とんでもニャ〜Mの推測3−3
※役にたたない推測ばかりの駄文です。(爆)

2010.10.02(Sat.)

森氏の「京都の歴史を足元からさぐる」の「丹後・丹波・乙訓の巻」を読んでいて、「なお旦波には、のちに述べる日下部氏がいた。」(p18)とあり、のっけから気になってたことが出てきまして。

2008.08.02分で堺市の「日部神社」について少し書いているんだが、その神社のあたりも「日下部氏」のテリトリーのようで、行基の「家原寺」から近いことから繋がりが気になっていたし、御祭神の「彦坐命」も気になっていた。

同じく堺市の「菱木神社」が「日部神社」と関連があるようで、「彦坐命に縁のある祭神が祀られているのでは」とあり、「彦坐命の甥にあたる「菱木造」(豊城入彦命)である可能性が高いといえる」とされていて。
(菱木神社:http://www.sakai.zaq.ne.jp/dudrs406/)

そのページの下の方に、「草部と美木多の間にある郷」という「大村郷」について書かれており、「大村直」について検索してヒットしたのが三重県青山町阿保「大村神社」で、「大村直は紀直と同祖」とあった。
(大村神社:http://kamnavi.jp/en/mie/oomura.htm)

三重県青山町については2009.12.01分で書いていて、伊賀(阿拝郡柘植郷)には「物部広万呂」なる人物がいたことに触れており、「菱木神社縁起」のページに「物部連」が出てきて、2008.08.02分の「彦坐命」の後裔「依羅連」の検索でヒットした「利雁神社」では、「依羅連祖神」「ニギハヤヒ」が御祭神だった。
(利雁神社:http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto/togari.htm)

ということは、「彦坐命」と物部氏が繋がるということかと思われ、「大村直は紀直と同祖」ということから、紀氏・秦氏とも繋がることになるのでは、と。

で、「大村神社」と「菱木神社」の本殿が「北向き」というのが気になるが、「吉野神宮」が「本殿・拝殿・神門はかつて後醍醐天皇が京都の御所へ帰還される事を熱望されていた心情を汲んで、京都の方角を向き、北向きに建てられている。」のと同じだったとしたら、後醍醐天皇絡みの「吉野神宮」も何かありそうで。
(吉野神宮:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E7%A5%9E%E5%AE%AE)

松阪市の「阿射加神社」(御祭神:阿耶訶大神)、和歌山の「淡路神社」(御祭神:少彦名命・大己貴命・息長足姫命)、一宮市の「熊野権現社(酒見神社内)」(御祭神:天照皇大御神・倭姫命・酒弥豆男命・酒弥豆女命)なども本殿が「北向き」のようだが、その理由は不明で。
(阿射加神社:http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/azaka.html)
(淡路神社:http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt0/w1aws1.htm)
(熊野権現社:http://www.mikumano.net/zaiti/itinomiya2.html)

「みくまのねっと」さんの「酒見神社」は2006.01.07に拝見してますね、加西市の行基ゆかりとされる「酒見寺」で検索していた時に。あ、行基ゆかりの池田市の「五社神社」には「北向地蔵」がある・・・。

伏見区の「城南宮」近くに「北向山不動院」もあった・・・。

上田市の「生島足島神社」は、「諏訪社と向かい合っている関係」から「北向き」のようで、「生国魂大神」といえば大阪の「生国魂神社」では相殿神として「大物主命」が祀られており、「北」と物部氏の繋がりを感じたりするんだが。
(生島足島神社:http://www.eonet.ne.jp/~nunose/009kosya27.htm)
(生島足島神社:http://www.ikushimatarushima.jp/jinja)

「北向見返天満宮」が京都・久我にあるようだが、このあたりは森氏の京都シリーズの1冊目と関連していそうだし、「とはずがたり」の二条にも関連しそうで。
(北向見返天満宮:http://miyakoweb.at.infoseek.co.jp/tourist4/suikaku.htm)

「日下部氏」から離れてしまいましたが、丹波に「三重郷」があったそうで、「彦坐命」に関連のある氏族の繋がり・テリトリーなどが見えそうですね。

2010.10.07(Thu.)

森氏の著書の中に、「日本紀略」から延暦13年(794)に「山城国乙訓社の仏像を大原寺に還し置く。」とあることについて、「このころ江戸時代の円空のような天才的な彫刻家がいて、木の端くれで仏像を作ったところ、多くの人の帰依を集めたのである。」(p62)とあった。
(乙訓坐火雷神社:http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/kindex2.php?J_ID=10301)

乙訓のあたりは行基の遺構があったことや、継体天皇、秦氏が絡む場所なので、少し読んでは長い時間トリップしているわけだが、森氏が円空に例えておられることもあり、仏像を彫った「薪を採る人」も円空のような僧だった、あるいは宗教家だったのではないかと・・・初め読んだ時に「大生部多」を思い出したこともあって。
(大生部多:http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%94%9F%E9%83%A8%E5%A4%9A)

「大生部多」を思い出した、つまりは秦氏絡みであることを思い出し、「大生部」で検索すると「大生部」と書かれた木簡が見つかったことについて書かれている掲示板がヒットした。
(古代史掲示板:http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/2352)

掲示板を拝見し、最後のところにあった「井田松江古墳群」のリンク先が物部氏のおっかけをされている「天璽瑞宝」さんのブログで、拝見していると「物部氏」が絡んでいるようで、太子絡みで気になっていた「大中姫命」についても書かれていて、やはり物部氏との関連を考えておられるようで、と、つい横道へと。
(井田松江古墳群:http://blog.livedoor.jp/kusitama/search?q=%C2%E7%C0%B8%C9%F4)
(天の神庫と大中姫:http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51825705.html)

物部氏については、森氏の著書の63ページに「大友皇子」の亡くなった場所について書かれている中に、「物部(石上)連麻呂」は最後まで大友皇子に従っていた」とあって。

だがのちに、「天武朝で重要な役についている。」とあるように、どちらにも重用されていたあたりが気になるところで。
(石上麻呂:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E9%BA%BB%E5%91%82)。

「天璽瑞宝」さんのブログ、面白くて読みふけっていましたが、「迹見赤檮」が初めは守屋の部下だったが「急に守屋を裏切り、守屋とその子供たちを殺した。」と『「古事記」「日本書紀」総覧』所載の皇族・豪族事典にあるそうだが、そのまま信じられない、というか、「古事記」「日本書紀」を素直に信用できずにいて、「古事記」「日本書紀」が「赤檮」に全ての罪を着せているように思えて。

うーん、ニギハヤヒが神武天皇に下った際にナガスネヒコを討ったとされるのに似ているような気が・・・。
(赤檮ウマー:http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51769336.html)

守屋の子の伝承が岡崎市の「真福寺」にあることなど、事実を隠蔽するために「赤檮」に守屋一族を消させたと、ニギハヤヒの件と同じような形で「記紀」に載せたように思えるような・・・。
(真福寺:http://www.shinpukuji.com/jiin/index.htm)

ん?「守屋の次男・片野田連、四男・辰子瓜連らは、筑前国鞍手郡と肥前国松浦郡、橘屋連・大伴臣以下八人は、筑前国山本・御井、豊後国大野・海部へ流された。」とあるが、そのあと岡崎に移住したのかなぁ。
(http://blog.livedoor.jp/kusitama/archives/51714441.html)

「赤檮」が「上毛野氏の同族」とあるけど、「日本書紀」の編集に携わった人の中に「上毛野三千」がいることとの関連があるのだろうか・・・。
(日本書紀:http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80)

2008.09.24分に書いた青森の「北斗七星伝説」の「七神社」の1つである「猿賀神社」には「上毛野君田道命」「保食神」が祀られているが、「保食神」は「宇迦之御魂神」であり「豊受大神」と思われ、物部氏と秦氏の関連が見えるように思われて・・・。
(猿賀神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E8%B3%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

毛野国の開祖「豊城入彦命」について、森氏の「嵯峨・嵐山・花園・松尾の巻」から2009.04.25、26分に書いていたり、2009.08.24、25分でもふれていて気になっているのだが、まだ謎の部分がほとんどで。

「大生部」に戻りますが、「大生部兵主神社」「穴見郷戸主大生部兵主神社」などが「但馬国」にあるようで、2日の「なお旦波には、のちに述べる日下部氏がいた。」(p18)に繋がりそうで、ひいては物部氏を介して「行基プロジェクト」の氏族の繋がりが見られそうな。
(大生部兵主神社:http://www.norichan.jp/jinja/renai/oubuhyoudu.htm)
(穴見郷戸主大生部兵主神社:http://www.genbu.net/data/tajima/ooube_title.htm)

そしてそれは、森氏が書かれている部分での、氏族の「団結力」を表しているようで、「乙訓坐火雷神社」のある「山城国」、「大生部多」のいた「駿河国」、そして「但馬国」の繋がりが想像できるのでは、と。

ここまで検索してきた中で出雲の神々が関連しており、「乙訓坐火雷神社」の論社「角宮神社」の御由緒から、「瀬織津姫」が団結力の要のように思えた。
(角宮神社:http://kamnavi.jp/yamasiro/sumimiya.htm)

そうそう、朝のニュースに「銀閣寺」のことが出てきて、9日にその特集があるようなんだが、「幻の月の御殿」ということで目が釘付けになった。
(http://www.nhk.or.jp/wonder/program/46/index.html)

「銀閣寺には「錦鏡池」があるそうで、「義政と世阿弥の指導によって作成されたとされる庭園」ということで、ちょい気になる。」と、2007.05.06分で書いていて、2008.10.17分では森氏の「北野・紫野・洛中の巻」から再検索し、「洗月泉」という「滝」があることがわかって、義政がちと気になった。

「銀閣」のやや北寄りの東側に、「上賀茂神社」の「立砂」の頂部を水平にした「向月台」があり、拝見したサイトによると江戸後期に造られたものらしいが、その頃には「上賀茂神社」との繋がりが明らかだったことによるものかもと推測しており、「月見の館」において、「月」と「錦鏡池」に映る「月」を、「一対」として観賞していたのではないかと思われるわけで。
(慈照寺(銀閣寺):http://www.y-morimoto.com/kyoto_isan/ginkaku.html)

森氏の著書によると「金閣寺」の「不動堂」にも「滝」があるようで、そこに祀られた「不動明王」が「重要施設」であったそうで・・・あ、こちらにも「鏡湖池」があるようで、「月」との関連はわからないけど、「金閣寺」「銀閣寺」ともに瀬織津姫と繋がるのではと思われて。
(慈照寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E9%96%A3%E5%AF%BA)
(鹿苑寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E8%8B%91%E5%AF%BA)

司馬氏の「妖怪」という小説で「足利義政」が登場するそうで、ちょい気になる・・・。
(司馬遼太郎を歩く・取材レポート:http://bonfa.hp.infoseek.co.jp/literature/yokai1.htm)

横道にそれた分も含めて、「行基プロジェクト」の氏族の繋がり、というか、海人族の繋がりが今回も見えたように思えた。

2010.10.08(Fri.)

