●2010.11.04(Thu.) |
先週の金曜からPCが使えなくなり、さぞかし迷惑メールが溜まっているだろうなと思っていたところ、が会社でメールを処理して必要な分だけ持って帰ってきてくれて、30日付のML「西行辞典 第147号」をようやく拝見できた。
その中に「榊」の歌があり、
榊葉に心をかけんゆふしでて思へば神も佛なりけり (岩波文庫山家集124P羇旅歌・新潮1223番・西行上人集追而加書・西行物語) 榊葉に木綿四手を掛けて、心をこめて祈願しょう。 |
とのことで、続けて、
この歌はいつごろ詠まれたのか不明だが、晩年の伊勢時代の作ではあるまい。「思へば神も仏なりけり」という言い方には、西行の心の中でまだ神仏習合が成熟していないことを感じさせるからである。 西行が晩年の伊勢時代に大日如来の燦然たる輝きの世界に至るまでには、まだ長いさまざまな迷いの悪戦苦闘があった。 (高橋庄次氏著「西行の心月輪」から抜粋) |
と、書かれていた。
「西行の心の中でまだ神仏習合が成熟していないことを感じさせる・・・」というのはあったかもしれないが、そのウラには、「祀られるべき神」があるべき姿で祀られず、「仏」として信仰されるしか道が残されていないという現状を語っているように思えて。
だから、「榊葉に木綿四手を掛けて、心をこめて祈願」し、「私の信仰する仏と同じ」だとするのは、「瀬織津姫」ではないかと。
この歌の前には「しのにをるあたりもすずし河やしろ榊にかかる波のしらゆふ」が掲載されており、「篠竹」「六月の祓い」「河社」に「瀬織津姫」が見え、2つの歌から西行の想いが聞こえてくるような思いがします。
ふと思った・・・。
「行基プロジェクト」がのちの世に語り継がれ、関連した氏族の「象徴」(氏神)として「七福神」があり、繁栄をもたらしたことから、「宝船」に乗せて描かれたのかも?と・・・。
あくまでも希望的観測だったりするが・・・。
かつて「いざなぎ流」と「七福神」に共通点があるのではないかと見ていた部分があって、そのルーツを「行基プロジェクト」とするならば、繋がりが見えてきそうな感じがするのだが・・・。
●2010.11.10(Wed.) |
今日の午後の妄想(?)で、「行基と泰澄の出会い」は「仲介者」がいなけりゃ不可能であったのではないかということから、「仲介者」すなわち「古代からのネットワーク」が「行基プロジェクト」に繋がり、その関係は連綿と受け継がれ、「明治維新」にも大きな影響を与えていたのではないかと思えて。
「痛快にっぽん商人道」「勝海舟と明治維新」に出てくる人物の検索がまだできずにいて、もしその検索が可能になってもその繋がりがわかるかどうかは不明ではあるが、「勝海舟」が「蘭学」を学ぶに至った経緯、学ぼうとしてその師を探し、知り、選ぶに至るまでの経緯、またその師とした人が「蘭学」を学ぶまでの経緯など、ウラのネットワークによる何かがなければなしえなかったように思われるわけで。
江戸時代に「蘭学」を学んだ人々の根底にあるものは、「医者」としての知識の拡充かと思われるが、海舟の生涯を通して見ると、初めから「砲術」に焦点が置かれていたように見え、高度な「砲術」の必要性に遭遇するまでの「蘭学」の必要性は、背後にいたネットワークからの情報によるものがあって、さまざまなプロセスを経て出会うべく人々に出会ったように感じられて。
「勝海舟と明治維新」によると、海舟は「永井青崖」から本格的に「蘭学」を学んだようだが、「永井青崖」は「蘭学好き」とされる福岡藩士「黒田斎清」からの命令で長崎に留学して学んだようであるが、「黒田斎清」の養子「黒田ながひろ」が、蘭学好きの鹿児島藩士「島津重豪」の子であったことが、「永井青崖」をして「蘭学の師」を作り上げたように思えて。
また海舟は「砲術」を「佐久間象山」から学んだそうだが、「佐久間象山」は「江川太郎左衛門」から砲術を学び、「江川太郎左衛門」の師が「高島秋帆」だそうで、「高島秋帆」は「荻野流増補新術」の創始者「坂本天山」から「和砲」を学んだが、「西洋流砲術」にはかなわないと考えて独学でそれを学んだ人物のようで、そのような道を進んだウラには、何かしらの情報網が存在してのことではないだろうか、と。
そもそも兵法学者とは言え、「信州松代藩士」の「佐久間象山」と「勝海舟」の出会いが不思議に思えてならない。
ま、その前に、函館の「渋田利右衛門」と「勝海舟」との出会いも不思議で、「古代からのネットワーク」がなければありえないことだったように思えて。
「渋田利右衛門」は2010.09.24分に書いたように、「南部田名部」の郷士の出ということで「安東氏」との繋がりが伺われ、その「安東氏」が「扶桑王国」に関連する氏族として「古代のネットワーク」の一端を担っていたと思われることから、ウラで海舟との出会いをセッティングしたのでは・・・。
それでいうと、海舟の曽祖父が越後から江戸に出てきたのには、「古代からのネットワーク」があったからこそではないかとも思えたりもするわけで・・・。
あ、海舟と竜馬との出会いも同様で、竜馬のルーツは「山城国」から来た「坂本太郎五郎」だそうで、2010.02.17分の「坂本臣」との関連が気になるところで、関連があれば「和泉郡坂本郷」のみならず、神戸の「六宮神社・八宮神社」との関連も考えられ、「秦氏」や「瀬織津姫」との繋がりがあったものと言えそうな。
あ、竜馬のルーツと「荻野流増補新術」の創始者「坂本天山」との関連も気になりますね。
「永井青崖」をして「蘭学の師」を作り上げた「島津氏」は「住吉大社」との繋がりがあるようで、つまりは九州における「古代からのネットワーク」の一端を担っていたのではないか、と。
詳しく調べてないし、飛鳥・奈良時代以外は苦手なので、「長州藩」と「薩摩藩」についての詳細を知らないんだが、その両藩が反目していたのは「幕府」に対しての表向きのもの、あるいは、「幕府」がそう仕向けたもののように思えて・・・いずれも背後に「瀬織津姫」が見えるように思えるので・・・ま、それは信玄と謙信の場合にも思ったんだけど・・・。
「本音」と「建て前」の二律背反に、それらの人々は苦しんだのではないかとも思えて・・・。
●2010.11.11(Thu.) |
「風琳堂」さんのブログ「大山祇神社と瀬織津姫神【U】」に、「越智氏=河野氏は、この神を自らの祖神に忍ばせていたことになります。秘伝の妙というべきでしょう。」とあり、越智氏・河野氏に「瀬織津姫」の信仰が存在していたようで。
(http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2010/11/08)
それは2010.10.26分などに繋がり、「古代のネットワーク」のバックボーンに「瀬織津姫」があり、「商人のネットワーク」も同じネットワークによるものである、という証しなのでは、と。
河野氏といえば「水軍」が浮かび、ならば「水神」である「瀬織津姫」を祀らないわけがないだろうし、「廻船問屋」も同様ですよね。
●2010.11.12(Fri.) |
海舟の砲術の師とされる「佐久間象山」を調べるつもりが、気が付いたら「忍者」を調べていた。(爆)
海舟のまわりの人物を検索すると、多方面に広がりを持つんだが、その人々が相互に関連していることもあり、その人々の背後に情報網となる「ネットワーク」が存在したように思えて。
おもしろいなと思ったのが、宇和島藩の「伊達宗城」が「村田蔵六(大村益次郎)」に命じてオランダの書物を翻訳させ、「嘉蔵という提灯屋の男(前原巧山)」を製造担当者としたと「痛快にっぽん商人道」にあり、「嘉蔵」は島津斉彬の側近「肥後七左衛門」に学んだそうで、「肥後七左衛門」が「精錬方」の手伝出役に任じられる前年、「宇都宮三郎」が海舟の勧誘により手伝出役になっていて。
(蒸気船の建造:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B8%E6%B0%97%E8%88%B9)
(前原巧山:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E5%8E%9F%E5%B7%A7%E5%B1%B1)
(混沌の中の開成所:http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Archaeology/01/10300.html)
(精錬方:http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%B2%BE%E9%8C%AC%E6%96%B9/)
はい、ここからの連想が「火薬玉」で「忍者」を調べることになったわけでして、「天正伊賀ノ乱で伊賀を脱出した百地党や藤林党の面々が紀州に逃れて根来衆と混ざったとする説がある」とのことから、「鉄砲の伝来は根来と堺」とのことで2004.03.27分の堺・七道の「鉄砲鍛冶射的場跡」のことなどに繋がるかと。
(花火と忍者:http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/4898/zuihitsu2.htm)
で、「佐久間象山」だが、「天保4年(1833年)に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に朱子学を学び、山田方谷と共に「二傑」と称されるに至る。」とあり、「山田方谷」は「藩財政を立て直した農民出身の改革宰相」として「痛快にっぽん商人道」の「岡山商人」に出てきてたので、背後に海舟やそのネットワークが見えるようで。
(佐久間象山:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1)
(山田方谷:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%96%B9%E8%B0%B7)
「佐久間象山」は「江川太郎左衛門」から砲術を学び、海舟に伝えたようだが、「江川太郎左衛門」のあとの師が「下曽根金三郎」で、両者とも「高島秋帆」から砲術を学んでおり、「高島秋帆」については「痛快にっぽん商人道」の「長崎商人」に出てきたが、「先祖は近江国高島郡出身の武士で、近江源氏佐々木氏の末裔。」とのことで、「近江商人」の血も入っているような。
(江川英龍:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B7%9D%E8%8B%B1%E9%BE%8D)
