とんでもニャ〜Mの推測3−6
※役にたたない推測ばかりの駄文です。(爆)

2011.01.01(Sat.)

今年もなかなか出歩けないと思うので、ネット検索中心の他力本願的・推測メインの内容になると思いますが、よろしくお付き合い下さいませ。

さて、更新されていた風琳堂さんのブログを早速引用させていただくと、「求菩提山における最重要な霊窟として五窟の一つ・普賢窟(胎蔵窟)」があり、そこには「岩瀧大明神」、すなわち「瀬織津姫」が祀られていることが記されていたそうで、そうして残されていたことを嬉しく思った。
(求菩提山・犬ヶ岳──生きている鬼神伝承【X】:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2011/01/01)

で、そのことが書かれている前に、「白山の縁起」から「北斗七星」の「破軍星」についてふれておられ、2003.04.16分で「中国では破軍星に向かって軍を進めると戦いに破れると伝えられている。」ことを引用させていただいており、ふと「神武天皇」が熊野に迂回したのは「太陽信仰」によるものだけでなく、「破軍星」に向かって軍を進めていた、ということだったのではないか、と。
(妙見と虚空蔵、北辰と明星、破軍星と太白星:http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045218.html)

つまり、軍を進めた場所が「妙見・北辰信仰」が見て取れる地、というより、信仰があることやそれを信奉するのが「ナガスネヒコ」の一族だったのを知っていたのではないかと思われ、またもや「神武東征」に首をひねるわけで。

どちらだったか思い出せないんだけど、「神武東征」は九州内で行われたと書かれていたサイトがあり、大分にある「熊野」でのことなのかを拝見したかったんだが、まだ思い出せなくて・・・あ、あった、「神武天皇紀に登場する「熊野」とは、英彦山のことである。」と。
(三輪山比較:http://www.geocities.jp/oden1947/miwahikaku.html)

だとすると、西行の詠んだ「吹上」が九州にあるのかを検索すると、ヒットしたのは鹿児島県日置市吹上町で、英彦山とは180キロほど離れてる・・・と思っていたら、「英彦山」から西南西約30キロのところの福岡県小郡市にも、「吹上」という地名があるようで。
(九州の「飛鳥」に行って来ました:http://lunabura.exblog.jp/tags/%E7%A5%AD%E3%82%8A%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88/)

和歌山の場合、吹上は熊野から西北西約90キロの場所にあるんだが・・・。

2011.01.02(Sun.)

「笠沙路探訪」さんの今月号を拝見していると、始めに「羽島崎神社」の「太郎太郎祭」と「舟持ち行事」の関連性について書かれており、そのあとの「舟歌」の歌詞に「きさらぎ山の楠の木を船に造りて今降ろす・・・」とあった。
(「ほくら」の梯子が高く、「巫女」を欠いた『尾張連らのたまのまつり』:http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage44.html)

「隼人」「楠」に関すると思われる「羽島崎神社」の御祭神などの詳細はわからなかったが、「鹿児島県内にはこのほか,日置市吹上町船木神社の「船こぎ祭り」でも,模型船を用いる儀礼がある。」と、昨日書いていた「日置市吹上町」が出てきて、やはり何らかの繋がりがあるのかも、と。
(羽島崎神社の太郎太郎祭り:http://www3.synapse.ne.jp/hantoubunka/minzoku/20.01tarotaro.htm)

「船こぎ祭り」は「大汝牟遅命が宮内に下向されたとき、猿田彦命が海上を無事に小野湊まで送り届けたことに由来する。」とのことで「サルタヒコ」が祀られていると思われるのだが、こちらもそれ以上はわからなくて・・・。
(船こぎ祭り:http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/kagosima.htm)

日置市吹上町の「大汝牟遅神社」には「千本楠」と呼ばれる大楠があるそうで、「あたかも龍が寝ているように地に背い、或いは空に向かい飛翔するがごとく梢を伸ばしています。」とのことだが、阿多隼人のご先祖が奈良の「大神神社」から勧請されたようで。
(大汝牟遅神社:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/kagosima/hiokisi/oonamuchi/oonamuchi.html)

「船木神社」でヒットしたうちの埼玉県熊谷市小八ッ林の「船木神社」では、「末社として白山神社、諏訪神社天神宮、八幡神社などが祀られている。」とあることから、日置市吹上町からの氏族の移動に伴った祭祀かと思われるが。
(通殿川:http://www.geocities.jp/fukadasoft/rivers/tuudono/index.html)

「楠」については、三重の「多度大社」で空馬で御神木を廻る「楠廻り」の神事があるそうだが、繋がるようなそうでないような、といった感じでして。
(多度大社:http://www.tadogagaku.com/aiba2.html)

神事ではないが、「楠」をくぐると願いが叶うということでは、西都市の「都萬神社」に「千年楠の木洞」があるそうで、「紀の国の伊太祁曽神社にもこのような木俣が置かれている。」とあるのも気になりますね。
(都萬神社:http://kamnavi.jp/it/tukusi/hyutuma.htm)

「くぐると願いが叶う」ということでは各地に多くあると思われるので、「廻る」神事で検索すると、「天平神護2年(766)に、伊勢国渡会郡五十鈴川の畔より、御祭人として此の地に勧請申し上げたと伝えられている。」とされる相楽郡山城町の「和伎坐天乃夫支売神社」の「いごもり祭」に「森廻り神事」というのがあるようで。

「御祭神天乃夫岐売命とは、天照大神の御魂であると記されている。」とのことで、「瀬織津姫」かと。
(和伎座天乃夫岐売神社:http://www.geocities.jp/engisiki/yamashiro/html/020802-01.html)

農耕儀礼である「いごもり祭」は「村人たちは居籠祭神事の間は、家に居籠って一切音を立てなかったといわれています。」とのことで、2010.12.24分での「油日神社」の「大宮ごもり」などに繋がりそうで、「楠廻り」の神事や「森廻り神事」が気になるし、2009.12.22分で書いた「祝園神社」の「いごもり祭」と「対を成すとされています」というのも気になるところで。
(居籠祭:http://www.city.kizugawa.lg.jp/article.php?id=450&f=276&t=cat)
(居籠祭:http://www.citydo.com/prf/kyoto/area_minami/kenbun/rekishi/seika001.html)
(祝園神社:http://aladdin.s57.xrea.com/kanko/seika/housono.htm)

「笠沙路探訪」さんの今月号に書かれている「周囲を戒め慎ませるため」の「吠声」が、「いごもり祭」などの神事が行われはじめた頃にはあったのではないか、と・・・。

そういえば、コミック「陰陽師2」で晴明が、「辻や異層の門で式たちに四股を踏ませたり舞を舞わせている」という場面があり、「吠声」と同じような意味合いがあるような・・・。

ま、「陰陽道」に隼人の俳優が取り込まれてしまった「天武禍」という解釈をされているようだけど、私には「縄文語いじめ」「反新羅」が明らかな「日本書紀」を、「親新羅」の天武天皇がすべて構築したとは思えないんだが。

今月号の最後の書かれている1と2について、足跡を辿れば九州の物部氏に行き着くとしたら、不比等が中臣氏を乗っ取ったのちに物部氏を乗っ取ったゆえのことと思われ、「「石上神宮」に「瀬織津姫」が居ない? → 姫では無理な「高い梯」だったから!!!」については「石上神宮」に限らず、乗っ取った不比等が「高い梯」の上で「瀬織津姫」を見えなくしてしまっていながら神威だけを頼みにしているからだと推測していて。

「資本・労働力の投下」は、「行基プロジェクト」をも全国展開させたほどの「秦氏」という「隼人」を中心とした「智識」が動き、山岳修験者のネットワークによる事前の通達で、同族による「智識」からの資金や人材の提供やアフターケアもあったからこそ、今の世にまで全国的に「行基」の名による寺院建立や像などの伝承が残っているのではないかと思えるのだが。

2011.01.03(Mon.)

先月購入した昔話の本に、「泉穴師神社」の「狐堀」が整備されたことが書かれていて、その写真が市の広報誌の「おおつ物語」に載っているということで、昨日実家に行った時にもらってきまして。
(狐堀:http://www.city.izumiotsu.osaka.jp/syougaigakusyu/meishokyuseki/kitunebori.html)

広報誌には、「きつねが湧水を発見するという伝承は、奈良県香芝市狐井地区にもあります。」とのことで検索すると、「きつねの井戸」が載っており、「狐井はもともと良い水がなかったので・・・」とあり、ん?と。
(香芝の伝説:http://www.city.kashiba.lg.jp/info/shisei/bunkazai/densetsu/)

「泉穴師神社」近くにはため池があったし、井戸も最近まで残っている家があったので、「干ばつ」ではなく「製鉄」によって飲用水が不足したのではないかと思われ、の会社に香芝在住の人がいて、各地に井戸があったというあたりは似ていて、「清水」に関する伝承のある「志都美神社」も「泉穴師神社」と同じように「製鉄」が行われていたのかもしれないな、と。
(志都美神社:http://homepage3.nifty.com/katuraki/sub2-2.htm)

だが「志都美神社」は中臣氏に乗っ取られ、御祭神もすり替えられてしまったのでは・・・「社伝では「古くは、「鹿葦津姫命」を鎮祭したが、何時の程にか現行の三神(品陀和氣命、天兒屋命、底筒男命)と成つた。」とのことで、そもそもは「瀬織津姫」が祀られていたのでは。
(志都美神社:http://www.geocities.jp/engishiki01/yamato/html/030610-01.html)

香芝のとなりの王子町に「久度神社」があり、御祭神が品陀和氣命で、天兒屋命、底筒男命、久度神が配祀されており、「水神」を物部氏が祀ったものと思われ、「志都美神社」も同様かと・・・「志都美神社」は「倭文神社」ではなかったかとの推測もあって・・・。
(久度神社:http://kamnavi.jp/as/ikoma/kudo.htm)

香芝にも「白山姫神社」があるんですね、「池上・曽根遺跡」近くにも「白山神社」があって、氏族の移動が見えるような。
(奈良55チャンネル:http://blog.goo.ne.jp/gfi407/m/200812)
(白山姫神社:http://barakan1.exblog.jp/1912538/)
(浪速ぶらり探訪:http://www2.ocn.ne.jp/~webpeco/burari-08.html)

で、「狐堀」の分だけでなく、実家にあった他の分ももらってきていて、そこに比較的新しい町名のことも書かれていて・・・池を埋め立ててできた小学校が、なぜ「楠小学校」なんだろ?とは思ってたが、「市の木」が「楠」だったのは知らなかった。
(楠町西:http://www.city.izumiotsu.osaka.jp/matizukuri/kawaraban/choumeinohensen/kusunokichounisi.html)

さらに、その小学校のすぐ南にあった池が「条里制の十三の坪にちなむ「十三池」」だったというのも初めて知り、「十三」といえば2010.01.12分に書いたように「トミ」と読まれていたのではないかと思われ、「ナガスネヒコ」との関連があるのかもしれないな、と。
(十三の由来:http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-158.html)
(十三の由来と歴史:http://www10.ocn.ne.jp/~kamitsu/jusonoyurai.html)

それらの池は、行基ゆかりとされる「極楽寺」のあった社域のすぐ東で、港から陸路で府中の「和泉宮」へ向かう通り道と思われる場所で。
(和泉国:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E5%9B%BD)

「志都美神社」の「志都美」は、「倭文」であり「(志)トミ」であったのかも・・・。

話は変わりますが、市の広報誌に明治15年の記録が書かれたものがあり、「助松村の「宮」と呼ばれた場所には、春分・秋分の日の出ごろ、その松影へ魚が集まるため、そこに網を入れると大漁を得ることができる。」とあったそうで。

昔話にもいくつか「松林」が出てたけど、「松影へ魚が集まる」ほどの「松林」が想像できず、しかも「春分・秋分の日の出ごろ」であるのはなぜなのかが気になるところで・・・松が海に向かって枝を伸ばしていたのなら、お昼あたりまで海面に松影はできただろうけど。

あ、その助松の浜あたりですね、「信太大明神」が上陸し、「聖神社に向かう際に布を引いたことに由来する」という「布引の道」があり、昔話では神功皇后風の「お妃様」が、浜から7度弓をひかせて矢が7度目に落ちた地にお社を作り、それからのちにその近くに「聖神社」が作られた、となっていて、その「お妃様」はその後も「西征」したようで。

生まれ育った場所なのに、知らないことがたくさんありまして・・・。


「昔むかし泉大津でな」p58の「七つの矢」より
(大阪府和泉市王子町周辺(聖神社)の地図)

2011.01.04(Tue.)

昨夜洗い物をしている時、テレビを見ていたが「宮司さんが『長宗我部さん』っていわはるんやて、松山の『椿神社』って言ってたわ。」と教えてくれたので、用事が終わってから検索すると「久米氏の祖神を祀る神社」とあり、元の御鎮座地「梅本村小野谷」は「久米郡」のようで、久米氏の本拠地だったのかも、と。
(FNNニュース:http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00190593.html)
(伊予豆比古命神社 伊豫豆比古命神社 椿神社:http://www.genbu.net/data/iyo/iyotuhiko_title.htm)
(伊予の隅々:http://www33.ocn.ne.jp/~kotaro_mil/iyosumi/towninfo/matuyama-ono.htm)
(伊豫豆比古命神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B1%AB%E8%B1%86%E6%AF%94%E5%8F%A4%E5%91%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(伊豫豆比古命神社:http://tubaki.or.jp/)
(古事記イン椿神社:http://ameblo.jp/yamagatakahori/entry-10665563893.html)
(伊豫豆比古神社について:http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1232358137)

御祭神の「伊与主命」について検索すると、「久味国造:応神朝に、神魂尊の十三世孫の伊与主命を国造に定められた。」とあり、久味国造=久米国造のようだが、大伴氏?阿曇氏?物部氏?久米氏の本拠地の1つとされている「岸和田市久米田池」は行基と繋がるが・・・。
(国造本紀:http://mononobe.nobody.jp/kujihonki/yaku/kokuzou.html)
(大伴氏族と久米氏族:http://enjoy.pial.jp/~kokigi/keihu/sizokugairan/ootomo-k.htm)
(伊予の久米部:http://www.sysken.or.jp/Ushijima/voyage8.htm)
(久米氏・山部氏:http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kume.htm)
(斑鳩宮と物部氏と山部氏の関わり:http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/yamabe.htm)

「久米国造」を検索すると「桑原八幡神社」がヒットし、「往古より桑原村古宮に鎮座し、履中天皇の勅願所であった。久米国造が大宮司となり子孫が代々その職を受け継ぐ。」とあり、社殿の再建等で河野氏との繋がりが見えて、住所から行基ゆかりとされる「繁多寺」と近いようで、地名からも秦氏との繋がりが見えるようで。
(桑原八幡神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E5%8E%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

また、旧久米郡の行基ゆかりとされる「正観寺」でも、「河野通廣公の信仰を受け・・・」と河野氏との繋がりが見え、山号が「小野山」で「小野小町ゆかりの寺」とされていることから、小野氏と久米氏そして秦氏の繋がりが見えるようで。

「桑原八幡神社」の別名が「三島神社」とあり、「仁徳天皇の時代に創建」とのことでこちらが先に祀られたと思われ、「越智玉純が大山祇神社より雷神、高おかみ神を勧請合祀して三島宮と定め、三島新宮と称えた。」ということで、「越智玉純が夢によってこの地を霊地と悟り熊野十二社権現を祀った。これは聖武天皇の勅願所となり、天平元年(729年)に行基が薬師如来刻んで本尊として安置して開基した」という「石手寺」も近くにあり、越智氏と行基の繋がりも見え、主に祀られているのは「瀬織津姫」かと。
(石手寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%89%8B%E5%AF%BA)
(石手寺:http://nehan.net/index-06.htm)

「もとは安養寺といい、衛門三郎の因縁によって石手寺と改めた。」とのことで「衛門三郎」を検索したところ、空海絡みの伝説のようで、鉢が8つに割れたことや8人の子どもが次々に亡くなることなど、出雲を思い出させるような内容で興味深いですね。
(衛門三郎:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E9%96%80%E4%B8%89%E9%83%8E)

「大宝元年(七〇一)に文武天皇の勅願寺として伊予国司越智玉興が七堂伽藍を建立するにあたり、大堂山に八カ所の道路を造ったところから「八坂寺」の寺号が付けられた。」という「八坂寺」や、「天平十三年(七四一)、四国を旅していた行基が、伊予の国司である越智玉純と出会い、一宮別当寺として建立。」という「西林寺」などもあり、繋がりの深さが伺えますね。
(四国八十八ヵ所ミニ辞典:http://www.himegin.co.jp/88/temple-dict.php?p_page=oAkkyT)

で、「河野通廣」について検索すると「湯神社」がヒットし、境内社「児守社」の御祭神に神大市姫命(鎭疫神、河野七郎通廣)とあり、

往古、松山城東麓にあったが、松山城築城の際、湯神社の末社河野霊神に合祀された。河野霊神は時宗の開祖一遍 が父・河野通広を祀るために建立したもので、遊行上人が巡教した際には必ず参拝を行い、その都度領主は社殿を造営整備した。鎮疫神は、安政六年、悪病流行につき鎮疫のために勧請された。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

とのことで、元は「出雲崗神社」の方だったようで、やはり出雲との繋がりの強さが見えるようだが、「四所大明神」とも称されていたのに「大山積命」「茅野姫命」は御祭神として書かれていないようで、「大山祇神」の子神「神大市姫命」が境内社「児守社」に祀られているあたりなど、気になるのだが・・・。
(湯神社:http://yu.mydns.jp/top.htm)

あ、「伊予豆比古命神社」の「児守社」では「木花開耶姫命」「天之水分命」が祀られているようで・・・。
(椿宮児守神社:http://tubaki.or.jp/2300/2300_02.php)

またしても謎が増えただけのようになりそうだが、「伊予豆比古命神社」で旧暦正月7日〜9日に行われる「椿まつり」は「お八日」(おようか)と呼ばれていたそうで、旧暦1月8日の夜、神社の神輿が北土居町の「金刀比羅神社」まで渡御するという特殊神事の「お忍びの渡御」は、2009.04.26分での東京・府中市「大国魂神社」の「くらやみ祭」や、2日の「和伎坐天乃夫支売神社」「祝園神社」の「いごもり祭」などに繋がりそうな・・・「くらやみ祭」で「8基の神輿」が渡御されるそうで、こちらでも「8」が絡んでますね。
(お忍びの渡御:http://tubaki.or.jp/003/003_02_03.php)
(くらやみ祭:http://www.ookunitamajinja.or.jp/matsuri/kurayami.php)

「伊予豆比古命神社」の「古楠」には、「お紅さん」と呼ばれる牝狸が住んでいるという伝承があるそうで、「泉穴師神社」の「狐」と近いものを感じ、「潮鳴石」が「歯痛止め」とされているのは、2009.11.26分での堺市「陶荒田神社」の「老松社」や大阪・梅田の「綱敷天神社」御旅所の「歯神社」、「池上・曽根遺跡」近くの「白山神社」等と同じで、「舟山」は京都「貴船神社」奥宮にある「船形石」に似ているような・・・。
(其の他の境内風景:http://tubaki.or.jp/006/006_00_00.php)


貴船神社「奥宮」の境内にある「船形石」

それにしても、お賽銭に偽札って、なんてバチ当たりな・・・。

2011.01.05(Wed.)

1日に「吹上」について書きましたが、「ひもろぎ逍遥」さんのサイトを拝見していると、「この奈多の浜を吹上浜と呼んでいたのですね」とあり、福岡県東区の「志式神社」あたりがそのようで。
(志式神社:http://lunabura.exblog.jp/i7)

また、「「君が代」が福岡市の「志賀海神社」の神事で連綿と歌い継がれているのを知る人はまだまだ少ないようです。その一部を紹介します。」と「えびら弓たらしの歌」が書かれており、「香椎路の あの向こうなる 吹き上げの浜に 千代に千代まで」とあった。
(「君が代」ゆかりの三社参り:http://lunabura.exblog.jp/tags/%E7%9C%9F%E9%8D%8B%E5%A4%A7%E8%A6%9A/)

「志式神社」は「安曇族たちが大切に奉祭」されてきた神社のようで、御祭神は神功皇后が「進軍する前にお祭りした安曇族の三柱の天神」(火明神、火酢芹神、豊玉姫神)と「凱旋しながら、置き去りにされて行った三人」(十域別神、稚武王、葉山姫神)とあり、なるほど、と思いつつも、葉山姫は「広田の国」でお祀りしたわけではないの?と。

ということは、「吹上」の地名同様、氏族の移動に伴ってあとから祀られた、ということなのかな、と。

それと、そのあとに書かれている「大嶽神社(2)」で、「新年を決める基準として春分や秋分を選ぶ氏族と、夏至、冬至を選ぶ氏族があります。」とあることから、3日の「「助松村の「宮」と呼ばれた場所には、春分・秋分の日の出ごろ、その松影へ魚が集まるため、そこに網を入れると大漁を得ることができる。」は、春分や秋分を新年とした氏族による伝承なのかも、と。

あと、「ヤマトタケルをもてなした一族の神社」とされる「八剣神社」が福岡県鞍手郡鞍手町中山にあるそうで、2010.02.07分などでの西行や芭蕉が詠んだ「中山」は、やはり九州を思い起こさせるためのものだったのかも、と。
(八剣神社:http://lunabura.exblog.jp/14605149)

で、「日若神社」について書かれているところに、「倭人は「し」+「みず」で、清水という言葉を造り出した」とあり、

シルクロードを辿って日本に来た民族にとって、
オリオンの三ツ星は道しるべであり、心の支えでもあった。
オアシスの水もまた心の支えだった。
そこで彼らは、オリオン座にもオアシスの名をつけた。

それが三島であり、ミゾクイであったという事です。
(http://lunabura.exblog.jp/i23/)

と書かれていて、3日の「清水」に関する伝承のある「志都美神社」「泉穴師神社」は同族による祭祀かと。

それにしても、1年ほどでこれだけお調べになって書かれているのは「すごい!」のひとことで、私は何をやってるんだろうかと・・・やはり現地に行くのがいいんだろうけど、免許を持ってないし、行基ゆかりの場所って車でも難儀な所が多くて・・・いつも言い訳ばかりやね。(苦笑)


風琳堂さんのブログが更新されていて、2010.12.29分の「鬼神社」の御祭神はやはり「瀬織津姫」だったんだなぁ、と。
(大蛇としての三島明神──大山祇神社元社地を訪ねて【T】:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2011/01/05)

「三島宮御鎮座本縁」が引用されており、「小千玉澄」が「勅命を奉じ」た形をとりつつも祖神を祀るための手立てを考えていたように思え、それが昨日の御縁起などにあった行動なのかも、と。

消されてしまう御祭神を守るかのように、神社に寄り添うように寺院を建立して仏像を安置することでしか今は祖神を守ることができない、という判断ゆえの行基との伝承のように思え、それが的中して「四所大明神」から「大山積命」「茅野姫命」の御神名が消えたのか、それとも新しく仏教でお祀りしたので偽りの御祭神は記す必要がないと消したのか・・・。

いずれにしても、奉斎している氏族にとって、祀っている神を消されてしまうということは「死」に値する行いを強いられたこととして、「放生会」が行われるようになったのではないかと思われるわけで・・・だから能因は「楠」に雨乞いをしたのでは。

しかし、四国担当の行基が伊予の国司である越智玉純と「出会う」という段取りを組んだネットワークの早さ、そしてすぐさま寺院建立できる経済力や計画性、越智玉純が大山祇神社の上津社・下津社から雷神・高おかみ神を勧請した判断力は、いかに祖神を大切に思っていたかが伺えるようで。

2011.01.06(Thu.)

