とんでもニャ〜Mの推測3−5
※役にたたない推測ばかりの駄文です。(爆)

2010.12.01(Wed.)

風琳堂さんのブログが更新されていて、「大山祇神社と瀬織津姫神【Z】──越智氏と秦氏A」には「秦王国」について触れておられ、「徐福の末裔は「今に至るも子孫皆秦氏という」と記していた『義楚六帖』の伝承も考慮した秦氏論があってしかるべきでしょう。」とされているのには同感です。
(http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2010/12/01)

この国の伝統的な「臭いものにフタ」の精神で、正しいことでありながら隠されてしまい、隠そうとすることによって事実が曲げられてしまっていることを、子孫にまで及ぼすのは罪になりかねないのでは?

ハッキリとモノを言える日本人になるためには、過去のゆがみを認識しつつ現在を受け止めるという教育が必要に思われ、そのためには教えるべき歴史があり、過去の人々はどう対処したかを示して、先々を考えて判断できるように導いていくべきなのでは、と。

「行基」という名でなぜ「国分寺」以外にも全国的に寺院を建立したのか、その理由が明確であれば、「行基が当地に来たという事実はない。」というような形で一蹴されることもないだろうし、そうして数名の「行基」が繋いだ足跡が、連綿と受け継がれた情報網として存在していた理由は、愛国心を育む上でも重要な事実なのではないかと思われて。

ま、行基の時代において、隠された神を仏教に取り込むという手段しか取れなかったけど、時代が変わればなぜそうなったかを、時代背景を含めて判断できるのではないかと思われるのだが。

たとえになるかどうかわからないけど、「チャタレイ夫人の恋人」など、一時期は問題性があるように扱われたけれども、現在では問題というほどでもないと思われるし、それなら「大奥」はどうなるの?と思えたりして、いずれも時代背景に影響を受けた過去の出来事の1つとして、現在は受け止められているのでは、と。

だから、形成された「万世一系」であることに気づく人は気づいているだろうし、私は今更それをどうこう言うつもりはないが、この国を支えてきた人たちの本来の歴史は隠さないでほしいと思うわけで。
(一例・日本書紀に関わる独断と偏見:http://www.geocities.jp/yasuko8787/dokudan.htm)
(一例・『古事記』と関係深い秦氏と大年神系譜:http://www.geocities.jp/yasuko8787/o-114.htm)

あれ?話がずいぶんとそれてしまっているような・・・いつものことではあるけど・・・秦氏に戻ります。

「弥生の日輪」という本について今までまったく知らなかったので、風琳堂さんのブログで「長曾我部盛親」が「肥後熊本五十四万石の加藤忠広の許へ落ちのび」、「親代わりの家老・久武氏を名乗って」いた、ということを知り、新たな繋がりを見せていただいたわけで。

小西行長→加藤清正→加藤忠広→細川忠利という熊本藩の流れには、秦氏・物部氏らの「古代からのネットワーク」や信仰が関連しているように思われ、のちの商人の交易にも繋がっていったように思う。
(熊本藩:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E8%97%A9)

って、それを「思う」ではなくはっきり書けるような書物を示さないといけないんだけど・・・。


ML「西行辞典 第151号」が届き、「讃岐」の歌が7首あり、その中の「院おはしけむ御跡」の解説が気になった。

讃岐にまうでて、松山と申す所に、院おはしましけむ御跡尋ねけれども、かたもなかりければ

松山の波に流れてこし舟のやがてむなしくなりにけるかな
(岩波文庫山家集110P羇旅歌・新潮1353番・西行上人集・山家心中集・宮河歌合・西行物語)

ここ松山の地に配流された崇徳上皇は、帰京の悲願も空しくそのまま当地で崩御されてしまったのですね。
(和歌文学大系21から抜粋)

「院おはしけむ御跡」
保元の乱に敗れた崇徳上皇が讃岐の国に配流されて、住んでいた場所。香川県坂出市林田町の雲居御所跡のことだと言われます。
讃岐での崇徳院の行在所は、保元物語では松山(坂出市)から直島(香川郡)、次いで志度(さぬき市)にと移転して、志度で崩御。
1164年8月26日。46歳。
坂出市の白峰稜に葬られました

とのことで、崇徳上皇の「御跡」に何かありそうな感じもあり、土佐に配流された「一言主」や「木梨之軽王子」との繋がりの有無なども調べてみたいな、と。

2010.08.02分に書いたように「長宗我部」によると、「信濃国更級郡にいた秦河勝の末裔「秦能俊」が、「保元の乱」で「崇徳上皇方に属して敗れ、土佐国に逃亡」し、長宗我部氏の祖となった」とあり、何もないハズがないのではと思えるし。

ひょっとしたら、先月18日に「土佐ローカリズムちや」さんのブログのどこかで、地方から天皇が来ていた、という内容のことが書かれていたことと繋がるかも・・・。

あ、「山内一豊」についてあまり書いてなかったけど、2009.11.24分などで「善光寺如来」の足跡を辿っていた時、「尾張国黒田村(愛知県一宮市(旧葉栗郡)木曽川町大字黒田に「父・盛豊が1550年頃に居城していたと思われる黒田城があった」ことや、「西行」と同じく北家「秀郷」の子孫で、「首藤山内氏」の末裔ということで、土佐に行ったことなど「古代からのネットワーク」の繋がりによるものではないかと。

「功名が辻」の中で、いくつか不自然に思ったことがあったけど、背後にそういうのがあったとしたら納得がいくかも・・・って、やはり推測でしかないんだけど。

2010.12.02(Thu.)

「ウィキペディア」の「流罪」を見ていて、土佐国に流された人物の「讃岐永直」が気になった。
(流罪:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E7%BD%AA)

平安時代初期の明法家。讃岐国寒川郡の人。

讃岐公は景行天皇の子神櫛命の後裔で讃岐国造家の嫡流子孫。平安時代初期までは讃岐国寒川郡の郡司を務めていたが、平城朝以降永直の祖父広直・父浄直と続いて明法博士に任ぜられた。
(中略)
嘉祥元年(848年)に親族である和気斉之の犯罪(大不敬)に連座して佐渡国(一説に土佐国)に配流となった。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AE%83%E5%B2%90%E6%B0%B8%E7%9B%B4)

とあり、「神櫛命」を検索すると琴平町の「櫛梨神社」がヒットし、

社伝によれば、景行天皇の命を受けた神櫛皇子が、大魚を討つために土佐から、舟に乗って当地へ来た時、雲が厚く、雨が降り、何も見えない状態になった。そこで、皇子は小山に登り、天に乞うたところ、天から火が降りて来たという。皇子はそこに舟をとどめ、祓戸神(磐船大明神)を祀った。また、当地の神を祀るため、翁に、この地の神についてたずね、大麻神・大歳神、更に、山下明神・諏訪明神を祀った。さらに、船装束する時に、経津主神・武甕槌神(赤坂大明神)を祀った。その後無事に、大魚を討ち取って当地に城山を築き、国造となった。仲哀天皇8年(199)9月15日。120歳で亡くなった皇子を櫛梨山に葬り廟を建てて祀ったのが当社の起源。
(http://www.genbu.net/data/sanuki/kusinasi_title.htm)

とのことで、「祓戸神(磐船大明神)」とは「瀬織津姫」のことなのでは?と、「磐船大明神」を検索すると「高津宮」がヒットし、

磐船大明神は比売古曽神の降臨の地とも、また『摂津国風土記』に見える、「難波の高津は、天稚彦が天降ったとき、天稚彦についてくだった神、天の探女が、磐船に乗ってここまで来た。天の磐船が泊まったというわけで、高津というのだ。」とある。
(高津宮:http://kamnavi.jp/kumano/osk/koudu.htm)

とあり、「高津宮」に「旧縁切り坂」があるのはそうした関連からと思われ、「比売古曽神」(赤留比賣命・下照姫命・瀬織津姫)の降臨の地ということは、ニギハヤヒのテリトリーすなわち物部氏に関連し、「石切劔箭神社」について、

勝井純氏の『神武天皇聖跡考』によれば饒速日命は現在の大阪城所在地にあったとされる磐船神社に祀られていたとの説があるとされる。 それから草香山を目指して当地に移った。饒速日命はその後饒速日山(草香山)の頂上に設けられた上の宮に祀られ、物部氏が滅ぶと上の宮の神霊はそれぞれ東西の下の宮に移されたと言う。 下の宮として生駒市上町長久寺の登弥神社(伊弉諾神社)と当社である。
(中略)
大阪城所在地にあったとされる磐船神社の祭神が比売古曾神となっており、饒速日命ではない。 ところが福岡県小郡市大崎に媛社神社があり祭神は媛社神と織女神であるが、江戸時代に奉納された鳥居に磐船神社の名が見える。 由緒書きによれば媛社神は別名を饒速日命と言うとされている。
難波と筑後で媛社神と饒速日命が同一神と見られているのは興味深い。
(http://kamnavi.jp/mn/osaka/isikiri.htm)

とされており、「櫛梨神社」も同様かと。

「櫛梨神社」は「昔、祭祀は、大歳神社・總社(当社に合祀)と併せておこなわれていた」とあり、やはり「瀬織津姫」と思われるわけで。
(櫛梨神社:http://kagawa.bine.jp/jinnjya/kotohira/kusina01/kusina01.html)

「登弥神社」は石木町にもあり、2007.04.26分に書いたように御祭神は「饒速日命」で「木嶋明神」とされており、京都・太秦の「木嶋坐天照御魂神社」と同じなんですね。
(登弥神社(伊弉諾神社):http://kamnavi.jp/mn/nara/izanagi.htm)
(登弥神社:http://kamnavi.jp/mn/nara/tomi1.htm)

つまり、「神櫛命」は物部氏に繋がる人物ということになり、2010.11.19分に書いた北葛城郡広陵町に「讃岐神社」に繋がるのかも。

2010.11.19分には忌部氏の祖神「天太玉命」を祀る「粟井神社」のことを少し書いてますが、讃岐國苅田郡(現・観音寺市池之尻町)の「黒嶋神社」には、合祀されている「池宮神社」に「瀬織津姫」が祀られていて、2007.05.11分での「竹取物語の背景と物語の希求」にあった「讃岐神社祭神は讃岐伊能城命といい穀物神だが水神とは一対神。」とされる「水神」で、「讃岐国の積石塚 石清尾山古墳群」にある伝承の習合が浮かびあがるという「太玉命〜忌部・讃岐⇔讃留霊王〜綾・秦氏」の繋がりが御祭神に表れているようで。
(黒嶋神社:http://www.genbu.net/data/sanuki/kurosima_title.htm)
(伝承と古代文化の集い:http://www.rinku.zaq.ne.jp/kodaibunka/kako/den1_1.html)

讃留霊王(武卵王)、神櫛王、鷲住王、ヤマトタケルの関係がいまいちよくわからないが、「鷲住王」の末裔とされる「海部友光」が「紀州の縁者を頼って落ち延びた」とされるあたり、「古代からのネットワーク」の存在を示しているものと思われるのだが。
(神櫛王:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AB%9B%E7%8E%8B)
(海部友光:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%83%A8%E5%8F%8B%E5%85%89)

「武卵王」は「讃留霊王神社」の御祭神「建貝児王」で、「建貝児王のまたの名前を武殻王・武卵王・武皷王・武養蚕命・多祁比古王命・武明王・竹材子命とも言う。」とあり、「武養蚕命」は「先代旧事本紀」では「波多臣らの祖」とされているようで、「竹材子命」は「隼人」を思わせるような・・・。
(讃留霊王神社:http://www.geocities.jp/seiji_maturi/hanzan1.html)
(先代旧事本紀の世界・巻第七 天皇本紀:http://mononobe.nobody.jp/kujihonki/yaku/tennou.html)

ちなみに「黒嶋神社」は新居浜市にもあるようで、そちらでは大山祇神、木花咲耶姫命、天御中主神が祀られているようで。
(黒嶋神社:http://www.genbu.net/data/iyo/kurosima_title.htm)

ということで、横道にそれた上に長くなってしまったので、後日続きを調べることにします。


ちょっと気になったんだけど、検索してて土佐・讃岐・伊予はよく出てくるが、阿波は忌部氏や蜂須賀氏、鳴門に関する呪歌などで検索してた時くらいしか出てこなかったのは何故なのか・・・「阿波邪馬壹国説」と関連しているとか?「上一宮大粟神社」にも何かありそうだが。
(上一宮大粟神社:http://www.genbu.net/data/awa2/ooawa_title.htm)

2010.02.28分での、小林氏の著書にある守屋が「阿波可汗」というのも何か関連が?
(阿波可汗:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E5%8F%AF%E6%B1%97)

あと、「讃岐永直」が「佐渡国(一説に土佐国)に配流となった。」とあるけど、佐渡と土佐では距離が全然違いますよね、このあたりにも何かありそうで。

「佐渡」「土佐」で検索すると、「加賀早稲・土佐三助」の伝説がヒットしたが、これも何か気になるなぁ・・・。
(加賀早稲・土佐三助:http://www.s-life.ne.jp/pc/densetu/hatano3.html)

定家の曾孫「京極為兼」が、永仁6(1298)年に佐渡に、正和3(1314)年に土佐に配流されているのも気になる。
(京極為兼:http://kotobank.jp/word/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E7%82%BA%E5%85%BC)

そういえば2010.02.20分で定家と繋がりのある「後鳥羽上皇」を追ってた時、配流先の「隠岐」について調べて、2010.02.06分などで「敏馬神社」から「順徳上皇」が流された「佐渡」について調べたけど、「承久の乱」で調べてなかった「土御門上皇も自ら望んで土佐に遷った。」というあたりも、何やらウラがありそうな。
(後鳥羽上皇:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87)
(承久の乱:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1)
(水無瀬神宮:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%84%A1%E7%80%AC%E7%A5%9E%E5%AE%AE)

あ、「土佐刃物」について、「元親」が「佐渡から熟練した刀鍛冶をつれて帰った。」というのも気になりますね、2002/02/01分での「藤原清衡が豊田の館(江刺市岩谷堂餅田)に居住した頃、近江から鋳物師を招き寄せ、日用的に使う鍋や釜を鋳らせた」ことなどと同様に、のちの「商人のネットワーク」の礎のようで。
(土佐刃物とは:http://houcho.toyokuni.net/about/about-tosa/)

ということで、配流地は「古代からのネットワーク」が絡んでいると思われ、瀬織津姫が見えてきそうなんだが、他にも何かありそうな感じがして・・・。

2010.12.04(Sat.)