森氏の著書の第三章は「交流と生産、主に生産」についてで、丹波国のうち丹波郡以外の4郡は海に面していて舟運がよかったことと、京都の古墳の半数以上が丹後にあることがまず書かれていた。

雄略天皇の死の直後に蝦夷の反乱があり、吉備臣尾代の軍と「娑婆水門」(周防国佐波郡)、のちに蝦夷が逃げ込んだ「浦掛水門」(丹波国熊野郡)で合戦があったそうで、「ついでに書くと、久美浜とは熊野郡のなかの久美郷で、隣接して海人がいたと推定される海部郷があった。」(p72)とあり、蝦夷が海人との繋がりがあったことから逃げ込んだことが推測されるわけで。

その久美郷には、「久美公全」という豪族がいて、続日本後記に「時統宿禰」に改姓したことと、「伊枳速日命之苗裔」と称していたことが書かれていたそうで。

「伊枳速日」はどこかで見たことがあるような気がしたが、著書では「イキハヤヒノ命」とカタカナ表記もされておられ、ニギハヤヒっぽいなと気にかかり、検索すると「息速別命」「池速別命」「伊許婆夜和気命」とも書くようで、「息速別命」については2009.12.01分に書いていた。
(息速別命:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AF%E9%80%9F%E5%88%A5%E5%91%BD)

業平の父・阿保親王を追っていて、垂仁天皇の皇子「息速別命」も「阿保親王」であることと、「阿保」(青)が「鍛冶に深く関係する」ことを知ったわけだが、その下に「彦坐王」のことを書いていて、2日の「日下部氏」と繋がりそうで。

「彦坐王」は「崇神天皇の命を受け、玖賀耳之御笠退治のために丹波に派遣されたとある。」(古事記)とのことから、派遣先の丹波での末裔が「日下部氏」のようで。

「息速別命」は「小槻山君」の祖で近江とも繋がるようですね。
(小槻大社:http://www.geocities.jp/engisiki/oumi/bun/oum220203-01.html)
(阿保氏/小槻氏:http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01219.htm)

              袁祁都比売命(彦姥津命の妹)
       |―山代之大筒木真若王(神功皇后の曽祖父・但馬国造の祖)
       |
       | 山代之荏名津比売(刈幡戸弁)(山背国造大国不遅の子)
       | |
       | |―大俣王―曙立王命
       |  |    └菟上王
       |  |
開化天皇―彦坐王―丹波道主王―日葉酢媛命
    |    |      |
    |    └――狭穂姫命|
    |         |  |
    └崇神天皇―――垂仁天皇
              |―息速別命
            薊瓊入媛(日葉酢媛命の妹)

そういえば、息速別命の祖父「丹波道主王」についても2010.01.20分で森氏の著書から検索しており、「曙立王命」は「佐那造」の祖、「大俣王」の子、開化天皇の皇子である「彦坐王」の孫であり、伊勢の「品遅部」の祖で、「佐那神社は里宮で金剛座寺が神体山」から「金剛座寺略縁起」を拝見したら行基が絡んでいた、と。

「曙立王命」に垂仁天皇が「大和師木登美豊朝倉曙立王」という名を与え、「菟上王をもお供にして、出雲を訪問させたという。」(古事記)ということなど、気になる人物で。
(曙立王:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%99%E7%AB%8B%E7%8E%8B)
(日子坐王の系統:http://jinja-kikou.net/kaika2.html)

「曙立王命」の父・「大俣王」の母が「山代之荏名津比売」で、「大俣王」の腹違いの兄弟に「山代之大筒木真若王」(母は袁祁都比売命・和邇氏)(神功皇后の曽祖父・但馬国造の祖)がいるということは、「大俣王」が「山代(山城)」と繋がりがあり、その背景として「海人」「鉱物」が見えるようで。

「山代之荏名津比売」について、京田辺市宮津佐牙垣内の「佐牙神社」がヒットし、「荏名津は旧名江の津(現江津)であろうと推察されます。」とあり、本拠地でないかと思われ、御祭神が酒造りの神・佐牙弥豆男・佐牙弥豆女であることは、2日の一宮市の「熊野権現社(酒見神社内)」や加西市の行基ゆかりとされる「酒見寺」との関連が考えられるようで、背後に秦氏が存在するような。
(佐牙神社:http://www.pauch.com/kss/g052.html)

「山代之荏名津比売」の別名が「刈幡戸弁」で、出典先は不明ですが「山代之を冠した女性たちは、何れも天津彦根命を遠祖とする近江の山代氏の娘だったのです。」とされていることや、「幡」は「秦」に通じるのでは、と・・・そして物部氏にも繋がるようで。
(「名は体を表わして」いるか?、猿と蟹:http://www.ten-f.com/saru-to-kani.htm)
(15.両道入姫命:http://tokyo.atso-net.jp/index.php?UID=1267950348)

行基ゆかりとされる木津川市(旧相楽郡山城町)の「蟹満寺」は、「かつては紙幡(かみはた)寺、加波多(かばた)寺とも記された。奈良朝以前(白鳳時代末期(680年前後)) 、秦氏の一族秦和賀によって建立・・・」とあって。
(山背古道:http://homepage2.nifty.com/kaidowalker3/51yamasiro.html)

「天津彦根命」については、2010.01.20分で「「天之御影神」は「天津彦根命」の子で「天目一箇命」と同神」と書いていて、「旧事本紀天神本紀では饒速日尊が天降るときに随伴する三十二神の一柱としてあらわれ、凡河内直らの祖であるとしています。」とあり、物部氏に繋がるようで。
(御上神社:http://mononobe.nobody.jp/tabi/yasu/mikami.htm)
(もう一つの白鳥伝説、ホムツワケ:http://www.ten-f.com/mouhitotu-no-hakuchodensetu.htm)

2日に「大村神社」の「日本三大奇鐘」の一つとされる「虫食の鐘」について書き忘れてましたが、「鐘の中に鋳込められた古鏡一面は大和国葛城の豪族の娘の愛蔵であった。」そうで、「鐘乳がぼろぼろと落ち出した」のは、大和国葛城の豪族が「鋳物師」で、「大村神社」との繋がりに「鉄」があったことを表しているようで。
(虫食の鐘:http://blogs.yahoo.co.jp/kyon1956jp/40825063.html)

話が飛びましたが、著書によると「熊野郡」の郡名は、出雲の「熊野大社」から勧請されて「兜山」に祀られた「熊野神社」からのようで、勧請されたことを含めて「丹後の熊野と出雲のとの交流があった証しとなるが、出雲そのものと紀伊との関連も強くうかがえる。」とされていて、ひいては丹後の熊野と紀伊との繋がりも考えられそうで。

私には交流の中に「瀬織津姫」が見えるような気がして・・・。

で、「山代之荏名津比売」(刈幡戸弁)の父とされる「山背国造大国不遅」が気になったが、詳細は不明・・・ではあるが、以前「水沼氏」などで辿りついた折口氏の「水の女」で「水神を意味するのが古い用語例ではないか。」とあるのは、繋がりがあるからではないかと。
(水の女:http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/16031_14239.html)

あ、「小槻氏」で「壬生氏」を見たような・・・あった。
(小槻氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A7%BB%E6%B0%8F)

2010.10.09(Sat.)

上記の「熊野神社」の続きには、2007.05.26分での「陰陽の世界」という本にあった「老人嶋神社(明神)」について、地元の方からその信仰についてを伺ったことが書かれていた。

聞かれているうちに、「三代実録」にある「丹後国正六位上息津嶋神、葛嶋神、坂代神に並に従五位下を授ける」を思い出され、「玄界灘の宗像三女神の信仰との類似が気になりだした」(p78)とあった・・・が、それ以上は触れておられなかった。

検索をしたところ、菅田氏の「息津嶋神・葛嶋神・坂代神という三島〈三宮〉構造」というページがヒットし、森氏の著書にあった「三代実録」のことや、「大本教」の出口なお氏が「沓島」を重視されていたことなどが書かれており、「シロシメス型の島神の典型」とされていて。
(http://www.yoyo.ecnet.jp/SUGATA/KAZ/KA36.html)

「シロシメス型」とはどういうことかなと検索していると、「高度の政治的・宗教的支配」のようで、似た言葉に「うしはく・うしはける(宇志波祁流)」があり、「土地や人民を自分の私有物として支配し領有する」という意味だが、大きな違いとして「天皇」は使わない言葉、のようで。
(http://d.hatena.ne.jp/kousotsudr/20060206)

そういえば、拝見したページ中に、「昔の地名で言えば丹後国加佐郡の「凡海郷」(つまりオウのアマ郷の義だ!)・・・」とされてますね。

「丹後風土記残欠」にも、「天下治しめしし大穴持命と少彦名命が此地に致り坐せし時に当たり・・・」とあるようで、「祭る所は、天火明神と日子郎女神也。是れは海部直並びに凡海連等が祖神と斎所以也。」とのことから、このあたりは物部氏、秦氏らのテリトリーかと。
(冠島・沓島:http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/kanmurism.html)

著書に「浦島伝説」についても少しふれておられますが、伝説については2008.08.02分で書いており、「日下部氏」と繋がるようで、「鉄」が採れたのかも。

「出口王仁三郎」氏について、2009.12.15分や2010.04.07分に書いてますが、出口王仁三郎氏が信仰していたという亀岡の「小幡神社」、「丹波道主命」が「開化天皇」を祀ったこと、「彦坐王・小俣王」が配祀されていること、鎮座地が「曽我部町穴太宮垣内」というのが気になりますね。
(小幡神社:http://www.genbu.net/data/tanba/obata_title.htm)
(小幡神社:http://www.geocities.jp/susano567miroku/obatajinja.html)
(園部亀岡の古社詣で:http://shrine.s25.xrea.com/sonobe2.html)

ということで、やはり浮かんでくるのは「ニギハヤヒ」「瀬織津姫」で。


著書にあった「浦入遺跡」から出土した「製塩土器」の支脚底部に「笠百私印」の刻印があったことや、その地域にいたと思われる「笠氏」がちょっと気になって。

以前、2010.01.29での検索で深江地区(大阪市東成区)の「菅細工」を見つけ、そこに「大和から移住し、笠などの細工物を作ったのが始まり」とあり、「菅」と「鉄」が繋がると思われることと、「深江は、皇祖の御神鏡に関係する鋳物師とも関係が深い土地とのことである。」とあることから、深江に「鉄」があったのでは、と。
(大阪の伝統工芸品(一覧):http://www.pref.osaka.jp/mono/seizo/dento-09.html)
(深江の菅細工:http://www.city.osaka.lg.jp/higashinari/page/0000046407.html)
(笠縫邑:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E7%B8%AB%E9%82%91)

「浦入遺跡」近くには「鉄に関連する遺跡」が多くあり、それらに地元豪族の「笠氏」が関与してたのではないかと思われ、深江や大和国の笠縫氏の祖「天勇蘇」との繋がりは探せていないが、どちらも「物部氏」に繋がるようで。
(丹後半島の旅:http://inoues.net/tango/tango_hanto1.html)
(古代氏族物部氏:http://kamnavi.jp/mn/monosiryou.htm)

「元伊勢」の最初が「笠縫邑」で、丹後一宮の「籠神社」も「元伊勢」と言われており、信仰する神の移動とともに、氏族の移動=技術の移動があったことを表しているのでは。
(籠神社:http://www.motoise.jp/main/yuisyo/index.html)

