とんでもニャ〜Mの推測3−16
※役にたたない推測ばかりの駄文です。(爆)

2016.03.02(Wed.)

「西行辞典 第325号」の今月のことばの1つに「菩薩」があり、行基について少し書かれていました。

行基菩薩の、何処にか一身をかくさむと書き給ひたること、思ひ出でられて

いかがすべき世にあらばやは世をもすててあなうの世やと更に思はむ
(岩波文庫山家集186P雑歌・西行法師家集・新古今集)


ああ、どうしようぞ。これがもし出家せずに俗世に居ったならば、
世を捨てて、ああ、つらい世だよと更めて思いなげくであろうに
(すでに出家をしている身には、もうのがれ隠れることのできる所はない。)
(「渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

西行の歌と解釈のあとには、「詞書は、行基菩薩遺誡の中にある文言を指しているといわれます。そういう書物をも西行は読んでいるという証明になります。」とありました。

西行が行基の書を、また、楠正成が聖徳太子の書を「読んだ」とされること等、「古代からのネットワーク」を意識していたからのことと思われ、そうして「読んだ」ことを後世に残すことにより、我々に「何か」を伝えようとしたのではないかと思っています。

2016.03.13(Sun.)

とんでもニャ〜2-2の2007.9.27分で、コミック「陰陽師」13巻に書かれてた「隼神社」が気になりつつ、京都に引っ越してきて2年も経ってから行ってきまして。(笑)

当時、「神奈備にようこそ」さんのサイトに、御祭神:建甕槌神、配祀:經津主神、と書かれてたことで「隼人」との関連性がないものと、すっかり不比等マジックにひっかかってしまってたけど、年くってめっきり疑い深くなったからか、「タケミカヅチ」はやはり「隼人」との関連性があるのではないか、と、御朱印の御神紋を拝見してそう思いまして。

昨日、「梅宮大社」「元祇園梛神社・隼神社」「壬生寺」「西院春日神社」にお参りして御朱印をいただき、「梅宮大社」「隼神社」ともに「橘紋」だったので何かありそうだな、と。

「梅宮大社」は、「県犬養三千代」が山城国綴喜郡井出寺の中に橘氏一門の氏神として祀ったのが始まりで、「橘嘉智子(檀林皇后)」によって今の神域に移し祀られ、お参りしたその他の神社仏閣のある地域は「朱雀院」の内部、あるいは守護として祭祀が行われていたそうな。

「西院春日神社」の境内には、淳和天皇皇后正子内親王、淳和天皇御母藤原旅子、正子内親王御母橘嘉智子を御祭神とする「西院還来もどろき神社」があり、九死に一生をえた皇后が無事元のところへ戻られた、ということからつけられたようだが、それだけだろうか、と。

そもそも平安時代になって京に都を置く際、秦氏が方位的なメンテナンスを施した上に、「梅宮大社」「隼神社」が遷座を繰り返して今の場所に祀られるようになったのには、何かの理由、というか、秦氏の思惑があったのでは。

「元祇園梛神社・隼神社」「西院春日神社」に共通して「疱瘡」のご利益があるとされており、「疱瘡」と言えば、芭蕉の句等に絡めて書いてきた、(旧暦8月の)十五夜の月=疱瘡=芋=ニギハヤヒ、が連想されるわけで。

ウィキペディアの「隼神社」に、「江戸時代には「隼」が訛って「ハヤクサ」と読まれたことから、瘡(くさ)の平癒のために信仰されたという。」とあったが、「瘡神」の「瘡」を「かさ」と訓み、「瀬織津媛を封印した不比等の子供達に疱瘡という病でもって祟りをなしたのは笠神だと考えられたのでしょうね。」とされているのを暗喩しているように思えて。
(隼神社:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%9B%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(瀬織津媛No.48:http://ameblo.jp/8484yogi/entry-11520140154.html)

また、ウィキペディアの「隼神社」には、「奈良県奈良市にも隼神社の鎮座が知られる。同社の社伝では、平安遷都に伴い勧請されて平安京中の隼神社になったとするが、詳らかではない。」とあり、リンク先に飛んでみたところ、「いつの頃からか神木の東に弁財天の小祠が設けられ、現在宗像神社として配祀されている。これはもと神宮寺の庭内社と称す。降って建治4年(1278年)興福寺の大火で再度の火難に類焼して終に現状の小祠となる。」と。
(隼神社 (奈良市):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%BC%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B8%82))