頭がウニ・・・「ひもろぎ逍遥」さんのサイトから引用させていただいた「(オリオンが)三島であり、ミゾクイであったという事です。」から検索してて、「海人の部屋」さんのサイトで「賀茂氏と三輪氏と越智氏は、同族ないし親戚の関係と言って間違いないだろう。」とあり、「三島溝咋耳命」は「河内陶都耳命や賀茂建角身命神(阿治志貴高日子根神)」と同神とする系図もある」と書かれていて。
(越智氏(河野氏・村上氏):http://homepage2.nifty.com/amanokuni/ochi.htm)

2007.03.21分で「矢宮神社」を検索して御祭神が「賀茂建角身之命」であることや、「神武東征」絡みの伝承があるのを引用させてもらっていて、再度検索して「のりちゃん」さんのサイトを拝見していると、「和歌吹上の大神」とあり、また、「干潮を起こさない」という御霊験から「鳴門の渦潮の関係」について検討されており、ふと2010.04.09分などでの阿波の「鳴門鎮めの呪い歌」を思い出したり、2010.02.11分での和歌の神とされる「玉津島神社」で聖武天皇や芭蕉が絡んでいたことを思い出し、何かひっかかるものがあるんだが。
(矢宮神社:http://www.norichan.jp/jinja/kenkou2/yanomiya.htm)

2009.12.18分での引用で、「原田常治氏は、大神神社の主祭神である大物主、上賀茂神社の主祭神である加茂別雷大神、熊野本宮大社の祭神である事解之男尊、大和神社の主神である日本大国魂大神、石上神宮の祭神である布留御魂、大歳神社の主祭神である大歳神(大歳尊)と同一」とされているとあるが、「賀茂別雷命」は「賀茂之本地では阿遅スキ高日子根神と同一視されている。」とのことで、うーん、と。
(ニギハヤヒ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AE%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%83%92)
(賀茂別雷命:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%88%A5%E9%9B%B7%E5%91%BD)

そこで「行基」「ニギハヤヒ」で検索すると、「ニギハヤヒ」が境内地に降臨したという天理市の「大親寺」がヒットし、行基が伽藍を整備したとされていることや、行基作の石仏・不動明王があることを書き忘れていたことに気づき、公式サイトに「桃尾の滝」のことが書かれていて、2009.02.12分などで書いてた「石上神宮」の元宮のようだけど、上記には繋がりそうにないなぁ、と。
(大親寺:http://daishinji.msc2001.com/taki.html)
(石上神宮:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E5%AE%AE#.E6.A1.83.E5.B0.BE.EF.BC.88.E3.82.82.E3.82.82.E3.81.AE.E3.81.8A.EF.BC.89.E3.81.AE.E6.BB.9D.E3.81.AE.E7.9F.B3.E4.B8.8A.E7.A5.9E.E7.A4.BE)
(桃尾の滝:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E5%B0%BE%E3%81%AE%E6%BB%9D)

他にもニギハヤヒとの繋がりは「鏡速日墳墓の史書」によってわかるようだが、「瀬織津姫」と行基をダイレクトに繋ぐものはネットではなかなか見つからなくて。
(饒速日命墳墓を訪ねる:http://www.geocities.co.jp/marebit/nigi.html)

行基の父・高志才智は「歳智」で「大歳神」から、行基の母・蜂田古爾比売の「古」は「ニギハヤヒの幼名布留」で、行基ゆかりとされる「長弓寺」は「蛇神信仰の長髄彦のナーガー(竜)とニギハヤヒの弓(キュウ)を合わせた命名」とされているサイトもあったが・・・。
(創建者、行基:http://blog.goo.ne.jp/fumioyamashita/m/200603)

これはいつものパターンで横道にそれてしまいそうだなと思っていたところ、

今から1,200年前、和気清麻呂(733〜799)が大切にしていた鷹が死にました。その遺骨を三つに分け、紀州の高尾山と、都の高雄山と郷里の備前の高尾山に分けて葬ったそうです。その時紀州の高尾山には千光寺を建て、都の高雄には神護寺を建て、手厚く弔ったと言われています。
(千光寺:http://akizuno.kii-area.jp/cnts2/siru/)

とあり、「本尊は観世音菩薩で、行基の作と伝えられています。」とも。
(秋津野ガイドマップ:http://www.kiteraga.com/satoyama/satoyama.html)

かと思えば、「創建時期は不明。社伝によると、豊玉姫命が亀に乗って讃岐国山田郡潟元(屋島付近)に上陸し、鵜葺草葺不合尊をこの地で産む。その後鰐に乗って川を遡り、この地に上陸したという。行基がこの地に創建したという。」とされる「鰐河神社」を初めてみつけた。
(鰐河神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B0%90%E6%B2%B3%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

秦氏と和邇氏が絡んでいる、ということだろうか・・・。


夕方のニュースで映画「阪急電車」の撮影についての特集があり、かつて沿線に住んでいたこともあっていろいろと連想していて、かつての会社の最寄駅が「南方」だったけど、その由来って何だっけ?と・・・調べたことがあるような、ないような・・・。

旧東淀川区にかつて南方町があって、地名辞典によると南潟とも書かれていたとあっただけで、詳細はわからなかったところに、宮崎の地図に「南方」があるのを見つけ、検索すると、2日の「羽島崎神社」と同じく「太郎太郎祭」が行われるという「南方神社」がヒットした。
(南方神社 (薩摩川内市):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%96%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E8%96%A9%E6%91%A9%E5%B7%9D%E5%86%85%E5%B8%82))

宮崎の南方は西都市にあるようで、「南方神社 (上穂北のクス)」がヒットしたものの、「御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明」でして。
(南方神社 (上穂北のクス):http://ameblo.jp/m-meguri/entry-10325339980.html)
(南方神社:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/miyazaki/saitosi/minamikata/minamikata.html)

あと、宮城県登米市に南方町があるようだが、こちらもいまいちよくわからず・・・津山町には行基ゆかりとされるお寺がいくつかあるんだが・・・あ、南方町本郷大岳の「岩切館(鈴鹿城)」は「坂上田村麿の御台所鈴鹿御前が居館されたとされている、とのことで。
(登米市 南方町:http://www.nandemomiyagi.com/district/021tome/021_7minamikata/index.htm)
(南方町:http://homepage1.nifty.com/akabeko/minakata.htm)

南方町下平貝に「姥清水」とも呼ばれたという「平貝の清水」があり、「南方町には昔から七つの清水と八つの沢があり七清水八沢と語り伝えられてきました。その清水も開発等によっていつしか消滅し現存するのは平貝の清水だけとなり、平成二年に南方町(現登米市)文化財として指定された。」とのことで。
(宮城県の代表的な湧水:http://www.env.go.jp/water/yusui/result/sub4-2/PRE4-4-2.html)
(平貝の清水:http://www.mediaship.ne.jp/~pino/simizu/hirakai.htm)

「もっこりにら」というにらがあるそうで、町のキャッチフレーズは、「もっこりみなみかた」だそうな。
(宮城/仙北:http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E5%AE%AE%E5%9F%8E/%E4%BB%99%E5%8C%97)

あと、岩手県一関市萩荘江川南方があるようだが、こちらもよくわからなかった。

2011.01.07(Fri.)

昨日の「もっこりにら」が頭から離れず、検索してみた。(爆)

見た目はちょっと短めだけど普通のにらと変わりないようで、「もっこりにら煎餅」「もっこりにらラーメン」「にらっこ餃子」「もっこりにら餅」「もっこりにら肉パン」などがあり、「もっこりの里は”にら”づくし!」だそうな。
(7つの地域から虹メール(登米地域):http://www.pref.miyagi.jp/et-tmsgsin/tisin/kensei/kensei1503.html)
(佳生のいつかきた道:http://www.mmt-tv.co.jp/bandesu/teiban/burabura/050510.htm)
(道の駅ツーリングレポート「みなみかた」編:http://anytown.jp/michinoeki/report04.html)

検索を続けていると、「奥州三十三観音大嶽山興福寺」は坂上田村麻呂の創建、延鎮法師の開基だそうで、「近世の縁起によれば夷賊の将を大武丸といい、田村麻呂はこの夷賊を当山において殺害、遺骸を7分し、7か処に分葬してそれぞれ観音の浄閣を建てたが、大嶽観音はその一つと伝えられています。」とあった。
(みなみかた(南方) 道の駅:もっこりの里:http://michieki.web.fc2.com/miyagi/mi11.html)

やはり田村麻呂ゆかりとされるお寺が多いみたいだけど、「大嶽丸の妾魔鬼を征誅し供養した」とされることや、「名草戸畔」のことなども、更新されていた風琳堂さんのブログに書かれていた「大蛇=蛇神を龍~に昇格させてまつることで、龍~の荒魂=悪神(大蛇)を鎮めた」のと同じような感じなのではないかと思え、「箟峯寺」に「ここでは「えみし」も含めて敵味方一緒に坂上田村麻呂は弔ったと伝えられている。」とあることから、「征誅」とは思えなくて。
(奥州33観音:http://www.geocities.jp/koji_jyunrei/ohshu8.htm)
(東和町の田村伝説:http://www.bakebake.com/kaido/miyagi/kuritoyo/kt08tamu.htm)
(日高見国の鬼『大竹丸』:http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/oni-megami/oni-megami-4-1.htm)
(大蛇としての三島明神──大山祇神社元社地を訪ねて【U】:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2011/01/06)

それは大阪の「四天王寺」に祀られている「物部守屋」や「中臣勝海」と同様かと・・・。

で、風琳堂さんのブログで気になってた大山積神と三島明神が「似て非なる神」であるというのに似た感じのことを、かつて拝見したことがあったようなと検索し、「三宅記は伊豆の三島明神と大三島の三島明神は別であるという立場に立っています。」とあるのを見つけ、けっこう前に拝見したけどサイトを継続されていたことに感謝。
(賀茂探求(28)伊豆の三島神社について:http://219.94.190.145/fortune/onmyo/kamo/kamo28.htm)

その理由として、三宅島の壬生家に伝わる通称「三宅記」別名「三島大明神縁起」に、「ここに大三島の三島明神が訪問して「あの峰は面白いから私にくれませんか」と言って山をひとつもらう記述がある」とのことにより、「似て非なる神」とされているようで、「榎本明神」と「春日明神」の「土地交換説話」のような図々しさを感じ、「事代主神」を信奉する賀茂一族の領地を「三島明神」の名をもって藤原氏が乗っ取ったのでは、と。
(春日大社:http://kamnavi.jp/as/yamanobe/kasugata.htm)

さらに、

現在三嶋大社がある場所には若宮八幡があったとされます。この時、三島明神が若宮八幡様に「藁一把分土地を譲ってくれないですか」と言ったので、若宮八幡様が「そのくらいいいですよ」と言ったら三島明神はその藁把を解いて輪にすると広大な敷地を占有してしまった。そこで若宮八幡様はよそ(同市本町)に移らなければならなくなったといいます。
(賀茂探求(32)伊豆/三嶋大社:http://219.94.190.145/fortune/onmyo/kamo/kamo32.htm)
(天日鷲命:http://tokyo.atso-net.jp/pukiwikip/index.php?%C5%B7%C6%FC%CF%C9%CC%BF)

とのことで、「土地交換説話」と似ており、「若宮八幡」はまるで堺・美原区の「菅生神社」にある「余部神社」のようで、中臣氏(藤原氏)の手口はどこでも同じだったんだな、と。

ということは、「三島溝咋耳命」や「三島溝杭姫」も「不比等の方便の神」なんだろうか、「事代主神」のテリトリーを乗っ取るための・・・賀茂氏・物部氏等のテリトリーを大々的に乗っ取ったわけか・・・。
(賀茂探求(31)大阪/溝咋神社:http://219.94.190.145/fortune/onmyo/kamo/kamo31.htm)

そういえば、2010.01.15分に「長髄彦は事代主神(飛鳥大神)の子」とされているサイトがありましたね・・・。
(長髄彦の後裔とその奉斎神社:http://enjoy.pial.jp/~kokigi/keihu/nagasune/nagasune1.htm)

秦氏が守らなくて誰が守るという感じだが、藤原・中臣氏の乗っ取りの寺院版が、2007.04.24分での「高山不動尊」や、「志度寺」や2010.04.22分での「志度寺」から御本尊が移されたという佐賀市白山の「瑞石山龍造寺(高寺)」や三重の「金剛座寺」などで、行基の名前まで利用しているという・・・。
(高山不動:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E4%B8%8D%E5%8B%95)
(志度寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E5%BA%A6%E5%AF%BA)
(瑞石山龍造寺(高寺):http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Mother.html#anchor743273)
(金剛座寺:http://www.renge.net/kongozaji_frame.htm)

「高山不動」に書かれているように、「藤原鎌足の子の長覚坊という人物の存在は史料で確認できない。また、日本で軍荼利明王を含む五大明王の信仰・造像が行われるのは9世紀の空海以後」ということから、寺院での乗っ取りの方がわかりやすいけど、なんだかなぁ、と。

先日「住吉大社」に初詣に行ったけど、ここ数年は願い事をする気にならず、ご挨拶になるか、「どうぞこの地にいつまでもおられますように」と呟くくらいで・・・。

2011.01.09(Sun.)

風琳堂さんのブログが更新されていて、「神仏習合によって、新手の神隠しがなされるも、長きにわたる神仏習合時代は、仏が前面に出ていた分、消され残った神はその背後に温存、あるいは冷凍保存されて、明治期を迎えます。」とあり、「新手の神隠し」にちと唸りつつもおっしゃる通りと言えそうで、2009.05.14分の「精霊の王」にあった「後戸の神」かと。
(三嶋龍~という滝神──讃岐二宮・大水上神社を訪ねて:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2011/01/09)

で、「大水上神社」の境内社「滝の宮神社」の滝宮神が「瀬織津姫」とのことで、やはりこちらも関連があったんだなぁ、と・・・一昨日だったかな、「大水上神社」について書けなかったけど、ちらっと見ていたところだったわけで。

「大水上神社」は二宮で、一宮の「田村神社」は奥殿の下にある「定水井」にいかだを浮かべてその上で祀っていたのを行基が社殿を創建したようで、三宮の「多和神社」は、行基が不比等の子・房前と堂宇を建立したとされる「志度寺」の隣なので、ひょっとしたら何かしらの繋がりが見えそうだったけど、「滝の宮神社」に辿り着けていなかったので・・・。
(田村神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%B8%82))
(多和神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E5%92%8C%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

で、「滝の宮神社」が「古代からの祈雨神祭遺跡で白鰻・黒鰻の伝えがある。」とのことで、2008.11.01分での三島市の「右内神社」別名「うなぎの宮」に繋がりそうで、「三島宿では江戸時代末期までうなぎを食べるのはご法度」だったのが、「幕末に官軍に加わっていた薩摩(鹿児島県)長州(山口県)の兵隊が侵入すると、手当たりしだいに捕らえて蒲焼にして食べてしまったそうです。」とあり、薩長の人々は「三島明神」の違いを見破ったかのようなお話があって。
(明神のうなぎの話:http://www.city.mishima.shizuoka.jp/kakukaHP_system_kanrika/amenity/bunka/meisuino/shoku.htm)
(左内神社:http://www.city.mishima.shizuoka.jp/kakukaHP_system_kanrika/amenity/rekishi/jinja/jinnja.htm)

伊予と同様に、「三嶋大社」の摂社として「祓所神社」に祓戸四柱神が祀られており、「本社に付属し、本社に縁故の深い神を祀った神社」とされていて。
(祓所神社:http://www.city.mishima.shizuoka.jp/kakukaHP_system_kanrika/amenity/rekishi/jinja/jinnja.htm)

2008.11.01分では、2003.04.11分での若柴の「虚空蔵信仰」と「うなぎ」のことについても触れていたが、「ウナギに水神そのもの、あるいは水神の指令者と考えられていたのであろう。」とあり、「星宮神社の神様の使い」が「うなぎ」とされていてこちらは本物の神が祀られていたので、村人はうなぎを食べなかったのではないか、と・・・御祭神が「天御中主大神」になってはいるが。
(若柴の伝説(牛久沼・星宮神社):http://www.ushikunuma.com/minwa/wakashiba.htm)
(龍ケ崎市若柴町・星宮神社:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/jinjya/hosimiya_a.html)

同様に、郡上市美並町高砂でも「虚空蔵信仰」「うなぎ」「星宮神社」が繋がり、「円空」もここで「瀬織津姫」を見たように思うのだが、2010.02.10分での「猿丸太夫」の父とされている「藤原高光」がどうもひっかかって・・・栃木の「星宮神社」では「天香香背男命」が多く祀られているようだが・・・
(星宮神社:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/jinjya/hosimiya_a.html)
(郡上市美並町高砂・星宮神社:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/gifu/gujyosi/hosimiya_minami/hosimiya.html)
(那比新宮神社:http://www.windsnet.ne.jp/inaka/080418/inaka.html)

言い伝えにあるという「霊亀年間、高賀の地には光を放つ魔物住み着いた」として「朝廷」の名で不比等らが先住民を追い出し、テリトリーを乗っ取ったのを、「天暦年間、この地に妖怪さるとらへびが住み付き、村人に危害を加えている」としてこの地に使わされた「藤原高光」が、「朝廷」の名で先住民の祭祀に戻した、ということになるような・・・それで「古今伝授」に「鵺」があるのかも?
(那比新宮神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E6%AF%94%E6%96%B0%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(日本の源流を解く:http://www.syakusyorin.com/rokusyameguri.html)

だとすると、大三島での「移転先(現在の社地)には人々に悪さをする「大蛇」がいたと書かれ、それを鎮めるために「南山」(現在の安神山)頂上に「五龍王」をまつった」とされているのと同じような感じかと・・・。

2011.01.10(Mon.)

思うに、風琳堂さんのブログにあった「大蛇=蛇神を龍~に昇格させてまつることで、龍~の荒魂=悪神(大蛇)を鎮めた」のが基本なのかも、と。

何度か書いてきたように、田村麻呂による東国の平定とか、神武東征に伴う乱とか、本当にあったことなのかどうかに疑問を持っていて、「跋扈する怨霊」という古本を半分ほど読んで、やはりそうじゃないかと思ったわけで。

平安時代には「怨霊」として恐れられるほどのパワーを持たせ、のちに手厚く祀ることによって「荒魂」とされていた時と同じパワーをもって「和魂」となると民衆には捉えられていたのかもしれないが、道真など、怨霊とされた人々がそれほどまでに憎しみを持っていたかに疑問があり、本人よりもまわりにいた人々が、陥れられた状況を受け入れざるを得ず耐えているのを見かね、「身が裂かれる思い」が語り継がれたのでは。

ただ、そこには受け入れざるを得なかった状況や、本人の意思はあまり反映されていなかったのかもしれないように思われるが・・・。

「記紀」が「正史」とされるなら、そこには描かれていない無実の罪で敗者とされてしまった側の「事実」を、「記紀」の手法を用いて流布させ、パワーアップさせたのが「怨霊」なのでは、と。

田村麻呂が主に「征伐」した敵とされてきたようだが、そのようにならないようにバランスをとったのが、「怨霊」を熟知していた(怨霊として成長させた?)安倍氏や賀茂氏などの「陰陽師」ではないかと。

だが、そのカラクリがバレたか逆に利用されたかによって「陰陽師」の力が削がれたのち、自ら生きる「怨霊」となったのが「源頼朝」ではないかと考えられ、鎌倉などで行基の足跡と重なるのは「行基プロジェクト」の存在を知っていて、その背後にいた氏族のバックアップを得ることによって鎌倉幕府を築くことができたのではないか、と。

頼朝の父・義朝は「東国への逃避行」の途中で「家人(藤原秀郷流首藤氏の一族の鎌田政清の舅・長田忠致)に裏切られ謀殺された」ようだが、頼朝は「東国への逃避行」した理由もわかっていただろうし、「家人に裏切られ謀殺された」というのも、「(長田忠致の)子孫は武田氏を頼って甲斐国へ逃げたという説」があるということから事実関係が不明で、背後で動く影が見えるようで。
(源義朝:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%9C%9D)
(長田忠致:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%94%B0%E5%BF%A0%E8%87%B4)

和田岬などでの清盛の足跡を見ていると、義朝が「東国への逃避行」で行き着く予定だった氏族の祀る「瀬織津姫」について知っていたと思われ、戦国時代での河野氏と長宗我部氏や武田氏と上杉氏などのように、信仰を超えた敵対関係が生じた背景が気になるが・・・あ、将門と秀郷も同様かと。

横道にそれてしまったが、「跋扈する怨霊」という本に「頼朝が死者の霊魂に敏感で、その供養に心を配っていたことがうかがえよう。」(p113)とあったが、その前のページに「鶴岡八幡宮が怨霊鎮魂という面も引き続き持っていたことを意味していよう。」とあるように「八幡宮」が関与していると思われることや、「平家物語」で「安徳天皇以下が龍神の眷属になった」ことを建礼門院が夢に見たということについて、「龍宮とは、天皇によって支配されている現世を、見えない力によって操るもう一つの世界であると認識されていたことがわかる。」(p106)とのことなどから、「龍宮」に繋がる「東国」の氏族が見えてくるようで、その人々が頼朝の背後にいた、ということでは、と。

すなわち「怨霊」とは、「古代からのネットワーク」を持つ海人族であり、「行基プロジェクト」を支えた氏族であり、九州では「熊襲」「隼人」と呼ばれ、東国では「蝦夷」と呼ばれた「朝敵」とされた氏族なのでは。

そうした過去を見てきて、自ら「怨霊」にもなり「善神」とさせたのが「家康」かと。

2011.01.11(Tue.)

