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朝のニュースを見て、あぁ、えべっさんやねんなぁ、と。
ぷ〜だから「商売繁盛」には縁がないけど、「笹持ってこい」に「ん?」と・・・「笹の葉さ〜らさら〜」で七夕には願い事を書いた短冊や飾りを吊るす・・・「竹」で思い出すのは「隼人」で・・・。
「竹も笹もイネ科タケ亜科に属する植物で、一般には、大型のものを「竹」、小型のものを「笹」と呼ぶ。」とのことで、関連があるんやなぁ・・・えべっさんと言えば「蛭子」で、国生み神話では流されてしまうけど、海の神で瀬織津姫を思い出す・・・。
あら、「蛭子」と「アマミキヨ」が繋がるような、やっぱりな〜と思う内容のブログがあった。
(追跡アマミキヨ:http://mintun.exblog.jp/23405004/)
ほ〜、「神戸」は「しど」とも読む、ということは、「志度」とも繋がりそうで、やっぱ「瀬織津姫」と藤原北家と行基が繋がるんだなぁ・・・って、ついトリップしちゃった。
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夕方のニュースで、「茨木市の郡遺跡と倍賀(へか)遺跡で、弥生時代中〜後期の方形周溝墓が140基以上見つかった」とのことで、「大阪北部の拠点だったとみられる大規模な村と推定している。」と。
(http://www.jiji.com/jc/article?k=2017012600578&g=soc)
推測では、泉北丘陵やその付近と同じように、千里丘陵で須恵器や土師器を焼いてた集団、分担した役割を担った各氏族の墓ではないか、と。
(http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/5067)
遺跡のある地域の有力氏族の寺院として、「飛鳥時代末期から奈良時代にかけて創建された太田廃寺・穂積廃寺がある。」ということで、秦氏(摂津国豊嶋郡はテリトリーの1つ)と物部氏(穂積氏の祖とされる)が頭に浮かび、南の方には行基ゆかりとされる「総持寺」があるので、「古代からのネットワーク」の居住地で「行基プロジェクト」の先駆けであったのでは、と妄想。
これからのさらなる調査報告を楽しみにしています。
そうそう、秦氏と物部氏で気になってたのが、稀勢の里関の綱を作る作業をニュースで見て、「麻」を「米糠」で柔らかくする作業で。
そのルーツが知りたいが、調べあぐねていて。
(綱打ち式:http://tsubotaa.la.coocan.jp/yokoki/yokoki35.html)
詳細がわかれば続きを書きたいと思います。
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大阪・八尾の「東弓削遺跡」から「塔の土台部分にあたる基壇が見つかった」とのことで、「続日本紀」に記載がある由義寺の塔の遺構とほぼ断定、とあり、おもしろいなぁ、と。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170209-00000051-mai-cul)
な〜んか矛盾を感じません?八尾は物部氏の本拠地で道鏡も物部氏の末裔だが、物部氏は神道を守って仏教導入を阻止したという書紀の記述は何なの?と。
はい、不比等マジックでんな、後世にまで影響を及ぼしていて藤原氏による陰謀をひしひしと感じるという。
「基壇は1辺約20メートルの正方形」で「天皇の勅願でできた大安寺七重塔の基壇(同20.4メートル)に匹敵する大きさ。」ということは、称徳天皇から位を譲るという話は本当にあったことと思われ、藤原氏が利権を守るために事実を捻じ曲げたのでは。
どうもね、このあたりの記述が疑問に思うんですよね、中臣習宜阿曽麻呂の信託が虚偽であったと和気姉弟が上申した、というのにはウラがありそうだな、と。
(宇佐八幡宮神託事件:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E8%A8%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6)
私としては、本居宣長による「光仁天皇の即位を正当化するための作為が含まれている」という説が妥当に思われ、文献には残らないようにウラで藤原氏が動いてないハズがない!と推測している。
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陰暦の今日は西行の命日ですね。
今の暦では3月末で桜が満開の頃かと。行基は咲き始めの頃で、太子は散ってしまうのを惜しむ頃、空海は葉桜の頃でしょうか。
12日の大阪城ホールでのチケットに「Daiwa Sakura Aid」とあって、どういう繋がりで「共催」となったんかなぁと見てて、その半券を会場入り口で受け取ったあとで正面を見たら「桜」の写真があり、吉野の桜保全のための募金の呼びかけをされてて、これまたどういう繋がりで?と。
ま、その時それらの疑問よりも頭の中を占めたのが、「吉野」と言えば小角、桜、蔵王権現、瀬織津姫、行基、西行、あ、天武天皇、いや、それ以前にも・・・と、連想ゲームのように浮かんでくる「古代からのネットワーク」の繋がりで。
ライブ終了後、わずかだけど募金させていただくと「さくら」という冊子をいただき、帰ってから拝見すると、大和ハウスの創業者が吉野のご出身で保全についての相談があったことが書かれていて、数ページ後に西行のことが、終わりの方には小角の像の写真もあり、「Daiwa Sakura Aid」も「古代からのネットワーク」によるプロジェクトの1つのように思えて。
ウィキペディアにあった創業者・石橋信夫氏の「人生の目標」とされている土倉庄三郎氏も気になりますね、時代が時代なら石橋信夫氏は造船業をされていたかもしれないなと推測してみたり。
後嵯峨上皇が吉野の桜を移植したり、吉野の地名「嵐山」を京都にもつけた経緯には、吉野と京都・嵐山の繋がりがあったからと思われることに「古代からのネットワーク」を感じられ、トリップは続くのであった。
石橋信夫(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E4%BF%A1%E5%A4%AB) 土倉庄三郎(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%80%89%E5%BA%84%E4%B8%89%E9%83%8E) 吉野(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E) 西行・吉野の歌(http://sanka11.sakura.ne.jp/waka01.html) 川上村(奈良県)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%9D%91_(%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C)) 後嵯峨天皇(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87) 吉野山・嵐山http://87yama.sakura.ne.jp/news/sakura-spot/arashiyama.html) 吉野散策(http://yoshino-ikkyuuan.com/yoshino.html) |
京都・嵐山の「葛野大堰」は秦氏によるもので、渡月橋近くの「法輪寺」は行基開創の「葛井寺」に空海の弟子・道昌が虚空蔵菩薩像を安置して「法輪寺」とし、出家前の西行が西住(源季政)とともに「法輪寺」に庵を結んでいた空仁を訪れて出家することとなった・・・等々、繋がりがあるゆえ、吉野の嵐山近辺にもそういう繋がりが見られるのかなぁ・・・行ったことがないので行ってみたいなと思う、いつかは。
ん?吉野の桜を移植したとされる後嵯峨天皇の在位は1242年2月21日〜1246年2月16日で、上皇になってからの移植であったとしても、「嵐山」の地名はそれ以前からあった、ということですよね、空仁が「いつか又 めぐり逢ふべき法の輪の 嵐の山の君しいでなば」と詠んでるので。
(せんろのよんさん:http://blogs.yahoo.co.jp/badqb704/64407542.html)
あ、「後嵯峨上皇が嵐山の対岸の仙洞御所に吉野の桜を移したことが、『続古今和歌集』に見られる。」とありますね。
(嵐山 (能):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%90%E5%B1%B1_(%E8%83%BD))
金春系の能、秦氏ですね。
それはさておき、奈良が先か京都が先かは不明だけど、氏族が移住先に同じ地名をつけるというのはよく見られることなので、やはり秦氏をはじめとする「古代からのネットワーク」がどちらにもいた、ということなのではないか、と。
あら、奇しくもダダさんが更新された「阿蘇ピンク石と継体天皇そして安閑天皇について」に「蔵王権現」が出てきてますね、秦氏のこともちょこっと・・・偶然ってスゴイ。
(http://www.ten-f.com/pinkishi-to-zaougongen.html)
