とんでもニャ〜Mの推測3−2
※役にたたない推測ばかりの駄文です。(爆)

2010.08.02(Mon.)

「長宗我部」を読み終えた。

「秦」は、日本の国の安定をはかり世に尽くすことを使命としている一族である。(p310)
この一行を読みたかったのかもしれないなと思ったりした・・・。

信濃国更級郡にいた秦河勝の末裔(長男・秦広国の末裔と思われる)「秦能俊」が、「保元の乱」で「崇徳上皇方に属して敗れ、土佐国に逃亡」し、長宗我部氏の祖となったそうだが、ここで思いだしたことが2つ。
(長宗我部氏の出自:http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/choso/mainvew.html)
(羽田治郎左衛門幸清:http://koskan.nobody.jp/teki_nansin.html)

まず1つめは、河勝の長男・広国は「善光寺如来」が信濃に運ばれる際に随行した(秦巨勢大夫?)か、太子のヨメが信濃入りする際に移り住んだのではないかと思われ、同行したのではないかと思われる河勝の二男・尊良は駿河に留まり、その尊良の子・久能をつてとして行基プロジェクトは駿河を訪れたのではと推測し、2009.03.17分の「久能寺」「秦氏」と「信濃」、および行基たちの繋がりが見えたように思えて。
(善光寺:http://www.d2.dion.ne.jp/~sayu_ii/album/album1/zenkouji.htm)
(久能神社:http://www.ann.hi-ho.ne.jp/oshd/kunouzinzya.htm)
(久能伝説:http://www.ann.hi-ho.ne.jp/oshd/hisayosidensetu.htm)
(元久能寺:http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/jiin/kunouji/kunouji.htm)

2つめは、「秦能俊」が信濃から高知に移るきっかけとなった「崇徳上皇」は、「西行」との繋がりがあったなぁ、と。
(崇徳上皇を偲び来讃した西行法師:http://dekiya.blog57.fc2.com/?tag=%C0%BE%B9%D4)
(西行法師の歩いた道:http://suzu-page.web.infoseek.co.jp/sutoku-saigyou.html)

2009.05.02分に書いた、「天狗の王として金色の鷲として描かれる」ことや、崇徳上皇を祀る「白峯神宮」が「飛鳥井家(藤原北家師実流)の屋敷の跡地」にあることなど、秦氏と北家の繋がりが見えるようで、「崇徳上皇」と「西行」の繋がりは「和歌を通じた交流」以外に、秦氏を介しての繋がりがあったのでは、と。
(愛宕神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(謡曲「松山天狗」:http://www.geocities.jp/kanwada35/matsuyamatengu.htm)
(白峯神宮:http://www10.ocn.ne.jp/~siramine/)
(白峯神宮:http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/shiramine-jingu.htm)

著書では元親が、「源平藤橘」のいずれかの血を入れる必要があったと考えて正室を迎えたのではないかとされているようで、正室の父・石谷兵部大輔光政が清和源氏、土岐氏の流れをくむというのを見ればそう思えるが、「摂津源氏」に繋がることや、正室が「織田信長の家臣、明智光秀の重臣で美濃の斎藤内蔵助利三の異父妹」(p137)というのが気になるなぁ、と。
(摂津源氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5%E6%BA%90%E6%B0%8F)

元親の子・信親の正室が、石谷光政の養子・頼辰の子であることや、斎藤利三の子が家光の乳母「春日局」で、光秀が天海ではないかという説があることなど、徳川と秦氏の繋がりの強さを見るようで。
(春日局:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80)
(長宗我部信親:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E4%BF%A1%E8%A6%AA)

そしてその繋がりの中に、瀬織津姫が見えるように思われるわけで・・・ま、「鉱物」絡みかもしれないが。

そうそう、p156に、長宗我部軍が勝瑞城方との戦いの際、紀伊の雑賀衆が援護したというあたり、興味深いな、と。

あと、長宗我部氏の半農半兵の兵士だった「一領具足」の末裔たちが、「山内家のもとで下士として忍従し、あるいは在地浪人として残り、長宗我部の伝統を守っていく。」(p241)とあり、下士の末裔のひとりに竜馬がいて、著者の祖である親房(元親の弟・島弥九郎)の流れをくむ與助重親の次男・義親が、竜馬たちと活躍されていたそうで(p313)、竜馬が瀬織津姫のことを知っていた可能性はやはりあったのかも、と。

與助重親は「秦神社」の創建を支えた人物であり、長宗我部家の兵法である「水心流」を刀流の基礎とし、「剣詩舞道」を創作したそうで、「伝統芸能」のウラに秦氏あり、かと。

で・・・「国親は三百余騎の軍勢を整え、岡豊城の東にある国分寺に向かい、戦勝祈願をした。国分寺は、天平十三年(741年)に行基が開山した寺である。(p91)」とあり、行基と秦氏を繋ぐ1つのように思え、嬉しく思ったりして・・・。

2010.08.06(Fri.)

日経の朝刊に、佐賀の「高志狂言(たかしきょうげん)」についての記事があり、読みは違うが「高志」といえば行基の父の姓であることや、行基が「越」の人と「日本霊異記」にあることから、ちょっと気になりまして。

「高志狂言」とは、

佐賀県重要無形民俗文化財指定(昭和46年)
千代田町高志地区に、約200年前から受け継がれています。この狂言は、明治初期に途絶えたといわれる鷺流狂言の秘曲「半銭」を伝える貴重な民俗芸能。毎年10月12日、高志神社の秋祭りに奉納されます。
(http://www.city.kanzaki.saga.jp/dentou/index.html)
(鷺流狂言:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E8%A8%80#.E9.B7.BA.E6.B5.81)
(山口鷺流狂言:http://www.city.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/etc/sagiryu3.htm)
(佐渡鷺流狂言:http://www.niigata-kankou.or.jp/sado/kyoukai/event/5934.html)

高志狂言は本来、口授口伝を原則としていたため、現在上演可能な演目は、半銭、ぶす、萩大名・千鳥・太刀奪など約20番ほどがある。
半銭は、鷺の初代仁右衛門宗玄が、徳川家康の命に依り新作した狂言であるが、その秘曲が昭和46年にその伝承者故大坪勘一やその弟子達によって上演された。
(http://www.pref.saga.lg.jp/web/data_ken_minzoku03.html)
(http://www.geocities.jp/rnfxd155/tanbo/tiyodahp/kyougenn/kyougen.htm)

とのことで、新聞の記事によると、家康の「半銭」は僧が地獄に落ちるという内容だったらしいが、作者がそのまま書けずに現存の形になったようで、なぜ家康はそういう内容を示したのかが気になったものの、検索ではわからなかった。

「高志神社」で検索すると「スサノオ」が祀られているようで、「高志神社」「白角折神社」「櫛田宮」が、「抑櫛田三所大明神と申奉るは、高志宮、白角の宮、櫛田の宮也、高志宮、本地阿弥陀如来、白角の宮は不動明王、櫛田宮は薬師如来也」とあり、ふと「熊野権現」を思いだしたが、不動明王と千手観音の違いがあって・・・。
(熊野権現:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%A8%A9%E7%8F%BE)

あと、和歌山県有田川町の「藤並神社」がヒットし、合祀されている「高志神社」の御祭神が王仁博士で、「王仁博士の子孫は、堺の高石に着いて、こっち(有田)へ着たと聞いているそうです。」とあり、行基の父方の本拠地にある「高石神社」は、「和泉名所図絵」には「高志の祖、王仁を祀る」と記されていたそうで、行基とは繋がりそうだが佐賀との繋がりは不明で。
(王仁特番:http://korea-japan.info/cat5/)

福井市の「足羽神社」には、越前國坂井郡の「都那高志神社」が合祀されているようだが、御祭神などの詳細は不明のようで。
(足羽神社:http://www.genbu.net/data/etizen/asuwa_title.htm)

ただ、「足羽神社」の御神紋の「三光の紋」から仙台市の「青麻神社」を連想し、合祀された「都那高志神社」も物部氏との関連があるのかも、と。「青麻神社」は大日如来・不動明王・虚空蔵菩薩ですね・・・。
(青麻神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%BA%BB%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

佐賀というと「與止日女神社」を思い出し、「高志神社」に女神が祀られているような感じがあったので、瀬織津姫に関連する神社かと思ったのだが・・・。
(http://www.geocities.co.jp/hurutashigaku_tokai/trip3.htm)

2010.08.07(Sat.)

ML「西行辞典vol・135」が届き、「今宵こそあはれみあつき心地して嵐の音をよそに聞きつれ」の歌のところに、「宮の法印」(元性法印・崇徳天皇第二皇子)の説明があった。

「崇徳天皇は鳥羽帝と待賢門院の所生で西行とも親しく、西行にすれば宮の法印は孫のような感覚だったのではなかろうかと思います。」とのことで、「崇徳天皇」との繋がりが強く思われ、2日に書いた「秦能俊」と西行はやはり繋がりがあったのではと思われて。

それがわかる事柄が検索では見つからないので、あくまで推測の域を出ないのだが・・・。

で、「たてそめて帰る心はにしき木の千づか待つべき心地こそすれ」という歌も載っていて、「にしき木は東北地方にあった錦木伝説を踏まえた歌です。(中略)この伝説を元にして世阿弥が謡曲「錦木」を書きました。」というあたりが気になって。
(謡蹟「錦木」:http://www.harusan1925.net/0524.html)

ウィキペディアの「錦木塚」に、「伝承も謡曲も小野小町と深草少将との百夜通いの逸話と異口同音であり、袖中抄などから創作されたものと考えられている。」とあるが、平安末期の歌学書「袖中抄」自体が、伝承を小町に結び付けたように思えるのだが・・・。
(錦木塚:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E6%9C%A8%E5%A1%9A)
(錦木塚:http://www.k4.dion.ne.jp/~kami/homepage/kadunomegamiogami8.html)
(百夜通い:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%A4%9C%E9%80%9A%E3%81%84)

「錦木塚」の伝承の、「政子姫」が「五の宮岳に住む子どもをさらうという大鷲よけに、鳥の羽を混ぜた布を織っていた。」というのが気になって検索したところ、そういう布を織るようにと教えたのが旅の僧で、「観音様に願かけしながら布を織っていた」ということで、遡れても飛鳥・奈良時代あたりと思われ、伝えたかったことの主となるものは、「機織りがうまい娘」「五の宮岳」「子をさらう大鷲」かと。
(錦木塚物語:http://www.pref.akita.lg.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1133924660019&SiteID=0)

他のサイトでは、柿本人麻呂の「夏野行くをじかの角のつかのまもわすれず思へ妹がこころを」がリンクされていて、世阿弥は柿本人麻呂のことも伝えたかったのかも、と。
(錦木:http://home.cilas.net/~jikan314/youkyoku/59nishikigi.html)

すなわち、瀬織津姫に繋がる伝承の1つだったのではないかと思えたりするわけで、その伝承の真意を知っていて、能因法師や西行たちは歌を詠んだのでは・・・。

「鹿角三姫」というのがあるそうで、「芦名姫」の話は「馬」が絡んでいて、「五の宮岳」の「だんぶり長者伝説」では「吉祥姫」が出てきて、行基が絡んでいた。
(鹿角三姫:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E8%A7%92%E4%B8%89%E5%A7%AB)
(五の宮岳:http://www17.ocn.ne.jp/~kihan/gonomiyadake.html)
(大日堂舞楽─養老礼祭:http://d.hatena.ne.jp/tenti/20090103)

「七滝明神」に龍神伝説があるようで、やはり瀬織津姫を連想するのだが・・・。
(七滝明神:http://www.akitafan.com/sightseeing/detail.html?data_id=1842)
(七滝神社:http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7734/773402/2037-43frame.htm)

2010.08.16(Mon.)