奈良の「隼神社」の御祭神は「隼総別命」で、「角振神は、火酢芹命の御子で、隼神は父であり、父子二座を祀る。」とあり、不比等マジックで「隼神」が「タケミカヅチ」という名にすり替えられてしまった証ではないだろうか、と。

それゆえ「西院還来神社」では、名前がすり替えられてしまったけど、本来の神をお祀りしていることを言わんとしての社名なのでは・・・「弁財天」「市杵島姫命」は「瀬織津姫」であることを書いてきてますが、秦氏によって平安遷都に伴って奈良から本来の神を分祀されたのでしょう。

で、検索を続けてると、「越智から橘」への名前の変更があったのではないか、とされるブログがあり、越智氏は物部氏あるいは秦氏に繋がるので、橘氏が祖神である「隼神」を祀るのは当然のことかと。
(宇和町大氏神「三島神社」&池の中の厳島神社 (越智氏と橘氏):http://makild.exblog.jp/17357787/)

ま、橘諸兄は行基とともにした足跡が岸和田の「久米田池」あたりでもはっきりしてるので、橘氏は「古代からのネットワーク」に関与する氏族だと思ってるが、改めて「隼人」との繋がりの証になったわけで。

あと、検索でヒットしてほぉ〜と思ったのが岐阜の「野宮神社」で、主祭神が檀林皇后、摂末社祭神が速開津比賣神、瀬織津比賣神、気吹戸主神、速佐須良比賣神とされており、と〜っても気になる・・・。
(野宮神社:http://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=1203&shrname=%E2%96%A0%E9%87%8E%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E2%96%A0)

2016.03.20(Sun.)

昨日、嵯峨野近辺の、いわゆる秦氏のテリトリーと思われる地域を8キロほど歩いてきまして。

今回の本来の目的は、最後にお参りした「木嶋坐天照御魂神社」で、14年前には御祭神が「火明命」になってて、神社名からも「ニギハヤヒ」であり「隼人」とわかったのに、境内の案内板には他の御祭神が書かれてて。

ま、ウィキペディアにも諸説あることが書かれてるけど、秦氏のテリトリーにある物部氏系の御祭神、ということで「古代からのネットワーク」を感じていたんだが・・・。

で、広隆寺横の「大酒神社」について、ウィキペディアに「近世の『雍州府志』では祭神を物部守屋とし、一説に秦河勝とする。」とあり、これまた興味深いことで。

あと「斎宮神社」が「天照皇大神」を祀ってる、というあたり、倭姫命が伊勢に祭祀したのは「ニギハヤヒ」で、「斎宮神社」では「ニギハヤヒ」のための斎宮が禊をした場所ではないか、と。

そしてその祭祀には物部氏も秦氏も関わっていた、ということになりますよね。

これらについての詳細のわかる日が来ることを祈りつつ、また散策に出かけたいと思います。

2016.04.10(Sun.)

遅咲きと言われている「御室桜」が「見頃」とのことで、一週早めて昨日「仁和寺」に行ってきまして。

ものすごい人だったけど、時間も余力もありそうだったんで、桜を堪能したあと「大将軍八神社」に行き、御由緒を拝見してトリップしつつ南下してバス停まで行こうとした時、お寺の案内板に「行基」を発見!

伊丹の「昆陽寺」の「地蔵堂」が、平安時代に衣笠山の南に移されたが内野の合戦で焼失、後に義満が「金閣造営」の予材で仮堂を建てて「地蔵菩薩」を奉安、とのことで、何かありそうだな、と。

たぶん秦氏が平安京のメンテの一環として移したのではないかと推測しており、「金閣寺」でも「瀬織津姫」の祭祀が行われてたのではないかと推測してる故、義満が同じく「瀬織津姫」(地蔵菩薩)のためのお堂を建てるのはありうるように思えて。