(下曽根信敦:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%9B%BD%E6%A0%B9%E4%BF%A1%E6%95%A6)
(高島秋帆:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E7%A7%8B%E5%B8%86)
あ、「痛快にっぽん商人道」によると、「佐藤信淵」の思想が「宇和島商人」「薩摩商人」たちに反映されているようだが、「佐藤信淵」は謎の多い人物のようで、「天明 - 寛政年間 - 父の遺言に従い諸国を遍歴する。」というあたりに、「ネットワーク」の一員として活動していたのではないかという推測が。
(佐藤信淵:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%A1%E6%B7%B5)
出生地の「雄勝郡」には、行基ゆかりとされる伝説や「鷹の湯温泉」があったり、「円空」も立ち寄っているようで、「瀬織津姫」が見えるようで、そのことからも「諸国を遍歴」する事情が推測できそうで。
(あぐりこ神社と三輪神社:http://www.touhoku.com/u8-13-huyukesiki.htm)
(秋田の温泉:http://www.norte.co.jp/yu/akita/21_taka/index.html)
(雄物川の水源神と円空十一面観音:http://otd3.jbbs.livedoor.jp/246945/bbs_tree?base=533&range=1)
そうそう、「痛快にっぽん商人道」によると、竜馬のルーツは「山城国から来た坂本太郎五郎」とあり、2010.02.17分の「坂本臣」(神戸・八宮神社)や、「和泉郡坂本郷に本拠を持っていたと思われる坂本臣氏」との関連が気になるところで。
「坂本氏(坂本臣)は、紀氏(紀臣)同祖の皇別氏族で、紀角の玄孫である建日が居住地(和泉国和泉郡坂本郷)に由来して坂本姓を賜与されたのを始まりとする」とあり、「紀角」は「武内宿禰の五男で、兄に羽田矢代、巨勢小柄、蘇我石川、平群木菟が、弟に葛城襲津彦らがいる。」とのことで、やはり「瀬織津姫」については知っていただろう、と。
(坂本財:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E8%B2%A1)
(紀角:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E8%A7%92)
ということで、またしても横道にそれるばかりであった・・・。
火曜日のニュースの特集で「きのこ」を取り上げておられ、取材されていた栗東市中沢の「菌(くさびら)神社」が気になってて、ネットが使えるようになったので検索してみたところ、あまりみたことのない神名が祀られていた。
御祭神:意富斗能地神、意富斗乃辨神は「日本神話で、天地開闢のとき生成した七代の神」の2柱のようで、その「神世七代」のうちの「面足尊・惶根尊」は、2008.11.08分などで調べたことはあるが、こちらもよくわからなかったわけで。
(菌神社:http://achikochitazusaete.web.fc2.com/chinju/ritto/toresen.html)
(菌神社:http://www.mahoroba-jp.net/blog/2008/11/post_365.html)
(神世七代:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%B8%96%E4%B8%83%E4%BB%A3)
桜井市出雲の「十二柱神社」に「神世七代」が祀られているようだが、やはりよくわからない。
(十二柱神社:http://kamnavi.jp/as/yamanobe/juunisha.htm)
が、狂言「くさびら」は、山伏や天狗が出てくるようでおもろい。秦氏のなせる業?(笑)
(狂言「くさびら」:http://www007.upp.so-net.ne.jp/soma/somatimes/soma/legend/japan02.html)
(狂言「くさびら」:http://homepage3.nifty.com/geturo/karuta/kyougen/kusabira.html)
話を戻しますが、「菌神社」の由来にある「菌田連」(のちの竹田連)が、「火明命五世孫建刀米命之後也」とあることや、神紋が「麻」とされていることから、「物部氏」に繋がるようで・・・竹田連の「竹」は「武」「茸」とも書けそうだし、「隼人」に繋がりのあることを示しているようだな、と。
(「新撰姓氏録」氏族一覧・神別403:http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/syoujirokusinnbetu.html)
「田植えをしようとした」とある「武田折命」が、「延暦二年(783)、大和国宇多郡山辺笹幡宮(宇陀郡・篠畑神社、元伊勢の一社)より勧請された古社」という島根県大田市の「山邊八代姫命神社」(御祭神:天照皇大神)の御祭神という異説があることと、家康が配祀されているあたり、興味深いですね。
(山邊八代姫命神社:http://www.genbu.net/data/iwami/yamabe2_title.htm)
御祭神の異説には「大己貴命の后神」とされるものもあるようで、家康が絡んでいることからも、「瀬織津姫」に繋がるのでは、と。
勧請元の「篠畑神社」を拝見していると、境内社の「佐佐波多姫」の方が本来祀られるべき神、つまり「瀬織津姫」で、社名から秦氏が関連しているように思えるのだが。
(篠畑神社:http://kamnavi.jp/as/uda/sasahata.htm)
(篠畑神社:http://www.nippon-bunmei.jp/tsurezure-86.htm)
(篠畑神社:http://www.7kamado.net/motoise/8.html)
で、余談のような関連のあるような、という感じですが、地図を見ると「菌神社」の御鎮座地はJR草津駅と栗東駅の中間あたりのようで、草津駅近くに「伊砂砂神社」があるのを見て検索したところ、「伊邪那岐命・素盞鳴命・石長比賣命という顔ぶれは、異色です。」と、のりちゃんさんが書かれている通りで。
(伊砂砂神社:http://www.norichan.jp/jinja/kenkou/isasa.htm)
神奈川県高座郡寒川町の「寒川神社」、香川県大川郡寒川町の「大蓑彦神社」、三重県「鴨神社」などに繋がるようで、「近江商人」の廻船先を見ているかのように思えたりして・・・。
(寒川神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(大蓑彦神社:http://www.genbu.net/data/sanuki/oominohiko_title.htm)
(鴨神社:http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is080110-01.html)
(大水上神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B0%B4%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
香川・三豊市の「大水上神社」で、「大水上大明神は大山積命とされているが、諸説あり。」とされており、「宗像大神」は「瀬織津姫」かと。
(讃岐 寒川神社:http://tokyo.atso-net.jp/pukiwikip/index.php?%BB%BE%B4%F4%A1%A1%B4%A8%C0%EE%BF%C0%BC%D2)
神奈川の「寒川神社」で信玄が絡んでくるあたりや、「祭神については八幡神、あるいは菊理媛、素盞嗚命、 稲田姫尊などの諸説」あったとされること、「讃岐 寒川神社」のところに「三浦一族は桓武平氏か」とあって、上記の「佐久間象山」の「佐久間家」のルーツが、「三浦義明の三男である義春の四男・家村が安房国狭隈郷(現千葉県鋸南町下佐久間〜上佐久間)で称したのが始まりと言われる。」とあることなど、瀬織津姫が見えてくるようで。
(佐久間家:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E6%B0%8F)
行基も絡んでくる「阿夫利神社」の御祭神「大山祗大神」は、またの名を「大水上御祖神とも、大水上神とも言い(中略)また、酒解神と言い・・・」とあるので、やはり、と。
(大山阿夫利神社:http://jimbochobl.exblog.jp/9160611/)
あ、「大水上神」の子は、「寒川比古命」「寒川比女命」や「鴨神社」の「石己呂和居命」以外にも、「津布良神社」の「津布良比古命」「津布良比売命」、「皇大神宮」摂社の「久々都比賣神社」の「久々都比賣命」「久々都比古命」、「皇大神宮」摂社の「園相神社」の「曾奈比比古命」も同様のようですね。
(津布良神社:http://recommend.jr-central.co.jp/ise/course/course07/index.html)
(久々都比賣神社:http://www.genbu.net/data/ise/kugutuhime_title.htm)
(園相神社:http://www.genbu.net/data/ise/sonai_title.htm)
奈良の「久須斯神社」では、「大水上神」「久須之神」「天照國照日子火明之神」が祀られており、やはり物部氏に辿り着いた。
(久須斯神社:http://kamnavi.jp/as/yosino/kususi.htm)
さらに、「津布良比古命」「津布良比売命」は、大阪の「御霊神社」で「天照大神荒魂(瀬織津姫)」とともに祀られてますね。
(御霊神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82))
ところで、狂言「くさびら」でキノコが「茄子の印」を嫌う、とあったけど、「茄子」というと、2007.04.18分の「摩多羅神の好物が茄子」とされていることや、2010.01.10分での「スサノオはよく茄子と関係づけられる」というのを思い出すのだが、関連は如何に?
