![]() |
「古代からの暗号」さんの「謎解き詠花鳥和歌 藤と雲雀(ひばり)ー20 小倉山と鹿D」を拝見し、「字母歌に仕組まれた暗号 「たゐに」 2」で書かれている「藻・茂・mo(狛系民族)は穂・秀ぜよ」は「藻・茂・mo(狛系民族)を補ぜよ」のような気がして。
(謎解き詠花鳥和歌 藤と雲雀(ひばり)ー20 小倉山と鹿D:http://blog.goo.ne.jp/kotodama2009/e/670ff95a20c8b50263ed04597d74942c)
(字母歌に仕組まれた暗号 「たゐに」 2:http://blog.goo.ne.jp/kotodama2009/e/d26f1bc3ed7b264c6b678cf7685eefc0)
(たゐに:http://mwlab.net/tag/japanese-alphabet-song)
(士山上が伝える古代史の暗号:http://www.geocities.jp/yasuko8787/120817.htm)
2012.11.23に書いたように、「夫餘、高句麗、東沃沮、邑婁、穢、馬韓、辰韓、弁辰、倭人」による「東夷九国」に「行基プロジェクト」を構成する氏族が関連していると思われ、2012.12.02の「億ウソ」さんのサイトからの引用に、「「穢」は『・・・南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と接し、東は大海に窮す、今朝鮮の東皆その地なり(三国志魏書)』」とあり、「百舌鳥古墳群」のある「堺」は「穢」族との関連がありそうなことや、「辰=秦」とされる説等と、「古代からの暗号」さんの「藻・茂・mo」を「狛系民族」とされる説から、秦氏も葛城氏(鴨氏)も同じ「出雲系」に思われ、「穂(先住者)」「秀(優秀)」の主張というよりも「補い合おう」という呼びかけではないかと推測しておりまして。
(沸流(フル)の略「振」の減筆が「辰」(シン):http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/hun/0810tulten.html)
で、「古代からの暗号」さんは「鹿」と「藻」の繋がりについて解かれてましたが、2010.03.12に「西行辞典 第115号(100310)」から引用させていただいた「神馬草(きはさ・ぎばさ)」は「神馬藻」「神馬草」とも書くようで、「藻」は「馬」とも繋がるのではないかと思われて。
「敏馬神社」にあった「秋の鹿 わが身こす浪吹く風に 妻をみぬめの浦みてぞ鳴く」という定家の歌も「藻(みぬめ・敏馬)」と「葛」の繋がりを示し、西行の「吹く風に露もたまらぬ葛の葉のうらがへれとは君をこそ思へ」から連想すると、いずれも「ミヌメ神(美奴売神・敏馬神)」に寄せる歌のように思えて。
(http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu5/jitenku.html)
「葛の葉」「うら」で思い出すのは「信太森葛葉稲荷神社」にある歌碑で、ゆえに晴明もまた「行基プロジェクト」に繋がる人物だったのではないかと推測しているんだが・・・。
話を戻すが、「笠沙路探訪」さんのサイトの今月号にある「隼人」と「秦氏」の繋がりもまた、「藻(みぬめ・敏馬)」と「葛」すなわち「秦氏」と「葛城氏(鴨氏)」の繋がりを表しているように思われて。
(『事勝國勝長狭』の『かつ』と『南薩』の「勝羅や葛城」:C:\Users\chororon\Desktop\newpage69.htm)
そのあたりについて、最近更新されたダダさんのサイトの「都留伎日子と天津彦根命そして波多都美」にヒントがありそうで、と、拝見してるうちに「三野懸主」の名が2012.12.29の「美努王」に繋がりそうで気になり、そういえばかつて「美努連(三野縣主)」について以前調べたことがあったような、と。
(都留伎日子と天津彦根命そして波多都美:http://www.ten-f.com/turugihiko-to-hatatumi.html)
2010.02.06で昨日書いてた「敏馬神社」からの検索で、のりちゃんさんのサイトから「美努の氏名は美奴・三野・三努とも書き、美努連は、三野縣主の後裔氏族である」ことを、また、神奈備さんのサイトから「河桁御河辺神社」では「瀬織津姫命、稻倉魂命」が配祀されていることを引用させていただいていて、検索での岩手県奥州市の「止々井神社」(御祭神の1柱が天湯河桁命)は「物部氏の一族である鳥取氏」によるものであることが、神奈備さんのサイトの「香取神宮」に書かれていて。
(御野縣主神社:http://www.norichan.jp/jinja/benkyou/minoagatanushi.htm)
(河桁御河辺神社:http://kamnavi.jp/mn/kinki/omikawa.htm)
(香取神宮:http://kamnavi.jp/mn/higasi/katori.htm)
(止々井神社:http://www.geocities.jp/easyclub_choro/tondeb14.htm)
で、「都留伎日子と天津彦根命そして波多都美」の中でツルギヒコ=天目一箇命とされるあたりで思い出したんだけど、約11年前にお参りした三重の「多度大社」で「天目一箇命」が「天津彦根神」の御子神(伊勢忌部氏の祖神、別宮「一目連神社」)で、「市杵島姫命」は「天津彦根神」の御妹神(境内社「美御前社」)とされていてパニくった記憶が。(笑)
ツルギと言えば大阪では「石切劔箭神社」(御祭神:饒速日尊、可美真手命)を思い出すから、「ナガスネヒコ」と思われる「天津彦根神」が物部系で祀られるのはアリかなと思うが、「市杵島姫命」が「天津彦根神」の妹神とされているのを他では見たことがなかったように思うので、当時ビックリしたわけで。
(石切劔箭神社:http://www.ishikiri.or.jp/yuisyo/)
ということで、「美努王」も物部系と思われ、その子・諸兄が行基とともに久米田池等の開墾にあたったのも、「古代からのネットワーク」によるプロジェクトの一環だったのではないかと推測している次第です、はい。
![]() |
昨日「京都渡来文化ネットワーク会議」から小冊子2冊と1冊の本が届き、とりあえず小冊子の「稲荷社の創建と信仰の展開」から読み始めて。
(京都渡来文化ネットワーク会議:http://kyoto-concierge.co.jp/net-torai/index.html)
まだ途中までしか読めてないんだが、81ページに「和銅より相当以前に伊呂巨(具)が「創建」に関わった”原”稲荷社ともいうべきものがあり、それを中家があらためて奉祭したのが稲荷社の和銅”創建”ということでよいと思う。」とあり、え?と。
伏見稲荷のサイトやウィキペディアを見ると、伊呂巨(具)によって創建されたように書かれており、また、伊呂巨(具)が和銅に生きた人でなければ、松尾大社を創建したとされる伊呂巨(具)の兄も和銅に生きた人ではないことになりそうだが。
(伊奈利社創祀前史:http://inari.jp/b_shinko/b01a.html)
(伏見稲荷大社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%A4%A7%E7%A4%BE)
また、95ページには「空海と伏見稲荷大社との関係にはさまざまな物語性が加わることとなる。」として、ところてん遷座したという「藤森神社」について、「後世の氏子地域の広がり、つまり伏見稲荷大社の近隣地域が稲荷の氏子地域でなく、藤森神社の氏子地域であることの由縁を説明することを目的とするものであることは明白・・・」と書かれていて、どれが本当なんだろうか、と。
(藤森神社縁起:http://www.fujinomorijinjya.or.jp/enngi.html)
(藤森神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%A3%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
で、98ページに東寺と伏見稲荷大社との関係について、「仏教側から神社・神祇への接近であり、かなり特異な部類に属する。」とされているが、飛鳥時代における「四天王寺七宮」も「特異」ということになるんだろうか?
「稲荷」は小冊子を含め「イネ・ナリの転訛」とされているが、億ウソさんのサイトによると「須賀(sukha)と稲荷(dukha)の語源が同じであり、同じ出自を表す言葉であったからである」とされていて、「稲荷は「du_gha(ぢゅが)」の当て字、語源は「諏訪」だった」とあり、「「狐」が結びついているのは、列島半島を網羅した大陸にいた「エベンキ族」や「ウガデ(イデヘ)族」の神話によるものだ。」とのことだが、「エベンキ族」は百済ヤマト系、「ウガデ(イデヘ)族」は邑婁(日)系とされているので、ますますこんがらがるMであった。
(須賀(sukha)と稲荷(dukha)は同じ:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/nimaru.htm#soukagatouka)
(稲荷と須賀と諏訪のウソ:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/new/07inarisuga.html)
(北東アジアの地名・民族名の移動分布例:http://www5.tok2.com/home2/okunouso/0210.htm)
うーん、億うそさんの今月分に「妙見とは中国製北辰信仰の模倣である。元々の正体は、前述したように大船(tae hune)と表記されていたものだ。その大船が東夷九氏族の言語野で転訛を生み、妙見に”変造”されたのである。」とあってやはりと思ったものの、「大は意富比 obosi であり、「船」は文字通りhune、つまり意富比を簒奪したフン族の略である。」と続いていて、やはり理解しきれてない自分に気付いた・・・。
(富士見とは富士が見える所か:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/10nen/seisi6.html)
ただ、実家では「天照皇大神」のお札がお稲荷さんの神棚に祀られていて、曽祖父がなぜそのようにして祀ったのかがわかったような気はする。
![]() |
今朝MLの「西行辞典 第251号」が届き、「野邊」の歌の解説の中で、「「都名所図絵」によると、西行は宮城野萩を持ち帰って、この辺り(双林寺)に植えていたようです。」とあり、2001/05/27に書いた「橘為仲」のことを思い出した。
(橘為仲:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tamenaka.html)
(宮城野の木萩:http://takakura.fd531.com/miyaginohagi.html)
(「つま恋」命名の由来:http://www.tsumagoi.net/profile/)
その頃から干支一回りしても行基周辺の繋がりに関してはっきりしたことはわからずにいるが、「古歌や故事などに通じていた芭蕉」が絡んでくるあたりはやはり気になるところで、西行や「橘為仲」が持ち帰ったかどうかの真意は別として、何かを伝えたかったのではないだろうか、と。
(芭蕉と「花かつみ」:http://www.bashouan.com/ppBashous.htm)
六条河原院で「源融」が、十輪寺で「業平」が行ったという「塩焼き」も「宮城野萩」同様、何か伝えようとしているように思えるのだが・・・。
(源融:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tohoru.html)
(十輪寺:http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/urochoro_jyurinji.htm)
「古代からの暗号」さんの説から推測すると、「萩ー脛ー荒脛(荒ハバキ)」が考えられ、「塩焼き」は「塩竈神社」の連想でやはり「アラハバキ」になるかと・・・。
(謎解き詠花鳥和歌 藤と雲雀(ひばり)ー13:http://blog.goo.ne.jp/kotodama2009/e/4d58486595aba3576b0fde06ab856e93)
(『東日流外三郡誌』の中の孝謙天皇 17:http://blog.goo.ne.jp/kotodama2009/e/9caa92a71ed2e9a3083dc174de2d4466)
![]() |
新潟県胎内市の「城の山古墳」で発掘された副葬品の銅鏡が、畿内で出土したものと同じではないかとされていて、ニュースで見た発掘現場の窪みには朱が施されていたように見えた・・・「初期ヤマト政権が、この地まで影響力を及ぼしていたことに驚かされる。」とあるが、私は畿内から新潟に移動した同族だったんじゃないかと推測しているわけで。
(http://sankei.jp.msn.com/life/news/120906/art12090616460003-n1.htm)
だから、以前書いた坂上田村麻呂は「東征」ではなく、東北方面と朝廷とを繋ぐ調停役のような形で行ったことの裏付けとなるんじゃないかと思えるのだが。
話が少しそれるが、6日に「京都渡来文化ネットワーク会議」から届いた小冊子の「古代の京都と渡来人-秦氏を中心に-」に、延氏による「新羅国家形成期の優由国と秦氏」があり、「韓半島南部にあった三韓時代の辰韓を構成した12ヶ国の一国」である「優由国」が秦氏の本拠地(現在の蔚珍あたりで領県であった海曲の古名『波旦』をその根拠とされている)だったのではないかとされていて、韓半島と山陰で共通する遺物が出土していることを挙げておられ、渡来ルートの1つと捉えておられるようで。
(秦氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-18.html)