さらに、キリシタンの墓があったり、堺の茶人が隠棲されてた、ということも、やはり「瀬織津姫」を介しての繋がりではないかと推測しておりまして。

ま、そんな感じで「地蔵院」の方の妄想は止まってるわけだが、その前にお参りした「大将軍八神社」について、調べれば調べるほどにややこしくなって・・・。

「牛頭天王」と「頗梨采女」との8柱が「八王子」で、「牛頭天王」は「スサノオ」と習合したことにより、「八王子」もスサノオとアマテラスの「誓約」の「五男三女神」とされただけでなく、「八坂神社」などでは「八王子」は「八柱御子神」として祀られることもある、とのことで。
(ウィキペディア「八坂神社」参照)

だが、「大将軍八神社」の御祭神はちょっと違ってて、ややこしくなるのでそれらを表にしてみた。

牛頭天王と頗梨采女の八王子五男三女神(誓約)八柱御子神大将軍八神社御祭神
大将軍(金曜星(太白)・魔王天王)天穂日神五十猛神 素戔鳴尊・天津彦根命
大歳神(木曜星(歳星)・惣光天王)天忍穂耳命八島士奴美神天忍穂耳命
大陰神(土曜星(填星)・倶摩羅天王)天津彦根命大屋比売神市杵嶋姫命
歳刑神(水曜星(辰星)・得達神天王)活津彦根神抓津比売神田心媛命
歳破神(土曜星(填星)・良侍天王)熊野樟日命大年神湍津姫命
歳殺神(火曜星(けい惑星)・侍神相天王)田心媛命宇迦之御魂神天穂日神
黄幡神(羅光星・宅神相天王)市杵嶋姫命大屋毘古神活津彦根神
豹尾神(計斗星・蛇毒鬼神)湍津姫命須勢理毘売命熊野樟日命

「大年神」は「ニギハヤヒ」、「市杵嶋姫命」「抓津比売神」は「瀬織津姫」だと思うのだが・・・。

「大将軍八神社」の御由緒に、「奈良春日山麓より大将軍神を平安京大内裏の北西角(陰陽道の天門)の地に勧請」とされていることや、「左客人宮」に「聖武天皇」が祀られているのも気になる・・・が、詳細はよくわからず、妄想すると、「奈良春日山麓の大将軍神」は、不比等が乗っ取った「春日大社」の「比売神」こと「瀬織津姫」ではないか、と。

しばらくは妄想が続きそうです。

2016.05.01(Sun.)

昨日は御朱印をいただきにお寺に行く予定が、長岡京跡にあった地図を見て変更し、「向日神社」にお参りしたあと、「長岡天満宮」にお参りしまして。

13年ぶりにお参りした「長岡天満宮」についてをウィキペディアで見てると、「兼務神社」の「神足神社」に「桓武天皇の夢伝説が残っている。」とあった。
(長岡天満宮:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE)

調べてみたところ、

田村(神足村の旧名)の池に天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたという。天皇は目覚められ、田村にこの神を祀る社を建てさせ、太刀と絹を秘蔵させた。
(「桓武天皇の夢」伝説 神足神社:http://www.thekyoto.net/kyoukyou/1202/120215_02/)

とのことで。

境内社「埜神社」は「鹿屋野比売命か大年神を祀る」とあり、「瀬織津姫」か「ニギハヤヒ」が祀られているようで、桓武天皇の夢伝説に繋がりがありそうで興味深いな、と。
(神足神社:http://www.kyotofukoh.jp/report776.html)

で、初めてお参りした「向日神社」の御祭神「向日神」は「年神」にリンクがあり、10日に書いたように「大年神」は「ニギハヤヒ」と思われ、合祀された「火雷神」もまた「ニギハヤヒ」と思われ、秦氏のテリトリーでの海人族の神々にナットク。

また、境内社に「増井神社」があるそうで、「火雷神の荒魂神を祀る井戸が御神体」とのことで「瀬織津姫」かと思われ、「向日神社」「長岡天満宮」「神足神社」は繋がるようですね。

あと、「向日神社」隣の「元稲荷古墳」が、同時期に造られた神戸市灘区の「西求女塚古墳」と「双子のように形と大きさを同じくしています。」というあたり、気になりますね。

「西求女塚古墳」から出土した「三角縁神獣鏡」は、「京都府の椿井大塚山古墳、福岡県の石塚山古墳、奈良県の佐味田宝塚古墳、広島県の中小田1号墳などの出土鏡とは同笵の関係にある。」とのことで、「海人族」の繋がりが伺えそうな感じで。
(西求女塚古墳:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B1%82%E5%A5%B3%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3)
(元稲荷古墳・現説資料:http://www.mukoumaibun.or.jp/00hakkutu/tyosa/motoinari10/moto10gen.pdf#search='%E8%A5%BF%E6%B1%82%E5%A5%B3%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3+%E5%85%83%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%8F%A4%E5%A2%B3')

2016.05.23(Mon.)