海老蔵さんのニュースを見て思い出したんだが、2年前に五役をこなされたというニュースで検索した「雷神不動北山桜」の、あらすじに出てくる「木の島明神」は、昨日書いていた「木嶋坐天照御魂神社」なんだろうか、と。
(雷神不動北山桜:http://www.geocities.jp/tadatanome/contents/best18/danjou_narukami.html)

「雷神不動北山桜」の四段目に「関白基経の命によって木の島明神に籠り・・・」とあるので「基経」で探してみると、「八坂神社」の「役天神(薬天神)のお堂」に「疫病の平癒祈願」したとあり、「北家」でもあることから、「瀬織津姫」に繋がる神だったのでは、と。
(八坂神社祭祀と藤原家と菅原道真の真実:http://reyline.web.fc2.com/sinmeihe.htm)

2010.11.18分の「少彦名神社」からの検索にも繋がりそうだし、「住吉大社」の「奥の天神」とされる「生根神社」の御祭神が「少彦名神」で、豊中市の「服部天神宮」も「少彦名神」が祀られていることからも、そのように思われて。

上記URLでは「秦氏は物部を歴史から消しているのかもしれない。」とあり、別のページでは「瀬織津姫」について「確かに封印された縄文神の性質を持つのかもしれない。」とされているので、見解が異なる部分はあるのだが・・・。
(蘇我氏考察:http://reyline.web.fc2.com/soga/soga.html)
(凡夫吉田の備忘録:http://reyline.web.fc2.com/bibourok.htm)

で、「鳴神」は「貞享元年(1684)に初世市川団十郎が自作の「門松四天王」で演じたのが始まりとされる。」とあり、「門松四天王」を検索したが詳細はわからず、「能の「一角仙人」に取材し・・・」とあったので「一角仙人」を検索すると、「金春禅鳳」の作とあり、やはり秦氏に繋がるようで。
(鳴神:http://kotobank.jp/word/%E9%B3%B4%E7%A5%9E)
(一角仙人:http://www.noh-kyogen.com/story/a/ikkakusennin.html)
(金春禅鳳:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%98%A5%E7%A6%85%E9%B3%B3)


朝刊の「大阪 川と坂の物語」には、ビルの谷間にあるような神社には「そうとうな格式と由緒があったために残ったケースが多い」とされ、中央区の「鵲森宮」について書かれていた。

上古「難波の杜」で「鵲」を飼ったことから名づけられたが、谷川健一氏が「四天王寺の鷹」の中で、「守屋」の宅がその近くにあったのではとの推測から、「守屋の宮」が「森の宮」に変わったのではないかとされている、とのことで。
(鵲森宮:http://homepage2.nifty.com/kasasagimorinomiya/)

「四天王寺」など、物部氏の土地などを没収したとされているが、これについてはずっと疑問に思っているわけで・・・。
(レファレンス協同データベース:http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000039547)


新聞を読みつつ見ていたテレビでは、佐賀県鹿島市からの中継があり、はずかしながら佐賀県に「鹿島市」があることを初めて知り、他の「鹿島」地名は、佐賀からの人々の移動によってつけられたのではないかと、佐賀県「鹿島市」を検索してみた。

すると2010.10.02分などで書いた「大村氏」がヒットし、

『新撰姓氏録』(以下『姓氏録』と略記)によれば、天道根命の6世の孫である君積命(きみつみのみこと)の後裔氏族とされ(右京神別下)、天道根命は直姓の紀氏の祖神とされるので、同氏とは同族であることになる。
「大村」の氏名(うじな)は和泉国大鳥郡大村郷(現大阪府堺市中区高蔵寺一帯)に因むとされるが、肥前国彼杵郡大村郷(現長崎県大村市一帯)に因むものとする説もある

(中略)

『姓氏録』には京都の右京と和泉国を本貫地とする2氏が見え、河内国に複姓氏族(複数の氏名を結合した氏名を持つ氏族)の大村直田氏が見える(姓は連)。また、近江国に無姓であるが同氏と推定される者がおり、丹波国にも大村氏の存在が確認できるが同族であるかは不明である。
更に上述のように『肥前国風土記』や「国造本紀」によると肥前国に関係する氏族が存したようである。その場合、『肥前風土記』の「藤津郡能美郷」は佐賀県藤津郡能古見村(現鹿島市山浦)が遺称地とされ、「国造本紀」の「葛津立国」は「葛津」と「立」に分けて解され、前者は藤津郡(佐賀県藤津郡)、後者は高来郡(長崎県高来郡)に相当すると思われ、現・長崎県大村市はそれらに隣接するので、古くは一帯が「葛津立」という同一地域と見られていて、紀氏の一派である若彦(穉日子)命の子孫が土着して「大村氏」を称し、後に和泉国へと再進出したのではないかとの説がある。
(大村氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E6%B0%8F_(%E7%A5%9E%E5%88%A5))

とのことで、「伊都国」「末廬国」との関係からも物部氏に繋がりそうだが、戦国時代のキリシタン大名だった「大村純忠」について、「大村氏の先祖は藤原純友であるという。」とあり、「北家」がまたもや絡んでくるようで。
(大村純忠:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%B4%94%E5%BF%A0)

そういえば2010.11.19分で検索した「小西行長」も、「北家」秀郷流とされるキリシタン大名でしたね。
(小西行長:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7)

「要出典」とされているのだが、行長の側室の子とされる「小西秀貞」が、「関ヶ原の戦い後に宇喜多家が改易になると讃岐国に逃れてきて、そこの西蓮寺の初代住職になったという。」というのは興味深いですね、縁を頼って讃岐国に至ったのでは、と。

「西蓮寺」は香川県観音寺市にあるようで、昨日の讃岐國苅田郡(現・観音寺市池之尻町)の「黒嶋神社」の北2キロあたりと思われ、関連がありそうな。
(讃岐小西家墓所・西蓮寺:http://www.konishiyukinaga.com/SISEKI/kagawa-1.html)

「大村純忠」に戻りますが、「龍造寺隆信などによる周囲の圧迫もあり・・・」とされているが、2010.04.22分にあるように「佐賀の「龍造寺」は、「藤原秀郷六代の孫で、西行法師(佐藤義清)の叔父(一説には祖父)といわれる藤原季清」が「龍造寺氏」を名乗った」ようで、祖は同じ「北家」秀郷流のようだが、これは信玄と謙信の信仰についてと同様に謎で・・・。

そういえば、2010.01.20分に「大村神社」についてふれており、「社号の大村は、阿保村の訛であるとも、阿保の大森の意味であるとも考えられている。」とされているが、「相殿奉祀の武甕槌の神、経津主の神は、神護景雲元年常総から御迂御鎮斎」とあることも含め、中臣氏を乗っ取った不比等らによる物部氏乗っ取りの痕跡かと。
(大村神社:http://www.genbu.net/data/iga/oomura_title.htm)

「吉田一氣の神霊背景」さんのサイトで、「加藤清正」が「道君首名」の作った「味生池」を封じて池を埋めた、とあり、気になって検索したところ、「清正の加藤氏は藤原北家道長流と称している。」とあり、またしても「北家」が。
(加藤氏:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/katou_k.html)
(道君首名メモ:http://reyline.web.fc2.com/michiobi.htm)

「道君首名」を祀る「東神社」の御由緒によると「大彦命の後裔」とあり、「大彦命」は「垂仁天皇の外祖父に当たる」とあるが、後裔が「道君首名」と名乗っていることには「道」が祖神をあらわしているように思われ、「丹波道主命」が「大彦命」とも呼ばれていたとしたら、「稲荷山鉄剣」の「意冨比コ(土ヘンに危)」は「ニギハヤヒ」に繋がるのかも、という妄想をしてみたり。
(大彦命:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BD%A6%E5%91%BD)
(大彦命:http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-3-2.htm)
(推定系譜私案:http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/keifu/keizu00.htm)

ま、そうなると「武埴安彦命」「吾田媛」との関係がわからなくなってしまうが。

ただ、「道君首名」が疫病平癒祈願のために「肥後国分寺の味噌倉の鎮守神」として「本村神社」の境内に祀られた「味噌天神」について、「笹」が関連していることから「隼人」を、「神様の衣(ころも)を織(お)る乙女(おとめ)の住む神聖(しんせい)な所」ともされていることから「秦氏」と「女神」すなわち「瀬織津姫」が思い出されるのだが・・・。
(本村神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%9D%91%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%B8%82))
(味噌の天神さん:http://www.city.kumamoto.kumamoto.jp/content/web/kids/minwa/8.html)

「天社宮」(天子宮)に祀られているのが、「一時期肥後に倭国の王都(もしくは王宮)を持った天子を祀ったもの」として「多利思北孤」を挙げておられるのは興味深いですね。
(伊倉2 天子宮は誰を祀るか:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou82/kai8201.html)

引用されてた森氏の「語っておきたい古代史」の145ページに「天子神社」について書かれてましたが、ちょこっと読み返して思い出したのが、「魏志倭人伝」には「女王国」と「狗奴国」の対立については書かれていたが、その後のことは書かれていないとあったように思う、というか、卑弥呼が死んだのはその戦いによるものなのかどうかははっきり書かれていない、と森氏の著書にあったように思うので、そのあたりのことが気になりますね。

ということで、今回もまたはっきりしない結果になってしまいました、すみません・・・。

2010.12.06(Mon.)

風邪やら何やらでぼ〜っとしつつ、やっと「笠沙路探訪」さんの今月号を拝見したんだが、聖武天皇の東国行幸は「天皇家を守る隼人と信(よしみ)を通じねばならなかった」とあったが、私は「信(よしみ)」は通じていたように思うわけで。
(『日向神話』の『尾張氏」!! 始祖は「隼人」や「天皇家」と兄弟:http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage43.html)

行基の足跡を追うと、秦氏らだけでなく隼人も関連していたように思われ、例えば聖武天皇から土地を与えられて開拓したという伊丹では、空港近くにある「火闌降命」などを祀る「桑津神社」は「隼人神社」にあたると思われ、神社名から想像できるように秦氏の足跡も見えるわけで。

伊丹空港の発掘調査をしたら、「巴形銅器」や「有鉤銅釧」などが出てきそうだなと推測していたりするのだが。

また、西行ゆかりの東淀川区の「江口」には、行基ゆかりとされる「光明寺」があり、近くに「大隅」という地名があることも、行基と隼人が近い関係にあることを示しているのでは、と。
(謡曲・江口:http://www.harusan1925.net/1123.html)

のお宮参りはその近くの「松山神社」だったのだが、御祭神の道真も、というか、祖神の「天穂日命」や「土師氏」も行基の足跡と絡んでくるので、「行基プロジェクト」の構成氏族として「隼人」との繋がりがあり、構成氏族ゆかりの地に道真は足跡を残していったのではないか、とも。
(松山神社:http://www12.plala.or.jp/HOUJI/jinja-1/newpage228.htm)

いや、逆もありうるかも・・・繋がりのある道真の気持ちを汲んで、過去の出来事と重ね合わせて祀ることにした、とか・・・だとすると、海人族が道真をして「祟る神」としたのかも・・・道真の子・高視が流されたのは土佐でしたね。やはり何かありそうで。
(高見山、菅原高視朝臣の見た風景:http://www.himawarimilk.co.jp/diary171.html)

で、「松山神社」の南東約700m、「江口の君堂」の南南西約500mには「大隅神社」もあって、近くの「瑞光」という地名は御祭神と隼人との関係に何やらありそうな感じもあって。
(大隅神社:http://kamnavi.jp/ym/oosumi.htm)
(大隅島の醍醐味を味わう:http://www.osaka-asobo.jp/image-cms/toyosatoeguchi.pdf)

「大隅」と「阿多」の隼人の違いについて詳しくはしらないのだが、「大隅神社」の元の御祭神は「別雷神」と思われ、「応神天皇」は「宗像神」として祀られ、本来の御祭神が隠されてしまっているのでは、と。

話が少しそれるが、「東国」というと「山背大兄王」を思い出す・・・。

家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、山背大兄王は戦闘を望まず「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)と言った。山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。
(山背大兄王:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%83%8C%E5%A4%A7%E5%85%84%E7%8E%8B)

2009.12.23分で引用させていただいたように、森氏の「京都の歴史を足元からさぐる」によると、合戦に際して「武埴安彦」が「彦国葺」に「どうして汝は(ミマキイリヒコ側として)出兵したのか」と問いかけてるというのは、「同族による戦い」であることを言わんとしているようで、「山背大兄王」の場合もそうだったから進言を断り、「高向国押」は命に背いたと思われ、「聖武天皇」の場合も実際に戦う人たちのことを考えての行動だったのでは、と。
(高向国押:http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/mretu/mretu00072.htm)
(高向氏:http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03008.htm)
(福井県坂井市・高向神社:http://www.genbu.net/data/etizen/takamuku_title.htm)
(伊勢市・高向神社:http://www.genbu.net/data/ise/takabuku_title.htm)

「信(よしみ)」が通じていたからこそ、同族で戦うことを避けんとして聖武天皇は東国行幸し、今後そういうことがないようにするためにも、より情報網を強化して統率力を高めるためにも、そしてそれらによって「唐」への対抗力となりうるためにも、大仏や国分寺が必要となったのでは、と・・・。

2010.12.07(Tue.)

昨夜寝る前にふと思い出したんだが、たしか九州に「難波」があったと書かれていたサイトがあったなぁ、と。

2010.08.17分で拝見したサイトに、「難波」は近畿ではなく「灘」のつく「九州東北海岸」で、「難波の大隅」は「北九州企救」とされていて、たしかにそう思える部分はあり、鹿児島の「大隅」と「北九州企救」の「大隅」との関係は、同族の移動によるもの、ということのようで。
(「難波」の考察:http://www.geocities.jp/oden1947/timei73.html)
(大隅考察:http://www.geocities.jp/oden1947/oosumi.html)
(難波の矛盾:http://www.geocities.jp/ojyaru_24/nanba.html)
(豊前「難波津」説の検証:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou46/kaihou46.html)

ならば、近畿の「大隅」も同様で同族によるものと考えられ、「秦氏」が関連していると思われるが、「弓削大連公、放火焼道場、将仏像流難波堀江。・・・速忽棄流乎豊国也」でなぜ「速忽棄流乎豊国也」なのがわからなくもないけど、去年お参りした八尾市の「善光寺」など、「善光寺如来」の移動ルートと思われる跡があることや、「善光寺」の御縁起については、どう捉えたらいいのだろうか、と。
(善光寺縁起:http://www.zenkoji.jp/about/index3.html)

「北九州企救」から摂津の難波に着いてからの行程の1つに八尾市の「善光寺」があるとしたら、摂津の難波まで一泊もせずに来たことになるのだろうか?「豊前善光寺」(958年建立)や愛媛県北宇和郡鬼北町の「善光寺」(1483年建立?)がちょっと気になってはいるが・・・。
(豊前善光寺:http://www13.ocn.ne.jp/~bzenkoji/)
(善光寺薬師堂:http://www.trancewave.tv/~iyosaiken/saiken/2007_10.php)

あと、「本田善光」の別名が「若麻績東人」であることから2008.10.28分などで拝見したサイトで、「海人共通の祖」とされる「麻績王」が「阿曇氏」とする説も挙げておられ、また、2009.03.26分などで引用させていただいたように「秦巨勢大夫」が信濃国に送ったと「扶桑略記」にあるようで、いずれも「海人族」の「古代からのネットワーク」による移送と思われるが。
(麻績王:http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ominoookimi.htm)

ということでまた横道にそれましたが、東淀川区の「大隅神社」は応神天皇の離宮ではないように思われるが、「大隅」で繋がる氏族が移動してきた地の1つと思われ、秦氏などを含めた「応神天皇」に繋がる同族の「隼人」と称されていた人々が、祖神を祀ったのではないか、と。

山根徳太郎氏は、「応神天皇の宮とされる大隅宮の場所を当地(中央区・坐摩神社)であろうとされている。」ようであるが。
(中央区・坐摩神社:http://kamnavi.jp/ym/osaka/ikasuri.htm)

ちなみに、津山市の「大隅神社」(御祭神:大国主命、少彦名命)は、「出雲国天日隅宮(今の出雲大社)の大神を勧請し、「依之日之宇称」大者讃其徳也故名大隅宮」という、とのことで。
(津山市・大隅神社:http://www2a.biglobe.ne.jp/%257Emarusan/osumijinjya.html)

あと、地図検索で「難波」のつく地名として以下の分があったが、それら以外にも尼崎に行基ゆかりの神社のある「難波」(なにわ)があったりするので、他にももっとあるのかもしれない。

青森県つがる市富萢町(とみやちちょう)難波
青森県青森市原別(大字)難波(字)
宮城県黒川郡大和町宮床難波(字)
福島県会津若松市河東町倉橋難波(字)
大阪府大阪市中央区難波
京都府京都市下京区難波町
京都府京都市左京区難波町
滋賀県長浜市難波町
兵庫県南あわじ市志知難波
愛媛県西条市禎瑞難波

上記のうち、宮城県黒川郡大和町の「宮床難波」について、「宮床という地名は元は、「難波」と呼び、今でも難波という地名が残されている。淳和天皇は天皇の位を下りて、東北へ来ていたと言われており、宮床の地名は、天皇に由来している。」とあった。
(信楽寺遺跡:http://www3.ocn.ne.jp/~orion-7/densetu-miyagi.html)
(まほろばの七ツ森2:http://mahorowa.blogzine.jp/blog/2010/10/post_4f83.html)

「淳和天皇」が東北に行ったというのは知らなかったが、「大伴親王」だったことから、大伴氏など「古代からのネットワーク」によって行かれたのだと思われるが・・・。
(「大伴氏」のこと:http://blogs.dion.ne.jp/natorigoro/archives/8396915.html)
(淳和天皇:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87)

「淳和天皇」と征夷大将軍だった「大伴弟麻呂」の関係は詳しくはわからないが、「大伴弟麻呂」の父「大伴古慈斐」は土佐に流されてますね。
(大伴古慈斐(橘三千代とその娘):http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/Entry/280/)

で、愛媛県西条市禎瑞の「難波」は、天明2年(1782)に行われた干拓工事で設置された樋門の「南蛮樋」が、のちに「難波」と呼ばれるようになった、とのことで。
(地名の由来 難波:http://rekisitanbou.seesaa.net/article/141227816.html)

新たな疑問としては、「難波に都をつくる。是を高津宮と謂ふ。」とある「仁徳天皇」の宮は摂津なのかどうか、と。

地名辞典によると、喜田貞吉氏、折口信夫氏などは「大阪城説」を、山根徳太郎氏は大阪城外堀以南の法円坂あたりと考えられているようだが、いずれも「高津宮跡」と推定される遺構は検出されていないようで。
(謡曲・難波2:http://www.harusan1925.net/0523.html)

となると、「初めて書を習う人の手本」とされた「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」にも、つい首をかしげてしまうわけで。

「古今伝授」「今治」との関連が?呪術的な歌で暗号として用いられたのならば、摂津の難波となるのかどうかが気になるし、難波津を難波都とみなした「難波宮」を示す暗号?
(王仁:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/wani.html)
(位置関係の謎に関する一応の結論:http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-90909.htm)
(万葉集で解く難波津の歌の謎:http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0kininaru-0n.htm)
(神社の位置が物語る古代史の秘密:http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-90808.htm)

「角沙弥」の万葉歌では、「難波潟」の場所が異なっていると思われるようだし、上記URLの「難波の考察」に書かれていたような、「牛を放つ」に「武装解除して文化事業に力を入れる意味」があるならば、「難波」は摂津とは限らないような。
(角沙弥と【河辺宮人】:http://www.geocities.jp/yasuko8787/z251.htm)

「莵餓野」から聞こえていた鹿の鳴き声が聞こえなくなったという話が「仁徳紀の38年の項」にあるというので思い出したが、「莵餓野」が土佐にあったとされていたような・・・。
(定家が選んだ小倉百人一首の謎:http://www.geocities.jp/yasuko8787/09-1119.htm)
(莵餓野:http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page418.html)

う〜ん・・・。


神奈備さんの「青草談話室」を拝見したら、「いま、神奈備ドンの書き込みに「阿波の国」が出ていますが、ahas はピリピノ語で へび(大地の護り神)です。」とあり、何かありそうでゾクゾクし、同じく神奈備さんの「神奈備掲示板」で同じ方が「神奈備ドン、サルタ彦の内意に「交易」、「運搬」、「世話人」の三つを加えていただけませんか?」と書かれていてワクワク。
(青草談話室5791:http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/aokbbs.cgi)
(神奈備掲示板10501:http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/kambbs.cgi)

上記の「麻績王」と繋がるかも・・・。

2010.12.08(Wed.)