また、旧秋田城の発掘調査で奈良時代と思われる漆紙文書に「秦久尓」という人名が出てきたそうで、日本海側の各地に朝廷と繋がりを持つ同族が渡来したとも考えられ、となると、新潟方面にも渡来していた可能性もあるかと。
(平安京創生1200年と秦氏:http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/trip9494.html)
漆紙文書は「死亡帳」のようで、「「高志公」「江沼臣」という、北陸地方に由来するウジ名がみられる」ことについて「興味深い」とされており、各地からの移動によるものとされているようだが、それ以前からいた者の元に移住してきたということも考えられそうで。
(古代日本の隣保組織について:http://n-yoshi.sakura.ne.jp/yoshi/hestia/archives/no4/mikami.pdf)
高志氏は行基の父方の姓とされており、そのあたりもネットワークの存在が伺えそうな。
それらをふまえ、池田市の「穴織宮 伊居太神社」の御略記にある、「漢、秦、大蔵、丹波、田村、阪上等の姓の人は、みな此の二神(猪名津彦神社の祭神:阿知使主(下坂神)及びその子 都加使主(岩坂神))の子孫である。」とのことから、田村麻呂は「古代からのネットワーク」を繋ぐ役割とともに朝廷の任務によって東国に赴いたのではないかと推測していたわけで。
2012.12.02に書いた、「狭山池」と同じ「敷葉工法」を用いたと思われる「王景」が遼東半島に逃れたのちの交流、「碧骨堤」のある地の「馬韓」の1国だった「辟卑離国」に居住した人々、秦氏の本拠地だったとされる「辰韓12ヶ国の一国」である「優由国」の人々が繋がれば、「古代からのネットワーク」の解明も期待できそうで、発掘調査によってその痕跡が見つかるのを待っている、というところでしょうか。
ただ、億うそさんのサイトでの、「蔚珍」は「ウル・ムチ系の地名」であり、「ウル・ムチ」は「「邑婁」(倭奴、ウガデ(イデヘ)族?)と「勿吉」(目支国、沸流(振)の「辰国」?)が列島内で合体し、略称の「日向」に統一されていく・・・」というあたりでまた迷宮へと・・・。
(韓国の珍島と日本の松浦が同じMTR地名の「ムヅラ」ということ:http://www31.tok2.com/home2/okunouso/new/0505mudura.htm)
(美しいの「うつ」も麗しの「うる」もウルムチの略称だ:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/new/0409uruwasi.htm)
(アイデンティティー:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/mokuzi.htm)
![]() |
昨日の小冊子の「古代の京都と渡来人-秦氏を中心に-」には、近藤浩一氏よる「新羅国家形成と朝鮮半島東北地域」があり、
5世紀初頭の新羅は、堤上という地方人を対高句麗・倭外交の交渉にあたらせている。 |
とあり、堤上(実聖尼師今、毛麻利叱智?)について検索したところ、ほとんどが「朴堤上」説話についてのことが多かったんだが、対馬との外交の一部について書かれていたMLがあった。
(兵庫津・朝鮮通信使2011年3月20日号:http://melma.com/backnumber_78763_5127486/)
(毛麻利叱智 とは:http://kotobank.jp/word/%E6%AF%9B%E9%BA%BB%E5%88%A9%E5%8F%B1%E6%99%BA)
(実聖尼師今:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E8%81%96%E5%B0%BC%E5%B8%AB%E4%BB%8A)
(『日本書紀』と『三国史記』:http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/note3.html)
(古代の霧の中から(徳間書店) 第5章最新の諸問題について 2高句麗好太王碑再論:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku11/koutai52.html)
(葛城襲津彦:http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/subfiles/katuragi-no-sotuhiko.htm)
近藤浩一氏が書かれている「ネットワーク」が、私の推測している「行基プロジェクト」を構成する「古代からのネットワーク」ではないかと思われるんだが・・・。
![]() |
2013.01.06に書いた曽祖父が祀った神棚、昨日実家に行ったので撮ってきました、ついでに倉庫でガラクタ置場と化した曽祖父の作った水屋も。(苦笑)
曽祖父が作った水屋
曽祖父は明治10年生まれで長久手村出身、知り合いの紡績会社社長に呼ばれ、祖母が6才の大正8年に泉大津市の寄留地に引っ越してきたことを謄本等で知った。水屋は軍隊にいた頃に作ったそうで、神棚は母親(昭和9年生まれ)の生まれる前からあったらしい。
曽祖父も「古代からのネットワーク」による繋がりから移動し、近代における「行基プロジェクト」の一端を担ってたのではないかと、行基の命日に推測している次第です。
![]() |
3日に大阪狭山市のSAYAKAホールに行く途中、行基ゆかりとされる「萩原天神」を通るということで、毎度のことながら「行基プロジェクト」についてトリップし、後日改めて検索したところ、「萩原天神」のある日置の地で信仰されてたという「三十番神」が「吉備津大明神」かも、と。
(三十番神の解説:http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/ttemple/taka0211/sj-kaisetu.htm)
(三十番神とは:http://www.genbu.net/engi/30.htm)
(萩原神社:http://www.norichan.jp/jinja/benkyou2/hagiwaratenjin.htm)
日置西村にあったとされる「日祠宮」と「吉備津大明神」の関連と、「三十番神」が「吉備津大明神」であるならばどういうことが背後にあるのだろうかと気になっていたところ、億うそさんのサイトで「吉備津」は「木日一(きびつ)」で「東夷」を表し、「東夷朝廷」に繋がるようで。
(自ら矜大にして実を以って応えない遣唐使:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/10nen/1210torii.htm)
(東夷九氏(クズ)族が寄り集まってできた日本:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/identity/toppage.html)
ということは、「日祠宮」の「三十番神」は「東夷朝廷」に繋がると思われ、女神であるならば「瀬織津姫」(三炊屋姫)ではないかと推測しているわけで。
昨日ついでに注文した工作キッドの製造元が「太宰府市都府楼」とあり、2009.05.16に道真絡みで書いてたことを思い出し、そこから再度億うそさんのサイトを拝見していたわけだが、「吉備津神」が男神ならば「都府楼」すなわち「多勿王」「大物主神」となると思われるので、「日祠宮」の伝承がもっと詳しくわかればいいのだが・・・。
(地元で言う「とぶろー」は多勿王,大物主神だ:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/hun/0907tooi.html)
「萩原天神」の「萩」は、「古代からの暗号」さんのブログでの「アラハバキ」を表し、「瀬織津姫」に繋がるのではないかと思うが・・・。
「吉備津神社」の境外社に「瀬織津姫」が祀られているようですね。
(吉備津神社:http://kamnavi.jp/en/kibi/kibitu.htm)
そういえば、先週京都競馬場の帰りに撮った、「埋蔵文化財発掘調査」の看板の奥に建つ行基ゆかりの「久修園院」も、「東夷九氏(クズ)族」に関連するお寺かと。
![]() |
今回も「気になる」ということしか書けないんだが・・・「西行辞典 第259号」に「よく理解できないフレーズです。」とされていたのが「はちすひらけば」で、そのあとに「まづたづねみよ」と続くのは「俊成の皮肉が入った言葉かもしれません。」と。
(藤原俊成歌)(岩波文庫山家集281P補遺・御裳濯河歌合・長秋詠藻)) この歌の道の悟り難いのを思うにつけても、あなたが蓮の花を咲かせたら(仏道の上での悟りを得られたら) |
初めに「たづねみよ」で思い出したのが、「信太森葛葉稲荷神社」に歌碑のある「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉」で、そういえばと次に思い出したのが「牛に引かれて布引の 山々布引く釈尊寺 御寺を詣る人々は 山の縁起をたづね見よ・・・」という行基ゆかりとされる「布引山釈尊寺」の御縁起で。
(葛の葉:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E3%81%AE%E8%91%89)
(布引山釈尊寺縁起:http://kusabue.jp/nunobiki1.html)
そのあと検索で出てきたのは、長野県更級郡付近を詠んだとされる定家の「たづね見よよしさらしなの月ならばなぐさめかぬる心しるやと」などで、高橋虫麻呂の「遠妻し多珂にありせば知らずとも手綱の浜の尋ね来なまし」での、「手綱の浜」に該当する言葉を書かずして連想させるような使い方をしたのだろうかと推測すると、「御裳濯河歌合」であることから「瀬織津姫」が浮かんだり。
(藤原定家の短歌:http://www5c.biglobe.ne.jp/~n32e131/tanka/sadaie.html)
(高橋虫麻呂:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/musi_ta.html)
そうそう、「高橋虫麻呂」の歌については、かつて行基絡みで「勝鹿の真間娘子を詠む歌一首」でも気になっているんですよね、だからこれらの繋がりもやはり気になるところではあるが詳細はわからないという、自分の不勉強さが何とももどかしい限りで。
![]() |
昨夜テレビで「秦氏」が「ペルシャ人」で「ゾロアスター教」を信仰していた、というような内容だったが、「秦氏」は2013.01.19に書いたように「優由国」(現在の蔚珍あたりで領県であった海曲の古名『波旦』をその根拠とされている)から渡来した人々を総称しているように思われ、その中にはいろんな氏族がいたと思われるので、秦氏の全てが「ペルシャ人」と言えるのだろうか、と。
「ゾロアスター教」で言えば「蘇我氏」を思い出し、漢音で「ペルシャ(パルシーグ)人」を意味するとされた「間人」は太子の母だけでなく、中大兄皇子の妹も「間人皇女」とされているので、そのあたりはどうなの?という疑問もあった。
で、私が思うには、というか、「億ウソ」さんのサイトにある「ホータンからワタって来た人」が一部の秦氏のルーツで、太子は「サカ族」(月氏・スキタイ)の「好太王」(広開土王=仁徳天皇=住吉大神)の末裔ではないかと思われ、日本に渡る前に「優由国」にいて他の氏族とともに渡来してきたのでは、と。
(大和の和は禾口で「稲のクニ」か:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/identity/toppage.html#01304top)
(シルクロード旅行記(ホータン近辺の地図):http://www.geocities.jp/mikoyan358/travel/silk3/021230.htm)
上記URLの「シルクロード旅行記」を拝見したところ、ホータンとペルシャには交易による繋がりがあったようなので、ホータンの前にいたのがペルシャだったのかもしれないし、正倉院にある聖武天皇の遺品にペルシャ産のものもあったと思うので、「古代からのネットワーク」の存在を表している、とも考えられそうですね。
(螺鈿紫檀琵琶:http://mik2005.jp/shosoin/kids/treasure_02.html)
![]() |
2月23日分に書いた行基ゆかりの「久修園院」と線路の間での「埋蔵文化財発掘調査」が気になってるんだが、今のところ、平安〜鎌倉時代の食器が出土した、ということしかネットではわからなかったんだけど、「久修園院」の南は史跡公園になるようで、できれば寺院の前も建物を建てずにいてほしいなぁ、と・・・楠葉台場はどうされるのかなぁ・・・。
(枚方つーしん:http://www.hira2.jp/archives/50319661.html)
(枚方つーしん:http://www.hira2.jp/archives/50321489.html)
(くずはのお台場:http://inoues.net/ruins2/kuzuha_odaiba.html)
(樟葉砲台跡・久修園院:http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-642.html)
![]() |
「吹田市立博物館」で「大僧正行基展」が行われているということで、その鑑賞とともに、近くの行基が中興したとされる「佐井寺」や、かつていろいろ教えていただいた「闇の日本史」さんが「異説晴明誕生 吉志編1」で書かれていた「吉志部神社」に行こうと思い、再度「異説晴明誕生 吉志編1」を拝見し、「壬生氏」絡みで出てきた「旧盛徳寺」を検索してまして。
(異説晴明誕生 吉志編1:http://www011.upp.so-net.ne.jp/dhistory/sei_0wk.htm)
「大同年間創建」とされることや、「埼玉古墳群」の近くということで、御本尊「薬師如来」についてが知りたいところだけど、今のところ詳細はわからなくて。