森氏の著書「倭人伝を読みなおす」を拝見しつつ検索をしていると、「魏志倭人伝」はオオタタネコが書いた「ホツマツタエ」をベースに暗号化して書かれている、とされるサイトがあり、興味深いな、と。
(http://www.geocities.jp/oden1947/)

森氏の著書を拝見したあとで、ゆっくりと拝見して・・・って、全て拝見し終えるには時間がかかりそうだけど、問答形式で書かれているページなどがあり、おもしろそうで・・・ちょっと唸る部分もありそうだが、基本的には頷けるような・・・。

あら、オオタタネコと柿本人麻呂が繋がったが、そうなるとご近所の「陶邑」とオオタタネコとの関連は、奉祭した人々が移住したということ?
(http://www.geocities.jp/oden1947/276.html)

へぇ〜、6日に書いた「越」とは、「香椎」のことで現在の博多近辺?すると行基たちも「香椎」近辺から移住して、地名をコピペした?ならば、仏教に関することは、飛鳥以前に遡ることも可能かもしれない・・・。
(http://www.geocities.jp/oden1947/27.html)
(http://www.geocities.jp/oden1947/turuga.html)
(http://www.geocities.jp/oden1947/kosi.html)

かつて西行や芭蕉たちの歌から、玄界灘近辺を調べたこともあったけど、やはり九州を調べてみよ、というメッセージだったんだなぁと思えて、あれこれ繋がったようでおもしろい・・・が、どうなの?と思う箇所もあったりするようなので、のちに書くことはないかもしれないけど・・・。

2010.02.14に書いた「水沼の県主猿大海」が、「初代藤原氏であると推理します。」とされているあたりに、条件反射で拒絶反応を示し、不比等の思うツボな解釈ではないかと思ったりするわけで。(苦笑)
(http://www.geocities.jp/oden1947/kouyahieifuji77.html)

しかし、初めての出張が博多〜下関だったということに、みょ〜な縁を感じたりする・・・。

ん?何の偶然?上記サイトで「高田」という地名を見て、以前ちゃげちゃんのコンサートに行ったのが「大和高田」だったから、コピペされた地名かなと思っていたら、テレビを見てて広島や新潟にも「高田」があり、奈良と同じくコピペされた地なのかな、と・・・。

2010.08.17(Tue.)

森氏の「倭人伝を読みなおす」を読み終え、「中国の浙江省の地名で倭人と親しい関係があったと中国人がみた越人の国があった。」(p145)とされていることから、浙江省も視野にいれないといけないが、行基のルーツが博多近辺の「越」(香椎)出身だったか、プロジェクトの九州担当の行基が「越」(香椎)の生まれ、あるいは頸城郡の「越」の生まれだった行基もいたのかも、と考えることもできそうで。

昨日拝見したサイト、おもしろくて繋がりがわかったように思う部分もあったが、「卑弥呼」の別名に「宗像三女神」や「兎神」があるのなら、「瀬織津姫」の名が出てこなかったのは何でかなぁ、と。

「ホツマツタエ」に「セオリツ姫ホノコ」が出てきていたし、「吉野ヶ里遺跡」を卑弥呼の都に比定されている方もおられるようで、「與止日女神社」やその神宮寺で行基ゆかりとされる「神通密寺」などが近いことからも、「瀬織津姫」との繋がりが見えるのではないかと思われるし。
(秀真伝:http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-6-6.htm)
(天照大神の十二后と御子:http://www1.ocn.ne.jp/~hotsuma8/k1210.html)

ま、いずれにしても、6日の「高志狂言」と「越」(香椎)の繋がりや、「超カルラ舞う」で描かれている三角形の頂点の1つが佐賀の「馬渡島」で「物部系末羅国造」とあり、「高志狂言」や「越」(香椎)との関連性や、「大伴狭手彦」「佐用姫」との繋がりについてなどの疑問が残るわけで。
(末羅国造:http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou5.html)
(末羅国造:http://www.nihonjiten.com/data/263388.html)
(大伴狭手彦と佐用姫:http://www.geocities.jp/tamatorijisi/higasimatuuragun.html)

あと、「不弥国」「ナガスネヒコ」「ヒメコソ宮」の関連や、それらと卑弥呼や物部氏との繋がりもいまいち釈然としない感じがあり、ナガスネヒコの妹とニギハヤヒがいたのはどこ?神武天皇の東征やナガスネヒコ軍との戦いはどうなの?となるんだが・・・。
(http://www.geocities.jp/oden1947/b24.html)

2010.08.20(Fri.)

最近、関氏の著書を拝見していないなぁと思った頃、手っ取り早くお考えがわかる著書はないかと思っていたところ、「関裕二版 古代史人物小事典」という「古代史謎解きのキーパーソン50」というのを見つけ、購入してまして。

昨日やっと読み終えたのですが、やはりかつて拝見してた頃の疑問、というか、見解の相違などについては、あまり変わらないような感じで、鎌足の暴虐を天智天皇に置き換えているかもしれないことや、秦氏に対する見方は、どうなの?と思ったりするものの、不比等が「日本書紀」に手を加えていると考えておられる部分は近いかなぁ、と。

「行基」について書かれている部分もあり、そこには「紫香楽宮」のことに少しふれておられるが、聖武天皇が「平城京」から「紫香楽宮」「難波宮」などに遷都しようとしたのではないかと思われるあたりと、天皇が「難波宮」にいるにもかかわらず中大兄皇子が「大津京」に移ったことや、天武天皇が信濃に遷都する計画を持っていたようであることに、何か共通点があるように思われ、その背後に秦氏らがいたのでは、と、「古代史謎解きのキーパーソン50」を拝見して思ったのだが。

いずれにしても、歪んだままの歴史を背負って、日本という国は存在していくのかなぁ・・・。


ML「西行辞典 第137号」が届いた。

北まつりの頃、賀茂に参りたりけるに、折うれしくて待たるる程に、使まゐりたり。はし殿につきてへいふしをがまるるまではさることにて、舞人のけしきふるまひ、見し世のことともおぼえず、あづま遊にことうつ、陪従もなかりけり。さこそ末の世ならめ、神いかに見給ふらむと、恥しきここちしてよみ侍りける

神の代もかはりにけりと見ゆるかな其ことわざのあらずなるにて
(岩波文庫山家集224P神祇歌・新潮1221番)


賀茂祭の頃に賀茂社に参詣したのですが、具合良く、少し待っただけで朝廷からの奉幣の勅使が到着しました。勅使が橋殿に着いて平伏して拝礼されるところまでは、昔ながらのしきたりのままでした。ところが東遊びの神楽舞を舞っている舞人の舞い方は昔に見たものと同じ舞とは思えないほどにお粗末で、舞に合わせて琴を打つ人さえいません。これはどうしたことでしょう。いくら末法の時代とはいえ、この事実を神はどのように御覧になっていることだろう。まったく、恥ずかしい気がします。

人の世のみならず、神の代もすっかり変わってしまったと見えることだ。
琴の陪従もいなくなり、祭のことわざ、舞人の振舞も昔のようではなくなったことにつけても
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

この歌から、西行は「賀茂祭」を昔からよく知っていて、祭りの在り方が変わってしまっていることを言っているだけでなく、神の祀られ方が変わってしまったことを言わんとしているようで、その経緯も知っていたと思われることから、さらに瀬織津姫に対する想いが深まったのでは、と。

ゆえに、西行や芭蕉は実方への歌を詠んだのでは・・・。
(能「実方」:http://nourakutosha.blog105.fc2.com/blog-date-20071213.html)
(藤原実方について:http://www.bashouan.com/pkSanekata.htm)

2010.08.21(Sat.)

ヲタさんが買っていた「日本の鉄道をつくった人たち」を、上記の「古代史謎解きのキーパーソン50」と並行して読んでいて、ちょっと気になったことがあったので検索してみまして。

12人について書かれていて、業界人同士の交流があった中で、日本人10人のうちの別の繋がりとして「甲州財閥」があるようで、関西人2人と12人の中にはなかった堤氏を考えると、「甲州財閥」と「近江商人」との繋がりもあったのではないかと思われて。

また、「甲州財閥」のルーツが武田氏にあるようで、武田信玄の守り本尊が「毘沙門天」で、「養蚕」が関わっていることから、行基プロジェクトの末裔なのかも?と、信仰面での繋がりも感じられたりするわけで。

ま、推測でしかないのですが、小林氏の手法を見ていると、道路を作って交流の便を図り、土地を整備して池や田を作って居住できるようにしたという、行基プロジェクトの活動と似ているように思われ、行基たちはさらに鎮守の神社・仏閣を作ったが、現在では電車によってそうした場所への移動がしやすくなっており、どなただったか忘れたけど、駅名に旧跡・名所などを用いたりされていたようで。

山梨には行基ゆかりとされるお寺もけっこうあるから、まったくの無関係とは言い切れないように思われるわけで・・・あ、10人中「子爵」や「伯爵」だった人もおられたようで、そのルーツからも関連性が見られるようで・・・。

井上勝:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%8B%9D
雨宮敬次郎:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E5%AE%AE%E6%95%AC%E6%AC%A1%E9%83%8E
後藤新平:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
根津嘉一郎:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%B4%A5%E5%98%89%E4%B8%80%E9%83%8E_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)
島安次郎:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%AE%89%E6%AC%A1%E9%83%8E
関一:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E4%B8%80
小林一三:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E4%B8%80%E4%B8%89
木下淑夫:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E6%B7%91%E5%A4%AB
早川徳次:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E5%BE%B3%E6%AC%A1_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E9%81%93)
五島慶太:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B3%B6%E6%85%B6%E5%A4%AA

穴水熊雄:http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/anamizu_k.html
電気電力事業草創期の雄:http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/yowa/yowa_contents/yowa_097.htm
甲州財閥:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E8%B2%A1%E9%96%A5
横浜は甲州人がつくった:http://home.k00.itscom.net/kowdow/koudous_essay/yokohama_silkroad.htm
山梨の養蚕のうつりかわり:http://www.kai.ed.jp/webkyou/yousan/uturikawari.htm
カフェテラスで読む武田信玄:http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4924664383.html

2010.08.22(Sun.)

17日に拝見したサイトでは、「不弥国」等と卑弥呼や物部氏との繋がりがいまいち釈然としない感じがあったが、風琳堂さんのブログにそのあたりに関連する記載があって。

宗像祭祀の秘伝を受け継ぐ神官「七戸大宮司」のうち、「第二大宮司は物部福実」とされているそうで、「先代旧事本紀が宗像祭祀の内部にも通じていた」ということは、繋がりがあるからこそ、ではないかと思われるわけで。
(高宮(辺津宮)姫神考─『先代旧事本紀』の伝承:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2010/08/21)

ということは、物部氏系の「水沼の県主猿大海」に無理やり繋げ、祭祀権や神域などを乗っ取って「藤原氏」を確立させた証しと言えそうで、蘇我氏のみならず物部氏も、やはり日本書紀では異なった記述がなされていると考えられ、婚姻関係を結んである程度の乗っ取りを許容するが、それ以上の手出し・口出しをさせないように圧力をかけていたであろう秦氏については、さすがに不比等も沈黙せざるを得なかったのでは。

ただ、私は推測を元に展開しており、詰めが甘いので、それを証明するまでには至ってないけど、乗っ取りによって改竄された事柄について、様々な形で事実を後世に伝えようと秦氏が打った手の1つが、「猿楽」などの伝統芸能ではないかと思えるわけで。

2010.08.26(Thu.)