「玖珠」「楠」「九頭」「葛」など、繋がりがあるのではないかと思っていたので、神奈備さんの「青草談話室」での、「大刀脇神社」の御神体の左脇が「九頭大明神」で「水神」の「女神」とあるのは興味深いですね。
(5830・九頭大明神は女神:http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/aokbbs.cgi)
(女神の九頭神:http://6314.teacup.com/kamnavi/bbs/)

あ、2009.11.28分での「曽根国津神社」の「国津」や、「国栖」「国巣」「国樔」なども繋がるかと。
(「国栖」「国巣」「国樔」:http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/61449/m0u/)
(二田国津神社:http://mononobe.nobody.jp/tabi/sone/sone.htm)
(桜井市・国津神社:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/nara/sakuraisi/kunitu/kunitu.html)
(壱岐市・国津神社:http://www.genbu.net/data/iki/kunitu_title.htm)
(高松市・国津神社:http://kagawa.bine.jp/jinnjya/kounan/17kuni/17kuni.html)
(名張市・国津神社:http://hitozato-kyoboku.com/kunitsujinja-sugi.html)
(岡山市・国津神社:http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01028)
(有田郡・国津神社:http://kamnavi.jp/ki/nanki/kunitu.htm)
(松山市・国津比古命神社:http://mononobe.nobody.jp/tabi/kazahaya/kunitu-kusitama.htm)
(松山市・国津比古命神社:http://www.genbu.net/data/iyo/kunitu_title.htm)
(紀の川市・海神社(国津姫命):http://www.genbu.net/data/kii/umi2_title.htm)
(防府市・国津姫神社:http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-1tousen4.html)
(謡蹟めぐり 国栖:http://www.harusan1925.net/0107.html)


かつての覚え書きを含め、行基絡みの頼朝の足跡をまとめて書いておくことにします。かつて調べた中では、いくつかURLがなくなっているサイトがあったので、別のサイトを探してリンクをはっており、引用させていただいた箇所の間違い等も修正しております。

- 2004/03/29分の「義経」「頼朝」と行基に関する覚え書きと「神奈川」での「頼朝」と行基に関する事柄 -

■竜護山 満福寺(腰越満福寺) 鎌倉市腰越
744(天平16)年に行基が開いたといわれる古刹で、源義経が”腰越状”を書いた寺として名高いお寺です。

杉本寺 鎌倉市二階堂
734年(天平6年)行基が十一面観音を安置して創建したのに始まると伝えられる。1189年(文治5年)堂宇が焼失しているが、このとき観音像は自ら本堂から出て、境内に避難したと伝えられる。その後、1191年(建久2年)には源頼朝がこの寺を再興したという。

■瑞応山 弘明寺 横浜市南区弘明寺
(開基:行基菩薩)『吾妻鏡』によれば鎌倉時代は源家累代の祈願所として、現世安隠の利益を存分に武将たちに与えてきたようだ。源頼朝は僧行基を尊崇していたので、この寺を坂東札所の中に入れたとも考えられる。

日向薬師 伊勢原市日向
寺伝では霊亀2年(716年)、行基の開山という。(中略)鎌倉時代の史書『吾妻鏡』にも日向薬師にかかわる記事が見られる。建久3年(1192年)8月9日条には、源頼朝の妻・北条政子の安産祈願のために読経をさせた寺院の1つとして霊山寺の名が見える(この時生まれた子が後の源実朝)。また、建久5年(1194年)8月8日条には、源頼朝が娘の大姫の病平癒祈願のため自ら「日向山」へ参詣したとの記載がある。

長谷寺(飯山観音) 厚木市飯山
725年(神亀2年)に行基によって開かれたとも、810〜824年の弘仁年間に弘法大師(空海)よって開かれたとも伝えられている。また、源頼朝が秋田城介義景(安達盛長の子)に命じて堂宇を造営させたのが、この寺のはじまりとも伝えられている(麓の金剛寺に盛長の墓と伝えられている五輪塔がある。)。本尊は十一面観音で、行基がクスノキで造ったという尊像が胎内に納められているという。

龍蔵神社 厚木市飯山
725年(神亀2年)、行基により勧請されたと伝えられる。1180年(治承4年)、源頼朝の願により、神祗官(白河殿)奉幣の相模国六十一社に入る。1591年(天正19年)には、徳川家康から社領2石の朱印状を賜っている。最近まで、白龍伝説(飯山の七不思議)の白山神社が合祀されていた。御祭神:級長津彦命、級長戸辺命

白山神社 厚木市飯山
社殿の前には、池(白山池)があって、古くから雨乞いの霊地とされてきた。飯山観音(長谷寺)を開いたとされる行基は、この山を登り、霊水が湧き出している池を発見し、加賀国白山妙理大権現を勧請したと伝えられている。そして、クスノキで彫られた十一面観音が祀られたという。この十一面観音が現在の飯山観音(長谷寺)の本尊といわれている。明治初年頃に火災に遭い、龍蔵神社に合祀されていたが、昭和55年に現在の社が再建されている。

星谷寺 座間市入谷
聖武天皇の御宇行基菩薩が諸国教化の際絢爛たる金光星の如く山谷に輝くのを見、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営みました。花山法皇が関東巡幸の際この霊場に立ち寄られ以後世を挙げ名所旧跡と唄導し、坂東三十三ヶ所の第八番として巡拝者が日毎に多くなりました。源頼朝公の信仰篤く徳川家康公からも帰依を受けました。

■奈良平安期の鎌倉 古代鎌倉の群落と道:http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_11.html

- その他「頼朝」と行基に関する事柄 -

■東大寺・歴史年表 奈良県奈良市雑司町
1185年、源頼朝、重源に米1万石・砂金千両・上絹千疋を送り再興を助成、1190年、源頼朝、密かに四天王寺・東大寺に参詣、1195年、源頼朝、馬千頭・米1万石・黄金千両・絹千疋等を重ねて寄進、大仏殿落慶供養いて臨む。

六椹山 宗福院 山形市山形市鉄砲町1−2−20
創建は行基とされている。貞観二年(860年)に慈覚大師が当地を訪れ、六本のクヌギの木を植栽して(源頼朝がクヌギを植えたとの説もある)現在と未来の二世安楽を祈り入魂したことから「六椹」と命名したとあります。御本尊は行基作といわれる聖観世音菩薩と勢至菩薩の二体。(秘仏)

作並温泉 仙台市青葉区
約1280年前に行基が発見した説、約810年前に源頼朝が発見したという説がある。

■草津温泉 群馬県吾妻郡草津町
5世紀ごろ、日本武尊が東征の折に発見したという説、養老5(721)年に行基が薬師堂(現在の光泉寺内)を開基した際に開湯したという説、建久4年(1193)8月、源頼朝が浅間山での巻狩りを行なった際に立ち寄って発見したとする説がある。

■新座民話(千体地蔵さま) 埼玉県新座市
坂上田村麻呂、行基、頼朝と「地蔵菩薩」との繋がりが物語となっている。

■甲州ぶどう発生の伝説 山梨県甲州市勝沼
文治2年(1186年)上岩崎の住人、雨宮勘解由が石尊祭への参列の途中で発見・栽培し、頼朝が長野の善光寺に参詣の際、そのぶどうを三箇ご献上、その後、雨宮勘解由の子孫の雨宮織部正は領主武田信玄へぶどうを献上したという「雨宮勘解由伝説」と、養老2年(718年)に行基が甲州市勝沼の地で霊夢を見て、ケヤキの大樹を切って薬師如来の御姿を刻んで大善寺に安置したという「大善寺説」がある。

■加子母大杉地蔵尊 岐阜県中津川市加子母(旧恵那郡加子母村)
源頼朝が、建久五年(1194)に西方三百メートルにあった地蔵堂に立ち、この大杉を指してこの大木の下に地蔵尊を安置するよう告げたといわれるもので、延命長寿、安産の守として信仰を集める本尊は行基の作といわれる木彫り像である。

■高倉山真野寺(真野大黒天) 千葉県南房総市(旧安房郡)丸山町
神亀二年 (725年)に、高僧・行基菩薩によって本寺は開山しま した。(中略)治承三年には,源頼朝公が源氏再興の祈願のために立ち 寄り、また、後には里見義尭公により領田を賜り、徳川将 軍家からは、御朱印四十三石を賜って隆盛を極めました。御本尊:千手観音。
(行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院)

日本寺 千葉県安房郡鋸南町
聖武天皇の勅詔と、光明皇后のお言葉を受けた行基菩薩によって神亀2年(725年)6月8日に開山されました。開山当初法相宗に属し、天台宗、真言宗を経て徳川三代将軍家光公の治世の時に曹洞禅宗となり、今日に至っております。(中略)源頼朝は石橋山の戦いに敗れた後、房州に逃れ再起を図った折に日本寺で武運を祈願し、自ら蘇鉄を手植えし、現在も大蘇鉄として境内に残っております。頼朝は鎌倉幕府を開くとすぐに荒廃していた日本寺の全山修工に力を尽くし、養和元年(1181年) 薬師本殿を再建しました。頼朝により全山修工された日本寺は、その後、鎌倉幕府後期から南北朝時代にかけての続く戦火により再び荒廃しますが、足利尊氏により再び復興されます。御本尊は薬師瑠璃光如来。

■千葉寺 千葉県千葉市中央区千葉寺町
千葉郡池田郷を訪れた行基が、和銅2(709)年、観音像二対を彫って同地に安置。建久3(1192)年、頼朝は常胤に命じて千葉寺再建の土木工事をはじめ、落成の典を行い、仏師運慶作の愛染明王像を寄進。天正19(1591)年、徳川家康が伽藍を再建、寺領として百石を永代寄進した。
(行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院)

■真ケ谷太子堂 千葉県市原市真ケ谷
元箱根権現の別当・源海阿閣梨による「真ヶ谷太子堂縁起」によると、行基、聖徳太子、頼朝の繋がりが書かれているようで、頼朝の詠んだとされる歌「源はおなじ流れぞ石清水 せきあけこたへ かみのうへまで」には、「淵の明神さま」の水の流れは頼朝の信奉する八幡大菩薩と源は同じであるから、関をあけて自分の望みにこたえて石上の神々に参詣できるようにしてください(石清水八幡宮は,都の裏鬼門を守護する神である。つまり,上京して天下を取らせてください,ということ)という意味を含んでいる、とされている。

■那古寺 千葉県館山市那古
開基は行基。中興の祖は慈覚大師。源頼朝、足利・里見・徳川氏より庇護(ひご)を受け、鶴谷八幡宮の別当寺でもあったが、明治維新で寺領は没収された。(中略)千手観音菩薩の由緒は、養老元(717)年元正天皇の病気平癒のため、行基が海中より上げた異木で千手観音像を彫り、祈祷により快癒されたことによる。御本尊は千手観世音菩薩、坂東三十三番観音札所の結願寺。

最勝寺 栃木県足利市
本尊は一寸八分五・四センチの純金製で、聖徳太子の作と伝えられています(非公開)。行基上人 作と言われる、七尺二寸(二メートル十八センチ)の毘沙門天が胎内仏として納められています(非公開)。(中略)源頼朝の奥州征伐の際にも戦勝祈願を行っていますが、これは頼義、義家の故事に習ったのだと思われます。

願成就院 静岡県伊豆の国市(旧田方郡韮山町)
行基の開創と伝える。再興は文治5年(1189)、開基は北条時政。源頼朝が、時政に命じて北条氏繁栄と奥州藤原氏征伐を祈り再興させたもの。

普門寺 愛知県豊橋市雲谷町ナベ山下7
創建年代については不詳であるが、『三州船形山普門寺略縁起』によれば、奈良時代の僧行基(668-749)によって神亀4年(727年)に創建されたとされる。嘉応年間(1169年 -1171年)に天台宗の僧が真言宗寺院になっていた当山で主導権をとろうとして武力衝突し兵火にあって焼失したと伝えられ、その後源頼朝によって復興されたとされる(梶原景季を通じて寺領を寄進すると共に頼朝自身も参詣)。頼朝の命令で、文覚も当山において祈祷をしている。

■赤岩寺 愛知県豊橋市多米町赤岩山
行基が神亀3年(726)に開基したと伝えられ、その後、空海 の高弟果隣が天安元年(857)に再興したといわれている。源頼朝が、三河の名刹7寺を選んで堂宇を造営した、三河七海堂の一つでもある。
(行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院)

■財賀寺 愛知県豊川市財賀町観音山
聖武天皇の勅願により神亀2年(725)僧行基により建立された道場で、その当時は七堂伽藍があり、山内外に数百の院坊を備えた寺院だった。その後、第52代嵯峨天皇の弘仁4年 (813)真言宗祖弘法大師の中興にかかり一層の荘厳を増し、第82代後鳥羽天皇の建久3年 (1192年)源頼朝が、本堂ならびに仁王門を再建して、三河七御堂 の一つに数えられるようになったが、応仁年中 (1468年頃)兵火にかかり、わずか20余院を残すのみとなった。

■全福寺跡 愛知県蒲郡市相楽町
全福寺は聖武帝の神亀年中、行基が十一面観音を刻み、これを祀ったのが起源という。その後、源頼朝 が三河の守護安達藤九郎盛長に命じて堂塔を建立させて三河七御堂の一つとして栄え、12僧院を備えた大規模な寺院で、天台宗に属する台密の修行道場でもあった。

■大光山 安楽寺 愛知県常滑市苅屋字深田
当寺が位置する苅屋地区は、源頼朝主従が一夜を過ごした仮の宿が地名のもとと言われる。本尊は行基菩薩の作と伝えられ、1537年織田、今川の戦火から守るため第61番高讃寺から移された。1845年に本尊(阿弥陀如来)が再建。

■西林山 浄土寺 愛媛県松山市鷹子町1198
寺伝によれば天平年間(729〜748)に恵明上人が開創され、本尊、釈迦如来は行基菩薩の作と伝承されている。その後、弘法大師がこの地を巡錫され伽藍を再興され四国霊場に定められた。津久3年(1192)には源頼朝が家門の繁栄を祈り堂塔の修理に力を注ぎ、六十六坊、末地7等を有す大寺として栄えていたが応永年間の兵火で焼失。文明14年(1781)には領主、河野道宜によって再建された。四国八十八か所霊場第四十九番、伊予十三仏霊場第二番。
(行基菩薩千二百五十年御遠忌記念誌「行基菩薩」記載の行基ゆかりの寺院)

- 「頼朝」と「古代からのネットワーク」に関連すると思われる事柄 -

能「七騎落」 

品川神社 東京都品川区北品川三丁目
文治3年(1187年)源頼朝が安房国の洲崎神社から天比理乃当スを勧請して祀ったのに始まると伝えられる。

洲崎神社(本地垂迹資料便覧) 千葉県館山市洲崎
君塚文雄「安房の山岳信仰」に、「洲ノ崎明神には宝暦三年(1753)の「洲ノ崎大明神由緒旧記」と、万治二年(1659)別当吉祥院有元によって記された「房州安房郡洲崎大明神縁起」及び成立年代不詳の「洲ノ崎大明神縁起」とがある。この中の万治縁起によると、元正天皇養老元年(717)九月天比理乃当スを勧請し奉ったこと、天平十二年六月(740)行基菩薩がこの明神に参詣して一尺五寸の十一面観音像を彫刻し本地仏とした垂迹明神鎮座の年号に基づく養老寺の名称の由来や役ノ行者の大蛇退治の伝説を記し、また鎌倉時代には吉祥院・養老寺・岩本坊・中之坊・入之坊等七別当寺をもつ勢いであったこと、その後に洲崎明神の功徳・利生が記されている。」とあるらしい。

■洲崎神社(玄松子さんのサイト)(延喜式神社の調査さんのサイト)(ぶらり寺社めぐりさんのサイト) 千葉県館山市洲崎1697

(ウィキペディアより)
主祭神「天比理刀当ス」は安房神社祭神天太玉命の后神で元の名を洲ノ神(すさきのかみ)と称した。

(中略)

慶長2年(1597年)の著とされる『金丸家累代鑑』に「安房郡洲宮村魚尾山に鎮座する洲宮后神社は、後に洲宮明神と称し、それを奥殿とし二ノ宮と曰う。また、洲崎村手洗山に洲崎明神あり、これを拝殿とし、一宮と曰う」とあることから、『中世諸国一宮制の基礎的研究』では当社と洲宮神社は「洲の神」を祀る2社一体の神社で、当社が「洲の神」を祀る一宮、洲宮神社が「洲の神」を祀る二宮とされたのではないかと考察している。

(中略)

大同2年(807年)の『古語拾遺』によれば、神武天皇元年(紀元前660年)に神武天皇の命を受けた天富命が肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸し、そこを開拓した後、さらに肥沃な土地を求めて阿波忌部氏の一部を率い房総半島に上陸したとされている。宝暦3年(1753年)に成立した当社の社伝『洲崎大明神由緒旧記』によれば、神武天皇の治世、天富命が祖母神の天比理乃当スが持っていた鏡を神体として、美多良洲山(御手洗山)に祀ったのが当社の始まりであるという。

また、『安房忌部家系之図』や『斎部宿禰本系帳』には、天富命15代目の子孫である佐賀斯の第2子・色弗が初めて祖神天太玉命の后神を祀ったとの記述がある。『安房忌部家系之図』や『斎部宿禰本系帳』では色弗の兄の第4子・加奈万呂が安房神社第22代祠官として勝義と改名し、勝浦崎(洲崎)に仮宮を作って天比理刀当スを祀ったとしており、『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』では色弗が初めて祀った斎場は大和国で、加奈万呂が勝浦崎(洲崎)に仮宮を作った養老4年(720年)7月が当社の創始とされている、との説を紹介している。

当社の社伝によれば、養老元年(717年)大地変のため境内の鐘ヶ池が埋まり、地底の鐘を守っていた大蛇が災いしたので役小角が7日7夜の祈祷を行い、明神のご神託により大蛇を退治して災厄を除いたのだと言う。また、役小角が海上安全のため浜鳥居前の海岸と横須賀に御神石を1つずつ置いたなど、当社には修験道の開祖である役小角にまつわる伝承が多くあり、『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』では当社が古くから神仏習合思想や修験道の影響を強く受けていたことを物語っていると述べている。

(中略)

治承4年(1180年)8月、源頼朝は石橋山の合戦に敗れ海路で安房国へ逃れた。『吾妻鏡』治承4年(1180年)9月5日の条によれば、安房に逃れた源頼朝は上総介及び千葉介へ参上を要請する使者を送り、当社へ参拝して使者が交渉を成功させて無事帰還した場合には神田を寄進するとの御願書を奉じている。この使者は無事に役目を果たし、同年9月12日の条では当社に神田が寄進された。また、寿永元年(1182年)8月11日の条では、頼朝の妻政子の安産祈願のため、安房国の豪族である安西三郎景益が奉幣使として当社へ派遣されたことが記されている。以降も関東武家の崇敬を受けた。

「天比理乃当ス」については2008.11.08分などで少し調べていて、「阿波忌部氏参考系図」によると「天背男命」の子で「天日鷲命」の妹のようで、2008.11.10分では「天比理乃当スは登美夜須毘売?」と書いていて・・・。
(忌部氏:http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/south/s_inbe.html)

詳細はわからなかったが、忌部氏によって「美多良洲山(御手洗山)」に祀られたこと、「当社と洲宮神社は「洲の神」を祀る2社一体の神社」とされていることから、「瀬織津姫」ではないかと思われるが・・・。

「洲宮神社」も主祭神が「天比理刀当ス」で、相殿神として「天鈿女命 」「天冨命」が祀られているようで、「洲崎神社」は合祀されている「天太玉命」が主祭神だった可能性も考えられるが、「洲宮神社伝記」によると「始め明神山の洲の辺に鎮座していたが、後に魚尾山へ遷座。」し、文永10年(1273年)の社殿の焼失で仮宮に鎮座、永享11年(1439年)現在地へ遷座、とのことで、その間に御祭神が入れ替わった可能性もあるような。
(洲宮神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%B2%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(洲宮神社:http://www.genbu.net/data/awa/sunomiya_title.htm)
(洲宮神社:http://www.geocities.jp/engisiki02/awa1/bun/awa180102-02.html)

で、岐阜の「加子母大杉地蔵尊」と愛知の「普門寺」で、2009.05.03分で「西行」絡みで出てきた「文覚」の名があり、頼朝との繋がりの深い人物のようで。

文覚
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高尾の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。

摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19才で出家した。

京都高尾山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。
のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。
また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護する。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%A6%9A)

「源平盛衰記」は、「文覚」の出家の原因は、「従兄弟で同僚の渡辺渡の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことにあるとする」とあるようだが、2009.05.06分などで「明恵」にも「横恋慕」説があったことなどから推測したように、「文覚」の「横恋慕」説も、「明恵」と繋がりがあった「西行」が詠んだ女性(女神)と共通するのではないか、と。

「頓阿」が著した歌論書「井蛙抄」によれば、「文覚」は「西行」を憎んでいたとの噂があった、とのことだが、2009.05.03分で少し書いたように、「先入観によって何かを隠そうとしている」ことによるもの、あるいは「頓阿」がその2人に注目するように仕向けたのではないかと思われて。

「頓阿」は「文覚」も「西行」もよく知っている人物として「井蛙抄」で書いたと思われ、2010.02.10分に書いたように「頓阿」は「二条為世」から「古今伝授」を受けており、「文覚」「西行」と「古今伝授」の関連を想像させようと、印象的に書いたのではないか、と。

「文覚」(渡辺党)の孫弟子に「明恵」(湯浅党)がいることなど、「武士団」の繋がりのウラに共通する信仰があるのかも、と思えることからも、「西行」が詠んだ女性(女神)と繋がるのではないかと・・・。
(党的武士団:http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_38_55.html)
(「武士団」の結合:http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_38_50.html)

以上のように、「源頼朝」が行基を「尊崇していた」根底には「瀬織津姫」への信仰があり、忌部氏をはじめ、「瀬織津姫」を尊崇していた氏族からのバックアップを得ていたので、「供養に心を配っていた」のではないかと思われるわけで。

2011.01.12(Wed.)