(旧盛徳寺礎石:http://www.city.gyoda.lg.jp/41/03/10/bunkazai_itiran/kyuujyoutokujisoseki.html)
(盛徳寺の概要:http://www.tesshow.jp/saitama/gyoda/temple_sakitama_jotoku.html)
というのも、御本尊が「行基作と伝えられている。」とされる寺院が近く(と思われる)に4件ほどあること、「埼玉古墳群」の「丸墓山古墳」は6世紀前半に造られた円墳で「調子丸の墓だという民間伝承」があり、森氏の京都に関する著書や秦氏ゆかりの「双ヶ岡」近辺の古墳の形状等から、「円墳」は秦氏と関わりがあるように思われることなどにより、「古代からのネットワーク」のうちで主に奈良時代を担ったと思われる「行基プロジェクト」によるものではないか、と。
(丸墓山古墳:http://www.geocities.jp/fukadasoft/kofun/maruhaka/)
ゆえに、「さきたま古墳公園」の北にある「白山姫神社」や「盛徳寺」の御本尊「薬師如来」は、「瀬織津姫」あるいは「ニギハヤヒ」ではないかという推測も。
(白山姫神社:http://blogs.yahoo.co.jp/sunekotanpako/3992474.html)
「異説晴明誕生 吉志編1」に戻りますが、最後に「吉志はもともと古代朝鮮における地方首長を意味しており・・・」と書かれていて、それが2012.12.02での「後漢は「豪族連合王国」だった」ことに繋がり、渡来後も「古代からのネットワーク」による活動があったことを示しているのでは、と。
で、私は「安倍晴明」は平安時代のネットワーク活動の一員だったのではないかと推測しているのだが。
(飛鳥時代は「太子プロジェクト」があったのではと推測しており、蘇我氏・秦氏・調子麿等が繋がると思われ、「万葉集」の歌人たちも絡んでいそうで、飛鳥〜奈良あたりは・役小角・法道上人などが一員だったのでは、と。平安時代は晴明の他、空海、最澄、坂上田村麻呂、在原業平、西行等で、源氏・平氏も絡んでいそうな・・・。)
何度か書いたと思うけど、「安倍氏」は「ナガスネヒコ」の兄「安日彦」の子孫とされる説がありますね、それにより「古代からのネットワーク」の活動に「吉志」がいても不思議ではないと思うわけで、行基ゆかりの地や行基と結びつく伝承のある場所等に「古代からのネットワーク」の存在があったことが見えるように思われるわけです、はい。
そうそう、「なんでもアルバム」の行基編に置いてる「菰池」の写真を電車の車窓から撮りましたが、ちょうどその背中側では「百舌鳥古墳群」のうちの3基ほどが見えるので、行基と古墳群の繋がりを表す一例かと。
(行基寺古墳:地域遺産(歴史)|海津市:http://www.city.kaizu.lg.jp/life-guide/learns-play/history-culture/local-inheritance-history/gyogiji-kofun.html)
(行基平山頂古墳 - 古墳マップ:http://kofun.info/kofun/1225)
(行基平山頂古墳の「行基」って、なんだべな?:http://plaza.rakuten.co.jp/hogehogeto/diary/201303200000/)
(足利市 徳正寺・虚空蔵繭玉市祭り:http://blog.goo.ne.jp/ttmida/e/ef45e6ec4cf783ef7560c2e72ea29e46)
![]() |
「国際博物館の日」の昨日、「吹田市立博物館」での「大僧正行基展」に行き、千田稔氏の講演会「行基の仏教と国家観」を拝聴、「続日本紀」などから時系列で「聖武天皇」を中心としたお話をされ、そこに「行基」を絡ませるというような展開でした。
藤原氏と聖武天皇との関係について、あまり触れておられない方が多いように思うのですが、いただいた資料に「藤原氏の傀儡からの離脱を企図」として、甕原離宮・難波宮・和泉への行幸がその「兆候」だったのではないかとされていて、「藤原広嗣の乱」の際、祖父・天武天皇の「壬申の乱」での東国行きと同じようなルートを辿ったことや、藤原氏による「平城京」を廃都として「恭仁京」などを作ろうとしたことなどを挙げておられたのが興味深かったですね。
「藤原氏の傀儡」とされていた聖武天皇と、九州の神社で行われる「放生会」とに何か共通点がありそうに思ったりもして・・・「続日本紀」などにはっきりと書かれているわけではないが、聖武天皇と隼人とは繋がりを感じていて・・・。
で、「恭仁京」と「紫香楽宮」の位置関係は、「聖徳太子」を見倣ってのことではないかとされ、そうした「国家観」に「行基」と繋がるものがあったのでは、というようなお話だったと思うんですが、それならば太子と行基の繋がりも見いだせそうに思うわけで、それが「古代からのネットワーク」によるものではないか、と。
講演会のあとで「行基展」を見たのですが、展示物の中に「石川主殿知行所寺社吟味帳写」に、行基が土中より掘り出した十一面観音を本尊としたという「佐井寺」の御縁起が書かれたのを、「吉志部神社」が蔵している、ということは、それぞれの繋がりあったことを示しているのであれば、行基と吉志一族との繋がりも示すのでは、と。
たしか太子も吉志一族との繋がりがあったような・・・「膳部菩岐々美郎女」は膳氏の出で、たしか安倍氏とルーツが同じだったような・・・。
(膳部菩岐々美郎女:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%B3%E9%83%A8%E8%8F%A9%E5%B2%90%E3%80%85%E7%BE%8E%E9%83%8E%E5%A5%B3)
となると、「佐井寺」の大阪府指定有形文化財「地蔵菩薩立像」が、「地蔵塚から行基が発掘したと伝え、維新まで伊射奈岐神社境内の地蔵堂に安置されていた。」という、たぶん高野聖が残したであろうその伝承は、「伊射奈岐神社」との繋がりについての何を言わんとしているのだろうか・・・。
(佐井寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BA%95%E5%AF%BA)
また曖昧なままで終わってしまいますが、1つツッコミを入れさせていただくと、千田氏の(たぶんウケ狙いの)お話で、生駒の入り口と出口に行基ゆかりの場所があることから、「第二阪奈」は「行基道」と名付けたらよかったのにとおっしゃってたのですが、壱分出口近くにあるのは行基の「墓」、第二阪奈最終近くの「喜光寺」は「行基終焉の地」ということで、「黄泉への道」のようであまりよろしくないのでは、と。(苦笑)
![]() |
昨日届いたコミック「カルラ舞う」少年陰陽師3を読み、2012.11.18から気になってた「ア・スガ」についての続きが書かれていて、蘇我氏が「陰宅風水」の代わりとして取り入れた寺院等における「すがすがしい」空間とは、行基が即座に解したという「唯識」のことなのかなぁ、と。
(唯識:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98)
p67にある「集中しているゾーン」から音楽家とメロディの作りだす「気」を抜いたあとの「ゾーン」は、上記のウィキのURLにある
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。 |
であるが、その「空」は「無」ではなく、唯識無境(ただ識だけがあって外界は存在しない)ということと思われ、ウィキに書かれている「ユングの集合的無意識に似ていなくもない」ものでもある、と。
たぶん、かめはめ波からエネルギーを抜いた状態の、てのひらという結界の中にある空間、みたいな感じかと思われ、仏教以前には古墳や神社等のパワースポットを繋いだ二等辺三角形で作りだされた中心点がそれにあたる、というか、その中心点を作り出すために、パワースポットを二等辺三角形を形成するように配した、ということかと。
だから行基のみならず、僧や山岳修験者たちには理解しえた空間であったと思われ、聖武天皇の勅による国分寺・国分尼寺建立の際には、その「空」を理解する人たちは技能集団とともに「行基プロジェクト」として活動していた、と推測しているわけで。
あと、今号で「亀石」の伝説も絡んでいて、
言い伝えによれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)のヘビと川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って亀の供養をしたという。 亀石は、以前は北を向き、次に東を向いたと言う。そして、今は南西を向いているが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化す、と伝えられている。 (亀石:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%9F%B3) |
この中の「ナマズ」は蘇我氏?「ヘび」は藤原氏?という感じでコミックでは書かれているんだけど、「ナマズ」で思い出すのは「鹿島」、「ヘビ」は瀬織津姫・ナガスネヒコ、「亀」は秦氏(物部氏)(松尾大社)で、不比等がそれらの氏族のテリトリー等を乗っ取ったことを隠すために作り出した説のように思われ、そのために仏教以前の二等辺三角形にも手を加えているようにも思えて。
(阿蘇と鯰:http://homepage3.nifty.com/megalith/r-aso-nm.htm)
(なまず・阿蘇の謎:http://outdoor.geocities.jp/tangyo06/namazunazo01.html)
(阿蘇神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%98%87%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(阿蘇氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%98%87%E6%B0%8F)
(九州の山紀行(多氏と海人の足跡):http://www.sysken.or.jp/Ushijima/kyuuyamakikou.pdf)
というのも、p151に蘇我氏ゆかりの飛鳥寺、石舞台古墳と亀石で二等辺三角形ができる図が描かれていて、また、物部氏ゆかりの磐船神社、石上神宮と亀石でも二等辺三角形ができることも書かれており、パワースポットを共有する氏族間で争いがあったというのは作り事のように思われるわけで、それらを隠すため、あるいは古代からのネットワークが作りだしたパワーを横取りするために、行基の亡くなった年に「猿沢池」を作り、それが瀬織津姫ゆかりと思われる「吉野」と繋がっているという伝承までも作り出したのでは、と。
不思議空間「遠野」さんのサイトに、「以前、阿蘇津姫は瀬織津比唐ナあると述べたが、この白川吉見神社ではその龍神である、阿蘇津比=瀬織津比唐ェ妙見神と結び付いている。」とあり、気になりますね。
(平将門と瀬織津比刀i其の8):http://dostoev.exblog.jp/18729310)
で、「高崎山」と「大神神社」等を結ぶライン上にある「談山神社」も、その延長線上に移築した「興福寺」も、不比等が中臣氏から乗っ取っただけでなく、二等辺三角形をなす瀬織津姫ゆかりと思われる「室生龍穴神社」も乗っ取ったのでは、と。
(興福寺:http://www.naranet.co.jp/koufukuji/)
(室生龍穴神社:http://www.genbu.net/data/yamato/ryuketu_title.htm)
そういうのがあるから、天武天皇も持統天皇も亡くなってから世に出たという「日本書紀」は、不比等の都合のいいようにあれこれ改竄されているように思われるのに、「日本書紀」の記載のみを信じ込んで判断されるのはどうかと思うわけで、出土品がニセモノ扱いされることに危惧の念を抱くのだが・・・。
追記:(2013.06.21)
またもや「阿蘇」方面を検索して、そこからいつものように横道にそれてしまった中に、「熊本県の拝ヶ石と岐阜県の金山巨石群を結ぶ線」が「夏至の日出方位に重なり」、その線の中央に「飯野山」がある、と書かれたページに、2011.01.17分などで行基関連で検索した「讃留霊王神社」が出てきまして。
(星と山:http://homepage3.nifty.com/megalith/r-hoshi%20yama.htm)
また、同サイトには熊本における「二等辺三角形」の描ける地点や、熊本城天守閣の位置が「三ノ岳」「御坊山」とでできる「二等辺三角形」から決められたのではないかという説など、興味深いことがいっぱいあって。
(東西線:http://homepage3.nifty.com/megalith/r-touzaisen.htm)
(三角の形:http://homepage3.nifty.com/megalith/r-sankaku.htm)
宮内庁にあるという「異本阿蘇氏系図」に、「科野の武五百建命と阿蘇の健磐龍命は同一」とあるそうで、阿蘇と信濃が「中央構造線」で繋がる、ということで、ますます横道へと。(苦笑)
(諏訪:http://homepage3.nifty.com/megalith/r-suwa.htm)
(諏訪の血脈、そして龍脈:http://www.tohyamago.com/rekisi/chuoukouzousen_suwa/)
億うそさんの説によれば、「諏訪」も「蘇我」も元は「トルファン」であるとされてるから、繋がるのは当然と言えるようで、「熊襲(koma_swo)とは「高麗の曽於・蘇我」だ」ともされていて。
(諏訪と須賀と稲荷のウソ:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/new/07inarisuga.html)