推測ですが、「安閑天皇」は「瀬織津姫」ではないか、と・・・。
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昨夜のニュースや今日の朝刊の1面にも載ってましたが、奈良県明日香村の「小山田古墳(方墳、7世紀中頃)」の南端部で横穴式石室の「羨道」が見つかった、とのことで。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170302-00000093-san-cul)
「小山田古墳」は「舒明天皇」の初葬墓「滑谷岡(なめはざまのおか)陵」とされる、とのことですが、「舒明天皇」は蘇我氏との繋がりが深く、「方墳」で思い出すのは出雲の「四隅突出型墳丘墓」や物部氏だが、太子の父とされる「用明天皇」の陵に指定されている「大阪春日向山古墳」や太子の叔母とされる「推古天皇」の陵に指定されている「山田高塚古墳」が「方墳」だそうで、不比等マジックが見え隠れしてるようで。
(舒明天皇:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%92%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87)
(方墳:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%A2%B3)
また「小山田古墳」は「蘇我蝦夷」の墓ではないかとされる説もあるようだが、太子のみならず馬子・蝦夷・入鹿も不比等によって別名を与えられた人物であったとすれば、蝦夷=田村皇子だったという仮説が立てられなくもないかも、と思えたりするわけで。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170301-00000115-mai-soci)
うーん、千葉県の「龍角寺岩屋古墳」が気になりますね、「崇峻天皇」は暗殺されたことになってますが、子の「蜂子皇子」が「出羽三山」の開祖という伝承や、福島にヨメの「小手姫伝説」があることから、「崇峻天皇」は暗殺されたのではなく関東・東北方面を治めていて、陵が「龍角寺岩屋古墳」なのかも、という妄想が。
(龍角寺岩屋古墳:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E8%A7%92%E5%AF%BA%E5%B2%A9%E5%B1%8B%E5%8F%A4%E5%A2%B3)
(小手姫伝説:http://kotodama.xn--9oq386cb2a.com/%E5%B0%8F%E6%89%8B%E5%A7%AB%E4%BC%9D%E8%AA%AC/)
「小山田古墳」の調査期間はあと2年だそうで、どのくらいのことがわかるかは不明ですが、新たな出土品などによる調査結果が楽しみです。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170302-00000034-san-l29)
そうか・・・って、妄想の続きですが、関東・東北方面を治めてた崇峻天皇崩御後、引継ぎで田目皇子が長野に宮を置いて統治してて、天武天皇の時代になって関東方面との交流のためにもたらされたのが「富本銭」だったのかも。
(富本銭:http://www.bk.mufg.jp/csr/contribution/kids/gallery/exhibit/fuhonsen/index.html)
でなければ、いきなり武蔵国で銅が出たからと献上されたり、それによって「和同開珎」が作られるというのは、みょ〜なことやなと思ったりするわけで。
たぶん、田目皇子も天皇としてのお名前があったかと思われるのですが、なにせ不比等がいちばん暗躍してた頃のことだから、皇子の存在すらほとんど書き残されていないようで。
だけど、崇峻天皇の姉・太子の母とされる「穴穂部間人皇女」が田目皇子に嫁いでいる、ということは、新旧の天皇の「間」を繋ぐ役割を持った「人」であったからではないか、と思われ、だから「舒明天皇」の子「間人皇女」は「孝徳天皇」に嫁いだのでは、と。
(穴穂部間人皇女:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E7%A9%82%E9%83%A8%E9%96%93%E4%BA%BA%E7%9A%87%E5%A5%B3)
(間人皇女:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E4%BA%BA%E7%9A%87%E5%A5%B3)
平安時代、「坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられたが、「東征」という言葉を用いたのは、不比等マジックによって関東・東北方面を治めてた人々から恨みを買った「藤原氏」だったのでは?
だが、マジで攻めてこられたら負けるのが目に見えてたのか、藤原緒嗣は徳政論争で東征をやめさせたのでは、と妄想してたりするわけで、それらの長年の思いを受け継いで家康は江戸に都を置いたのかも・・・。
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ダダさんのサイトの「少彦名命と後裔たちが作り上げた大和朝廷」での対比表を拝見し、これも不比等マジックかな、と。
(少彦名命と後裔たちが作り上げた大和朝廷:http://www.ten-f.com/sukunahiko-to-daioutachi.html)
対比されている「天目一箇命」と「天日鷲翔矢命(少彦名命)」は、検索してきた中で矛盾を感じてて、両者とも「瀬織津姫」と思われるのに何でこんなにも違いがあるのか、頭の中で整理できずにいた。
だがそれらは、同じ「蘇我氏」でも「聖徳太子」と馬子・蝦夷・入鹿らとの違いに似てるように感じ、多くの名を持つ「オオクニヌシ」のように、「同族による伝承」とそれを消したいのに消せない不比等が別の人物名を用いて存在をうやむやにしようとした「作文」が、併記されていることによるものなのでは、という思いに至って。
ま、それを立証する手立てはなく、妄想だと言われればそれまでですが・・・。
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京都文化博物館で行われてた「猫展」に行ってきましたが、メインというか目に付いたのが「歌川国芳」の浮世絵で、興味があったのは「源氏物語」の「女三宮」の段だけど、それが少ししかなかったし、「源氏物語」から江戸時代までの間の記録をあまり目にしなかったことに物足りなさを感じて。(私の見落としがあったかも、だが。)
(源氏物語と源氏絵:http://nyanpedia.com/the_tale_of_genji-2/)
「歌川国芳」の猫好きは有名だったようで、同時代を生きた「広重」も猫を飼っていた、ということがちょこっと出てたけど、国芳は「猫好き」だけで描いておられたのか、猫−ネズミ−蚕の構図から何かを言いたくて題材としたのか、と妄想。
(歌川国芳:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%9B%BD%E8%8A%B3)
浮世絵で「歌舞伎」と「猫」という繋がりも気になっているので、手が空いたらじっくり調べてみたいなと思った・・・が、下記URLで詳しく調べておられるので、それ以上のことはわからないように思う。
(東海道五十三對:http://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/005-0383)
「美人」の代表とされてた「おかめ」がその逆になったように、「化け猫」として描かれるようになったウラには、何かあったのかもしれないな、と妄想は続くのであった。
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ダダさんのサイトを拝見し、私の妄想では「角凝魂命」と「スサノオ」は同神で「ナガスネヒコ」ではないだろうか、と。
(角凝魂命はスサノオと同一の神様なのか:http://www.ten-f.com/tunogori.html)
なぜ信長は「雑賀衆」を攻め、『「鈴木孫一を始め七人の頭目」が揃って「降伏」文書(誓詞)を差し出』すことになったのかが納得できずにいて・・・源平の合戦同様、同じ神を信仰してるのに戦いになるなんて、悲しすぎますよね・・・。
「鈴木」氏は以前テレビでも放送されてたように、和歌山が発祥の地で、ルーツは瀬織津姫を奉ずる人々が、開拓による移住に伴って人名・地名・信仰等も移動し伝播されたと考えており、その中心となる氏族が物部氏や秦氏を中心とした「技能集団」である「古代からのネットワーク」を担ってきた人々ではないか、と。
その集団の要として「鍛冶」の技術を持った氏族があり、そのトップが「天皇」とされるべき人、つまり「角凝魂命」「スサノオ」「ナガスネヒコ」ではなかったか、と。
ま、「美努連・三野縣主」や「天湯川田命」の系図から連想されるのは「少彦名命」と同神と思われる「瀬織津姫」になり、アタマん中がごちゃごちゃになるんだが。
