿育王山石塔寺と改号した。寺は一条天皇の勅願寺となり、隆盛を極め、八十余坊の大伽藍を築いたという。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%A1%94%E5%AF%BA)

という伝承があるそうで、「インドの阿育王」云々が後世の仮託である・・・」とされているが、「銭弘俶塔」とは繋がりがありそうで、それが太子ゆかりとされるお寺というのが興味深いですよね、「天海が弟子の行賢に指示し、一部復興」というのも。

「アショカ王」について調べてみたところ、私はヤマトタケルや大国主命を思い出したが・・・。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B)

「雑阿含経」巻23にあるという、「アショーカ王の前世の因縁」では、「嵯峨天皇」や「菅原道真」を思い出したりして・・・。
(嵯峨天皇:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87)
(菅原道真:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F)

よく出てくる名前が並んでいることだけでは判断できかねますが、行基や秦氏等に繋がるように思われ、それが「魔多羅神」にも繋がりそうな感じがしつつ、その繋がりを見出すまでには至らず・・・。

余談ですが、「銭弘俶塔」の検索で「六和塔」がヒットしまして。

銭塘江の北側にある月輪山の上に聳え立つ塔です。
記載によりますと北宋、970年に建立されました。
昔 銭塘江の逆流が非常に激しいため、河の両側の堤防が崩されて土地や家屋も流されました。
呉越国の国王銭弘俶がその逆流を鎮めるために造ったもの、と言われています。当時、灯台の役割も果たしていました。
(http://web1.ibj.co.jp/~kirin/m/2006/sn-01/setumei-02.htm)
(画像:http://www5f.biglobe.ne.jp/%7Ehappiness2004/kankouti/kuisyu03.htm)

写真を拝見すると、ジャッキー・チェンの映画に出てくるような塔ですね。

「銭弘俶塔」と「六和塔」をどう捉えるか、難しいところですが、「六和塔」は4月28日に書いた「二王廟」と「六和塔」が似ているように思われ、ひょっとしたら「龍」が絡んでいるのかも、と。

「銭塘江」というと、岡野玲子氏のコミック「妖魅変成夜話」に、河の主と思われる「銭塘」という名の龍が現れ、「逆流を鎮めるため」に塔が作られたのは、「暴れる龍を鎮めるため」と同じように思えて・・・。

「忍実上人が当山(金剛寺)の塔の尾にて感得」したのは「天の龍」で、それは「ニギハヤヒ」「魔多羅神」にも繋がりそうな・・・と、推測している次第で。

2009.05.30(Sat.)

ちょっと気になったので、「阿育王」「行基」で検索してみた。

そこでヒットしたのが、大分市大字千歳高城山の「高城山 吉祥院・観音院」で、

開基は「豊陽古事談」によれば、神亀4年(727)に、諸国を遊行中の行基が、衆生教化のため、自ら一刀三礼して刻んだ如意輪観音を奉安したことに始まります。
(http://www5f.biglobe.ne.jp/~fkm-ito/htmlpilot/rj15pl/rj15pl09.htm)

とあり、行基作の如意輪観音が、「インドの仏法護持者阿育王の御心のこもったもので・・・」とされているが、どういう意味かは読み取れなくて。

また、千葉県安房郡の「長安山東光院石堂寺」は、

和同元年(708年)、奈良の僧恵命・東照が秘宝アショカの王塔を護持してこの地を訪れ、草庵を結んでこれを祀ったのが始めといわれています。その後、神亀3年(726年)聖武天皇の勅願を受けて行基上人が来、鎮護国家を作り、仏教を弘布するにふさわしい聖山として堂宇を建立、近江の阿育王山(石塔寺)、上州の白雲山とともに日本三石塔寺に数えられてきました。
(http://www.ishidouji.or.jp/rekishi.htm)

とのことだが、ウィキペディアによると、「これらはどこまで史実を伝えるものかは定かでない」と。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%A0%82%E5%AF%BA)

ここで近江の阿育王山(石塔寺)が出てきたことにより、「日本三石塔寺」が気になり、「上州の白雲山」を検索してみた。

現在、群馬県甘楽郡妙義町妙義6の「妙義神社」の総門が、「白雲山 石塔寺」の仁王門として建てられたもの、というのはあったが、「白雲山 石塔寺」についてはわからず・・・。
(http://beccan.blog56.fc2.com/blog-entry-971.html)
(http://f18.aaa.livedoor.jp/~ogino/myougisan/index.htm)
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E7%BE%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

「奥の院」は崖の中腹にある洞窟の中に鎮座されているそうで、「白雲山妙義大神が祀られており・・・」とのことで、明治まではそのあたりに「白雲山 石塔寺」があったのかも。
(http://www3.ocn.ne.jp/~zuiun/001yama/022myougi-san.html)

それらに加えて気になったのが、

1.「妙義大権現」の本地が「千手観音」であること。
(http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/honji/files/MYOGI.html)
2.円空作「不動明王」があること。
(http://www.manabi.pref.gunma.jp/bunkazai/ab136025.htm)
3.能因法師が訪れて歌を詠んでいること。
(http://y-ishi.parfe.jp/utamakura/hakoso.html)

で、「日本三石塔寺」には繋がりがありそうな気がして。

ただ、それを見つけるためには、何を検索すればいいのやら、と・・・。


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