21日分の追記になりますが、信玄の生まれた「石水寺」(万松山 積翠寺・甲府市上積翠寺町)は行基開創とされてますね。

で、「細川幽斎(藤孝)」と信玄が繋がるようで、行基ゆかりのお寺で生まれたというあたりは、単なる偶然ではないように思われるわけで。
(足利義昭:http://kokindenjunoma.hinokuni.info/2007/05/post_39.html)
(武田流騎射流鏑馬:http://kokindenjunoma.hinokuni.info/2007/05/post_79.html)

義昭と光秀が繋がっているということで、「甲州財閥」のみならず各地の商人を辿ると、「行基プロジェクト」の関連氏族、特に「秦氏」に繋がりそうな感じがして、その繋がりには「古今伝授」が関連しているのでは、と。
(柳沢吉保と江戸の夢:http://kasamashoin.jp/2009/08/post_1074.html)
(柳沢吉保:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%90%89%E4%BF%9D)

「郡山の金魚は柳沢吉保の子の吉里が甲斐の国から国替えでやってきた時に持ってきました。」とのことで、興味深いですね。
(大和郡山散策コース:http://www.eonet.ne.jp/~yowara/koriyama.html)

「郡山城」には「毘沙門郭跡」があって、そこに「柳沢文庫」があるそうだけど、「毘沙門郭」を検索すると「郡山城」しか出てこないようで、詳細が気になる・・・郡山城は「筒井順慶が天正八年(一五八〇)に信長の命で、明智光秀の指導の下、大和支配の本拠地として建てた。」とのことだが・・・。
(http://www.geocities.jp/hqcqg226/koriyama.html)
(http://pinkgin.fc2web.com/castle/04-kinkityugoku/19-yamatokouri/ykouri.html)
(http://woodone3831.web.infoseek.co.jp/kinki/c-1-3-6-13-siro-KOORIYAMA.html)

あ、「毘沙門郭」は秀吉の弟「秀長」が造ったようで、「中井正清、小堀遠州など、築城、造園に長じた人物を多数登用した。」と、いうことで、2010.03.30で調べたことなどから、やはり「古今伝授」に繋がりそうな・・・秀長、ちょっと気になりますね。
(豊臣秀長:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%95%B7)

そういえば、堺市南区高倉台にある「高倉寺宝積院」は行基による開基で、茶室「宝聚庵」や「亀の庭」と呼ばれる庭園は小堀遠州作だそうで。

高台の一角に「宝起菩薩堂」があるが、2008.09.29分で「宝起菩薩」について調べており、小角が金剛山で修業中に現れた「農耕の守護神」だそうで、「大和葛城宝山記」によると、

「葛城地方に祀られる神として、伊弉諾尊、伊邪那岐尊、天御中主尊、葛木二上尊(豊布都霊神と大国魂尊の2神:葛木二上神社との関係が注目される)等を挙げ、豊布都霊神は武雷尊であり、法起菩薩であり、熊野権現でもあると記す。
(大和葛城宝山記:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E8%91%9B%E5%9F%8E%E5%AE%9D%E5%B1%B1%E8%A8%98)

とあり、「布都霊神」でもあるあたりが気になる、というか、2008.09.29にも書いているように「瀬織津姫」に繋がり、小堀遠州と宝起菩薩が繋がれば、上記のことも同様に繋がるのではないかと。

郡山城の「毘沙門郭」には「池」もあることから、和歌山城の「西之丸御殿離れ座敷(聴松閣 水月軒)」のように、祭祀場だったのかも?「国」は「秦王国」と思われるので、17日分とも繋がりそうな・・・。

2010.08.27(Fri.)

ML「西行辞典 第138号」が届き、「こころぶと」が使われた歌として、「磯菜つまんいまおひそむるわかふのりみるめきはさひしきこころぶと」があり、この歌については2010.03.12分にちょこっと書いてまして。

その時の検索では見つからなかったのか、今回の検索で「神代の昔、神功皇后がひきいる馬(神馬)に食べさせた海藻であることから、神馬草となったという説もある。」とのことで、ほぉ〜、と。
(http://www.pref.akita.jp/akisuise/umi/umi_38.html)
(http://www.zukan-bouz.com/kaisou/kassou/hondawara/hondawara.html)

また、豊岡市の「出石神社」では、「3月21日 立春祭 - 神馬藻(なのりそ)と呼ばれる海草を奉納する神事がある。」とあり、「なのりそ」は允恭天皇と衣通郎姫の歌から、「そんな浜藻の歌を人に言ってはならない」=「な告(の)りそ」となったと、日本書紀にあるそうで。
(出石神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(今週の「古文」:http://www.onsenmaru.com/log/log-2002/log-020414D.htm)

西行の歌にもある「海松布」が、敏馬神社や瀬織津姫に繋がりそうなだけに意味深で・・・。

2010.08.28(Sat.)

「カフェテラスで読む武田信玄」をかゆさに耐えながら読み終えたけど、やはり合戦物は苦手だなぁ・・・。

で、長宗我部氏と同じような運命、というか、どうして正室の子よりも側室の子をかわいがり、継がせてしまうのかなぁ、亡くなったのちのこと、考えなかったのかなぁ。
(義信事件:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E4%BF%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6)

ま、それはおいとくとして、信玄の政策が「甲州商人」に繋がるようだけど、2008.10.18に少し書いた「信玄堤」の治水工事や、「商工業振興策」「新田開発」「金山開発」、軍用道路「信玄棒道」を作ったことなど、読んでるとどうも行基プロジェクトと重なって見えたりして、プロジェクトの末裔がネットワークによって技術を向上させ、伝承していたのではないかと思えて。
(信玄堤:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E7%8E%84%E5%A0%A4)
(信玄堤:http://www.zephyr.dti.ne.jp/~bushi/siseki/shingentutumi.htm)
(甲州流河除:http://www.ktr.mlit.go.jp/koufu/yamanashi-joho/dento/shingen/shingen_02.htm)

家臣も、「飯富虎昌」は河内源氏の末裔とも古代の多氏の末裔とも言われているそうで、「真田幸隆」は2009.05.01分で書いてた「滋野一族」のようで紀氏に繋がり、金山掘削の技師でもあった「大久保長安」は祖父が金春流の猿楽師「大蔵氏」で秦氏。
(飯富虎昌:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%AF%8C%E8%99%8E%E6%98%8C)
(真田幸隆:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E9%9A%86)
(大久保長安:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89)

また、「年2回合戦をやっていた計算になる」(p223)とあり、「影武者」がいたであろうとされていて、そのあたりも各地に名を残す「行基」と似ているようで。

「甲州商人」に繋がるものとして、上記の「信玄堤の治水工事」を「19年をかけて困難な大工事を計画性ある忍耐で粘り強く成し遂げた。」(p132)ことなどの他に、法律的規則である「甲州法度之次第」と、道徳的規範である「九十九箇条の家訓」を、信玄自身も尊守したところにありそうで。
(甲州法度之次第:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E6%B3%95%E5%BA%A6%E4%B9%8B%E6%AC%A1%E7%AC%AC)

まだ詳しくは調べてないけど、元親も「長宗我部元親百箇条」を作っているようで、そうした「戦国家法」が各地の商人の基礎となり、そこに行基プロジェクトの関連氏族の末裔が関わっているのかも・・・。
(分国法(戦国家法)一覧:http://www.m-network.com/sengoku/senbnkk.html)
(分国法:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E5%9B%BD%E6%B3%95)

で、「信玄は一つの神社、あるいは宗派にこだわりなくこれを保護したということになる。」「経国上、領民の心を集らんするための手段なら、信玄は何宗でも構わないわけである。」(p145)とあったが、大祝だった諏訪頼重と側室の小見(麻績)氏の娘「諏訪御寮人」を側室としたのは、信濃侵攻のためだけでなく、諏訪家との繋がりがほしかったからではないかと思えて。
(諏訪御寮人:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%BE%A1%E6%96%99%E4%BA%BA)

「武田氏が代々諏訪明神を尊崇していたのは武田氏の古くからの伝統」だそうだし、「麻績氏」について2009.08.13で少々調べており、物部氏に繋がる可能性があるようで、行基プロジェクトの繋がりが見えそうな感じが。
(小見氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A6%8B%E6%B0%8F)
(信玄の信仰:http://home.d03.itscom.net/p-l514/syukyou.html)

その信仰について、やはり瀬織津姫と繋がるように思われ、著書に謙信と飯山市の「小菅神社」に繋がりがあることが書かれていて、「小菅神社」は2009.05.06で書いたように瀬織津姫と繋がりそうで、川中島の合戦は本当にあったのだろうか、と思えて。
(小菅神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E9%9A%86%E5%AF%BA)
(治水家の統:http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/mizu_32/no32_0_cover.html)

あと、三方ヶ原の戦いでも、家康とは水面下で瀬織津姫への信仰による繋がりがあったように思われ、家康と本気で戦うつもりはなかったんじゃないか、とも・・・。
(三方ヶ原の戦い:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84)

2010.08.31(Tue.)

ちーと気になって検索して「痛快にっぽん商人道」を入手した。古書でもかゆくならないのはありがたい。(苦笑)

だけど、少しずつ検索しながらでないとごちゃごちゃになりそうなので、とりあえず最初に書かれていた「函館商人」から。

箱館は伊予の豪族・河野氏の子孫で、加賀に居住していた一族が、蝦夷にいたったと伝えられ、なかでも河野政道は十二の館の代表者の一人として名を後世に伝えられている。この政道の館が箱型だったので、それがいつしか地名になった。もとは宇須岸(うすけし)という。(p17)

とのことで、商人のことよりも、「宇須岸」は「有珠山」との関連があるのかなと気になって検索すると、「有珠とは、伊達市西部の地名で、アイヌ語のウス(ウシ)us=入り江、湾に由来します」とあった。
(http://okwave.jp/qa/q202708.html)

「函館市史」によると、「諏訪大明神絵詞」に「宇曽利鶴子」(ウソリケシ)があり、上記のようにアイヌ語で「ウソリ」は「ふところ」「入り江」「湾」、「ケシ」は「彼方」「しもて」を意味しているそうで。
(http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-01/shishi_03-01-01-00-05~06.htm)
(http://heartland.geocities.jp/sekakumo/notes200410.html)

「昭和新山」では1944年の噴火で「洞爺湖に巨大な渦巻きが発生。」とあり、「内浦湾」でも発生したのか、「有珠」「宇須」「宇曽利」と「渦」に関連性はないのだろうか、そしてアイヌ語の「ウシ」と「牛」の関連はどうなんだろうかと気になったが、いまいちよくわからず・・・。

で、「函館商人」にあった「河野政通」について、「函館市史」によると「伊予の越智氏から出た河野氏の後裔とされ、加賀国江沼郡の出身で、のち流浪して南部の田名部に至り、前述のごとく安東政季に従って渡海し、宇須岸に館を築いた」(『新羅之記録』『蝦夷島奇観』)、とのことで。
(http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-01/shishi_03-01-02-00-05.htm)

「安東氏」は「安倍貞任」の子孫とされているが、「ナガスネヒコ」の兄・安日の子孫という説もあり、「河野氏」との繋がりが古代からのものだった可能性もありそうな。
(安倍貞任:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%80%8D%E8%B2%9E%E4%BB%BB)

関氏の著書だったかな、東国には蘇我氏、安倍氏、秦氏らによる国があった、とされていて、物部氏の足跡も見られ、「道南十二館」の館主の繋がりに、それらの古代氏族のネットワークが見えるようで興味深いですね。
(http://kakizaki-bakuhu.hp.infoseek.co.jp/jinbutu_ka.html#yosikage)

そういえば、時間がなくて「竹尾稲荷神社」には行けなかったけど、2010.02.05で書いた「高田屋嘉兵衛」は、「北風家」の助けを得て蝦夷地経営へ乗り出したそうだが、「安東氏」の系図での祖も、「北風家」の祖も「孝元天皇」で、「北風家」の居住地が秦氏のテリトリーと思われるあたりからも、古代からの繋がりという可能性は考えられそうで。
(北風家:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%A2%A8%E5%AE%B6)
(高田屋嘉兵衛:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B1%8B%E5%98%89%E5%85%B5%E8%A1%9B)
(北風家:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%A2%A8%E5%AE%B6)