今日お医者さんに行く途中、「野々宮神社」の「火祭り」の幟が見え、今度の日曜(12日たぶん午前10時)に行われるようで。

神社の公式サイトがないので詳細がわかるサイトがないかを検索したところ、「神々の歳時記」さんのサイトに「此の宮は、火産霊命に因む発火と鎮火の神として「火の宮」とも称され、また菅原道真公は学問の神として崇敬されている。因みに11/15日の笛吹神社の火祭りを参照。」とあり、11/15の「笛吹神社」を拝見すると、「笛吹神社(葛木坐火雷神社)の鎮火祭」について引用されたURLがあった。
(神々の歳時記・12月中旬:http://kami.tudura.com/page156.html)
(神々の歳時記・11月中旬:http://kami.tudura.com/page150.html)
(笛吹神社の鎮火祭:http://library.city.katsuragi.nara.jp/furusato/chinkasai/index.html)

「奈良の探訪」さんのブログにも、2年前の「笛吹神社(葛木坐火雷神社)の鎮火祭」の写真があった。
(奈良の探訪:http://blogs.yahoo.co.jp/a02221370209/56886149.html)

「野々宮神社」の御祭神「火産霊神」は、2010.11.30分での「静火神」「火結神」であり「建葉槌命」で、物部氏と繋がるようではあるが、行基の母方の里にある行基ゆかりの神社で、秦氏の色合いの濃い場所でもあり、西2キロほどのところの行基ゆかりの「行興寺」の隣にある「日部神社」は日下部氏のテリトリーで、「野々宮神社」の東1キロ弱には「土師町」があって、「行基プロジェクト」が揃っているような場所なわけで。

あ、2010.11.26分での「陶荒田神社」は「野々宮神社」の南東3キロ弱のところで、「野々宮神社」の西3キロちょいには、行基ゆかりの「大鳥山勧学院神鳳寺」が神宮寺だった「大鳥大社」がありますね・・・って、このあたりは2010.01.21分や2010.01.24分などで美原区菅生の「菅生神社」に行った時に書いてますね。


今日の神奈備さんの掲示板で、「麻続」から「梶の葉」について書かれていたけど、一豊の「柏紋」って似ているような・・・。
(梶紋:http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/kazi.html)
(柏紋:http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/kasiwa.html)

「梶の葉は甕が三つつながった形」とされていることから「甕」「梶」で検索すると、

更に、「天香香背男」の別名に「天津甕星(あまつみかほし)」がある。一方、出雲国風土記に「天御梶姫(あめのみかぢひめ)」(アヂスキの后)、天■津姫(あめのみかつひめ)」(赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の后)があり、ここの「みか、みかぢ、みかつ」が同義であると考えられる(■は「瓶」の異字体)。

即ち、これら姫名(みかぢ、みかつ)には「みか、甕」が入っており、天津甕星(=天香香背男)と夫婦でありそうだ。(当然、アヂスキ=赤衾伊農意保須美比古佐和気能命=天津甕星=天香香背男、となる。)
(倭文神:http://www.dai3gen.net/sitori.htm)

とあり、「天御梶姫」は「阿加流比売神」であり「瀬織津姫」なのかも、と・・・「出雲国風土記」の最古のものが「細川幽斎」が書写させたものであること、「天甕津媛命」が祀られている「阿豆良神社」、その神社近くに「馬見塚遺跡」があることなど、気になりますね。
(葛城の古代:http://kamnavi.jp/mn/katuragi.htm)
(出雲国風土記:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98)
(阿豆良神社:http://kamnavi.jp/en/mikawa/atura.htm)
(阿豆良神社から馬見塚遺跡:http://walking.ichinomiyan.com/takaki06.html)

先月書いてた奈良県北葛城郡の「馬見物部」との関連があるのかもしれないなと「馬見塚遺跡」を検索していると、伊豆の「修善寺」にも同名の遺跡があって、「修善寺」には行基ゆかりの「善名寺」「吉奈温泉」などがあり、物部氏が、というか、「行基プロジェクト」の関連氏族である可能性はありそうで・・・あ、近江の「馬見岡綿向神社」近辺も。
(愛知県の縄文遺跡:http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo01/01kawazoe.pdf)
(修善寺の遺跡・44馬見塚遺跡:http://www.city.izu.shizuoka.jp/form1.php?pid=1101)
(馬見丘陵を行く :http://inoues.net/club2/umami_kofungun.html)
(馬見岡綿向神社:http://www.ex.biwa.ne.jp/~j-watamuki/)

「神武天皇を馬見神社へ連れて行ったのは物部氏だった」というブログがあった・・・そのブログに「浮羽物部氏の末裔の方のはなしによれば、中近東で栄華を極めていたソロモン王国を支えていた氏族が物部氏とのことを伺いました。」とあることなど、興味深いことが書かれていたので、明日ゆっくり拝見させていただこうかなと。
(日若神社:http://lunabura.exblog.jp/14349658/)
(大嶽神社3:http://lunabura.exblog.jp/15310757/)

2010.12.09(Thu.)

風琳堂さんのブログが更新されていて、「大山祇神社と瀬織津姫神【[】──秦氏と瀬織津姫祭祀」には、私が書けなかったことが網羅されているように思った。
(大山祇神社と瀬織津姫神【[】──秦氏と瀬織津姫祭祀:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2010/12/08)

行基の足跡を辿ることによってまず見えたのが秦氏で、大和岩雄氏の「秦氏の研究」を拝見してても関連づけることができなかったこと、行基の足跡が「何か」を言わんとしているように思いつつも秦氏との繋がりがはっきりしなかったことが、「秦氏と瀬織津姫祭祀」で解明していただいたようで・・・自分の読解力のなさを痛感しました。

いや、読解力のなさだけでなく見落としや物忘れもありますね、昨日の「野々宮神社」で思い出したんだけど、2007.02.01分で行基ゆかりとされる「秋葉山本宮秋葉神社」のことを書いており、URLを残してないので詳細はわからないが、「中性院の境内には「金比羅神社」があるそうで、大物主命・佐田比古神・瀬織津女命が祀られている」と書いていて、ちゃんと詳細を書き残しておくべきだったなと反省。
(秋葉山本宮秋葉神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%AE%AE%E7%A7%8B%E8%91%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE)


2007.02.01分を検証しようと、「中性院」「行基」で検索すると阿南市の寺社がヒットし、拝見していると「秋葉神社」には繋がらないようだが、行基ゆかりとされるお寺があることを知ることができた。
(寺社めぐり:http://www3.netwave.or.jp/~kkmm/04208d/take420.html)

そのお寺のある字名の「大宮」や「宮北」、「見能方八幡社」などが気になって検索したところ、「見能方」は「水潟」だそうで「この付近の地名に関して「阿波志」では「み」というのは全て「水」とされている。「才水(才見町)」「西路水(西路見町)」「七水(七見町)」「横水(横見町)」という具合である。」とのことで、興味深いなと・・・「見能方」「水潟」はタケミナカタと繋がるような・・・旧名方郡に「多祁御奈刀弥神社」があって。
(見能林にて:http://blogs.dion.ne.jp/kaiyo/archives/9262969.html)
(多祁御奈刀弥神社:http://www.genbu.net/data/awa2/minatomi_title.htm)
(長髄彦の後裔とその奉斎神社:http://enjoy.pial.jp/~kokigi/keihu/nagasune/nagasune1.htm)

「見能方八幡社」の境内社「子安神社」の御祭神が「天火明神」で、「安産、子授けの神として信仰が厚い。」とあり、ん?と思っていると、行基ゆかりとされる「千福寺」が別当という「八幡神社」は、「八幡社ではあるが八坂社でもあるという意味のようだ。」とのことで、え?と。

「八幡神社」の飛地境内社という「賀志波比売神社」について谷川氏は、「私はかつてワナサの水の信仰を持ち歩いた古代の阿波の海人族の遍歴の足あとを偲んだ。」と、情景を思い浮かべておられるようで、「ワナサの信仰は、貴人の赤んぼうを潮水に漬けて産湯を使わせたり、みそぎの儀式の手引をする海女の役割とつながりがある、と折口信夫は考えているようである。」とも書かれているようで。
(賀志波比売神社:http://kamnavi.jp/en/awa/kasiwa.htm)
(賀志波比売神社:http://www.genbu.net/data/awa2/kasiwa_title.htm)

「阿波」での「瀬織津姫」が見えたように思いつつも、森氏の著書で「粟」について書かれていた時の検索で、ここまで辿り着けなかったことを反省・・・検索で折口氏の「水の女」で上記のお考えについては拝見したけど、阿波での検索が甘かったようで・・・。

うるめしまさんのブログ「見能林にて」に、「付近の地図をみると、柏木、吉積、土肥姓が何軒かある。」と書かれていることから、「柏木」さんは「賀志波」からのものと思われ、「吉積」さんの読みは不明だが「きづみ」さんなら「木積」と同じかと思われ、貝塚市の行基ゆかりの「孝恩寺」のある「木積」や「穂積」に繋がると思われ、物部氏に繋がりそうで。

「新開氏がいつごろ阿波に移ってきたのかは判然としない。」とのことだが、「鎌倉時代の終わりごろ、新開氏は武蔵国から北陸・南海道に移動し、越中に入った新開氏は土肥氏を名乗り、四国に上陸した新開氏は足利氏に味方し、のちに阿波守護となった細川氏に配属された。」とあり、「四国に上陸した新開氏」も土肥氏であれば、秦河勝の末裔かと。
(新開氏:http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sin_kai.html)

「阿波の新開土肥氏も信濃秦氏の分かれという」とのことで、2010.08.02分での、「秦能俊」が「保元の乱」で「崇徳上皇方に属して敗れ、土佐国に逃亡」したことに関係がありそうで・・・だけど、ここでも同族での戦いが生じているんですね・・・。
(岡豊城:http://koskan.nobody.jp/sengokusi_tosa.html)

「ワナサ」で検索していると、「倭国創生と阿波忌部」という本の目次がヒットしたが、今日の分を書きだす前に別の本をネット注文したところなので手が出ない・・・が、関連すると思われるブログがあった。
(倭国創生と阿波忌部:http://www3.tcn.ne.jp/~aska/sub2.html)
(すえドンのフォト日記:http://sueyasumas.exblog.jp/i10/)

吉野川市美郷(旧麻植郡美郷村)別枝山字平の「水の神」に由来するという「美奴間神社」(御祭神:天水沼間比古命・天水塞比売命)は、神戸の「敏馬神社」との関連がありそうな・・・というか、瀬織津姫かと。
(すえドンのフォト日記:http://sueyasumas.exblog.jp/11095155/)
(中内神社:http://www.genbu.net/data/awa2/nakauti_title.htm)

阿波一之宮「大麻比古神社」近くの「霊山寺」って、行基開創というお寺なんだが・・・阿波一宮の本地仏だった「十一面観音」は行基作とされていて、「大日寺」に安置されているのだが・・・。
(すえドンのフォト日記:http://sueyasumas.exblog.jp/10721726/)
(霊山寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%B1%B1%E5%AF%BA_(%E9%B3%B4%E9%96%80%E5%B8%82))
(大日寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%AF%BA_(%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E5%B8%82))

「「日本書紀」垂仁天皇二十五年三月条の記事にある伊勢国は、「徳島市の以(い)の山(現在の城山)の以西(いさい)にある以西(いせ)の狭長(さなが)村(佐那河内村の古名)である。斎宮は、同村宮前にある朝宮神社で、天照大神荒魂、瀬織津姫を祭祀しており、伊勢神宮と同格の筆頭別宮、荒祭宮と同祭神である。」とあり、「日本武尊が伊勢神宮の荒祭宮である礒宮を この地へ移祀したと伝えられている」という「櫻川磯部稲村神社」との関連がありそうな。
(すえドンのフォト日記:http://sueyasumas.exblog.jp/9774627/)
(櫻川磯部稲村神社:http://www18.ocn.ne.jp/~isobe/saishin.shintoku/gosaishin.html)

徳島にも「難波」があるようだし、「宅宮神社」のある徳島市上八万町大木(大岐)は、「安曇氏」の根拠地、とのことで、あれこれ繋がりそうで。
(すえドンのフォト日記:http://sueyasumas.exblog.jp/i10/22/)

それにしても、「すえドンのフォト日記」さんにある「積み石」ってどっかで見たことあるなぁと思ってたところ、「清頭岡祭祀遺跡」が京都の「松尾大社」の「磐座」に似ているように思えたことから、「松尾大社」の「三宮社・四大神社」の裏から入山するあたりの斜面がそういう感じだったのを思い出し、人工的ではなく自然に積み重なったものと思われるが似ているなぁ、と。
(すえドンのフォト日記:http://sueyasumas.exblog.jp/10531927/)

拝見してて思いついたままに書いてしまいましたが、昨日拝見したいと思っていたブログも気になるし、「配流」での検索も止まったままなのにML「西行辞典 第152号」の「藤原実方」が気になって、だけど木曜だからおんまさんの更新もあって・・・。

ということで、いつものこととは言え、中途半端なままですみません・・・。

2010.12.10(Fri.)