「頼朝」と「怨霊」について書くにあたり、繋がりの見える「文覚」「西行」に加え、「怨霊」についてが書かれているという「愚管抄」の著者「慈円」についても調べなきゃいけないなぁ、と。
(愚管抄:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E7%AE%A1%E6%8A%84)
(慈円:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%86%86)
(慈円 千人万首http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jien.html)
(源頼朝 千人万首:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yoritomo.html)
(CiNii 論文-西行と慈円(PDF):http://ci.nii.ac.jp/naid/110006607648)
(西行の京師vol.18:http://sanka05.web.infoseek.co.jp/sankasyu4/218.html)
(西行の京師vol.39:http://sanka05.web.infoseek.co.jp/sankasyu4/239.html)
(夢枕獏の描く西行:http://59155480.at.webry.info/200801/article_4.html)
(比叡山無動寺:http://hattoris2.sakura.ne.jp/himudouji991107.htm)

西行の人間関係は興味深いですね。

上記の分を検索している間に、さらに調べることが出てきたので、今日はURLを書くだけになってしまってすみません。

2011.01.13(Yhu.)

うーん、またもや同じ謎にぶち当たったようで。

2010.02.09分で「定家、俊成、家隆、宗祗、能因法師などの歌碑もあり、なのに芭蕉のはないのかなと思っていたら、通り過ぎただけだったような・・・伝承する人々がいたから、自ら歌に残す必要はないと思われたのかなぁ、と。」と、なぜ芭蕉が伊丹で詠まなかったのかが気になっていたが、「俊成・西行・慈円がそれぞれ「堀兼」を主題にした和歌を残している。」という「堀兼の井」にも寄っていないようだし、同じく西行・寂蓮・頼朝・慈円らが歌を詠んでいる多賀城の「壺の碑」でも、「疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落るばかり也」と、詠んでいないようなのが気になる。
(堀兼の井:http://hattoris2.sakura.ne.jp/noheirinji06120801.htm)
(三富再訪記:http://www.olff.net/ina13/news/siseki/santome2.htm)
(日本武尊謡蹟2:http://www.harusan1925.net/0105.html)
(歌語り風土記・堀兼の井:http://nire.main.jp/rouman/fudoki/14sait29.htm)
(堀兼神社:http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/kakuchi/sayama01/horikane2.html)
(宮城県内の芭蕉の足跡:http://yanagi879.donburako.com/drive.utamakura.html)

「多賀城碑」(壺の碑)も、暗号「山上憶良」さんのサイトの「多胡碑」のように、「古代の地図と測量に関わる暗号」が隠れされていて、西行たちの歌によってそれがわかるから芭蕉は詠まなかったのか、それとも他の理由からなのか・・・。
(多胡碑との出会い:http://www.geocities.jp/yasuko8787/6-nakasone.htm)

「壺の碑」、「末の松山」のあとに訪れた、「源義経に仕え戦死した忠衡が、文治3年(1187)に寄進した」という「文治燈籠」のある宮城の「鹽竈神社」や「松島」でも、芭蕉は詠んでいないようで・・・。
(芭蕉道:http://bashomichi.com/meisyouchi100/miyagi/)

宮城県の「多賀城碑」、群馬県の「多胡碑」とともに「日本三古碑」とされる「那須野国造碑」の近くには、「兄頼朝の力になろうと、鎌倉に馳せ参じたものの、結局はその兄に追われる身となった時もこの街道を辿った。」という「義経街道」があるようで、そこでは西行も芭蕉も歌を詠んでいるようだが・・・。
(芦野温泉ふらり旅:http://www.basho.jp/cafe/zuihitsu/zuihitsu_06.html)
(謡蹟めぐり「西行桜1」:http://www.harusan1925.net/0130.html)

「多胡碑」と「芭蕉」を繋ぐ事柄は検索では出なかった・・・義仲が「義賢が居住していた上野国多胡郡(現群馬県多野郡)」を出生地とする説や、群馬には義経にまつわる話が多いようだが・・・。
(源義仲:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E4%BB%B2)

ちと気になったのが、上野国の板鼻(現在の群馬県安中市)で義経が出会ったという「伊勢三郎義盛」が「渡会氏」とされているようだが、他のサイトを拝見していると、忍者?兵法道歌「義盛百首」の著者?海賊?と首をかしげた。
(伊勢三郎義盛は山賊ではない!!:http://blog.goo.ne.jp/yositune1189/e/1abcb8b6670857bd27d0f08ee433a990)
(伊勢義盛:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%BE%A9%E7%9B%9B)
(有名な忍者の名前の巻:http://sites.google.com/site/mgoshinobiclan/yuumei-na-ninja-no-namae-no)
(忍歌の来歴:http://ci.nii.ac.jp/naid/110000376090)
(大河便乗シリーズ:http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/4823/U-dia/sanpo4.html)

兵法と歌といえば、2010.05.19分の「百人一首」は「六十四卦」と「兵法三十六計」に共通性を持つ歌によって構成されているという、小林耕氏の「新百人一句と真実の百人一首」のような感じなのかな?詳細はわからなかったけど・・・。

で、義仲が「諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。」ことや、義経が「鞍馬寺」にいたとされることなど、「古代からのネットワーク」に深く関与していたと思われるのだが、そのあたりを調べよ、という芭蕉からのメッセージなのか、と。
(文藝散歩・源義経:http://www51.tok2.com/home/sendatakayuki/bungei/bungei17.html)

「CiNii 論文-西行と慈円(PDF)」を拝見し、そこに書かれている歌にも何かありそうな感じがしたが、私にはよくわからなくて・・・たとえば西行が「無動寺」で詠んだとされる「にほ照るや凪ぎたる朝に見わたせば漕ぎゆく跡の波だにもなし」が、「沙弥満誓」の「世の中を何に譬へむ朝開き漕ぎ去にし船の跡なきごとし」を本歌にしているとあるが、「暗号 山上憶良」さんの「沙弥満誓の歌の作為」との関連も感じられるようでありながら、やはりそれ以上はわからなくて・・・。
(沙弥満誓の歌の作為:http://www.geocities.jp/yasuko8787/0x-t6.htm)
(沙弥満誓 千人万首:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/manzei.html)

「木曾人は海のいかりをしずめかねて死出の山にも入りにけるかな」という歌も載っていたが、西行が芭蕉のように義仲を好きだったのか否かもよくわからないし・・・。
(芭蕉のうちなる西行:http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/saigyo3/n032_1.html)
(西行が死に行く義仲に捧げた歌四首:http://www.st.rim.or.jp/~success/kisoY_ye.html)

折口氏は何か気づいておられたのだろうか・・・。
(折口信夫 短歌本質成立の時代 万葉集以後の歌風の見わたし:http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46955_26851.html)


ということで、芭蕉を含めて歌に関する事柄については一旦置いておくとして、もう少し「慈円」に関する検索をしたところ、「慈円」と親しかったという「葉室中納言顕隆の孫、顕能の子」で「天台座主をつとめた権僧正顕真の弟」という「観性上人」(観性法橋)に招かれ、「十一世紀の前半に源算上人がこの地に小堂を建て、自作の十一面千手観音をまつられたのに始まります。」という「善峯寺」の中尾蓮華寿院に住んで行法をおこなわれ」たそうで、「吾妻鏡」によると「観性上人」は源頼朝が建立した「鶴岡八幡宮」の大塔で供養の導師を務めた、とのことで。
(善峯寺の歴史:http://www.yoshiminedera.com/rekishi.htm)
(善峯寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%B3%AF%E5%AF%BA)
(西国33ケ所 第20番善峰寺:http://www.geocities.jp/koji_jyunrei/saigoku16.htm)
(観性上人:http://kotobank.jp/word/%E8%A6%B3%E6%80%A7)

「観性上人」の祖父「藤原顕隆」は「藤原北家高藤流(勧修寺流)」で、兄の「顕真」は「重源」らと繋がるようで、西京区大原野の「三鈷寺」は「往生院と号する草庵に始まる」とされ、1161年(応保元年)観性から慈円に譲られた後、証空が入寺して現在の寺号に改められた」とのことで、「証空」というと2009.04.01分で「とはずがたり」の「不動明王」に関連して出てきてて、それには「晴明」も絡んでいるようで。
(藤原顕隆:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A1%95%E9%9A%86)
(顕真:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E7%9C%9F)
(三鈷寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%88%B7%E5%AF%BA)
(三鈷寺:http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/4341199.html)
(証空:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%BC%E7%A9%BA)
(清浄華院・泣不動絵巻:http://jozan.jp/index.php?nakifudou)

「三鈷寺」に関するブログによると、近くに「阿智坂明神社」があるようだが詳細はわからず、「阿智」というと秦氏のテリトリーと思われる池田市の「伊居太神社」の境内社「猪名津彦神社」の御祭神「阿知使主」(下坂神)を思い出し、「源算上人」が「恵心僧都」の高弟ということで、2009.08.05分などでの「恵心僧都」と行基の繋がりらしきものを思い出し、やはり「古代からのネットワーク」の繋がりが見えそうで。
(穴織宮伊居神社:http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto/ayahaikeda.htm)
(讃岐の郡司:http://tokyo.atso-net.jp/pukiwikip/index.php?%BB%BE%B4%F4%A4%CE%B7%B4%BB%CA)
(源算上人:http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/reikenki/saigoku/gendai20.html)
(専念寺:http://www.kadode.com/sennenjiseizan.htm)
(杉本寺:http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page042sugimoto.htm)
(極楽寺:http://www.h3.dion.ne.jp/~m.oku/garan02.html)
(本願寺:http://blogs.yahoo.co.jp/gonngennsann629/50135218.html)
(萩の寺:http://www.haginotera.jp/tre003.html)
(仏法寺:http://www33.ocn.ne.jp/~kotaro_mil/iyosumi/towninfo/kawanoe.htm)
(善願寺:http://tempsera.at.webry.info/201003/article_17.html)
(おんばさま:http://blog.livedoor.jp/mono130/archives/50322801.html)

10日に「跋扈する怨霊」から、「平家物語」で「安徳天皇以下が龍神の眷属になった」ことを建礼門院が夢に見たということについて引用させていただいたが、「慈円」による「愚管抄」でも「清盛」が龍となって地震を起こしていると書かれていることなどから、「地震は龍神の仕業であると理解されていたのである」(p106)とされており、「天皇が支配する現世を左右する存在として、龍神は怨霊と結びつくのである。」(p107)ともされていて。

慈円が「不可思議」なことについて、「八幡大菩薩の御はからいによるもの」か、「天狗・地狗の仕業」か、「怨霊によるもの」かを、はっきりさせる必要がある、と書いていたようだが(p7)、それらの線引きには「古代からのネットワーク」の「掟」のようなものが存在したのではないかと思われるわけで。

2011.01.14(Fri.)

やっぱり芭蕉が気になる・・・「栃木」で詠まれた歌で、まず「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」が気になったが、その歌に関する説明にあった「殺生石」「玉藻の前」が気になって、リンクがあったのでそこを拝見すると、実朝の歌「もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原」が。
(奥の細道・殺生石:http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno064.htm)
(奥の細道・那須八幡:http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno061.htm)
(謡蹟めぐり・殺生石:http://www.harusan1925.net/0307.html)
(古今夢想・源実朝:http://www.geocities.jp/kokonmusou1182/siryou/03sanetomo.html)
(源実朝 千人万首:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sanetomo.html)
(源実朝:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E5%AE%9F%E6%9C%9D)
(玉藻前:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E8%97%BB%E5%89%8D)

実朝が「那須を訪れた記録はない」とのことで、芭蕉は「籠手」を「小手(姫)」として思い出し、何か言わんとしていたのかも、と、「奥の細道・那須八幡」のページにあった「玉藻稲荷神社」の住所にある「蜂巣」を見て思ったのだが、それ以上は読み取れなくて・・・神社に「鏡が池」があるというのも気になるんだが・・・芭蕉が「故意か杜撰か、固有名詞をずらしている例」があるとされており、それならば「真間の手児奈」かと思えたり・・・。
(奥の細道in栃木:http://maywind.sakura.ne.jp/okhos/krbnekistu.htm)
(玉藻稲荷神社:http://beccan.blog56.fc2.com/blog-entry-1633.html)
(手児奈霊堂から下総国分寺へ:http://members.jcom.home.ne.jp/okamoto.n/machi/chiba/simousakokubunji/simousakokubunji.html)

あと「玉藻」で思い出すのは2010.02.06分での「敏馬浦」を詠んだ歌にあったし、2010.03.12分では海草の「ホンダワラ」について、「義経が能登に逃れてきたときに、義経の馬に神馬草を食べさせたところ大変元気になったという伝説」があったことを書いていて、玉藻稲荷神社境内の句碑「秣負う人を枝折の夏野哉」も意味ありげに思えたり。
(北陸における義経伝説:http://www.geocities.jp/une_genzaburo/YoshitsuneRunningAwaysRouteInHokurikuArea.htm)
(秣負う人を枝折の夏野哉:http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/magusa.htm)

同様に、「殺生石」の伝説が句に込められているという「落ち来るや高久の宿の郭公」や、「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」にも、何かほかの意味がありそうな・・・「元気がよいが意味不明な句ではある。」とされているし、「郭公」が入っているあたりは特に。
(落ち来るや高久の宿の郭公:http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/takaku.htm)

いやはや、おもしろいサイトを見つけた・・・が、どう訳せばいいんだろ?前の歌は「高久の宿」でイっちゃった?野の横の草むらでやっちゃった?
(ホトトギス解体新書:http://www006.upp.so-net.ne.jp/k-tomohiko/hoto.htm)

「瀬見の小川で丹塗矢を拾って身籠もったとなると玉依姫は郭公に無縁ではあるまい。」と別のページにあり、玉依姫と郭公が繋がるなら、「殺生石」での2首は別の意味も持っているのかも・・・。
(清少納言の暗号1:http://www006.upp.so-net.ne.jp/k-tomohiko/seisyo1.htm)
(能・賀茂:http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_033.html)
(謡蹟めぐり・加茂:http://www.harusan1925.net/1226.html)

高久の宿に「玉依姫」が祀られていたのかもしれないし、2009.08.21分で森氏の著書に「野」のつく地は「聖地」だったのではとされていたので、聖地に馬に乗って来る神(玉依姫)を待っていたのかも・・・「横」は風琳堂さんの6日のブログに書かれていた「瀬織津姫」を表しているのかも・・・。

で、別のページに「盗作歌人実朝」とあって、実朝作は本当は後鳥羽上皇作ではないかとされていて、たとえば歌を詠んだとされる「勝長寿院」は滋賀の「長寿寺」だったのではないかとされていて、良弁の開山だが、御本尊の子安地蔵観音は行基作とされているお寺でもあるので興味深いなと。
(後鳥羽上皇の変身:http://www006.upp.so-net.ne.jp/k-tomohiko/gotoba2.htm)
(長寿寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AF%BF%E5%AF%BA_(%E6%B9%96%E5%8D%97%E5%B8%82))
(長寿寺:http://achikochitazusaete.web.fc2.com/ouminotera/choujuji/higasitera.html)

芭蕉はそれらをもちろん解っていて、それで遠回しにしつつも繋がるように詠んだから、昨日のように首をかしげる場所が出てくるのかも。

で、「後鳥羽上皇の変身」の最後の方に「定家の息子の為家が定家撰の百人秀歌を、後鳥羽・順徳上皇の歌を入れた百人一首に手直ししてしまった・・・」とあり、なるほどと思いつつ、しばらく「古典 びっくり仰天 合点」さんのサイトにハマりそうな。
(古典 びっくり仰天 合点:http://www006.upp.so-net.ne.jp/k-tomohiko/)

あ、風琳堂さんのブログが更新されてて、「大楠には大三島の水霊神が宿るという伝承があったものかもしれません。」とのことで、やはり能因も瀬織津姫について熟知していた、ということかと・・・芭蕉の「ほととぎす裏見の滝の裏表」も気になる・・・。
(大三島・入日の滝──三嶋龍~の神徳【T】:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/MYBLOG/yblog.html)
(ほととぎす裏見の滝の裏表:http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/urami.htm)


実朝作は本当は後鳥羽上皇作、の次は、順徳上皇の代役が「式子内親王」のようで、たとえば「よせかへる なみの花ずり みだれつつ しどろにうつす まののうら萩」は順徳上皇が配流地の佐渡で詠んだものである、と。
(式子内親王=順徳上皇:http://www006.upp.so-net.ne.jp/k-tomohiko/sikiko-zyunntoku1.htm)

「順徳上皇」については2010.02.06分の「敏馬浦」を愛でた歌人のひとりとして検索しており、西行とも繋がりがあることがわかり、2010.10.14分では西行も芭蕉も歌枕の「真野の萱原」を詠んでいないことについて、「石巻市の真野・萱原地区でも福島県南相馬市鹿島区の真野川流域でもない、ということを言わんとしているとか?」と昨日と同じ状況になっていて、上記のことから「順徳上皇」のおられた「真野」を示唆していたんだなぁ、と。

ただ、「みたらしや 影絶えはつる 心ちして 志賀の波路に 袖ぞぬれこし」について、「ああ御手洗川よ。影(後鳥羽)が死んでしまわれる心地がして、しか(鹿=上皇)の乗る舟の波路(涙)が、岸で見送る私の袖にまで乗り越えて、やってきました。」という解釈以外にも、「そもそも禊ぎは、聖なる御手洗川での大切な行事なのだろう。」とされていることや、「千載集」の順徳帝のものと思われる歌が賀茂氏の歌に挟まれた「さりともと 頼む心は 神さびて 久しくなりぬ 賀茂の瑞垣」(1272)ということからも、さらなるウラがありそうな感じがして・・・後鳥羽院の母方は藤原北家道隆流に繋がることにも関連があるのかも・・・。
(藤原殖子:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%AE%96%E5%AD%90)

「神山の 麓になれし あふい草 引きわかれても 年ぞへにける」について、「神山の麓で馴れ親しんだ葵草よ。別れ別れになってからもう随分年月が経ったことでした」という一般的(?)解釈の下に、サイトの方が「神山の麓で、馴れ親しんできたわが家族(葵草)よ。無理矢理(隠岐と佐渡に)離別させられてから、もう随分と年月が経ってしまっている。(われらの守護神は、一体何をしておられるのだろう。)」と書かれていて、ナットク。

謡曲の「定家」で「葛」となって内親王の墓にまとうという場面で、「内親王」の代わりに「順徳帝」とすれば、定家の執心がわかるような・・・。
(謡蹟めぐり 定家:http://www.harusan1925.net/0403.html)

で、「うぐいす」は「歩き巫女」だそうで、一般庶民は「ふさぎの虫或いは腹の虫を食べてくれる歩き巫女」を「虫食い」と呼んでいたそうで、ひょっとしたら箕面の「西江寺」の行基ゆかりとされる「虫塚」は、「歩き巫女」の前身となる人々を祀ったものなのかも・・・「西行」の歌で「うぐいす」を「歩き巫女」に置き換え、「歩き巫女の活動の限界を正確に指摘し、西行自らの仏教観、歩き巫女観を吐露した歌であると受け取れ」るとされていて、それは納得できるんだけど、そのあとの訳は別の意味を持っているように思うんだが・・・。
(鶯の媚声:http://www006.upp.so-net.ne.jp/k-tomohiko/uguisu.htm)

「何だか「もう一つの万葉集」の李寧熙(イヨンヒ)さんを真似たような訳になってしまう。」と書かれていたが、私もそう思った。(苦笑)

次に「からす」が「奥方様」だそうで、「七つの子」についての訳が書かれていたけど、かつて拝見したサイトで「からす」は「スサノオ」で、「七つの子」はスサノオの七人の子供が「虹の戦士」たちである、との解釈をされており、どちらがウラかオモテかはわからないが、1つの歌の中に様々な意味が隠されているということだろうということで、次の「千早ぶる」でも私とは解釈が異なり、私の解釈もまた他の方々と異なっているわけで。
(からすなぜ泣くの:http://www006.upp.so-net.ne.jp/k-tomohiko/karasu.htm)
(七つの子の謎:http://homepage1.nifty.com/fumio-y/tuki34.htm)
(千早ぶる:http://www006.upp.so-net.ne.jp/k-tomohiko/tihayaburu.htm)

偶然にも次に芭蕉の「殺生石」のことが出てきた・・・「野を横にしての交流で人妻さんの雁が音が聞こえる、ほととぎす(遊女)さんよ、仲間の馬(には遊女という意味もある)さんを牽き向かせて嘶(いなな)かせよ(負けるな、負けるな、雁さんに負けるな)」と訳されていた。(苦笑)
(雁そめの恋:http://www006.upp.so-net.ne.jp/k-tomohiko/kari.htm)

2011.01.15(Sat.)