「武五百建命」で検索してると「會津比賣神社」(長野市岩野区)がヒットし、「祭神会津比売の命は信濃の国の初代国造建五百建命の后なり。」とのことで「会津比売」を検索すると、「大物主(倭大物主櫛甕魂命)の子供・会地比古命の娘、会知速比売ともいわれています。」とのことで、「日子八井耳」の娘とされる「阿蘇都姫」とは別人のようで、「阿蘇都媛から生まれたのが速瓶玉で、会知速比売から生まれたのが健稲背だと考えればそれぞれ現地妻から生まれた者がその地の国造になったと思えば良い。」とされてますが、さて、本当のところはどうなんでしょうね。
(會津比賣神社:http://www41.tok2.com/home/capino/mori/mori07/07_01_02saijo/s55.html)
(会津比売命について(妻女山里山通信):http://blog.goo.ne.jp/morimorikids/e/a1477964de8ecb42a89eea7b55ef6f41)
(多氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-31.html)
「草部吉見神社」は「阿蘇津姫」ゆかりの神社らしいが、注連縄が「出雲大社」を連想させる編み方だったり、「阿蘇神話街道」という本には「草部と出雲の因縁浅からぬものがある」とされているそうで、出雲系の「会津比売」と繋がらなくもないのでは、と。
(草部吉見神社の謎:http://pub.ne.jp/koizumifarm/?entry_id=4575705)
(No.156 「草部吉見神社を語る」:http://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=156&pre_page=8)
![]() |
今日もまた調べあぐねている事柄なんだが、ML西行辞典の268号が届き、「帚木」(ハハキギ・ホウキギ)に書かれている
(岩波文庫山家集143P恋歌・新潮578番) 逢ってくれないとも知らず、噂を聞くだけであなたに恋い焦がれて、 |
の歌が気になった。
伏屋の歌もいくつかありますが「園原」もしくは「帚木」がともに詠みこまれている場合は信濃の国の歌、単に「伏屋」だけの場合は普通名詞と解釈するべきと思います。 |
とのことで、「信濃の国の歌」かどうかは不明のようだが、西行の「恋い焦がれて」にかかるのは「帚木」(箒神=産神)であり「瀬織津姫」ではないか、と。
そのあたりを調べようと検索したが、MLに書かれていた「帚木:歌に詠む場合は遠くからは見えるけど近づくと消えて見えなくなるという帚木の伝承に拠って詠まれています。」ということくらいしかわからず、その伝承でヒットした謡曲「木賊」との関連もよくわからずにいるわけで・・・「帚木」と「木賊」は似ているようには見えないが・・・。
(帚木:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9A%E6%9C%A8)
(南信州 阿智村 園原の里 > はゝき木館:http://sonohara.info/?page_id=43)
(謡曲木賊:http://www.harusan1925.net/0513.html)
(木賊(砥草):http://www.hana300.com/tokusa.html)
(帚木(コキア):http://yasashi.info/ko_00014.htm)
あと、昨日書いてた「二等辺三角形」について、ずっと暗号「山上憶良」さんのサイトと繋がるように思いつつ拝見していても、なかなか辿り着くことができずにいて・・・。
(紀貫之墓に託された秘密:http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0turaykihaka.htm)
(無名氏の「方位線と歴史」を読む:http://www.geocities.jp/yasuko8787/80621-2.htm)
(位置関係が気になる一宮の具体例:http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0-1tizu1-1.htm)
ということで、またしても迷宮に入ったままの状態です、すみません。
![]() |
予約してた森氏の「敗者の古代史」が届き、目次を見てp216の「16 蘇我氏四代」から読み、「石舞台古墳」と高麗との関係、さらには「好太王」の名が出てきて、億うそさんの説に繋がったのでは、と。
(ケルト族を連れてきたスキタイ王:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/moksirok/timei.html)
つまり、「好太王(鄒牟王・朱蒙・東明王・広開土王・スキタイ王)」が北夫余の王の息子であり、高句麗を建国した始祖であり、広開土王=仁徳天皇=住吉大神であり、蘇我氏の祖ではないかと。
(スキタイ:紀元前8世紀〜紀元前3世紀にかけて、南ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族および遊牧国家。)
(東征の楠(九州)庭は楠王君の王城・住吉大社にあった:http://www31.tok2.com/home2/okunouso/moksirok/timei2.html)
また、p69で「熊襲」の「襲」を日向国の南西の曽於郡(713年以降は大隅国)ではないかとされており、「曽」で思い出すのが物部氏なので「崇仏派」と「廃仏派」の戦いはやはり作られたものではないかと思われ、「隼人」と「蘇我氏」との繋がりも感じられることから、「隼人」も自ら仏教を取り入れたのではないかと思われるわけで。
(曽於郡:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E6%96%BC%E9%83%A1)
好太王(374年〜412年) 高句麗の第19代の王(在位:391年 - 412年)。姓は高、諱は談徳。先代の故国壌王の息子で、386年に太子に立てられており、先王の死とともに辛卯年(391年)に王位に就いた。鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡張した。好太王の名は、好太王碑文によれば正式な諡は國岡上廣開土境平安好太王といい、韓国では広開土王または広開土大王とも呼ばれる。在位中に永楽という年号を使用したので永楽大王とも呼ばれる。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B) <関連サイト> (大王陵:http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/koguryo_009.htm) (将軍塚:http://www14.plala.or.jp/ayurina/binbo/shenyang/ji-an.html) (将軍塚:http://www.bell.jp/pancho/travel/china-2/aug31_shogunduka.htm) (将軍墳1号陪墳:http://4travel.jp/overseas/area/asia/china-jilin_province/travelogue/10611081/) (石舞台古墳:http://www.asuka-park.go.jp/ishibutai/) (古地名は日本人の苗字の源です:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/10nen/seisi6.html) (大隅も有明も日月(住吉)神の地:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/moksirok/timei.html) (大隅の「スミ」こそ鮮卑のことだ?:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/new/0411.htm) (秦家の一族:http://www.h5.dion.ne.jp/~kame33/0-10.htm) |
以前の著書を拝読して調べたものの、2010.10.18分などでも謎のままで気になってた「タケハニヤス王」と「ミマキイリ彦」との争いも、やはり不比等によって作られたもののようなので、続きを読むのが楽しみです、はい。
追記:(2013.06.28)
「敗者の古代史」を半分ほど読んで思ったのは、「くさか」がよく出てくる、ということで、それが億ウソさんの「草加もまた蘇我・宗我で出自は「勿吉」だ」とされていることに繋がるようで。
(草加もまた蘇我・宗我で出自は「勿吉」だ:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/new/07inarisuga.html)
初めに書かれている「饒速日命と長髄彦」で、神武と戦った「孔舎衛坂」(日下坂)の「日下」は、「草加」と同じで「蘇我」と通じる、ということになり、また、ナガスネヒコの本拠地「磐余の東に隣した鳥見(外山)だった。」とある中の「磐余」についても、上記URLに、天文22(1553)年2月23日、三条西公条の道中記「吉野詣記」の「蘇我と書きては、いはれとよめるにやと・・・」を引用されていることから、「蘇我」を示すことになるようで。
(磐余・多武峯の道:http://www2.begin.or.jp/ytokoji/jpgbox/tkjtop.htm)
ということは、著書にある「河内湾」から検証されて「記紀の編述に近いころの地形を骨組みにして神武東遷の話は造られたとみている。」ということと思われ、「神武」の「磐余彦」という名からも同族であったことが窺われ、ナガスネヒコはニギハヤヒに本拠地を譲ったのち、新たな開拓地を求めて旅立ったように推測しているわけで。
次の章では「タケハニヤス王とミマキイリ彦の戦争」が書かれていて、そこには「くさか」は出て来ないんだが、2009.12.23分で書いてたように本当にあったことなのかという疑問がある、というか、蘇我氏の名を消すための神武東遷の話の焼き直しのような感じがして・・・あとで出てくる「忍熊王」「菟道稚郎子」「大日下王」等も同様に。
蘇我氏の祖が大陸から来た「好太王」であるなら、乱などによって「殺された」とされる人々は逆に大陸に移動したのではと、億ウソさんの説や小林恵子氏の著書等から2011.02.12、2011.08.22、2011.12.18分でも推測していた次第で。
そうそう、億ウソさんの崇神天皇=武倭王「旨」=武寧王=伽耶始祖王「金 首露」とされる説で思い出したが、著書で「大日下王」についてのところに、「河内連」は「武寧王十八代前の都慕王(朱蒙?)」の末裔であることが書かれていて、大陸との交流が盛んだったと思われ、それに伴って「古代からのネットワーク」も連携していたのでは、と・・・。
(武寧王:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AF%A7%E7%8E%8B)
(温祚王:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%A5%9A%E7%8E%8B)
著書にも、億ウソさんのサイトにも書かれている、「新撰姓氏録」に「難波連」(難波吉師)の出自は「高麗国好太王」であるとされていることは、好太王・蘇我氏(熊襲)・隼人・大彦(阿倍氏・膳氏等)が繋がることを意味すると思われ、大彦から物部氏・秦氏も繋がるようなので、そこに「古代からのネットワーク」が見いだせるのでは、と。
(新撰姓氏録:http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/data/shoji03.html)
(和歌山県田辺市に好太王碑、牟婁の影:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/10nen/seisi6.html)
(阿部氏・安倍氏・膳氏安東氏・高橋氏:http://homepage2.nifty.com/amanokuni/abe.htm)
追記:(2013.07.02)
森氏の「敗者の古代史」の「16 蘇我氏四代」に「石舞台古墳」が、「好太王」のものではないかとされる「大王陵」や「将軍塚」を日本で再現しようとされたのではないかと書かれていたが、「17 有間皇子と塩屋連[魚制]魚」(魚+制で1字・しおやのむらじこのしろ)のところでも、「文殊院西古墳」の石室の構築法が渤海の王墓の石室と類似点があるともいわれていることが書かれており、蘇我氏と安倍氏および高句麗(渤海)との関連性が窺えるようで。
(渤海:http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/koglre.html)
(高句麗と渤海の歴史:http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/koglre.html)
(世界遺産・集安高句麗壁画古墳と遺跡の旅:http://www.d4.dion.ne.jp/~arai-n/test243.htm)
(安倍文殊院古墳:http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/4702/monnzyuinnkohunn.html)
「文殊院西古墳」は「有間皇子」の母方の祖父「阿部倉梯麻呂」の墓ではないかとされているそうで、謀反の疑いで処刑されたという「有間皇子」は、難波宮で憤死したとされる父「孝徳天皇」と同様に、死んだのではなく安倍氏等によって高句麗(渤海)に渡った、と考えられなくもないのでは、と。
タイトルにある「塩屋連[魚制]魚」は紀伊国日高郡の豪族で「孝徳天皇」の近臣の一人だそうで、他には上野国那波郡朝倉郷の豪族「朝倉君」、三河国の豪族「三河大伴直」、継体天皇の皇子・椀子王の関連氏族と思われる「椀子(丸子)連」などを挙げておられ、「その大半が東日本の豪族」と書かれていたことから「古代からのネットワーク」を連想していた次第で。