(日光東照宮:http://www.mct.gr.jp/world_h/toushogu/touzai_kairou/nasu.shtml)
(大國主伝説を読み解く:http://homepage1.nifty.com/fumio-y/tuki26.htm)
余談ですが、どれかの検索(たぶん男女一対神、寒川比古命・寒川比女命など)のときに「前玉神社」が出てきて、御祭神が「前玉彦命」「前玉姫命」となっていたが、
『神明帳考証』前立命忍立命 『新編武藏風土記稿』木花開耶姫命 『大日本史』大己貴命前玉比売命 『特選神名牒』前玉命大己貴命 (前玉神社:http://www.geocities.jp/engisiki02/musashi/bun/mus170701-01.html) |
となっており、【祭祀】江戸時代は「上ノ宮」「浅間神社」と称していた、とされていることや、西行の歌碑があるというのを見てニンマリした。
(前玉神社:http://www5e.biglobe.ne.jp/~elnino/Folder_DiscoverJPN/Folder_East/JPN_theSakitama.htm)
埼玉には、2009.08.25分での太子や物部氏に関する「丸墓山古墳」「八幡山古墳」や、2008.08.07分の「常世岐姫神社」のことなどもあったので、瀬織津姫は出てくるだろうと思っていたけど、「さきたま古墳群の中の「浅間塚古墳」の頂に鎮座する。」ということで、行基ゆかりの柏原市の「安福寺」の近くにある「安福寺横穴群」の上に建つ「伯太彦神社」(御祭神:伯太彦命(伯太姫命と夫婦神))や、行基像が向かいにある伊丹の「御願塚古墳」の上に建つ「南之神社」(行基が熊野権現の神霊を勧請?孝徳天皇?)とも関連がありそうで。
(安福寺横穴群:http://inoues.net/club3/kasiharasi2.html)
(伯太姫神社:http://kamnavi.jp/en/kawati/hakuhime.htm)
(伯太姫神社:http://www.xhotzone.net/vh/vh09072001.php)
(南之神社:http://kamnavi.jp/en/settu/itaminami.htm)
●2010.11.16(Tue.) |
海舟から竜馬へ心移りしたわけではないが、「土佐神社」が少々気になりまして・・・「瀧宮」があるようなんだけど、詳細がわからなくて。
(土佐神社境内略図:http://www.tosajinja.i-tosa.com/keidai.html)
森氏の「日本神話の考古学」を読み返していて、天智天皇の時代に「草薙剣」が「道行」によって盗まれたが、嵐によって新羅に持ち帰ることができなかった、という事件があった時、「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」ということがあり、のちに「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」と「日本書紀」にあるようで。
秦氏絡みで賀茂氏によって祀られていた、ということからも、「瀧宮」は「瀬織津姫」が祀られているのではないか、と。
(土佐神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
境内の「礫石」「御手洗池」「禊岩」「斎籠岩」なども、京都の「松尾大社」や「上賀茂神社」などを思い出し、「瀧宮」がとても気になって・・・。
(土佐神社由緒地:http://www.tosajinja.i-tosa.com/yuisyoti_1.html)
新羅の僧「道行」が開いたとされる「法海寺」も気になるところではありますね、知多には行基ゆかりとされるお寺が多くあるし、「道行」が「草薙剣」を「放り出した」ことが地名の由来とされる放出の「阿遅速雄神社」も何やらありそうだが。
(法海寺:http://www.k2.dion.ne.jp/~yakusi/tokai/48.htm)
(阿遅速雄神社:http://kamnavi.jp/ym/ajihayao.htm)
「壬申革命の後」に作られたという航路と国道を経て、「山城国」から土佐の同族の元へと「坂本太郎五郎」は移り住んだのかも、と推測されるが、その理由は何だったのだろうか・・・。
長期的な情報伝達や長期計画のための移住が、古代から連綿と続けられていたとか?「男谷検校」もそうだったりする?ま、その一例が「神武東征」と言えなくもなさそうだが。
●2010.11.18(Thu.) |
の会社の近くに「少彦名神社」があり、11月22・23日は「神農祭」があるということで検索していると、230年前に「五條天神宮」から勧請されたようだが、「五條天神宮」は「桓武天皇の平安遷都にあたり、大和国宇陀郡から天神を勧請したのが当社の始まり」とあって。
(少彦名神社・神農祭:http://www.kusuri-doshomachi.gr.jp/230.html)
(五條天神宮:http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto2/gojouten.htm)
大海人皇子(のちの天武天皇)、中将姫、後醍醐天皇、義経など、「弱者側の逃れる先に、吉野・宇陀がある」とされているのは興味深く、「吉野」は小角や西行などから「瀬織津姫」を連想するが、「宇陀」ってどうなんだろ・・・。
「宇賀神社」の御由緒によると、鎮座地の「宇陀郡菟田野町宇賀志」には「水銀鉱山」があるようで、「五條天神宮」は空海が「天神(雷神・水神)を勧請」したそうだから、やはり「瀬織津姫」かと。
(五條天神宮:http://www.d1.dion.ne.jp/~ueda_nob/wildcat/kyoto/gojotenjin.html)
(宇賀神社:http://kamnavi.jp/as/uda/ugauga.htm)
宇陀市榛原町長峰の「天満神社」に道真が祀られているようだが、境内社の「羽槌神社」(禁野天神)が本来の「天神」かと思われ、2008.10.18分に書いた道真が祀られた「北野天満宮」近くに藤原基経によって祀られたという「雷神」と同神と思われ、2007.04.26分の「倭文神社」絡み、すなわち2009.12.30分の「倭文連。角凝魂命男伊佐麩魂命の後なり」から物部氏絡みのようで。
(天満神社:http://kamnavi.jp/as/uda/tenma.htm)
(怨霊と雷神と天神様と:http://www.pauch.com/kss/g033.html)
で、大阪の「服部天神宮」では御由緒に「秦氏が(神社の御祭神)「少彦名命」を尊崇していた。」とあり、「大山阿夫利神社」の奥社「大雷神」同様、「瀬織津姫」が隠されているんだな、と。
(服部天神宮:http://kamnavi.jp/en/settu/hattori.htm)
(大山阿夫利神社:http://www.geocities.jp/flow_and_stock/jisya-kanto/ooyamaafurihonsya.html)
ん?「服部天神宮の前身の一つが魚名の墓」とあることと、「北野天満宮」近くに「藤原基経」が「雷神」を祀ったことに繋がりがある?「魚名」は北家「房前」の五男で、基経の祖は北家「房前」の三男「真楯」で異母兄弟ではあるが。
(藤原房前:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%88%BF%E5%89%8D)
「魚名」の子孫が、
平安時代に入ると魚名の後裔は地方官などを歴任する中級貴族となり、長らく公卿に列せられる者はなかったが、末茂の末裔である藤原顕季やその息子たちが院政期に院近臣となって急速に勢力を伸ばし、再び公卿の地位を占めるようになった。顕季の子孫は善勝寺流とも称され、嫡流の四条家を始めとして多数の堂上家を輩出した。 鷲取の子孫からは鎌倉時代の有力御家人で秋田城介を世襲した安達氏や戦国大名として有名な伊達氏等、多数の有力武家を輩出した。また、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷は藤成の子孫を称し、こちらもその子孫からは奥州藤原氏や結城氏・大友氏等、多数の有力武家を輩出した。 (藤原魚名:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AD%9A%E5%90%8D) |
というあたりや、「魚名」の母・片野朝臣が「房前の異母妹片野朝臣か。」というのが気になる・・・。
(藤原魚名:http://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%AD%9A%E5%90%8D)
「片野朝臣」の詳細はわからなかったが、魚名の子・鷲取の子孫が「秋田城介を世襲した安達氏」となったことや、「秋田城介」に関する人々が、2010.08.31分の「安東政季」などの「商人」のネットワークに繋がるようだし、「安東氏」(秋田氏)の祖は奥州の安倍氏で「安日・長髄彦」の血統を引くとされる説もあり、気になるところで。
(秋田城介:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E5%9F%8E%E4%BB%8B)
なんだか横道にそれてしまっているが、「北家」については今までにも調べたことはあるものの謎のままで・・・あ、「本能寺の変」は「藤原北家キリシタン秦氏の内紛」とみておられる方のブログ、「源氏と黒潮」など、商人のネットワークにも繋がりそうで興味深い。
(土岐氏と都支国 :http://genimakkoto.blog.shinobi.jp/Entry/483/)
(高知坐神社:http://www.genbu.net/data/tosa/takati_title.htm)