昨日「玉藻の前」で検索していた時、「岡本綺堂」の書があるのを知り、作品の一部を青空文庫で読めるようだったのでその中から「能因法師」を読んでいたんだけど、これがまた面白くて。
(能因法師・岡本綺堂:http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/49536_39460.html)
(岡本綺堂:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E7%B6%BA%E5%A0%82)

同い年で同じく「帝国芸術院会員」だった「泉鏡花」との面識とかはどうなのかが気になったりする・・・同じように「古代からのネットワーク」に気づいていた人のように思えて・・・「蟹満寺縁起」に出てくる「漆間の翁」が何かを伝えようとしているようで・・・。
(日本芸術院:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%8A%B8%E8%A1%93%E9%99%A2)
(蟹満寺縁起:http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/48032_33677.html)

「蟹満寺」は秦氏と行基の接点が見られるお寺で、「漆間氏」で思い出すのが父・漆間時国、母・秦氏君とされる「法然」で、2009.12.08分では2009.08.23分での「漆部」と「漆間氏」の関連が気になって検索していて・・・「稲飯命」と火明命から5代目とされている「三見宿禰」に繋がりが見つかれば、物部氏のようなんだが・・・「法然」の生誕地が美作の久米郡だが、4日の伊予の「久味国造」との関連があるのだろうか・・・。
(法然:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%84%B6)
(蟹満寺:http://www.anraku.or.jp/jiin7.htm)
・御祭神:三見宿禰命
(物部神社(境内社・乙見神社):http://kamnavi.jp/mn/nisi/iwami.htm)
・御祭神:稲飯命
(室古神社:http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/1-4arasaka.htm)
(長生郡睦沢町北山田・三之宮神社:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/chiba/tyouseigun/sanmiya/sanmiya.html)
(徳島県名西郡神山町下分三ツ木・稲飯神社:http://goutara.blogspot.com/2010/11/blog-post.html)
(徳島県那賀郡那賀町・宇奈爲神社:http://www.genbu.net/data/awa2/unai_title.htm)
(大分市大字佐賀関神山・椎根津彦神社(早吸日女神社):http://www.hayasuihime.biz-web.jp/page444.html)
(宮崎県東諸県郡国富町・本庄稲荷神社:http://shogo33333.ninja-web.net/miyazaki-kourakuti/honjyouinarijinjya/honjyouinarijinjya.html)
(高千穂町岩戸・落立神社:http://takachiho-kanko.info/modules/info/index.php?cat_id=11&start=10)

「漆間の翁」で検索していると、「上田秋成」の「雨月物語」にある「浅茅が宿」がヒットし、主人公・勝四郎を待つ妻・宮木が詠んだとされる歌が「さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける命か」で、勝四郎が家を空けてからの宮木を知る人というのが「漆間の翁」で、勝四郎とともに宮木の供養をしたあと、土地に伝わる「真間の手児女」の伝説を話し、それを聞いて勝四郎は「いにしへの真間の手児奈をかくばかり恋てしあらん真間のてごなを」を詠んだ、というストーリーのようで、はぁ?と。
(雨月物語:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E6%9C%88%E7%89%A9%E8%AA%9E)
(浅茅が宿:http://mouryou.ifdef.jp/ugetsu/asadi-ga-yado.htm)

「雨月物語」を読んだのが随分前だから、すっかり内容を忘れてたんだけど、宮木が詠んだとされる歌は、昨日の「順徳上皇」の代役「式子内親王」が詠んだとされる歌を本歌取りしたように思えたし、唐突に語られる「真間の手児奈」についても昨日ちらっと書いてたし・・・みょ〜な偶然で。

それとも何か繋がりがある、ということなんだろうか・・・「雨月物語」の「白峯」には西行が出てくるようだし、「漆間の翁」が「麻を多く植えた畑の主」というのも気になるし、宮木が詠んだとされる歌は「敦忠集」にあるとのことで検索すると、異同歌「さりともと思ふ心にはかられて世にもけふまでいける我が身か」があるようで、「真間の手児奈」というと行基や「山部赤人」を思い出すのだが。
(敦忠集:http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_i092.html)
(藤原敦忠 千人万首:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/atutada.html)
(藤原敦忠:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%95%A6%E5%BF%A0)

岡本綺堂も、泉鏡花も、上田秋成も、折口信夫も、原拠に紛れ込ませて何を伝えたかったんだろうか・・・。


「蟹満寺縁起」を読んでて、「蛙」は1.5キロほど北にある諸兄のテリトリーにある「井手寺」を思い出し、陸には怖いものがいるのを知っているという「蛙」の叔父の「蟹」は、海も陸も熟知して武装した秦氏ということなのかなぁ、と。
(蛙塚:http://www.town.ide.kyoto.jp/50.html)
(井手の玉川:http://minami-lo.jp/member/sugiyama_6.html)

「漆間の翁」が「雨月物語」と同族だとしたら、「麻を多く植えた畑の主」で思い出すのは物部氏系になるが、ならば「蛙」を助けたかわりに娘をもらいに行って退治される「蛇」とは?と、頭からしばらく離れないような気がする・・・。

2011.01.16(Sun.)

昨夜から雪の予報のところが多く、京都競馬場は今日の重賞の前売りが発売中止になっていたが、朝になってみたら京都競馬場はさほどの積雪ではなかったのに、中山競馬場の方が積雪の影響が出て発走時刻が1時間遅れになり、障害競走が中止になっていた。

ま、それでも開催されたので良かったなと思いつつ、時期的に京都と阪神の開催を入れ替えればいいんじゃないかなと思ったりするんだが・・・。

ま、それは置いといて、PCを立ち上げたらML「西行辞典vol・157」が届いており、「年たけて又越ゆべしとおもひきや いのちなりけりさやの中山」(1963年 西行堂修築記念 川田順氏揮毫)というのを見て、中山競馬場の「中山」がふと気になった。

ウィキペディアによると、「中山の名称は町内にある中山法華経寺の山号にちなむ。」とあり、「中山法華経寺」は
(中山町:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E7%94%BA_(%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C))

日蓮はその布教活動の中で幾度と無く迫害を受けたが、その際千葉氏に仕えていた富木常忍や太田乗明は管轄していた八幡荘に日蓮を迎え入れ保護した。特に千葉氏の被官であった富木常忍は、日蓮のために若宮の自邸に法華堂を造営し安息の場を提供するとともに、文吏であったたため紙筆を提供してその執筆を助けた。当寺に多くの日蓮の遺文が遺されているのはその縁であると言われている。日蓮没後に常忍は出家し自邸の法華堂を法花寺と改め初代住持・常修院日常となり、日蓮の有力な檀越であった太田乗明の子日高は、父の屋敷を本妙寺とし2代目住持となった。そして八幡荘の領主であり旧主である千葉胤貞の帰依を受け俗別当に迎え、胤貞猶子の日祐を3代目住持とした。だが、肥前国小城郡においては胤貞の弟胤康が九州千葉氏として存続したものの、下総国では敵対関係にあった貞胤流千葉氏が台頭し、胤貞流の千田氏は衰退して当寺も危機を迎えた。そのようななか、日祐は室町幕府との関係を強めこれを乗り切り、ここを拠点とする中山門流が成立することになった。
日高以来代々の住持は本妙寺と法花寺の両寺の兼務が慣わしとなっていたが、天文14年(1545年)古河公方足利晴氏より「諸法華宗之頂上」という称号が贈られ「法華経寺」という寺名が誕生し、法花寺と本妙寺の両寺を合わせた一つの寺院になった。
(中山法華経寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C%E5%AF%BA)

とのことで、千葉氏の祈願所「千葉寺」が行基による開基と伝わり、行基ゆかりとされるお寺が千葉に多いことから、富木常忍や太田乗明も「古代からのネットワーク」に関する人物かと思われるが、詳細はわからず・・・。

「千葉寺」で、「だれとも分からぬように顔をおおうなどして集まった人々が、代官や村役人たちの悪行・不正を非難して笑った。」という「千葉笑い」が江戸時代の大晦日の晩にあったそうで、岡本綺堂の戯曲「千葉笑い」もあるとか。
(千葉笑い:http://www.weblio.jp/content/%E5%8D%83%E8%91%89%E7%AC%91%E3%81%84)
(千葉笑い:http://tibakyogen.exblog.jp/i4/)

中山町の地理について、「現在の地名では、おおむね鬼越、鬼高、北方、高石神、本北方、中山、北方町、若宮に相当する。」とあり、「鬼越」が気になって検索すると「本八幡の「真間の入り江」から大町の「谷津」を辿る」という見出しがあり、昨日から同じあたりをうろついてるんだなぁ、と。(苦笑)
(市川・元八幡から大町の谷津に遊ぶ:http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2009/08/post-12.html)

で、「高石神」がちと気になったので見てみると、地名の由来は「当地にある高石神社から。」とのことで、御祭神は神功皇后だそうで。
(高石神:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%9F%B3%E7%A5%9E)
(高石神社:http://8.pro.tok2.com/~tetsuyosie/chiba/itikawasi/takaisigami/takaisigami.html)

行基の父方の里にも「高石神社」(御祭神:少名彦名命、天照大神、熊野坐神)があり、川崎市麻生区にも「高石神社」(御祭神:天照大神)があるようで、この2社は「天照大神」「熊野坐神」で繋がるようで、市川市と高石市はかつては海の近くで松が生えていたことが共通するようだが、氏族の移動に伴う地名なんだろうか・・・。
(高石市・高石神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(麻生区・高石神社:http://www.jp-spiritual.com/takaishi_jinjya1.htm)
(市川自然博物館だより:http://www.city.ichikawa.chiba.jp/shisetsu/haku/sizen/dayor/dayor_46.htm)

ちょっと気になったのは、麻生区の北5キロほどの府中には「東京競馬場」があり、かつて遠賀川式土器が出土してるから、やはり「古代からのネットワーク」に関連した移動地名かと・・・「麻を多く植えた畑の主」かも?

そういえば、市川市に「菅野」という地名があったように思い、麻生区の北東1キロあたりにも「菅」という地名があり、高石市の「高石神社」は「高師浜」にあって「高師小僧」が想像され、「鉄」で繋がる可能性があるような・・・。

「日本書紀」に「垂仁35年9月、河内国に派遣され、高石池や茅渟(ちぬ)池を始め多くの池溝を開く。同様に広く諸国をまわり農業を盛んにして人々の生活に安定をもたらし、民から厚く崇敬されたと伝える。」とあるようで、「五十瓊敷入彦命」に関する氏族ということになるんだろうか・・・麻生区や市川市での「五十瓊敷入彦命」の足跡はよくわからないが。
(五十瓊敷入彦命:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%8D%81%E7%93%8A%E6%95%B7%E5%85%A5%E5%BD%A6%E5%91%BD)

2011.01.17(Mon.)

「跋扈する怨霊」から、崇徳院が祀られている香川県坂出市の「白峰宮」を検索すると、「江戸時代には崇徳天皇社野沢井宮・崇徳天皇明の宮などと呼ばれ、金華山妙成就寺摩尼珠院と一体の存在として四国八十八箇所の七十九番札所であった。」とあり、「金華山妙成就寺摩尼珠院」が気になって。
(白峰宮:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B3%B0%E5%AE%AE)

上記URLにあるように、「明治の神仏分離で崇徳天皇社は白峰宮となり、摩尼珠院は廃寺とされたため、筆頭末寺の高照院がその跡に移転し、天皇寺を再興して札所を引き継いだ。」とのことで「天皇寺」を見ると、

伝承によれば、古代に南海の大魚を退治しに向かった讃留霊王ら88人の兵士が大魚に船を呑まれて倒れたとき、横潮明神が泉の水を持ってあらわれ、その水を兵士に飲ませた。すると、全員が命を吹き返して助かったという。それからこの泉は「八十場(やそば)の霊水」と呼ばれるようになったという。その後空海(弘法大師)が八十場の泉を訪れたとき、十一面観音、阿弥陀如来、愛染明王の三尊像をつくって堂を建て安置したといい、また、薬師如来を刻んで安置して、泉を閼伽井としたのが起源であるという。当初は摩尼珠院妙成就寺と称したという。
(天皇寺:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%AF%BA_(%E5%9D%82%E5%87%BA%E5%B8%82))
(天皇寺:http://www.ko-pri.com/88/kagawa/79/79_tennoji.htm)

とあり、2010.12.02分での讃留霊王(武卵王・神櫛王・建貝児王・武殻王・武皷王・武養蚕命・多祁比古王命・武明王・竹材子命)が出てきて、「武養蚕命」は「先代旧事本紀」では「波多臣らの祖」とされているようで、兵士らを助けたという「横潮明神」が気になった。
(讃留霊王神社:http://www.geocities.jp/seiji_maturi/hanzan1.html)
(讃留霊王伝説:http://www.geocities.jp/hanzan_cho/hanzan/sarureo1.html)
(先代旧事本紀の世界・巻第七 天皇本紀:http://mononobe.nobody.jp/kujihonki/yaku/tennou.html)

「横潮明神」を祀るという「横潮神社」があるようだが、御祭神:天照大御神、合祀:日本武尊、若宮神とされているようで、「横潮明神」の飛び帰った山が「白峰の児ケ嶽」だそうで、「瀬織津姫」のように思われるのだが。
(讃岐の風土記:http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-56.html)
(横潮神社:http://kagawa.bine.jp/jinnjya/sakaide/63yokosi/63yokosi.html)
(稚児ノ滝:http://www.geocities.jp/seiji_maturi/taki1.html)

ウィキペディアに「天皇寺」の奥の院として「瑠璃光寺」(金山薬師)と「摩尼珠院」(城山不動滝)が書かれていて、それらの位置関係はよくわからないが、「巡錫中に八十蘇場の泉付近で霊気を感じた弘法大師は、天皇寺の前身である妙成就寺を建立した際、薬師如来の石像を刻んで金山中腹の水源に安置したという。」とのことだし、現在「摩尼珠院」というお寺はないそうだが、不動明王が安置されている「不動滝」があるようで、「稚児ノ滝」同様「水神」である「瀬織津姫」かと思われるが・・・。
(瑠璃光寺:http://blogs.yahoo.co.jp/kazuno_mitu/31450511.html)
(摩尼珠院:http://wilderness.web.infoseek.co.jp/temple/manijuin/manijuin.htm)

で、上記URLの「讃岐の風土記」さんのところに、「退治された悪魚の霊を鎮めるため、行基が魚御堂が建て、弘法大師が遷して法勲寺」と称し、のちに「生駒一正」によって高松に移され、父・親正の法名にちなんで「弘憲寺」となったことが書かれており、生駒氏については2010.12.22分での検索で「北家」のようで、「讃留霊王神社」横の現存する「法勲寺」との関連は不詳だが、行基の名が出てきたということは、その一帯は「古代からのネットワーク」との繋がりが強かったのではないか、と。
(城山:http://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/kagawa2.htm)

同じく「讃岐の風土記」さんのところに書かれていた、元は遙拝所の「九頭龍神社」(御祭神:天御中主命)に「宇夫志奈大神」として祀られ、のちに遷座された「宇夫階神社」(御祭神:大己貴命)も気になりますね、ご神体である「巨石」や「九頭龍神社」の御祭神との関連なども。
(宇夫階神社:http://kagawa.bine.jp/jinnjya/utazu/ubusina/ubusina.html)
(九頭龍神社:http://kagawa.bine.jp/jinnjya/utazu/34kuzu/34kuzu.html)

推測だが、風琳堂さんのブログにあった「大山祇神社」における「遷宮」での出来事と同じように思われ、現存しないという「摩尼珠院」と「不動滝」についても、更新されていた分に書かれている「大山祇神社が「入日の滝」とは無関係としたがっているよう」であるのと似ているようで。
(大三島・入日の滝──三嶋龍~の神徳【U】:http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/archive/2011/01/15)

「崇徳院」の「白峰宮」と「金華山妙成就寺摩尼珠院」が「一体の存在」であるということは、「崇徳院」が「怨霊」とされた背後には、「人々の心の根底にある「あるべき姿」を求めようとする意識」(p4)を持つ氏族が「崇徳院」と「瀬織津姫」を重ねて見ていたのではないかと思われ、「保元の乱」後に土佐に移り住んだ「秦能俊」らがその代表的な氏族かと。

まだ詳しくは調べてないのだが、「崇徳院」らを祀る京都の「白峯神宮」に「潜龍社」があり、昭和30年に水神「潜龍大神」を祀ったようで、「潜龍大明神」の御神体とされる「潜龍井」や「飛鳥井」があり、「蹴鞠の宗家であった公家・飛鳥井家(藤原北家師実流(花山院家))の屋敷の跡地」であることから、「法勲寺」を高松に移した「生駒氏」とは連動していたのかも、と。
(白峯神宮:http://www10.ocn.ne.jp/~siramine/page019.html)
(潜龍井:http://www10.ocn.ne.jp/~siramine/page008.html)
(飛鳥井家:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E5%AE%B6)

飛鳥井家の祖「飛鳥井雅経」が「実朝と藤原定家・鴨長明との間を取り持っている。」というあたりが気になるし、「西行」とは2009.04.07分での「難波頼輔」(飛鳥井雅経の祖父)からの繋がりが見られそうですね。
(飛鳥井雅経:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%95%E9%9B%85%E7%B5%8C)
(難波頼輔:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E8%BC%94)


14日に気になると書いてた芭蕉の「ほととぎす裏見の滝の裏表」だが、「暫時は瀧に籠るや夏の初」「ほととぎす隔つか瀧の裏表」も同じ場所で詠まれたようで、「裏見の瀧」の横には「寛永元年(1624)出羽三山より羽黒山荒澤不動明王が勘請され」ているとのことで「荒澤不動明王」を検索したら、ちと気になったことが。
(裏見の滝:http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno053.htm)
(裏見の瀧と寂光の滝:http://outdoor.geocities.jp/gmrbg004/urami1.html)

「荒澤寺は羽黒山の奥の院であり、羽黒修験の根本である常火を守っていた。ここは湯殿山、大日如来の荒魂(あらみたま)を不動明王、和魂(にぎみたま)を地蔵菩薩として祀り、湯殿行の根本道場であった。」とあり、「裏見の瀧」同様に北区中十条3丁目にも勧請されているようで。
(修験道1:http://ameblo.jp/kumanowakou/entry-10557665569.html)
(いにしえの羽黒山を辿るU:http://hagurokankoblog.sblo.jp/article/33529990.html)
(羽黒山 荒沢寺:http://www12.plala.or.jp/inookadera/rekisimini/33kannon.htm)
(北区の池:http://peepooblue.cocolog-nifty.com/blog/cat36372556/index.html)

宮城県本吉郡南三陸町歌津樋の口という住所を見つけ、「荒澤不動堂」があったそうだが詳細はわからず、神仏分離後に「計仙麻大嶋神社は延喜式内明神大社で、気仙沼の大島に疑定されるが、明治期に突然田束山に祭られることになった経緯は良く分かっていない。」とのことで、デジャヴ?と・・・歌津という地名も、香川との繋がりがありそうで気になって。
(計仙麻大嶋神社:http://mutsusousya.web.fc2.com/tazukanesan/tazukanesan.html)

あと、詳細は不明だが、「荒澤不動明王」が乗鞍、新城市長篠、桐生市天神町の「久昌寺」に安置されているようで、「久昌寺」では「日本三体不動の一体として、かつて奥州・湯殿山の奥地、荒沢の地に奉安されていました。この不動明王が、自行法印に下賜され、縁あって当地へ遷座されました。」とのことで。
(ノリクラ 雪渓カレンダー:http://www.norikura.org/norikura-calender/2010/vol2010-06/calender2010-06_03.htm)
(新城市長篠・荒澤不動明王:http://plaza.rakuten.co.jp/shomire100/diary/200911080000/)
(久昌寺:http://www.hosenji.or.jp/shichifuku/5.html)

そして「旧富士川町北松野、有無瀬川を見下ろす県道76号線沿いの山中にあります。」とされる「荒澤不動尊」は、「聖徳太子の弟子だった荒澤弾正が太子に授けられた不動明王をこの地に祀り、以来『荒澤不動尊』と呼ばれるようになったそうです。」とのことで、羽黒山で祠を創建した「蜂子皇子」は太子によって東国入りしたとされるので、太子と不動明王が繋がりそうで。
(不動の滝(荒澤不動尊):http://outer-network.com/townguide/diary.cgi?no=43)
(出羽三山:http://www.tsuruokakanko.com/haguro/midokoro/haguro.html)

大阪の「四天王寺」の「亀井不動尊」は、「聖徳太子が亀井の水を覗かれるとそこに不動明王(尊)の御姿が映っていたため、ここに不動尊を祀られたのが起源とされます。」とのことだし、太子ゆかりの「信貴山 朝護孫子寺」の「弁財天の滝」にも「不動明王」が祀られてますね。
(亀井不動尊:http://www.shitennoji.or.jp/keidai/kameifudo.htm)
(信貴山 朝護孫子寺:http://www.sigisan.or.jp/keidai.html)

ということで、芭蕉は「裏見の瀧」の裏から「瀬織津姫」を見ていたのかも・・・「荒沢不動明王」を思って「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」を詠んだのかも・・・。
(奥の細道出羽三山:http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno25.htm#ku4)
(俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡:http://www.bashouan.com/pzPhoto09.htm)

2011.01.18(Tue.)

「跋扈する怨霊」を読み終えたけど、いくつか理由がつかめない事柄があって、そのうちの1つが「藤原広嗣」が怨霊とされていたことで。

「朝廷内で反藤原氏勢力が台頭した背景のもと、親族への誹謗を理由に同年12月4日に大宰少弐に左遷される。」とあるが、「天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である右衛士督・吉備真備と僧正・玄ムに起因するとの上奏文を朝廷に送る」こととどう関連するのかが不明で、私には「広嗣の乱」の内容から怨霊となる所以が読み取れなかったんだが。
(藤原朝臣広嗣:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/hirotugu.html)

唐津市の「鏡神社」では一の宮の「神功皇后」が南向きに、二の宮(板櫃神社)の「藤原広嗣」は東向きに祀られているそうだが、なぜここに祀られたのかがよくわからず、そこから勧請された「南都鏡神社」がなぜ「新薬師寺」の鎮守なんだろうか・・・。
(唐津市・鏡神社:http://kakitutei.web.fc2.com/yukari/karatu/matura.html)
(唐津市・鏡神社:http://www5f.biglobe.ne.jp/~dayfornight/akatsuchi/01kagami/01kagami.html)
(南都鏡神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%BD%E9%8F%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

「鏡」がつく神社としては、東大阪市の「若江鏡神社」(御祭神:大伊迦槌火明大神、足仲彦天皇命、配祀:息長足媛皇后)や、蒲生郡竜王町の「鏡神社」(御祭神:天日槍)があるようで、唐津市の「鏡神社」とは「神功皇后」で繋がりそうだが、唐津市の「鏡神社」では「神功皇后」よりもなぜ「藤原広嗣」の方が重んじて祀られているのだろうか・・・。
(若江鏡神社:http://kamnavi.jp/mn/osaka/wakae.htm)
(蒲生郡竜王町・鏡神社:http://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/genpuku/kagami-jinja.html)

で、唐津の「大村神社」の御祭神でもあるようだが、2010.01.20分や2010.10.08分での「大村神社」とは異なるような感じもあり、唐津と同じく五反田という地にある愛知の「大村神社」との繋がりもようわからん・・・。
長崎県大村市・大村神社(主祭神:大村直澄公 外6柱)
佐賀県唐津市浜玉町五反田・大村神社(御祭神:藤原広嗣朝臣)
山口市鋳銭司・大村神社(御祭神:大村益次郎)
伊賀市阿保・大村神社(主祭神:大村神(息速別命?))
新城市下吉田五反田・大村神社(不明)

広嗣に従わざるを得ずに命を落とした隼人たちの身代わりとして、広嗣を怨霊にしたのならわかるように思うが・・・それとも母方(石上麻呂一説には蘇我倉山田石川麻呂の女)の氏族が絡んでいるのかも?