1日に「向日神社」にお参りに行く時、電車を待つ間に駅に貼ってあったポスターが気になってたので、21日に宗派降誕祭でにぎわう「西本願寺」の南100mのところにある「龍谷ミュージアム」に行き、特別展「水 神秘のかたち」を見てきました。
(http://museum.ryukoku.ac.jp/exhibition/sp.html)

たぶん、「竹生島」に関する展示で行基の名が出てくるかなと思いきや、会場に入って3つ目くらいの展示物が兵庫・有馬の「温泉寺絵巻」で、いきなりテンションが上がりましたね。(笑)

入口近くまで聞こえてた、会場のいちばん奥の展示物の前で解説されていた教授らしき人の声も、しばらくは耳に入ってこなかったけど、さすがに「行基」と言われてからは耳がダンボ。(爆)

「竹生島」の弁財天や、京都・山崎の「宝積寺」の「山崎架橋図」もあったものの、説明はあっさりしたもので、興味をひいたのは「高野四社明神像」での、三宮が「気比明神」、四宮が「厳島明神」ということで、「水神」でもある「瀬織津姫」の繋がりが見れたように思った。

今回初めて知った神社に「瀬戸神社」があり、女神坐像・男神坐像・童子形神坐像等が展示されていて、童子形神坐像が御祭神の「大山祇神」を表す、とあったので、帰ってきてから検索し、「罪穢を流し去る神聖な場所」に頼朝が伊豆・三島社から勧請したことや、北条政子が竹生島弁財天を勧請して「琵琶嶋神社」としたあたり、「瀬織津姫」や「ナガスネヒコ」への信仰を感じられて。
(瀬戸神社:http://www.setojinja.or.jp/yuisho.html)
(瀬戸神社:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

ということで、図録を買って帰って読んでいたが、会場の入り口でいただいた展示物リストでの、「東京会場のみ」の展示物の、行基ゆかりの「大寺縁起絵巻」(大阪・堺「開口神社」)や、円空作「善女竜王立像」(滋賀・円城寺)、尾形光琳による「西行物語絵巻 巻第二」等が見れなかったのは残念である。

2016.06.24(Fri.)

ダダさんの「少彦名神と淡路島、五斗長遺跡の持つ意味。」を拝見し、あともう少しだ!と、勝手な期待を持ってまして。
(少彦名神と淡路島、五斗長遺跡の持つ意味。:http://www.ten-f.com/awajishima-to-seitetu.html)

私自身は読み取る力がないんで、他の方が書かれてるのを探し出して繋げられればと検索しており、「少彦名神」と「天日鷲翔矢命」が同神であることは宝賀寿男氏の説にあり、「少彦名神」と「瀬織津姫」が同神であることは風淋堂さんが「千時千一夜 瀬織津姫&円空情報館」で書かれてたり、8484yogiさんのブログにもあって。
(初期物部氏の系譜:http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/mononobe1.htm)
(囲炉裏夜話過去ログ:http://furindo.webcrow.jp/backup2.html)
(瀬織津姫 & クンダリーニ…No.8:http://ameblo.jp/8484yogi/entry-11714698640.html)

私は「行基」を追っていくうちに「瀬織津姫」にたどり着いたけど、それぞれの方面からいろんな人が検証されて「瀬織津姫」に繋がっていくのを拝見し、やはりと思う反面、第一級資料にはないからと認められない・・・もどかしいですね。

2016.07.04(Mon.)