「江戸時代、河村瑞賢に先立ち、1639年加賀藩の用命で北前船の航路を初めて開いたのは一族の北風彦太郎である。」とのことで、北風氏のネットワークによって高田屋嘉兵衛は蝦夷に向かったのかも。

「北風一族」で、「中村四郎三郎家や堺の天王寺屋等、姓を変えて存続した家もあった。」とあり、「天王寺屋」といえば2007.02.02に書いた「茶湯の三大宗匠」と称せられた「津田宗及」を思い出し、繋がりに「古今伝授」が見えてきそうな。

「津田宗及」は「石山本願寺の下間丹後(頼宗)の一族と通じていたという。」とのことだが、信玄は「石山本願寺」とは縁戚関係にあって、「一向一揆」で「加賀」が思い出されて・・・。

若狭武田氏の第2代当主「武田信賢」の子「武田信広」が、「陸奥国宇曽利に移住し、南部家の領分から田名部・蠣崎の知行を許され、蠣崎武田氏を名乗るようになった。」のちに、「安東政季」に従って渡海しているということは、やはり古代からのネットワークによる繋がりかと。
(武田信広:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BA%83)

話がそれますが、陸奥国にも宇曽利が?と検索したところ、

・恐山は、藩政時代には宇曽利山(うそりやま)と書かれていました。また、その昔、下北地方を宇曽利郷と呼んでいたこともあったようです。このウソリは、アイヌ語のウショロ(入江とか、湾という意味)に由来していて、これがさらに転化してオソレ(恐)になったものとみられています。
(http://www.mutsu-kanko.jp/guide/miru_01.html)

・大きな人が海に向かって座ったりした尻の跡が湾や入江なので、オソル・コッがオショロやウショロに派生しているのである。それから以後は一般的に入江や湾はウショロ(オショロ)と言って、もはや語源の「尻の跡(オソル・コッ)」までは遡らなかったと考えている。
(http://www.geocities.jp/yezo_ensis/chimeikou.html)

とあり、後者の説と「渦」に関連があるようなないような・・・。

ちなみに、アイヌ語で「渦巻き文」のことを「モレウ文」、「括弧(かっこ)文」のことを「アイウシ文」というようです。
(http://www.hokkaido-jin.jp/zukan/story/03/02.html)

2010.09.03(Fri.)

「痛快にっぽん商人道」で「函館商人」の次に「津軽商人」について書かれていて、日本商工会議所初代会頭の「藤田謙一」氏が「他郷へ出て出世し、それでいて故郷を決して忘れなかった」という名経営者として挙げられていた。(p26)

「日本の鉄道をつくった人たち」で書かれていた「後藤新平」の「四天王」のひとりで、「金光庸夫や堤康次郎、藤山愛一郎らを育てた。」とのことで。

藤田氏は「武将明石全登の末裔で津軽藩士だった父明石永吉」の子だったが、「親戚の藤田正三郎の養子となり、藤田姓を名乗る。」とあり、「明石全登」について検索すると、キリシタン大名で宇喜多氏の客将で、「明石氏」は「応仁の乱以前から、明石地方の支配者として浮上、応仁の大乱で武功をあげ、中央でもその存在を知られるようになった。」とのことで。
(明石全登:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%A8%E7%99%BB)
(明石氏:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/akasi_k.html)

「宇喜多秀家」は正室(豪姫)の実家である加賀藩前田家との繋がりがあり、秀家の父・直家が出仕していた「浦上氏」は「武内宿禰系紀氏の流れを汲むとされる。紀貫之または紀長谷雄の子孫であり、播磨国揖保郡浦上郷(浦上庄)が苗字の地である。」とあり、繋がりが気になるところで。
(宇喜多氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E6%B0%8F)
(浦上氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E6%B0%8F)

藤田氏の他に、第五十九銀行を創設した「大道寺繁禎」、実業家の「樋口喜輔」などの名が書かれており、樋口氏についての詳細はわからなかったが、大道寺氏は加賀前田氏に仕えていた時期があったようで、前回の「函館商人」にあった「河野政通」や北風氏などと同様に「加賀」が絡んでくるあたりや、津軽藩主「津軽信牧」がキリシタンで徳川家と繋がっているあたりは興味深いですね。
(大道寺氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA%E6%B0%8F)
(津軽信枚:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E4%BF%A1%E6%9E%9A)

「函館商人」の追記になりそうですが、「古来より、津軽衆と南部衆は、どういうわけか仲が悪い。」(p23)とあり、「盛岡藩」(南部藩)については書かれていなかったが、甲斐源氏の流れを汲む南部氏も「津軽商人」のルーツと言えそうで。

盛岡藩は砂金、紫紺、良馬の産地であり、城下には大店が並び上方からの下り物取引があって、飢饉の頻発した農村と比べれば経済的には豊かであった。時に町人の生活は華美になり、過度に山車の壮麗さを競う風潮も生まれ、奢移品を禁ずる法令もが出されたという。
それは開府に先立って招聘した近江商人をはじめとする「領外商人」進出による影響が大きい。
うち有力な者は現在の滋賀県高島市大溝周辺から進出した村井氏・小野氏ほか一族で、現在の大阪府から「平野杜氏」を招き、清酒醸造の技術を盛岡の南郊「志和」に伝えた。この技術を今に伝えるのが、「南部杜氏」である。

城下には近江商人のほか、山城(京都府)・大坂(大阪府)・伊勢(三重県)・美濃(岐阜県)・常陸(茨城県)・富山など主に西日本から多くの商人が定住し、後にその末裔は後世に企業や銀行の創設に関わるなど、盛岡の文化・経済を大きく動かすこととなる。

今でも「南部鉄器」として鉄瓶などが有名であるが、その歴史は17世紀中頃からとされ、南部重直が甲州から鈴木縫殿を鋳物師として、京都から小泉五郎七を釜師として呼び寄せたのが始まりである。
(盛岡藩:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E5%B2%A1%E8%97%A9)

南部については2001/07/25分に少し書きましたが、「南部重直」は「茶道に造詣の深い」ことから南部釜(南部鉄器)の製作を進めたようだが、甲州から呼んだ鋳物師と武田氏や「函館商人」との繋がりや、京都の釜師との「古今伝授」による繋がりが見えるようで、定住した各地の商人の末裔と、本にあった「大道寺繁禎」や「樋口喜輔」らとの繋がりもありそうな。

また「南部信直」は、「城から仰ぐ岩手山・早池峰山・姫神山の「南部三山」に大権現を勧請し、城の真北に祖霊を祀る「大光山聖壽禅寺(臨済宗妙心寺派)」を建立した。」とのことで「瀬織津姫」が見えるようで、「南部三山」と「遠野三山(早池峰山、六角牛山、石上山)」の関連が気になりますね。
(http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2009/04/25)
(528・岩木山の鬼神信仰:http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_plain?base=530&range=20)
(http://hwm5.gyao.ne.jp/tukinohikari/1_guide_of_travel/record_of_travel/2005_09_24_iwate.htm)

ききもせず束稲山のさくらの花よし野のほかにかかるべしとは

束稲山から南部三山・遠野三山は見渡せたのでしょうか・・・。

2010.09.04(Sat.)

「西行辞典 第140号」が届き、「この手がしわ・このて柏」を詠んだ歌として、

としたか、よりまさ、勢賀院にて老下女を思ひかくる恋と
申すことをよみけるにまゐりあひて

いちごもるうばめ媼のかさねもつこのて柏におもてならべむ
(岩波文庫山家集260P聞書集255番・夫木抄)

市児(町家の子)の子守りをする年老いた子守り女が重ねて持っているこのてがしは(柏の一種とも女郎花とも)
それは表裏の別がなく、「このでかしはの二面」と言われている通り、私も同じく顔を並べよう。
(他の人と同じく老下女に思いをかけよう。)(このてがしはは児の手柏とかけている。)
(渡部保氏著(西行山家集全注解)から抜粋)

巫女がまつる姥神の老巫女が手に重ね持つ児手柏の面に私の顔を並べよう。
(和歌文学大系21から抜粋)

があり、頼政は「西行とも早くから親しくしていたようです。」とのことで気になって。

2010.04.16分で、「丹波国多紀郡の母上(ハハカミ)神社は、後世には多田満仲の母を祭ったものだと伝えているが、これは古く神名帳の大比売社であって、母上は即ち母神の仮字であるから、神母か巫娼に関係ある神のように考えられる。」と引用させていただいており、瀬織津姫と摂津源氏の繋がりを示す1つかと思われて。
(日本巫女史/第二篇/第三章/第五節:http://docs.miko.org/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AF%87/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AB%A0/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E7%AF%80)

歌にある「うばめ媼」は、和歌文学大系21での「姥女神・姥神といわれた老巫女のこと」と思われ、満仲の後裔で、歌人で藤原俊成などとも交流のあった頼政は、代々瀬織津姫を奉祀していたのではないかと思われるわけで。

あ、「姥女神・姥神といわれた老巫女」で、ふと「宇治橋渡始式」の「渡女」を思い出した・・・。

2009.11.06分にあるように、京都・宇治市の「橋姫神社」は「大化2年(646年)宇治橋を架けられた際に、上流の櫻谷(桜谷)と呼ばれた地に祀られていた瀬織津媛を祀ったのが始まりとある。」ことと関連がありそうで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

そういえば、甲斐の武田家とはこの時代あたりから繋がりますね・・・頼政同様、武田家でも瀬織津姫を奉祀していたのでは。
(武田信義:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%BE%A9)
(以仁王の令旨:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E4%BB%81%E7%8E%8B%E3%81%AE%E6%8C%99%E5%85%B5#.E4.BB.A5.E4.BB.81.E7.8E.8B.E3.81.AE.E4.BB.A4.E6.97.A8)

それらをすべて知っていた西行もまた、瀬織津姫に「思ひかくる恋」を抱き、頼政たちと同じ気持ちであることを詠んだ、あるいは、平家サイドも同じように瀬織津姫に「思ひかくる恋」を抱いていたことを言わんとしていたのかも。

「宇治平等院の戦い」はあってはならない戦いだと、西行は胸を痛めたのでは・・・。

2010.09.05(Sun.)

2010.08.26分で引用させていただいた「郡山の金魚は柳沢吉保の子の吉里が甲斐の国から国替えでやってきた時に持ってきました。」をに話したところ、「テレビで見たけど、熊本にも金魚の産地があるらしいよ。」とのことで調べてみまして。

「日本の金魚の三大産地といえば、東京の江戸川、愛知の弥富、奈良の大和郡山が有名ですが、熊本の長洲町もそれらの地に負けず劣らずの金魚の一大産地なのです。」とあり、「肥後細川藩の奉書によると、すでに約300年前に長洲で金魚を養殖していた記録が残っている。」とあった。
(熊本県長洲町レポート:http://www.sakura-nishiki.com/nagasu-report.html)
(http://mytown.asahi.com/kumamoto/news.php?k_id=44000169999990141)

愛知県弥富町の場合は、「ある大和郡山の金魚商人が、金魚を休ませる池を作って飼育を始めたのが始まりとされています。」とあり、江戸川区の金魚養殖は、「明治時代に始まり、戦後、海外への輸出などを背景に飼育がさかんになったそうです。」とのことで。
(金魚生産地地図:http://mizumono.com/article/0908_kingyo/map.php)

「金魚生産地」がほぼ一直線上にあることや、愛知県の「弥町」という町名が、2010.02.14で「奈良伝授」で出てきた「三河永氏」と同様に、ニギハヤヒやナガスネヒコとの繋がりが考えられそうで、秦氏・物部氏などのテリトリーだったように思われるあたりが気になりますね、戦国時代には秦氏系と思われる「服部左京進」の本拠地であったようだし。
(弥富市:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E5%AF%8C%E5%B8%82)

で、「細川藩」で思い出すのは、三条西実枝から「古今伝授」を受けた「細川藤孝(幽斎)」で、26日に書いたように足利義昭を介して信玄と繋がりそうで、「古今伝授」が商人を繋いでいるように思えて。

さらに「金魚」で検索を続けると、「金魚の原産地は中国江西省で、日本に初めて入ってきたのは、西暦1502年泉州左海の津(現在の大阪府堺市)だった」とあり、やはり「古今伝授」絡みかな、と。
(金魚について:http://www.town.nagasu.lg.jp/kankou/one_html3/pub/default.aspx?c_id=40)
(堺・シリーズ1:http://www.ainet21.com/os1-series2.htm)

そういえば、佐賀の「諸町」には「徐福伝説」があり、「吉野ヶ里遺跡」に近いですよね・・・。
(恋する徐福さん:http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/080jyofuku.html)
(徐福渡来伝承の地:http://kamnavi.jp/ym/jofuku.htm)
(吉野ヶ里遺跡:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1)

2010.09.07(Tue.)