物部氏から「曽根氏」について思い出し、「北新地」(曽根崎新地)も物部氏のテリトリーだったのかもと地名辞典を見たが載ってなかった。
(物部氏:http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02113.htm)

仕方がないので、とりあえず「曽根崎」近辺について少々調べてみて、気になったところをコピペさせていただいたものが以下のもので。

・堂島
南に堂島川、北に曽根崎川(蜆川(しじみがわ))が流れる中州の島で、薬師堂があったことから「堂島」になったと言われる。 少ない田畑があるだけの島であったが、1685年(貞享2年)、河村瑞賢が曽根崎川を改修して堂島に新地を開発、江戸幕府は開発後の振興策として茶屋の設営を許可、大坂市街の北に位置したため、北の遊里・北の色里などと呼ばれる繁華街になった。

1697年(元禄10年)、江戸時代の代表的な豪商である淀屋が北浜で開いていた米市場が対岸の堂島(大江橋北詰)に移されるとともに米取引の場へ変貌、繁華街は曽根崎川対岸に拓かれた曽根崎新地(北新地)へと移っていった。 その後、全国より廻送された米が取引きされた「堂島米市場」として発展し、これが後に世界初の近代的な商品先物取引が行われた「堂島米会所」となった。堂島に廻送された年貢米は年間100万石とも150万石とも伝えられ、それらを保管する倉庫と屋敷を兼ねた諸大名の蔵屋敷が建ち並んでいたという。

1909年(明治42年)から曽根崎川は埋め立てられ、曽根崎新地や梅田とつながった。米取引は昭和初期まで行われていたが、戦時統制により1940年(昭和15年)廃止された。
(堂島:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E5%B3%B6#.E6.B2.BF.E9.9D.A9)

・淀屋
江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商である。全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。
米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事となった事により、幕府より闕所(財産没収)処分にされた。しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、後の世代に再び元の大坂の地で再興した。幕末になり討幕運動に身を投じ、殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。

淀屋を創業した岡本家によるものを前期淀屋、闕所後に牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼ぶ。
淀屋が開拓した中之島には、かつて常安町と常安裏町(現在の中之島四丁目〜六丁目)が有った。また現代も中之島に掛かる淀屋橋や常安橋にその名を残している。
(淀屋:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B1%8B%E8%BE%B0%E4%BA%94%E9%83%8E)

・曽根崎界隈について
歌語り風土記 大阪府:http://nire.main.jp/rouman/fudoki/36osaka.htm
消えた北の新地・蜆川1:http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-105.html
浪花女の命は短くて:http://www.osaka-asobo.jp/cms-image/251d9ce827bb69f1877c4a55c180ae3e.pdf

・神明神社:http://www.weblio.jp/content/%E7%A5%9E%E6%98%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE

・日本七神明(皇国七社神明宮)
東京・芝大神宮:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%AE%AE
京都・松原神明宮
京都・東山神明宮:http://www.weblio.jp/content/%E6%97%A5%E5%90%91%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%AE%AE
加賀・金沢神明宮:http://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/search/detail.php?e7a59ee7a4be4944=367
信濃・安曇神明宮:http://www.weblio.jp/content/%E4%BB%81%E7%A7%91%E7%A5%9E%E6%98%8E%E5%AE%AE
出羽・湯殿山神明宮

・浪速三神明
夕日神明宮(露天神社):http://kamnavi.jp/en/settu/tuyuten.htm
朝日神明宮:http://kamnavi.jp/kumano/osk/sakaguti.htm
日中神明・照日神明:http://kamnavi.jp/en/settu/turumati.htm

あと、曽根氏は「池上・曽根遺跡」から思い出したわけだが、そのあたりも地名辞典でちらっと見ていると、「紀州街道」と「粟街道」の中間あたりに「北曽根町」があり、地名は曽根氏に因むようで、「粟街道」についても関連ありそうだなと検索してみたけど出なかった・・・。
(北曽根村:http://www.city.izumiotsu.osaka.jp/matizukuri/kawaraban/choumeinohensen/kitasonemura.html)

が、たしか「粟神社」がかつてあったはず、と。

現在「大津神社」に合祀されているのだが、本来の御祭神を推定されている方のサイトがあり、「粟神社に比定される粟堂「宇多大津村粟戸(現式内町)」の地名から、粟神社の祭神・天太玉命と宇多神社の相殿神・船玉命のどちらかが、本来の祭神ではなかったかと思うのである。あるいはこの天太玉命と船玉命は異名同神かも知れない。」とあり、式内町は元は宇多だったので興味深いな、と。
(大津神社:http://www5.ocn.ne.jp/~miyosino/info/izumiotu.html)
(式内町:http://www.city.izumiotsu.osaka.jp/matizukuri/kawaraban/choumeinohensen/sikinaichou.html)
(宇多大津村の牛頭天王社:http://blogs.yahoo.co.jp/ziguruma2004/59507296.html)

つまり、行基ゆかりの「極楽寺」のあった場所は「宇多」にあたり、物部氏のテリトリーだった、ということになりそうで、それが遺跡近辺まで続くとなると、物部氏のテリトリー内に紀氏や秦氏などのテリトリーが存在する、ということのようで。

「天太玉命」は2008.11.08分などでも調べているが、「忌部氏」の祖神で、昨日の「桜川磯部稲村神社」では「瀬織津姫」とともに祀られていて、物部氏と忌部氏の繋がりが見えるような。
(忌部氏:http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/south/s_inbe.html)

「船玉命」については、2010.11.30分に神奈備さんの掲示板から引用させていただいた「住吉大社」の摂社「船玉神社」と同じならば、志麻神「市杵島姫命」、静火神「火結神」、伊達神「五十猛命」で、紀氏・秦氏・物部氏の繋がりが見えそうで。
(志磨神社:http://kamnavi.jp/ki/city/sima.htm)
(静火神社:http://kamnavi.jp/ki/sizuhi.htm)
(伊達神社:http://kamnavi.jp/it/kii/date.htm)

「住吉松葉大記では住吉大神の荒御魂」とあるそうで、そうなると「瀬織津姫」だが。
(船玉神社:http://bittercup.blog81.fc2.com/blog-entry-1342.html)

ということで、「行基プロジェクト」の関連氏族の一部を見たようで。

2010.12.11(Sat.)

「すえドンのフォト日記」さんのブログの続きを拝見していて、2010.01.24分で「阿保」を追ってた時に辿り着いた「上一宮大粟神社」の写真があり、2010.01.24分では「社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。」が気になってたが、ブログには「神領の山の中には、古来「養蚕の神」として知られた「悲願寺」があり・・・」というのが気になった。
(すえドンのフォト日記:http://sueyasumas.exblog.jp/9389478/)
(上一宮大粟神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%B8%80%E5%AE%AE%E5%A4%A7%E7%B2%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE))

「大宜都比売命(保食神)も養蚕の神で、「千手観音」が祀られたということで、瀬織津姫に繋がるような。」と書いていて、やはりそうなのでは、と。

「悲願寺」は2010.01.24分でも検索しており、「満仲」の子「美女丸」の開基で「源氏」が絡んでくるあたりが気になって横道にそれてしまうのだが、謡曲「紅葉狩」は「満仲」の父「経基」の伝説が絡み、謡曲「満仲(まんじゅう)」は「満仲」と「美女丸」の話で、同じく「満仲」の子の「頼光」や後裔の「頼政」の伝説も謡曲になっているあたりや、「摂津源氏」に繋がる「商人」が目につくことなど、何かありそうな。
(謡曲・紅葉狩:http://www.harusan1925.net/0716.html)
(謡曲・満仲(まんじゅう):http://www.harusan1925.net/0706.html)
(謡曲・大江山:http://www.harusan1925.net/1203.html)
(謡曲・鵺:http://www.harusan1925.net/0528.html)

う〜ん、「妙体山と大山積神・木花咲夜姫♪」っていうタイトルだけでも気になってるのに、山頂に「明多意神社」「妙体神社」が並んで建っていて、「明多意神社」の御祭神が木花咲耶姫で、「妙体神社」の御祭神が書かれてないのがさらに気になる・・・。
(すえドンのフォト日記:http://sueyasumas.exblog.jp/9380898/)

昨日、「神明神社」について少し書きましたが、徳島では「ニニギ」が祀られているんですね、「阿波の最高峰剣山から吉野川流域に下る最短コースの中程にあり、一帯には迩迩藝をはじめ妃の木之花咲夜比賣を祀る神社が多く見られます!!」とのことで。
(すえドンのフォト日記:http://sueyasumas.exblog.jp/9326265/)

写真の石垣、北近江ポイントラリーで通った行基ゆかりとされる「飯福寺」近辺に似ているような・・・。

北近江ポイントラリー5より
(2000/10/22撮影)

[飯福寺の説明板]


[飯福寺への坂道]


飯福寺を通り過ぎて少し行くと下り坂になり、
このようなのどかな風景が左右に広がってきました。

急にネット接続が悪くなってしまったので、検索が止まってしまいましたが、「社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。」とあるのが、な〜んかありそうなんですよね・・・。

伊勢の丹生と阿波吉野川流域を結びつけるもの、これは共に、照葉樹林帯に属し、中央構造線上にあり水銀(丹砂)の産地でかつ地滑り地帯であると言うところが見えます。
それと、阿波も伊勢も太陽は海から昇ります。紀北では海に沈んでいきます。大宣都比売命を奉ずる人々が紀北にとどまらず、阿波まで移動したのは、ここをよく似ている土地と思ったからではないでしょうか。
(阿波・大宣都比売の神:http://kamnavi.jp/inari/awanokuni.html)

とのことで、人々の移動による移動地名があって、「古事記」の記述に合う地は多くありそうで、「徐福」のそれと似ているような。

で、同じ信仰を持つ人々の一派が、阿波から太平洋に出て、天竜川を遡って信濃に至り、「多祁御奈刀弥神社」の神を「南方刀美神社」に祀り、同じ信仰を持つ人々の別の一派は出雲で「野白神社」の別宮に「穀木神社」を祀ったのかもと。
(多祁御奈刀弥神社:http://www.genbu.net/data/awa2/minatomi_title.htm)
(南方刀美神社(諏訪大社上社本宮):http://www.genbu.net/data/sinano/hon_title.htm)
(すえドンのフォト日記:http://sueyasumas.exblog.jp/10673319)
(和紙の起源と麻および忌部氏との関係:http://www.asahi-net.or.jp/~is2h-mri/wasi.html)
(野白神社:http://www.genbu.net/data/izumo/nosiro_title.htm)

田村麻呂と「梶の葉の紋様をつけた武者、藍染の紋様をつけた武者」は同族、あるいは近い関係にあった人で、阿波から出雲を経て信濃に入った忌部氏と、阿波から直接来た忌部氏のように思われ、忌部氏と東漢氏の繋がり、あるいは、同じ信仰による繋がりを言わんとしているような。

諏訪は2010.01.10分などでも検索していて、「御柱」の見立てに用いる「薙鎌」は阿波の「多祁御奈刀弥神社」の神紋との繋がりが見えそうで、「多祁御奈刀弥神社」が「疱瘡にかかった際に霊験があり・・・」とあることや、諏訪で「風の神・風伯として竜田の風神とともに祀られている。」こと、「藍染紋様の武者が「王城鎮護の住吉の大明神」であった。」というあたりは「ニギハヤヒ」に思われ、梶の葉の武者が「諏訪の明神」で「清水観音」の指示によってお供したということや、上水内郡信州新町の「建御名方富命彦神別神社」が「広瀬」ならば、御祭神は「瀬織津姫」かと。
(建御名方富命彦神別神社:http://www.genbu.net/data/sinano/hikokamiwake2_title.htm)

2010.12.14(Tue.)

泉大津市の「昔話」を集めた本が出版されたと数日前の新聞の地方版に載ってて、な〜んか気になって駅近くの「水嶋書房」にて購入(1,050円)。まだちらっとしか読んでないけど、なかなか興味深い内容のような・・・。

「泉穴師神社」の「太鼓橋」は縁のある「住吉大社」のを習って作られたそうで、橋を渡ることに「禊」の意味があるとは・・・って、「後世、橋を渡ることでも罪穢れが祓われるとされ・・・」とあったから、遠い昔のお話ではなさそうな・・・。
(日吉大社:http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hiyoshi-sankei-3.html)
(住吉大社:http://www.sumiyoshitaisha.net/place/meisyo.html)

ま、「泉穴師神社」の宮司さんが「津守さん」というのは頷けるなぁと思いつつ、各地で「橋」を掛けていた行基が「瀬織津姫」を信仰するのは、当然と言えそうな。

で、話は変わりますが、先週「天日鷲命」で検索してた時、「多米連は住吉社の神事にかかわっていたのである。」とされる「多米神社」がヒットし、「多米神社は一名苗見明神、苗見の社あるは種貸明神、種貸宮と称し・・・」とも。
(多米神社:http://kamnavi.jp/en/settu/tameno.htm)
(多米神社:http://www.geocities.jp/engisiki/settu/bun/st060113-03.html)

神奈川で行基との繋がりが見える「若光」や「ニニギ」とともに多米氏の祖「神皇産霊神」が「高麗山」(高来神社)に祀られているそうで、廃寺となった行基ゆかりの「高麗寺」も長居の「多米神社」も「徳川家」が絡み、「多米氏の支流は三河に移って土豪となったものもあり・・・」とあることや、太子の母・穴穂部間人皇女の再婚相手が「多米皇子(田目皇子・豊浦皇子)」だったと思うので、「多米氏」は気になってはいるんだが・・・。
(下鴨の相生社と高句麗の若光伝説:http://www.honza.jp/author/3/takahashi_hideharu?entry_id=760)
(高麗山:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E5%B1%B1)
(田目皇子:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E7%9B%AE%E7%9A%87%E5%AD%90)

住吉さんの「初辰まいり」は、種貸社(倉稲魂神)→楠くん社→浅沢社(市杵島姫神)→大歳社(大歳神)と参拝し、このあたりにも何かヒントがありそうだが・・・。
(初辰まいり:http://www.sumiyoshitaisha.net/calender/hattatu.html)


この3日ほど、「どこがどう変わったん?」と言われるのが聞こえてきそうな作業を続け、ようやく一区切りがつき、夕方に100個近いファイルの削除と更新分の転送してまして。

その時にテレビから聞こえてきたニュースがクマの出没のことで、どこかいな?と思ってたら和歌山だったんだが、「あおちくでは・・・」っておっしゃってたので慌てて目線をテレビに向けると、「粟生地区」と漢字でテロップが出ていた。
(関西のニュース:http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html#0358606)

和歌山にも「粟生(あお)」という地名があるんだなぁと思ってたら、「有田川町」とのことで、2007.01.18分で書いて行こうとしてた行基ゆかりとされる「日拝山 行基院 法音寺」が有田郡有田川町(旧金屋町)岩野河だから、「粟生」で鉄がとれて「法音寺」近くで製鉄作業が行われていたのかな、と。

「粟生地区」で検索すると「清水町」がヒットし、「有田郡の吉備町・金屋町と合併し有田川町となった。」とあり、

ほかにはそれまでの粟生村が現在の金屋町部分にあるそれまでの岩野河村・川口村・立石村・谷村と合わさって岩倉村の一部となった。

昭和34年(1959年)1月には五村と岩倉村の旧粟生村部分を編入して現在の清水町となった。
(清水町:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E7%94%BA_(%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C))

とのことで「法音寺」に近く、箕面の「粟生間谷」が秦氏のテリトリーと思われることもあって、「棚田」や重要無形文化財「粟生のおも講と堂徒式」が「行基プロジェクト」の関連氏族と繋がらないかと検索してみた。

おも講は、草分けの主株13戸が毎年旧正月8日に当屋に集まって行われます。当屋には岩倉大明神と観音菩薩・薬師如来・大日如来の二幅の掛け軸をかかげ、これに礼拝し、吉祥寺住職によるお勤めのあと、御神酒を飲み食事をして親睦をはかります。
(粟生のおも講と堂徒式:http://www.town.aridagawa.lg.jp/event/ao.html)
(粟生のおも講と堂徒式(動画):http://otera.no.coocan.jp/ban_top.htm)

とあり、「岩倉大明神」については、

聖武天皇(730年)大明神として奉祀。弘仁7年(819年)弘法大師諸国周遊霊地探検の折應神山(生石山)に端坐護摩修行する清浄霊地なるを観察し、みずから大日尊容一躰を彫り里人に告げ草堂を作り安置する丹生高野雨宮と麻利支天を勧請し之を岩倉大明神となづけり
(粟生岩倉神社:http://www.town.aridagawa.lg.jp/asobu/asobu_016.html)

とのことで空海絡みのようだが、行基の足跡があったかもしれないし、のちに明恵が「吉祥寺」と関わっているあたりから、「古代からのネットワーク」が存在していたように思われるわけで。
(移動する仏像たち:http://www.town.aridagawa.lg.jp/profile/documents/6_004.pdf)
(移動その2:http://www.town.aridagawa.lg.jp/profile/documents/all_017.pdf)

うーん、2009.11.28分などで追ってた松原市や名賀郡などの「阿保」や「青」も「粟生」に繋がり、「古代の鉄と神々」の「阿保とは穴太で穴生・穴穂とも記し、鉄穴を意味する。」に繋がる、ということのような・・・。

「穴太」と言えば、かつて松江での「堀川めぐり」の時に、石垣の修復には「近江」から職人さんに来てもらっている、って聞いたように思い、神奈備さんの掲示板にあった「苧績」「麻績」と同じ読みであるあたりから繋がっていきそうな・・・滋賀には秦氏・物部氏の足跡が多くありますよね・・・。

検索してると、「亀岡市曽我部穴太東ノ辻の「穴太寺」がヒットして、「大伴古麻呂の開創」とあって、ほ〜、と。
(穴太寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E5%A4%AA%E5%AF%BA)

あ、「穴太村」って猪名川沿いの園田の方にもありましたね、2009.10.17分で引用させていただいた秦氏絡みと思われる「白井神社」があって。
(白井神社:http://kamnavi.jp/ym/hiboko/siraki.htm)

あ、お風呂に入らなきゃ・・・。

2010.12.15(Wed.)