昨日PCを消す直前にML「西行辞典」が届いているのに気づいて、朝になって拝読したところ、「ほりかねの井」についての解説が気になった。

汲みてしる人もあらなむおのづからほりかねの井の底の心を
(岩波文庫山家集153P恋歌・新潮690番)

堀兼の井の底のように深くてあらわしかねる自分の心の奥底を、
たまには汲んで知ってくれる人もあってほしいものだ。
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

MLの解説によると、

(ほりかねの井は)武蔵の国の歌枕ですが「平安和歌歌枕地名索引」では伊勢集・散木奇歌集・山家集・古今六帖・蒙求和歌から各1首ずつ、合計5首しか掲載されていません。他にも数首詠まれています。「枕草子」に「井は堀兼の井」とあるのですが、平安時代の歌人達に広く知られていなかったか、知られていたとしても歌を詠むだけの感興がおきなかったものでしょう。

埼玉県狭山市堀兼にある「堀兼神社」の井戸を一般的には指すそうです。

とのことで、「堀兼神社」について検索してみたところ、神社近辺は「承応2年(1653)に牛久保金左右衛門という人によって開かれた新田」だそうで、「慶長3年(1598)に松平信綱により家臣の長谷川源左衛門に命じて建てさせたと伝えられています。」とあり、それ以前に人の住んでいた気配がない、とされるサイトもあったけど、神社が古墳の上に建てられているそうで、古墳を造営した人々が使うために掘られた井戸が発端ではなかったかと思われて。
(狭山・堀兼神社:http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/kakuchi/sayama01/horikane2.html)
(堀兼神社:http://blogs.yahoo.co.jp/mennkuimenmen/30172075.html)
(堀兼の井:http://blogs.yahoo.co.jp/tosiko_m_0122/34554076.html)

飯能市「円泉寺」のサイトによると、「この(堀兼)神社の前の通りは「鎌倉街道上道」の支道で川越市の河越館に続いています。源義経の正妻は河越氏の娘でした。」とのことで、リンクにあるように「河越氏」は「坂東八平氏秩父氏の嫡流」で、平氏と源氏の繋がりに興味深く思いつつ、妄想では平氏と源氏の繋がりのみならず、歌人と武蔵国を繋いでるのは「瀬織津姫」ではないか、と。
(堀兼神社と堀兼の井−埼玉県狭山市堀兼:http://www.ensenji.or.jp/blog/2016/02/%E5%A0%80%E5%85%BC%E3%81%AE%E4%BA%95.php)
(河越氏:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E8%B6%8A%E6%B0%8F)

「堀兼神社」は「浅間社」ということで主祭神は木花開耶姫、すなわち「瀬織津姫」で、「ヤマトタケル」は古墳時代に各地を開拓した「古代からのネットワーク」の総称かもしれないなと妄想。

飯能市「円泉寺」のサイトに戻りますが、「堀兼の井」と京都「随心院」の井戸(伝・小野小町化粧井戸)が似てるとあり、写真検索したところ、たしかに、と。
(http://www.ensenji.or.jp/blog/2016/02/%E5%A0%80%E5%85%BC%E3%81%AE%E4%BA%95.php)

ただ、先日旅行したが撮ってきてくれた「松川樋川(まつがわひーじゃー)」も近いような感じがして、昔からあったもので現存しているのが少ないのかもしれないのでは・・・。
(松川樋川:http://www.tabirai.net/hotel/okinawa/hotel147000058/00022/)

ウィキの「まいまいず井戸」に取り上げられている歌を詠んだ方々、ここで幾度となく検索しては書いてきたので、その繋がりの背景にある「瀬織津姫」、そして「古代からのネットワーク」を連想するんですよね。
(まいまいず井戸:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%84%E3%81%9A%E4%BA%95%E6%88%B8)

そういえば、「古今伝授」で「ホトトギス」について検索してる時、「清少納言からの暗号文」(ホトトギス解体新書)というサイトがあって、なるほど、と思ったことを思い出した・・・ちなみに、西行は「ホトトギス」で78首詠んでいる、と、前号のMLにあり、井戸についても「瀬織津姫」以外の何かウラがありそうな気がしなくもなくて。
(清少納言からの暗号文:http://www006.upp.so-net.ne.jp/k-tomohiko/seisyo1.htm)

と、またもやとりとめなく書いてしまいました、すんません。

大阪・天王寺区の小高い場所にある「安居神社」の「かんしずめの井」も、そもそもはまわりに石段があったのではないかと思える感じがしたのを思い出した。
(http://sanadamaru.syuriken.jp/s-yu-yasui.html)

追記:(2016.07.06)
井戸ではないが、大阪・住吉大社の「お瀧場」や兵庫・氷室神社の「氷室清滝」も、構造としては近いように思われ、いずれも秦氏等「古代からのネットワーク」のテリトリーと思われることから、その技術が各地に伝播されたのではないか、と・・・イチキシマや弁天等の水神(瀬織津姫)が祀られている場所は似てるのではないか、と・・・。


大阪・住吉大社[御滝社]
御祭神:水浪女神


兵庫・氷室神社「氷室清滝」

2016.07.17(Sun.)