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ダダさんの掲示板に新作のURLがあり、そのタイトルにおぉ!と。
(氷川神社と小野神社と瀬織津姫:http://www.ten-f.com/hikawa-to-ono.html)
どちらの神社も武蔵国惣社「大国魂神社」も、かつて検索した記憶はあるが、いつものようにわけわからん状態になって頓挫しており、読み返せば思い出すかと思ったが、どちらから引用させていただいたか等、自分にツッコミ入れてばかり。
たぶん「風琳堂」さんのとこからだと思うが、「「瀬織津姫」の別名が、「八十禍津日神」「大屋毘古神」だそうで、これらの神は「五十猛命」だそうで。」と2007.04.22分に書いていて、さらにアタマん中がごちゃごちゃ。
一の宮の「小野神社」に「瀬織津姫」が祀られていて、それが行基が薬師如来を刻み奉安したという厚木市小野の「小野神社」と繋がるのではないかと思っていたが、違う氏族であるならばこちらもまた迷宮へ、ということになりそうな。
また、天平8年(736年)に行基が蔵王権現を勧請したといわれる「武蔵御嶽神社」の主祭神「櫛真智命」は、「大麻止乃豆乃天神社」と同じ御祭神だが、「大麻止乃豆乃天神社については、青梅市の武蔵御嶽神社を比定する説も有力。また、府中市の大國魂神社を当てる説もある。」との説、および、「延喜式大和國十市郡の天香山坐櫛眞命神社(天香山神社・國常立神社)の項に元名大麻等乃知神とあることから、当社も同じ祭神であるとされている。」との説と、「明治期に、瀬織津姫さんは国常立尊に変更された」という「速川神社」を考えると、「大国魂神社」は瀬織津姫のための神社のように思えるような。
(武蔵御嶽神社:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(大麻止乃豆乃天神社:http://goshuin.ko-kon.net/touto_jinja/25_oomatonotsuno_tenjin.html)
(大麻止乃豆乃天神社:http://www.genbu.net/data/musasi/ooomatonotu_title.htm)
(速川神社:https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/11875975.html)
「玄松子」さんのサイトのリンクに、「櫛眞知命」について「櫛眞(くしま)を鹿島とする説があり、天児屋命の別名とする説がある。」から言えば、やはり不比等に乗っ取られたんだなと妄想。
(櫛眞知命:http://www.genbu.net/saijin/kusimati.htm)
そうそう、先日の「おなまえっ!」の「高橋」さんのルーツで、「天香具山」がちらっと出てきたけど詳しくはふれておられず、気になっていたんだが、「天香山神社」と「高橋」さんが繋がるなら、「瀬織津姫」とも繋がりそうで。
(天香山神社:http://www.genbu.net/data/yamato/amanokaguyama_title.htm)
(天香山命:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%A6%99%E5%B1%B1%E5%91%BD)
(高橋神社:http://gejirin.com/src/Ta/takahasijinja.html)
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フェイスブックの「grape」の動画に「見沼用水」があり、検索が始まって。
(見沼用水:https://www.facebook.com/pg/grapeejp/videos/)
土木事業を行った「伊奈氏」は、「清和源氏足利氏の庶流」(足利氏は源満仲の三男の源頼信を祖とする河内源氏、満快流は満仲の弟の満快が祖)のようで、「古代からのネットワーク」から受け継がれた土木技術を持つ技能集団だったのでは、と。
(見沼代用水:http://www.minumatanbo-saitama.jp/outline/minumadaiyousui.htm)
(伊奈氏:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E6%B0%8F)
(足利氏:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%B0%8F)
(河内源氏:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E6%BA%90%E6%B0%8F)>
(源満快:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%BA%80%E5%BF%AB)
「見沼」は、折口氏の『「水沼」は「みずは」「みぬま」と通じる「水の神」(美奴売神・敏馬神)』ではないかという説に繋がると思われることや、伊奈氏は「初め荒川氏を称していた」とのことで「荒」(アラハバキ)に繋がるとされる「瀬織津姫」が見えてくるようで。
「紀州流」で治水工事を行ったという「井沢弥惣兵衛」が気になったが、詳細不明なのが残念・・・。
ま、紀州藩主だった吉宗が遷座したという「広田神社」、御祭神「撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命」は「瀬織津姫」と思われるので、「古代からのネットワーク」で連綿と行われていたように、新しい技法を伝えるために井沢弥惣兵衛を見沼開発に起用したのではないかと妄想。
(井沢弥惣兵衛:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E6%B2%A2%E5%BC%A5%E6%83%A3%E5%85%B5%E8%A1%9B)
(広田神社:http://kamnavi.jp/en/settu/hirota.htm)
余談だが、大阪・貝塚市の行基ゆかりとされる「水間観音」も、「みぬま」すなわち「水の神」「瀬織津姫」に繋がると思われる。
というか、「弁天堂にお祀りされている弁財天は、行基が滋賀県の竹生島の天女の御姿を彫み、安置されたものと伝えられている。」とのことで、「竹生島の天女」は「瀬織津姫」と思われるので、「見沼」近辺の神社仏閣に伝承等がないかと気になりますね。
あら、あった・・・光徳寺の「観音堂の聖観世音菩薩像は行基作と伝えられ・・・」とあり、「水間観音」と同じ御本尊で。
(光徳寺:http://www.ukima.info/feature/onarikaido/koutokuji.htm)
「見沼薬師堂の円空仏達」というタイトルのブログがあり、円空まで出てくるなら「瀬織津姫」との繋がりの深い場所だと思っていたところ、「行基菩薩が建てられたと言い伝えられる、薬師堂がありました。」とあった。
(見沼薬師堂の円空仏達:https://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46275676.html)
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昨日、予約してた永久保氏のコミック「カルラ舞う!湖国幻影城1」が届き、PCで検索しながら読んだ。
「息長氏」は気になってて、湖北の伝承や神社とかもちらっと調べたことがあったけど、コミックに出てきた「山津照神社」「大宝神社」は知らなかった。
(山津照神社:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%B4%A5%E7%85%A7%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(山津照神社:http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=1050)
(山津照神社:http://kitabiwako.jp/spot/spot_276/)
(大宝神社:http://www.daihoujinja.jp/)
(大宝神社:http://ameblo.jp/amahiko/entry-11614777196.html)
行基ゆかりの寺院等のある「竹生島」が「瀬織津姫」と繋がるように思ってたので、漠然と「神功皇后」の父「息長宿禰王」は「ナガスネヒコ」かと思っていたけど、登場人物の「息長真人」が「舟」に乗って移動しているあたり、「ニギハヤヒ」が出てくるのではないかという感じで。
上記神社の御由緒や伝承等が、飛鳥時代あたりから奈良時代となっていることや、「竹生島」が絡んできそうなこと、最後の方で出てきた「三井寺」には行基ゆかりの像が安置されていることなどから、行基も出てきそう、というか、出てきてほしいなと思う次第で、次巻の発売が楽しみです。
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去年の7月16日に滋賀に行った時、JRの路線図にあった駅名の「小野」と「和邇」で「古代からのネットワーク」にトリップしてたが実際に行くことができずに1年経った今、「曼陀羅山古墳群の発掘調査結果」に興味津々。