神奈備さんの掲示板[10521]で「瀬に坐る鬼女、また川の側で機を織る、何となく神を待つ巫女を思わせます。その神とは、瀬織津姫なら似合いそうです。」とあって、伝承のある「鬼無里」が「水無瀬の地名が鬼の無い里となったそうです。」とのことから、やはり「瀬織津姫」かと。
(http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/kambbs.cgi)

「水無瀬」(山崎)については、「百人一首」「在原業平」「惟喬親王」「藤原北家水無瀬流(桜井氏)」など、気になることを検索してきて、はっきりしたことは書かれてなかったけど、今までの流れから「瀬織津姫」に関連するように思えて。

「鬼無里村は、野県上水内郡にあった村」とのことで、11日に書いた上水内郡の「建御名方富命彦神別神」に繋がりそうだし、2010.01.10分での「水内神」は「戸隠神社」という説もあるということ、祀られている地主神の「九頭龍大神」のことなど、「瀬織津姫」と伝承との繋がりが見えるような。

「穀(カヂ)」は「カヂ(風)」で同音同意」とされるサイトがあり、11日の「竜田の神」と繋がりそうで・・・「伊勢津彦」が「八風」を起こした、というのは、「穀」を植えて後に譲る同族が住めるよう開拓した、とも考えられそうで、増えた同族が新たに住めるように、大風の吹く日を待って船で東国の未開の地へ向かったのかも、と。
(古代之風:http://kaze.world.coocan.jp/index.html)
(伊勢・志摩の語源〜信濃まで:http://www.dai3gen.net/isesima.htm)

2009.12.01分に引用させていただいた「伝説によると「白髯神社」は、白鳳時代に天武天皇が遷都を計画し、鬼無里に派遣された「三野王」と「小錦采女臣筑羅」らが、鬼門の守護神として猿田彦命を祭神とするこの社を勧請したのが始まり。」ということも、神奈備さんの掲示板にあった「阿阪と猿田彦」や、神奈備さんの「青草談話室[5806]」での「ツキヨミ」の「ヨミ」が「紐数字に密接に関連」すること、「麻」の語源が「青」であれば昨日のことなどが、「隼人」や「吾田姫」に、そして「行基プロジェクト」に繋がるような。
(http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/aokbbs.cgi)

で、神奈備さんの掲示板[10524]の「真床覆衾」について、かつて「闇の日本史」さんのサイトで拝見したことがあり、「壬生吉志・吉士族は平安初期までに安倍(阿部)と称するようになったのです。」とあり、「壬生」は「乳母」とも書き、「『古事記』は、一言で言えば、巫女文学であり、姨(乳母)の語りである。」と繋がりそうな。
(「スペシャルエージェント埼玉支部:http://www011.upp.so-net.ne.jp/dhistory/sei_0wn.htm)
(多氏と猿女の密接さの接点はなにか:http://www.geocities.jp/yasuko8787/o-077.htm)

「壬生吉士」が「安倍(阿部)」を名乗ったのは「大彦命」の後裔であることを示していると思われ、「扶桑王国」の関連氏族、すなわち「古代からのネットワーク」の一氏族と思われ、職能の上からも物部氏や秦氏らとの繋がりが見えてきそうで。
(大彦命:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%BD%A6%E5%91%BD)

「大彦命」同様、「孝元天皇」の血を汲み、「阿倍野の近くの浜で吉志舞を舞った阿倍氏は大変近しい一族に当たる。」という「北風家」がふと気になった。
(北風家:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%A2%A8%E5%AE%B6)


余談になりますが、私の名前ってよく読み間違えられるんですよね。(笑)

行基を追ってて多くの寺院・神社を見ているうちに、そうした足跡には何かウラがあると思い始め、行基が祀った「十一面観音」が「瀬織津姫」に繋がったことでその「何か」から「行基プロジェクト」を想定するようになり、行基と「瀬織津姫」の接点に出てくる「別名」を知ってからは、1000年以上の歴史を行ったり来たりし、時には日本以外の地にも検索が及んで、いかに篤い信仰によって守られてきたかが見えてきて。

だから、他にもどんな神名で守られ祀られてきたかを知りたいと思うし、どの神名で祀られるのがあるべき姿なのかを知りたいと思う。

たとえば、本来の姿ではない現在の「天照大神」に考えさせられ、「瀬織津姫」としてお参りするように変わってきてて、「別名」だと思われる祭祀の場合にはその神名でお参りすることもあるが、それで迷うこともある・・・。

私自身、イヤなあだ名で呼ばれるとムカつくし、気に入っているニックネームなら有難く思い、読み間違えられて呼ばれたら自分のことだろうと思いつつもあまりいい気はしなくて・・・って、私と比較するのは申し訳ないことなんだけど。(苦笑)

コミック「陰陽師」で、ヨメの本名(諱名)について晴明からウソを教えられた博雅くんのように、それを信じきってヨメにちゃんと聞かないのも、ヨメもヨメで博雅くんが信じている本名が間違っていると訂正しないことも、「思いやり」の範疇でアリっちゃアリだろうけど、やはり「笙」の名でなくちゃんとした名前で呼ばれたいって思ったんじゃないかと思うんですよね。

だから、行基が「十一面観音」に託した神名を知りたくて足跡を追って・・・愛された時に呼ばれた名前が彼女にとっての本名、というか、祀られるべき神名なのではと思ったりするが、昔は本名を明かさなかったようなので、どうなんだろうかとさらに迷ったりして・・・女心は複雑なわけで。

2010.12.17(Fri.)

「闇の日本史」さんの掲示板で、行基ゆかりとされる「大日霊貴神社」が出てきてたけど、つい「鹿角三姫」という和すい〜つに目を奪われて。(苦笑)
(http://6014.teacup.com/granvia/bbs)
(大日堂舞楽:http://www.ink.or.jp/~hatakei/)

「吉祥姫」「政子姫」については、2008.08.14分や2010.08.07分などでも書いていて、やはり行基絡みで見られる千葉の「松虫姫」など、海人族による「行基プロジェクト」が伝え残したかった「女神」の存在が考えられそうで、元は日田郡の「津江神社」に何かありそうな。
(松虫姫伝説:http://www.chinjuh.mydns.jp/ohanasi/tanbou/0007.htm)
(津江神社:http://www.sysken.or.jp/Ushijima/tuedon.html)

「津江神社古事記録」の「彼に対せば乾の方(北西)を見るべし。」の「乾の方」は「穴師」に繋がり、「鉄」関係、そして「秦氏」がウラで絡んでいるように思われ、「麻が日田郡の主要な生産物」とあり、木彫神像の「御衣替えの神事」では「本来の御衣は麻布であったと思われ・・・」とのことで、「真床覆衾」に繋がるように思われて。

勧請の年代も伝承の内容も地域によって異なるけど、伝承者の知る様々な姿の「女神」の存在を、移住地に残したのではないかと思われて。

で、もひとつ行基ゆかりの寺院等のあるサイトのリンク切れ修正に熱中してて書き忘れてたこととして、「神奈備」さんの掲示板に書かれていた「嬉野」の、たぶん近くじゃないかと思われる場所に行基ゆかりとされるお寺があって、「氏族移動の軌跡」かと。
(東光山 神宮寺・一志郡嬉野町森本:http://www.ztv.ne.jp/jing/jinguji/engi.htm)
(生蓮寺・嬉野市(旧藤津郡塩田町):http://www42.tok2.com/home/okuranotyaya2009/kawaraban.pdf)
(常在寺・嬉野市(旧藤津郡塩田町):http://shiotatsu.sagafan.jp/)
(多良嶽神社・藤津郡:http://park10.wakwak.com/~cdc/gokuraku/tarasan/index.html)
(岩屋寺・三次市畠敷町:http://www.jalan.net/kankou/spt_34209ag2130014633.html)

あと、「阿射加神社」に行基が絡んでいるようで、「阿邪訶の神は、上古に荒ぶる神であった。」とのことで「瀬織津姫」かと・・・「伊豆速布留神」がそうかも?
(阿射加神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%B0%84%E5%8A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(古事記傳16−2:http://kumoi1.web.fc2.com/CCP103.html)

2010.12.18(Sat.)

神奈備さんの掲示板に「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」が出版されたことが書かれていて、2007.04.25分などで四条畷市の「権現滝」の伝説、奈良の「龍腹寺の由来」、奈良の太子ゆかりとされる「橘寺」の「三光石」、蔵王権現湧出岩、丹敷戸畔、荒川戸畔、氷香戸辺等との関連や、2010.10.08.09分での「丹波道主王」のヨメ「山代之荏名津比売」が「刈幡戸弁」とされていることや「丹波道主王」と「天津彦根命」の関係等が気になり、調べたけどよくわからなくて気になっていて。
(名草戸畔 古代紀国の女王伝説:http://www.studiomog.ne.jp/kodaishi/index.html)

丹波道主王=天津彦根命なら、移動してその地を治めた際、その土地ごとに呼ばれ方が違ったのかもしれない、つまり同一人物だった可能性もあるわけですよね・・・「日本書紀」の崇神天皇のあたりは、特に気になるところで。

2010.12.19(Sun.)

「藤原実方」が気になりつつも、昨日「西行辞典 第154号」が届き、再度「実方」に関する歌があったので、やっぱり気になる・・・が、2008.11.14分でのように、はっきりしたことがよくわからなかったりするわけで。

「実方」が「歌枕」を見に行った地には、「崇峻天皇」の后・大伴糠手の娘の「小手姫伝説」があり、関連がありそうなんだが・・・。
(川俣の歴史と詩情:http://www.musubu.jp/kyoudokawamatayamakage.htm)

みちのくににまかりたりけるに、野中に、常よりもとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中将の御墓と申すはこれが事なりと申しければ、中将とは誰がことぞと又問ひければ、實方の御ことなりと申しける、いと悲しかりけり。さらぬだにものあはれにおぼえけるに、霜がれの薄ほのぼの見え渡りて、後にかたらむも、詞なきやうにおぼえて

朽ちもせぬ其名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る
(岩波文庫山家集129P羇旅歌・新潮800番・西行上人集・山家心中集・新古今集・西行物語)

不朽の名声だけをこの世に残して、実方中将はこの枯野に骨を埋めたというが、その形見には霜枯れの薄があるばかりだ。
(和歌文学大系21から抜粋)

「今号のことば」が第152号では「實方」、第154号では「さらぬだに」だったので、同じ歌を載せておられたようで、「さらぬだに」(そうでなくとも、そうでなくてさえ・・・という意味)は多く使われているようで、次号もそのようである、というのも気になるところで。

さらぬだに、第154号では「秋の夜の月」「時鳥」「ぬえ」が載っていて、西行は何を「さらぬだに」に込めて詠んだのだろうか、と。

さらぬだにうかれて物を思ふ身の心をさそふ秋の夜の月
(岩波文庫山家集77P秋歌・新潮404番)

月夜でなくてさえ心おちつかずもの思いにふける自分であるが、特に秋の夜は、月に心を誘われて、一層おちつかないよ。
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

さらぬだに帰りやられぬしののめにそへてかたらふ時鳥かな
(岩波文庫山家集144P恋歌・新潮586番)

それでなくてもあなたとの後朝の別れがつらい夜明け方に、名残惜しさを添えるように時鳥が語りかけてくる。
(和歌文学大系21から抜粋)

さらぬだに世のはかなきを思ふ身にぬえ鳴き渡る明ぼのの空
(岩波文庫山家集192P雑歌・新潮756番・西行上人集追而加書・夫木抄・西行物語)

それでなくても世の無常が実感されるのに、夜明けの空に鵺の鳴き声が響き渡ってますます悲しくなってくる。
(和歌文学大系21から抜粋)

さらに、「さること」(そのようなこと。そういうこと。もっともなこと。)では、「源平の争乱の時代に伊勢に居住していても、西行は都にいた歌人達だけでなく、様々な人たちとの交流が続いていたことを思わせる詞書の内容です。」と、「平宗盛」の子「清宗」の説明のところにあり、

八嶋内府、鎌倉にむかへられて、京へまた送られ給ひけり。武士の、母のことはさることにて、右衞門督のことを思ふにぞとて、泣き給ひけると聞きて

夜の鶴の都のうちを出でであれなこのおもひにはまどはざらまし
(岩波文庫山家集185P雑歌・新潮欠番・西行上人集)

夜の鶴は都の内を出ないで欲しい。そうしたら亡き子の悲しみには迷わずには居られよう。
(渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

夜の鶴(親)は都(籠)の内を出てあれよ。そうしたらわが子への愛情に迷わないであろう。
(和歌文学大系21から抜粋)

の歌を載せておられ、やはり「古代からのネットワーク」の一端を担ってたのでは、と。

西行も「古今伝授」について知っていたと思われ、鵺=呼子鳥=猿というのを気づかせようとしてた気配を感じるのだが・・・。

というのも、「帰京途中に、宗盛と清宗親子は近江の篠原で斬殺されました。1185年6月21日のことです。」との説明もあるんだが、この歌の前に載っているのが「近江の国の歌枕」が出てくる歌で、「近江」に何かあることを言わんとしているような・・・。
(歌枕 近江:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utamaku/oumi_u.html)

さることありて人の申し遣しける返ごとに、五日

折におひて人に我身やひかれましつくまの沼の菖蒲なりせば
(岩波文庫山家集47P夏歌・新潮204番・夫木抄)

よい機会に巡り合って人に私は引き立てられるのでしょう。もし私が筑摩の沼の菖蒲であったなら。
(和歌文学大系21から抜粋)

ちなみに「筑摩神社」の御祭神は「大歳神」「倉稲魂神」「大市姫神」で、「神大市比売」は「大山祇神の子で、櫛名田比売の次に須佐之男命の妻となり、宇迦之御魂神(稲荷神)と大年神を産んだ。」とあり、唸ってしまうのだが。
(筑摩神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E6%91%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E7%B1%B3%E5%8E%9F%E5%B8%82))
(神大市比売:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A4%A7%E5%B8%82%E6%AF%94%E5%A3%B2)

そういえば、「浜松市北区の三ヶ日町鵺代、胴崎、羽平、尾奈といった地名はそれぞれ鵺の頭部、胴体、羽、尾が落ちてきたという伝説に由来する。」と、2010.02.12分の検索で書いてますね。
(鵺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%BA)

2010.02.05分などで、「芦屋」で「阿保親王」「伝猿丸太夫の墓(芦屋神社)」「鵺塚」が出てきて、「和田岬」には行基ゆかりとされる「三石神社」があって、浜松市北区の「鵺」のことや「橘寺」の「三光石」など、繋がりそうな・・・あ、福岡の「芦屋」にも西行は行ってて・・・唐津近くに「呼子」があるのも何か関連しそうな・・・。

三石神社

三石の遺跡

「むつかしや猿にしておけ呼子鳥」と、芭蕉の弟子「宝井其角」が詠んでいることが繋がりを示すヒントかと思われ、「見ざる・聞かざる・言わざる」ではなく、「秩父神社」の「よく見て・よく聞いて・よく話す」のような三猿がどこかに潜んでいないかと、検索に励みたいな、と。

2010.12.20(Mon.)