「痛快にっぽん商人道」の「津軽商人」の次が「奥州・平泉商人」で、義経が奥州下向をすすめられたという「金売り吉次」について書かれており、「金売り吉次」のことは2009.03.27分で少し書いているものの、謎が多いようで。
(冠稲荷神社・摂末社(2):http://kanmuri.com/ka/jinjanituite/jinjyashi/05_2.htm)
(金売吉次:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A3%B2%E5%90%89%E6%AC%A1)
(金売吉次伝説を探る:http://www.st.rim.or.jp/~success/kaneuri_kitiji.html)

「源頼義・義家らと平泉・藤原氏との人脈の中で、金売り商人らは活躍していたようである。」(p35)とのことで頼義・義家を検索したところ、頼義の子で義家の弟・義光の子孫が平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏などで、義光の弟・三島四郎親清が「河野親清」とあるようで、大和国の越智氏が清和源氏頼親流(頼親は源満仲の次男で、頼義の父・頼信の同母兄弟)だそうだが、詳細は不明のようで。
(源頼義:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E7%BE%A9)
(「水里溯録」を読む:http://www.s-masaoka.com/HP_yamana/m_festa/diary12.html)
(越智氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E6%99%BA%E6%B0%8F)

河内源氏の本拠地にある「壺井八幡宮」(大阪府羽曳野市壺井)の現在の社殿は、子が大和郡山市に金魚をもたらした「柳沢吉保」が、元禄14年(1701年)に徳川綱吉の命により再建した、というあたり、甲州と源氏の古くからの繋がりが感じられるようで。
(壺井八幡宮:http://tuboihatimanguu.jp/)

で、「越前国の河野村は、南北朝時代に京に上った河野氏の一族が戦に破れ、流浪の末に築いた村といわれる」とあり、「河野親清」について書かれていたサイトに「越智―河野―正岡」とあった。
(河野氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%B0%8F)
(正岡氏の起源:http://www.s-masaoka.com/HP_yamana/m_festa/acib_3.html)

「越智氏」についてウィキペディアでは「「物部大新河」の孫「小市国造小致」が越智氏の始まりとされている。」とあり、「越智氏考」さんでは「「吉備氏」と兄弟氏族である。しかし一方では「饒速日」を元祖とする物部氏が越智氏の元祖であるという説が併存している。(旧事本紀)」とあり、関氏も「物部は吉備である」と捉えておられるようで。
(越智氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E6%99%BA%E6%B0%8F)
(越智氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-15.html)
(物部氏の正体:http://www.shinchosha.co.jp/book/136473/)

コミック「超カルラ舞う」でも、スサノオと物部氏の聖地を結んでできた三角形の中にある「小市国造小致」を「物部系」とされており、物部氏の聖地の1つ「熊野那智大社」が「物部系熊野国造」とあり、熊野別当が統括していたという「熊野水軍」の「鵜殿衆」が「烏止野神社」で「ニギハヤヒ」を祀っている、とあったなぁ、と。
(物部八十氏・越智:http://mononobe.nobody.jp/mononohuyasoudi/clan-dictionary3agyou.html)
(熊野水軍:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%B0%B4%E8%BB%8D)
(烏止野神社:http://kamnavi.jp/mn/kinki/mieutono.htm)
(烏止野神社:http://www.tukinohikari.jp/jinja-mie/ki-udono/index.html)

「行基プロジェクト」も利用したと思われる古代のネットワークが、やはり連綿と受け継がれているようで・・・。

「物部八十氏」のページの「越智」の上に「宇治部」について書かれており、「応神天皇の皇子、菟道稚郎子の名代部とされる宇治部を管掌する伴造氏。」とのことで、京都の宇治や伊勢の宇治山田との関連が気になるところだが、もう1つ気になったのが、山口の「宇部の地名の由来」の1つとして「宇治部」が居住していたことと、「宇治」が「石炭」を意味する、というあたり。
(宇部の地名の由来:http://www1.ocn.ne.jp/~tokonami/zatu/zatu.htm)

あと、「越智」「宇治」が「多氏」と繋がるようで、多氏系「阿蘇氏」の「武凝人」の別名が「宇治部武凝人」とあり、後裔の阿蘇神主「武男」の子のところで、「定足・玉男?(この裔が越智氏になる系図あり)」とあって。
(多氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-31.html)

こちらも「金売り吉次」同様詳細は不明で、「奥州・平泉商人」から遠ざかってしまいましたが、商人たちを結びつけるのは、やはり古代からのネットワークかと。

2010.09.09(Thu.)

「西行辞典 第141号」にあった、「中納言家成、渚の院したてて、ほどなくこぼたれぬと聞きて、天王寺より下向しけるついでに、西住、浄蓮など申す上人どもして見けるに、いとあはれにて、各述懷しけるに」詠んだという、

折につけて人の心のかはりつつ世にあるかひもなぎさなりけり
(岩波文庫山家集187P雑歌・新潮欠番・西行上人集)

その時その時につけて人の心も様々に変わってしまうので、
この世に生きていることも甲斐ないと思わせる渚の院だなあ。
(和歌文学大系21から抜粋)

の、「天王寺より下向しけるついでに」という道程や、家成が「渚の院したてて」すぐに取り壊してしまった経緯が気になり、検索してみたが詳細はわからなくて・・・。
(渚の院跡:http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage943.htm)
(渚院跡:http://www.asahi-net.or.jp/~UZ5A-FRT/map/nagisain/nagisain01.html)

「渚の院」は「惟喬親王」の別業で、MLにあるように「在原業平」とのゆかりのある場所で、2010.01.10分や2010.04.09分などで書いたように、瀬織津姫に繋がりそうな感じがあり、「世にあるかひも」には様々な思いが含まれていそうで。

お手上げ状態でいながら、ふと西行が「佐藤義清」であることと、「道南十二館」の「中野館」の「佐藤三郎左衛門尉季則」は関連があるのかなと読み返したところ、「藤原秀郷の後裔」つまり「北家」のようで、義経とも繋がりそうで。
(道南十二館:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%8D%97%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%A4%A8)
(道南十二館館主の出自:http://kakizaki-bakuhu.hp.infoseek.co.jp/his0202.html)

西行絡み、あるいは瀬織津姫絡みと思われるが、義経といえば芭蕉がふと浮かんだので、系図を書いてみた方がわかりやすいかなと書き出してみたところ、古代からの繋がりの深さが見えるような・・・。
(義経に想いをはせた芭蕉:http://www.pref.fukushima.jp/kanko/yoshitsune/basho.html)

(藤原房前─藤原魚名─藤原藤成─藤原豊澤─藤原村雄─藤原秀郷)

        |-藤原千時─藤原千清─藤原正頼─藤原頼遠─藤原経清─藤原清衡─藤原基衡─藤原秀衡
藤原秀郷─藤原千常─藤原文脩-
                             |
 ──────────────
|
 ─藤原文行─近藤脩行─佐藤公輔─佐藤師清─佐藤師文─佐藤師治─佐藤基治─佐藤継信(義経の従者)
 |-藤原公光─佐藤公清─佐藤季清─佐藤康清─佐藤義清(西行)

(http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/fujiwara/fujiwara_hoku/fujiwara_hoku4.html)



(50)桓武天皇─(51)平城天皇─阿保親王─在原業平
                  |                 |-在原行平
                  |-(52)嵯峨天皇--(54)仁明天皇─(55)文徳天皇─(56)清和天皇-
                  |-(53)淳和天皇                            |-惟喬親王    |
 ─────────────────────────────────────
|
 ─(57)陽成天皇
 |-貞純親王─源経基─源満仲--源頼信─源頼義─源義家─源義国(加賀介)
                   |                       |       |-源義親─源為義─源義朝─源義経
                   |-源頼親-源頼房(加賀守) |-源義綱                         
                   |-源頼光                |-源義光─源頼国─源頼綱─源仲政─源頼政
                                           |-三島四郎親清(河野親清)─河野通清─河野通信(奥州との関わりを初めて持った)

・藤原清衡の母は安倍頼時の娘。(安倍忠良─安倍頼時─安倍貞任─安倍高星─(安東氏へ))
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B8%85%E8%A1%A1)

・源義光の子孫に平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏がある。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%85%89)

・源義国は新田・足利両氏の祖で、末裔には山名氏、里見氏、桃井氏、石塔氏、吉良氏、今川氏、細川氏、畠山氏、斯波氏、一色氏、世良田氏、戸崎氏などがある。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E5%9B%BD)


「古代からの繋がりの深さ」は、瀬織津姫への想いによってその結びつきを成していったようで。

木地師の子として生まれた円空は、「惟喬親王」について教えられていて、そこからネットワークのあることを知たのではないかと思われ、瀬織津姫に出会い、同じ気持ちを持っていたと感じた西行の

おしなべて 花の盛りに なりにけり 山の端ごとに かかる白雲

から、

おしなべて 春にあう身の 草木まで 誠に成れる 山桜かな

と、「惟喬親王」が隠棲した「近江」を偲ぶ気持ちも込めて、伊吹山の「太平寺」の十一面観音の背面に歌を書いたのでは。
(http://shigeru.kommy.com/enkuu20ibukitaihei.htm)

2010.09.11(Sat.)