ブログの「土佐戦国史」を拝見していると、「本能寺の変」は「帝政(ローマの帝国主義)の本能(絶対王政)・共和制(ローマ・フェニキア女神崇拝の連邦制連合国家)の本能(一君万民)、この2つが象徴的に衝突」したこと、とされてますね、「徳川家康と長宗我部元親のかけひきやったというてもえい」とも。
(元親と龍馬をつなぐミノ :http://genimakkoto.blog.shinobi.jp/Entry/491/)
(長宗我部元親にとっての本能寺の変 :http://genimakkoto.blog.shinobi.jp/Entry/383/)
「土左大神が675年に天武天皇に神刀一口(草薙剣)を献上した時から、本能寺の変は始まっちょったというても過言ではありません。」とあり、ほ〜、と。
(長宗我部は歴史問題だけに留まらず :http://genimakkoto.blog.shinobi.jp/Entry/490/)
いや歴史だけでなく、村の「めちゃくちゃまずいレストラン2つ」で説明された政治に関することも、わかりやすくておもろい。
(天動説の中で輝く地動説 :http://genimakkoto.blog.shinobi.jp/Entry/496/)
おぉ!「土佐古代史」シリーズに行基が出てきた・・・が、お墓のある「竹林寺」のことだけか・・・でも、拝見してると行基関連でよく目にする「キリシタン」は、やはりキーワードの1つのようで。
(神功皇后はハチキン:http://genimakkoto.blog.shinobi.jp/Entry/380/)
そういえば2007.03.03分で、「泉州路 中世寺院の探訪」に書かれていた「水間寺大騒動」について、行基ゆかりの「水間寺」の住職だった正恵は「大和国に身を寄せてから、十八ヶ条の訴状を江戸目付藤堂伊予守、キリシタン奉行小畑三郎左衛門に訴えた」とあり、また、愛媛の「須賀山円明寺」は聖武天皇の勅願による行基開創のお寺で「キリシタン燈籠」があり、繋がりそうで。
(須賀山円明寺:http://jiuxia.web.fc2.com/Henropage/Henro07/Hen7-1/Henro07-1.html)
(四国のマリア:http://kunitokotachi.tosalog.com/Entry/11/)
そういえば、「痛快にっぽん商人道」の「伊予商人」に、「伊予絣」と創始者の「鍵谷カナ」のことが書かれていたが、「鍵谷カナ」が生まれたという「垣生(はぶ)村」は「垣生の二字で、はにうとも読み、それを濁ってはぶと読み、後又誤って垣生とかいたらしい」とのことで、「八旛神社」に「比売大神」が祀られていることや、その境内社に「宇賀神社」があること、「河野氏がこの辺りを治めていた」ということから、このあたりも宇陀郡のように「水銀鉱山」があって瀬織津姫の信仰が存在した秦氏のテリトリーかも。
(垣生のこと:http://www.ho-senji.jp/kikikatari/habukatari3.htm)
あ、「八幡神社」ではなく「八旛神社」なんですね、伊予三島市の寒川でも「八旛神社」と書くそうで、16日に書いてた「知多半島」の野間町と交易があったようで・・・12日の寒川とも関連がありそうな・・・。
(垣生の聞き語り:http://www.ho-senji.jp/kikikatari/kikikatari.htm)
(神社紹介・四国中央市:http://www.geocities.jp/je5fbd/jinja13_shikoku.htm)
(寒川町江之元・石戸八幡神社:http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/103115/)
(大山祇神と石戸八幡神社:http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/103600)
「旛」で検索すると、「石戸八幡神社」の合祀される前の「寒川神社」と同様に「石清水八幡宮から勧請を受けて創建された」という、熊本市の「藤崎八旛宮」がヒットしたが・・・。
(藤崎八旛宮:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B4%8E%E5%85%AB%E6%97%9B%E5%AE%AE)
(藤崎八旛宮:http://fujisakigu.or.jp/)
千葉の「印旛沼」「印旛郡」もこの字なんですね。(印旛沼:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E6%97%9B%E6%B2%BC)
●2010.11.19(Fri.) |
昨日の日経の夕刊の「オムニス関西」の欄に、「道修町 くすりの記憶(上)」が載っていたので、「痛快にっぽん商人道」の「道修町商人」(p152「始末・才覚・算用」を心の支えに」)と絡めて書いておこうかな、と。
1630年前後 | 堺商人の小西吉右衛門が薬種商を開く |
1666年 | 道修町薬種屋108人が買占め等禁止につき連印状提出 |
1678年 | 田邊屋五兵衛が大阪土佐堀に「たなべや薬」を看板に薬種問屋として創業 |
1722年 | 道修町薬種屋仲間124株公認 和薬改会所設置 |
1781年 | 大和国広瀬郡薬井(現・奈良県北葛城郡河合町薬井)から道修町に出てきた長兵衛が 薬種仲買商の近江屋喜助の下で奉公したあと「のれん分け」によって独立し 薬種商「近江屋」を開いた |
1878年 | 塩野義三郎が大阪・道修町にて薬種問屋「塩野義三郎商店」を開く |
1984年 | 藤沢商店(のちの藤沢薬品工業)が創業 |
1897年 | 共同出資で大阪製薬株式会社(現大日本住友製薬の前身)を設立 |
1990年 | 小城忠一(元小城製薬会長)が道修町文書の整理・保存を提案 |
2005年 | 藤沢が山之内製薬と合併しアステラス製薬に |
2010年 | 少彦名神社が鎮座230年 |
小西吉右衛門(道修町とは):http://www.kigusuri.com/furusato/doshomachi-2.html 小西吉右衛門(コニシ株式会社):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%8B%E3%82%B7 田辺屋五兵衛(田辺三菱製薬):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E8%BE%BA%E8%A3%BD%E8%96%AC 近江屋長兵衛(武田薬品工業):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E8%96%AC%E5%93%81%E5%B7%A5%E6%A5%AD 塩野義三郎(塩野義製薬):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E9%87%8E%E7%BE%A9%E8%A3%BD%E8%96%AC 藤沢薬品工業:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B2%A2%E8%96%AC%E5%93%81%E5%B7%A5%E6%A5%AD 小城製薬:http://www.koshiroseiyaku.co.jp/mokuji.html アステラス製薬株式会社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B9%E8%A3%BD%E8%96%AC 少彦名神社:http://www.kusuri-doshomachi.gr.jp/sukunahikona.html |
新聞によると、小城忠一氏が幼馴染の藤沢友吉郎氏(旧藤沢薬品工業元会長)に、「少彦名神社」の倉庫にある古文書の整理の話を持ちかけたことによって実現したそうで、「くすりの道修町資料館」(少彦名神社隣のビルの3階)の初代館長が塩野義製薬OB久保武雄氏で、現在の館長は武田薬品工業OB宮本義夫氏だそうで。
(くすりの道修町資料館:http://www.kusuri-doshomachi.gr.jp/)
「1630年前後に堺商人の小西吉右衛門が薬種商を開く」が「くすりの道修町」の始まりのようで、1925年に「株式会社小西儀助商店」に改組された時の社屋は、2001年に「小西家住宅」として重要文化財に指定されており、の前職場近くを歩いた時にみたことがある。
(小西家住宅:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85)
「小西行長」は「泉州堺の豪商の家に生まれ、一時期は宇喜多氏に仕えた。」とのことで、「小西吉右衛門」との関係が気になるところだが、そのあたりは不明のようで。
(小西行長:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7)
「豊臣秀吉に仕えた戦国大名・小西行長の一族は藤原北家秀郷流を称し、丹波内藤氏の一族久清の子次忠(小西行正)を直接の祖とする。この次忠の子が堺の豪商出身とされる小西隆佐である」というあたりや、「近江源氏佐々木氏の一族」の「小西正重」が後に徳川旗本となったというあたり、気になりますね。
(小西氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E6%B0%8F)
「痛快にっぽん商人道」を読んでいると、「堺商人」がよく出てくるのだが、その代表格(?)として書かれているのは、商家「魚屋」の「千利休」で、「茶の湯」繋がりからも「大坂堂島商人」の「淀屋」があり、2010.04.13分で調べた「淀屋」の「文化人サロン」ではさらなる繋がりがあったようで、淀屋四代目を慕っていた「契沖」がいて、サロンのメンバーに「古今伝授」と「万葉代匠記」についての講釈があったのかも。
(千利休:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91)