昨日書けなかった「西行辞典 第153号」も気になることがあって・・・「今号のことば」に「小夜の中山」があり、「第109号」での歌の「越の中山」から2010.02.07分の検索で、「越の中山で、小夜の中山を思い出して、西行の「命なりけり」を連想する。」として詠んだという芭蕉の歌に辿り着いて。

だが、「今号のことば」の「小夜の中山」の次が「さ夜衣」で、かつて「二条」について調べてた時に、「石清水八幡宮」「夜着を返さない・反対にしない」などがキーワードの1部として頭にひっかかってて、「越の中山で小夜の中山を思い出す」ように、「小夜の中山」は「さ夜衣」を意識するように、とのことかも、と。
(とはずがたり・石清水八幡で院と邂逅:http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-15-iwashimizu.htm)
(とはずがたり・院と語り明かす:http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-16-intokatariakasu.htm)
(「『とはずがたり』における和歌表現−「衣」をめぐる考察−:http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/iwasa-miyoko-kinuwomegurukosatu.htm)

「さ夜衣」といえば伝説があったなぁと検索すると、「悲恋伝説にゆかりを持つ「蛇ノ口花火」は、手筒花火を手にした人が山車の上に立ち、囃子に合わせ山車を曳き下げしながら花火を左右に大きく振る・・・」とあり、

衣浦湾に棲む竜神の娘が小夜衣という名で人間に化身し、ある若武者に想いを寄せる。結ばれぬ恋に小夜衣は命をおとすこととなる。小夜衣姫こそ豊石神社の祭神であり、彼女の霊を慰めるために蛇庫より花火が打ち上げられる。
(大足地区祭礼:http://www.geocities.jp/sdyys385/newpage72.htm)

とのことで、「豊石神社」(御祭神:日本武尊、姫大御神、須佐之男命)の御祭神「姫大御神」が「小夜衣姫」のようで、17日のように海人族による「行基プロジェクト」が伝え残したかった「女神」の存在が考えられそうで。

で、武豊町の町名の由来となったもう1社「武雄神社」(御祭神:中扉・須佐之男命、左扉・大己貴命 少彦名命、右扉・弥五郎殿命)もまた興味深いな、と。
(豊石神社:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/aichi/chitagun/toyoishi/toyoishi.html)
(武雄神社:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/aichi/chitagun/takeo/takeo.html)

境内社「若宮社」に「大鷦鷯尊」が祀られているというのも気になるし、「曾尸茂利命」とは?「右扉・弥五郎殿命」というのは巨人伝説の「弥五郎どん」かと思われ、そもそも「武雄神社」というと佐賀の「武雄神社」(御祭神:武内宿禰・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・武雄心命)を思い出し、ここも行基絡みのようで、先日の「嬉野」の近くということもあって何かありそうな。
(武雄神社(武豊町):http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/aichi/chitagun/takeo/takeo_yuisyo.html)
(武雄神社(武雄町):http://www.city.takeo.lg.jp/kyouiku/bunkazai/pages/bunkazai/bunkazai-403.htm)
(伝説の弥五郎どん:http://www005.upp.so-net.ne.jp/a-kgs/yagoro.htm)
(武雄市史:http://www.epochal.city.takeo.lg.jp/siryo/Web_data/sisi3/html/koseki-dentou.html)

「武雄神社」の「右扉・弥五郎殿命」の御祭神は「弥種継命」かもしれないようで、「弥種継命」の詳細は不明だが、岡崎市の「弥五騰社」や、津島市の「津島神社」の境内摂社「彌五郎殿社(國玉神社)」(御祭神:大穴牟遅命、武内宿禰命)と繋がるような。
(弥五騰社:http://miesin.com/a-yahagiginzya-taisai-2010nen.htm)
(津島神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(ちょっと気になるマンホール蓋:http://www5e.biglobe.ne.jp/~elnino/Folder_DiscoverJPN/Folder_WholeCt/JPN_Manhole.htm)

佐賀の「武雄神社」の「武雄心命」は「孝元天皇」の孫で「武内宿禰」の父のようで、祀られている神社として蒲生郡日野町の「馬見岡綿向神社」が挙げられており、境外末社「笠懸神社」の御祭神「彦健忍雄心命」のようで、「神武天皇4年山川の神祇を奉祀あった時、彦健忍雄心命が天穂日命の神霊を出雲国より供奉して綿向山に鎮め祀る。」とのことで、同じく境外末社「佐久奈度神社」には「瀬織津姫」が祀られていて。
(屋主忍男武雄心命:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%8B%E4%B8%BB%E5%BF%8D%E7%94%B7%E6%AD%A6%E9%9B%84%E5%BF%83%E5%91%BD)
(馬見岡綿向神社:http://www.ex.biwa.ne.jp/~j-watamuki/)
(馬見岡綿向神社・境外末社御由緒:http://www.ex.biwa.ne.jp/~j-watamuki/keidaisya.htm)

物部氏のテリトリーと思われる甲賀市の「水口神社」(御祭神:大水口宿禰命・大己貴命・素盞嗚尊・稲田姫命)では、境内社「武雄神社」は武甕槌神・経津主神を祀っており、武雄市の「武雄神社」のように祭祀が藤原氏に移ったのかも。
(水口神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%8F%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E7%94%B2%E8%B3%80%E5%B8%82))

但し、「武雄市史」によると武雄市の「武雄神社」は、「(武雄神社)本紀の編さんに当たって、信門は、神主の姓が伴であることを知り、伴姓に戻り、父二十二代豊門の歴代神主の頃には、旧姓、伴姓に復すと書いてある。」とのことで、御祭神名も元に戻したのではないかと思われるわけで。

ということで、物部氏・秦氏の足跡が見えそうであるものの、藤原氏の乗っ取りも見えそうで、隠された御神名を出せずに「小夜衣姫」の伝承だけが残っているのでは・・・。

「西行辞典 第153号」の「今号のことば」には「さは」(そのように、そうは、それでは、それならば、そうならなど)もあり、2番目の歌が「いひすてて後の行方を思ひはてばさてさはいかにうら嶋の筥」で、「豊石神社」のある武豊町には「浦島太郎伝説」もあって、西行はやはり何かを連想するように歌を詠み、芭蕉の時代にはその連想が難しくなっていることに気づき、ヒントとなる歌を詠んだのかも。
(浦島太郎伝説:http://www.taketoyo-sci.or.jp/urashima.html)
(知里付神社:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/aichi/chitagun/chirifu/chirifu.html)
(浦島太郎伝説 浦嶋子伝説:http://www.asukanet.gr.jp/tobira/urashima/urashima.html)


上の御祭神で「大鷦鷯尊」を見た時、ふと「菟道稚郎子」が気になって検索していると、「命は弟仁徳天皇に位を継がせるべく自殺となっているが自ら一族を率いて東国に下ったとする説がある。」とあり、「大住郡」(平塚市)の「前鳥神社」(御祭神:菟道稚郎子命・大山咋命・日本武尊)を見つけて。
(延喜式神名帳 東海道 相模國:http://kamnavi.jp/en/sagami.htm)
(前鳥神社:http://www.sakitori.jp/2.html)

「大住郡」で検索したところ、「真土大塚山古墳から、弥生時代末〜古墳時代初頭の土器片と、京都の椿井大塚山古墳のものと同じ鋳型の三角縁神獣鏡が出土している。」とあり、2010.10.24分で「椿井大塚山古墳」の被葬者が「比古由牟須美命(彦湯産隅命)である可能性が高い」とされていることから、「海部あるいは和邇・和珥を名乗る一族」もしくは「物部氏」に繋がるようで、としていて、大住郡のあたりも同様かと。
(大住郡:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BD%8F%E9%83%A1)

「前鳥神社」のサイトに「六社めぐり」について書かれており、その繋がりに物部氏や秦氏などの足跡が見えるようなので、大住郡での「菟道稚郎子」の足跡が気になって検索すると、栃木の「太平山神社」の境内社「星宮神社」の「天満宮・文章学社」に道真とともに祀られていた。
(太平山神社:http://www.ohirasanjinja.rpr.jp/web/guid01.html)

かつて2007.04.12分で「三光」で検索した時に調べていたようだが、その頃私は「菟道稚郎子」のことは気にしてなかったようで。(苦笑)
(太平山神社:http://www.genbu.net/data/simotuke/taihei_title.htm)

「太平山神社」の「御鎮座略記」に、「垂仁天皇の御宇に大物主神・天目一大神が三輪山(現在の太平山)に鎮座されたときに始まると云われております。」とのことで、「前鳥神社」と同様に氏族の移動に伴って祀られたように思われ、「古代からのネットワーク」に関連するのでは・・・。

ん?栃木県下都賀郡野木町にある「野木神社」にも祀られているようで、

応神天皇の皇太子である莵道稚郎子命を主祭神とし、誉田別命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、宗像三女神を配祀する。

仁徳天皇の時代、奈良別王が下野国造として下毛野国に赴任したとき、莵道稚郎子命の遺骸を奉じて当地に祀ったのに始まると伝える。その後、延暦年間(平安時代)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐からの帰途、報賽として現在地に社殿を造営し遷座した。弘安年間(鎌倉時代)に配祭の五神が祀られた。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9C%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

とのことだが、「奈良別王」とは?と検索すると、「下野国国造に任じられた奈良別王が、曽祖父である豊城入彦命をこの地域の氏神として祀ったのに始まると伝える。その時既に豊城入彦命によって大物主命が祀られていたとも伝えられている。」という「宇都宮二荒山神社」がヒットして、2009.04.26分で調べた時にそのことはあまり気にしてなかったんだなぁ、と。
(宇都宮二荒山神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E4%BA%8C%E8%8D%92%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

だが、「野木神社」では「仁徳天皇の時代、奈良別王が下野国造として下毛野国に赴任したとき・・・」とあり、「宇都宮二荒山神社」では「文徳天皇の時代、毛野国が下野国と上野国に分けられた際に、下野国国造に任じられた・・・」とあって、同名の別人?と。

しかも「豊城入彦命」は「崇神天皇の第1皇子。母は荒河戸畔の娘・遠津年魚眼眼妙媛。垂仁天皇の異母兄、豊鍬入姫命の同母兄。」とあり、「大物主命」は大田田根子が「大神神社」に祀ってるのになぜ「宇都宮二荒山神社」に?

同母妹の「豊鍬入姫命」が「天照大神」を祀ったことからも、母方の祖母「荒河戸畔」も、四世の孫という「奈良別王」も「物部氏系」かと思われ、「菟道稚郎子」の母も「先代旧事本紀」では「物部多遅麻連の女・山無媛」とあることから、同族のいる居住先でも祀った、ということになるような。

うーん、津市白山町に「めおと塚伝説」があるそうで、「菟道稚郎子」の同母妹「雌鳥皇女」と異母弟「隼別皇子」とのことも気になりますね、「隼別皇子」の母は「桜井田部連の糸媛」だそうで、「古事記」には桜井田部連の祖が「島垂根」のようで、京丹後市網野町「六神社」に祀られているようだが詳細は不明で。
(白山町の伝説:http://cerp.edu.mie-u.ac.jp/machizukuri/tokuron07/kawarada/densetu.html)
(六神社:http://www.kamimoude.org/jinjya/kyotango-city/amino-cho/am-roku/index.html)

「桜井田部連胆渟」と同族なら物部氏のようだが・・・。
(物部人物列伝:http://mononobe.nobody.jp/jinbutu/mononobejinbutu3sagyou.html)

「宇都宮二荒山神社」の御祭神の異説に、「柿本人麻呂霊」や「小野猿丸」があるんですね・・・小野猿丸=猿丸大夫=柿本人麻呂で、高市黒人であり、三輪高市麻呂・・・あ、繋がるような・・・。
(二荒山神社:http://www.genbu.net/data/simotuke/hutarayama2_title.htm)
(柿本人麻呂の正体について:http://www.geocities.jp/yasuko8787/0q-5.htm)

「宇都宮二荒山神社」の境内社「市神社」には、昨日の「筑摩神社」に祀られている「大市姫命」が・・・うーん・・・。

ん?小山市粟宮の「阿房神社」では「菟道稚郎子」が「天太玉命」と祀られており、千葉の「亀崎熊野神社を形成する上での関係する周辺の歴史・郷土」に、「物部山無媛連公(山梨姫・山梨県主?)、物部多遅麻と安媛の娘・物部武諸隅連の孫。応神天皇の妃。」とありますね。
(阿房神社:http://www.genbu.net/data/simotuke/awa_title.htm) (熊野神社 (四街道市亀崎))

で、「物部山無媛連公」で検索すると、周智郡の「山名神社」に「物部山無媛連公 or 饒速日命」とあって、このあたりは行基ゆかりとされるお寺がけっこうあるので、物部氏が「行基プロジェクト」の関連氏族だったという証しになるのではないかと思われ、「明応五年(1496)に摂津の天王寺から伝えられたという舞楽で知られます。」とのことで、その経緯などが気になるのだが。
(物部氏ゆかりの神社:http://kamnavi.jp/mn/monomap-higasi.htm)
(山名神社:http://mononobe.nobody.jp/tabi/yamanashi/yamana.html)
(山名神社天王祭舞楽:http://www.ne.jp/asahi/maroudo/somin/contentsmatsurisaijiki/tennousaibugaku.html)

浜松市天竜区(旧磐田郡)の「西浦観音堂」での「西浦田楽」は、行基が「仏像と仮面を作って奉納したことが始まり」とされていて、田楽は「行基プロジェクト」の秦氏によるものかと思われるので、「山名神社」でも同じメンバーによる伝承があったものが途絶え、明応五年に「四天王寺」から伝来されたのではと思われるわけで。

つまり秦氏が絡んでいることが想定されるので、「山名神社」の摂社「豊受大神宮」の御祭神が「月読命」とあるのはもっと気になりますね、「菊理姫命」が併祭されていることも・・・。
(山名神社:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/sizuoka/shuuchigun/yamana/yuisho.html)


「豊石神社」の「小夜衣姫」から遠ざかってしまってますが、佐賀には「呼子の浦まで追いかけた」という松浦の「佐用姫伝説」があり、こちらもまた「結ばれぬ恋」で。

滋賀の「竹生島弁財天の縁起」が「小夜比売草紙」だそうで、行基ゆかりの「宝厳寺」のある島だし、祀られている「弁才天」(市杵島姫神)は「瀬織津姫」かと・・・「肥前国風土記」では「佐用姫」でなく「弟日姫子」だそうだが、「小夜比売草紙」のように「蛇」に関連するお話のようだし。
(松浦の小夜姫:http://homepage2.nifty.com/amanokuni/sayohime.htm)

上記サイトに「佐用姫のことを、篠原の日下部君の祖であると伝えます。」とあり、その下に「日下部連の祖といわれる人に、11代垂仁天皇の皇后の沙本毘売命(狭穂姫)の兄で、沙本毘古王(沙穂彦命)という方がいます。」と書かれていて、「沙本毘売命」というと2010.10.18分でもまだよくわかってなかったりしたが、「兄弟」での争いという点で昨日の津市白山町の「めおと塚伝説」に近いような。

あ、兄妹の話としては「木梨軽皇子」と「衣通姫」の話があって、「衣通姫」が伊予に流されるようけど、2人の「母方の叔母である八田王女」が「衣通姫」と呼ばれていたことまで書かれているあたりに、何かひっかかるものがあって・・・「八田王女」は仁徳天皇のヨメで、「八田王女」「菟道稚郎子」「雌鳥皇女」は同じ母の兄弟とされていて。
(衣通姫伝説:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%A3%E9%80%9A%E5%A7%AB%E4%BC%9D%E8%AA%AC)

で、「小夜比売草紙」の下に書かれている「朝日長者伝説」が「小野猿丸大夫の二荒山信仰に基づく伝説にも関わりがあり・・・」と書かれていて、「日光山縁起」も同様に「色んな伝説のごった煮」のような感じで、伝えたいことをまとめて1つの話に仕立てたような。
(日光山縁起:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E5%B1%B1%E7%B8%81%E8%B5%B7)

「松浦の小夜姫」のページのまとめに、「松浦の小夜姫は、海神の神妻=巫女であり、九州から東北まで海人が伝播した伝承と考えて間違いないと思います。」とされているのは同感。

能「松浦佐用姫」は「世阿弥」作で、「永らく廃曲になっていたのを昭和38年先代左近が「世阿弥生誕六百年祭」に改訂復曲」されたことや、「万葉集」巻5からも、伝えたいという強い思いが感じられるようで。
(能「松浦佐用姫」:http://www.noh-kyogen.com/story/na/matsurasayohime.html)
(大伴旅人:松浦川の歌と松浦佐用姫伝説:http://manyo.hix05.com/tabito/tabito.matsura.html)

「佐用姫」は「篠原の日下部君」の祖・・・「篠原」は「近江」にもありましたね、西行が「八嶋内府」を詠んだ「夜の鶴の都のうちを出でであれなこのおもひにはまどはざらまし」・・・旅立ってしまった「狭手彦」と石になってしまった「佐用姫」や、「つまさか川の水」を飲むと帰れなくなるという「日光山縁起」とリンクするような。

2010.12.21(Tue.)