(曼陀羅山古墳群で「追葬」跡を確認 大津、2基の発掘結果発表:http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20170720/CK2017072002000014.html)
「ドーム型と異なるため、渡来人ではなく土着の豪族の墓とみられる。」とのことだが、「横穴式石室」「円墳」で思い出すのは秦氏のテリトリーにある「双ヶ岡古墳群」「蛇塚古墳」で、曼陀羅山古墳群のあたりがテリトリーと思われる小野氏や和邇氏は、「古代からのネットワーク」に関する氏族と思われるし、2012.12.29などで書いたように地名の「真野」は、「間野」「野間」等の似た地名と何らかの繋がりがありそうなので、出土品によっては「古代からのネットワーク」の在り方などがわかるのではないかと期待しているわけで。
(曼荼羅山古墳群:http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/jiten/data/017.html)
(Katata/堅田:https://katata.info/2013/09/ohmisangasyo-039/)
(古墳マップ:http://kofun.info/kofun/2842)
検索したうちの上記URL2つめにあった、白洲正子さんの「近江山河抄」が気になり、「能」や「西行」についても書かれているので、拝読してみたいなと思った次第で。
うーん、ふと「酒呑童子」を思い出したけど、源頼光らは「アテルイ」に対する坂上田村麻呂同様、「討伐」や「退治」ではなく、技術提携等のための繋がりを保つための「交渉」に行ったんじゃないかと思うし、頼光が「岩清水八幡大神」「住吉明神」「熊野権現」の力を借りる云々は「通行手形」みたいなもののように思えるんだが。
(酒呑童子伝説:http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/onihaku/densetu/)
それらが「曼荼羅山古墳群」の円墳、前方後円墳である「和邇大塚山古墳」が、秦氏と繋がると思える理由の1つかと。
記事では「土着の豪族の墓とみられる」とあったが、「土着」の時期によっては渡来人である可能性もあるし、渡来してその地に次々訪れて住んでいたとしたら、「土着」とは何かと思うわけだが・・・。
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夏と言えば稲川さん、的な番組や特集を目にして、「鬼」とは朝廷に利益をもたらす人以外、「あの世」とは行ったことのない遠い地、を指しているように思った。
だから、晴明の「式神」や篁が仕えた「閻魔大王」は、「古代からのネットワーク」の人々とそのトップ、ではないか、と。
つまり、陰陽師である「安倍(晴明)」氏、「賀茂(忠行・保憲)」氏、晴明に「金烏玉兎集」を渡したとされる「吉備(下道真備)」氏、遠い宇佐まで行った「和気(清麻呂・広虫)」氏、「小野(篁)」氏は「古代からのネットワーク」を代表する氏族だったことを表していると思われ、天武天皇は「閻魔大王」に繋がる人物だったのかもしれない・・・と、妄想。
あ、行ったことのない地が「あの世」なら、見たことのないもの・目の錯覚が「妖怪」なら、体験したことのないような「自然災害」も「鬼」としていたのかも。
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昨夜、BSの特番に夢枕氏が出ておられ、そういえば「陰陽師 玉手匣」が完結したことを書くのを忘れてたなぁと思いつつ、ふと思い出したことがあって「瀬織津姫」関連で検索しようとしたら、キーワードの1つとして「瀬織津姫 君の名は」があり、何でや?と。
ウィキペディアであらすじを見ると、「飛騨」「口噛み酒」や主人公の「瀧」「三葉」という名前が気になり、そこで連想されるのが「水神(罔象女神、水波能売命(ミツハノメ)・瀧神)」でもある「瀬織津姫」なんだな、と。
(君の名は。:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%AF%E3%80%82)
で、夢枕氏の話に戻りますが、完結編に出てきた「豊受」も「瀬織津姫」と思われるんだが、現代でも「正史にない」という呪縛からは解き放たれないのかなと、検索した事柄を含めて思ったわけで。
調べたかったのは、先日読み終えた本に「アテルイの墓」が枚方の土師氏ゆかりの神社にある、ということから、「瀬織津姫」と「アテルイ」について、だが、こちらもウィキペディアに「当社の祭神について『神名帳考証』には「饒速日命」、『特選神名牒』には「交野忌寸の祖神」と書かれているが神社側ではこれらを否定している。」とあり、なるほど、と。
(片埜神社:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%9F%9C%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
秦氏ゆかりとされる「木嶋坐天照御魂神社」も、「史料上では天照国照天火明命(天火明命:尾張氏祖神)説・天照大神説・天日神命説などが見られる。」とあるが、「天火明命」については現在見受けられないし、以前は御祭神を「饒速日命」とされてたように思うがそれも見られなくなったのと同様かと思ったが、「饒速日命」は集団名を指し、御祭神名となると「ナガスネヒコ」(大年神他)になるのではないかと思われ、「アテルイ」はその末裔かと。
(木嶋坐天照御魂神社:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%B6%8B%E5%9D%90%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%BE%A1%E9%AD%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
で、これらのことからも、「瀬織津姫」と「古代からのネットワーク」の繋がりが見えるように思うんだが、夢枕氏と一緒に出ておられた小松先生に、そのあたりをお伺いしてみたいなと、畏れ多くも思ってしまったMであった。
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「奈良時代、遣唐使の吉備真備が唐より持ち帰った栴壇香木で行基が刻んだとされ、『吉備観音』と呼ばれている。」という十一面観音が安置されている「金戒光明寺」に昨日行ってきまして。
もとは「吉田(きちでん)寺」(廃寺)のご本尊だった、ということで、近くにある「吉田神社」で詳細がわかればと足を延ばしてみたが、「金戒光明寺」での伝承と同じことしかわからなかった。
が、「吉田神社とその歴史」の中の「吉田の史跡」に、
新長谷寺は近世栄えた寺で、山蔭中納言がその第宅を施入して神宮寺としたもの、本尊千手観音は六尺二寸の立像で、始め中納言大和の長谷寺に参詣し、観音像流造立の願を立て祈誓中、本尊感応あって童子となりこの地に来った。よって中納言唐土より招来の栴壇香木を与えたところ、童子一千日篭居して造立を了えた。大阪府下茨木市の総持寺も中納言の立願による同じ霊像を本尊とし、両寺とも新長谷寺と号した。 |
とあり、「総持寺縁起絵巻」の第七段において、童子に姿を変えて御本尊「十一面観音」を彫り上げた「長谷寺」の観音に、行基が所在を問いかけたとされていることと、「金戒光明寺」に安置されている元「吉田廃寺」のご本尊の伝承と似ているんだが、「金戒光明寺」や「総持寺」の御縁起に行基の名を出してないあたりが気になる。
ま、それで言えば、「吉田神社」の摂社に「神楽岡社」(御祭神:大雷神、大山祇神、高おかみ神)があり、地名から言えばこちらが本来お祀りされていた神々ではないかと思えるわけで。
「金戒光明寺」を開いた「法然」は「秦氏」だし、「金戒光明寺」のすぐ南にある「岡崎神社」が「平安京遷都の際に王城鎮護のため平安京の四方に建てられた社の一つ」とされるならば、秦氏のメンテの一環でのことと思われ、「金戒光明寺」のすぐ北にある「吉田神社」は、勧請した藤原山蔭が「北家」だから、かと。
そうすると、「古代からのネットワーク」と「北家」の繋がりがいまいちよくわからないけど、「北家」の勧請や建立等に際し、「古代からのネットワーク」との繋がりを利用しつつも、後にはそれを消そうとしているように思えてならないわけで。
「岡崎神社」に清和天皇が「播磨国廣峯から祭神を迎え祀った。」のは、姫路の「廣峯神社」と思われ、こちらでも「吉備真備」が関連していて、ゆえに、岡崎一帯は「瀬織津姫」の聖地の1つだったのではないかと妄想しております。
(広峯神社:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%AF%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
ひょっとしたら、直実も「古代からのネットワーク」の一人だったのかも・・・検索したいんだけど、昨日からPCの調子が悪くて後日になりそうだが。
あ、すんなり拝見できるサイトがあった・・・頼朝も瀬織津姫ファンだったと思われるんで、出家を促したのは頼朝かも?