そういえば・・・深江の「菅細工」を見つけるきっかけとなった「和泉蜻蛉玉」で思い出したが、著書のp202にある丹後の「大風呂南1号墓」から出土した「ガラス釧」の写真、「池上・曽根遺跡」近くの「弥生文化博物館」発刊の「青いガラスの燦きらめき―丹後王国が見えてきた―」の表紙を飾っていて、「池上・曽根遺跡」のすぐそばに物部氏ゆかりの「曽根神社」があり、「弥生文化博物館」の南で現在団地になっている「要池遺跡」から「有鈎銅釧」が出土していて。
(「青いガラスの燦きらめき―丹後王国が見えてきた―」:http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/old_site/data18.html)


「要池遺跡」から出土した「有鈎銅釧」。

「有鈎銅釧」は「ゴホウラ製貝輪」を模した青銅製の腕輪で、「大風呂南1号墓」からも出土しており、「池上・曽根遺跡」と「大風呂南1号墓」のある地域間で、物部氏などによる交流があったのでは、と。


(2010.10.26(Tue.)追記)

「池上・曽根遺跡」の北北西約2キロのところにある「和泉黄金塚古墳」から「巴形銅器」が出土しており、「有鈎銅釧」同様、琉球方面との交流のあった人々との繋がりが考えられ、同じく「巴形銅器」が出土した「朝日遺跡」との繋がりもありそうで、その交流ルートは「隼人」によるものかと。
(朝日遺跡:http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/maibuai/71.pdf)


ふと思い出したけど、「明立天御影命」が「玉祖命」「鈿女命」とともに「國懸神宮」の相殿に祀られていて、摂社に「天道根神社」がありますね。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%89%8D%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%83%BB%E5%9C%8B%E6%87%B8%E7%A5%9E%E5%AE%AE)

「玉祖命」は2008.11.10分で「櫛明玉命または玉祖神」とあり、玉造連の祖神で「羽明玉命」「豊玉命」「玉屋命」とも称するようで・・・ニギハヤヒのことという説もあるようだが、「大俣王」か「彦坐王」のことになるのだろうか。
(玉祖神社:http://www.genbu.net/data/suou/tamaso_title.htm)
(玉祖神社:http://kamnavi.jp/mn/osaka/tamaoya.htm)

「籠神社」では「一に丹波道主王とも云う。」ともあり、「御上神社」では「天之御影神」の父は「天津彦根命」とあるのだが・・・両方を合わせると、丹波道主王=天津彦根命だが・・・もしくは、「大俣王」か「彦坐王」か・・・。

で、「天道根命」は「新撰姓氏録」では「滋野宿祢」「大坂直」「紀直」「大村直田連」「川瀬造」等の祖とあり、2日のことと繋がりそうな。
(天道根命:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%81%93%E6%A0%B9%E5%91%BD)

2009.05.01分で書いたように、「滋野氏」は信濃が本拠地のようで、「大坂直」は「大和国神別天神部」で詳細は不明だが「大和国」にいたと思われ、「川瀬造」は「和泉国神別天神部」とあり、近江の豪族と書かれたサイトもいくつかあったけど、詳細は不明・・・。

それでも、「行基プロジェクト」に関する氏族間の交流を追えるのではないかと思われ、現在中断しているが、商人の繋がりと重なってくるのでは、と。

で、和歌山の「刺田比古神社」を見ていると、御祭神が「道臣命」「大伴佐弖比古命」(狭手彦命)で、「彦坐王」の子に「狭穂彦王」がいて、何だか頭の中がごちゃごちゃになってきたけど、「行基プロジェクト」に関する氏族間での交流が見えるようで。

2010.10.11(Mon.)

森氏の著書の第四章の「交流と生産、主に交流」を読み始めて4ページ目でストップし、引っ張り出してきた本が5冊・・・。

3ページ目に「一遍」が久美浜で念仏を唱えると「龍」があらわれ、「龍の供養には水を用いる。ただ濡れよ。」とのことから、「みなは濡れるにまかせたという」ことが書かれていて、一遍の信仰の中にルーツである「越智氏に伝わる習俗があった」(p116)のではと、森氏はみておられるようで。

先月の検索で「越智氏」は「物部氏」に繋がるようだし、「山城国」から久美浜に至ったルートには、「越智氏」の交流のある地を辿ったのではないかと思われて、やはり森氏はお気づきなのでは、と・・・。

話を戻しますが、4ページ目には「平城宮木簡」の「丹後国竹野郡間人郷土師部乙山、中男作物海藻六斤」について、「貢納者が土師部であることはこれから述べることにからんで注意がいる」とされ、太子の母・穴穂部間人媛の名が「日本書紀」の中で「泥部(はしひと)穴穂部皇女」とあることから、木簡の「土師部」はもとは「泥部」ではないだろうか、とされていて。

「泥」で思い出したのが、行基ゆかりとする「四面宮」の「面4つ」についてが「古事記」にあり、そのうちの1つが「建日向日豊久士比泥別命」(肥の国)で。
(旅行の記録:http://hwm2.gyao.ne.jp/seichi/ryokou_kiroku/ryokou_970814-19.html)
(温泉神社:http://www.fwd-net.com/jin/onsen.html)
(諫早神社(四面宮):http://www.isahaya-jinja.jp/goyuisyo.html)

「泥」が「肥国」と繋がるのであれば、「泥部」つまり「土師部」の根拠地の1つかと思われ、道真、というか祖神の「天穂日命」のいた場所だったのかも。

「箸墓古墳」は「泥墓古墳」で「土師氏」と繋がるのかも・・・というのはトンデモかもしれないが。

「建日向日豊久士比泥別命」について、「笠沙路探訪」さんの今月号で書かれていて、「『比泥=ひ根』で、『ひ』の国々の『根幹・ね』を意味したもの」「『日本の西』側は『ヒ(火=日)の国』であった」とみておられるようで、「旅行の記録」さんのところに書かれていた「温泉(うんぜん)神社が「筑紫島」の本宮の位置にある神社」と思われていることに繋がるのでは、と。
(『火と贄の隼人』 vs. 『天武王統の大仏造立』:http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage41.html)

つまりそこが政治の中心となった場所と思われ、「吉野ヶ里」かな、と・・・。

で、「火(ヒ)の国」の続きに書かれている「樋速日命」は2007.05.04分で調べたことがあり、行基ゆかりとされる奈良の「神野寺」付近の「王塚の築造伝説」では「カンハヤヒノミコト」と読んでいるが、「記紀」に出てくる「樋速日神」と同神、とのことで、「弁財天(美の神・水の神・智の神)と同一視されている」ことから、「瀬織津姫」ではないかと思われるわけで。
(神野山 岩石群:http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/yamazoe21kounosan.html)

「笠沙路探訪」さんの説、特に「天武禍」は「不比等禍」と思われるのだが、「『はやひ』の系譜は、本来、『中臣氏・丹波海部氏・尾張氏・物部氏・大伴氏、隼人』という『神祇と武門』の系譜の人々のもの」に秦氏等を加えると、「行基プロジェクト」のメンバーと考えられ、「崇仏派」「廃仏派」という見方での判断はできないように思われるのだが。

ひょっとしたら、『神祇と武門』の系譜の人々が天皇家に繋がるというのを隠すため、『中臣氏・丹波海部氏・尾張氏・物部氏・大伴氏』が「隼人」とは別者であるかのように記載した「不比等禍」と思われ、「天武天皇」は「大海人皇子」なのだから、隠す必要はないように思われるのだが。

中臣氏については、鎌足・不比等に乗っ取られる前のことと考えているというのもあるが、行基ゆかりとされるのは寺院のみならず神社もあるわけで、それがはっきりわかるのは伊丹の「昆陽寺」周辺の神社で、そのあたりに居住していた「猪名部氏」は物部氏系で、「行基プロジェクト」がその人達を含めて移動した先に「員弁」や「伊那」などがあることから、同族に関連する業務を担っていたのでは。

そうそう、伊丹での行基に関することが書かれた「行基と渡来人文化」によると、「トヨウケ」は「稲椋山」の山中にいたが「丹後」に移動した、と「摂津国風土記」にあるようで、「稲椋山」の比定地は不明のようだが、「猪名部氏」との関連性があるように考えられているようで。

行基ゆかりの神社仏閣が小高い場所に多いのは、移動先の同族が弥生時代あたりに高地性集落を営んで定住したからとも考えられ、また、その高地性の利点を生かし、信玄の「狼煙」による通信手段の元となるものがあったのではないかと思え、「国分寺」もその拠点の1つかと。

「国分寺」が情報交換を行う際の拠点という側面も持ちつつ、「国家鎮護」の役割を果たしており、その拠点となるのが東大寺の「大仏」かと思われるわけだが、聖武天皇が「知識寺」で大仏造立の発願されたのは、「知識」つまり「仏教に深く帰依した人々」の信仰心に加え、その人々による力や寄付によって創建されたという「文化的な意識の高さ」を感じてではないか、と。

小林氏の「すり替えられた天皇」などによると、奈良時代あたりは「唐」による圧力・政治的介入が強かったようで、それは「魏志倭人伝」からも読み取れそうだが、属国的支配からの脱却の第一歩が、「随」に「日出ずる処の天子・・・」という太子によるとされる「国書」を送っての主張と思われ、遣隋使や遣唐使で日本の文化的水準を高め、それを形として示すことが必要だと感じ、第二歩が聖武天皇の発願での多くの「知識人」たちによる「大仏」造立かと思われ、寺院建立が「国家鎮護」にあたると考えたように思われて。

それにしても、先日「勝海舟と明治維新」を読んだ時には、当時の日本を、諸外国から見た目で読んだような感じだったけど、奈良時代の社会情勢の方が今に近い部分があるというのはなんだかなぁ〜、と・・・。

「笠沙路探訪」さんの今月号に戻りますが、「「万葉集」に歌われる『言霊(ことだま)の 幸(さき)はふ国』や『事靈の 助くる国』を成り立たせる「事代の主神」の所管事項である。」と、山上憶良(894)・柿本人麻呂(3245)の歌をあげておられるが、暗号「山上憶良」さんのサイトによると、「山上憶良」は「稗田阿礼」、「柿本人麻呂」は「三輪高市麻呂」「高市黒人」と思われ、上記のような社会情勢から、信仰とは別の次元での政治的な助言だったのでは。

すり替えられてしまった「伊勢」の神について、長期的視野のもと渡会氏が糺すことを目指していたであろうと思われ、その間に本来祀られるべき神を、「唐」から見てさらに引き上げた存在に見せる意味も含め、「国分寺」で祀ろうとしたように思われて。
(柿本人麻呂の正体について:http://www.geocities.jp/yasuko8787/0q-5.htm)
(目から鱗が落ちる本居宣長の暗号:http://www.geocities.jp/yasuko8787/02-00g.htm)

「笠沙路探訪」さんは、聖武天皇が「「神仏習合」で『守旧派』の牽制を試みた」のではないかと思われたようで、「裏付ける資料は乏しいので、後は来月号にまわす。」とされてますが、史料的にはどうでしょうか・・・。

「泰澄」がなぜ「十一面観音」を刻んだのか、なぜ行基が各地に寺院・神社を建立し、「十一面観音」や「薬師如来」を刻んで安置したり、祭りなどの伝統芸能を伝えたのか、「西行」「芭蕉」「円空」たちが各地を巡り、歌を詠んだり仏像を刻んだのはなぜなのか、その答えが「神仏習合」のウラに隠されていると私は推測していて。

「隼人」の記事として挙げられている事柄は、自分たちや同族たちの居住地を守るために各地にいたと思われ、「先鋒」として配備されたわけではないのでは・・・それは不比等が「隼人」の文字を「物部氏」や「大伴氏」というはっきりした氏族名で書けなかった、いや、書きたくなかったのでは。

ふと思ったんだけど、道真は本当に左遷されてプッツンしたのかなと・・・渡会氏が道真誕生の際にあらわれたとされていることなど、ルーツが天皇家に繋がることを言わんとしていて、「万世一系」のために別の神にすり替えられ、ルーツの本拠地「大宰府」ですら「祖神」の祀られ方も変わってしまっていて、それに嘆いて道真はその気持ちを「漢詩」で書いたと想像できなくもないのではと、コミック「陰陽師2」を読んで思って、「漢詩」に込められた暗号も存在するのかも、と・・・。
(日本書紀の謎を解く鍵=菅原道真:http://www.geocities.jp/yasuko8787/0x-t9.htm)

2010.10.13(Wed.)