紀伊の日高川に近い「岩内古墳群」を森氏は「塩屋氏の代々の墓地」とみておられるそうで、出土品に九州の海人との繋がりを感じられる「巴形銅器」があったり、畿内の「終末期古墳」では天皇・皇族・功臣らだけが造営できたとみられるという構造だそうで、安倍氏との近さも感じられそうな。
(岩内1号墳:http://www.wakayama-kanko.or.jp/marutabi/kikinotabi/map/c-iwanai.html)
(塩屋王子神社:http://kamnavi.jp/ki/nanki/sioya.htm)
あ、「塩屋連」の検索で京都の「與杼神社」がヒットし、「與杼神社」はかつて検索して佐賀の「與止日女神社」に繋がりそうで、すなわち「瀬織津姫」と繋がると思われるので、そのあたりからも「安倍氏」との繋がりがうかがえそうで。
(與杼神社:http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/kyou-yodo.html)
著書に書かれていた、「日本書紀」にある「仁賢天皇」や「継体天皇」の項の「日鷹吉士」の外交の内容は、大陸と日本との濃い繋がりがあったことを示しているようで、「塩屋氏」「日鷹吉士」「安倍氏」「難波吉師」は繋がりそうで、「塩屋氏」と「塩土老翁」の間柄も気になりますね。
著書の最後に「まとめにかえて」でインタビューが載っており、もう一人取り上げるなら「長屋王」とされてたので、それを拝読したかったなぁと・・・長屋王邸跡から「渤海使」などが書かれている木簡が出土しており、「長屋王」もまた渤海に渡った一人ではないかと思われて。
(万葉の時代と国際環境 「『万葉集』から見た日本と渤海」:http://www.nihonkaigaku.org/library/research/i041211-t14.html)
コミック「カルラ舞う」で、「長屋王」邸に住んだという「光明皇后」は怨霊などは恐れないとされていたが、長屋王邸が自害した場所ではなく、外交の役割を継承した場所だから住めたのではないか、と。
「15 山背大兄王とその一族の死」で、「法隆寺は墓辺寺的な役割を持っていた。」とあり、「中院の東と西には悲劇の人たちを弔うための八角円堂があるのである。」とされていて、西の「西円堂」はその近くの「藤の木古墳」の被葬者とされる「崇峻天皇」が「悲劇の人」にあたるのかもしれないが、「橘三千代」(諸兄・光明皇后らの母)の発願により行基が建立したと伝えられており、橘三千代の念持仏と伝える「阿弥陀三尊像」が安置されたことから、「瀬織津姫」や被葬者とされる「崇峻天皇」を含めて歴史から抹殺された「蘇我氏」なのではないかと推測しているわけで。
(西円堂:http://www.horyuji.or.jp/saiendo.htm)
(奈良おもしろ情報:http://www.narayaku.or.jp/narayaku/narayaku/02_4.html)
あるいは、記紀では死んだとされるが、生きて日本から大陸に渡ってから亡くなった人たちを弔うため、とも考えられそうですね。
![]() |
うーん、アタマがウニ・・・ほんま、頭悪いわ、私。(苦笑)
億ウソさんのところで「好太王」を追っていて、
勿吉という表記は、中央ユーラシアの遊牧民・月氏が東に移動したときに名を「目支」に変造し、略称を「向(mooqi)にしたと思っている。 その勿吉は、三上氏が下記に言うように好太王の次世、長寿王の高句麗を襲い、十村を奪っている。 (勿吉(wu-ji)はそのまま宇治だ:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/10nen/seisi6.html) |
とされていたが、
「磐余」の意は、「大きな弱水(アマール河)に生きる扶余(ヤムール族)、もしくは大いなるアムールの流れを汲む扶余族」を表わすものである。 (仮託した磐余の「謂われ」:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/hun/0801yabai.html) |
と書かれているところもあり、「月氏」「目支」は「蘇我氏」だと思っていたんで、頭の中でどう修正してどのように繋げればいいのかがわからなくなって。
結局、広開土王碑にみえる高句麗と倭との戦いとは、慕容氏系土王と列島の苻氏系勢力である苻洛応神との戦いだったのだ。 (『広開土王と倭の五王 (小林恵子・文芸春秋)』 より:http://www31.tok2.com/home2/okunouso/10nen/seisi6.html) |
と、引用されていたが、小林氏の「達頭可汗」が太子、「阿波可汗」が守屋とされている説で考えると、阿波可汗は可汗継承戦に敗れて達頭可汗のもとに逃げた、とのことで、蘇我氏である太子と物部氏である守屋の、記紀での記述との乖離があり、それが「応神」の「苻洛」と「仁徳」の「広開土王」との乖離でもあるように思え、また、「応神」と「広開土王」が敵対関係にあるのならば、記紀で蘇我氏の祖とされる「武内宿禰」にもブレがあるのでは、と。
(万世一系思想に阻まれてなかなか見えない、応神と対立関係にあった広開土王の確執:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/10nen/1112fkui.html)
「小林さんのファンタジーの集大成なのでしょう」とされる評もあるので・・・ま、王族や商人や海賊などの、船を手配できる財力がなければ日本に来れないだろうから、「貴種願望」とは言い切れないだろうと思うが。
(槍玉その30 興亡古代史:http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/yaridama30kobayasiyasuko.html)
「河内王国」の宇治において、「菟道稚郎子」が治めてた時期があったが大陸に戻ったのではと推測していて、「忍熊王」が「宇治上神社」に祀られているのではないかという説と、「中山寺」の奥の院にも「忍熊王」が祀られていることから、森氏の著書にある敗者とされる「菟道稚郎子」「忍熊王」「蘇我氏」が繋がるのではないか、と。
(宇治上神社・宇治神社:http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/ujigami.html)
(紫雲山中山寺奥院:http://kamnavi.jp/mn/kinki/nakayama.htm)
東淀川区の「大隅神社」に「応神天皇」が祀られていることや、2013.06.25で「熊襲」の「襲」を日向国の南西の曽於郡(713年以降は大隅国)ではないかとされていることを引用させていただいたことなど、「応神天皇」と「隼人」との関連が気になるところで。
(大隅神社:http://kamnavi.jp/ym/oosumi.htm)
「苻洛」系もまた「多忽」系、つまりタケル系で「大物主」の「オオモノヌシ」に通じる。 (苻洛(フル)の変名、経津(フツ)主神も…:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/moksirok/timei2.html#hunozigi) |
とのことだが、「経津主命」や「多忽」から連想されるのが「物部氏」で、「多忽」が「解」という字に、ひいては「朱蒙」に繋がるのであれば、物部氏=蘇我氏になりそうで、そういう点で言えば小林氏の「達頭可汗」が太子、「阿波可汗」が守屋説は頷けるかも、と。
ただ、香取の御祭神「経津主命」(物部系)も、鹿島の「武甕槌神」(蘇我系?)も、「春日大社」で藤原氏の氏神とされていることから、どちらも藤原氏に乗っ取られ、「瀬織津姫」と思われる「比売神」も、本来の中臣氏の祖神「天児屋根命」も、同様に藤原氏に乗っ取られた、と、推測しているわけで。
だから、「なまずの頭を釘のように打ち付けて動けなくしている」という「要石」は、鹿島・香取の御祭神の本来の祭祀氏族を封じ込めたのではないかと思われ、光背が直接打ち付けられているという「法隆寺」の「救世観音」も同様かと。
追記:(2013.07.18)
「磐余」とは、「大きな弱水(アマール河)に生きる扶余(ヤムール族)、もしくは大いなるアムールの流れを汲む扶余族」を表わすものである。アムールは同時に、ヤムル、ヤマル(余)であり、ヤマトの語原でもあることをこの二字は表わしている。」とされていることと、「飛鳥と書くのは、拓跋と茶臼が支配すること」「登美のナガスネヒコの登美(とみ)はTub (飛)の地名変遷」「飛鳥とはTukBat(拓跋)の略称Tub (飛) と鳥(多羅(伽耶))の合体名」が、うまく頭の中でまとまらなくて・・・やっぱ私のおつむは弱いなぁ、と。(苦笑)
(仮託した磐余の「謂われ」:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/hun/0801yabai.html)
(シナ人の隠れ家はどこの国にあるのか:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/nimaru.htm)
![]() |
まだ蘇我氏等については頭の中で混乱が続いてますが、「阿蘇」「大隅」から「東夷」や「都府楼」についての妄想に変わり、昨夜見たテレビでの幸村戦死の地とされる「安居神社」の御祭神「少彦名命」「菅原道真」から、道真は本当に「怨霊」だったのだろうか、と。
いや、「怨霊」だったとしても、それは本当に「左遷」によるものだったのか、という疑問が。
「菅原氏」は元は「土師氏」で、出雲にも関連があり、また、道真の出生に「度会氏」が絡んでいる伝承があったり、滋賀の余呉では「羽衣伝説」などにも絡んでいたりして、「東夷」とも関連があるのならば、本来は「大宰府(東夷朝廷)への栄転」だから関連氏族の元に立ち寄り、足跡を残したのではないかと思われるが、それが藤原氏によって内容が差し替えられたのかも、と。
道真の「不出門」と白居易の詩を比較検証されているサイトを拝見してて、私には「枕をそばだつ」が「絶望」ではなく「望郷」のように思えたわけで。
(漢文学の内在化という視点からの考察:http://www4.ocn.ne.jp/~crossgm/makurawosobadatu.htm)
(地元で言う「とぶろー」は多勿王,大物主神だ:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/hun/0907tooi.html)
不比等が各氏族を乗っ取ったことがバレないよう、「東夷」隠しは必然だったと思われることから、道真は「左遷」による絶望感で嘆きつつゆっくりと大宰府に向かったよう、藤原氏によって流布されたのではないかと思われ、のちの「流罪」や「配流」で各地に流されたとされる人々の、現地での伝承からも同じようなことが感じられるわけで。
それらは2011.09.04に書いたような、九州の「朝倉宮」で亡くなったとされる「斉明天皇」などの事柄とも繋がりそうな気がするし、「敗者」とされる人々とも繋がるのかも、と。
ただ、2010.07.06に書いた「山階道理」が盛んに行われていたという院政期から鎌倉時代にかけては、「興福寺」は藤原氏を圧する力を持っていた、というか、「石上神宮・吉野勝手明神両社に神輿の派遣を要請」できるほどに、祭祀氏族の入れ替わりがあり、世の中が変わったのかも、と・・・。
(春日神木:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E7%A5%9E%E6%9C%A8)
![]() |
笠沙路探訪さんの今月号「『无間勝間』は『塩土老翁の塩炊き釜』」を拝見して、思うところはあるものの、ちゃんと書けるほどの文章にはなりそうになくて。
(『无間勝間』は『塩土老翁の塩炊き釜』:http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage76.html)
たぶん「隼人」が「蛮族」とされてしまうのは、県教委の隼人学者等が記紀に忠実にホームページを書かれてるからなんじゃないかと思うんですよね、「隼人」「熊襲」である蘇我氏も物部氏も不比等が乗っ取って、「正史」とされる記紀にそれを裏付けさせる役割を持たせ、他は偽書とされるんで真実を捻じ曲げられたままだから、そういうことになるんだと思う。
発掘調査での出土品でさえ偽物扱いされてしまうんだから、「ペンは強し」やなぁ、と。
だから、「古代からのネットワーク」がどうの、とか、「行基プロジェクト」がどうの、と書いても、んなの記紀にゃ載ってまへんから、モーソーでしかないわけだ、記紀しか信じない人たちには。
あ・・・野見宿禰と當麻蹶速も「隼人」なのかな、だったら「土師氏」も「隼人」で蘇我氏や物部氏との繋がりが見えそうだが、葛城氏はこの相撲の記載によって消されたんでしょうね、不比等に。
(相撲神社:http://bell.jp/pancho/travel/yamanobe/sumo_jinja.htm)
(野見神社:http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/daionokuni/1327734027107.html)
(相撲のはじまり:http://gorilla5.exblog.jp/i2/)
「北家」の房前も「南家」の武智麻呂と同様に「蘇我娼子」の子とされてるが、「志度寺」の伝承から物部氏の女性だったのではないかと推測しており、宮子の母「賀茂比売」や、光明皇后の母「県犬養三千代」など、不比等の乗っ取りが見えるようで、それによって藤原氏にテリトリーを侵略されるのを少しでも防ぐために秦氏らが「行基プロジェクト」によって乗っ取られた氏族の領地を守り、代わりに婚姻関係によって秦氏は領地を藤原氏に明け渡さざるを得なかったのでは、とも推測していて。
だから秦氏ゆかりと思われる神社に物部氏の祖が祀られていたり、伊予一宮「大山祇神社」に関連する「越智氏」が秦氏にも物部氏にも思われるあたりがそれじゃないかと。
そうなる背景には、藤原氏の目を欺くため、関連する氏族名を出せないからでは、とも。