(淀屋研究会:http://www.ric.hi-ho.ne.jp/yodoya-ken/yd-23.html)
「小西吉右衛門(道修町とは)」のURLのリンクに「鞆(とも)の保命酒」があり、「大坂生玉神社の近くで開業していた漢方医中村壌平利時の長男吉兵衛吉長は、父より相伝の焼酎製薬酒を創製し家業とした」とあるように大坂の商人でもあり、のちに長崎出島で薬草の輸入を行う際に立ち寄る鞆の酒造業者「万古屋(ばんこや)津田六右衛門を頼って1655年より鞆に寄宿」し、「生玉堂(のちに保命酒屋)」として製造販売された、とのことで。
(鞆の保命酒:http://www.kigusuri.com/furusato/tomo.html)
「津田六右衛門」の詳細はわからないが、紀州の「津田監物」や「津田宗及」との関係がありそうな感じだが、こちらも詳細は不明で。
(津田監物(津田算長):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E7%AE%97%E9%95%B7)
(津田宗及:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E5%AE%97%E5%8F%8A)
「小西行長」の弟「小西行景」の子孫が「津田氏」を名乗ってるんですね。
(小西行景:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E6%99%AF)
ま、背後の繋がりとして、「キリシタン」「古今伝授」が絡んでいるように思われ、ルーツは「古代のネットワーク」かと。
そうそう、「鞆の浦商人」として酢で名をはせたという「大阪屋上杉氏(上杉平左衛門)」が挙げられており、「延宝年中(1673〜1680)関町の豪商大阪屋上杉平左衛門の建立」という福山市鞆町の「阿弥陀寺」には「キリシタン灯籠」が現存しているようで、「淀姫神社」の「虚空津姫命」は「瀬織津姫」かと。
(上杉平左衛門:http://194116410.at.webry.info/200802/article_7.html)
(鞆の浦紀行:http://ww4.enjoy.ne.jp/~sunbi/page016.html)
(淀姫神社:http://jinja-kikou.net/hukuyama1.html#3)
(沼名前神社:http://www.sawasen.jp/tomonoura/annai/nunakuma/nunakuma.html)
「大阪屋上杉平左衛門」とあるが、丹波国何鹿郡上杉庄を本貫とした「藤原北家勧修寺流支流」の上杉氏とどういうご関係なんだろう?どこの「関町」の豪商なんだろ?江戸時代、「粕酢」は「紀伊国粉河」が、「米酢」は「和泉国堺」が代表的な産地だったそうだが。
(酢:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%A2)
上記URLの「鞆の浦紀行」さんのところで「山中鹿之助」がありましたが、2010.09.23分に書いたように、「山中鹿之助」は海舟が好きだった人物で、大坂の両替商「鴻池家」に繋がるわけで。
また、鞆の浦は「海の中継ぎ貿易」で栄えた地で、「痛快にっぽん商人道」には猫屋・表屋・土佐屋・小代屋・肥後屋・阿波屋などが挙がられていて、そのうち検索でヒットした「土佐屋」は、「明和元年の開業で主人小沢久七は志太郡上泉村(大井川町)の生まれ。」とあり、「土佐候が駿府通過の際、開店当日、同所で漆器数点を買い上げたので、久七はその光栄を記念し、屋号を土佐屋と名つけた。」とあるが、それだけの関係での屋号だろうか?
(大林寺:http://www.asahi-net.or.jp/~KW2Y-UESG/jiin/dairinji/dairinji.htm)
ま、それは置いておくとして、「長崎の売り込み商人、永見栄次郎を通じ大阪を経由して取引」し、「清水港から大阪へ回漕し長崎に輸送」ということで、商人の繋がりの強さがわかるようで。
で、その「土佐屋」に開設した「土佐開成館長崎出張所」の主任として「土佐屋善兵衛」(岩崎弥太郎・三菱財閥の創業者)がいたそうで、「維新動乱期に発揮した“負けじ魂”」の「土佐商人」(p240)にあったうちのひとりで。
(岩崎弥太郎:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%BC%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E)
そういえば2007.04.10分で「三菱」のマークについて調べたことがあり、「家紋の「三階菱」は、武田氏に由来するという(ほかに土佐藩主山内氏の家紋「丸に土佐柏」を元にしたとの説もある)。しかし日本古来の原住民、山祇族の、山祇族の流れを汲む久米氏族ないし三好の同流だったとする説もある。」とのことで興味深く思うが、よくわからなかったりするわけで。
(岩崎家:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%AE%B6)
岩崎家と「武田氏」との関連同様、「近江屋長兵衛」が「武田姓」を名乗ったのが気になり、調べてみたのだが、「土佐屋」が静岡だったように、「近江屋嘉兵衛」(友田嘉兵衛)が横浜だったり、奉公先だった「近江屋喜助」が分からなかったり・・・。
(武田長兵衛:http://www.dismas.jp/dic/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E9%95%B7%E5%85%B5%E8%A1%9B)
そこで、生誕地と思われる「大和国広瀬郡薬井(現・奈良県北葛城郡河合町薬井)」の「広瀬郡」を検索すると、式内社に「廣瀬坐和加宇加賣神社」(現 廣瀬大社・河合町河合)があり、北葛城郡広陵町に「讃岐神社」「櫛玉比女命神社」「穂雷命神社」(現 穂雷神社)「於神社」があった。
(広瀬郡:http://www.dismas.jp/dic/%E5%BA%83%E7%80%AC%E9%83%A1)
「廣瀬大社」「讃岐神社」「櫛玉比女命神社」は物部氏系のようで、「穂雷神社」は「天文三年(1534)に広瀬神社から勧請」とのことで物部氏系と思われ、「産鉄神」が「農耕神」に転じて祀られた、というか、本来の神名を隠されているのでは。
(廣瀬大社:http://www.dismas.jp/dic/%E5%BB%A3%E7%80%AC%E5%A4%A7%E7%A4%BE)
(讃岐神社:http://kamnavi.jp/as/katuragi/sanuki.htm)
(櫛玉比女命神社:http://www.norichan.jp/jinja/renai/kushitamahime.htm)
(穂雷神社:http://kamnavi.jp/as/katuragi/honorai.htm)
(穂雷神社:http://www.geocities.jp/engisiki/yamato/html/030404-01.html)
「於神社」(御祭神:天児屋根命、配祀:天照皇大神、品陀和気命)について、「広瀬神社の末社水分神社をあてる説もある。讃岐にも同名社あり讃岐神社との関連もあると思われる。讃岐人の移住に伴つて同郡内の於神社も同時に勧請されて、同名社として広瀬郡に祀られるようになつたものであろう。」とあった。
(於神社(広瀬郡):http://www.geocities.jp/engisiki/yamato/html/030405-01.html)
香川県観音寺市の「於神社」を検索したところ、「若宮、八幡宮とも称された神社」で御祭神は譽田別命、「配祀の素盞嗚命は、大正三年に合祀された荒魂神社の祭神」とあったが、移住した讃岐人が「忌部氏」ならば近くの「粟井神社」のように祖の「天太玉命」を祀ったのではないかと思われるが、「広瀬神社の末社水分神社をあてる説」を考えるならば、「広瀬郡薬井」ということで茨木市の「井於神社」のように「井於」が「井戸や泉から水を汲むところ」から「水神」が祀られていた、つまりは「瀬織津姫」が祀られていたのでは、と。
(於神社(観音寺市):http://www.genbu.net/data/sanuki/ono_title.htm)
(粟井神社:http://www.genbu.net/data/sanuki/awai_title.htm)
(井於神社:http://kamnavi.jp/en/settu/ioioio.htm)
(井於神社:http://www.hokusetsu.zaq.jp/iojinjya/keidai.html)
「広陵町の小字は「笠神」であり、讃岐神社(広陵町)と笠神との間には「笠」なる村が存在し、古語拾遺の「崇神天皇」条に登場する笠縫邑と共に、讃岐忌部氏との関係が示唆される。」とあり、「笠縫邑」については2010.10.09分などで書いたようにやはり「物部氏」に繋がるようで、「鉄」が関係すると思われるあたりは「穂雷神社」と関連しそうで。
(讃岐忌部氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AE%83%E5%B2%90%E5%BF%8C%E9%83%A8%E6%B0%8F)
ということで長くなりましたが、「近江屋長兵衛」のルーツは「讃岐」にあり、同族を頼って大坂に来て、同族と同じように「武田姓」を名乗ったのではないかと推測しているわけで。
「古代からのネットワーク」の一端を垣間見たようで興味深いな、と・・・。
転送してから思い出したけど、伊丹の「小西酒造」、検索では出てこなかったけど「堺商人の小西吉右衛門」に関連がありそうで・・・初代は「薬屋新右衛門」(小西新右衛門)だそうで、茶道にも通じた人のようであることから、利休など堺商人との関連、そして伊丹ということから鴻池家や秦氏との関連も見えてきそうで、「小西家が武道を尊ぶ家柄」とされていて「なぎなた」に関連するあたりは気になりますね。