福岡の八幡東区高見及び槻田地区に、「天平12年(740年)、板櫃川の戦いで敗れた藤原広嗣の霊を祭るため現在の八王寺橋付近にあった明神社と岩淵堰取水口(現在の七条橋下)の守護神として祭った水神社を明治35年合併して荒生田神社に改称されました。」とされる「荒生田神社」や、「広嗣を荒武党明神として祀ったのが始まり」とされる「石祠」が現存しているようで、「南都鏡神社」の摂社「比売神社」や別社「赤穂神社」も含めて背後に「瀬織津姫」が見えるような・・・。
(八幡東区高見、槻田地区の史跡等:http://members.jcom.home.ne.jp/eirakuan2/yahi-takami-new.htm)
(荒生田神社:http://www.kcta.or.jp/kaidou/jinzya/yahatahigashi/arouda/arouda.html)
(荒生田神社:http://members2.jcom.home.ne.jp/jinja/page061.html)
(比売神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%A3%B2%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B8%82))
(赤穂神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE)


「愚管抄」で慈円はなぜ「井上内親王」が「龍神」になったのかは書いていないようだが、「井上内親王」についての伝承は、幽閉されていたという「井上院跡」のある五條市に多くあるようで、そちらでは「聖神さん」と呼ばれているとか。
(五條市:http://www.city.gojo.lg.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1149221753029&SiteID=1139107257399&ParentGenre=1000000100003)
(井上内親王・御霊神社の伝説:http://www.7kamado.net/den_yamato/gojyou_den.html)
(井上内親王:http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/inohe.html)

「井上皇后が幽閉されていたときご懐妊されており」というのを初めて拝見し、「そのときに生れた子が雷神となり、 母が流されたことを怨んで、種々の祟りをなしたので神に祀ったと伝えられています。」とのことで、龍神・聖神・雷神というとニギハヤヒや瀬織津姫を思い出すんだが・・・。
(御霊信仰・御霊神社:http://www.7kamado.net/goryo-index.html)

「井上内親王・御霊神社の伝説」の中に「下馬」に関するものが書かれていて、それも気になっていたところ、京都の「藤森神社」にも祀られているようで、「井上内親王」の背後に「瀬織津姫」が見えるように思ったのだが、「井上内親王」が祀られている「西殿」は、「延暦19年(800)塚本の地に鎮座、延応元年(1239)深草小天皇へ遷座、文明2年(1470)藤森へ合祀。」とあり、どういうことなんだろうか、と。
(藤森神社:http://www.genbu.net/data/yamasiro/fujinomori_title.htm?print=on)

最初の御鎮座地の「塚本の地」について、「藤森神社の本殿内に合祀されている塚本社の旧鎮座地は、東山区本町通り16丁目で民家の裏側にあります。塚本とは、古墳の下方をいい、広くその付近をいう。古墳を信仰形態化し神として祀ったのが、塚本社です。」とあり、次の「深草小天皇」ついては、「塚本社が藤森に移された所で古来は小天皇真幡寸(まはたぎ)神社と称されましたが応仁の乱で焼滅しました。文明2年(1470年:一説に永享10年)に現在の藤森神社に合祀されました。」とあった。
(深草、稲荷界隈のご紹介:http://miyakoweb-lj-hp.web.infoseek.co.jp/inari/inari.htm)

「古墳を信仰形態化し神として祀ったのが、塚本社です。」とのことで検索すると、古墳後期の円墳「塚本古墳」があるようで、「内部主体は横穴式石室」とあり、秦氏関係の隼人の塚だったのかもしれないなぁ、と。
(550 塚本古墳:http://www.city.kyoto.jp/bunshi/maibun/tizudaityou/higasiyamaku.html)

「みささぎ掲示板」さんの「京都深草の伝承地」に詳しく書かれていて、五條市の「聖神」のことや、上記の「鏡神社」別社の「赤穂神社」に関しても書かれてますが、「塚本古墳」についての詳細はわからないようですね。
(京都深草の伝承地:http://8918.teacup.com/ryobo/bbs/1135)
(奈良市高畑町の十市皇女の伝承地:http://8918.teacup.com/ryobo/bbs/1149)
(五條市のひじり神さん:http://8918.teacup.com/ryobo/bbs/1029)

伊賀市阿保の「大村神社」の主祭神「大村神」で、カッコ内に書いた「息速別命」も「阿保親王」と言われていたようなので、「東福寺近辺の阿保親王墓所」の補遺編として「阿保親王」が出てきたのには驚きましたが、「阿保親王」「舎人親王」「早良親王」「井上内親王」「伊予親王」が繋がるということなんだろうか?と。

ん?「伊予親王」の子・藤原為世(浮穴四郎)が伊予国の橘氏や越智氏の祖とされる説があるようで、「井上内親王」の母は「県犬養広刀自」で「橘氏」に繋がる・・・いや、「橘氏」と「伊予橘氏」とは別なのか・・・。
(伊予親王:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E8%A6%AA%E7%8E%8B)
(県犬養広刀自:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%8C%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E5%BA%83%E5%88%80%E8%87%AA)
(橘氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%B0%8F)
(伊予橘氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E6%A9%98%E6%B0%8F)

「伊予親王」の子・藤原為世(浮穴四郎)について検索すると、

・為世
50桓武天皇第4皇子伊予親王(?−807)の長男で母親は家時女説あり。伊予親王の変に際し家時が親王を窃かに養育し、伊予に下向した橘清友に預けその子と称する。7才の時上洛し52嵯峨天皇后橘嘉智子に寵愛され、藤原姓を賜る。下向して浮穴郡高井里に住み浮穴四郎を称す。と言い伝え有り。
新居氏祖。
この辺りで後世の河野氏が系図を捏造したとの説強い。ここまで越智氏・河野氏が存在してきたがこの辺りで後世の河野氏が越智氏の地位を簒奪し、系図に侵入してきた可能性が高いとされている。
(越智氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-15.html)
(戸田家の家系図:http://www.biwa.ne.jp/~toda-m/history/todaroot.html)

とあり、はっきりしないようだが、「伊予親王」ということは養育したのが伊予と関連がある人ということですよね・・・。

で、「伊予親王」のところに「異母兄平城天皇の側近であった藤原式家・藤原仲成に操られた藤原宗成に失脚させられた・・・」とあるけど、「藤原仲成」も怨霊として書かれていたような・・・「藤原広嗣」が書いたという上奏文に名のあった「吉備真備」も「御霊神社」に祀られてますよね・・・。

うーん、何について検索すればいいのやら・・・。

あ、今頃気づいたんだけど、「藤原広嗣の乱」で「東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五道の軍1万7,000人を動員」できたこと、「佐伯常人」らが部下の隼人に敵側の隼人に投降を呼びかけさせると広嗣軍の隼人は矢を射るのをやめたこと、広嗣が勅使は誰かを問うた時に「佐伯常人」と「阿倍虫麻呂」であることを告げると下馬して拝礼したとあることなど、大将軍・大野東人や副将軍・紀飯麻呂や勅使が東国の人々との繋がりがあり、その軍事力を広嗣はよく知っていたであろうことや、従軍していた朝廷に出仕していた隼人と広嗣軍の隼人との繋がりが強かったことを表しているようで。
(藤原広嗣の乱:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%97%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1)

「跋扈する怨霊」に、「崇道天皇」以外は「北家繁栄の礎にされた人々の霊をすべて慰撫しようとしたのが貞観の御霊会であった。」(p53)とあったが、広嗣がよく知っていたと思われる軍事力の統率者が、「北家」との繋がりを持っていたのだろうか・・・。
(御霊会:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BC%9A)

2011.01.19(Wed.)

昨日の「跋扈する怨霊」での「貞観の御霊会」について書かれている続きに、「疫病流行の原因を政治的失脚者の怨霊であるとする民衆による政治批判が高まることを防ぐことが御霊会に期待された。」とある。

そして次のページには、「御霊会が行われた場所が神泉苑であったことも重要である。」とされていて、「神泉苑」は龍神が住む異界への接点で、「龍王はここから現世に出入りすると思われていたようである。」とし、「怨霊と龍宮あるいは龍とは深いかかわりを持っており、異界に住む怨霊と交信するにはこうした場所がふさわしかったのである。」と。

さらにその続きには、「今昔物語集」に赤い上衣を着た「伴善雄」が「行疫流行神」として現れた話が書かれていて、疫病の原因が怨霊にあると理解されていた、ということを示されており、「(伴善雄が)赤い衣を着ていることも、のちの疱瘡神が赤色で表現されるのと関連して、興味深い。」(p57)と。
(今昔物語集:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86)
(伴善男:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%B4%E5%96%84%E7%94%B7)
(応天門の変:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E5%A4%A9%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89)

「応天門の変」についてはコミック「陰陽師」の4巻にあり、「怨霊」とされた人々が怨霊に至るまでの経緯はおおよそ似ていると思われるので、興味のある方はコミック「陰陽師」をお勧めします・・・って、回し者やないけど。(笑)

で、これらのことからまず頭に浮かんだのが、2010.01.09分での「泉鏡花」の「夜叉ヶ池」に「峰の茶店に茶汲女が赤前垂というのが事実なら、疱瘡の神の建場でも差支えん。湯の尾峠を越そうとも思います。」とあることで、「泉鏡花」は「湯尾峠」に「疱瘡神」がいるのを知っていて「赤前垂」であることに繋げ、芭蕉も同様に知っていたから「月に名を包みかねてや痘瘡の神」を詠んだ、ということなんだなぁ、と。
(栃ノ木峠〜今宿(2):http://www.fuku-e.com/theme/03/03/01/3-3-1-1b.html)

「疱瘡」「赤」で検索すると、「赤い色が魔力を秘めていると解釈され、赤い力で不幸の厄払いをしてきたのです。」と、江戸時代に「疱瘡神を喜ばせ病気を治そう」として「お赤飯」を食べ、病気が治って厄払いにも「お赤飯」を食べていた、とあった。
(赤飯のなぞ:http://www.narumi-mochi.jp/nazo.html)

「お赤飯」で思い出すのは2009.12.08分などでの「箱根神社」の「湖水祭」で、2010.02.02分では「三峯神社」の「大山祗神社の祠をかりて、大皿に高盛りの赤飯とお神酒を供えて奉り、この赤飯をいただきます。」という「大日祭」に、「箱根神社」の「湖水祭」との関連を想像していて。
(九頭竜伝承:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%A0%AD%E7%AB%9C%E4%BC%9D%E6%89%BF)
(大日祭:http://www.mitsuminejinja.or.jp/saiten/index.htm)

「三峯神社」の「大山祗神社の祠をかりて」というのは、「大山祗神」の名に隠された本来祀られるべき神に奉げることを言わんとしているようで、「箱根神社」の「湖水祭」も「疱瘡神」と習合した「九頭竜神」へお赤飯を奉げたのではないかと思われ、すなわち「怨霊」とも見られていた「瀬織津姫」への「お祭り」「御霊会」で、それは「瀬織津姫」を奉斎する氏族への儀式でもあったのではないかと思われるわけで。

「疱瘡除けの神」とされる「桜木神社」の社名や、「しかしなぜ、天武はこの桜木社で大己貴、少彦名、そして末社に坐す大山祗(山神)とともに祀られるのか。天武は吉野で山の神となっている。」とされるあたりは「三峯神社」の「大日祭」に繋がりそうで、「天武」と「赤」の関係や、「泰澄」と「疱瘡」のことなど興味深いですね。
(奈良・桜木神社:http://urano.org/kankou/yoshino/yoshino16.html)
(*243(6)吉野:http://www.sysken.or.jp/Ushijima/Mother.html#髪長姫)
(大海人皇子と吉野:http://www.geocities.jp/tyuou59/tennmuyosino.html)
(泰澄:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E6%BE%84)

「鷺大明神とそこ(西伯郡・中山神社)で祀られている稲背脛命と白兎神は、すべて疱瘡神という共通点を持っています。」とあることなど、「疱瘡除け」の神社に祀られている神が様々なあたりも興味深いな、と。
(伯耆のもう一つの白兎神話:http://www.rs.tottori-u.ac.jp/bunka/student/report/2008/2008pdf/4_sirousagi-2008.pdf)
(豊島区・大鳥神社:http://www.tobusdeiko.jp/spot/temples/otori.html)
(疱瘡の守護神:http://taisha.jp/index.php?ID=1463)
(彌和神社:http://www.genbu.net/data/wakasa/miwa_title.htm)
(鎌倉市・熊野神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82))
(広島市・疱瘡神社:http://www.hicat.ne.jp/home/yakuoudo/kimagure%20tusin/order3/326.htm)
(広島市・疱瘡神社:http://www.harusan1925.net/0813.html)
(吉備津神社:http://blogs.yahoo.co.jp/kanezane2/18333399.html)
(高御前神社:http://kamnavi.jp/it/kii/takatumi.htm)

気になったこととして、「疱瘡を病んだ小町はここに日参、泉の清水で顔を洗い治癒を祈った」という「磯前神社」が秋田県雄勝町にあり、距離はよくわからないが、雄勝町秋の宮にあるという「鷹の湯温泉」は行基ゆかりとされていて、行基は厚木市の「小野神社」などで小野氏との繋がりが伺われるので、「瀬織津姫」で繋がりそうな感じがして。
(謡蹟めぐり・通小町:http://www.harusan1925.net/1228.html)
(小野小町:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B0%8F%E7%94%BA)
(小野神社:http://www.geocities.jp/engisiki/sagami/bun/sag160401-01.html)

秋田といえば行基ゆかりとされる「小豆沢大日堂」がちと気になったが、疱瘡神との繋がりはわからず・・・。

あと、「月読命」を祀る松戸市の「三日月神社」には、「疱瘡御歩射」という「氏子の安全祈願や疱瘡厄除けをする行事」があるそうで、「三日月神社」で検索すると「三日月」地名が書かれたブログがあり、そこにリンクのあった「三日月坂の由来」を拝見すると赤羽に・・・。
(地元を知る・三ヶ月編:http://www.hellomatsudo.com/paper/show_tokushu.php3?id=237)
(「三日月」地名:http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/44190822.html)
(三日月坂:http://homepage2.nifty.com/tokyo-walk/a050449.htm)

「坂を登りきった北側あたりに三日月茶屋ができました。 坂名はこれに由来しています。 また、道灌湯が開業したことから道灌坂とも呼ばれています。」とのことで、「夜叉ヶ池」の「峰の茶店」を思い出したのと、その前に検索で見ていた「赤羽八幡神社」に戻った。
(赤羽八幡神社:http://www3.kitanet.ne.jp/~ak8mans/hatiman.htm)

「赤羽八幡神社」の境内社に「疱瘡神社」があるのと、「道灌湯」の由来はわからないけど、2010.01.09分などでの京都・山城の「一口(いもあらい)稲荷神社」を勧請した「太田姫稲荷神社」は「太田道灌」絡みなので、「赤羽」のあたりは「太田道灌」や「疱瘡神」の関連のある場所なのかも。
(太田姫稲荷神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%A7%AB%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

「赤羽」は「赤土(赤埴・あかはに)が多い土壌から、この名がついた。」とのことで「鉄」に繋がりそうで、こちらにも「小豆沢」という地名があるんですね・・・「御手洗不動旧跡」「御手洗の泉」が気になったけど詳細はわからなかった。
(赤羽:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%BE%BD)
(小豆沢:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E6%B2%A2)
(赤羽界隈名所案内:http://www.ukima.info/meisho/akabanej.htm)
(御手洗不動堂:http://www.ukima.info/meisho/kaiwai/ryuhukuj/mitarai1.htm)

2011.01.20(Thu.)

「跋扈する怨霊」からの検索で、デスクトップにショートカットアイコンが40個ほど並んでるんだけど、どうまとめればいいのやら・・・昨日の「御手洗」と同様に「瀬織津姫」との関連は不明だが、三重に「美多羅志神社」があるようで、「龍」のような樹があった。
(美多羅志神社:http://blog.livedoor.jp/ogita5/tag/%E7%BE%8E%E5%A4%9A%E7%BE%85%E5%BF%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

「離島文化体験・答志島コース」の紹介のサイトには、「創立年代は不祥ですが、享保4年の棟札や延享3年献品の獅子一対、古文書などが保存されています。主祭神は美多羅志神で、明治41年に天王社、山神社、天神社ほか10社ほどを合祀して、美多羅志神社となりました。」とあり、「るるぶ」には「美多羅志神は五男三女の子をもつ神様で、子授けのご利益があるとされている。夫婦で参拝してつがいのアワビを奉納すると、美しい瞳の子供が授かるとか。」と。
(美多羅志神社:http://www.iseshima-kanko.jp/contents/museum/ritou/ritou_tousijima.html)
(美多羅志神社:http://www.rurubu.com/sight/detail.aspx?BookID=A3401220)

2007.04.26分で拝見した神奈備さんの「天香香背男命を祀る神社一覧」には、御祭神は「天忍穗耳命 合 北斗星神、三十三夜星神ほか」とあって、「五男三女の子をもつ神様」といえばアマテラス+スサノオの子を思い出し、一対神かと想像し、「美多羅志神」が「天香香背男命」ならば「瀬織津姫」と繋がるように思えて・・・。
(美多羅志神社:http://kamnavi.jp/jm/kakaseo.htm)

結局よくわからないままなのだが、「美多羅志神社」を知るきっかけとなったのが「しだら神」での検索で、「本朝世紀」によると945年に「志多良神入京事件」が起こったそうで。(p79)

そこでまず拝見したのがかつて「とはずがたり」で拝見していたサイトで、「天慶八年志多良神とも八面神・小藺笠神ともいう新たな神々が東西諸国から入京してきた。」ということは本の記載とほぼ同じで、「御霊信仰が展開」し、「新しい京外の強カな神」を迎えたようで、「この志多良神が実は八幡神の眷族であるとされ、石清水八幡に遷座し包含された。」というのが気になった・・・10日の「鶴岡八幡宮」での「怨霊鎮魂」同様、「八幡宮」が関与しているようで。
(石清水八幡宮:http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/kyotofuno-chimei-iwashimizu.htm)

しかも「しだら神」を祀った神輿が、伊丹の「昆陽寺」にも寄っていて、初めは数百人だったのが「石清水八幡宮」到着の際には「数千・万人に達していたという。」とのことで、「昆陽寺」近隣の人々も多く参加したであろう、と。
(志多良神:http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=%BB%D6%C2%BF%CE%C9%BF%C0)

「一種の疫神・御霊神ではないかとする見解がある。」とされつつも「農村における開発と生産を守る神」との見解もあるようで、「昆陽寺」が絡んでいることや「歌舞」があることなどから、「秦氏」の存在が見えるようで・・・「梁塵秘抄」によると、「自ら鎮西(九州)から上洛し、この日紫野船岡山に到着したという。」とのことで、「船岡山」は秦氏のテリトリーで。
(梁塵秘抄口伝集巻第十四:http://homepage3.nifty.com/false/garden/kuden/kuden14-6.html)
(柳田国男「踊の今と昔」:http://www.touhoku.com/00x-10-02yk-odori-01.htm)
(建勲神社:http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/takeisao-jinjya.htm)

「船岡山」に先に祀られていたという「疫神」について、元は「スサノオ」を祀る社で現在は「今宮神社」の摂社「疫神社」のようだが、他の境内社の「月読社」や、「宗像社」の社壇の側面の台石に彫られた「鯰」と、「この社(宗像社)は俗に「弁天さん」と呼ばれ、鯰はその神の使者として彫られたものと云われている。」というのが気になった。
(今宮神社:http://imamiyajinja.org/)
(鯰の台石:http://imamiyajinja.org/jpn/imamiya_JPN/jing_nei_she.html)

「瀬織津姫」のことですよと言わんばかりのようで、「京の三奇祭」は秦氏による瀬織津姫のためのお祭りなのではないか、と・・・「しだら神」とかつて2003.03.21などで調べた「摩多羅神」との関連が気になるが、今のところ直接結びつけるものはないようで・・・。

「語り部屋ブログ」さんの「しだらの神」を拝見していると、「しだら神」について簡潔に書かれており、「志駄岸八幡宮」との関連がありそうなのでリンク先のサイトを拝見したところ、「神様が国東からでたり帰ったり。」に頷きつつ、「志駄岸八幡には小松の沖が夜輝いていてそれを調べると、シダに巻かれて漂った神様をみつけ、それを丘に安置した」という伝説が気になった。
(語り部屋ブログ:http://www.chinjuh.mydns.jp/blog02/archives/2004/12/post_1.html)
(サイクルピクニック:http://www.cyclesforum.net/cyclepicnic/course_syoukai/oshima/01/01.htm)

上記サイトでは「石清水八幡」からの勧請とされていたが、「宝亀3年(772)宇佐から屋代に勧請したものを弘安4年(1281)台風で流出、翌年現在地に仮屋を建て、延文3年(1358)大内政弘の命令で再建し、志駄岸と冠名しました。」と書かれたサイトもあって、シダに関する伝説もよくわからず・・・。
(志駄岸八幡宮:http://park22.wakwak.com/~suo-oshima-shoko/oshima/sightseeings/sidagisihatimangu/index.htm)

で、「語り部屋ブログ」さんのところに「設楽神」は「せつらくしん」とも読み、「綾藺笠をかぶって踊る神」と書かれていたので「綾藺笠」で検索すると、「梁塵秘抄」の歌がヒットし、「賀茂川」が詠まれているあたりに何かありげで・・・。
(泉獺の神々の辞典:http://www.geocities.jp/izumikawauso/kami/k_bse.html#se)
(梁塵秘抄巻第二 四句神歌・雑:http://www.nextftp.com/y_misa/ryoujin/hisyo_05.html)

あと、折口氏の「幣束から旗さし物へ」には、「少弐氏の旗の横上に、綾藺笠をつけたのは、眷属の御霊の影向あつて、蝉口に御座あるからとの家訓がある(梅松論)・・・」とあったがよくわからず、「梅松論」を検索したら、
(幣束から旗さし物へ:http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18394_19352.html)

少弐頼尚は、旗の横上(流れ旗の上に、旗の幅で付けた横木)に綾桧笠(桧の薄板を網代に編んで作った笠)を付けていた。これは、御眷属御霊(一門の霊)が影向(神仏が現れること)されて蝉口(旗の竿先の、旗布を上下するための滑車のある部分)におわすので、昔からこれを付けるのがこの家の庭訓とされていたためである。
(梅松論:http://homepage1.nifty.com/sira/baisyouron/baisyou39.html)

とのことで、なるほど、と・・・「八幡神の眷族」が「綾藺笠」で、それをかぶって踊る神が「設楽神」ということのようで、「綾藺笠」の代表が「秦氏」かと。

少し横道にそれるが、折口氏の文章で例に挙げられている事柄を追えば、別の角度から繋がるように思えたのだが、いかんせん、文章が難しくてなかなかそうもいかなくて・・・「幣束から旗さし物へ」の始まりが「阿礼」で「賀茂」のことや西行の歌が出てきたり、上記の「梅松論」とは「同じ影向勧請の思想」とされる「熊野別当湛増」のことも、何やら意味ありげな感じがして。