「泥部(はしひと)穴穂部皇女」について書かれていた次のページには、「経ヶ岬」の沖で「弥生式土器」が引き上げられたことが書かれていて、完全な形だった理由として、海難事故で積み荷などがそのまま沈んだのではないかという見方と、祭祀に用いられたという見方の2つを挙げておられて。

かつて、「経ヶ岬」の沖で米などを「海神」に捧げる習慣があったそうで、山口の高山岬の沖でも同じような習慣があったことから、「聖なる山の信仰」ではないかと思われたようだが、現在はそのような信仰が見出されないそうで。

山口の「高山」の「黄帝社」は「北前船時代に人々は当山を拝礼した。」そうで、「経ヶ岬」でも同じ信仰があった可能性は考えられるが、コミック「カルラ舞う」では「黄帝」が祀られる前は「スサノオ」だったと描かれていて、それは町名からも伺えるし、尼崎にも旧海岸沿いにスサノオが祀られていることも同じ信仰によるものかと・・・。
(高山 (萩市):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1_(%E8%90%A9%E5%B8%82))
(黄帝:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B8%9D)

となると、尼崎の「聖なる山」は六甲山?池田の五月山?能勢の美奴売山?「夏、殷、周、秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる」という「黄帝」と「スサノオ」は繋がる?

2009.12.08分に書いた「駒ヶ岳を神体山として神仙宮を開いた」のが始まりという「箱根神社」(御祭神:瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・木花咲耶姫命)では、「湖水祭」で三升三合三勺の「赤飯」をお供えするそうで、繋がりがありそうで。
(箱根神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E6%A0%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(箱根神社:http://www.kanagawa-jinja.com/mapmenu/hakone/yuuryoupage/hakone/hakone.htm)

同じく2009.12.08分に書いている「池宮神社」(御祭神:瀬織津比当ス・事代主命・建御名方命)では、赤飯をつめた「おひつ納め」が「法然」によって行われるようになったそうで、「古くから開運厄除、延命長寿、大漁満足、海上安全の神として信仰されてきました。」と。
(桜ヶ池・池宮神社:http://www.shimashin.co.jp/13town/meisho/hamaoka/sakura/sakura.htm)
(池宮神社:http://www.asa1.net/siseki-meguri/koku150/5hamaoka.html)

「黄帝社」「箱根神社」「池宮神社」の御祭神は異なるが、神事に共通点があると考えられ、「海人族」による祭祀ということになるのでは。

「箱根神社」は少し海から離れるが、「海人族」による祭祀が見受けられるルートでその神々に守られながら航海していて、それがのちの「北前船」のルートにもなったのではないかと思われ、著書では日本海側での交流が出土物から見られることが書かれていて。
(北前船の寄港地:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%89%8D%E8%88%B9#.E5.8C.97.E5.89.8D.E8.88.B9.E3.81.AE.E5.AF.84.E6.B8.AF.E5.9C.B0)

その交流が海外にも及ぶことも書かれており、「三角縁仏獣鏡」のことから「梁書」についてふれておられ、日本の異名の一つとされる「扶桑国」について、「五世紀中ごろから末にかけて、異国の僧が訪れたり、逆に扶桑国の僧が梁を訪れるなど仏教が盛んであったと記されている。」(p155)とあって。

森氏は「梁書」に書かれている国々の順から、「扶桑」は「東北」ではないかと思われているようで、2010.08.31分に書いた記憶と合いそうだから、「東北」で足跡の見える物部氏は仏教について知っていたと思われ、またしても崇仏派VS廃仏派に首をひねるのだが。
(扶桑:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E6%A1%91)
(扶桑国探検:http://www8.ocn.ne.jp/~douji/tanken.htm)

「扶桑略記」が上記の「おひつ納め」に関連する伝説がある「皇円」によって編纂されたことや、「藤原北家道兼流(道兼の玄孫)」で肥後国生まれというあたり、興味深いですね。
(皇円:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%86%86)

「三角縁仏獣鏡」の出土した群馬の「赤城塚古墳」は当時は「東国」で、古墳のある「西丘神社」には「雷電大神、赤城大神、天照大神、佐田大神(猿田彦大神)、浅間大神、稲荷大神、水神大神」が祀られていることから、物部氏との関連もありそうな。
(西丘神社:http://5.real-sound.net/~tetsuyosie/gunma/ooragun/nishioka/nishioka.html)
(古代東国とここ(日本)にいる意味:http://aoisekai487.blog7.fc2.com/blog-entry-371.html)

森氏はこの章のおわりに、「西日本之寺では行基開基や空海開基が多いのにたいして、梁の僧が開いたという伝承があるのはすごいことではないか。」と、福島の「恵隆寺」についてふれておられ、「梁」の外交史から日本との交流をさぐることができそうな、というか、「梁」を調べなさいと言われているように思った。
(恵隆寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E9%9A%86%E5%AF%BA)

うーん、「仏教公伝」にも「梁」が関係しているようだけど、「渡来人による私的崇拝」として「522年に来朝したとされる司馬達等」が挙げられていて、「日本書記」からの、あくまで中央が主体の観点で書かれているようで。
(仏教公伝:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%85%AC%E4%BC%9D)

公伝より昔から、シルクロードの商人たちの交流の一団にインドからの僧も加わっていた可能性もあったのでは・・・「菩提僊那」や「善無畏」などの先人が、梁の僧「青岩」なのでは。
(菩提僊那:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E6%8F%90%E5%83%8A%E9%82%A3)
(善無畏:http://ja.wikipedia.og/wiki/%E5%96%84%E7%84%A1%E7%95%8F)
(瑞応山弘明寺:http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/reikenki/bando/reijo14.html)

余談だが、「菩提僊那」とともに来た「仏哲」が「安摩二之舞」を伝え、その面が「真清田神社」に残されているそうで、「順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になりました。」とのことだが、「順徳天皇」は2010.02.06分にも少し書きましたが「西行」とも交流があったようで、「藤原定家に師事して歌才を磨いた」ことなど、納めたという面が意味ありげで・・・真清田神社の御祭神は「ホアカリ」だし・・・。
(真清田神社:http://www.masumida.or.jp/takara/men.html)
(安摩・二之舞:http://www.garyokai.org/kaisetu_F.html#anchor782609)
(順徳天皇:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87)

2010.10.14(Thu.)

森氏の著書の第五章「丹後・丹波・乙訓の弥生時代」を読もうとして、どの検索の時かは覚えてないのだが、「浮田国造」について書かれたサイトのURLを残していた。
(古代史-鹿島町(真野郷)の解読:http://www.musubu.jp/manoireukita.htm)

「毛野」については、2009.04.25分で森氏の「京都の歴史を足元からさぐる 嵯峨・嵐山・花園・松尾の巻」から「宇都宮二荒山神社」に飛んだり、そこで祀られている「豊城入彦命」で迷子になったりしたし、「磯部」についても2008.04.05分あたりから書いていて、「貫前神社」や「桜川磯部稲村神社」などは今年に入ってからも何度か書いていて、「真野」は昨日の「順徳天皇」が流罪で佐渡に流された際に住んだのが、国分寺の末寺である「真輪寺」(真野宮)で、関連が気になるところで。

また、「笠女郎」によって「真野郷が万葉集に歌われた」ことについて、「家持」が絡んでくること、「家持」に恋歌を贈っても思いが届かなかったという「笠女郎」と「家持」の間柄、「笠女郎」と9日に書いた「笠百私印」の「笠氏」との関連、「西行」が「陸奥」の歌を多く残しているにもかかわらず、歌枕である「真野の萱原」について詠んでおらず、「芭蕉」も寄り道して石巻まで行ったが詠んでいないのはなぜなのか、と謎だらけで。
(宮城の歌枕3:http://www.mni.ne.jp/~t.iwata/utamakura/utamakura03.html)
(石巻を訪れた背景を考える:http://www.bashouan.com/pvToIshinomaki.htm)

西行も芭蕉も、「真野」は石巻市の真野・萱原地区でも福島県南相馬市鹿島区の真野川流域でもない、ということを言わんとしているとか?逆に、それらの土地に何かがあって、それに気付かせるためにわざと詠まなかったとか?

「笠女郎贈大伴宿祢家持歌三首」のうちの2首(万葉集巻3−395・巻3−396)を、「「託馬野に生ふる紫草衣に染めいまだ着ずして色に出でにけり」という笠女郎の歌と陸奥の真野萱原は対をなしてをり・・・」と引用されているが、残りの1首の「奥山の岩本菅を根深めて結びし心忘れかねつも」は?と思ってしまうわけで。

「金銅双魚佩が下賜されたことと真野郷が万葉集に歌われたことはセットなのである。」というのもよくわからず、「金銅双魚佩」は南相馬市鹿島区の「真野古墳群」の出土分をおっしゃっているようだが、頭の中ではまだ繋がってなくて。
(真野川流域の王者の装い:http://www.mahoron.fks.ed.jp/kaisetsu/12_sougyo.pdf)
(毛野(賜姓の謎):http://www.musubu.jp/manoshousei.htm)

何となく「物部氏のテリトリー」だったのかもと思えるくらいで・・・。

ただ、最後の行に書かれていた「功績のあったものに笛を与えるという習慣があったのだ。」というのが、「丹後・丹波・乙訓の弥生時代」の初めに書かれていた「陶けん」という「土笛」と繋がりそうで。

「静岡県・伊場遺跡でも、土笛が見つかっていますが、ここ以外は、すべて、日本海側に集まっています。」とのことで、「浮田物部」についてかかれていたサイトで「金銅双魚佩」が「継体天皇の時代各地の有力者に配られたことは間違いないだろう。」とされるのと繋がるのであれば、「陶けん」という「土笛」も同じように与えられたものなのかも。
(宗像地方の弥生時代:http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1425.html)