(夷民祭る所の神、お熊様──田村麻呂伝説の解読へ【V】:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2011/11/14)
(大山祇神社は隼人の神社:http://samuraiworld.web.fc2.com/rediscover_ooyamajinja.htm)
追記:(2013.08.13)
天津甕星(天香香背男)が、蘇我氏が鹿島で祀ってた神かも?「天羽槌雄神」は秦氏か同族が祀ってた神かと思われるが、不比等は婚姻関係で同族となったことで、蘇我氏乗っ取り隠しに利用したのでは・・・。
(天津甕星:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E7%94%95%E6%98%9F)
![]() |
朝刊にも載ってましたが、滋賀県高島市の「上御殿遺跡」から出土した、弥生中期から古墳前期の国内初の「双環柄頭(そうかんつかがしら)短剣」の鋳型が、形だけでなく技法も春秋戦国時代(紀元前8〜同3世紀)に「中国北方騎馬民族が使った「オルドス式短剣」と類似」というあたり、興味深いですね。
(謎呼ぶ短剣、柄の先に二つの輪 滋賀の上御殿遺跡で出土:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130809-00000006-asahi-ent)
(銅剣鋳型:国内例ないタイプ出土 中国式に類似、弥生の交流再考迫る 滋賀・上御殿遺跡:http://mainichi.jp/feature/news/20130809ddm041040121000c.html)
(【高島市歴史散歩】天神畑・上御殿遺跡とは:http://www.biwako-genryu.com/rekishi-walk/post-118.html)
遺跡の7.7キロほど北にある高島市新旭町饗庭の「健速神社」は、「創祀年代は不詳とされるが、天平宝字7年(763年)にこの地を治めていた豪族の木津忌寸氏が遠祖である大忌寸神(阿知使主のことと言う)を祀ったことが始まりであるとの伝えもある。」とあり、「阿知使主」は「東漢氏」らの祖で、「億ウソ」さんのサイトによれば、「阿知使主」の「阿知(アチ)」は「アルタイが人名に反映している」とのことで、符号するのでは、と。
(健速神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E9%80%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B8%82))
(「新」がつけば新しいというウソ:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/allai.htm)
しかも、「継体天皇」ゆかりの地でもあり、東(びわ湖寄り)には「布留神社」「加茂神社」「蛭子神社」等が、南約5キロのところには「白鬚神社」が、北北西約1.5キロのところに行基ゆかりとされる「玉泉寺」があり、「古代からのネットワーク」を見ているようですね。
(玉泉寺:http://www.takashima-kanko.jp/spot/adogawa/418.html)
(古代近江王朝ロマンの旅:http://4travel.jp/dm_travelogue_each-10246120.html)
(布留神社:http://www.tukinohikari.jp/jinja-siga/takashima-ado-yokoe-furu/index.html)
![]() |
6日午後8時54分、急性心不全のため、森浩一氏が85年の人生を終えられました、心よりお悔やみ申し上げます。
森氏の著書から多くのことを学ばせていただき、まだまだ様々なご意見等も拝見できるものと思っていましたので、とても残念に思い、とても悲しい気持ちでおります・・・。
![]() |
テレビで和歌山県海南市の「伊勢部柿本神社」(元伊勢)での「かいなん夢風鈴まつり」の取材を見てホームページを拝見したら、「伊勢部」と「伊勢部柿本神」(相殿神のスサノオ・熊野久須毘命・市杵嶋姫命)と「妙見高里神社」が気になった。
(伊勢部柿本神社ご由緒:http://www.isebekakimotojinja.jp/history.html)
(かいなん夢風鈴まつり:http://kainanyumefuurin.ikora.tv/)
「伊勢部柿本神」と「妙見高里神社」の詳細はわからなかったが、「伊勢部」が「磯部」なら、和歌山の「伊勢部柿本神社」や奈良の「馬立伊勢部田中神社」も「櫻川磯部稲村神社」と同様に物部系と思われ、「伊勢部とは伊勢の神(天照大御神)を祀りつかえる部族。」ならば、「出雲大社」が「天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた」ように、「ウマシマジ」を祖とする物部氏が祀ったのであれば、本来の「天照大御神」とは「ナガスネヒコ」で蘇我の祖かも、と。
(海部氏と磯部氏(隠岐国正税帳より):http://1st.geocities.jp/huhito80/F-BG-amabe.html)
(馬立伊勢部田中神社:http://www.genbu.net/data/yamato/tanaka_title.htm)
(礒部稲村神社:http://www.genbu.net/data/hitati/isobe_title.htm)
(第57章 応神天皇(3):http://www8.plala.or.jp/kanjizai/94.html)
(出雲大社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%A4%A7%E7%A4%BE)
(ウマシマジ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%82%B8)
「宗我坐宗我都比古神社」の御祭神「宗我都比古神」が蘇我氏の遠祖(武内宿禰の祖父?)の「彦太忍信命」ならば、「比古布都押之信命」と書かれた時の「布都」が気になりますね、たしかスサノオが「フツシ」でニギハヤヒが「フル」だったような・・・。
(宗我坐宗我都比古神社:http://kamnavi.jp/as/taketi/soga.htm)
(彦太忍信命:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A6%E5%A4%AA%E5%BF%8D%E4%BF%A1%E5%91%BD)
億ウソさんのサイトに「布留と布都はタラナ通音で同義語」とあり、またしても崇仏派VS廃仏派の争いに疑問を呈するわけだが、同URLの下の方で「フル(フツ)=辰=秦」から秦氏も絡んできますね。
(天理はアマリ、扶余の余(あまり)だ:http://www31.tok2.com/home2/okunouso/hun/0810tulten.html)
うーん、またしても頭がウニ・・・。
相生の「宇馬志神社」について、「祭神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、以前は蘇我馬子」とあり、興味深いですね、江戸時代は「春日大明神」と称していたという千葉の「蘇賀比盗_社」は、地元の蘇我氏が藤原氏から祖神を取り戻したのかも。
(宇馬志神社:http://www2.aioi-city-lib.com/bunkazai/den_min/den_min/densetu/15.htm)
(蘇賀比盗_社:http://www.geocities.jp/engisiki02/shimousa/bun/smf200202-01.html)
![]() |
私が通ってた小学校は市内で3〜4番目くらいに海に近い場所にあり、学校のすぐ横には運動場から校舎に向けて流れる川があって、さらに上流には毛布工場やその関連の工場、そして祖母の家も川に面して建ってた。
1・2年生の時は川から離れた校舎だったけど、3・4年生の時は川のすぐ横に平行に建てられた校舎で、水量の少ない1mくらいの川幅いっぱいに、雑草に絡んだゴミがヘドロとなってたまってて、その悪臭と、当時よく注意報が発令されてた光化学スモッグのおかげで、クーラーも扇風機もない教室の窓を閉め切った中で汗をだらだら流してた。
ヘドロの原因は、川へのポイ捨てや工場排水、そして祖母が言ってたように「昔から言われてるように川がきれいにしてくれる」からと捨てられた野菜くずや魚の骨などの家庭の生ごみだった。
下流の学校で悪臭に耐えてた私としては、祖母にもちろん抗議し、「うちだけとちゃうからええねん。」って返事があり、ガックリしたけどその後はゴミを捨てなくなった祖母にほっとした・・・が、祖母の言葉通り、川へのごみ捨ては変わらず臭いままだった。
中学になった頃には祖母の家は取り壊され、毛布工場も今となってはほとんどなくなってしまったけど、川は「ドブ川」のままで。
小学校からさらに下流には、信長に焼かれるまで存在したという行基ゆかりの「極楽寺」との関連を思わせる「極楽橋」があり、昔は「三途の川」のような川であったかもしれないのに・・・瀬織津姫への信仰と社会的発展にギャップが生じてしまったようで。
こうした経験から、川や海への汚染に関してはすごく気になるわけで、いずれは形をなくす自然からのものでも、川の流れが停滞すれば公害となるのに、自然でないものを流すのは絶対あかんことやと思うのは、当たり前のことなんじゃないのかな?
かつて、水俣病やイタイイタイ病などがあったこと、忘れてはいけないことやと思うけど、東電ではそれらのこと全てが忘れられてますよね、汚染水を垂れ流しても謝れば済むと思ってるかのように、後手後手の場当たり的な対応でこんな事態を招いていること、ちっとも反省してませんよね。
悲しいことです・・・。
![]() |
「笠沙路探訪」さんの今月号「『隼人』で『五位』だった『日向の襲(曾)の君』」に森氏のことが書かれていて、森氏の著書で知って検索して2009.05.17などで書いた「桂女」もまた謎のままで、森氏は「飴」のウラに隠された事柄をお書きになりたかったのではないかと思いながらもわからないままでいることを思い出した。
(『隼人』で『五位』だった『日向の襲(曾)の君』:http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage75.html)
「笠沙路探訪」さんの書かれている「旧『国分市敷根』に知られていた「桂の大木」」と、森氏の著書に書かれていた唐の「月宮鏡」の鏡背には「桂の大木」が描かれていること、「山背国風土記」での「月読尊」が寄って立った「湯津桂」のある地が「月読神社」の「桂」であることが繋がり、それが蘇我氏・秦氏・隼人についてのヒントなのかも・・・京田辺の「月読神社」は「隼人舞伝承地」とされていて。
(敷根物語・桂姫城と桂姫のこと:http://www.shiki-net.com/shikine-monogatari.html)
(桂女:http://dic.yahoo.co.jp/detail?p=%E6%A1%82%E5%A5%B3&stype=3&dtype=0)
(当時、世界の人々は月の世界をどのように考えていたのだろうか:http://reves.jp/076/20111110.html)
(白銅月宮鑑:http://www.manabi.pref.gunma.jp/bunkazai/ad110008.htm)
(群馬・貫前神社:http://nukisaki.or.jp/)
(月読神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E8%AA%AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82))
(月読神社:http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/tuki-tukuyomi-kyoutanabe.html)
うーん、検索してみてもやはり謎のままで・・・すみません。
![]() |
2013.08.05に「藤原氏にテリトリーを侵略されるのを少しでも防ぐために秦氏らが「行基プロジェクト」によって乗っ取られた氏族の領地を守り、代わりに婚姻関係によって秦氏は領地を藤原氏に明け渡さざるを得なかったのでは、とも推測していて。」と書いてて、それがわかるような事例がないかと検索したが見つからず、放置してしまってた。(苦笑)
で、今年は「中秋の名月」が「満月」であることから、ふと「疱瘡神」のことを思い出して検索してると、「疱瘡神」は「笠神」とも呼ばれ「瀬織津姫」であることが書かれたサイトがあり、しばらくこちらのサイトを拝見してなかったなぁと読みふけって。
(瀬織津媛No.48:http://ameblo.jp/8484yogi/entry-11520140154.html)
そのURLの同じページに、伏見稲荷神社・藤森神社・城南宮の「ところてん遷宮」についても書かれていて、「藤森神社」もそもそもは秦氏の神社だが、「藤森神社」でも、「城南宮」に遷座された「真幡寸神社」でも、「秦氏が祀ったメインの神は封印されているという感じを受けます!」と。
またその次のページでは、「伏見稲荷大社」の御由緒にある「によると秦伊呂具(いろぐ)という方が慢心から餅を的に矢を射ったところ、餅が白き鳥となってイナリ山の三つの峰に飛んで行き稲が生えた・・・」についての解釈に、「餅はクンダリーニ(白蛇・宝珠)であり、矢と的は陰陽和合を表し、三峰は三本のクンダリーニラインの象徴です。」とあり、「古代からの生命の木・世界樹信仰が稲荷山にはあると考えられます。」とされ、「そこに祀られる神々は陰陽とその和合した神」という私見が書かれていて、「アメノウズメ=弁財天=瀬織津媛=豊受大神とも言えるわけで、陰陽の陰を象徴する女神」ではないか、と。
(瀬織津媛No.49:http://ameblo.jp/8484yogi/entry-11520144045.html)