「超カルラ舞う」での「冥府ライン」が気になり、そのラインにある島根の「猪目洞窟」、和歌山の「花の窟」、淡路島の「伊弉諾神宮」を調べていると、ラインから少しズレるが、淡路島に「石屋神社」があった。
(猪目洞窟:http://www.yuyuyu.jp/ancient/yomi_ana.htm)
(花窟神社:http://www.hananoiwaya.jp/gosaishin.html)
(伊弉諾神宮:http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file/awaji.html)

「石屋神社」が現在地に遷座する前は三対山(城山)にあり、「三対山の北側には伊弉諾尊がかくれ給うた幽宮であると伝承される洞窟があり小祠が祀られている」そうで、「伊弉諾神宮」の元宮だったのが、ラインに乗るように伝承ごと移動させたのかも、と。
(石屋神社:http://www.genbu.net/data/awaji/iwaya_title.htm)
(石屋神社:http://kamnavi.jp/en/awaji/iwaya.htm)

「石屋神社」の御祭神:國常立尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊が、「一説には月読尊とも、伊都之尾張神とも」とあるあたり、気になるところで。

「伊都之尾張神」とは、「魏志倭人伝」にある「伊都国」に祀られていた「尾張神」?と検索すると、「十束剣」の別名「伊都之尾羽張」が「タケミカヅチの父神」とされているようで、「伊都之尾張神」と繋がるかは不明で。
(十束剣:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%9D%9F%E5%89%A3)

ただ、「月」はアイヌ語で「鏡」で、「月は蛇を怨み、蛇を監視し続けているのです。カガミとは月の別名だったのです。」とされているサイトがあり、「十拳剣」の別名に「天羽々斬」もあり、「“羽々”とは“大蛇”の意味」ということや、「一説には月読尊とも、伊都之尾張神とも」は「伊都之尾張神」が「月読尊」でもあるということかも、と思われ、関連があるような感じがするが・・・。
(月が鏡であったなら:http://blog.livedoor.jp/adapt6/archives/51881248.html)

出雲の「斐伊神社」に、須佐之男尊、稲田比売命とともに「伊都之尾羽張命」が祀られており、「伊都之尾羽張命」と「伊都之尾張神」は同じであるならば興味深いですね。
(斐伊神社:http://www.genbu.net/data/izumo/hii_title.htm)

「仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手がそれぞれ白銅鏡、八尺瓊と共に十握剣を差し出して降伏している。」とあることから、「岡県主の熊鰐」と「伊都県主の五十迹手」が同族で、「伊都県主の五十迹手」が「伊都之尾張神」で、「伊都之尾羽張命」であり「十握剣」ならば、「石神神宮」に祀られているということは、物部氏との関連がある、という風にも読めるようで。

尾張氏の祖は「天火明命」とされており、「ニギハヤヒ」と思われるわけだし・・・。
(尾張氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E6%B0%8F)

「筑紫国風土記」には、「伊都国の五十迹手は高麗国(高句麓)の意呂 (いろ)山/蔚山(うるさん)から天降りした日桙(ひぼこ;天之日矛、天日槍とも書く)の苗裔(子孫)なり」とあるそうで、「五十猛命と五十迹手、五十猛命と天日槍命との関連を解明する神社であるかもしれない。」とされているのは興味深いですね。
(大呂神社:http://kamnavi.jp/it/izumo/nitaooro.htm)

17日に拝見したサイトに、「万葉集」に「豊国の鏡山」の歌が10首あることや、「神武天皇」「天日槍」「豊玉姫」などが「熊鰐一族」とされていて。
(続・豊国の鏡山とは:http://www.geocities.jp/oden1947/147-1.html)
(熊鰐と神武天皇:http://www.geocities.jp/oden1947/149-1.html)

「十束剣」に戻りますが、「カグツチ」を切った剣ということから、「超カルラ舞う」で描かれていた「花窟神社」やその近くの「産田神社」が思い出され、「石屋神社」が「冥府ライン」に関連することを示唆しているように思われ、共通するものとして「洞窟」が気になった。
(産田神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A3%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

洞窟(どうくつ、英: cave; grotto; cavern)とは、地中にある、ある程度以上の大きさの空間である。ふつう人間が入ることの可能なサイズ以上のものを指すことが多い。洞穴(どうけつ、ほらあな)とも言う。水平方向に伸びている横穴や井戸状に開口している縦穴(竪穴)などがある。洞口部では日光が差し込むこともあるが、氷河洞・雪渓洞などを除いて奥部は完全な暗黒となる。

内部の気温は、一般に洞窟がある外部の平均気温になり、内部は外部と較べると夏は涼しく・冬は暖かい。また地中であることも含め、一般に湿度が高い。水が湧き出る泉の奥や海面下にも水中洞窟があることがある。

広義には、自然にできた鍾乳洞や溶岩洞(熔岩洞)、海食洞などだけでなく、過去に人間によって掘られ、遺棄された古い穴や隧道跡なども含めることがある(人工洞窟)。

洞窟内に神仏を祭った例が各地にみられ(宮崎県鵜戸神宮、埼玉県橋立鍾乳洞など)、洞窟そのものをご神体とする例も多い。

用語としての洞穴と洞窟は、洞窟の方がやや多用される感もあるが、とくにこだわられない。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E7%AA%9F)

とのことで、上記URLを見ていると全国的にあるようで、なかでも「山口県美祢市」に多くあるように思われ、「鍾乳洞」にも「冥府」に繋がるような思想はあったようでも、「冥府ライン」を形成するには条件がある、ということなのかな、と・・・。
(家族でお出かけ鍾乳洞:http://www1.plala.or.jp/CUE/cave_00.html)
(おもしろ山口学:http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/mag/html/20080725/02omoyama.html)

「幽宮」としての「洞窟」を見た場合、「古墳」と同じような意味合いを持つのではないかと思われ、「古墳」での祭祀には「再生」への祈りが込められ、それは月読尊の信仰「月神信仰」と同じなのでは、と。

検索していると、2003/04/11分などで書いた「虚空蔵信仰」に繋がるようで、「鉱山と虚空蔵信仰は明瞭に結びついている。」とのことから信玄を思い出したり、「自然が作り上げた墳墓にして子宮がここにある。」「洞窟はそのまま、なにものかが生まれ出てくる子宮となる。」とのことから「安福寺横穴群」を思い出したり・・・。
(虚空蔵菩薩と鉱山神:http://www.d1.dion.ne.jp/~janis/kenkyu4.html)
(霊獣『死者の書』完結編:http://www.shinchosha.co.jp/shincho/tachiyomi/20090407_2.html)

「虚空蔵信仰」によって修験者たちが鉱物を採掘した跡が「人工洞窟」ということになるが、その鉱物の中から「剣」などが作られるわけで、上記の「十握剣」に関連する氏族は「虚空蔵信仰」「月神信仰」などと繋がる、ということかと。

「豊国の鏡山」は秦王国の「月山」(修験者の山)と考えられ、秦氏の技術の1つに「鉱物採掘」が挙げられ、物部氏もまた同様かと思われ、すなわち海人族による呪術が施された1つが「冥府ライン」のようで、その背後には瀬織津姫やニギハヤヒの存在がある、と。

雲の峯 いくつ崩れて 月の山

芭蕉が詠んだのは山形の「月山」ではなく「豊国の鏡山」だったのかも?「月山神社」の御祭神は「月読尊」で、繋がりがあることを言いたかったのかも?
(芭蕉について:http://www.bashouan.com/pzBashous.htm#gassan)

山形の「月山」は「犂牛山」と言ったそうで、「犂」で検索すると「プラウ」が転送され、

クルックド・プラウ
ギリシャ人は、その名の通り切断面が前方に曲がっているクルックド・プラウ(Crooked plough)でプラウの構造を進化させたようだ。プラウの切断面はしばしば青銅で、後には鉄で覆われていた。金属は高価であったので、戦が始まればそれを溶かして打ち直して兵器に作り変え、平和になればまたそれを元に戻した。

この事はおそらく、聖書に見られる「汝の刀をプラウ・シェアに打ち直した(en:swords_to_ploughshares)」という文章の元になったと思われる。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%82)

とあり、「山幸彦が海幸彦の釣り針を無くしてしまったため、自分の十拳剣を鋳潰して大量の針を作っている。」に似ているなぁ、と。

虚空蔵菩薩
三昧耶形は宝剣、如意宝珠。種子(種字)はタラーク。真言は「オン バザラ アラタンノウ オンタラク ソワカ」や、記憶力増進を祈念する修法「虚空蔵求聞持法」で用いられる「ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」などが知られる。

「虚空蔵」はアーカーシャ・ガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。
(中略)
元々は地蔵菩薩の地蔵と虚空蔵は対になっていたと思われる。しかし虚空の空の要素は他の諸仏にとって変わられた様で、また地蔵菩薩の独自の信仰もあり、対で祀られる事はほぼ無い。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E7%A9%BA%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9)

雄勝郡の「上院内観音堂」で、「円仁は、雄物川の水源神を伏せて仏に置き換えるとき、地蔵尊がふさわしいと判断して彫像したのだろう。」と思われ、「虚空蔵菩薩」と「対」として祀られるべき「地蔵菩薩」、すなわち瀬織津姫が見えてくるようで・・・。
(http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_tree?base=533&range=1)

2010.09.14(Tue.)

「痛快にっぽん商人道」の「奥州・平泉商人」の次が「山形紅花商人」で、芭蕉が尾花沢で世話になったという俳人・豪商の「清風」について書かれていて、伝説もある人物らしい。
(清風伝説:http://www.city.obanazawa.yamagata.jp/2100.html)

「清風」は鈴木姓で、尾花沢鈴木家の祖は、平泉に逃れた源義経の重臣「鈴木三郎重家」であるといわれているそうで、「清風」はその分家筋の「島田屋」二代目の長男だそうで。
(鈴木清風について:http://www.bashouan.com/pxSeihuu.htm)

「鈴木重家の子が伊予土居氏の祖となった」という伝承があるそうで、「伊予土居氏」は「伊予国の豪族河野氏の支族」とあるが、「伊予の土居氏には越智氏、河野氏の流れを汲む一族と穂積氏、紀伊鈴木氏の流れを汲む一族とがある」とのことで、「土居清宗」(土居清良の祖父)は後者にあたるそうだが、「源義経に仕えた鈴木重家の子の清行が、河野氏に預けられ土居氏を名乗ったという伝承があるが、伊予西園寺氏に仕えた武士の子孫とする説もある。」ともされていて。
(藤白鈴木氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E6%B0%8F)
(伊予土居氏:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/doi_k.html)
(土居清宗:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B1%85%E6%B8%85%E5%AE%97)

義経や、河野氏あるいは穂積氏、あるいは伊予西園寺氏との繋がりが感じられるわけだが、つまりは源氏・物部氏・藤原北家の繋がりと言い変えられそうで、今までの商人の繋がりと近いものがあるように思われ、9日の系図と重複する部分もあって。

(三島四郎)親清─(四郎伊予権介)通清─(四郎)通信─(九郎佐衛門)通久─(上野介)通継─(土居孫九郎)通成
(伊予土居氏:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/doi_k.html)

藤原房前─藤原真楯-----藤原実宗─西園寺公経(西園寺家の実質的な祖とされている)

鈴木重家─土居清行-----土居重宗─土居清宗(宗雲)─土居清晴─土居清良-----鈴木清風
(土居清良:「西園寺十五将」のひとり・「清良記」の著者)
(土居清良:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B1%85%E6%B8%85%E8%89%AF)
(饒速日命:http://members2.jcom.home.ne.jp/sengokubusyou/nigihayahinomikoto3.htm)
(宇和島市・清良神社:http://blog.livedoor.jp/awatennbou/archives/440420.html)

著書によると「山形方言の「ンダサケェ」の「サケェ」は、上方の「ソヤサカイ」の「サカイ」が由来らしく、北陸、京都に通じる言葉も少なくない」(p39)とのことで、関西の商人の影響力が強かったようで。
(紅花商人の街、江戸時代の山形:http://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/djst/ymgt/)

あ、上記の「清良神社」を検索していた時、茨城県大洗町の「大洗磯前神社」の「清良神社」がヒットし、「清良神社(小幡宥圓)」とあったが、「清良神社:瀬尾理津姫」とされているブログがあって気になり、「大洗磯前神社」については2008.11.01分に書いたことがあったが、詳細は不明で・・・。
(大洗磯前神社:http://www.genbu.net/data/hitati/ooarai_title.htm)
(大洗磯前神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%97%E7%A3%AF%E5%89%8D%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(日立:http://blog.goo.ne.jp/wta-ra/d/20100107)
(酒列磯前神社:http://sakatsura.org/)

個人的には「大洗磯前神社」がニギハヤヒの宮、「酒列磯前神社」が瀬織津姫の宮という感じがするような・・・ふと茨城の「磯部稲村神社」や群馬の「貫前神社」を思い出したり・・・。
(桜川磯部稲村神社:http://www18.ocn.ne.jp/~isobe/access/access02.html)
(貫前神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%8B%E5%AE%AE%E8%B2%AB%E5%89%8D%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

あと、ウィキペディアの「藤白鈴木氏」に、「全国に散らばる穂積姓鈴木氏中でも本家筋とみなされている家で、後述する雑賀の鈴木氏も三河の鈴木氏もいずれも藤白の鈴木氏の分家とされている。」とあるのは興味深いですね。

今回も繋がりの中に「瀬織津姫」が見えてくるようで・・・ちなみに「藤白神社」は行基ゆかりの神社です。
(藤白鈴木会:http://www.iris.dti.ne.jp/~min30-3/magoichi/fujisiro.htm)
(浜松鈴木さん楽会:http://suzukigakkai.hamazo.tv/index_2.html)

2010.08.31分での河野氏の子孫、武田氏、北風氏による北前船の航路の開拓、源義国(加賀介)や源頼房(加賀守)などを繋いだのは、「加賀鈴木氏」なのかも。そして秦氏も・・・。
(烏紋:http://www.harimaya.com/kamon/column/karasu.html)

鈴木重家に関する神社など
鈴木氏系譜(孫一の館):http://www.iris.dti.ne.jp/~min30-3/magoichi/suzukikeifu.htm
いわき市・四倉諏訪神社:http://www.suwajinja.jp/yuisyo.htm
尾花沢市・諏訪神社:http://www.dewatabi.com/murayama/obanazawa/suwa.html
宮古市・横山八幡宮:http://www.rnac.ne.jp/~naho/8man/8man.htm
室根神社の特別大祭(舞根神社(瀬織津姫神社)):http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-5-10.htm
熊野大神の原像(室根神社):http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_plain?base=577&range=20
穂積氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-38.html
陸奥の塩竈社家2:http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/siogama-j/siogamaj2.htm
望月氏と瀧氏はどこから来たか?:http://ryuso.info/n/n085_095.htm

2010.09.16(Thu.)