検索していた時に「許勢臣猿」という名が「欽明天皇三一年(五七〇)七月是月」にあり、接待した場所「控引船於狭狭波山」(狭狭波の合坂山)は現在の大津市稲葉台あたりのようで、許勢臣猿と吉士赤鳩は「難波津」から出発しているので、高麗の使いは日本海から来て琵琶湖に入ったのだろうな、と。
(http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kamide38.htm)

その下に、「難波(なにわ)が朝鮮系の言葉なら、弥生語です。大和朝廷を構成した人々は弥生人の子孫だとすると、記紀に「難波」は盛んに出てくるのに「大阪」は民衆の中に隠れていた地名だった理由がわかります。「先住民語いじめ」です。」とあり、ほ〜、と。

「記紀」において、縄文語「大阪」を、弥生語「難波」に置き換えた、ということは、不比等らは弥生人で、縄文人の足跡を消した、ということかと考えれば、縄文からのネットワークが伝承を大切にするのは当然のことで。

で、上記サイトの別のページ「イヅモのおこり」に、「伊豆毛」は「厳萋」で「神聖な藻」で、「八雲立つ・・・」の歌は、

「沢山の藻を取って来てそれを刺し並べて、その神聖な藻を幾重にも刺し立てめぐらして、妻の隠れ居る宮殿の厳重な垣根にする、その神聖な藻の八重垣を造ることであるよ」
との歌とし、出雲の主神が蛇龍の神、水神であることから神聖な藻をもって垣を造ることは不思議でないと結論を出されている。
(イヅモのおこり:http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/izumomo.html)

とあり、さらに「藻に対する古代出雲人の信仰」として、「厳藻という呪教的な信仰形態が古代出雲に存在」し、「出雲」の名となったと推測されている、と。

「藻」についても気になってて、2010.03.12分でML「西行辞典 第115号」に書かれていた「神馬藻(ホンダワラ)」の解説と、「磯菜摘まん 今生ひ初むる 若布海苔 海松布神馬草 鹿尾菜石花菜」を引用させていただいた際にも、「海松布」から「敏馬神社」のことを思い出しているように、西行や「敏馬」を詠んだ歌人が伝えたい「何か」があるように感じていて、それが「厳藻」なのかも、と。

業平や源融などが「藻塩を焼く」ことも気になってたんだけど、「藻塩は製造法が複雑なため神功皇后による三韓出兵の後、大陸から伝わった簡単で効率のよい揚浜式塩田法が普及する事により生産されなくなります。」とのことで、西行たちと同じように古代の信仰を偲んでのことでありつつ、後世へのメッセージの1つだったのかも、と。
(藻塩について:http://www.phgenki.com/cgi-bin/genki/siteup.cgi?category=3&page=1)

2010.02.06分で引用させていただいた歌の、「珠藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島が崎に 舟近づきぬ」(柿本人麻呂 万葉集・巻3-250)や、「よそにだに 三犬女(みぬめ)の浦に すむあまは 袖にたまらぬ 玉やひろはん」(藤原家隆 壬二集)など、「厳藻という呪教的な信仰形態」が「敏馬」にあったことを感じさせるようで、それが瀬織津姫に関わることのように思えて・・・。

「塩」といえば「伯方」(愛媛)や「赤穂」を思い出し、徳島は「わかめ」が有名でかつて徳島から出雲に移動があったことが書かれていたサイトがあったので、四国でも「藻」に関する神事があったのかなと検索してみたが、「和布刈神事」など現在も続いている神事しか出てこなかった。
(今も残る海藻を祭る神事:http://www.rakuten.ne.jp/gold/kaisotonya/unchiku/sinji.html)
(和布刈神社:http://mekarijinjya.web.officelive.com/mekarisinji.aspx)
(能・和布刈:http://www.harusan1925.net/0713.html)
(和布刈:http://www.kanze.com/yoshimasa/nonotayori/mekari.htm)
(日御崎神社:http://www.shinbutsu.jp/51.html)
(二見興玉神社:http://www.amigo2.ne.jp/~oki-tama/tokusyusinji.html)
(塩釜神社:http://www.shiogamajinja.jp/annualevent/index.shtml)
(住吉神社:http://www.tip.ne.jp/sumiyosi/saiten.html)
(海士潜女神社:http://www.toba.gr.jp/200/post_505.html)
(許豆(紫菜島)神社:http://web.mac.com/mikatoto/Site/Fes_Blog/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC/2008/3/8_%E8%A8%B1%E8%B1%86%EF%BC%88%E7%B4%AB%E8%8F%9C%E5%B3%B6%EF%BC%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%AE%E4%BE%8B%E7%A5%AD.html)

鳴門市は「かつては塩業が盛んであり、それを生かした資料館の構想も進んでいる。」とのことで、「鳴門わかめ」は養殖ですか・・・。
(海人の藻塩:http://homepage2.nifty.com/amanokuni/shio.htm)
(日本の塩づくりの歴史:http://www5d.biglobe.ne.jp/~obashi/rekisi/rekisi1.html)
(製塩の歴史:http://www.geocities.jp/shimizuke1955/304salt.html)
(鳴門市:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E9%96%80%E5%B8%82)
(鳴門塩業のあゆみ:http://www.naruen.co.jp/ayumi.htm)
(鳴門わかめ虎の巻:http://www.pref.tokushima.jp/docs/2008032500046/files/_5226da442pg88lag_.pdf)
(重蔵神社:http://www.genbu.net/data/noto/jyuzo_title.htm)

追記:「ホンダワラ類はお祓いに、ワカメやコンブは新年の祝賀などに用いられ・・・」とあり、それからふと「ホンダワラ」にある気泡を模したのが「子持勾玉」のような感じがして、長寿や子孫繁栄などの呪具だったのではないかと・・・かつて「とはずがたり」の「二条」について書いていた際、彼女は世継ぎを生むための女性だったので「勾玉」を常に身に着けていたのでは、という推測をしていて、「巫女」だったのかも、と。
(日本人の海藻利用:http://www.tengusa.jp/reports/kouen/200906/2_Kaisou.pdf)
(丹後の海の生き物:http://www.pref.kyoto.jp/kaiyo2/honndawara.html)
(子持勾玉:http://www.city.nagano.nagano.jp/upload/1/bunka_database_082.pdf)

2010.12.22(Wed.)

朝刊に「有馬記念」のことが書かれていて、そのレース名の由来となった「有馬頼寧」は「世が世なら殿様」とあった。
(有馬頼寧:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E9%A0%BC%E5%AF%A7)

「旧筑後国久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男」だそうで、久留米藩の統治は「元和6年(1620年)、丹波国福知山藩8万石の大名であった有馬豊氏」によって始まり、「有馬豊氏」は「播磨国赤松氏の庶流」で「茶道も嗜む文化人で、利休七哲の一人に数えられることもある。」とのことで、ほぉ〜、と。
(久留米藩:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%95%99%E7%B1%B3%E8%97%A9)
(有馬豊氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E8%B1%8A%E6%B0%8F)

「海人族」の「秦氏」で、「古今伝授」にも接する機会があったかもしれない、というか、「有馬」という名からして、「瀬織津姫」との関連を匂わせているようで。

流れとして、旧高松藩主「松平頼聰」の八男の「松平頼寿」の退任後、「安田伊左衛門」は「日本競馬会」の第2代理事長を勤め、同郷で「俳人」の「大野伴睦」の要請を受け、新設された「日本中央競馬会」の初代理事長に就任し、「1955年に農林省に招請されて安田伊左衛門の後任として日本中央競馬会第2代理事長に就任」したのが「有馬頼寧」、ということのようで、その繋がりに「古代からのネットワーク」を感じて。
(松平頼寿:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E5%AF%BF)
(高松藩:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E8%97%A9)
(大野伴睦:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E4%BC%B4%E7%9D%A6)

高松藩の初代藩主の「生駒氏」は「北家」の流れを汲むようで、「染色用灰と油を扱い馬借として商い財を蓄え」たとあるあたりは「海人族」との関連が伺われ、「生駒氏」はたぶん「生馬氏」と思われるあたりに「瀬織津姫」との関連を感じ、高松藩への封入は「古代からのネットワーク」による繋がりが見えるようで。
(生駒氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E6%B0%8F)

「美濃」「油」というと「離宮八幡宮」で知った「斎藤道三」を思い出し、「斎藤氏」は「北家」の魚名流である「藤原利仁の子叙用が斎宮頭であったことに由来する苗字」とのことで、「藤原利仁」は「母は越前国出身の秦豊国女。室に丹波目伴統忠女、四品輔世王女などがあったほか・・・」ということで「海人族」と繋がり、「生駒氏」とも繋がるのではないか、と。
(斎藤道三:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%81%93%E4%B8%89)
(斎藤氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E6%B0%8F)
(藤原利仁:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%88%A9%E4%BB%81)

と言う風に、最近、新聞の読み方が変わってきたような気がする。(笑)

そういえば高校のとき、「世が世ならおひいさま(お姫様)」という、和泉市にお住まいの秦氏の末裔の方がおられたっけ・・・。

2010.12.24(Fri.)

「海藻」の追記を書いてて「呪具」としての「子持勾玉」を連想し、そこから2010.01.13分での「臼」が「清浄なもの」とされていて「鏡餅」の祭壇であるというのを思い出し、「鏡餅」について「蛇のとぐろ」がどうのって書かれていたサイトがあったなぁと、検索して再度拝見してまして。
(遠野不思議 第三百七話「狐」:http://dostoev.exblog.jp/4680123/)
(鏡餅:http://www.janonet123.com/index/hebitte_nannzoya/hebitte_7shou/hebiken_7yori.html#7_2)

それから「鏡餅」で検索していると「鏡餅神事」というのがあるようで、「長松神社が東生桑にあったころ、伊勢神宮とのつながりが深く、その”鏡餅”は、内宮の御神体の台座を形どったものだと伝えられている。」とあった。
(鏡餅神事 四日市市:http://www.mate.pref.mie.jp/gyouji/fuyu/fuyu41.htm)

その神事と元の「長松神社」が気になって検索すると、元社では「オオヒルメ神」が祀られていたようで、他のサイトでは飾り付けされた一対の「鏡餅」の写真があり、「滋賀県(湖北地方)に分布する「オコナイ」と呼ばれる年頭の民族行事との共通点が多く・・・」とのことで、さらに「オコナイ」を検索した。
(生桑長松神社の大鏡餅神事:http://www17.ocn.ne.jp/~mtmoto/p13/subpage13.htm)
(長松神社跡:http://www17.ocn.ne.jp/~mtmoto/p36/subpage36.html)

長浜市鳥羽上の「オコナイ」で作られる「餅花(マユダマ)」は「子持勾玉」を連想し、「昔この地域は養蚕が盛んであったことから、現地では繭玉と云う意味ということである。」とされていることや、上記の「長松神社」の御鎮座地である「生桑」という地名からも、「秦氏」の移動による伝播を考えてしまうのだが。
(日本!(オコナイ):http://www.photoland-aris.com/myanmar/okonai/)

「延勝寺のオコナイ」に用いられる「エビ」と称する「注連縄飾り」は「蛇」のようで、かつてお参りした「難波八阪神社」の注連縄や、「諏訪大社」にある注連縄に似ているような。
(延勝寺のオコナイ:http://www.photoland-aris.com/myanmar/okonai/4/)
(諏訪大社:http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/suwataisya.html)
(竜のしめ縄(藁大蛇):http://kaidou.mitsu-nari.com/kai-gazo/hama/iwaya/iwaya.html)
(縄文土器と蛇信仰:http://www.aichi-kyosai.or.jp/service/culture/internet/art/antique/antique_4/post_732.html)


[難波八阪神社]
(御祭神:素盞嗚尊・奇稲田姫命・八柱御子命)

関連する言葉を検索していると「出雲」「諏訪」が多く出てきて、氏族の移動に伴って神事も出雲から近江に伝わったような・・・「おこぼまつり (御講坊神事)」は諏訪の「おこうさま」に繋がるような・・・。
(佐太神社:http://kamnavi.jp/en/izumo/sata.htm)
(佐太神社:http://www.highlight.jp/shinnou/02.html)
(おこぼまつり (御講坊神事):http://www.photoland-aris.com/myanmar/okonai/9/)

形は異なるが、「泉穴師神社」の「飯の山神事」も「オコナイ」の一種だったのかも。
(3.奈良時代起源とされる和泉五社祭祀と最古のだんじり:http://osaka-rekkyo.main.jp/archives/79)

で、「浄正寺(浄照寺)」で作られた輪は、「二見興玉神社」の「輪注連縄」に似ているような、「島津氏」の家紋「丸に十の字」のような・・・「ベットウ」で「酒で赤土を練った(牛黄の代用)モノを餅に塗っていく。」のは、司馬氏の「牛黄加持」や「花祭り」の「すりこぎ(みそぬり)」に似ているような・・・。
(浄正寺(浄照寺) 薬師オコナイ:http://www.photoland-aris.com/myanmar/okonai/10/)
(輪注連縄:http://4travel.jp/traveler/breeze63/pict/15514046/)
(花祭の次第:http://hanamatsurinoyakata.com/hanamatsuri/program.html)

「陰陽の世界」という雑誌には、余呉町八戸での「オコナイ」が載っていて、桐畑姓が多く「桐畑太夫」の子孫とされているとあり、「秦氏」が浮かんできて、「桐畠太夫縁起」にある「菊石姫伝説」は、「泉鏡花」の「夜叉ヶ池」に似ているようで「瀬織津姫」に繋がるように思われ、神事が少しずつ形を変えながらも伝播されていく途中にある「油日神社」の、「大宮ごもり」の説明が15日に書いていた「真床襲衾」に繋がりそうで、神事に用いられる蚊帳状のものが「真床襲衾」なのでは、と。
(油日神社:http://homepage1.nifty.com/~sakuranamiki/room1mmmm.htm)
(油日神社:http://www.genbu.net/data/oumi/aburahi_title.htm)
(油日神社:http://kamnavi.jp/en/oumi/aburahi.htm)
(余呉の天女:http://www.ne.jp/asahi/folk/collage/YogonoTennyo.htm)
(三河大神楽と芸能学の根一巻:http://blogs.yahoo.co.jp/kajyou88/41077678.html)
(古代人の思考の基礎 - 折口信夫:http://novel.atpedia.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%80%9D%E8%80%83%E3%81%AE%E5%9F%BA%E7%A4%8E-%E6%8A%98%E5%8F%A3%20%E4%BF%A1%E5%A4%AB/page/1263/4.html)

「蚊帳」で検索していると高松市の「田村神社」がヒットし、「御蚊帳垂神事」「御蚊帳撒神事」は、「油日神社」の「大宮ごもり」に繋がるような・・・「田村神社」の御由緒に「当社の奥殿の床下には深淵があり、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて古くから神秘を伝えている。」とあり、「日吉大社」「真福寺」「和歌山城・水月軒」などを思い出し、御祭神の「倭迹迹日百襲姫命」は「瀬織津姫」かと。
(田村神社:http://tamurajinja.com/event/)
(田村神社:http://tamurajinja.com/about/)

「茅(ちがや)、幣串(ぬさ)にも用いられる麻は神事に重要な材料で、蚊帳も蚊をふせぐのみならず、目に見えないものから身をまもる結界の意味がある。」とあり、「国津比古命神社や櫛玉比賣命神社の御動座祭や特殊神事『宵の明星』も姫神が再生した男神の荒御魂の降臨を願う神事で前述の3社同様、貴重な物部神道に纏わる神事といえるでしょう。」というサイトもあって、河野家の崇拝の厚い神社のようで、物部氏が見えてきましたね。
(冠婚葬祭と歳時記2:http://mitsuo-cl.com/mitsuo/colum/colum21b.html)
(魔よけの模様・麻の葉模様:http://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn000084.html)
(映画「男女逆転大奥」ゆかりの油日神社:http://joushou.sakura.ne.jp/blog/dialy/cat3/)
(櫛玉比賣命神社・御動座祭:http://nobyama.com/kushidamanohimenomikoto.html)
(國津比古命神社・櫛玉比賣命神社:http://masakaki.web.fc2.com/newdir/sikoku/kunituhiko/kunituhiko.htm)
(風早宮大氏神延喜式内社國津比古命神社・櫛玉比賣命神社略縁起:http://joushou.sakura.ne.jp/kazahaya/)
(松山八社八幡:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E5%85%AB%E7%A4%BE%E5%85%AB%E5%B9%A1)
(宗像神社(新居浜市):http://ehime-jinjacyo.jp/?p=7727)
(丹後風土記残欠:http://www.dai3gen.net/tango.htm)

そういえば、「カヤノヒメ(鹿屋野比売神)」は「野鎚神」でもあり、「瀬織津姫」でしたよね・・・ただ、麻で蚊帳を作るようになったのは近江商人による「八幡蚊帳」からだそうで・・・。
(樽前山神社:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/10335029.html)
(蚊帳と近江八幡市:http://www.anmin.com/kaya/media/oumi8man/index.htm)
(蚊帳の歴史:http://www.kaya-museum.com/3-rekishi.htm)

熱中してしまったけど、悪寒がひどくなっているのに気付いたので、このへんでやめときます。いつものことながら中途半端ですみません・・・。

2010.12.25(Sat.)