どう調べていいのかわからずにいるので、日本海側以外から出土したという静岡の「伊場遺跡」を検索すると、「郡鎰取」という出土品があり、「古代の役所跡」として「遠江国敷智郡」という地名が出てきて、物部氏と繋がりそうで。
(伊場遺跡:http://inoues.net/ruins/iba.html)
(物部分布:http://mononobe.nobody.jp/map/east.htm)

ウィキペディアで「伊場」を見ると、

東伊場はかつて、山城国相良郡の賀茂神社の荘園で岡部郷と呼ばれていた。伊場と呼ばれるようになった時代や理由は定かではないが、賀茂神社領の斎場(いみば)であったところから「いば」に転じた、または伊場遺跡から多くの量の鋳物が見つかったことから「鋳物の場」つまり「鋳場」となって後に伊場となったなどの説がある。この領地を所有していた岡部氏はかつて京都上賀茂神社の神官をしていた賀茂成助にはじまり、成助の子孫にあたる賀茂師重の長女筑前局が文永年間に岡部郷を領地として賜り、筑前局の弟の孫にあたる賀茂定朝が京都からこの地に赴き土着した。国学者賀茂真淵はこの一族である。
(伊場:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%A0%B4)

とあり、秦氏とも関連がありそうな感じもしつつ、「斎場(いみば)」が「いば」に転じたというよりも、「員弁」「猪名部」「印旛」などからの転訛のように思えたりもして。

「真野明神は祭神は草野姫命」とあることや、物部氏や秦氏・大伴氏などが絡んでくることからも「瀬織津姫」に繋がり、「真野」は「野間」の転訛によるものかも、と。

ただ、毛野王国(物部)〜真野萱原の歌(万葉集)とされる結論について、「勢力争い」によるものではなく、氏族の融合のように思われ、最終的に祭祀は中臣氏に任せて土地と鉱物を乗っ取りにかかったのが不比等たちなのではないかと推測するわけで。

話が変わりますが、「航海に鏡が使われた」という内容のことが書かれていたことで、「高地性集落」との通信手段に「鏡」が使われたのかも、と・・・。


9日に「大風呂南1号墓」について少し書きましたが、出土した特徴のある「有鈎銅釧」と同型のものが愛知県の「三王山遺跡」にだけ出土しており、「刃関双孔剣(はまちそうこうけん)」が「その分布が東海から関東へと広がる近畿北部と東海以東の地域との交流を示す遺物」(p199)とされていて、「こうした副葬遺物の共通性や土器交流から、丹後と東海との関係性はこの時期に急激に強まったことが明らかである。」とのことで、上記の静岡の「伊場遺跡」で「土笛」が見つかったのもその表れかと。
(大風呂南遺跡群:http://inoues.net/tango/ohburo_minami.html)
(図10 螺旋状鉄釧路の分割配布:http://www.hum.u-tokai.ac.jp/arch/pdf/20100515kanto-zenki_kofun.pdf)
(東国の起源:http://www.fieldnote.info/?p=633)

また、沖縄諸島が産地である「ゴホウラ」が、「大輪田泊」を見下ろす位置にある「夢野遺跡」から、「弥生土器」に30数個入った形で出土しているそうで、「大輪田泊」を「瀬戸内海交易の一大拠点と考えられている。」(p203)とのことで、交易に秦氏の関与が伺えるようで。

「ゴホウラ」は「北部九州の弥生首長層の装身具あるいは身分を象徴する品として珍重された。」ということで、行基ゆかりの地と重なるのかを検証してみたかったけど、出土地の一覧表はネット検索ではみつからなくて・・・。

しかも、「土井ヶ浜遺跡」の南西1キロほどのところには、行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院「福仙寺」があるが、ホームページには行基の名が出てこないし、9日に書いた「要池遺跡」の南東約1キロのところにはかつて「極楽寺」があったようだが現存せず・・・ということで、検証は難しいようで。
(福仙寺:http://members2.jcom.home.ne.jp/88fukusenji/index.html)

2010.10.16(Sat.)

森氏の著書の第六章「丹後・丹波・乙訓の古墳時代」は、第五章とともに森氏のお知り合いの方が書かれていて、第六章では第五章より古墳の関係が複雑そうで、交流が盛んだったことがわかりやすく書かれていた。

築造企画や出土品の類似点は興味深いですね。

PCのメモ帳じゃおっつかないから、手書きでメモにもまとめてたんだけど、4世紀代はヤマト政権と密接な関係にあり、5世紀代には河内政権と直結していく、という「乙訓の古墳の特徴」(p276)の1つを見てから悩んだ・・・「王朝交替説」はどう捉えたらええねん?と。
(王朝交替説:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E4%BA%A4%E6%9B%BF%E8%AA%AC)

出土品からみられる「瀬戸内」との交流は、「河内王朝」によるものなのか、それとも「三輪王朝」から受け継がれたものなのか、「尾張連系」には「旧事紀」と「国造本紀」とでは違いがあるようで、「物部氏」とされるけど本当?ってな感じで、ようわからん・・・。
(尾張連系:http://homepage1.nifty.com/moritaya/kokuzou15.html)

とりあえず、「剣菱型」の古墳である宇都宮市の「塚山古墳」や、同じく栃木県の小山市にある「摩利支天塚古墳」は、高槻市の「今城塚古墳」から名古屋市の「断夫山古墳」を経て到達した「継体天皇」ゆかりの氏族による築造かな、と。

しかし、丹波の製鉄遺跡「園部垣内古墳」、向日市の「寺戸大塚古墳」、西京区の「百々池古墳」から出土した同型の「仏獣鏡」は、13日の群馬の「赤城塚古墳」からの出土品とは入手経路が異なるのかどうかなど、新たな謎にどうしたものやらと宙を見てるしかなくて。
(赤城塚古墳:http://www.gunmaibun.org/remain/guide/tomo/akagizuka.html)

うーん・・・とりあえず覚え書きしておこう。

<丹波全体を治めた最高首長墓の系譜>(p279)

園部垣内古墳(南丹波(園部)・四世紀後半・前方後円墳)

聖塚古墳(北丹波(綾部)・五世紀前半・方墳・秦氏?)

私市丸山古墳(北丹波(綾部)・五世紀中頃・円墳・物部氏?)

雲部車塚古墳(西丹波(篠山)・五世紀中頃・前方後円墳・丹波道主命?)

千歳車塚古墳(南丹波(亀岡)・五世紀末頃・前方後円墳・倭彦王?)

(園部垣内古墳:http://blog.goo.ne.jp/tommz_1938/e/399eeb20cfcdbe47f90a7145f8ed8f71)
(聖塚古墳:http://www.ayabun.net/bunkazai/annai/hijirizuka/hijirizuka.htm)
(私市丸山古墳:http://minabyoudou.at.webry.info/200904/article_7.html)
(雲部車塚古墳:http://www.harimaya.com/sasayama/sasa53/sasa53_71.html)
(千歳車塚古墳:http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page524.html)


<佐紀陵山型の古墳(同時期・同規模の巨大古墳)>(p287)

網野銚子山古墳(丹後)
五色塚古墳(播磨)
御墓山古墳(伊賀)など

(網野銚子山古墳:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B2%E9%87%8E%E9%8A%9A%E5%AD%90%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3)
(五色塚古墳:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%89%B2%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3)
(御墓山古墳:http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/iga1.html)


<導水施設(祭祀遺構)の出土した古墳>(p296)

浅後谷南遺跡(丹後)
纏向遺跡(奈良・四世紀初頭)
服部遺跡(滋賀・四世紀)
南郷大東遺跡(奈良・五世紀)など

(浅後谷南遺跡:http://www.city.kyotango.kyoto.jp/service/digitalmuseum/siteibunkazai/asagotani.html)
(纏向遺跡:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%8F%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1)
(服部遺跡:http://www.city.moriyama.shiga.jp/pub/submit.nsf/ecbd6dc8a5cd9ee949256db100454033/121a42144e128f4449257486000d9a63!OpenDocument)
(南郷大東遺跡:http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_05_13.htm)


<丹波全体を治めた最高首長墓の系譜>(p300)
(丹後国を含む旧丹波国で100m級以上の前方後円墳とした場合)

白米山古墳(四世紀前半)

蛭子山古墳(四世紀中頃)

網野銚子山古墳(四世紀後半)

神明山古墳(四世紀末頃)

黒部銚子山古墳(五世紀前半)

雲部車塚古墳(五世紀中頃)

千歳車塚古墳(五世紀末頃)

(白米山古墳:http://home.p01.itscom.net/whites/old%20shrine/inisienomiya2.htm)
(蛭子山古墳:http://inoues.net/tango/kayacho_kofunpark.html)
(網野銚子山古墳:http://inoues.net/tango/chosiyama_kofun.html)
(神明山古墳:http://inoues.net/tango/kodainosato.html)
(黒部銚子山古墳:http://inoues.net/tango/kurobe_chosiyama.html)
※五世紀前半までは丹後、五世紀中頃以降は丹波に移動、のちに山城の交通の要衝に寺院が建立されるようになる

2010.10.18(Mon.)

神奈備さんの掲示板で「凡牟都和希」について書かれており、森氏の著書の第二章を読み返してたけど、凡牟都和希の母・沙本毘売とその兄・沙本毘古の起こした反乱がよくわからなくて。

森氏は「崇神天皇のときの武埴安彦の反乱にも関連があるとみている。」とされていて。

うーん、沙本毘売・沙本毘古の乱=武埴安彦の乱ということ?「武埴安彦の乱」については、森氏の前著書から2009.12.23分に少し書いているけど、まだ頭の中では未消化というか、よくわかってないというか・・・。

「古事記」によると沙本毘古の乱のあらすじは、

狭穂毘売は垂仁天皇の皇后となっていた。ところがある日、兄の狭穂毘古に「お前は夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられて「兄のほうが愛おしい」と答えたところ、短刀を渡され天皇を暗殺するように言われる。

妻を心から愛している天皇は何の疑問も抱かず姫の膝枕で眠りにつき、姫は三度短刀を振りかざすが夫不憫さに耐えられず涙をこぼしてしまう。目が覚めた天皇から、夢の中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり私の頬に雨がかかった。」これはどういう意味だろうと言われ、狭穂毘売は暗殺未遂の顛末を述べた後兄の元へ逃れてしまった。

反逆者は討伐せねばならないが、天皇は姫を深く愛しており、姫の腹には天皇の子がすくすくと育っていた。姫も息子を道連れにするのが忍びなく天皇に息子を引き取るように頼んだ。

天皇は敏捷な兵士を差し向けて息子を渡しに来た姫を奪還させようとするが、姫の決意は固かった。髪は剃りあげて鬘にし腕輪の糸は切り目を入れてあり衣装も酒で腐らせて兵士が触れるそばから破けてしまったため姫の奪還は叶わない。天皇が「この子の名はどうしたらよいか」と尋ねると、姫は「火の中で産んだのですから、名は本牟智和気御子とつけたらよいでしょう」と申し上げた。また天皇が「お前が結んだ下紐は、誰が解いてくれるのか」と尋ねると、姫は「旦波比古多多須美知能宇斯王に兄比売と弟比売という姉妹がいます。彼女らは忠誠な民です。故に二人をお召しになるのがよいでしょう」と申し上げた。そうして炎に包まれた稲城の中で、狭穂毘売は兄に殉じてしまった。
(狭穂彦王の叛乱:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AD%E7%A9%82%E5%A7%AB%E5%91%BD)