(瀬織津媛No.50:http://ameblo.jp/8484yogi/entry-11520147257.html)
(瀬織津媛No.51:http://ameblo.jp/8484yogi/entry-11525442770.html)
2010.04.07などで、「白蓮」「大本教・出口王仁三郎」との繋がりに「古今伝授」があるのでは、と書いたけど、「王仁さんは両聖人(瀬織津媛と猿田彦大神)を国常立尊(富士山)が現生した方だと認識していました。」とあり、また「奥三河の花祭」も繋がるようで、「王仁三郎」はやはり「瀬織津姫」を認識されていたように思われて。
(瀬織津媛No.53:http://ameblo.jp/8484yogi/entry-11525480047.html)
(瀬織津媛No.84:http://ameblo.jp/8484yogi/entry-11577152131.html)
「セオリストの行基」と書かれていて、そのように捉えられているのは嬉しいんだが・・・。
(瀬織津媛No.75:http://ameblo.jp/8484yogi/entry-11563378816.html)
(瀬織津媛No.83:http://ameblo.jp/8484yogi/entry-11577147566.html)
と、書きつつ、実はまた頭がウニになっている部分があったりする・・・私は住吉大神=蘇我氏の祖(ナガスネヒコ)と思ってたけど、こちらでは住吉大神=猿田彦大神=ニギハヤヒで、瀬織津姫とニギハヤヒが対の神であるのも同感だから、私の住吉大神の解釈が間違ってるのかな、と・・・。
(瀬織津媛No.84:http://ameblo.jp/8484yogi/entry-11577152131.html)
でも、「武内宿禰(蘇我氏)は、住吉大神や浦島太郎と同一人物なのだから・・・」とされるサイトもあるし・・・。
(豊の秘密:http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index7.html)
「ニギハヤヒ」は個人名でないとされてるサイトもあったように思うので、「ニギハヤヒ」という集団の長が「ナガスネヒコ」で、瀬織津姫と夫婦だった、ということも考えられ、そうするとますます蘇我氏と物部氏の戦いはなかったことになるんだが。
話は変わるが、「空海」が「セオリスト」とされていることから、コミック「陰陽師 玉手匣」にいずれは行基も出てくるかも、と・・・「陰陽師」では「トヨウケ」との繋がりが描かれていたし、「イナンナ」は「瀬織津姫」に繋がると推測しているので、楽しみにしてたりする。
「陰陽師 玉手匣」2・3巻での「瓢」という龍族の女性、瀬織津媛と繋がりそうで興味深いです。
(OGDOAD:http://www.najanaja.co.jp/)
![]() |
ニュース「アンカー」で山本アナによる現地取材で被災地の現状を映像で拝見し、そこに神社の幟が見えたので検索したところ、「竹生島弁財天を勧請」とのことで、行基ゆかりの「宝厳寺」で刻んだとされる像も「弁才天」なので「瀬織津姫」と思われ、また「富士山略縁起」にも「富主姫」が記されていることもまたその証しかと・・・富士浅間神社の御祭神「木花開耶姫命」は「瀬織津姫」なので。
(富主姫について(閖上富主姫神社):http://blogs.yahoo.co.jp/shrinemaiden1111/9563704.html)
(巌金山 宝厳寺:http://www.y-morimoto.com/saigoku/saigoku30a.html)
(日高見川=北上川の水神:http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/backup2.html)
上記URLのブログで書かれていた「金華山」だが、「黄金山神社」も「竹生島」同様、「聖武天皇」絡みで「弁財天」の霊地であることから、やはり同じ神であることを表していると思われるわけで。
(黄金山神社御由緒:http://kinkasan.jp/about/yuisyo)
神社の地域では住人の方々の意見が分かれ、復興がままならない状況のようですが、行政がゴリ押しして勝手に復興計画を進めることなく、かつ、復興がこれ以上遅れることなく、地域のための法整備がなされることを願っております。
(名取市・閖上湊神社/先祖代々、地域を守る:http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1088/20130513_01.htm)
![]() |
ダダさんのサイトの「五十瓊敷入彦命と「宇度」そして阿蘇ピンク石について」を拝見し、去年和歌山行の電車の車窓から見て2012.11.14で書いた「宇度墓古墳」の「宇度」や、継体天皇の陵ではないかとされる「今城塚古墳」の石棺材の一部が「熊本」の「ピンク石」ではないかとされることなど、熊本と泉州・紀州との繋がりの背景には、「蘇我氏」があるのではないかと思えて。
(五十瓊敷入彦命と「宇度」そして阿蘇ピンク石について:http://www.ten-f.com/inishikiirihiko-to-udo.html)
「宇度墓古墳」の近くには「ハタ神社」があることも、「蘇我氏」と「秦氏」の繋がりからのものと思われ、「宇度」に似た「宇刀」のつく和泉市 の「男乃宇刀神社」では「五十瓊敷入彦命」は「彦五瀬命」「神日本磐余彦尊」とともに祀られ、岐阜市の「伊奈波神社」では主祭神で臣下の「物部十千根命」が配祀されていることや、「石上神宮」では「ウマシマジ」等とともに配祀されていることにより、本来は「皇統」であったこと、そして蘇我氏と物部氏は同族と言える関係にあったことが窺えるのでは、と。
(男乃宇刀神社:http://www.geocities.jp/engishiki01/izumi/bun/iz050201-01.html)
(伊奈波神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E6%B3%A2%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(石上神宮:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E5%AE%AE)
2013.08.11の検索で、相生の「宇馬志神社」について、「祭神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、以前は蘇我馬子」というのがあり、「『播州赤穂郡祭礼式大略』には以前、宇麻志神社を大避神社と称していたとあります。」とのことで、ここでも「蘇我氏」「秦氏」「物部氏」の繋がりが感じられますね。
(宇馬志神社:http://www2.aioi-city-lib.com/bunkazai/den_min/den_min/densetu/15.htm)
億ウソさんのサイトで「熊襲(koma_swo)とは「高麗の曽於・蘇我」とあり、「クマソタケル」の伝承が「ヤマトタケル」に投影されている可能性が考えられるので、「五十瓊敷入彦命に投影されている」と言えるのでは・・・。
(諏訪と須賀と稲荷のウソ:http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaya2002/new/07inarisuga.html)
「笠沙路探訪」さんのサイトを拝見して思ったんだけど、「五十瓊敷入彦命」も「隼人」だった可能性があり、「蘇我氏」から皇統を切り離したい不比等により、記紀に細工がなされたのかも・・・。
(『隼人』ダケが 別格「1.5倍」の『高額給料』だった!:http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage77.html)
「聖徳太子」と同様の手法で、「五十瓊敷入彦命」の事績などの一部を「大足彦尊」という架空の人物に当てはめた、とか・・・ま、それを証明できる資料はないだろうし、あくまで推測というか、妄想というか・・・。(苦笑)
![]() |
12日に「高槻現代劇場」でのスタレビさんのコンサートに行く前に、会場の隣にある「野見神社」にお参りして写真を撮り、御由緒を拝見したところ、どこにも「野見宿祢」が合祀された理由などが書かれておらず、神紋が八坂さんと同じでスサノオも祀られているのに、「野見神社」とされているのを疑問に思って。
高槻市天神町に「大宰府天満宮に次いで日本で2番目に古い天満宮」を称しているという「上宮天満宮」があり、「社伝によれば太古に武日照命が当地に降臨して鎮座したという」とあった。
また、「道真を祀る天満宮が創建され、野身神社がそれに吸収されたものと見られている」そうだが、「野身神社は、野見宿禰の墳墓と伝わる小墳丘(宿禰塚古墳)の上にある。」ことや、「当社内外には、銅鐸も出た弥生時代の遺跡(天神山遺跡)が残るほか、宿禰塚古墳のほか昼神塚古墳、中将塚古墳があり、古くから栄えていた様子がうかがわれる。」とのことで、「百舌鳥古墳群」が土師氏のテリトリーに絡んで点在することから、かつてこのあたりも大規模な「古墳群」を形成していたのではないかと思われて。
(上宮天満宮:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%AE%AE%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE)
上記URLのウイキペディアの「上宮天満宮」に「関係地」として「昼神車塚古墳」について書かれており、
天神山丘陵の南端、天満宮とは府道を挟んで残る前方後円墳。古くから天満宮境内であったが、府道建設で分断されている。 6世紀中頃の造営と推測されており、規模は全長60メートル、前方部幅40メートル、後円部径35メートル。古墳からは多数の埴輪も出土した。当地は埴輪技術集団である土師氏の拠点であることに加え、当古墳の埴輪が近くの巨大古墳・太田茶臼山古墳と今城塚古墳の埴輪と同じ窯で焼成されたと分かっており、当地氏族の両古墳への関与が明らかとなっている。 |
とされていて、JRの線路と並行するように、行基ゆかりとされる寺院や「上宮天満宮」、「継体天皇」の墓ではないかとされる「今城塚古墳」などがあり、興味深いところで。
「高槻現代劇場」の隣の「野見神社」から少し南には「城跡」があり、そのあたりまで土師氏あるいは関連氏族のテリトリーがあったと思われるが、八坂さんの神紋でありながらも「野見神社」とされているのは、「スサノオ」との関連が強いことを表しているようにも思われ、「出雲」と「蘇我氏」の関連をぼかすために「土師氏」を全面に出したのかも、と・・・。
追記:(2013.10.19)
「野見神社」から南に約30キロの藤井寺市に「道明寺」があり、
仏法に帰依される処深かった聖徳太子が、この地に尼僧の寺院を建立されるに当り、代々仏教文化導入に積極的であった土師という人が邸宅を寄進した。 (道明寺略縁記:http://www.domyoji.jp/ryakuenki.html) |
とされていて「道明寺」の南に「古市古墳群」がある。
また、「今城塚古墳」の東南東約3キロの、名神の梶原トンネル近くに「三島最古の瓦窯」があり、
古代寺院の梶原寺のすぐ北側にあたり、尾根瓦を作った瓦工場の跡。東大寺の建立に四天王寺と共に瓦6000枚を焼き差し出したとされる記録が正倉院に残っている。(高槻市梶原1-7) |
と、高槻市のサイトにあり、「百舌鳥古墳群・古市古墳群」の南にある「泉北丘陵」の「陶邑窯跡群」との繋がりが気になるところで、「泉北丘陵」の北にある行基ゆかりの「土塔」や「大野寺」近くに「土師町」があり、「土塔」の表面を覆っていた「瓦」に「土師宿禰」と刻まれたものもあったので、窯跡と土師氏は密接な関係にあったかと。
(陶邑窯跡群:http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/suemurakamaato.html)
また、「太子」「土師氏」「東大寺」の繋がりも気になるが、古墳群と窯跡と土師氏の関係を含め、「古代からのネットワーク」によるものではないかと推測している次第で。
始まりを表すという「ア」と「スガ(蘇我)」で飛鳥時代の始まりならば、不比等に乗っ取られて「化」けた「スガ(蘇我)」が「かすが」神社?
「14世紀頃に冠庄の開発と在地武士の定住に伴い春日社を勧請し、冠須賀とした。」とされる「冠須賀神社」は「かすが神社」とも呼ばれるらしい。
(冠須賀神社:http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/kanko/database/rekishi/1326851807545.html)
![]() |
「中国南部の桂林地方原産。中国語では”桂”は木犀のこと」を指すそうで、「桂林」は「紀元前214年に秦の始皇帝がこの地に桂林郡を設置して以来の地名」とあり、2013.09.02で書いてた「桂女」や「桂姫城」の「桂」が「木犀」だとしたら、と、トリップ。(笑)
(季節の花300「金木犀」:http://www.hana300.com/kinmok.html)
(桂という字:http://toueironsetsu.web.fc2.com/Tea/tea9.htm)
あ、「中国では,ニッケイ(肉桂)あるいはモクセイ(木犀),また月にあると考えられた木。日本のカツラやゲッケイジュとは別物。」とあり、旧暦の八月の別名が「桂秋」で、「中秋の名月」との繋がりが見えてきそうな・・・。
(桂:http://kotobank.jp/word/%E6%A1%82)
(陰暦での月名の異称2:http://ameblo.jp/7129-0821/entry-11627887238.html)
うーん、瀬降り津姫との関連が感じられる「日吉大社」で、春に行われる「山王祭」が「桂の祭」とも呼ばれているそうで、何かありそうな感じがしたものの、検索では見つけられなかった・・・春咲きの木犀があるのだろうか?