いつ頃から使われだしたのかは不明だが、何かと出てくる「灰汁」「灰」について、毎回検索するのもと思い、覚え書きをしておくことにします。
灰汁:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%B0%E6%B1%81
灰:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%B0
あくまき(灰汁巻き):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%8F%E3%81%BE%E3%81%8D
灰持酒(灰汁持ち酒):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%B0%E6%8C%81%E9%85%92
釉薬・灰:http://www.geocities.jp/sukumogama/yuuyakuhai.html
椿灰・木灰・藁灰:http://homepage1.nifty.com/kousouannk-1/baisenzai.html


おんまさんの更新をしながら、1日かけてなかひらまい氏の「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」のフリーダウンロード分を拝見し、とても詳しくお調べになっていて、しかも短期間で書き上げておられることに、10年以上同じようなことを調べて結論が出ないまま終わってるのをはずかしく思った。
(http://www.studiomog.ne.jp/kodaishi/index.html)

「多様な文化をもつ氏族が融合」していった時代があったことは、「行基プロジェクト」の発足理由を垣間見たように思えて、「楠信仰」「蛇信仰」のあることや、行基が「熊野三山に皇子誕生を祈った」とされる「藤白神社」のことが書かれていたこと、「平群坐紀氏神社」から1キロと離れてない場所に行基創建とされる「金勝寺」があることなどは、繋がりを示しているように思えて。

気になることとしては、138ページに書かれていた「名草の人たち」「出雲族」「秦族」の融合は、紀伊国で初めてあったことではなく、名草の人たちの祖がおられたという「玖珠」近辺から、あるいは南九州におられた頃からの繋がりがあったからなのではないかと思えたりしたことで、「小野田口伝」にあったように、融合するまでの時間が過去にあったからこそ、なしえたことなのでは、と。

それにしても・・・どなたか「行基プロジェクト」について書いてくださらないかなぁ。(超他力本願・爆)

文章の構築力のなさは、ここをご覧くださってる方ならいわずもがなのことだし、「行基」について、民衆のための「公共事業」を行った慈善の心の篤き人という解釈をされている方が多いようだし、「行基」の行動範囲について、「ここまで来れるはずがない」と伝承を否定される方や、ただ伝承通りに捉えておられる方など、一般常識の範疇で捉えておられる方がほとんどのようで、説得力のある文献もないのに「行基が3人以上いた」とか「行基プロジェクトがあった」という考えは「妄想」と断言されるのがオチだから、私のような捉え方をされている方もおられるのかどうかも不明で、「行基プロジェクト」について書くのは難しいと思う。

だから、このまま推測のもとに検索し、推測を重ねることしかできないのかも・・・とは思うが・・・。

2010.12.28(Tue.)

風琳堂さんのブログが更新されていて、おぉ!と・・・「白山が秦[はた]の泰澄によって「開山」されたのは養老元年(七一七)のことで・・・」とあり、その8年後に行基が「白山」で泰澄と「遭遇」したとされていることがきっかけで、行基の行動のウラには何かあると考え始め、次回から書かれるであろう「求菩提山」についてを2002.02.05分で少し調べたあたりから、大和岩雄氏の「秦氏の研究」を探して中古を購入したわけでして。
(求菩提山・犬ヶ岳──生きている鬼神伝承【T】:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2010/12/28)
(豊前の古歴史・求菩提山:http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Den-buzen.html#くぼてさん)

読解力がない私には「?」のままで置いてあることも、風琳堂さんのブログで解明していただけるのではと、更新されるのを心待ちにしており、私も私で行基と秦氏の繋がりを示すものを探さなければと・・・というか、ずっと探してはいるものの、はっきりした痕跡が見つけられずにいて・・・。

あ、「求菩提山白山権現」は調べてなかったのか、「太白山信仰」が検索でわからなかったのか・・・ブログにある宗像大神に奉仕する「七戸大宮司」のひとり「蜂田種生」が行基の母方との繋がりがあれば、秦氏と行基の繋がりの1つになるかも・・・。
(求菩提山:http://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/fukuoka.htm)

ただ、御祭神を乗っ取った不比等は秦氏を本気で怒らせたから、古墳造りから寺院へといち早く対応した秦氏は、政権を聖武天皇に戻すために抱き込んで「国分寺・国分尼寺」建立を国家事業とし、隠された神を新たな形で祀る場所としての「寺院」を全国に造るため、「行基プロジェクト」を構成したのではないかと。

ま、それがあって「古代からのネットワーク」の絆は、一層強いものになったと思われるが。

で、梅原氏は、行基が泰澄と会って仏像の彫り方を学んだ、というようなことを書かれていたけど、会う前から行基は仏像を刻んでいたようだから、不比等による「全国の神社統制」に対抗するため、全国的に統一性をもって「仏教」を広めようと、隠された神の神威をどういう形で表すべきかを相談するために、行基は泰澄と会ったのではないかと思うんだが。

もしそうだとすると、泰澄は当時「山岳修験者」のリーダーだったのかもしれないですね、いずれ「行基」の名で工人を率いた集団が寺院建立に訪れるから、その準備などの受け入れ態勢をつくるようにと、「山岳修験者」によって同族への伝言を「白山」から発したのかも・・・。

で、「鬼神社」のことは詳しくわからないんだけど、堺市の「桜井神社」の「鬼面」をふと思い出した。

無形文化財:こおどり鬼面

「祖先武内宿禰命を奉斎した」という「桜井朝臣」は蘇我氏のようだけど、蘇我氏も「鬼」と言われていた、あるいは自ら言っていた、ということ?安倍氏も?青森ではどの氏族?スサノオ?
(新撰姓氏録:http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/data/shoji01.html)
(天満社鬼神社:http://www.niigata-u.com/files/oita2008/080328h1.html)
(鬼神社(弘前市):http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/aomori/hirosaki/kijinjya/ki.html)
(スサノヲも鬼だった:http://iwamikagura.web.fc2.com/onimura1.html)


「西行辞典 第155号」が届いて・・・意味深だわ。

伊勢の二見の浦に、さるやうなる女(め)の童どものあつまりて、
わざとのこととおぼしく、はまぐりをとりあつめけるを、
いふかひなきあま人こそあらめ、うたてきことなりと申しければ、
貝合に京よりひとの申させ給ひたれば、えりつつとるなりと申しけるに

今ぞ知るふたみの浦のはまぐりを貝あはせとておほふなりける
(岩波文庫山家集126P羇旅歌・新潮1386番・夫木抄)

そうだったのか。都ではやりの貝合は、二見浦の蛤の蓋・身を合わせていたのだったか。
(和歌文学大系21から抜粋)

小倉をすてて高野の麓に天野と申す山に住まれけり。
おなじ院の帥の局、都の外の栖とひ申さではいかがとて、
分けおはしたりける、ありがたくなむ。
帰るさに粉河へまゐられけるに、御山よりいであひたりけるを、
しるべせよとありければ、ぐし申して粉河へまゐりたりける、
かかるついでは今はあるまじきことなり、吹上みんといふこと、
具せられたりける人々申し出でて、吹上へおはしけり。
道より大雨風吹きて、興なくなりにけり。
さりとてはとて、吹上に行きつきたりけれども、見所なきやうにて、
社にこしかきすゑて、思ふにも似ざりけり。
能因が苗代水にせきくだせとよみていひ伝へられたるものをと思ひて、
社にかきつけける

あまくだる名を吹上の神ならば雲晴れのきて光あらはせ
(岩波文庫山家集136P羇旅歌・新潮748番)

天くだってここに鎮まります神ではあっても、名を吹上の神と申しあげるならば、雨雲を吹きはらい、日の光をあらわし給え。
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)


(水門・吹上神社:http://kamnavi.jp/ki/city/minato.htm)
(水門吹上神社:http://www.wakayama-jinjacho.jp/jinja-search/pdf/01027.pdf)

2010.12.29(Wed.)

昨日「西行辞典 第155号」の2首を引用させていただいただけで終わってしまいましたが、思うに、上の歌は「二見浦」を、下の歌は「吹上」を意識してのものではないか、と。

上の歌でまず思い出したのが、「崇徳院」の「瀬をはやみ 岩にせかるる瀧川の われても末に 逢はんとぞ思ふ」で、引き裂かれて身も蓋もなくなってしまった一対の神を思い、「貝合わせ」で一対の神を合わせたいという思いや、その神が本来坐ます場所を「二見浦」であるということを、暗示しているように思われるわけで。

西行の歌でたまに距離感が合わないような場合があり、今回もMLに「天野から吹上までは単純計算でも30キロ以上あるのではないかと・・・」とあるように、「空想の旅」でなければ即座に行きつけない距離で、「とはずがたり」での東国の旅の中にもそういう場面があり、どちらも繋がりのある地に思われることから、「空想の旅」をしていたように思えて。

そしてそのいずれもが、「瀬織津姫」に繋がるように思えて・・・。

下の歌は「能因法師が伊予の国でこの歌を詠んだところ、雨が降ったという故事を踏まえての歌です。」とあり、「天の川苗代水に堰き下せ天降ります神ならば神」(能因法師 金葉集雑下)が書かれていて、「伊予」もまた「天野」「吹上」との繋がりがある、と言いたかったのでは・・・芭蕉が西行の歌から違う場所の「中山」を詠んだように。

「能因法師が伊予の国でこの歌を詠んだ」というのが、2010.12.01分での風琳堂さんのブログに書かれていた「大山祇神社」で、「楠」に「祈雨の参拝」をしたというあたりは、「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」にあった「楠信仰」と繋がりそうで、大分の「玖珠」にも繋がるのかも。
(大山祇神社 能因法師 雨乞の楠:http://tabiseto.com/noinhoshiamagoinokusunoki1.html)

で、能因法師が「古曽部に隠棲」したのは、「伊勢姫を尊敬し、生涯心の恋人にした」からのようで、「伊勢姫」から上の歌に繋がるような・・・「伊勢」は「藤原北家真夏流、伊勢守藤原継蔭の娘」で、「広隆寺」「石清水八幡宮」にも行っていたようで、立場が「後深草院二条」と似てるような。
(伊勢姫と能因法師:http://www.city.takatsuki.osaka.jp/new/syoko/html/travel0007.html)
(伊勢:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ise.html)
(知らない物語・伊勢:http://tomha090.exblog.jp/7042353/)

そういえば、2008.10.27分では芭蕉の歌から「園女」という歌人がわかり、それが「伊勢松坂の神官秦師貞の娘」ということから、「櫛田神社」「神麻續機殿神社」「神服織機殿神社」などの検索になって、今思えば、芭蕉は能因も崇敬してましたね。
(園女:http://www.weblio.jp/content/%E5%9C%92%E5%A5%B3)


更新されてた風琳堂さんのブログに「鬼神社」について書かれていて、御祭神は「「大山祇神」ほか十柱の神々」とのことで、「能因法師」が歌を詠んだ伊予の国の神社と同じなんですね。
(求菩提山・犬ヶ岳──生きている鬼神伝承【U】:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2010/12/29)

そのあとに「求菩提山中興の祖とされるョ厳[らいげん]上人」について「比叡山において、皇円(阿闍梨皇円)に学んだ篤学の人」とあり、「皇円」は風琳堂さんのブログでの「桜ヶ池池宮神社」から2009.12.08分などで調べていて、「北家」道兼流(道兼の玄孫)で、秦氏である「法然」の師でもあるようで。
(皇円:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%86%86)
(桜ヶ池池宮神社:http://www4.ocn.ne.jp/~ikemiya/)

「求菩提山で鬼神が大山祇神とみなされているのは、一応「方便」の神名表示として、ここでは無視することにします。」とのことで、のちに詳細を明らかにされることと思われますが、流れから見て「瀬織津姫」が隠されている、ということなのでは・・・という締めにするあたり、私のつめの甘さが出てますね。(苦笑)

そうそう、「犬ヶ岳」でふと2009.11.01分などで調べた「伊奴姫神」を思い出し、関連があるのかどうかが気になるところで。
(伊奴神社:http://www.inu-jinjya.or.jp/yuisyo.html)

2010.12.30(Thu.)

ネットサーフィンしていて、「いずものこころ」さんのブログに「古代出雲『女首長(女酋)のクニ出雲』の謎」というのがあったので、拝見してまして・・・「空想」と書いておられるけど、なきにしもあらずではないかと思われて。
(http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/57653397.html)

ブログのタイトルで検索すると(その25)まであり、門脇禎二氏の「銅鐸と女王国の時代」など、いくつか著書を挙げておられるけど、私は他の著書しか拝見したことがなくて、「小共同体を単独で運営する指導者ではなく、対策の必要性や内容に応じて、各小共同体に対して説得や利害の調整をして連携を進めるという政治的な能力を持った指導者」によって「地域共同体へと移行」させた、というあたりに「行基プロジェクト」のルーツがあるように思え、興味深く思った次第でして。

書かれているように、「宗教的形態」の変化を経験してきたであろうし、それ以降も古墳の形態の変化などの文化的交流が見られることなどから、行基の時代にはそれらを見極めた下準備がなされた上でのプロジェクトの発動となったのでは、と考えているわけで。

そうした伝承と巡り合える日がくることを願いつつ、さらに行基を追いかけていきたいなと思います。

2010.12.31(Fri.)

更新されてた風琳堂さんのブログを拝見し、、「求菩提山白山権現」の勧請についてはお手上げの経験があるので、2002.02.05分で引用させていただいた箇所にもあった「釈行善」について少し調べてみた・・・が、やはりあまりよくわからなくて。
(求菩提山:http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_kubote.htm)
(行善:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%96%84)

「今昔物語」にあるという「高句麗に渡った留学僧、行善が高句麗の滅亡に遭い、観音様に危難から助けられた話。」は、清水寺創建伝承に見る坂上田村麻呂のように、「観音」との結びつきを言わんとしているようで。
(観音菩薩:http://www.geocities.co.jp/hollywood/8261/reiken/kannon1.html)
(清水寺・創建伝承:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%AF%BA#.E5.89.B5.E5.BB.BA.E4.BC.9D.E6.89.BF)

あ、「行善」と清水寺・創建伝承にある「賢心」が「興福寺」で繋がるような・・・「興福寺」についてはあまり書きたくないんだが、不比等はそもそも鎌足の子ではないかもという推測もあるし・・・。

ま、それは置いておくとして、「行善」は「隆豊禅師」とも呼ばれたようで、京都・西京区の「金蔵寺」が「天正天皇の勅命により隆豊禅師により創建したとされる」ようで、「聖武天皇」の勅額があることや、「開山堂の東100mほどの所、下の川弁財天を祀った祠の背後に聖武天皇経塚碑がある。」ということ、「本尊は十一面千手観音菩薩像で、向日明神(幼名楠松丸で文武天皇の孫にあたる)と開祖隆豊禅師とが楠の木に天狗の爪で彫ったと伝えられている。」とのことで「楠」絡みであることなど、「瀬織津姫」に繋がる要素が見られるようで。
(金蔵寺:http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/konzou-ji.htm)
(金蔵寺:http://everkyoto.web.fc2.com/report418.html)

「薩摩国」の出身とされることや、「道昭のもとで仏法を納めた。」ということで、九州担当の「行基」だったのかも、という推測をしてみたり・・・。

で、「豊前国修験道には、かつて松会(まつえ)と呼ばれる五穀豊穣を祈願する祭がありました。」とあり、「等覚寺の松会は鬼会とお田植祭りを合わせたようなものです。」とされるサイトがあり、「松会」の最後に行われるという「高い松柱の上から幣を切り落とす幣切り行事」など、気になりますね。
(求菩提山と修験道:http://www.city.buzen.lg.jp/kanko/miru/bunkazai/04.html)
(等覚寺の松会:http://www.geocities.jp/mkiyo111/tokakujimatue090419/index.htm)
(修正鬼会:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E9%AC%BC%E4%BC%9A)

あと、「護国寺跡」にあるという「国玉神社(中宮)」で検索していたら、南郡岬町深日の「国玉神社」や磐田市の「淡海国玉神社」がヒットし、関連が気になって・・・というか、物部氏・秦氏らの移動にともなう祭祀の移動かと・・・あ、「古くは国玉神社と呼ばれていた弥五郎殿社が津島神社内に存在する。」とあり、名古屋市「津島神社」の「弥五郎殿社」については20日分に引用させていただいてますね。
(国玉神社:http://kamnavi.jp/en/izumi/fuke.htm)
(淡海国玉神社:http://www.genbu.net/data/toutoumi/oomikunitama_title.htm)
(淡海国玉神社:http://mononobe.nobody.jp/tabi/tootoumi3/index.html)
(名古屋市中川区・国玉神社:http://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/26408002.html)
(伊豆市・国玉神社:http://www.genbu.net/data/izu/kunitama_title.htm)

あ・・・転送する前に拝見しようと風琳堂さんのブログを拝見すると、早くも更新されていた、スゴイ!
(求菩提山・犬ヶ岳──生きている鬼神伝承【W】:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2010/12/31)

「犬ヶ岳」が「星嶽」だったということは、「伊奴姫神」との関連はないのかなぁ・・・で、「北辰・妙見の神(女神)」ということは、能勢の美奴売山の神と繋がりそうですね。


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