とのことで、著書にあるように「古代の豪族の家の絆の強さのわかる話」ということのようだけど、「旦波比古多多須美知能宇斯王」は「丹波道主王」で、沙本毘売は姪たちを垂仁天皇の皇后・妃に薦めた、ということになるようで、そうしたのはなぜ?と。

「凡牟都和希王」が言葉をしゃべらなかったのは「出雲大神の祟り」とされ、8日に書いた「曙立王」らと「出雲」に行き、「大神を拝させると皇子はしゃべれるようになったという。」とのことで、「曙立王」らと「出雲」に行ったことにも何かありそうで。
(誉津別命:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%89%E6%B4%A5%E5%88%A5%E5%91%BD)

そして掲示板に書かれていた「一に云う。凡牟都和希王(ほむつわけのおおきみ)俣那加都比古(くいまたなかつひこ)が女子(むすめ)、名は弟比彌麻和加(おとひめまわか)を娶りて生める兒は若野毛二俣王(わかのけふたまたのみこ)云々。」とある「上宮記」(逸文)は、俣那加都比古(河派仲彦)のむすめ・弟比彌麻和加(息長真若中比売)を娶りて生める兒は「若野毛二俣王」となるようで。

とすると、凡牟都和希王=応神天皇?沙本毘売=神功皇后?
(応神天皇:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87)

「釈日本紀」を著した「卜部兼方」が、現存しない「上宮記」から引用したようだが、「九鬼文書」は神代文字を不比等が漢字に書き改めたようで、藤原家の都合に合わせて書き換えをしている可能性もあり、「上宮記」にもそれがないと言い切れないようにも思えたり・・・。

で、「千歳車塚古墳」が「剣菱型」古墳に至る前の「片直角型」とされていて、「倭彦王」に関係するかもしれないようだが、「仲哀天皇」に連なる家系とされる「倭彦王」と、「応神天皇」に連なる「継体天皇」が近い関係にあり、「継体天皇」以前とは系統が別、ということになる?

応神天皇の孫・履中天皇の子が「市辺押磐皇子」で、「播磨国風土記」には「市辺天皇命」とあるそうで(p41)、そのことと関係がある?「崇神天皇」から別系統になったという説もありますよね・・・。

「市辺押磐皇子」に仕えていたのが、「浦島太郎」の伝説のある「余社郡」の豪族・日下部連で、「市辺押磐皇子」の子の「ヲケ王」「オケ王」にも従っていて、ヤマト北部と丹波の繋がりを示す1つと捉えておられるようで、そうすると豪族の中でも従っていた天皇が異なる場合、沙本毘売と垂仁天皇のような関係に?

でも、それも何かウラがありそうな、というか、記紀が語らない本当の理由がある感じがするんだが。

あと、ずっと気になっていた「飯豊青皇女」についても、女帝であったかなかったかも不明だし、『古事記』・『日本書紀』履中紀が父を履中天皇 / 母を葦田宿禰(葛城襲津彦の子。羽田八代宿禰とも)の女・黒媛とするのに対し、『書紀』顕宗紀に引く「譜弟」は父を市辺押磐皇子 / 母を葛城蟻臣の女・はえひめとする。」とされているのを再度目にして、またもや宙を見るばかりで・・・。
(飯豊青皇女:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E8%B1%8A%E9%9D%92%E7%9A%87%E5%A5%B3)

ただ、「市辺押磐皇子」関連の事柄も、上記の「凡牟都和希王」のことのように重複しているようにも思われて。

「上宮記」に「伊波礼宮治天下乎富等大公王也」と、「継体天皇」を「乎富等大公王」と書いていて「大王」ではないことなど、「敬称を区別して記述」されていることや、「天武天皇」が「真人姓」を与えた氏族のことなどが書かれたサイトがあり、興味深いな、と。
(継体天皇の出自:http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage626b.htm)
(上宮記(逸文1):http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/jyouguuki/01_fr.htm)

太子に繋がる系譜が「大王」で、別系統は「大王」以外にしているとか?

そういえば9日に「老人嶋神社(明神)」について少し書きましたが、「陰陽の世界」(平凡社)には「老人嶋明神」は一説に「ホアカリ」と継体天皇妃「目子郎女」とされている(p96)そうで気になる。

14日に書いた「継体天皇」に繋がるとされる「金銅双魚佩」と、「陰陽の世界」98ページの生の鯛の「懸魚」の写真が似ているんだが、「神社仏閣の屋根に取り付けた妻飾り」になったのはいつ?「本願寺には、海人の飾りすらあると聞いている」とあるのも気になる。
(真野20号噴出土魚佩:http://www.mahoron.fks.ed.jp/kiyou/2001_32_3.htm)
(懸魚の由来と形態:http://www3.ocn.ne.jp/~toto/whats_main.html)
(瓦懇志の外道性:http://www.jiin.or.jp/turezure/kegyo.htm)

が、「懸魚」は「だんじり」にもあるようで、横道にそれてしまいそう・・・。
(板原のだんじり会館:http://blogs.yahoo.co.jp/gkrgd678/47938880.html)

2010.10.20(Wed.)

森氏の著書の第七章は「社と寺、名勝そのほか」で、室町幕府の有力御家人のひとり「一色満範」が守護の地にある「智恩寺」に、「足利義満」が6回も訪れていることが書かれていて、「世阿弥」が供をしていたかもしれない、と。(p310)

「世阿弥」は「義満が建てた金閣」をベースにした「銀閣」の庭園を、義満の孫・義政と作っており、足利氏と「世阿弥」の繋がりに「風姿花伝」が関係しているように思え、「智恩寺」が「竜神」の登場する謡曲「九世戸」の題材となっているあたりに何かありそうで。
(足利義政:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%94%BF)
(智恩寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%BA%E6%81%A9%E5%AF%BA_(%E5%AE%AE%E6%B4%A5%E5%B8%82))
(謡曲「九世戸」の舞台:http://web.mac.com/harusan1925/B/%E8%B3%87%E3%80%80%E8%B6%8A%E5%89%8D%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89.html)

「足利氏」は「平安時代に河内源氏の棟梁、源義家(八幡太郎義家)の三男・源義国(足利式部大夫)は下野国足利荘(栃木県足利市)を領して本貫とし、次男・源義康以降の子孫が足利氏を称する。」とあり、「下野国足利荘」は16日に書いた群馬の「赤城塚古墳」から北西約10キロほどのところと思われることや、2010.09.09の系図から、守護の「一色氏」や供をした「世阿弥」を含めて、「古代からのネットワーク」に関係していたと思われ、「智恩寺」もそれに関連していることによる訪問かと。
(足利氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%B0%8F)

あとのページに「籠神社」に伝わる「海部氏系図」が「竪系図」であることについて、埼玉の「埼玉稲荷山古墳」出土の鉄剣を「先例」とされていて、群馬の「赤城塚古墳」の南西約10キロほどのところに「埼玉古墳群」があり、こちらもまた「古代からのネットワーク」に関係していそうな。

314ページには「籠神社」の主神の「ホアカリ」と「彦火火出見」が兄弟とされていることなどが書かれており、丹後国の隣の「若狭国」の一の宮「若狭彦神社」の御祭神が「彦火火出見」であることや、「一色氏」が神社の改修などに関わっていたことにふれておられて、それらも上記の繋がりによるものと思われて。
(若狭彦神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E7%8B%AD%E5%BD%A6%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

806年に坂上田村麻呂によって創建されたとされる小浜市の「明通寺」の御本尊の「不動明王」は、火災で焼けてしまったために「羽賀寺の不動明王を譲り受けて祀ったもの。」とあり、「羽賀寺」は行基ゆかりとされることから、東漢氏と「行基プロジェクト」の繋がりを示し、「古代からのネットワーク」が連綿と受け継がれていることを示すものと思われ、2007.02.01分の「中性院」の御縁起と似ているようで。
(明通寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E9%80%9A%E5%AF%BA)
(明通寺:http://www10.ocn.ne.jp/~myotsuji/)

323ページに書かれている、同じ年に造られた「湯船」が「智恩寺」と「成相寺」にある、というのも同様かと。
(成相寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%9B%B8%E5%AF%BA)

326ページには舞鶴市の「松尾寺」について書かれていて、ホームページには書かれていない「奥の院」に、「富士、浅間、白山、熊野の権現を祀る六所宮」があるとのことで、検索によると「泰澄」が白山で感得したとされる「妙理大権現」が祀られている、とあった。
(松尾寺:http://www.matsunoodera.com/index.html)
(松尾寺:http://takarabako.maxs.jp/matu88.html)
(青葉山:http://kammuri.com/photos/wakasafuji/aobayama.htm)

御縁起に「度重なる火災にあったが、その都度、細川幽斉や京極家によって復興され・・・」とあることや、「馬頭観音」で「小菅山八所権現」を思い出し、「瀬織津姫」が見えてくるようで、やはり「古代からのネットワーク」の根幹と思われるわけで。

2010.10.22(Fri.)

森氏の著書の最終章の第八章「山城の外港、山崎津」は他の章より短めで、先日も書いたように行基のことにふれておられ、第七章の後半の「丹波国分寺」にも、行基の像があることが書かれており、「古代からのネットワーク」に「行基プロジェクト」が見えるようで。

行基関連に至るまでには、「徐福伝説」のある「新井崎神社」のことなども書かれていて(p328)、2010.01.19分や2009.09.01分などにも少し書いてますが、「子孫が秦氏」とされているのが「新井崎神社」にも感じられるような。
(新井崎神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%95%E5%B4%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(新井崎神社:http://inoues.net/mystery/jyofuku4.html)

また「大宮売神社」について、同じように「境内に石製模造品などを出す祭祀遺跡」がある神社として、奈良「大神神社」「石上神社」、玄界灘の沖ノ島などを祭祀場とする「宗像神社」、但馬の「出石神社」などを挙げておられる(p337)ことから、祭祀を行った氏族が共通しているのではないかと思われて。

「大宮売神社」は鎮座地が京都府京丹後市大宮町周枳で、薬師如来を御本尊とする「瑠璃山 浄名庵」(周枳周徳寺)が行基ゆかりのお寺とされていることと、同じような祭祀を行っていたと思われる上記の神社から、「行基プロジェクト」の関連氏族ではないかと。
(大宮売神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%AE%E5%A3%B2%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

あと、「三代実録」から節婦で表彰されたという記事を引用されており、「漢部妹刀自売」が「秦貞雄」に嫁いだとあることから、「何鹿郡漢部郷」は「漢部氏」の居住地で「秦氏」もいたようで、現在の「綾部」は「漢部」だったようで。(p342)
(丹波から伊勢へ:http://blog.livedoor.jp/guen555/archives/2008-09.html)

で、「穴太寺」のある「曽我部町」が、「丹波国桑田郡宗我部郷から続く地名である。」(p357)とのことで、「蘇我氏」のテリトリーだったと思われ、「穴太寺」が「文武天皇の勅願により大伴古麻呂が開創」から「大伴氏」も関連し、「行基プロジェクト」の足跡が見えるような。
(穴太寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E5%A4%AA%E5%AF%BA)