(日吉大社:http://everkyoto.web.fc2.com/report478.html)
(山王祭のススメ:http://ameblo.jp/hiyoshitaisha/entry-11220206753.html)
(鳥鳴澗:http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/rs462.htm)
「四季咲きモクセイ」があるらしいが・・・「鳥鳴澗」の春に散るという「桂」とは「デラヴェーヒイラギ」のことかも?でも、もしそうだとしても、「山王祭」との繋がりがよくわからないんだが・・・。
(四季咲きモクセイ:http://green-netbox.com/pe-zi/syouhin/2010.html)
(樹の散歩道・モクセイ属:http://www.geocities.jp/kinomemocho/sanpo_Osmanthus.html)
(デラヴェーヒイラギ:http://www.yonemura.co.jp/zukan/zukan-f/naiyou/osmanthus-delavayi0.htm)
追記:(2013.11.04)
「和名抄」の著者「源順」が、「紫陽花」を「アジサイ」に比定したようで、江戸末期に小原桃洞が「桃洞遺筆」でその誤りを指摘されたが、現在でも「紫陽花=アジサイ」とされていますよね。
で、「源順」は「字母歌「たゐに」を載せる『口遊』の著者=源為憲の師匠。」で、何かありそうな気がして・・・。
(3「あめつち」とその暗号:http://www.geocities.jp/yasuko8787/z062.htm)
(伊勢物語9段の秘密:http://www.geocities.jp/yasuko8787/kai04.htm)
(「あめつち」の暗号と山上憶良:http://www.geocities.jp/yasuko8787/02-00b.htm)
(桜田と和名抄の作良郷:http://www.geocities.jp/yasuko8787/0x-t5.htm)
特に「桜田と和名抄の作良郷」にある、「『作良』が源順の著した「和名抄」にもとづくもの」が、「後世に何らかのメッセージを伝えようとしている可能性を示唆」するように思える部分があるあたり、「紫陽花」にも同様のことが言えそうに思えるわけで。
「桜」は「瀬織津姫」と繋がり、また、アジサイ属(Hydrangea(ハイドランジア))はギリシャ語「hydr(水)+angeion(器)=水瓶」が語源であることや、「仙界から移し植えられたと思われるような」花ということで「仏教」との繋がりから連想されるのが「薬師如来」で、行基が最も多く刻んだ背景には「瀬織津姫」のことがあったからではないかと推測してまして。
(柏葉紫陽花:http://shougakuin.com/hana3.htm)
「アジサイの原義は、旧仮名遣いで『アヂ・サハフ・アヰ』(鳬障藍)である。アヂは、アヂガモのことである。」とのことから、「アヂスキタカヒコネ」(オオクニヌシとタキリヒメの子)を連想し、別名が「迦毛大御神(かものおおみかみ)」であることにナットクできるように思い、そのことからも「アジサイ」と「瀬織津姫」が繋がりそうで。
(瀬織津姫No.102:http://ameblo.jp/8484yogi/entry-11601070147.html)
で、アヂスキタカヒコネは「上賀茂神社」の主祭神「別雷神」でもあるのだが、「葵祭」の「桂」は「かづら」であり「フタバアオイ」なわけで、「桂」についてがややこしいくなっている、というか、「瀬織津姫隠し」のように感じますね。
(紛らわしい木――カツラ:http://www.ctb.ne.jp/~imeirou/soumoku/10/katura/katura.html)
「源順が紫陽花をアジサイに比定した」のと同様、その「根拠は定かでない」ので推測にすぎない、というか、根拠となすべきものがあれば、「古代からのネットワーク」等に関する私の推測も、とっくの昔に解明されてたと思う。(苦笑)
ま、その分妄想は増えますね、「今春禅竹」の「定家」での、「式子内親王」の墓に纏わりつく「定家蔓」のホントのところは、瀬織津姫への「情念」なのではないか、それを知っていて後世に伝えるため、今春禅竹は中国の故事などで繋げようとしたのではないか、とか。
(定家葛:http://www.hana300.com/teikak.html)
(今春禅竹『定家』:http://www.geocities.co.jp/Colosseum/5704/20021008_004.htm)
![]() |
昨日初めて地元の図書館に行き、「行基」と書かれた棚があったので、その中から「行基菩薩と向泉寺」をみつけて。
「方違神社」の神宮寺だったが現在は廃寺で、神社所蔵の御縁起が載ってたのを読んだところ、18ページのうちの3分の2近くが記紀からの引用で、記紀に疑いを持ってるし、何度か書き写しされる間に加筆されてる可能性があるので、私としてはその御縁起に首をかしげざるを得ないわけで、末社についての記載を例にあげてみると、
末社は九社。香椎・平野・高良三社同殿。八幡・稲荷・水若宮三社同殿。神明一社。愛宕一社。 白山一社。大黒天神・八将神同殿。弁財天一社。荒神一社。 |
九社と初めに書かれているのに八社しかない・・・。
それらを踏まえて、になるんだが、御縁起によると行基は「スサノヲ」の祠に詣でた時に供養をすすめられて「千手千眼観世音菩薩」を刻み、金堂の御本尊とされたそうで、「来迎院」の御本尊「弥陀三尊像」も行基作とされていて。
講堂の御本尊「薬師如来」は、太子が刻んだとされる諸兄の持念仏とされており、方違神社の宮の御本地「十一面観世音菩薩」は鞍作鳥の作、東原大明神の御本地「丈六聖観音」、弁財天像、三面大黒天像、多宝塔の御本尊「金界毘盧遮那如来」、護摩堂の御本尊「不動明王」、弁財天画像、三宝荒神画像などが空海作、とのことで。
「田出井山古墳」(伝・反正天皇陵)の後円部に近い北東の地に「方違神社」があり、その近くに「東原明神」「向井王子」があったようで、「田出井山古墳」の前方部のすぐ南にある「三国ヶ丘高校」のグランドで「向泉寺」の発掘調査が行われ、「三国ヶ丘高校」のほぼ南に「大仙古墳」(伝・仁徳天皇陵)があるという位置関係で、「三国ヶ丘高校」と「大仙古墳」の間には、「向泉寺」の縁起となる「閼伽井」があるようで。
(名所図会 巻1-12 如意明神ノ社(向泉寺跡碑):http://izuminokuni.town-web.net/modules/meishozue_01/index.php?content_id=13)
(名所図会 巻1-13 方違明神社:http://izuminokuni.town-web.net/modules/meishozue_01/index.php?content_id=14)
(名所図会 巻1-14 三國山向泉寺:http://izuminokuni.town-web.net/modules/meishozue_01/index.php?content_id=15)
(三國山遍照光院向泉寺 閼伽井跡:http://zaq.ne.jp/spot/115094/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%B1%B1%E9%81%8D%E7%85%A7%E5%85%89%E9%99%A2%E5%90%91%E6%B3%89%E5%AF%BA%E3%80%80%E9%96%BC%E4%BC%BD%E4%BA%95%E8%B7%A1/)
また、「田出井山古墳」と「三国ヶ丘高校」の間には、2010.02.14に書いた「肖柏」が連歌を教えたり「堺伝授」が行われたという「紅谷庵」があり、交通の要衝は情報の要衝でもあることが偲ばれる地ですね。
(紅谷庵:http://ameblo.jp/jyakutan/entry-10960083589.html)
(紅谷庵:http://ameblo.jp/jyakutan/entry-10960083589.html)
(牡丹花肖柏:http://www.m-network.com/sengoku/haka/botanka450h.html)
「さカイ」にある「むカイ」領の寺院ということで、神武以前に大阪府一帯に住んでいた先住民「カイ族」の本拠地だったのかも。
(カイ偽装を暗示する市内の巨大古墳群:http://www31.tok2.com/home2/okunouso/10nen/seisi6.html)
図書館の行基の棚には、私は買えない10センチほどの幅の「行基事典」(井上薫著)があり、「行基信仰」についてのページに「宝起菩薩曼荼羅図」の詳細が書かれていて、2008.09.29に前日行われた「行基さんと堺・泉州」での説明と異なっていたので書いておこうかな、と。
|
|
「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」は「制多迦童子」と共に「不動明王」の脇侍で、「倶利伽羅剣」は「不動明王」の化身とも。
(矜羯羅童子:http://dic.pixiv.net/a/%E7%9F%9C%E7%BE%AF%E7%BE%85%E7%AB%A5%E5%AD%90)
(倶利伽羅剣:http://dic.pixiv.net/a/%E5%80%B6%E5%88%A9%E4%BC%BD%E7%BE%85%E5%89%A3)
あと、平林章仁著「蘇我氏の実像と葛城氏」をはしょって読んだところ、「紀氏家牒」「古語拾遺」などにおける他氏族に関する記述や、「曽我遺跡」向いの忌部氏の玉造工房跡など、氏族間の繋がりが見られることが書かれていて、それらのことから「山背」は「古代からのネットワーク」が構築された地の1つではないかと思われて。
(紀氏家牒:http://kamnavi.jp/ki/kisinoie.htm)
(忌部(いんべ)氏によって編まれた『古語拾遺(こごしゅうい)』:http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/31889547.html)
(古代の新しい都造り・寺造りを支えた工人たち:http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_06_07.htm)
(遺跡分布図:http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/mukashi_iseki/documents/isekichizu06.pdf)
ただ、蘇我氏・忌部氏は物部氏・中臣氏と不仲だったのではないかとされるあたりは、首をかしげつつ唸った・・・。
![]() |
地図を見てたら「飛鳥田神社」があって、地図をほったらかして検索したところ、各務原と遠野がヒットしたんで面白いなとさらに横道にそれた。(笑)
(飛鳥田神社:http://www.genbu.net/data/yamasiro/asuka_title.htm)
(山城国紀伊郡 飛鳥田神社 一名柿本社:http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/kyou-asukata.html)
(飛鳥田神社 美濃国 各務郡鎮座:http://www.geocities.jp/engisiki/mino/bun/min230803-01.html)
(飛鳥田神社 (各務原市):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%90%84%E5%8B%99%E5%8E%9F%E5%B8%82))
(飛鳥田考:http://dostoev.exblog.jp/i204)
(飛鳥戸神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%88%B8%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(田中神社:http://www.geocities.jp/engishiki01/yamashiro/html/020404-03.html)
(田中神社:http://kamnavi.jp/yamasiro/inatana.htm)
羽曳野の「飛鳥戸神社」を含めて「蘇我氏」との関連が窺えるが、遠野では「物部氏」についての伝承があるそうで、江戸時代まであったという「飛鳥戸神社」の神宮寺が行基ゆかりの「常林寺」ということや、「伏見稲荷」が絡むともちろん「秦氏」との関連が考えられるわけだが、今のところ、関連についての詳細はわからないわけで・・・すみません。
ただ、気になることとしては、「飛鳥戸造」「昆支王」「蘇我氏」が繋がっているようで、億ウソさんのサイトで「昆支王」は「応神天皇」とされていたなぁ、と。
(倭国王家と百済王家は親戚関係:http://www5.tok2.com/home2/okunouso/0111.htm)
あと、各務原の「飛鳥田神社」が「紀氏の荘園」に記載されているということは、やはり秦氏とも繋がると言えそうで。
(紀氏の荘園:http://homepage2.nifty.com/ihmm/sub10-01.html)
そして、山城国紀伊郡「飛鳥田神社」は御祭神が別雷神・市杵島姫命ということで、賀茂氏(別雷神は上賀茂社御祭神)も登場し、そして「市杵島姫命」であり「飛鳥坐神社」の御祭神「カヤナルミ」でもある「瀬織津姫」が絡んでいる、ということかと。
(飛鳥坐神社:http://www.genbu.net/data/yamato/asuka_title.htm)
(カヤナルミ:http://www.dai3gen.net/kayanrm.htm)
![]() |
昨日、大阪狭山市のSAYAKAホールで行われた「狭山池シンポジウム2013『碧骨堤の謎を探る』」に行ってきました。
他の予定があったので、「碧骨堤」の発掘調査の主任をされた崔氏のお話しか聞けなかったのですが、「碧骨堤」付近の古墳と「百済」の古墳の違いや、前回のシンポでも話されてたように「碧骨堤」が「馬韓」の1国だった「辟卑離国」にあること、最近の発掘調査の報告から「百済」と「馬韓」を分けて考えるようになっているということなどから、「碧骨堤」は「馬韓」の遺構と捉えておられ、その工法も「馬韓」の人々によるものではないかと考えておられるようで、「敷葉工法」には特徴の異なるものがあるようだが、発掘調査による土層断面からは「狭山池」と「碧骨堤」に共通点がみられるようで。
そのことから、離れた場所で同じ文化を同じ氏族がもたらされたことを世界遺産に登録しようという動きがあるようで、そのことを終わり間際に力説されていたけど、「碧骨堤」の上に作られた用水路による漏水で保存が難しくなっているようだし、文献でそれをはっきり証明できるものがないようなので、登録には至らないかもしれないなと思われ、それは秦氏などによる「豪族連合」すなわち「古代からのネットワーク」の証明も難しいということになるようで。
ま、文献にはなくとも、その可能性はあるという希望は持てそうに思うので、さらなる発掘調査報告が気になるところです。