「西行辞典 第143号」は「斎院・斎王・斎宮」の歌で、「斎宮は伊勢の斎王のこと、斎院は賀茂社の斎王のこととして区別されます。」との説明があった。

しかし西行は、「・・・菩提院の前の斎宮にまゐりたりけるに・・・」や「斎宮おりさせ給ひて本院の前を過ぎけるに・・・」など、「賀茂斎院」を「斎宮」とされている歌もあるようで。

そのことについて、MLに「斎宮は斎院の誤りですが、当時は誤りとは言えなかったのかも知れません。」とされていたけど、「斎院おはしまさぬ頃にて、祭の帰さもなかりければ、紫野を通るとて」と使い分けているように思え、西行は「瀬織津姫」に奉仕する「斎王」の御所として「賀茂斎院」を「斎宮」としたのではないか、と。

ゆえに、

伊勢に斎王おはしまさで年経にけり。
斎宮、木立ばかりさかと見えて、
つい垣もなきやうになりたりけるをみて

いつか又いつきの宮のいつかれてしめのみうちに塵を払はむ
(岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1226番・夫木抄)


伊勢神宮に斎宮がおいでにならなくて年を経たことだった。
斎宮御所は木々の茂っている木立のみが、
そうか、斎宮のいられたところかと思われるようになっていて、
土塀もないのと同じように荒れていたので

いつの日にかまた、斎宮が心身を清めて神に奉仕され、
注連縄の張られた聖域のなかの塵をはらうか、
その日の一日も早く来ることを願っている。
(渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)

の歌の「塵を払はむ」は、伊勢のすり替えられた御祭神が糺されることのように思われ、本来の御祭神に本来の「斎王」が奉仕することを願っているように思えて。

だから、「賀茂斎王」が不在の時や「退下」されたのちには、「斎院おはしまさぬ頃にて」のように「斎院」とし、奉仕されている時には「斎宮おりさせ給ひて本院の前を過ぎけるに」のように「斎宮」としたのでは、と・・・。

2010.09.18(Sat.)

「痛快にっぽん商人道」の「山形紅花商人」の次が「越後商人」だが、「冒険派」(p46)と「生真面目派」(p54)に分かれていて。

江戸に出てきた越後出身者で、成功した職種でいちばん多かったのが、手堅く堅実で冒険をしないという「風呂屋」だったそうだが、それとは対照的に、大きなリスクがありながらも「鉄砲」で稼いだ「冒険派」の代表が、大倉財閥の設立者・大倉喜八郎だそうで。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%80%89%E5%96%9C%E5%85%AB%E9%83%8E)

「生真面目派」としては、家業が機織りという「男谷検校」と「鈴木義三治(俳号・牧之)」が挙げられており、「男谷検校」は高利貸しで財をなし、「御家人株」を買い与えられた孫が左衛門太郎(小吉)惟寅で、その子が「勝海舟」だそうで。
(御家人株:江戸時代後期、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得すること。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%AE%B6%E4%BA%BA))
(男谷信友:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E8%B0%B7%E4%BF%A1%E5%8F%8B)

「鈴木義三治(俳号・牧之)」は「北越雪譜」などを発刊した人だそうだが、2人ともそれら以外については探すことができず、今までのような繋がりを見いだせなかったので、検索方法を変えてみることに。
(鈴木牧之:http://snow-country.jp/contents.php?id=162)

「越後商人」の検索で面白く思ったのは、「近江商人」とともに「深谷宿商家」でヒットしたことで、「深谷宿の商家は地元商人と,江戸時代の中期頃から近江商人と越後商人が進出して,更なる発展をしました。」とのことで。
(http://www.asahi-net.or.jp/~dk3s-tkmt/nakasendou.html)

小樽の倉庫ができた明治23〜28年頃、「小樽では二派の商人が勢力を競っていた。近江商人と越後商人、これに対抗した第三勢力が加越能(かえつのう)(加賀・越前・能登)商人だ。この倉庫の建て主は、新興勢力の存在を誇示するため、あえてこういう造りにしたらしい。」とのことで、繋がりが強いんだなぁ、と。
(小樽市博物館:http://www.heritaging.com/1000/0046.html)

また、「亀田鵬斎」(江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人)が、旅の途中の出雲崎で「良寛和尚」と出会い、その縁からか、それ以前の縁からか、「3年にわたる旅費の多くは越後商人がスポンサーとして賄った。」そうで、賄った理由を知りたいところだが詳細は不明で。
(亀田鵬斎:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%94%B0%E9%B5%AC%E9%BD%8B)
(良寛:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E5%AF%9B)
(石井神社:http://www.genbu.net/data/etigo/isii_title.htm)

「亀田鵬斎」と一緒に旅したという「酒井抱一」が気になりますね、「酒井氏」は「三河国の在地領主[土豪]で、松平氏、徳川氏の最古参の譜代筆頭で、松平氏と同族という。」とのことで、そのあたりに何かありそうな。
(酒井氏:http://members2.jcom.home.ne.jp/sengokubusyou/sakaisisyou.html)

あと、「青芋」は「越後を代表する産物」とあり、「魏志倭人伝」にある「種禾稲紵麻」の「苧麻」(からむし)と同じと思われ、2009.03.25分などで書いた宮城の「青麻神社」は、「社家の遠祖穂積保昌が山城国よりこの地に来て里人に苧(からむし=麻の一種)の栽培を教え」たとされていて、物部氏や瀬織津姫に繋がりそうで。
(青芋:http://proto.harisen.jp/mono/mono/aoso-echigo.htm)
(青麻神社:http://www.melon.or.jp/melon/contents/Section/Water/wg/profiles/profile024.html)

「摂津天王寺の青苧座が最大のものだったようで本所は『実隆公記』で有名な京都の三条西家です。」とのことだが、「三条西家」といえば「古今伝授」を思い出し、びみょ〜に絡んでいるんだな、と。
(リアル!戦国時代 Vol.45:http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/5469/real045.html)
(三条西家:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E8%A5%BF%E5%AE%B6)

2010.09.20(Mon.)

先月末の「渦」が頭の中に残っていて、テレビで竜巻を人工的に作っておられた時の水面に「渦」ができていたり、コミック「陰陽師7」を読み返していたら「雲珠」があって、またもや気になってきて。

「雲珠」で検索したところ、「雲珠」というのは唐鞍(からくら・唐様の鞍)に付ける宝珠形の飾りの意味」とあり、「馬具」と「桜」が主にヒットし、他には「椿」や「文様」があった。
(出土した馬具:http://www.okayama-u.ac.jp/user/arch/sbz4gaihou/nimabagu.htm)
(馬具 雲珠(うーず):http://home.e-catv.ne.jp/ja5dlg/idai/idai1.htm)
(金銅製辻金具と雲珠:http://www.iki-haku.jp/exhibit/index.html)
(朝日天神山古墳:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3)
(飯綱神社の奉納絵馬額:http://www.ac.cyberhome.ne.jp/~t-sekiwa/newAhtm.htm)
(満開の雲珠桜:http://www.thekyoto.net/kyoukyou/0804/080417_02/)
(雲珠:http://aquiya.skr.jp/zukan/Camellia_japonica/Camellia_japonica_Uzu.html)
(雲珠緞子:http://www.viva-edo.com/komon/lay_uzudonsu.html)

「雲珠桜」について、「平安時代の唐鞍の尻繋(しりがい)の所の飾り金具である雲珠に似ているところから、雲珠桜というのです。」とあった。
(「雲珠桜」は鞍馬山に咲く桜の総称:http://www.webslab.com/shinchaku/ohara/kmtg01.htm)

「飯綱神社」創建の話には、「太田道灌」「臼井城」「十一面観音菩薩」などが出てきて、何かありそうな感じが。
(飯綱神社:http://5.real-sound.net/~tetsuyosie/chiba/yachiyosi/iitsuna_kayada/iitsuna.html)

「馬具の雲珠と地名の鞍馬との縁」により、京都鞍馬山に咲く桜を「雲珠桜」というそうだが、「唐鞍」が「とくに賀茂祭、春日祭の勅使や、一部の大社では、祭礼の威儀馬としても使用された。」ということで、「鞍馬山」「馬」「桜」「賀茂祭」で「瀬織津姫」を思い出すのだが・・・。
(雲珠桜:http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/18799/m0u/%E9%9B%B2/)
(唐鞍:http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%94%90%E9%9E%8D/)

「鞍馬山」といえば「義経」を思い出し、芭蕉を思い出して・・・あ、茨木市の「磯良神社」の「井保桜」は、鞍馬の「雲珠桜」と同じ品種?「井保桜」が「疣桜」ならば、芭蕉の歌の「疱瘡」などから「ニギハヤヒ」を思い出すわけで。
(磯良神社:http://bittercup.blog81.fc2.com/blog-entry-326.html)

「唐鞍」といえば、「東大寺」近くにある「手向山八幡宮」には、国宝の「唐鞍」があるようで、「雲珠」もあるんですね・・・「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」の手向山で、「古今和歌集」にある「道真」の歌・・・。
(手向山八幡宮:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%90%91%E5%B1%B1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE)

あ、「手向山八幡宮」の「唐鞍」が一般公開され、5月に「雲珠に関するシンポジウム」もあったんですね・・・東大寺といえば行基も絡んでくるので、行きたかったなぁ・・・。
(http://osaka.yomiuri.co.jp/nara/news/20100430-OYO8T00391.htm?from=iphoto)

話を戻しますが、「古今和歌集」の道真の歌というのが気になるし、コミック「陰陽師7」では、道真を追う「白馬に乗った女神」を見た時に「雲珠が・・・」という呟きがあって、その場面でいつも「瀬織津姫」を思い浮かべていて、関連がありそうで。

また、道真といえば「天穂日命」の末裔とされているが、滋賀の「馬見岡綿向神社」の1柱で、「会津商人」に繋がる「蒲生氏郷」ゆかりの神社で。
(馬見岡綿向神社:http://www.diana.dti.ne.jp/~tsuku/rekisi/index.html)

ということで、ここから「痛快にっぽん商人道」の「会津商人」について書こうと思うのですが、「馬見岡綿向神社」の御祭神は天穂日命、天夷烏命、武三熊大人命とされていて、「武三熊大人命」で検索すると「椎植神社」に、「祭神武三熊大人命は、多賀大社の曽孫、即ち伊勢大神宮の孫であり、綿向山大嵩神社天穂日命の子で、西の宮天夷鳥命の弟に当る。」とあったが、それ以上はわからなくて。
(椎植神社:http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/gamo/watamuki.html)