(小西酒造:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E9%85%92%E9%80%A0)
(近世伊丹酒造業の展開と小西家:http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/konishibunko/itamitokonishi/txt/kinsei.html)
(小西家文庫・茶道:http://www.konishi.co.jp/html/fujiyama/konishibunko/sadou/index.html)
(全日本なぎなた連盟:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AA%E3%81%8E%E3%81%AA%E3%81%9F%E9%80%A3%E7%9B%9F)
(小西源兵衛:http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/fukyoraian/sunpu-gousyou/konisi.htm)
「小西源兵衛」について書かれているサイトにある、「改役は三十余名で、京都・堺・江戸及び府中の四都市の薬種問屋で(茂故及び江川町の分家小西仁左衛門の二人、堺の二人も同族小西が命ぜられた)小西を除いて他はいずれも何屋某と屋号を称し、小西一族だけは姓名を称している。」の「同族小西」が、「堺商人の小西吉右衛門」と「伊丹酒造の小西新右衛門」だったとか?「家康」「駿府」が絡んでいることから、「土佐屋」の商いのウラに家康が絡んでいそう、いや、古代ネットワークは絡んでいるだろうなぁ・・・。
余談だが、五代目小西源左衛門の弟が継いだという西村家の初代植(上)田屋庄七が出たという「竹茗堂」のお茶は、出張で静岡に行った際には、「やまだいちの安倍川もち」とともにおみやげとして必ず買っていたのを思い出した。
(http://www.abekawamochi.co.jp/)
PC消してから思い出したけど、「ウィキペディア」の「コニシ」の概要に、「1884年には「アサヒ印ビール」(現・アサヒビールの源流)の製造・販売を開始した。その後アルコール飲料類は子会社「大阪洋酒醸造」に移管。」とあり、脚注に「1892年からサントリーの創業者である鳥井信治郎が丁稚奉公に入っており、鳥井は酒の取扱いをここで学んだ。」とあった。
で、「アサヒビール」は「1889年 鳥井駒吉が大阪府大阪市で「大阪麦酒会社」設立。」「1891年 大阪府三島郡吹田村(現・吹田市)に「吹田村醸造所」竣工。」「1892年 「アサヒビール」発売。」とある。
(アサヒビール:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%83%92%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB)
また、「かつて鳥居薬品を1987年(昭和62年)に子会社化したが、1998年(平成10年)にJTへ保有株式を譲渡。」とあり、「鳥居薬品」は「1872年 鳥居徳兵衛が横浜市境町において洋薬輸入商「植野屋」を創立」で、「明治から大正にかけて、東京日本橋の薬種問屋のいわば御三家といわれたのは、小西新兵衛商店(現武田薬品工業東京支店)鳥居徳兵衛商店(鳥居薬品株式会社)田辺元三郎商店(東京田辺製薬)であった。」と、「武田長兵衛」のところに書かれていて。
(鳥居薬品:http://www.torii.co.jp/company/history.html)
(武田長兵衛:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E9%95%B7%E5%85%B5%E8%A1%9B)
「鳥井信治郎」「鳥井駒吉」「鳥居徳兵衛」の繋がりが気になるところだが、「鳥井信治郎」は「1879年 大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれる。」(忠兵衛は両替商を廃業して米穀商を開業したらしい)、「鳥井駒吉」は「幕末の頃、堺の米穀商だった家に生まれた・・・父が酒造業に乗り出して・・・」とあり、「井という苗字は、堺宿院の鳥居のそばに家があったからだと伝えられていますが、鳥居のそばの鳥井家だったのですねェ。」とあって興味深いな、と。
(鳥井信治郎:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E4%BA%95%E4%BF%A1%E6%B2%BB%E9%83%8E)
(堺の「経営の神様」鳥井駒吉:http://www.asamio.co.jp/kakurebanasi-2009.htm)
あ、「朝日日本歴史人物事典」には、「鳥井駒吉」は1853.4.19生まれで「堺宿院町の穀物問屋和泉屋伊助の次男。」とありますね、
(鳥井駒吉:http://kotobank.jp/word/%E9%B3%A5%E4%BA%95%E9%A7%92%E5%90%89)
「和泉屋伊助」の名は「函館市史」の「産物会所」に、
各会所には、掛役人のほかに用達を置いたが、箱館会所の用達元〆として福島屋杉浦嘉七が充てられた。大坂は加島屋作次郎を用達とし、会所付仲買として松前問屋13軒を任じ、そのうち伊丹屋四郎兵衛、近江屋熊蔵を用達代とした。兵庫では北風荘右衛門、堺では和泉屋伊助、石割作左衛門が用達に、大和屋徳次が用聞になっている。敦賀は西岡林助(飴屋)、山本朝之助(網屋)が用達になっている。 (http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-05/shishi_03-05-07-00-01~04.htm) |
とのことだが、「父の死により、1870年に鳥井駒吉は17歳で家業を受け継ぐ。このころ、父が存命中に始めた北海道(函館)の回漕業が破綻・・・」とあり、「北海道の事業は、堺の綿商・回船問屋河盛仁平(1834〜1885年)の成功にヒントを得たと思われるが、鳥井は河盛から公私にわたり薫陶を受けていた。」とのことで。
(創業者・鳥井駒吉の生涯:http://www.asahibeer.co.jp/area/07/27/sakai/komakichi_vol01.html)
回船問屋「河盛仁平」と河又醤油株式会社を創設した「河盛又三郎」、どちらも「河内屋」だけど関係は不明ですね。
(堺と醤油:http://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/monodukurisakai/monodukuri_syoyu.htm)
(堺の人物伝:http://www.ainet21.com/os1-jinbutu5a.htm)
(河盛仁平:http://kotobank.jp/word/%E6%B2%B3%E7%9B%9B%E4%BB%81%E5%B9%B3)
(大醤:http://daisho.shop23.makeshop.jp/html/company.html)
で、「鳥居徳兵衛」についての詳細はわからず、「鳥井・佐治家系図」にはやはり「鳥井駒吉」「鳥居徳兵衛」の名はなかったが、偶然の繋がりとは思えないように思われるし、「アサヒ印ビール」(現・アサヒビールの源流)と駒吉の「大阪麦酒会社」の接点が不明で、「小西家」が何かご存じのような気がして・・・。
(サントリー鳥井・佐治家系図:http://kingendaikeizu.net/sougyou/torii.htm)
「鳥井駒吉」は「阪堺鉄道」にも関連があるようだが、「鳥井信治郎」は「小林一三」と繋がりがありますよね・・・。
(鳥井駒吉と宅コ平:http://www.asahibeer.co.jp/area/07/27/sakai/komakichi_vol06.html)
(阪堺鉄道:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E5%A0%BA%E9%89%84%E9%81%93)
「アサヒビール」の「アサヒ」は、「旭館」(明治21年(1888)に港に面した場所に開設された館)から付けられたといわれている、など、諸説あるようだが、吹田工場のあるあたりは行基や秦氏の足跡が見受けられる地で、「旭館」と「龍神堂」との関連など、何かありそうで。
(堺と酒造http://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/monodukurisakai/monodukuri_syuzou.htm)
(銘酒の町・堺〜その足跡をたずねて:http://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/monodukurisakai/monodukuri_meisyu.htm)
(アサヒビールの名前の由来:http://www.asahibeer.co.jp/area/07/27/sakai/komakichi_vol03.html)
●2010.11.20(Sat.) |
風琳堂さんのブログ「大山祇神社と瀬織津姫神【X】」に、河野氏の秘伝的家伝書「水里玄義」の内容が書かれていて、越智氏の祖が「徐福」で、「徐福と饒速日と一祖両説」論が提示されている、とあった。
(大山祇神社と瀬織津姫神【X】:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2010/11/20)
検索していると、「ユダヤ教を持ち込んだのは徐福集団であり、彼らはユダヤ人だったことになる。徐福伝説につきまとう秦氏の影。秦氏がユダヤ人原始キリスト教徒であるならば、物部氏はユダヤ人ユダヤ教徒であった。」と書かれている掲示板があった。
(始皇帝と徐福の野望:http://jofuku-net.com/modules/bxBBS/viewbbs.php?start=100&bbs_id=1)