「扶桑略記」にある「穴太寺の仏教説話」の引用文の初めが、「宇治宿禰宮成が、婦女に勧めて菩提寺を造った。穴穂寺の観音像である。」で、「宇治宿禰」はニギハヤヒを祖とすることから「物部氏」であり、「一遍」が「穴太寺」に立ち寄ったのは、11日に書いたように久美浜まで「交流のある地」を辿った証しではないかと。
(宇治宿禰:http://mononobe.nobody.jp/siryou/syoujiroku.html)
(熊野神社:http://kamnavi.jp/en/settu/ukumano.htm)

上記の「扶桑略記」の話に似たものとして、「今昔物語集」の「丹波国郡司、観音像を造る語」を引用されていて(p359)、その話を含めて「今昔物語集」では「馬」が「重要な役割」を果たしているようで、ふと「浦島伝説」を採録した人は丹波国の「伊預部馬養連」と書かれていたことを思い出して検索したところ、大伴氏か尾張氏に繋がるようで、やはり、と。
(伊預部馬養連:http://pub.ne.jp/urashimasetuwa/?entry_id=2492258)
(伊與部:http://www.eonet.ne.jp/~temb/7/shoziroku.htm)

行基について調べていた中でも「馬」はひとつのキーワードと思われたので、「馬養連」は「馬」に関連した人で瀬織津姫についてもよく知っていたから、伝説を知っていたのではないかと推測しているんだが・・・。

「穴太寺」の北4〜5キロのところに、丹波国府だったのではないかとされる「千代田遺跡」があり、その北側に「拝田古墳群」が、「大堰川」を挟んで「国分寺・国文尼寺址」があることが書かれていて(p360)、「(拝田)古墳群の末裔氏族が国府の誘致に関与したことも考えられる。」とあり、「国分寺・国文尼寺」の誘致も同様かと思われ、p362に書かれている「国分古墳群」の「八角墳」と「横穴式石室」や、「阿多古神社」が近くにあることも関連するような。
(丹波国分寺:http://tempsera.at.webry.info/201007/article_22.html)

これらもまた「古代からのネットワーク」と「行基プロジェクト」が繋がっていることの表れかと。

p365に「篠村で忘れることのできないのは篠村八幡宮である。」とされており、尊氏が捧げた「願文」が残されているそうだが、「反意を明らか」にしたのはその地にいた氏族、つまり「古代からのネットワーク」が関与していたのではないか、と。
(篠村八幡宮:http://web.kyoto-inet.or.jp/org/hikarimo/jinjya/jinjya-index.html)

第八章「山城の外港、山崎津」で、道昭と行基の繋がりが考えられることとして「山崎橋」についてふれておられ、その近くにあったであろう「山崎院」跡から出土した「文字瓦」について、堺市にある「土塔」と同じようなものがあったのではないかとされていて。(p376)

残されていたらどんなに嬉しかったことだろうと思いつつ、詳しく書かれていた文字瓦の名前に「秦氏」「六人部氏」(尾張氏)「葉栗氏」(小野氏)があってニンマリしてて。
(文字瓦に見える名前(堺・土塔):http://www.city.sakai.lg.jp/kyoiku/_syougai/_maibun/do2.html)

「京都府・丹波地方に多い「部」のつく地名、姓も秦氏と強い関係があるとされている。例えば「綾部」「園部」「六人部」「余部」「物部」「六万部」「土師部」など。」とされていて、「行基プロジェクト」に関連する氏族と考えていて。
(秦氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-18.html)

ということで、森氏の著書を読み終えて、「古代からのネットワーク」と「行基プロジェクト」の繋がりがさらに見えたように思い、そしてそれが「商人道」のルーツだと思った次第です、はい。

2010.10.24(Sun.)

以上で森氏の京都シリーズの検索が一応終了したけど、気になっていることは山ほどあって、そのうちの1つが神奈備さんの掲示板にあった「迦具夜比売」。
(http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/kambbs.cgi)

京都シリーズの前作で、「ぼくの見通しでは、『竹取物語』は隼人の文化の凝縮ではなかろうか。(p103)」とあり、「竹細工」や「月」との関連などからも「隼人」が絡んでいるだろうなと思っていたし、先日書いたように「隼人」は複数の氏族をそう呼んでた可能性もありそうだなと感じていて、「迦具夜比売」についての検索をしてなかった。

で、ちょこっと調べてみたら、「迦具夜比売」の祖父とされる「比古由牟須美命(彦湯産隅命)」が「日子坐王」ではないかとされるサイトがあり、だとすると「大筒木垂根王」が「丹波道主王」で「筒木」と「丹波」を治めてた?そういえば「丹波道主王」の子に「竹野媛」っていたし・・・と、頭がウニ。
(随想 かぐや姫の物語:http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/zuisou-rekisi/kaguyahime.htm)
(丹波道主王:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E9%81%93%E4%B8%BB%E7%8E%8B)

「椿井大塚山古墳」の被葬者が、「迦具夜比売」の祖父とされる「比古由牟須美命(彦湯産隅命)」である可能性が高い、と書かれていたサイトがあり、「海部あるいは和邇・和珥を名乗る一族」に、比古由牟須美命(彦湯産隅命)=日子坐王であれば、物部氏などに繋がるようで、どちらも「隼人」と関連がありそうだなぁ、と。
(大海氏:http://tokyo.atso-net.jp/pukiwikip/index.php?%C2%E7%B3%A4%BB%E1)


(2010.10.25(Mon.)追記)

関連するのは大伴氏?神奈備さんが掲示板に書かれていたんだが・・・よくわからなくて・・・。

で、ふと思い出したんだけど、「大若子命」の軍に大伴氏・物部氏がいたというのがありましたね。
(大若子命の来援:http://pc-qqbox.com/kodaishi/abiko4.htm)

「大若子命」の祖「天日別命」は「渡会氏」の祖でもあるようだが、「渡会氏」は「ホアカリ」との関連も見受けられ、丹波との繋がりもありそうな感じだが、日本海方面での大伴氏の足跡は「大若子命の軍」「家持」以外は追ってなかったなぁ、と。
(度会氏:http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_wata.html)
(度会氏・荒木田氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-34.html)

あ、「蜂子皇子」の祖父が「大伴糠手」でしたっけ。「蜂子皇子」が東北方面に逃げたのは、太子による手筈かと思っていたけど、大伴氏によるものだった、ということなのかも?


(2010.10.26(Tue.)追記)

うーん、「おとくに」さんのサイトの「大伴氏考」を拝見していて、大伴氏の祖「天忍日命」の曾孫が「日臣命」(道臣命)とあり、「日臣命」の父を「刺田比古」とも「天津日命」ともされていて、なのに和歌山の「刺田比古神社」では御祭神として「刺田比古」も「天津日命」も名はなく、上記の「道臣命」と、「大伴金村」の子で「大伴糠手」とは兄弟である「狭手彦命」で。
(大伴氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-11.html)
(刺田比古神社:http://www.genbu.net/data/kii/sasutahiko_title.htm)
(刺田比古神社:http://www.jtw.zaq.ne.jp/okanomiya/)

「狭手彦命」は松浦近辺の「佐用姫伝説」で出てきますが、「佐用姫伝説」は2010.02.11分に書いたように、2010.01.16分に書いた兵庫県佐用郡の「佐用都比売神社」と繋がりそうで、境内社「佐與姫神社」がある「田島神社」が、「宗像大社辺津宮」と「対象配置」というあたりが気になるところで。
(田島神社:http://www.genbu.net/data/hizen/tajima_title.htm)

「佐用姫」は瀬織津姫に仕えていた巫女?「田島」と「但馬」は同じ氏族によって地名移動したことを示す?などと推測したりするわけだが、「道臣命」とともに「狭手彦命」が祀られているのはなぜなのかは不明で。

「富士浅間神社」に残されている「伴姓古屋氏系図」に「刺田比古」の名があるのは、「糠手」「狭手彦命」と同じく兄弟の「磐」が甲斐国に移ったことによるものだそうだが、「浅間神社」は「和邇氏系」で別系統とされてはいるものの、いずれもコノハナサクヤヒメ=瀬織津姫を祀っていると思われ、大伴氏と和邇氏の融合が見られるようで、「行基プロジェクト」の背景にも見受けられる氏族と捉えているのだが。
(伴姓古屋氏:http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/middle/s_sengen.html)
(大伴神社考:http://www5f.biglobe.ne.jp/~sinanodaimon/sinanodaimonmain.files/daimonheya.files/daimonsaki.files/7ootomojinjya.htm)

「和邇氏考」で「即ち「彦坐王」がらみの女性陣の存在が意味ありと判断している。」というのを拝見し、また「彦坐王」が気になってきた。
(和邇氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-10.html)

2010.10.26(Tue.)

「森浩一の考古学人生」という著書に、4年前に書かれた「富山市日本海文化研究所報37号」(p56)が転載されており、日本海側における文字文化や仏教の伝播が早い時期だったと捉えておられるようで、それらに絡めて「泰の信仰の拠点が福井県の越知山にあったのとも何か関係がさぐれそうである。」とされていて。

仏教の伝播は、13日に京都シリーズから引用させていただいた「三角縁仏獣鏡」の出土や「梁書」の記述から、「仏教公伝」よりも早かったという証しと思われ、「仏教公伝」以前は「山岳修験者」の信仰として各地に伝わっていたのかも、と。

越知山での「山岳修験者」の信仰、すなわち「山岳信仰」と「修験道」を融合させ、そこに「瀬織津姫」を主に「神仏習合」させて「越知大権現」としたのが「泰澄」かと。
(越知大権現:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E7%9F%A5%E5%A4%A7%E6%A8%A9%E7%8F%BE)

そしてそれを、隠された神を守る手段、多方面における唐への国力の誇示、各方面にいた同族との情報交換の拠点の整備など、様々な目的をもって全国的に広めたのが「行基プロジェクト」かと。

中野市や須坂市の「越智神社」に「ニギハヤヒ」が祀られており、越知山頂の「越知神社」は「伊邪那美神」「大山祇神」「火産霊神」が祀られているが、どうやら物部氏と繋がりそうなあたりにやはり、と。
(中野市・越智神社:http://www.genbu.net/data/sinano/oti_title.htm)
(須坂市・越智神社:http://www.genbu.net/data/sinano/oti2_title.htm)
(「越智」の起源と泰澄和尚:http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/ochi1.htm)

2010.10.28(Thu.)