昨日、約20年ぶりに堅田駅で降り、「ラフォーレ琵琶湖」というホテルにあるプラネタリウム「ほたる」に行き、昨日から始まった星のお兄さんとスタレビさんちの根本氏による爆笑解説&スタレビさんの曲が流れる企画で、20数年ぶりにプラネタリウムを堪能してきまして。
(夢☆伝説 〜はるか時を超えて〜:http://www.laforet.co.jp/biwako/hotaru/program.html#yume)

プラネタリウムが始まるまで、湖西線の路線図にあった駅名の「小野」と「和邇」で「古代からのネットワーク」にトリップし、始まってからは京都・大山崎の「宝積寺」で行基が「星祭」を行っていたとされていることや、行基ゆかりの奈良「神野寺」近くの「鍋倉渓」「王塚」「天狗磐」「八畳磐」が、「天の川」と白鳥座の「デネブ」琴座の「ベガ」わし座の「アルタイル」を地上に移したものとされていることなど、星を見ながらトリップ。
(古代のミステリースポット?神野山の巨石めぐり@山添村:http://small-life.com/archives/11/06/2221.php)

帰りに堅田駅で「唐崎神社」の「みたらし祭」のポスターを見つけ、「日吉大社」の摂社で「みたらし祭」やから「瀬織津姫」でしょ、とか思ってたら、「祇園祭」の山鉾を見る前に目に付いたのが、NHK京都放送局のすぐ近くにある「鈴鹿山」の説明板で、「瀬織津姫」の文字を見てまたもやトリップ。

そして、「八坂神社」までの移動途中、4月に「大将軍八神社」お参りしてから気になってた他の「大将軍社」の1つである「大将軍神社」に偶然お参りすることができ、「八坂神社」と神紋が同じで「スサノヲ」が祀られていることや、境内社「隼社」と3月にお参りした中京区壬生の「隼神社」との関連等を妄想したり。

東山区「大将軍神社」境内社の「隼社」

中京区壬生の「隼神社」では主祭神:建甕槌神、配祀神:経津主神だが・・・。

2万歩近く歩いて疲れたうえに、妄想からの検索がまとまらず、途方に暮れている状態です。(笑)

ただ、先週お参りした東山区の行基ゆかりの「一切経山 金剛寺」は、「大将軍社」の「スサノヲ」のような形で「瀬織津姫」が祀られていたのかもしれないなと思った次第です。

いや、逆かな、行基が「瀬織津姫」を祀っていたので、その威力を増幅させて都を守るために、スサノヲを勧請したのかも・・・。

2016.08.28(Sun.)

先日、古館氏が進行役をされているお名前に関する番組があり、「鈴木氏のルーツ」が出てきたから興味津々で見てまして。

だが、予想通り和歌山の「藤白神社」は出てきたけど、そこに聖武天皇の勅願で訪れた行基の名前は出てこず、「熊野信仰」が広がることによって「鈴木氏」の名前が全国に広がった、ということで締めくくられてて、やっぱりなぁ、と。

ま、その先のことは推測や妄想で広がる世界になるんやろなぁ、とは思ってたけど・・・。

「熊野神」が「唐桑半島」に移され、その後「熊野信仰」が各地に広がることになった、不比等のせいで。

船団で移動したうちのひとりとして「穂積重義」がいて、その人物が「古館氏」と関連する説もあるようだから、そのあたりも放送してほしかったなぁ、と。

「古」は穂積氏のルーツ「物部氏」と繋がり、熊野神のもう一柱が「瀬織津姫」であるから、行基が動き、「古代からのネットワーク」が移動に同行した、と推測している。

で、「穂積氏」が「鈴木氏」になったのは「稲」が「ススキ」に似てるから、みたいなご説明だったと思うけど、穂積氏の祖が「ニギハヤヒ」で製鉄・鍛冶の神「天目一箇神」でもあるから、「錫」からきてると思われる。