(熊谷直実の出家に関する一考察:http://www.monjo.spec.ed.jp/?action=common_download_main&upload_id=537)
ふと、直実と西行が繋がらないかを検索したけど、直接会ったことはなかったようですね、公の文書として残されてないだけかもしれませんが。
直実が「平直方の孫の平盛方の孫」だとすると、「平盛方は北面武士」ということで接点があったかもしれないし、西行が「東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下り」した文治2年(1186)に鎌倉で源頼朝に面会してるので、会う機会があったかも、と。
(平直方:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E6%96%B9)
(西行:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E8%A1%8C)
「平盛方」が「阿多美聖範」とされているけど、名前から「隼人」の末裔かと思われ、「伊豆山権現の僧」ということで、小角、そして瀬織津姫に繋がりそうですね。
(阿多見聖範:http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%A4%C2%BF%B8%AB%C0%BB%C8%CF)
(特集=瀬織津姫神と遠野について:http://furindo.webcrow.jp/seoritu_toono.html)
追記(2017.08.18):
熊谷氏のルーツは、宣化天皇の三世孫「多治比古王」のようで、それで思い出したのが堺市美原区の「丹比神社」で、主祭神の「ホアカリ」は海人族ニギハヤヒであり、「ナガスネヒコ」「瀬織津姫」に繋がるので、直実もやはり「古代からのネットワーク」の一員と言えそうで。
(熊谷氏:http://www.ksky.ne.jp/~matu-3/16kumagai.html)
(多治比氏:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%B2%BB%E6%AF%94%E6%B0%8F)
(丹比神社・ご由緒:http://www.tanpijinjya.com/plan.html)
「私市党と鷲宮神社の接点を見いだせない」として、地名から「騎西町」が私市党の発祥地とあるのは誤り、とされているようだが、「鷲宮神社」は「土師氏」ゆかりの神社で「古代からのネットワーク」のテリトリーにあると思われることが接点と言えそうで、大阪の私市と「丹比神社」間より熊谷と騎西町間の方が距離が短いので、誤りとは言い切れないかも。
(私市党:http://www.ksky.ne.jp/~matu-3/)
(鷲宮神社:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B2%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
大阪府のサイトによると、「私市」とは「皇后の部民(ベノタミ)であり、その中心となった村であることからも「私部内」(キサベノウチ)から訛って私市となったものである。」とあり、想像するに「私市党」とは関東・東北方面を治めていた「皇后の部民」の末裔ではないかと思われ、「皇后」が「瀬織津姫」だったのではないか、と。
(私市のまちなみ:http://www.pref.osaka.lg.jp/kenshi_kikaku/keikan-ustukushii/100kei-033.html)
そうそう、土師氏ゆかりの神社と言えば、行基ゆかりの「萩原寺」のあった「萩原天神」があり、日置氏の氏神「天櫛玉命」が合祀されているので、熊谷近辺にも「天櫛玉命」「火明命」あるいは「ニギハヤヒ」等の物部氏系の神社があるのではないでしょうか。
(萩原天神:http://hagi10.sakura.ne.jp/)
あ、神奈備さんのサイトによると、熊谷市上奈良に「豊布都神社」があるようですね。
(物部氏ゆかりの神社:http://kamnavi.jp/mn/monomap-higasi.htm)
(豊布都神社:http://kagura.wa-syo-ku.com/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E5%B8%82%E3%81%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE/%E4%B8%8A%E5%A5%88%E8%89%AF%E8%B1%8A%E5%B8%83%E9%83%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
「タケミカヅチ」は不比等に乗っ取られちゃったからね・・・って、春日神の他の神々も、だけど。
話を戻しますが、「私市党」のみならず「武蔵七党」は「古代からのネットワーク」に関わっているんだろうな、と。
「横山党」は異論があるらしいが「篁」の後裔だとすると、小野氏はネットワークの中心的氏族だし、「通婚関係がみられる」氏族には秦氏がいたようで、土師氏の後裔である「大江広元」に「横山荘」が与えられたのも、さもありなん、な感じで。
(横山党:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%9A)
あ、「横山党」の一族とされる「猪俣党」も同様ですね。
「野与党」の「千葉氏」を見て、以前調べたことがあったような、と・・・2009.05.01に「葛原親王」の母が「多治比氏」であることを書いていて、熊谷氏と繋がるのでは、と。
(葛原親王:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E7%8E%8B)
あ、「村山党」は「野与党と同族」で、「丹党」は「丹治氏の子孫」ならほぼ同族でしょう。
「西党」の祖とされる「武蔵守日奉宗頼」は「日置氏」と同族なんじゃないかなぁ、「日奉氏は古代品部(しなべ)の一つで太陽祭祀(さいし)を司った日奉部に起源を持つ氏族であり・・・」とのことだし、「十箇品部の中に日置部が含まれていた」とあるし。
(日奉氏と武蔵四牧:http://taroukun-rekishi.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-cce0.html)
(日置部:https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E7%BD%AE%E9%83%A8-1198005)
ということで、「武蔵七党」の「古代からのネットワーク」としての役割について、熊谷氏以外でも調べてみたいなと思った次第です、最近よくフリーズするPCの調子が良くなれば・・・。
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昨日は嵐山方面に行き、行基ゆかりとされる「観空寺」と、検索してて以前から気になってた「清凉寺」に加え、先週の「金戒光明寺」での直実繋がりで「法然寺」の、ほぼ直線コースをお参りしてきまして。
「観空寺」はどなたもおられず、「大覚寺の境外仏堂」ということで「大覚寺」もお参りしたけど詳細はわからないままで、「法隆寺の夢殿を模した」という八角形の「心経殿」が気になった。
(大覚寺:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A6%9A%E5%AF%BA)
以前から「清凉寺」が気になってた理由の1つが、嵯峨天皇の12男で光源氏のモデルとされる「源融」ゆかりのお寺で、「源融」が業平同様「塩焼」(鹽竈神社の例祭「藻塩焼神事」と同様かと)をしていたことについて何かわかればと思ったんだけど詳細はわからず、2つめの理由として、森氏の著書で知った秦氏の「「然」が、なぜ「棲霞寺」に「清凉寺」を建てたのか・・・ま、ウィキペディアにはその理由が書かれてたけど、もっとウラがありそうな気がして。
(清凉寺:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%87%89%E5%AF%BA)
あと、「法隆寺夢殿を模した」という「聖徳太子殿」がある理由と、「薬師寺(六道地蔵大菩薩)」のところに「生の六道 小野篁公遺跡」という石碑があるのはなぜなのか、そして「蓮生誓願状」がここにあるのは何故?