昨日テレビを見ていた時に「小海線」が出てきて、「佐久鉄道」と「信玄棒道」との関連や、信玄と「布引観音」の繋がりなどが気にかかったが、布引観音は「1548年、信玄が楽厳寺入道・布下仁兵衛を攻略した際に焼失」したことくらいしかわからなかった。
(小海線:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B5%B7%E7%B7%9A)
(小海線の歴史:http://homepage2.nifty.com/yoshijistudio/history.htm)
(信玄棒道:http://www2.ttcn.ne.jp/~akainu/singenboumichi.html)
(布引観音:http://kusabue.jp/nunobiki1.html)

信玄直筆の「掛軸」、「式包丁」などが伝わっているという「佐久ホテル」のページに「祇園振舞の儀」というのがあり、関連するページには「式内大伴神社」があって、「篠澤家の祖先「滋野氏」が奉斎した古社です。滋野氏は長きにわたり天皇家に馬を献上し続けたことでも有名です。」と書かれていた。
(佐久ホテル:http://www.sakusaku.co.jp/rekishi.htm)
(出雲大社 佐久之宮講社:http://www.sakusaku.co.jp/izumo/yukari.htm)

「式包丁」は「四条流」など「北家」に伝わっていたようで、「古くは宮中で正月を祝って行われた儀式の一つ。」のようだが、2009.04.03分にあるように「貴船神社」では「古来の雨乞神事に由来するもので、水の恵みに感謝する祭典。」とされていて、どういう経緯で佐久ホテルに伝わったのかが気になるところで。

「滋野氏」は2009.05.01分などで書いているように「紀(直)氏と同系氏族」のようで、佐久郡・小県郡の一部を支配していたという「岩村田藩」の藩主家「内藤氏」だそうだが、「内藤氏」について2010.01.27分で書いてからちょっと気になってた、「三河系内藤氏」が「丹波国の守護代」や「長門国の守護代」と「同族」というあたり、「出雲」「古代からの繋がり」「北家」が繋がっているようで。

「滋野氏」「馬」に関連する「大伴神社」に、特殊神事「榊祭」という「火祭」があるそうで、また「弁財天」が「近江国竹生島から勧請」されていること、「西宮神社」があることなど、「瀬織津姫」が祀られているような。
(大伴神社:http://www.genbu.net/data/sinano/ootomo_title.htm)

「浦島伝説」を採録した丹波国の「伊預部馬養連」は大伴氏か・・・。

「出雲大社 佐久之宮講社」のサイトで「大伴神社」の下に書かれていた「曲口神社」は、「シャクグチ」が「シャグチ」になったそうだが、「ミシャグジ」信仰と関連があるように思われ、以前読んだ「日本の鉄道をつくった人たち」に旧跡・名所などに行きやすいように線路を敷いたという目的もあることから、「小海線」は「曲口神社」やかつての「中山道」を意識して作られたものかも、と。
(曲口神社:http://izumosaku.blog85.fc2.com/blog-entry-428.html)

とすると、「小海線」は「ミシャグジ」信仰、というか、「瀬織津姫」への祭祀の足跡を線路で繋ごうとしていたのかも・・・。
(諏訪湖の通底伝承 他:http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_tree?base=118&range=30)

先日書いた和歌山の「刺田比古神社」が「国主(くず)神社」と言われていたこと、茅野市の「葛井神社」の代々の神主であった「九頭井大夫」家に「武田信玄の寄進状および朱印状」が伝存されているということ、「葛井神社」の「御手幣送りの神事」が「大伴神社」の特殊神事「榊祭」という「火祭」に似ているような、熊野の「火祭」などに似ているような、というあたりも「瀬織津姫」で繋がりそうで。
(葛井神社:http://www.genbu.net/data/sinano/kuzui_title.htm)

ということで、相変わらずまとまりなく書き連ねておりますが、「行基プロジェクト」の中の大伴氏が少し見えたような感じがしたような・・・。

2010.10.29(Fri.)

2010.09.24分で少し書いただけだった「勝海舟と明治維新」について、そろそろ書いておこうかなと読み返し、ふと思ったのが「商人」と「武道」がびみょ〜に絡んでいて、そこに何らかの信仰があったりして、背後に山岳修験者が関係していることを表しているのかも、と。

2010.09.21分に少し書いたように、「函館商人」の「渋田利右衛門」は書店で出会ってから海舟のスポンサーになり、自分に何かあった場合にと海舟に紹介したのが、灘の酒屋の「加納治左衛門(嘉納治郎作?)」、「銚子商人」の「浜口儀兵衛」(ヤマサ醤油)、「伊勢商人」で江戸で両替商や醤油の売買をしていた「竹川竹斎」と弟の「竹口信義」で。

海舟が「剣術」を教わったのは、「天保の三剣豪」などと言われた従兄弟の「男谷信友」(直心影流男谷派)と「島田虎之助」(直心影流島田派)で、スポンサーのひとりである「嘉納治郎作」の3男「嘉納治五郎」は「柔道」の創始者で。
(男谷信友:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E8%B0%B7%E4%BF%A1%E5%8F%8B)
(島田虎之助:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E8%99%8E%E4%B9%8B%E5%8A%A9)
(嘉納治五郎(全日本柔道連盟):http://www.judo.or.jp/article-reader/internal-1.0.php?id=109-kanou)

「嘉納治五郎」は「合気道」の創始者「植芝盛平」との繋がりがあったようで、「植芝盛平」というと「出口王仁三郎」を思い出すが、「北海道開拓団体」に参加したことや、武術家で「大東流」の「武田惣角」と出会ったのは、「甲斐武田氏」の末裔という糸川家の出の母の影響があったのかも、と。
(植芝盛平:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E8%8A%9D%E7%9B%9B%E5%B9%B3)

で、「天保の三剣豪」のもうひとりが「大石種次」(大石神影流)で、三剣豪の武術のルーツとして「剣術新陰流疋田陰流(愛州景流、神陰流)派」があるように思われたので検索すると、「上泉信綱(上泉伊勢守)の甥といわれる疋田景兼の系統の新陰流。」とあった。
(大石種次:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E9%80%B2)
(疋田陰流:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%8B%E7%94%B0%E9%99%B0%E6%B5%81)

「上泉信綱(上泉伊勢守)」は「上野国赤城山麓(前橋市上泉町)の大胡城に拠った藤原秀郷流の大胡氏の一族とみられ・・・」とのことで「北家」の末裔のようで、「通説では大胡氏の一族とされるが、子孫という上泉家の家伝では一色氏の一族が大胡氏の名跡を継ぎ上泉氏の祖となったと伝える。」とあることから、20日に書いた「一色満範」との関連もありそうで興味深いですね。
(上泉信綱:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B3%89%E4%BF%A1%E7%B6%B1)

で、「上泉信綱(上泉伊勢守)」の「陰流」の師として、「愛洲移香斎(久忠)」を師とする説と、移香斎の子「元香斎小七郎」(猿飛陰流)を師とする2説があるようで、「愛洲移香斎(久忠)」について、

愛洲久忠の出自とされる愛洲氏は、太平記などから建武年間に熊野(紀伊)愛洲氏と伊勢愛洲氏に分かれたとされる。久忠がこの愛洲氏の2流のどちらの子孫にあたるのかという立場で、出自には2説存在する。

伊勢愛洲氏説は延元2年(1337年)宗良親王を北畠親房卿等と共に伊勢一之瀬城に擁して南朝を支え、室町時代は宮川沿いの醍醐寺領・伊勢法楽舎領の荘官として勢力を伸張し文明11年頃、伊勢神宮神領奉行職・愛洲忠行の一族とする説である。

熊野(紀伊)愛洲氏説は、熊野(紀伊)水軍で海運や海賊を生業とした一族で永正年間熊野灘に面した志摩国五ケ所(現・三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦)に進駐したと云う説である。

(中略)

『剣道の発達』(下川潮、1925年)では、『足利季世記 五』の「伊賀国に日置弾正忠豊秀と云者出来て、當流を射初め、故流の射形異形なりとて日本弓修行して江洲(滋賀県)に来り、佐々木高頼・同定頼二代に仕え弓の師と成り、入道して瑠璃光坊と号す。以徳遍く日本を廻り弓の弟子を尋ぬる、云々」とあるのが彼の武者修業の初見としており、また修業地域も近畿地方に限定されている。

(中略)

摩利支尊天信仰への開眼
愛洲久忠が「摩利支尊天」の篤信家であった事は久忠自筆の呪文でよく理解出来る。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%B4%B2%E4%B9%85%E5%BF%A0)

とのことで、海舟のスポンサーの「伊勢商人」の「竹川竹斎」「竹口信義」や「銚子商人」だが紀伊国に住んでいて銚子まで通っていたという「浜口儀兵衛」らの先祖と愛洲氏の繋がりが気になりますね。

また、「日置流」は2009.12.15分に書いたように「和弓」の流派で、祖とされる「日置弾正正次」の高弟の一人に「近江源氏」の一族の「吉田重賢」がいて、「蒲生が「合気」の生まれた土地」ということから「植芝盛平」と繋がるのかも。

さらに、2009.04.29分に書いたように「竹内流」の祖・竹内久盛は、「愛宕神を武の神として崇拝し、さらに、摩利支天を深く信仰していました。」とあることや、「富田流剣法」「西郷派大東流合気武術」が「摩利支天」と繋がることから、「山岳修験者」が背後に見えるようで。
(竹内流備中伝:http://www.geocities.jp/minamoto_hitotsugu/shoshin.html)
(富田流剣法と摩利支天(宝泉寺):http://marici.jp/marici-02/marici-06.html)
(西郷派大東流合気武術:http://www2.ocn.ne.jp/~saigouha/kuden/kuden57.html)

「竹内流備中伝」さんによると、

愛宕信仰、真利支天崇拝、天狗信仰は、すべて修験道の世界と重なり合います。山伏たちは、教養人として尊敬され、農耕儀礼にも多く関与し、その奉ずる信仰が垪和郷を含む吉備高原各地に根付いたといわれています。また久盛は修験道的な信仰とは別に、日蓮宗への熱心な信仰心もあったといわれています。

とのことで、「日蓮宗」の背景にも「山岳修験者」の繋がり、というか、「古代からのネットワーク」が関連しているのでは。

「痛快にっぽん商人道」の「越中商人」のところに、「越中売薬」のルーツは「立山信仰」にあり、立山の「御師」が御札を諸国の檀家に配る際に、熊の胆などを配薬したものを併せて売っていて、「このルートに、本願寺門徒のネットワークが重なった。」そうで、のちに「日本海ルートの北前船が越中を富ませ、新たな商圏を広げることにつながった。」とあり、「古代からのネットワーク」が「山岳修験者のネットワーク」にそして各宗派のネットワークへと、形を変えながらも連綿と受け継がれている、という証しではないかと思われるわけで。

「摩利支天」については2009.04.29分に書いており、その中で「家康の軍神が「摩利支天」だそうで、「浅間神社」には「摩利支天堂」がある」というあたりに「瀬織津姫」が見えるようで、「越中売薬」と同様に、「山岳修験者」の「瀬織津姫」の信仰による繋がりではないかと。

「古代からのネットワーク」によってもたらされた兵法・技術等から「武術」が生み出されて広まったように思われ、それが「商人」の基本的精神でもあるのでは・・・。

つまり、海舟と商人・武術家の繋がりのベースには「瀬織津姫」の信仰があるように思われ、海舟は当然「瀬織津姫」のことを知っていたであろう、と、2010.08.02分での「秦氏」との繋がりのありそうな「竜馬」のことも含めて思ったわけで。

「兵法」というと、5月に読んでた「百人一首」は「六十四卦」と「兵法三十六計」に共通性を持つ歌によって構成されているという、小林耕氏の「新百人一句と真実の百人一首」を思い出して、「古今伝授」が関連しているように思われて・・・。

他にも思うところがあるものの、現在ネットが使えず、今まで調べた中から書いてみたけど、改めて検索しなおしたい分があったりするので、ネットが繋がり次第、続きを書いていきたいと思います。


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