で、「馬見岡綿向神社」の参道周辺にあった「若松の杜」から、領土であった地名を「松坂」や「若松」にしたそうだが、かつて道真を追ってる時にも「松」が出てきてたので、その関連が気になるところだが、やはり詳細はわからず・・・。
(蒲生氏郷:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E6%B0%8F%E9%83%B7)

氏郷が「築城と同時に城下町の開発も実施」した具体例として、「旧領の日野・松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。」ことが挙げられており、「会津商人」は「近江商人」の影響を強く受けたようで。

さらに、氏郷が「キリシタン大名」であったことや「茶湯」「和歌」に通じていたこと、「会津若松城」は「甲州流の縄張による城造りを行い、城を氏郷の幼名(鶴千代)に因み鶴ヶ城と名付く。」とのことなどから、「甲州」や「堺商人」との繋がりもあったのでは、と。
(会津若松城:http://www.geocities.jp/senokatsu555/hobby/photo/castle/021aiduwakamatsujyo/aiduwakamatsujyo.html)

「近江蒲生氏」が「藤原秀郷を祖と称する藤原氏の一族。」とのことで、今まで書いてきた商人たちと同じように、昔ながらの繋がりがベースにあったのでは・・・。

                                |-藤原頼俊─藤原季俊─藤原惟俊─藤原惟賢(領江州蒲生俊賢)-----蒲生氏郷
藤原秀郷─藤原千時─藤原千清─藤原正頼─藤原頼遠─藤原経清─藤原清衡─藤原基衡─藤原秀衡(奥州藤原氏)
(近江蒲生氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E6%B0%8F)

2010.09.21(Tue.)

「痛快にっぽん商人道」は、第二章「関東・中央部編」に入るのだが、ここからは少しはしょりながら書こうかな、と。

まず「水戸商人」(p68)ですが、特産品で全国的に成功したのは、明治に入ってからの「納豆」で、「笹沼清左衛門」によるものだそうだが、「糸引納豆」は「義家」が奥州で発見し、「伝説の普及者」となっている(p73)そうで、商人と源氏の繋がりが感じられますね。

で、次は「銚子商人」についてで、「銚子商人」によって全国に広まった「醤油」は、「元禄13年(1700)、紀州国本田郷広田村出身の浜口儀兵衛が、現在の銚子市へ渡ってきて、ここで関西醤油の技術を使い、今までにない味を考案。」(p75)したことによるものだそうで。

初代「浜口儀兵衛」は「紀州湯浅の醤油商人である浜口分家・七右衛門の長男」で、「初代・濱口儀兵衛が「山笠にキ」の暖簾を考えるが、紀州徳川家の船印と同じだったため、キを横向きにした所、サと読めることからヤマサとした。」(現・ヤマサ醤油)そうで。
(浜口儀兵衛:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%B1%E5%8F%A3%E6%A2%A7%E9%99%B5)
(ヤマサ醤油:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%B5%E9%86%A4%E6%B2%B9)

だが、「銚子に醤油が伝わったのは飯沼村の豪農でヒゲタ醤油の始祖、田中玄蕃が1616年(元和2年)摂津西宮の真宜九郎右衛門から醤油の製造法を伝授されたのが始まりとされる。」とあり、ヒゲタ醤油初代の「濱口吉右衛門」は「ヤマサの初代の濱口儀兵衛の兄」とあって。
(田中玄蕃:http://www.choshikanko.com/100sen/data/0084.html)
(ヒゲタ醤油:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B2%E3%82%BF%E9%86%A4%E6%B2%B9)

「濱口吉右衛門」と「田中玄蕃」と「真宜九郎右衛門」の繋がりが検索ではわからなかったが、「田中玄蕃」が「総武鉄道を銚子まで開通させた人物として知られる。」ということから、「甲州商人」や2010.08.21分の「日本の鉄道をつくった人たち」などとの繋がりも見えそうで。

「湯浅醤油」の起源は、1254年に紀州由良禅寺「興国寺」の開祖「法燈円明國」が「金山寺味噌」を中国から持ち帰り、「金山寺味噌」の醸造の際に染み出る野菜から余分な水分(たまり)から、「新しい醤(ひしお)」として改良して「醤油」ができたとされている。
(湯浅醤油の歴史:http://www.yuasasyouyu.co.jp/rekishi.htm)

「湯浅醤油」のことは以前「明恵」について検索した時に見たことがあり、「明恵」の母方の祖父「湯浅宗重」が「北家」のようで、2010.09.14分の「室根神社」に関連する人物に「湯浅権太夫玄晴」がいたり、2001/10/30分での「銀座」の頭役として「堺商人」の「湯浅常是」がいたり、「細川氏」と繋がる「湯浅宗正」がいたりして、その人々の系図としての繋がりは探せなかったが気になるところですね、湯浅には行基ゆかりの「深専寺」などがあるし。
(細川勝之:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%8B%9D%E4%B9%8B)
(深専寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E5%B0%82%E5%AF%BA)

「勝海舟」は「越後商人」の末裔とあったが、「銚子商人の援助を受けた海舟が、同様の野田商人の末裔に感銘を与えた。」(p81)ことや、「函館商人」の「浅田利右衛門(渋田利右衛門?)」によって「灘の酒造元、加納治左衛門や醤油の醸造元らが紹介され」たことなど、商人の繋がりはやはり強いもののようで。
(浅田利右衛門:http://byp.web.infoseek.co.jp/rintarou2.htm)
(渋田利右衛門:http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/jimbutsu_ver1.0/b_jimbutsu/shibuta_rie.htm)

「勝海舟」の友人に「塚本定次」がいて、その人が「芭蕉は近江商人の始祖だ」と語っていた(氷川清話)、とされているあたり、興味深いですね。
(松尾芭蕉の「商人訓」から三方良しの近江商人が始まった:http://utorongo.otemo-yan.net/e207245.html)
(塚本定次:http://kotobank.jp/word/%E5%A1%9A%E6%9C%AC%E5%AE%9A%E6%AC%A1)
(勝海舟:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F)

2010.09.23(Thu.)

「痛快にっぽん商人道」で「勝海舟」が好きだった人物として、「山中鹿之助」についてが「摂津商人」のところに書かれており、「山中鹿之助」の子孫が伊丹の酒造家「鴻池家」とのことで。
(山中幸盛:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E9%B9%BF%E4%BB%8B)
(鴻池財閥:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%BB%E6%B1%A0%E8%B2%A1%E9%96%A5)

勝海舟は「山中鹿之助」を好きだったことから、「摂津商人」の「鴻池家」との交流があったのかが気になるところだが、そのあたりについては書かれておらず、みょ〜に勝海舟が気になって関連する書籍を検索して購入して。

「えべっさん」では「商売繁盛で笹持ってこい」と賑わうが、「瀬織津姫」に関連すると思われることから、商人と勝海舟の繋がりに「瀬織津姫」の存在があったのではと思われ、そのあたりが購入した本に書かれていたら、と・・・。

2010.09.24(Fri.)

昨日届いた板倉聖宣氏の「勝海舟と明治維新」を一応読み終え、とりあえず気になった人物を検索してみようかなと、「勝海舟」に商人たちを紹介したという「渋田利右衛門」について再度調べてみると、「此人の先祖は南部田名部の郷士から出て幼名を利助と呼んだ。」とあり、「函館商人」の「武田信広」同様、「安東政季」や「蠣崎季繁」に繋がりがあったのでは、と。
(函館に於ける図書館の祖渋田利右衛門:http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hyakuchin/074.htm)
(安東政季:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E6%94%BF%E5%AD%A3)
(蠣崎季繁:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A0%A3%E5%B4%8E%E5%AD%A3%E7%B9%81)
(蠣崎氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A0%A3%E5%B4%8E%E6%B0%8F)

「田名部」は水運で栄えた頃、「下北人は食うに困らず、俳諧などの文学や書をたしなみ、学問をする余裕があったと伝えられている。」とあることや、

江戸時代初期より、下北では多くの近江商人が活躍し、これらの人々が言葉や文化の伝導に一役かっていた。近江商人の出身地である滋賀県高島市には現在でも田名部まつりに類似した山車祭が存在する。恐らくそれが田名部に伝えられたものと考えられている。田名部まつりも辿れば京都八坂神社の祇園祭の流れを汲むとされ、山車の形態、囃子にその痕跡が見てとれる。それゆえ「北のみやび」とも称される。
(田名部まつり:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%90%8D%E9%83%A8%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A)

とされていることなどから、「田名部」を「菅江真澄」が訪れたのは、師であり「賀茂真淵」と姻戚関係にあった「植田義方」との関係によるものと思われ、「菅江真澄」が「洞月上人」から「古今伝授」を受けていることからも、「瀬織津姫」を追っての旅だったのではないか、と。

ただ、植田義方や洞月上人の詳細がわからなかったので、他の理由もあるのかもしれないが・・・。
(菅江真澄 常民の発見:http://www.touhoku.com/00x-10-25am-11-sugae1.htm)
(菅江真澄:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E6%B1%9F%E7%9C%9F%E6%BE%84)
(賀茂真淵:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E7%9C%9F%E6%B7%B5)

「菅江真澄」は「洞月上人」を訪ねたあと「牛伏寺」に詣でたようだが、「牛伏寺」については2009.03.22分に書いたように、太子が絡んでることや、「牛伏権現と称して蔵王権現を祀って」いるのが気になりますね。
(真澄の見た風景2:http://members.jcom.home.ne.jp/naoki-kumagai/masumi/fuukei2.html)

上記サイトを拝見していると、「菅江真澄」の故郷・三河国渥美郡から長野への道のりは、かつて「善光寺如来」の辿った道かと思われ、「滝」「湧水」のある場所や、「西行桜」のある「日之御子神社」などを訪れていることなど、やはり瀬織津姫が見えてくるようで。
(菅江真澄:http://members.jcom.home.ne.jp/naoki-kumagai/masumi/)

ということで、「田名部」で繋がる人々のキーワードに「古今伝授」があり、「瀬織津姫」を知る人々である、という推測が一層強まり、商人たちの情報網は「行基プロジェクト」のそれが連綿と受け継がれていたように思えて。

海舟が砲台の設置にあたる際、船上から見てその重要拠点としたのが知り合いの商人たちのいる地域だったということは、古代からの交易の拠点であったことを意味し、同族による繋がりが存在しているのでは・・・。

他にも付箋をたくさん付けてはいるんだが、森氏の著書が出版されたのを知って購入し、届いたので早く読みたくて・・・最後のページに行基の名があり、またこの著書がシリーズの最後で、読み終えたら再度「洛東の巻」から読みたくて・・・。

ま、読みなおしをあとにするとしても、しばらくは勝海舟や商人から離れそうなので、ご了承いただければと思うのだが、「勝海舟と明治維新」は読みやすく面白かったし、社会情勢がタイムリーに感じたのには唸った。

そうそう、龍馬は何かと取り上げられるのに、その師とも言える海舟がそうでもないのは何でかなと思っていたところ、諭吉の「痩我慢の説」によるもののようで、「古今和歌集」で「紀貫之」に「その心あまりてことば足らず・・・」とされた「在原業平」のようだな、と。

それにしても、「歴史好きの人々なら驚くような人が二人含まれています。村田蔵六と松木弘庵です。」とあり、「二人とものちにその姓名を変えているので、この名前ではわからないかもしれませんが、村田蔵六というのは大村益次郎、松木弘庵というのは寺島宗則のことです。」と書かれていても、頭の中は???で、私は決して「歴女」ではないと思い、つくづく自分のアホさを痛感しました。(苦笑)


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