秦氏と物部氏の足跡、薬師如来と十一面観音、ニギハヤヒと瀬織津姫など、さまざまに重なるのはそうした背景によるもののようで、なるほど、と。
昨日の「讃岐神社」で書き忘れましたが、「讃岐国(香川県)の氏族の忌部氏が竹細工を献上するため、当地に移り住んだものとする説がある。」と書かれていたことで思ったのが、「竹細工」を得意とされる「忌部氏」は、「朝廷」によって「隼人」という名のもとに隠された一氏族なのでは、と。
(讃岐神社:http://kamnavi.jp/as/katuragi/sanuki.htm)
神社の北が「馬見物部の拠点」とあることから、物部氏も同様かと思われ、足跡がよく重なる秦氏も、ということになりそうな・・・。
●2010.11.22(Mon.) |
ML「西行辞典 第150号」に伊勢神宮内宮にある「桜の宮」についての西行の歌として、
(岩波文庫山家集125P羇旅歌・御裳濯河歌合・西行上人集追而加書・御裳濯集・続古今集) 神の吹かせる風に安心してまかせたよ、桜の宮の桜の花ざかりを。 |
を載せておられ、
岩波文庫山家集の詞書は「櫻の御まへにちりつもり、風にたはるるを」となっていて、これは西行上人集追而加書の詞書をそのまま転載しています。 他方、御裳濯集では「内宮にまうでて侍りけるに櫻の宮を見てよみ侍りける」という詞書が付いています。御裳濯集の詞書によって、伊勢神宮内宮の風の宮であることがわかります。 |
とあり、ん?、と。
「桜の宮」は内宮の摂社「朝熊神社」の摂社のようで「朝熊御前神社」のことと思われ、「朝熊神社」の御祭神は大歳神、苔虫神、朝熊水神(『儀式帳』では櫻大刀自(櫛玉命の子、大歳の子)、苔虫、朝熊水神(大山罪命の子))で、のりちゃんさんの「勝手神社」のご説明から「苔虫神」は「磐長姫」のことのようで、妹神は「桜大刀自神」とあるようだが、「朝熊神社」の『儀式帳』では櫛玉命の子、大歳の子となっているので、伝承が混同されているような。
(朝熊神社:http://www.genbu.net/data/ise/asakuma_title.htm)
(勝手神社:http://www.norichan.jp/jinja/renai/katte.htm)
「勝手神社」の御祭神は元々は「受鬘命」だそうだが、「鳥坂神社」の社頭説明板には「愛鬘命 又の御名 下照姫」とあるそうで、八尾市の「跡部神社(路部神社)」では、「祭神 饒速日命(大阪府全志では 受鬘命、武内宿禰 とする)」とありますね。
(勝手神社:http://kamnavi.jp/as/yosino/yosikatu.htm)
(鳥坂神社:http://www.norichan.jp/jinja/renai/torisaka.htm)
(跡部神社:http://kamnavi.web.fc2.com/mn/osaka/atobe.htm)
「鳥坂神社」の愛鬘命」は、「近江国三津村源三郎の祖先が当地を開拓した時に、当社の相殿に祀った神」で「勝鳥神社」からの勧請のようで、「近江(滋賀県)三津町に、勝鳥神社が鎮座している」とのことだが、「御神体は、通常はこの勝鳥神社に安置されているのですが、祭日の日にアメノワカヒコを祀るもうひとつの神社、天稚彦神社に安置されると言います。」というのは興味深いですね。
(鳥坂神社:http://www.genbu.net/data/iga/torisaka_title.htm)
(勝鳥神社:http://jinjajin.jp/modules/contents/index.php?content_id=167)
(天稚彦神社:http://kamnavi.jp/en/oumi/wakahiko.htm)
「天稚彦神社」は「高野瀬氏が信仰していた」そうだが、「高野瀬氏」は「近江守護佐々木氏の分家が高野瀬村を与えられて住んだ」という説と、「藤原秀郷の子孫が源平合戦の時に源頼朝に従い、高野瀬に住むようになった」という説があるそうで、またしても源氏と北家が絡んでくるようで、近江商人とも関わりがありそうな。
(彦根の歴史ブログ:http://blog.goo.ne.jp/hikonejou400/e/04718b287cd6a8f2116a2e0103d0620a)
鳥取の「倭文神社」にも「天稚彦命」他が相殿に祀られているが、主祭神「建葉槌命」が「下照姫命」と思われていたらしいことや、「元日の朝に金の鶏が鳴く」という「金鶏伝説のあった場所でもある。」というのも、「勝鳥神社」「鳥坂神社」と何か繋がりがありそうで。
(倭文神社:http://www.genbu.net/data/houki/sitori2_title.htm)
横道にそれましたが、「風の神」と「桜」の関係は、「龍田の風神」と19日の「広瀬郡」の式内社「廣瀬坐和加宇加賣神社」(現 廣瀬大社)との関係と同じかと思われ、それを意識して西行は、大歳神(ニギハヤヒ)と朝熊水神(朝熊御前神・木花佐久夜比女命・瀬織津姫)のことを歌ったのでは、と・・・。
●2010.11.26(Fri.) |
時期的に「松竹梅」の由来が気になりまして。
そもそもは宋の時代の「歳寒三友」から来ているそうで、「めでたいもの」の象徴として「松」は平安時代から、「竹」は室町時代から、「梅」は江戸時代から、だとか。
(歳寒三友:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%AF%92%E4%B8%89%E5%8F%8B)
(松竹梅:http://www.zoto.jp/engi/o-engi12.html)
「松」は「節操・長寿・不老不死」の象徴、「竹」は「子孫繁栄」の象徴、「梅」は「気高さや長寿」の象徴とあり、植物学的には「松」が被子植物の代表、「竹」が単子葉類の代表、「梅」が双子葉類の代表、だそうで。
(松竹梅の語源・由来:http://gogen-allguide.com/si/syouchikubai.html)
関係の有無は不明だけどふと道真を思い出した、「松」は「北野天満宮」に「三階松」の紋や伝説があり、「飛梅」の伝説は有名で、「竹・笹紋」を神紋とする神社が興味深く、「竹」が「隼人」を表すものだとしたら、道真にはその3つが揃っていた、とも考えられそうで、本来なら受け継ぐ資格を持った者の象徴(道真は天穂日命の末裔)として、「三種の神器」の代わりに「松竹梅」が当てはめられ、「めでたいもの」の象徴とされたのかも、と。
(天満宮の梅鉢紋と三階松紋:http://ameblo.jp/bb3110bb/entry-10681269070.html)
(松:http://aal.msis-net.com/kamon/kaisetsu/bunrui/shokubutsu/matsu.html)
(竹・笹紋:http://www.genbu.net/sinmon/sasa.htm)
(梅紋:http://www.genbu.net/sinmon/ume.htm)
(天穗日命神社:http://www.genbu.net/data/inaba/amanohohi_title.htm)
「橘」(みかん、橙)が「勾玉」、「干し柿」が「剣」、「鏡餅」が「八咫鏡」で、「三種の神器」を象徴している、といわれているのもおもしろいな、と。
(鏡餅と三種神器:http://blogs.yahoo.co.jp/umayado17/60140833.html)
(正月飾り(門松・注連飾り・鏡餅)について:http://www.hikoshima-guu.net/chiebukuro.html#12)
「ホツマツタエ」では、「アマテル自らが御行してハルナハハミチを破った時」に、「アマテルはヤサカニのマカル玉、セオリツはマフツの八咫鏡、アキツは草薙の八重剣を携える。」とあるそうで、瀬織津姫で調べていて「鏡池」「鏡山」「鏡川」などが見受けられ、同様の繋がりがあるとしたら、「鏡餅」は瀬織津姫ということになりそうな。
(八咫鏡:http://gejirin.com/src/Ya/yata.html)
「八咫鏡」が「平原遺跡出土の内行花文鏡と同じ形のものではなかったかと推定」されていることが森氏の著書にもあり、出土した鏡のうちの「陶氏作」の銘があるものと「伊都国」の関係についてが気になった。
(八咫鏡:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%92%AB%E9%8F%A1)
(平原遺跡:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1)
「陶氏」で思い出すのは「大田々禰古命」が祖先を祀ったという「陶荒田神社」で、「高魂命」から「弓削氏」つまり「物部氏」に繋がるようで、「魏志倭人伝」にある「伊都国」(糸島市)から約50kmの「末廬国」(唐津)も物部系で、関連がありそうな。
(陶荒田神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E8%8D%92%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(陶荒田神社:http://kamnavi.jp/en/izumi/suearata.htm)
(弓削氏:http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/tishiki/ks00511.htm)
(末羅国造:http://www.nihonjiten.com/data/263388.html)
●2010.11.28(Sun.) |
京都競馬場の中継を見ていて、最寄駅「淀」のすぐ近くにある「與杼神社」を思い出しており、「肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村鎮座の与止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まる」ことから「瀬織津姫」と思われ、その勧請以前から「延喜式第九巻」に神社名があるとのことで、その時には「瀬織津姫」の神名で祀られていたのかも、と。