が、確証はないから放送されなかったんだろうなぁ・・・。

「一般的には中世以降の創作と考えられている。」という「安日彦」(ナガスネヒコの兄)についても、実在したからの伝承と思われ、創作であるならば逆に「安日彦の津軽亡命をもって安倍氏の発祥としている。」ことを否定することになりますよね。

「熊野神」が「唐桑半島」に移ったのは、「安日彦」の一族を頼ってのものではないかと想像しているんだが・・・。

2016.10.27(Thu.)

昨夜のニュースで、去年4月に南あわじ市内で発見された「松帆銅鐸」7個のうち4個が「同笵銅鐸」で、そのうちの1個が島根県出雲市の「荒神谷遺跡出土銅鐸」の6号(高さ23.7cm)との兄弟関係を新たに確認した、とのことで。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161026-00000008-kobenext-l28)
(http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201601/0008738441.shtml)

それにより、「同じ古代神話の地である淡路と出雲地域の関係などにも注目が集まる。」とのことで、急いで長久保氏のコミックを引っ張り出し、「これでしょ」と頷いてたのが、「カルラ舞う!聖徳太子の呪術編2」に描かれている「海人族の大三角形」で。

「海人族の大三角形」とは、淡路国一宮「イザナギの幽宮」と丹後国一宮「籠神社」と熊野の「イザナミの墓」を結んだ三角形で、出雲と丹後の繋がりとこの三角形が「ニギハヤヒ」で繋がるのでは、と。
(丹後王国と出雲:http://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-11951453286.html)
(出雲神族・海部氏と丹後:http://www012.upp.so-net.ne.jp/houi/tango.htm)
(丹後と出雲〜出雲フルネとイイイリネの神寶譲渡事件:http://amanohashidate-kanko.com/tango_kingdom/%E4%B8%B9%E5%BE%8C%E3%81%A8%E5%87%BA%E9%9B%B2%EF%BD%9E%E5%87%BA%E9%9B%B2%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%A4%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%81%AE%E7%A5%9E%E5%AF%B6%E8%AD%B2%E6%B8%A1/)

また、「松帆銅鐸」の発見された地区に行基ゆかりとされる「松帆山感応寺」(淡路島西国三十三ヶ所霊場)があり、行ったことがないので推測になるが、近所の地名に物部氏や秦氏や土師氏などの古代豪族に関するところがあるのではないかと思われ、「同笵銅鐸」は職能を持って集団移動した豪族たちの「古代からのネットワーク」によるものではないかと妄想している次第で。
(松帆山感応寺:http://junreinotabi.net/33meguri/14.html)

「松帆山 感応寺」は「倭文(緑町)の松尾山に一寺を建立したのが始まりとされている。」という「倭文」(しとおり)や「松尾」、「松帆檪田」(まつほいちだ)の「檪」は、物部氏・秦氏等を始め「瀬織津姫」に繋がるように思われるんですよね・・・。

2016.12.01(Thu.)

「恭仁宮跡」の「朝集院」の四隅が確定した、とのことで、それが「いびつな長方形」だそうで。
(http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20161130000170)
(http://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/?page_id=132)

「府教委は、部材の木の形などに合わせて柱の間隔や位置を調整した結果、区画が本来の長方形から、少しいびつになった可能性があるという。」とのことで、その当時から「北東角」を意識して形を変えていた可能性があったのかも、と。

「恭仁宮」近辺は諸兄や秦氏・加茂氏のテリトリーで、宮の造営に加わったと思われる「行基プロジェクト」の職能集団の測量担当「日置氏」が、「部材の木の形」に合わせて、というより、「北東角」を意識して「部材の木の形」を変えたのでは。

行基絡みで諸兄とともによく見かける「吉備真備」は、「陰陽道の聖典『金烏玉兎集』を唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたという。」とのことで、「鬼門」の概念が採用された可能性があるのでは、と妄想している次第で。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E7%9C%9F%E5%82%99)

さらなる調査結果が楽しみです。


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