あ、篁が冥界から戻る際に使ったという井戸が嵯峨六道町の「福生寺」にあったそうで、「六道珍皇寺」の六道の辻を「死の六道」と称したのに対しての「生の六道」ということのようだけど、他についてはわからないままで。。
(嵯峨薬師寺:http://www.kyotofukoh.jp/report925.html)
「法然寺」の公式サイトに、「嵯峨の地と法然寺を結び付るものはない」とされているが、法然が秦氏で嵯峨の地はテリトリーだったことからではないか、と妄想しているんだが・・・。
(法然寺:http://hounenji-19.rdy.jp/%e6%b3%95%e7%84%b6%e5%af%ba%e3%81%ae%e6%ad%b4%e5%8f%b2/)
で、「「然」「源融」について書いてた過去のとんでもニャ〜のファイルに「蓮生」とあったので、え?と思ったら「宇都宮頼綱」(北家)のことで、嵯峨野の別荘「小倉山荘」で定家が「小倉百人一首」の原型を作ってるんですね。
(とんでもニャ〜2−8:http://www.geocities.jp/easyclub_choro/tondeb8.htm)
(百人一首:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96)
あとになって直実の検索で見落としてたのに気付いたが、熊谷直実(1141〜1207)は1193年頃に法然の弟子となり出家、宇都宮頼綱(1172〜1259)は1205年に出家し、法然の弟子証空に師事、ということだが、同じ「蓮生」という法名が気になりますね。
(熊谷直実(脚注15):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%9F)
(宇都宮頼綱:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E9%A0%BC%E7%B6%B1)
「大覚寺」の「心経殿」や「清凉寺」の「聖徳太子殿」は、背後に秦氏がいることの証のようで、「古代からのネットワーク」での「行基プロジェクト」のように、「蓮生プロジェクト」があったのかも、という妄想が・・・。
そういえば、「法然寺」が元は烏丸の方にあった、とされるけど、「錦小路東洞院西」が「父貞直の旧地」であるのはどういう経緯なんでしょうね・・・。
追記(2017.08.22):
先週からネットに繋がらないことが多く、何度も休憩させられつつ調べたところ、「熊谷直実は熊谷に戻った後、下野国 領主 宇都宮頼綱(よりつな)へ浄土を勧め、後に「実信房 蓮生」と名乗らせた。」とあり、埼玉県熊谷市の「熊谷寺」のサイトに「二ヶ月ほどの後、頼綱は剃髪し、名を宇都宮実信房蓮生(れんしょう)とした。」と引用されていて、URLが書かれていたけど、どこに書かれているのかは探せずにおりまして。
(土御門ミステリー 10の謎(その4):https://blogs.yahoo.co.jp/senkoin2002/32943134.html)
(熊谷寺:http://www.yukokuji.com/mt_annai/)
「直実が阿波に来たという記録がない」とのことだが、そういうのん、行基においては日常茶飯事とも言えることで、やはり「蓮生」という名での「プロジェクト」があったことを表していそうですね。
ただ、私にとって「土御門天皇」の名は気になってた(晴明の末裔が土御門家)ものの詳しく調べたことはなく、ウィキペディアの「大阪府三島郡島本町の水無瀬神宮では、祭神として祀られている。」で「あぁ!」と・・・調べてて頓挫した「古今伝授」に繋がりそうですね、「宇都宮頼綱」が絡んでるし。
(土御門天皇:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%A4%A9%E7%9A%87)
(水無瀬神宮:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%84%A1%E7%80%AC%E7%A5%9E%E5%AE%AE)
2010.02.20分で「水無瀬神宮の御祭神」の「後鳥羽上皇」が「気になる」としつつ、他の検索で見た「百人一首は歌織物《秘められた水無瀬絵図》」からさらに検索し、行基ゆかりとされる「若山神社」がでてきたことで行基方面へと意識が移ってた。(笑)
(水無瀬絵図:http://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/hyakunin02.html)
(水無瀬絵図:http://www8.plala.or.jp/naomichi/hyakushu/tegakiezu.html)
(若山神社:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
土御門天皇の「金原陵」が「公式形式は八角丘。」とされているのが気になりますね、「法隆寺の夢殿を模した」建物を2つも見てきたばかりだし。
(金原陵:http://inoues.net/tenno/tuchimikado.html)
あと、「観空寺」「清凉寺」「法然寺」がほぼ直線コースだったように、「西山三鈷寺」「金原陵」「水無瀬離宮」もほぼ直線コースというのも気になって。
(土御門ミステリー 10の謎(その6):https://blogs.yahoo.co.jp/senkoin2002/32991744.html)
なかなかネットに繋がらない状況でありながらも寄り道してた・・・「土御門天皇」について書かれていた「阿波 発 京都 行」さんのサイトで、お知り合いの方が「秦王国は九州ではなく愛媛県西条市周辺だったということです。」と書かれていたそうで。
(空海の平岡八幡宮:https://blogs.yahoo.co.jp/senkoin2002/33385126.html)
うーん、以前福永氏の著書に「国東半島」が秦王国とされてたように思い、愛媛というと「大山祇神社」を思い出し、このあたりは秦氏ではあるが物部氏でもあるようで。
(『隋書』から倭(ヤマト)国の所在地を特定するC:https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/55301087.html)
(大山祇神社と瀬織津姫神【[】──秦氏と瀬織津姫祭祀:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2010/12/08)
愛媛の「三島」と「水無瀬神宮」のある「三島」郡、そして各地の「三島」、これらは「秦氏」で繋がりそうですよね、「謎」のウラに秦氏あり、と言いましょうか・・・。
「蜂子皇子」が聖徳太子によって脱出した背後に秦氏を感じ、出羽三山を開いたのは東北方面担当の小角によるものではないかと妄想してて。
(蜂子皇子:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E5%AD%90%E7%9A%87%E5%AD%90)
兵庫「中山寺」の、太子が大中姫と忍熊王の霊を祀ったという伝承のウラには、忍熊王も蜂子皇子のように秦氏によってどこか移動したのでは、とも・・・敦賀だったりして?「笥飯大神」と関連があったりして?とまた妄想。
(忍熊皇子:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E7%86%8A%E7%9A%87%E5%AD%90)
そうそう、「土御門ミステリー」シリーズに行基の名が出てますね、行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院である鳴門市の「東林院」、詳細はうちよりもしっかり書かれているので、ご興味のある方は下記URLをご覧ください。(笑)
(土御門ミステリー 10の謎(その9):https://blogs.yahoo.co.jp/senkoin2002/33920931.html)
(東林院:https://torinin.jp/)
ま、行基が出てくる、っちゅうことは、「古代からのネットワーク」絡み、と言っていいかも・・・「宇志比古神社」「東林院」「阿波神社」もほぼ直線コースというのも気になるところで。
あと、「さかのぼれば藤原家が天皇家と姻戚関係を結ぶことに成功、その権益を独占しようとします。藤原不比等ですね。」とされているのを見て、そーなのよ!!と。(爆)