折口氏の「熊野の湛増が、船に若王子の御正体を載せ、旗の横上に金剛童子を書いて、壇の浦へおし寄せた(平家物語)」の引用を追うと、「壇の浦へ近づいて来るのを見て、源氏も平家もともに拝む。しかしながら源氏の方へついたので、平家は意気消沈した。」と「平家物語」にあるようで、信仰が同じだったことが伺えるようで。
(紀伊続風土記:http://www.keyspot.info/fudoki/minatotoukei.html)

ま、「平家物語」を知っていたなら、ネットで追わなくてもわかることだろうから、ひとえに私の不勉強さが露呈しているわけだが。(苦笑)

で、「小藺笠神」「八面神」についても検索してみたところ、「永長大田楽における貴族と民衆」というPDFファイルに、池上博之氏によると「八面神」は「荒神の範疇に入ると帰納せられる」とされ、「小藺笠神」は「今後田楽の起源をさぐる中で実際の田植儀礼と関わらせて検討してみたい。」とされていて、「志多良神入京事件」での3基の神輿には、自在天神(道真)・宇佐春王三子・住吉神が祀られていたことが「吏部王記」にあるようで、上記のように「一種の疫神・御霊神ではないかとする見解」も書かれていた。
(永長大田楽における貴族と民衆:http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bitstream/10191/985/1/18_0115.pdf)
(吏部王記:http://kotobank.jp/word/%E5%90%8F%E9%83%A8%E7%8E%8B%E8%A8%98)

「田植儀礼」への派生と思われるものとして、横浜の「鶴見神社」の「田祭り保存会」さんのサイトがヒットし、「所作の研究」として「これまで見学してきた各地の田遊びは、東海道筋特有の猿楽、狂言と設楽神歌(しだらかみうた)、千秋万歳の融合形式がとられている。」とあり、やはり秦氏が見えてくるように思われて。
(鶴見神社:http://www18.ocn.ne.jp/~tsurujin/contents/group/tamaturi.html)

「八面神」については「荒神」として「円空仏」がヒットし、2007.05.02分での「八面大王」との繋がりが気になったもののよくわからなくて。
(美並ふるさと館 八面荒神:http://shigeru.kommy.com/enkuu7.htm)
(八面大王再考:http://jyashin.net/evilshrine/gods/momiji_shrine/momiji_08.html#4)

八面神社:秋田県湯沢市駒形町字八面宮の前
御祭神:菅原大神、素戔嗚命、大山祇命、三吉大神、豊受姫命、天照大神

湯沢市八面地区にある八幡太郎陸奥守源義家朝臣が仙北金沢の城追討の時、難戦してこの尊神に祈願したところ、その夜神前より白鹿が現れて、鬼切辺の山中に入っていった鹿の跡を追って、数万の軍勢は無事そこを切りぬけることが出来た。又、その後も度々の戦いで難戦のたびに白鹿が現れて大勝利をしたので、義家は自分で神像を彫刻し、八面大荒神として神社の田地とともに寄進されたと記されている。
(http://www.yuzawamarugoto.com/yatsuomotejinja/index.html)

稲荷八面神社:静岡県富士市蓼原字上本田
御祭神:宇迦之御魂神、八面神(荒神)

稲荷神社と八面神社を合祀している。稲荷、八面ともに創祀年月は不詳。ただ八面神社は、富士川がこの辺りを流れていたころ、漂着した神体を里人が見つけて勧請した、と口伝されている(『駿河記』)。八面神社は市内に2社あり、もう1社は岩本山の裾にある。いま富士川は岩本山の西を南下して駿河湾に注ぐが、むかしは山裾で東南へ向きを変え、岩本八面神社の南をかすめてここ加島平野に流入した。口伝される「漂着した神体」は、岩本八面神社と関わりがあるのかもしれない。記録に目を転じると、江戸中期〜後期の棟札が多く残る。八面神社は安永8年(1779)が最も古く、神名は「八面大権現」。稲荷神社は文化12年(1815)が最古で、神名は「稲荷大明神」。
(http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-372.html)

八面神社:静岡県富士市岩本
主祭神:八面大荒神(火産霊神・奥津比古神・奥津比売神)

大永6年(1526)岩本永源寺が現地に堂宇を建立したさい、地主神だった当社を鎮守として再建した。江戸期の呼称は「八面荒神社」、神仏判然令で永源寺と分離。
(http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-313.html)

鞍岡祇園神社:宮崎県五ヶ瀬町鞍岡寺村
御祭神:素盞鳴大神、大己貴大神、伊弉冉大神、奇稲田姫神、五ッ瀬ノ神、蘇民将来、巨旦将来、天満天神、足名椎神、手名椎神、稲荷大明神

第二十九代欽明天皇の十六年頃、知保郷に厄病流行し疫病及び厄難消除の祈願守護神として創始祇園社と称し、第五十五代文徳天皇の天安元年曽男神(素盞鳴大神)並びに冠八面大明神(闇おかみ神)に正五位下の神階奉授の古い神社であります。(文徳実録第九より)
第五十六代清和天皇の貞観十一年山城国(京都)八坂神社より素盞鳴大神を勧請、その他の諸神を合祀し八坂神社と改称。昭和十年祇園神社と改称現在に至っております。(祇園神社案内より)
(http://www.kiroku-miyazaki.jp/contents/index.php?itemid=192)

竈神社:茨城県下妻市樋橋
御祭神:奥津比古命、奥津比売命

776(宝亀7)年の創立とされる古社。樋橋郷に一本の松があり、その松から光明が射しているので村人が見てみると、松の下に「八面荒神」の像があった。村人はその像を、お宮を建てて祀ったのが神社のはじまりとされる。通称「荒神さま」。
荒神は、仏法僧の三宝を守護する三面六臂の三宝荒神とされるが、竈神社の神は八面六臂で八面荒神と称される。不浄を嫌い、竈(かまど)、台所で祀られている。また、縁結びの荒神さまで知られる。
(http://www.tsukubapress.com/shimotsuma.html)

八面神社(海神神社摂社):対馬市峰町木坂
御祭神:大國魂神
(http://kamnavi.jp/en/kyuushu/tusimaumi.htm)

海神神社
御祭神:豐玉姫命、配祀:彦火火出見命、宗像神、道主貴神 鵜茅草葺不合命
創祀年代は不詳。対馬の一之宮として崇敬されている大社。
『對州神社誌』には「八幡宮」と記され、明治までは「八幡宮」と称していた。一説には、継体天皇の御代、祭殿を建て、八幡宮と称したといい、我が国八幡宮の発祥の地とも。
(中略)
当社は海神への信仰と八幡としての信仰が渾然となった複雑な神社のようだ。
また、当社を式内社・和多都美御子神社とする説もある。対馬の祭祀では、親子神が祀られるとき、親神を里近くに、子神を人里離れた聖地に祀ることが多いが、和多都美御子の場合も、聖地(伊豆山)に祀ったという考え。
(海神神社:http://www.genbu.net/data/tusima/kaijin_title.htm)

さて、先ほど「志多良神」の神輿に「自在天神(道真)」が含まれているとあったが、「菅家御伝記」に道真のことを「天満自在天神」とあるようで、「自在天神」とは「シヴァ神が仏教化したもの」だそうで(p74)。
(長岡天満宮:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-9-2.html)
(シヴァ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B4%E3%82%A1)

「跋扈する怨霊」には道真の「怨霊としての活動」についての記載があり、「ここでも八幡神が道真の霊魂の上位者として支配を行っていると理解されていることが注目される。」(p77)とあるのは興味深く、八幡神と道真の繋がりを示しているようで。

「道賢上人冥途記」によると、道真は「太政威徳天神」となっていて、災いを起こしているのは道真の「眷属」で、藤原清貫らへの落雷は道真の第三の使者「火雷天気毒王」だとして、そうした眷属に対し「金峯山の蔵王権現や八幡神それに宇多法皇の霊魂が勝手な振る舞いをするのを留めているという。」(p76)とのことで、「蔵王権現」とも繋がることを示しているようで。(宇多法皇は道真の娘婿。)
(道賢(日蔵):http://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E8%94%B5?dic=nihonjinmei)

「シヴァ神」「大威徳明王」「道真」が「牛」で繋がるのにも何かありそうで、「文殊菩薩はその悪鬼と同じような牛面で、しかも悪鬼以上の武器をもった姿に変化して戦い、ついに悪鬼を倒した。この姿が大威徳明王なのだという。」で浮かんだのは、伊予の「大山祇神社」のことで、「蔵王権現」と「太政威徳天神」の繋がりが理解できるような。
(大威徳明王:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A8%81%E5%BE%B3%E6%98%8E%E7%8E%8B)

で、「天満大自在天神」について、「天候を司る雷神としての天神と、菅公の御霊、殺牛祭神における漢神、密教の護法神、神話上の天津神(天神)が習合して成立した神格と云われています。」とあり、そのうちの「殺牛祭神における漢神」の祭りにも秦氏が関係していそうで。
(天神信仰:http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20060225)
(大酒神社:http://kamnavi.jp/yamasiro/oosake.htm)

「続日本紀」に、伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・越前・紀伊などに「牛を殺して漢神を祀ることを禁止」している記事があるようで(p37)、それについて「若狭地方における豪族の中で目立つのは秦氏の系統である。若狭の木簡には秦人の名が多くみられる。」とのことから秦氏の関与が考えられ、禁止された国の繋がりから、「海人族」「隼人」の関与もあったのではないかと思われるわけで。
(福井県の新羅神社(3):http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/119.htm)
(『福井県史』通史編:http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/4-01-02-03-12.htm)
(丹後の伝説4:http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunken4.html)
(福井県・香山神社:http://www.genbu.net/data/wakasa/kayama_title.htm)
(俳優の神々とまつり:http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage4.html)

2011.01.21(Fri.)

な〜んとなく、18日の「浮穴四郎」が気になっていたところに、19日の「赤羽」の近くで「浮間」という地名を見て、もう少し調べてみよ、ということかな、と。

ウィキペディアによると「浮間」の由来は、「荒川に突き出た形が浮島に見えたことから起きた地名。」とのことで、どこだったか忘れたんだけど最近「鉄」関係で検索してて、古代は陸続きになっておらずに離島だった、という場所があったのを思い出し、たしか出雲かどこかで「浮島現象」というのがあったなぁ、と。
(浮間:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E9%96%93)
(浮島現象:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E5%B3%B6%E7%8F%BE%E8%B1%A1)
(浮島:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E5%B3%B6_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF))

で、何気なくウィキペディアの「浮島」 (群馬県)を見たら「吹割の滝」にリンクがあり、写真を見てこの滝も浮島に見えたのかも、と・・・。
(吹割の滝:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B9%E5%89%B2%E3%81%AE%E6%BB%9D)

さらに宮城の「浮島神社」を見て、御祭神が「奥塩老翁神と奥塩老女神」の2神となっていて、それなら「夫婦岩」も浮島のなかに入るかもしれないし、最寄駅から電車に乗ってしばらくして見える古墳も浮島っぽい感じがして、墳丘に神社があれば「浮島神社」になるかもしれないなと思い、各地の浮島地名や浮島神社を拝見した。
(浮島神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%AE%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(川越市・浮島稲荷神社:http://www.koedo.biz/040shrine/ukishimajinjya.html)
(熊本・浮島熊野座神社:http://www.kumashoko.or.jp/kashima/kankou01.htm)
(愛媛・浮島神社:http://www.dokidoki.ne.jp/home2/ghh00713/ukisima.html)
(秋田・浮島神社:http://www.kensoudan.com/firu-naka-y/kariwano/ukisima.html)
(山形・大沼浮島稲荷神社:http://www3.omn.ne.jp/~nishiki/ukisima.htm)
(那覇市・波上宮:http://www.genbu.net/data/ryukyu/naminoue_title.htm)
(墨田区・隅田川神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%85%E7%94%B0%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(西伊豆町浮島・神明神社:http://www.genbu.net/data/izu/sinmei2_title.htm)
(長野・浮島神社:http://wiki.fdiary.net/psylab/?%C9%E2%C5%E7%BC%D2)
(八尾市・渋川神社(境内社・浮島神社):http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/naka-sibukawa.html)
(茨城・浮島:http://www.geocities.jp/hitoshtt/kantou/ibaraki/kasumigaura2.htm)
(千葉・浮島:http://www.town.kyonan.chiba.jp/kyonan/pages/gp/idx.jsp?page_id=200)
(山口・浮島(うかしま):http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a123003/island/ukashima.html)

「浮間」や「浮穴郡高井里」は同様の地形で、「浮穴四郎」を称したということは、その地にいた氏族と繋がりがあったことを示すように思われ、検索で「浮穴氏は久米と同族であることは間違いなく・・・」とあり、4日に繋がりそうで。
(地名と由来:http://kutani.web.fc2.com/ebara-rekishi/hajimari1.html)

で、上記の西伊豆町の「神明神社」に、「布刀主若玉命の「布刀」は、鎮座地の「浮島」から取られたと思われ・・・」とあり、「また、一説には、「布刀主」を「フツヌシ」と解釈し経津主神を祭神とする資料もある。」とされており、「フツヌシ」に繋がるのであれば「瀬織津姫」に繋がる可能性もあり、「浮穴郡高井里」は物部氏のテリトリーである可能性もありそうで。

いくつかに共通してみられる「沼地」のような場所は、16日の「高師小僧」を思い出し、あらためて「小豆沢」を検索すると、かつて「闇の日本史」さんの掲示板でいろいろ教えてくださった「かわかつ」さんのサイトに、「小豆(あずき)とは砂金を加工して作る「豆金」のこと・・・」とあり、「浮間」「赤羽」近辺では「鉄」が採れたのかもしれませんね。
(実際の鉱山に入る 2 豊栄鉱山:http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/houeikouzan.html)

そういえば20年ほど前に大分に行った時の車窓から、山の中腹が掘削されてぽっかりと空いた穴が浮かんでいるように見えたことがあって、たぶん国東半島あたりだったと思うんだが・・・。


19日に引用させていただいた「鷺大明神とそこで祀られている稲背脛命と白兎神は、すべて疱瘡神という共通点を持っています。」と書かれたPDFに、「鷺大明神、稲背脛命、白兎神を祭る神社」の分布図があり、書かれている神社を調べていこうとしたけど、なぜか横道にそれてばかりで。(苦笑)

神奈備さんの掲示板に、玄松子さんのブログに「ウサギ」に因んだ神社について書かれているとあったので拝見したところ、コメントのお返事に「菅原道真公と兎神に関連があるのかもしれません。」とあるのを見て、道真と祖神を重ねて祀ってるかも、と思ったのが、上記のPDFの「天穂日命神社」について書かれている部分で、
(玄松子さんのブログ:http://www.genbu.jp/201101/01-0047.php)

天穂日命神社には、西側の勢力の象徴である鷺と、東の勢力の象徴である波ウサギの彫刻が見られます。天日鳥命神社は天穂日命神社と親子であることから、同様の性質を持つと考えることができます。加えて、天日鳥命は稲背脛命と同じ性格をもった神ということ、この神社はかつて天鷺の宮と呼ばれていたということから、この地域で融合が行われたと想像することができます。
(中略)
つまり、この周辺には、鷺、稲背脛命、梶大明神、白兎神が関係していて、鉄と医療がすべて混ざり合っているといえるのではないでしょうか。
(伯耆のもう一つの白兎神話:http://www.rs.tottori-u.ac.jp/bunka/student/report/2008/2008pdf/4_sirousagi-2008.pdf)

とされていることで、道真はカモフラージュで祀られた感じがしなくもないが。「少彦名命」もカモフラージュしたりされたり、という感じがありますね、祀られる場所によっては。秦氏のテリトリーの豊中の「服部天神宮」では、道真と「少彦名命」が祀られてますね。
(服部天神宮:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E5%AE%AE)

「兎」から検索したらよかったんだな・・・なぜ横道にそれるか、だけど、雑司ヶ谷の「大鳥神社」の御祭神「鷺大明神」について、「出雲の国鷺村鷺に鎮座する、スサノオノミコトの奥さんである。」と書かれていて、どういうことかを検索したり、「高良下宮社(祇園さん)には、鷺大明神を祭る社がある。」と書かれていたが、他にそう書かれているところが見つからず・・・。
(大鳥神社:http://www.5012.jp/onstage/disp.asp?kno=2&cno=1&dno=283)
(大鳥神社:http://www.asahi-net.or.jp/~br3n-szk/newpage42.htm)
(皐諦:http://tobifudo.jp/butuzo/10rasetu/09.html)
(寺と庶民信仰:http://snkcda.cool.ne.jp/miimachisi/2-5shominnsinko.html)

また、相生市の「須賀神社(大避神社・合祀)」に、「上松村荒神社、鷺岬大避明神と記される。」とあるが、こちらも検索で他には出てこず、埼玉の「鷺栖神社」の「鷺巣大明神」も同様だし、御神紋について「菊に一は一言主と同じだ。」とあってちとパニック・・・橿原市にも「鷺栖神社」があるようだが、2010.01.26分の「鷺宮咲前神社」同様、藤原氏に乗っ取られたようで。
(須賀神社:http://lec10.suppa.jp/oozake/11-20/11suga.html)
(鷺栖神社:http://www.tesshow.jp/saitama/gyoda/shrine_tanada_sagi.html)
(鷺栖神社:http://www.genbu.net/data/yamato/sagisu_title.htm)
(橿原市・鷺栖神社:http://kamnavi.jp/as/sagisu.htm)
(鷺宮咲前神社:http://www.sakisaki.net/yuisho.html)
(咲前神社:http://mononobe.nobody.jp/tabi/nukisaki/kkitinomiya.htm)

ということで、少々めげてますが続きは後日・・・。

そうそう、「鷺大明神」での検索で、福岡の「波折神社」の境内社に「鷺大明神」があるようだが、御祭神の1柱の「瀬織津姫」の表記が「瀬津姫」「瀬織津大神」になっているところがあり、あちこち検索して・・・。
(波折神社:http://www.geocities.jp/turiten2010/jinja_db_tsuyazaki/109_namiori/index.html)
(波折神社:http://nobyama.com/namiori.html)
(波折神社:http://nonbiri.boo.jp/jinguukougou26.html)
(波折神社:http://blog.goo.ne.jp/noyamany/e/b062ebcaefa43752b7f3533a16129a3a)
(波折神社:http://blog.livedoor.jp/keitokuchin/archives/65445582.html)
(波折神社:http://wadaphoto.jp/maturi/tuyazaki1.htm)

ちなみに、「津屋崎」「行基」で検索したら、「舎利山勝宝寺」という行基開基とするお寺があったようだが、廃寺となって観音堂のみ残っているようで、そのお寺と関連があるとされる「天降天神社」が興味深い。
(津屋崎センゲン:http://blog.goo.ne.jp/magpie03/c/344d36130c9731bbeee0c70856cdc90c)
(舎利蔵:http://www.yado.co.jp/tiiki/munakan/syarikr/syarikr.htm)
(天降天神社:http://blog.livedoor.jp/keitokuchin/archives/65425198.html)
(天降神社:http://kazenoyadori.seesaa.net/article/180495430.html)
(天降神社:http://blogs.yahoo.co.jp/ruriironohahasama/17453639.html)

追記(2011.01.24):
「白兎神」はまだ検索できてないんだけど、「うさぎ」は「宇佐」つまり秦氏絡みかと推測しておりまして、瀬織津姫に繋がるのではないか、と・・・。

2011.01.22(Sat.)

「本居宣長」との論争、知らなかった・・・私の記憶の中には「雨月物語」の作者でしかなく、15日の検索では秋成のアナリストはしてなくて・・・またしても無知さ・詰めの甘さを露呈。(苦笑)

宣長も秋成もよく知っていたんですね、そして中世の人々も・・・はい、闇の日本史さんが撮影されたお写真もあるという斎藤氏の「アマテラス」を昨日拝見しまして・・・アマテラスが「虚言を仰らるる神」にしたのは不比等だと改めて思った。

いや〜、風琳堂さんのブログに続いて自分の詰めの甘さを再確認したわけで、文献をもっとしっかりと読んでいかなきゃいけないな、と・・・・でも、言うは易く、行なうは難し、で・・・。

興味深いなと思ったのが、「宮主秘事口伝」の亀卜で用いられるという「丸兆竹」「小兆竹」で、隼人との繋がりを表しているような。(p64)

あと、2010.12.15分での「真床覆衾」の関連が気になる「大嘗祭」の「秘儀」(p74)、20日に初めて知った「本朝世紀」に書かれているという「斎辛櫃」に関する事柄(p84)も気になり、そして「雨月物語」同様にすっかり内容を忘れているので読み直さなきゃと思ったのが、「律令国家から王朝国家への推移という歴史」(p97)が垣間見られるであろう「更級日記」で。(あ、両方とも実家に持ってったんだわ。汗)

さらに初めて知った文献は数多く、「中外抄」からの記事のあとに「それは内侍所のアマテラスが、金色に輝く仏舎利のような姿に変貌したことを暗示しているのではないか。」(p108)とされていることに、おぉ〜!と。

「荒祭宮」に関することが書かれている「太神宮諸雑事記」や、「斎辛櫃」に関する「神楽」についての記載がある「春記」、20日の「道賢」のことも書かれているという「大江匡房」の「本朝神仙伝」、その他「先代旧事本紀大成経」、「御鎮座本紀」、「宝基本記」、「元長修祓記」、そして「宣長」と「秋成」の論争が書かれているという「呵刈葭」や「酒折宮」なども気になる・・・と同時に、多すぎて気が遠くなりそう。(苦笑)
(酒折宮:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E6%8A%98%E5%AE%AE)

で、p156にある「偽撰された書物」の仮託された人物に行基も挙げておられ、2008.09.29分での「大和葛城宝山記」がその1つだなぁ、と。
(大和葛城宝山記:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E8%91%9B%E5%9F%8E%E5%AE%9D%E5%B1%B1%E8%A8%98)
(大和葛城宝山記:http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/honji/files/KATSURAGI.html)

それと「行基の会」で初めて拝見した、「法起菩薩」「聖武天皇」「聖徳太子」「役小角」「剣に絡む龍」「行基」が描かれている「法起菩薩曼荼羅図」も、ですね。
(法起菩薩曼荼羅図:http://www.city.sakai.lg.jp/kyoiku/_syougai/_kyouiku/bunyabetu.html)

でも、頼朝を追ってから「律令国家から王朝国家への推移」がみられる中世の方が、行基たちが伝えたかったことを書かれているのではないかと思われ、それは「古代からのネットワーク」が秘かに伝えてきた真実がようやく明らかにできるようになったからではないかと、「祓えの神から蛇体の神へ」(p180)に書かれていた「瀬織津姫」について書かれている「倭姫命世記」も、2009.11.06分以来読んでいないので、再度じっくりと読み直さねばと思った次第です。


神奈備さんのブログに、大阪の土佐堀2丁目の出雲の松江候の屋敷で、「疱瘡神として名高い笠稲荷と鷺大明神が祀られていた。」ことが書かれていて、その「鷺大明神」と「金毘羅権現」「五牛大明神」「和霊神」は、藩をあげて祀られているようで、「梅田牛駆け粽」の「願掛けの対象」とされていたことが、一昨日検索して拝見したサイトに書かれていたのが気になってて。
(「梅田牛駆け粽」考:http://homepage3.nifty.com/osaka-web-museum/tano7-1.htm)
(近世の願懸重宝記の世界:http://homepage3.nifty.com/osaka-web-museum/tano7-4.htm)

浜松歌国の「神社仏閣願懸重宝記」に記載されている旧暦の五月五日に行われる「疱瘡除け」の行事ようで、中世の「殺牛祭神における漢神」の信仰が変化しつつも継続されているように思われ、「五牛大明神」「和霊神」について気になってるが検索し損ねていて・・・推測だけど「金毘羅権現」はもちろん繋がるでしょう。
(浜松歌国:http://kotobank.jp/word/%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E6%AD%8C%E5%9B%BD)
(民間医療信仰の小さな旅:http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/kjsmh/tayori3.htm)

うーん、「五牛大明神」はないなぁ、宇和島の「和霊神」は2008.10.22分での「和霊神社は「伊達政宗」の長男の家臣「山家清兵衛」と関係があるようで、主に四国・中国地方に分霊され祀られている」という、「和霊神社」の「うわじま牛鬼まつり」の「牛鬼」のことなのか、「山家清兵衛」なのか、それらの影に隠された別の神なのか・・・。
(和霊神社を探せ:http://tack7.fc2web.com/Warei/wareiwanted.html)

2011.01.23(Sun.)