神戸の「敏馬神社」も「瀬織津姫」と関連があると思われることと、京都競馬場と「與杼神社」の関連には秦氏や隼人が関わっていると思われることから、「隼人」「馬」で検索したところ、霧島市溝辺町三縄の「前玉神社」がヒットした。
(前玉神社:http://hayato.com/jisya/maedama.html)
御祭神として、福玉比売神(さちたまひめのかみ)、馬頭観音、宇気母智神、須川大神(別命:水波売能大神)とあり、「須川大神」は西宮市の「瀬織津姫」(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)が祀られている「広田神社」にも祀られており、「広田神社」から阪神競馬場は近いことからも、「瀬織津姫」と「馬」の繋がりが見えるようで。
(広田神社:http://kamnavi.jp/en/settu/hirota.htm)
鎮座地が「霧島温泉駅下車岩穴方面へ歩約1時間」とあり、「敏馬神社」の最寄駅が「岩屋」で関連ありそうな感じがし、2010.04.08分などに書いた和歌山の「玉津島神社」の「祓所」の「塩竈神社」が、「輿の窟という岩穴に鎮座する」ことに関係がありそうな。
(岩屋:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B1%8B_(%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%B8%82))
(塩竈神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E7%AB%88%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82))
で、「前玉神社」といえば12日の「さきたま古墳群の中の「浅間塚古墳」の頂に鎮座する。」という御祭神が「前玉彦命」「前玉姫命」の「前玉神社」は、霧島市の「福玉比売神」と隠された男神と同神と思われるのだが。
すなわち、人々の移動に伴った地名・御祭神の移動と思われ、「さきたま古墳群」との距離は不明だが、「酒巻古墳群」から「馬形埴輪」が出土していることや「円墳」が多かったようであることは、「馬」と「秦氏」の関連を示すようで、京都競馬場近辺と似ているようで。
(酒巻古墳群:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E5%B7%BB%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4)
(馬形埴輪:http://www.kodaihasu.com/gr/anc/15th/index.htm)
ということで、中継を見ながらもトリップすることがしばしばのMであった。
参考URL
午 馬 うま あらかると:http://www.hayato.com/uma/uma.html
初午祭 (鹿児島神宮):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%9D%E5%8D%88%E7%A5%AD_(%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE)
久満崎神社:http://5.real-sound.net/~tetsuyosie/kagosima/kirishimasi/kumasaki/kumasaki.html
前玉神社:http://sakitama-jinja.com/
●2010.11.29(Mon.) |
風琳堂さんのブログ「大山祇神社と瀬織津姫神【Y】──越智氏と秦氏@」に「【山城国神別】秦忌寸、神饒速日命之後也」とあり、「新撰姓氏録」にも疑うべき点があるようで、「徐福の名は絶対禁忌として伏せるしかなかったとおもわれます。」とあった。
(http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2010/11/29)
つまりは、伏せられた「秦氏」の出自と、隠された神「瀬織津姫」が繋がる、ということなのでは・・・。
となると、秦氏らのネットワークによって別の神名に、さらには属国脱却のために「仏教」にその「神」を秘ませたことが、何かに書かれていれば「行基プロジェクト」の存在が明らかになるのでは、と。
だけど今までそういう書物には出会えておらず、「古今伝授」にそれに近いものがあるのかもと探してみたけど、はっきりしたことはわからないままで、それでも「古今伝授」に関わる人々の中に、「古代からのネットワーク」がなければ繋がらないように思えることがあったわけで・・・。
たとえば、「東大寺盧舎那仏像の開眼供養の導師」をつとめたインド僧の「菩提僊那」や、チャンパ国出身の僧「仏哲」、唐の僧「道せん」が、「日本からの入唐僧理鏡や第十次遣唐使副使中臣名代らの要請」だけで、文化的に劣ると見られていた国にわざわざ行くだろうか?
(菩提僊那:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%A9%E6%8F%90%E5%83%8A%E9%82%A3)
「菩提僊那」が葬られたという「登美山右僕射林」は奈良市富雄町(旧生駒郡富雄村)のようで、そこにある「霊山寺」は天智天皇のころの右大臣「小野富人」の創建であるという「伝説」があり、「右僕射」とは「右大臣の唐名」であることによるもののようだが、小野氏と「唐」との関連があることを示そうとしているだけではないような。
(生駒の伝説:http://www.7kamado.net/den_yamato/ikoma_den2.html)
(右僕射:http://www.weblio.jp/content/%E5%8F%B3%E5%83%95%E5%B0%84)
(霊山寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%B1%B1%E5%AF%BA_(%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B8%82))
「菩提僊那」が「登美山の地勢が故郷インドの霊鷲山に似ていることから霊山寺と名付け」たとされているから「唐」にこだわることはないように思われるので、「鼻高仙人」となった「小野富人」にお告げがあったという「熊野本宮大社に参篭した際に出現した薬師如来」が「繋がり」となったのでは?
2009.08.25分にあるように、武蔵国一宮はかつて「小野神社」(多摩)で、御祭神は「江戸名所図会」では「瀬織津姫」とされており、また「霊山寺」とは2キロ弱離れてはいるが同じ「富雄地区」にニギハヤヒを祀る「登彌神社」があり、繋がりの背後に物部氏や秦氏が見えてくるようで。
(小野神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD))
(小野神社:http://www.genbu.net/data/musasi/ono1_title.htm)
(登彌神社:http://kamnavi.jp/mn/nara/tomi1.htm)
「鼻高仙人」はサルタヒコ?ニギハヤヒと繋がりそうで、「小野神社」のところに「室町時代以降は三宮であった氷川神社が武蔵一宮と呼ばれる事もある。」と書かれていたが、「氷川神社」の御鎮座地が埼玉県さいたま市大宮区高鼻町で、繋がりが感じられるのだが。
(氷川神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
●2010.11.30(Tue.) |
神奈備さんの掲示板で「住吉大社」の摂社「船玉神社」について、『住吉大社神代記』に「斎祀るは紀国の紀氏神。志麻神。静火神。伊達神の本社なり。」とされていることが書かれていた。
(http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/kambbs.cgi)
そして紀氏を名称とする神社に「紀氏栗栖神社」があったことと、「丹生神社(栗栖)」のURLがあり、拝見したところ物部氏に繋がった。
(丹生神社(栗栖):http://kamnavi.jp/ny/newtai.htm)
ということは、「船玉神社」の御祭神「志麻神、静火神、伊達神」と、「続紀伊風土記」にあるとされる「紀氏栗栖神社」の御祭神「天道根命」と、「丹生神社(栗栖)」の御祭神「日本武尊、宇摩志摩治命、丹生津比売命」は繋がるということなのかも、と。
「船玉神社」の御祭神は神奈備さんが書かれているように「紀伊三所神」で、「静火神」は「火結神」であり「建葉槌命」で22日のことと繋がり、すなわち物部氏と繋がるようで。
(静火神社:http://kamnavi.jp/ki/sizuhi.htm)
「丹生神社」の摂社に「白山神社」があることや、同じく摂社の「陶の宮神社」が26日の出土した鏡にあるという「陶氏作」の銘との繋がりがありそうで、物部氏に繋がっていくのかな、と。
紀氏と秦氏は近い関係にあるようだし・・・。
あ、大阪の「坐摩神社」の境内社「陶器神社」には大陶祇、迦具突智が祀られていて、「迦具突智」は「火結神」で、「旧事記」のいう「大陶祇」は「陶都耳命」だそうで、それが書かれていたのが「越智氏(河野氏・村上氏)」のページで、やはり、と・・・。
(坐摩神社:http://www.genbu.net/data/settu/ikasuri_title.htm)
(越智氏(河野氏・村上氏):http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ochi.htm)
(玉櫛媛:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E6%AB%9B%E5%AA%9B)