(土御門ミステリー 10の謎(その7):https://blogs.yahoo.co.jp/senkoin2002/33046694.html)
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予告しか見てないんだが、大河の直虎の「虎松の首」の回のようなこと(上記の蜂子皇子等)が過去にも見られたことから、政次もそれに倣ったんじゃないでしょうかね。
(虎松の首:http://www.nhk.or.jp/naotora/story/story31/)
嵐山「法然寺」のご住職が、「直実は戦場で2つのタブーを行った」と説明してくださったんだが、それなら「嫌われ政次の一生」の回のようになったんじゃないか、と思って・・・ただ、政次が磔になったというのも懐疑的なんだが。
正式な歴史書とされているものは、それを書いた人たちのお株を上げる書き方を大げさにされているように思えるんですよね、昨日お参りした「片埜神社」のアテルイ・モレの石碑を見てそう思い、処刑されたのではなくここで住んでいたかもしれないな、と。
だから、崇徳天皇、敦盛、安徳天皇、土御門天皇等も同様かと。
と言うか、上記分で拝見した「土御門ミステリー」で書かれていたようなことが実行できるよう、「古代からのネットワーク」のプロジェクトの1つとして、西行や2人の蓮生が手助けし、それらのことを残そうと「歌」に託したのではないか、と妄想。あ、政次も「古代からのネットワーク」の一員っぽいですよね、詳しくは調べてないけど。
昨夜、簡単な年表を作って見てて、何か見えてきそうな感じがしつつ、まだ調べが足りないと思い、さらに書き加えて流れが見えればと表を書いておくことにします。
平治元年(1159) | 直実は平治の乱で源義平の指揮下で働いた後、京都で平知盛に仕えた。 |
仁安3年(1168) | 西行は中四国への旅を行った。このとき讃岐国の善通寺(香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。 |
治承元年(1177) | 西行は伊勢国二見浦に移った。 |
治承4年(1180) | 直実は石橋山の戦い以後、頼朝に臣従して御家人の一人となる。 |
文治2年(1186) | 西行は奥州下りの途次に鎌倉で源頼朝に面会。 |
文治3年(1187) | 西行は藤原俊成に「御裳濯河歌合」の判を請い、藤原定家に「宮河歌合」の判を請うた。 直実は鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の「的立役」を不服とし拒否したため、所領の一部を没収された。 |
文治5年(1189) | 成綱は奥州合戦に紀清両党を従えて従軍し功績を立てる。 |
建久4年(1193) | 直実は法然の弟子となり出家。 |
元久2年(1205) | 成綱は出家し、嵯峨野の小倉山麓に庵を設けて隠遁したと云われる。 (小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。) |
7年前、「清盛七辨天めぐり」をした時に、行基ゆかりの寺院等があったことや「和田岬」を改修していること等から、平氏も秦氏を含めた「古代からのネットワーク」との繋がりがあったように思え、行基の足跡を辿って名前が出てきた頼朝に、のちに臣従した直実もまた繋がりがあったように思えるんですね。
平知盛に仕えた頃に直実がどのあたりにいたのかはわからないし、成綱の「小倉山荘」の場所は不明だが、西行は友を訪ねて嵯峨野の行基ゆかりの「法輪寺」を数回訪ねているし、その南には西行が住んだとされる「西光寺」があり、行基のことをよく知っていたと思われるから、「古代からのネットワーク」の役割を伝えることもしていたのかも、とも。
行基について調べてて、時代を行き来しつつ繋がりが見えるのは、何か伝えたかったことがあるのでは、と、いつも思うんですよね、調べきれずに頓挫することが多いけど・・・。
あ、「片埜神社」でアテルイ・モレが住んでいたのではないかと思える理由だが、ウィキペディアに「当社の祭神について『神名帳考証』には「饒速日命」、『特選神名牒』には「交野忌寸の祖神」と書かれているが、片埜神社側ではこれらを否定している。」とあるものの、合祀された「産土神社」の御祭神「天児屋根命」や、「稲荷社」に「武甕槌神、経津主神、天児屋根命、比淘蜷_」が祀られていても「春日社」ではない。
ということは、藤原氏が乗っ取ることができなかった地域だったと思われるわけで。
だから秀吉はそのあたりのことがわかっていたんじゃないかな、かつて朝廷から「鬼」とされていたアテルイらが住んでいて、「鬼門鎮護の社」として最強のパワーを持っていたことを。
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さすが伊丹市!と思いつつ奈良時代にトリップし、ふと、聖武天皇による「国分寺・国分尼寺」の建立について、何か情報はないかと検索したところ、「武蔵国分寺の四方・八方・十二方」というブログがあった。
(武蔵国分寺の四方・八方・十二方:http://musashi-kokubunji.blog.so-net.ne.jp/)
(国分寺:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA)
まだ拝見している途中だが、真っ先に「七重の塔を中心とする12方位線上に、寺域内の地割や配置を決定する要となるポイントが乗っている」というのを拝見し、すごい!と。
建立にふさわしい場所の選定や、12方位線上に地割・配置できるような技術の伝播には、地方と中央との繋がりがなければ叶わないことですよね?
新しい技術や文化等の伝播が連綿と行われていたので建立が可能となり、「仏教によって国を守り、繁栄させる」だけでなく、一定の地域ごとに情報交換できる場所にする目的もあったのではないか、と思われるわけで。表向きには。
それらにはもちろん「古代からのネットワーク」が絡んでいると思うんだが、ウラ事情として、中央で消された神「瀬織津姫」を守るための「行基プロジェクト」の1つだったのではないかと妄想。
ウラのお仕事だから「正史」には残ってないでしょうけど、「伝承」や国分寺跡等の発掘調査によって、明らかにされるものがある、と思うので、これからも行基の追っかけを・・・と思いつつ、横道にそれてばかりだが。(笑)
広報に「2018年に行基の生誕1350年を迎えます。」と書かれてるのを見て、そうなんや!と驚いたという、ボケボケのファンですんで。(爆)
それは置いとくとして、「大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた」とあるが、多くの国分寺の御本尊は「盧舎那仏」ではなく「薬師如来」だったかと。
行基が刻んだとされる像も「薬師如来」がいちばん多いんですよね、たぶん「ニギハヤヒ」かと・・・。
追記(2017.09.16):
ウィキの「国分寺」に、「国分寺の建設地の選定における条件は、石田茂作の諸国国分寺の調査成果により『東大寺と国分寺』により示されている。」とあり、「都市計画的条件」として、「人家の雑踏から離れている」「人の集合するのに不便でなく、交通至便の地」とあともう1つあるんだが、この2つは相反するような条件のように思うんですよね。
でも、その地に定住している人たちにとっては、「あの場所が最適」と言える候補地が挙げられると思う、が、その地をいきなり提供させるのには無理がありますよね、いくら「国家プロジェクト」だとしても。
ゆえに、連綿と繋がりを持った氏族、すなわち「古代からのネットワーク」が「国分寺建立のプロジェクトチーム」にいて、情報交換や建立を可能にした、と思われるわけで、それが「行基プロジェクト」ではないかと妄想していて。
建立のための協力を得るため、「プロジェクトチーム」は秦氏が香春でのように資金調達としての鉱脈探索を行ったり、現地の人々の繁栄のための情報提供・新しい文化の伝達等が行われたと思われ、のちにそうした情報交換の拠点として、国分寺建立の目的の1つが果たされたのではないか、と。
聖武天皇による「国家プロジェクト」だから、全国的に統一性を持って進めるため、「行基」という名で仏教を広める必要があったのではないかと思われ、よって最低でも3名の「行基」がいた、と、行基のおっかけをしていて感じたわけで。
そして、そういう前例があったから2人の「蓮生」を存在させた、というか、2人の「蓮生」の事跡により、「行基」ゆかりの神社仏閣や伝承等が各地にあることの証となるように思えて。
あ、たとえば、太子の山梨での伝承や、晴明の福島での伝説も同様かと。
(甲斐の黒駒:https://www.google.co.jp/search?q=%E5%B1%B1%E6%A2%A8+%E5%A4%AA%E5%AD%90&oq=%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E3%80%80%E5%A4%AA%E5%AD%90&aqs=chrome..69i57j0.3814j0j4&sourceid=chrome&ie=UTF-8)
(福島稲荷神社:http://www.fukushima-inari.com/history/70.html)
ということで、様々な氏族の技能集団による「行基プロジェクト」があったことが、どこかに残されていればなぁと思う次第で。
そうそう、「ブラタモリ」の高野山編を見てて思ったんだけど、香春岳の一ノ岳のように石灰岩の採掘が行われた場所だったのかもしれないな、と・・・自費留学した空海のスポンサーは秦氏かと思われるんで、「狩場明神」も秦氏ということになると思うが。
そういえば、行基(たぶん関東方面担当)が「手に葡萄を持った薬師如来」を刻んだとされるご縁起が「大善寺」にあるが、「ぶどう」ってたしか石灰岩の地でも育つ、と読んだことがあるような・・・となると、やはり背後には秦氏が・・・。
(大善寺:http://katsunuma.ne.jp/~daizenji/engi.html)
あ、「行基プロジェクト」のルーツは「徐福プロジェクト」じゃないかと妄想しているんですよ、「始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出・・・」のように、各地に移住する人々とともに職能集団とその人たちの「必需品」により開拓がなされ、定住できるようになったのでは。
(徐福:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F)
で、「国分寺」建立以前のプロジェクトの1つが「伊丹」の昆陽寺一帯での開拓かと・・・徐福のことにしても、昆陽寺でのことにしても、やはり秦氏が絡んでるようなんですよね。
(新羅神社考:http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/174.html)
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行基から外れるし、どうやって書こうか・・・何せきっかけがモバゲーだし。(爆)
昨日更新されたモバゲー「料理の鉄人」で、イベ期間内限定の客として「玉藻前」が登場し、「九尾の狐」の女の子姿で、モバゲー「ゲゲゲ」に「殺生石」を置いてるし、「栃木・油揚げ餃子」を販売したら出てくる姿は「九尾の狐」そのもので。
調べきれずに放置してることについては覚えてたが、「玉藻前」っていつ頃調べたっけ?と見てみたら約6年半前で、「玉藻稲荷神社」のURLは書いてるけど詳細がないってことは、よくわからんかったってことやと思うが、芭蕉の句が「意味不明」とされていることや、ホトトギスを違う解釈をされてるサイトに興味をもってたりして、自分のことながら相変わらずやなと。(爆)
その「ホトトギス」について書かれたサイトを再度拝見すると、「土御門上皇」についても書かれていたので拝見した。
(実朝=後鳥羽、式子=順徳、讃岐=土御門:http://www006.upp.so-net.ne.jp/k-tomohiko/hyakuninnsyuuka.htm)
で、式子内親王のとこでふと思い出したのが「テイカカズラ」で、謡曲「定家」で定家が親王の墓に葛となってまとわりつく、という設定は、河勝の子孫とする世阿弥の娘婿・金春禅竹が、歌の詠み人が「定家」により「式子=順徳」となっていることに気付かせるため、書いたものかもしれないな、と。
ま、「定家」はずっと気になってたし、「順徳天皇」や「真野」についても調べてたことがあったからとは言っても、初めに調べてた「玉藻前」からまた遠ざかってて、気になっているという「土御門上皇」のあたりで頭ん中ぐちゃぐちゃ、書くに書けんが書かんと忘れそうで・・・。
う〜ん、「百人秀歌」が「後鳥羽、順徳を慰め励ますための百人愁歌なのではあるまいか」とされるのはわかるとしても、ならば「百人一首」や他の歌は?と思うし、「蓮生」は定家にとってどういう存在?それに「讃岐=土御門」がいまいち把握できてない、と言いましょうか・・・。
ウィキの「西行」のところに、「『後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。」と書かれていた。
ならば、「後鳥羽院」は「西行」に倣って歌に何かを潜ませるために定家に編集させたのではないか、と思うし、俊成・定家が判を請われ、それぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納されたという「御裳濯河歌合」「宮河歌合」にも、判読されるべき何かがあるように思い、それが「新古今集」などにも繋がるゆえ、「古今伝授」なるものが存在したのではないか、と。
が、しかし、それらを見いだせるほどの力が私にはない・・・。
追記(2017.09.16):
「百人秀歌」が「百人愁歌」なのかもしれない、が、定家が絡んでるから、さらに、以前から拝読させていただいている「暗号「山上憶良」」さんや「ブログ 古代からの暗号」さんの解かれた「暗号」が根底にあると思う・・・から、定家はかなり手こずったんじゃないか、と。
なのに、定家の歌について「後鳥羽院御口伝」で辛口の評価をされてて、それもまた何やら意味ありげに思えたりもして。
(千人万首・藤原定家:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/0teika_t.html)
「暗号「山上憶良」」さんによると、「古今伝授の真の三木」のうちの「薜」(まさきのかずら)が、「定家葛」=「薜」によって、薛妙観の「薛」に注目させ、字母歌「たゐに」を意識させることができる、とのことのようで。
(邪馬台国に関わる古今伝授の正体:http://www.geocities.jp/yasuko8787/10-0122.htm)
(万葉仮名「定家」にかかわる隠し事:http://www.geocities.jp/yasuko8787/10-0211.htm)
(たゐに」から読み取れる人名:http://www.geocities.jp/yasuko8787/01-01b.htm)
で、「ブログ 古代からの暗号」さんによると、山上憶良の暗号歌「秋の七草」から、日本人の成立に係わった七種族のうちの「地祇(国神)」とした人々が、「古今伝授の三木」(青柳の糸・松の葉・まさきの葛)に対応している、と。
(謎解き詠花鳥和歌 藤と雲雀(ひばり)ー35「秘事はまつげ(睫)」:http://blog.goo.ne.jp/kotodama2009/e/024576c6ae18f6c5d700d8a8e25d3d6a)
そして「藻」は古今伝授「三木三鳥」の「川菜草」にあたり、「秋の七草」の「葛」と対応し、葛城氏、賀茂氏系の氏族を指す、とのことで、「玉藻前」は「日本人の成立に係わった七種族」のトップ、すなわち「瀬織津姫」なのかも、と。
(字母歌に仕組まれた暗号「たゐに」2:http://blog.goo.ne.jp/kotodama2009/e/d26f1bc3ed7b264c6b678cf7685eefc0)
ただ、秦氏はニギハヤヒのように各氏族を含めた集団名を表す場合もあったと考えているので、「本来は出雲系の加茂神社(鴨氏)や松尾神社まで手中に納めた」とされていることには同意しかねるんだが。
それで言うと、「玉藻前」が「九尾の狐」であるのは、ひょっとしたら「九種族」だったことを表しているのかも、と。
(稲荷神:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E)
「美女」とか他の「権力者」に対し、あることないこと書きたてるのは、それ以前からのことでしょうから、「中国神話の生物」に例えて「退治」というストーリーを作文したように思える、まるで最近よく見るニュースを彷彿させるような・・・。
(九尾の狐:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B0%BE%E3%81%AE%E7%8B%90)