一昨日の「波折神社」の御祭神が住吉大神、瀬織津姫神、志賀大神、菅原道真、保食神とあり、「筑前國續風土記付録」には「祭る所住吉大神、志賀明神、貴船神なり。」と書かれているサイトがあって、「志賀大神」は「阿雲氏」だったようなと検索したら、宗像市鐘崎の「織幡神社」がヒットして。
(織幡神社:http://www.genbu.net/data/tikuzen/orihata_title.htm)

神功皇后の三韓征伐の際、宗大臣(宗像の神)が捧げ持った「御手長」に、武内大臣が織った「赤白二流の旗」を付け、軍の前陣で、振り上げ、振り下げして、敵を翻弄した。最後に、その「御手長」を「息御嶋」に立て置いた。この「御手長」が「異國征伐御旗杆也」。

壱岐の天手長神社は、この「御手長」に由来し、当社は、「赤白二流の旗」を祀る社である。社伝によれば、壹岐真根子臣の子孫がこれを祀り伝えている。

とのことで、「御手長」は2002.02.05分での引用させていただいた文や、先日の折口氏の「幣束から旗さし物へ」にあるように、「依代」のようで「瀬織津姫」のように思われ、中座に祀られている「武内宿禰」もまた同様かと。
(織幡神社:http://blog.goo.ne.jp/yufunogi/e/ca31b48c09cea05ed82b9d323f0dc0bf)

で、その「織幡神社」については2010.02.12分でも「沈鐘伝説」から検索していて、その時は芭蕉の「月いづこ鐘は沈るうみのそこ」と西行の歌から、石川県富来町で詠んだと思われる歌に、「九州に目を向けろ」という芭蕉からのメッセージのように思ってて、昨日届いた西行MLに「志賀」の歌があって、再度調べてみようかなと。

MLによると、「ちりそむる花の初雪ふりぬればふみ分けまうき志賀の山越」は、「京都の北白河から近江の坂本に抜ける往還道」のあたりを詠んだ歌のようだが、「ほととぎすなきわたるなる波の上にこゑたたみおく志賀の浦風」は解説にある「比叡山から吹き下ろす風」以外にも何かありそうで。

あと、「織幡神社」で「赤白二流の旗」を「壹岐真根子臣」の子孫が祀り伝えるとのことだが、「日本書紀」で「武内宿禰」とそっくりだったとされる「壹岐真根子臣」との話にも、何かウラがありそうで・・・と、またしても本題から遠のいていくという・・・。
(織幡神社:http://lunabura.exblog.jp/i32/)
(壱岐・真根子の足跡:http://homepage1.zashiki.com/HAKUSEN/ikimaneko/ikimaneko.htm)

しかも、今日は時間がないので、いつも以上に中途半端になってしまいました、すみません・・・。


上記分を書いたあと、用事を済ませてから実家に行き、体調不良でダウンしてた妹に代わって義弟がおすそ分けとしてキャベツを持ってきてくれたので、ちょこっと「ご両親はずっと甑島に?」と聞いてみた。

すると「そうみたい・・・家系図があるって少し見せてもらったことがあるわ。」とのことで、代々おられたようなので、「甑隼人」の末裔のようで、「親族で山に段々畑を作ってたこともあってな、今はもう雑木林になってるけど。」というので、「ふつうの石を積み重ねて作ってはったん?」て聞くと、「そや。うっとこらは高台にあって石垣があってな、いつやったか裏の石垣が崩れたことがあったんやけど、海まで行って石を拾ってきてな、それを積み上げて補修したこともあったで。」と、泉州弁で語ってくれた。

「そんなに積み上げることができる大きな石が浜にあるん?」と聞くと、「波が荒いさかい、削れて丸ぅなっててな、それを運ぶんが大変やし。今は軽トラくらいは通れるねんけど、当時は手押しの三輪ので運んだんやけ。」とのことで、昔ながらの知恵を受け継いでおられるようだった。

ちなみに石についての質問をしてた時に頭に浮かべてたのは、2010.12.11分での写真の滋賀の「飯福寺」近辺の段々畑や、4日の写真の貴船神社「奥宮」の境内にある「船形石」で、関連する氏族の持つ技術かと。
(甑島ってどんな島?:http://www.city.satsumasendai.lg.jp/www/contents/1186033725484/index.html)
(甑島1:http://www.minc.ne.jp/~hotei/kamikosiki.html)


真珠の養殖をしているイカダと、段々畑があったという山。
(11年前の写真で、現在イカダはないらしい。)

追記(2011.01.24):
「甑」で検索してると、西宮の「越木岩神社」がヒットし、ご神体の「甑岩」は女性神だそうで、「甑岩崇敬会」のお札に「疫神斎」と書かれていて、「岩社」に「甑岩神祠・厳島神社の御分霊をお祀りしています。」とあり、「六甲山社」に「菊理姫大神」が、「雨乞社」に「貴船大神・龍神」が祀られており、「甑不動明王」も安置されているようで、当地で芭蕉が「さざれ蟹 足這い上がる 清水かな」を詠んだということで、「御神水所」(御祭神:罔象免大神)に歌碑があるそうで、「大崎稲荷(伏見稲荷大社の御分霊)」は「タヌキがお守りされているそうです。」というのも気になる。
(越木岩神社:http://www.koshikiiwa-jinja.jp/index2.htm)
(甑岩崇敬会:http://www.koshikiiwa-jinja.jp/suukeikai.htm)

「瀬織津姫」が祀られている神社のように思われ、「甑島」の地名の由来は上記URLにあるように「甑形の巨岩(甑島大明神)」なので、「越木岩神社」のご神体と同じなのではないか、と。

芭蕉の「さざれ蟹 足這い上がる 清水かな」の句碑が、長野・麻績村にあるというのも興味深いし、麻績村の「武水分神社」に「をばすては これからゆくか かむこどり」の芭蕉の句碑が立てられていたというのも気になりますね、西行が詠んだ「姨捨」の歌が西行ML80号に書かれていたし・・・。
(ここがおみごと!:http://omigoto.vill.omi.nagano.jp/zenkojimiti/route02_00.html)
(ここがおみごと!:http://omigoto.vill.omi.nagano.jp/zenkojimiti/route02_01.html)

2011.01.25(Tue.)

本日もまた横道にそれてばかりで・・・。

先日拝見していた「採鉱職人による伝承(白鳥伝説)」のページに、「岩国玖珂歴史物語」に「白鷺は疱瘡の神。白鷺は霊力あり、信心すればよく疱瘡を治した」と書かれていたそうで、それを引用させていただく前に「金屋子神祭文」で横道にそれて、さらに「金屋子神&中山神が吉備の神宿に現れる」と書かれていたことから、「中山神にこの地を譲渡したとされる物部伝承」があることが書かれていたサイトに飛び、そこから「中山太神宮」のお札を掲げるという藤内家が、神に奉った「チマキ」は「採菰」により得られた「高師小僧」のようなものから作られたのではないかということで、「藤内氏」の検索になり、ヒットしたサイトから「牛鬼」に繋がって・・・。
(採鉱職人による伝承(白鳥伝説):http://www.geocities.jp/astpa693/yamasi.html)
(金屋子神考察行脚:http://kibi33.ddo.jp/kibi/index.php)
(動揺する中山の主祭神:http://www.tvt.ne.jp/~zhilaohu/nakayama/nakayama2saishin.htm)
(島伝説:http://www.geocities.jp/ushimajp/simaden.htm)

何かしらの違和感があったものの、それが何であるかがはっきりしないので、寄り道コースだけ書いておくことにしましたが、22日の「神社仏閣願懸重宝記」に記載されている旧暦の五月五日に行われる「疱瘡除け」の行事は、「藤内の祖に神が示現したのが慶雲三年(706),丙午の年の五月上旬(二の午の日)とある。」というのに繋がるように思われ、全くの無関係には思われないが、どうも背後に藤原氏の乗っ取りが見えるように感じられるものの、それを証明できるものもなくて・・・。

芭蕉の歌から「中山」が気になっているが、「方便の神」とされているカラクリがわかりづらいような・・・。
(中山神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

で、ようやくPDFの「伯耆のもう一つの白兎神話」にある「オオアナムチと稲背脛命と鷺と白兎」を祀る神社を検索したが、現地の方にしかわからない情報があり、混乱しているので、どのように書けばいいのかなぁ、と・・・ま、調べたままに書こうと思うけど、長くなりそうな・・・。

検索でわからなかった御祭神は、「伯耆のもう一つの白兎神話」から引用させていただいて青字で書いております。また、「伯耆のもう一つの白兎神話」と同じ御祭神も青字にしております。

「加茂神社」:鳥取県八頭郡八頭町(旧郡家町)宮谷
御祭神:白兎神
(鳥取県観光連盟:http://www.tottori-guide.jp/188/513/7064.html)

「白兎神社」:鳥取県八頭郡八頭町(旧郡家町)福本
御祭神:白兎神
(鳥取県観光連盟:http://www.tottori-guide.jp/188/513/7064.html)

「土師百井神社」(もと白兎神社・現在は慈住寺境内社):鳥取県八頭郡八頭町(旧郡家町)土師百井
御祭神:白兎神
(鳥取県観光連盟:http://www.tottori-guide.jp/188/513/7064.html)

「大江神社」(土師氏の末流大江氏に由来する神社):鳥取県八頭郡船岡町橋本734
御祭神:大己貴命、天穗日命、三穗津姫命、(稲背脛命)
(http://kamnavi.jp/en/inaba.htm)
(http://www.genbu.net/data/inaba/ooe_title.htm)

「白兎神社」:鳥取県鳥取市白兎603
御祭神:白兎神、合祀:保食神
(http://www.genbu.net/data/inaba/hakuto_title.htm)

「中山神社」(サギの宮、伯耆の白兎発祥の地、大森大明神?):鳥取県西伯郡大山町(旧中山町)束積
御祭神:白兎神稲背脛命鷺大明神大己貴命
(中山町:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E7%94%BA_(%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%9C%8C))
(サギの宮神社:http://www.daisen.jp/p/2/area/umigawa/14/)

「前田神社」:鳥取県西伯郡名和町大字古御堂378
御祭神:稚日女命、稲背脛命大己貴命
(稚日女尊を祀る神社一覧:http://kamnavi.jp/ny/wakahirume.htm)

「国信神社」:鳥取県西伯郡大山町國信920-1
御祭神:誉田別命、帯長足姫命、田心姫命、湍津瘁姫命、市杵嶋姫命、武内宿禰命、稚産霊命、倉稲魂命、保食命、稲背脛命、素盞鳴命
(http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tottori/saihakugun/kuninobu/kuninobu.html)

「加茂神社」:鳥取県西伯郡大山町所子107番
御祭神:瓊々杵命、別雷命、神日本磐余彦命、玉依姫命、鵜草葺不合命、伊弉諾命、伊弉冉命、稲背脛命、誉田別命、倉稲魂命、大日め貴命、大山祇命、稲田姫命、水象女命、猿田彦命、鈿女命、大己貴命、少彦名命、大??命、菅原道真、五十猛命
(合祀を除いた御祭神:瓊々杵命、別雷命、誉田別命、大己貴命、少彦名命)
(http://1st.geocities.jp/huhito80/F-Jinja-houkiW-C-daisentyou.html)

「日吉神社」(天乃佐奈畔神の神社?):鳥取県米子市淀江町西原767
主祭神:大己貴命、少名彦名命、猿田彦命、天之佐奈盗_(あめのさなめ)
合祀:素盞鳴尊、建御名方命、武甕槌命、稚産霊命、保食神、天日方奇日方神、蛭子命、稲脊脛部命、倉稲魂命、稲田姫命、稚日女命、天照大御神
境内神社「天神神社」(祭神:瓊々杵命)、「国津神社」(祭神:素盞鳴尊)
(http://1st.geocities.jp/huhito80/F-Jinja-yodoe-hiezu1.html)

「小野神社」:鳥取県西伯郡岸本町
(末社)御祭神:稲背脛命大己貴命
(http://www.houki-town.jp/gappei/page-0-machi-1-1.htm)
昭和30年3月31日に日野郡の八郷村、西伯郡の大幡村・幡郷村の3か村が合併して現在の岸本町が誕生しました。
(http://www.green21.com/kanko/tottori/saihaku.htm)
隠岐島に流された祖父・篁を慕って、この地に訪れた平安女流歌人・小野小町の墓と伝えられています。

「加茂神社」:鳥取県西伯郡西伯町(大国村)
(境内神社)御祭神:稲背脛命鷺大明神大己貴命

「粟島神社」:鳥取県米子市彦名町1404
御祭神:少彦名命、大己貴命、神功皇后
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E7%B1%B3%E5%AD%90%E5%B8%82))
(http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/jinjya/awasima_a.html)

「犬田神社」:鳥取県米子市陰田町1440
御祭神:稲背脛命大己貴命
(http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/tottori/yonagosi/inuta/inuta.html)

「和田御崎神社」:鳥取県米子市大崎1320番
御祭神:素盞鳴尊、大己貴命、稲田姫命、稲背脛命
(http://houki.yonago-kodaisi.com/F-Jinja-yonagoG-kyuhinhantou.html)
古老の伝ふる所に拠れば尼子氏の残党安田義定の一族流浪して此地に来り農となる。
実に此開拓の祖たりしと共に当社も又安田氏の出雲国日御崎神社の御分霊を勧請創立せしものなりと云へり。

「諏訪神社」(五千石村):鳥取県米子市諏訪
御祭神:健御名方命、倉稲魂命、稲背脛命、天照大日め命、素盞鳴尊
(http://houki.yonago-kodaisi.com/F-Jinja-yonagoD-hinogawa.html)
往古より八幡神社の摂社にして諏訪大明神と号せしを、明治元年現今の社号に改称せらる。
倉稲魂命以下の神は本社の末社なりしを明治元年合祭す。

「諏訪神社」:鳥取県境港市
御祭神:稲背脛命大己貴命
(佐斐神町:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%96%90%E7%A5%9E%E7%94%BA)

「庄神社」:鳥取県日野郡溝口町
御祭神:稲背脛命

「山口神社」:鳥取県日野郡溝口町大字金谷谷字出口(現在地:鳥取県西伯郡伯耆町金屋谷726番)
御祭神:大山祇命、稲背脛命
(http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page772.html)
創立年代不詳、往古より山神と号せしを明治元年神社改正の際山口社と改められ、同五年村社に列す、同七年山口神社と称す。稲背脛命は摂社として村内に鎮座ありしを明治元年合祭せらる。

「熊野神社」:鳥取県日野郡江府町俣野471番
御祭神:稲背脛命
(http://1st.geocities.jp/huhito80/F-Jinja-kouhutyou.html)

「江美神社」(江尾神社):鳥取県日野郡江府町江尾
御祭神:ニギハヤヒなど、稲背脛命大己貴命
(http://1st.geocities.jp/huhito80/F-Jinja-kouhutyou.html)
社伝によると、天暦年間(九四七?九五七)に当地方を治めた豪族・進氏が、大和国石上神宮(現奈良県天理市)の分霊を、天の磐船に模した神輿に安置して勧請船神社と称したという。その後、厩戸豊聡耳命を合祀し、王子権現と神社名を改めた。明治六年(1873)に江尾神社と改称され、大正十一年(1922)に近隣の小祠を合祀し、現在地に移され、社名も江美神社に改めた。

「神奈川神社」:鳥取県日野郡江府町武庫925番
御祭神:稲背脛命大己貴命
(http://1st.geocities.jp/huhito80/F-Jinja-kouhutyou.html)

「聖神社」:鳥取県日野郡日野町黒板1796番
御祭神:国魂命、誉田別命、神功皇后、素盞鳴尊、大日め貴命、大山祇命、猿田彦命、事代主命、軻遇突智命、市杵島姫命、稲背脛命、大日め命、経津主命
(http://1st.geocities.jp/huhito80/F-Jinja-hinotyou.html)

「多里神社」:鳥取県日野郡日南町新屋70番
御祭神:倉稲魂命ほか43柱
保食命、稚産霊命、菅原道真、大山祇命、伊弉冉神、速玉男命、事解男命、稲背脛命、猿田彦命、蛭子命、菊理姫命、大己貴命、天穂日命、天津児屋根命、稚日女命、金山彦命、倭武命、誉田別命、阿遇突智命、興登魂命、五十猛命、大屋津姫命、抓屋津姫命、泉津事佐加男命、大日め命、大年命、国常立命、国狭土命、豊斟渟命、泥土煮命、沙土煮命、大戸道命、大苫辺命、面足命、惶根命、伊弉諾命、天照大神、忍穂耳命、瓊瓊杵尊、彦火々出見命、鵜草葺不合命、天地加流美頭姫命、經津主命
(http://1st.geocities.jp/huhito80/F-Jinja-nitinantyou.html)

「伊奈背波岐神社」:島根県出雲市(旧簸川郡)大社町鷺浦
御祭神:稲背脛命、配祀:白兎神
(http://www.genbu.net/data/izumo/inasehagi_title.htm)
祭神の稻背脛命は、武甕槌神と経津主神が国譲りの交渉のために降臨した時、諸手船(天鳩船)にて、大国主神の子・事代主神への使いをした神。また、天照大神の子・天穂日命の御子神で、またの名を天夷鳥命という。

まず、「土師百井神社」「大江神社」に「土師氏」が見え、最後の島根の「伊奈背波岐神社」は21日に引用させていただいたところにあったように、「稻背脛命」が「天夷鳥命」であるようなので、なるほど、と・・・道真が怨霊たる所以はここに繋がるようで。

「小野神社」近くで小町の伝承があるあたりは小野氏が、「江美神社」でニギハヤヒが祀られているあたりは物部氏が、それぞれテリトリーにしていたことを表していると思われ、全体的に「古代からのネットワーク」「行基プロジェクト」の氏族が揃っているような感じで。

21日に「伯耆のもう一つの白兎神話」から引用させていただいた「この地域で融合が行われたと想像することができます。」の通りで、初めに横道にそれた吉備の中山での「中山神」は、元は鳥取の「中山神社」と同じ御祭神が祀られていたのではないかと思われ、勧請された頃に何かがあったのでは。

私の想像では不比等の乗っ取り工作があったのではないかと思うが、それを読み取れる資料はまだ見つけられなくて・・・ま、「県犬飼美千代」を妻としたことによって、藤原氏が橘氏一門の氏神「梅宮大社」に乗り込んでいるので、諸兄の末裔にあたるという「藤内氏」が気になりますね。
(梅宮大社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%AE%AE%E5%A4%A7%E7%A4%BE)
(「やない」氏のルーツ:http://www.ne.jp/asahi/yanai/roots/body02.html)

あ、先日の検索で見つけた、高知県吾川郡いの町の「天石門別安國玉主天神社」の境内社にあるという「神母神社・白兎神社」が気になってるけど、よくわからなくて・・・。
(天石門別安國玉主天神社:http://www.genbu.net/data/tosa/iwatowake_title.htm)

「霊夢」により巖の上で「棟札」を発見したという三人の神主が、「日下氏」「鹿敷氏」「勝賀瀬氏」とあり、「鹿敷氏」についてはわからないが、「惟宗姓」の「勝賀瀬氏」は「秦氏の子孫」とのことで、「日下氏」「勝賀瀬氏」は「行基プロジェクト」の氏族かと思われるが、本来の御祭神は隠されているようで・・・。
(惟宗氏:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%AE%97%E6%B0%8F)

あと、神奈備さんの「写真掲示板」に、群馬県の「白兎を祀る神社」がUpされていて、上記の「伯耆のもう一つの白兎神話」にある「オオアナムチと稲背脛命と鷺と白兎」を祀る神社に繋がりそう、というか、奉斎氏族の移動が見られるようで気になりますね。
(写真掲示板:http://6314.teacup.com/kamnavi/bbs/)


風琳堂さんのブログが更新されていて、「向雲寺」の「十六王子」について書かれており、ふと、行基を「水間寺」の地へと導いたとされる「弁才天十六童子」を思い出し、2010.02.07分では「湯尾峠」の「痘瘡の神様」から「十六童子」に繋がったなぁ、と。
(弁才天十六童子:http://www.telemesse.ne.jp/daikakuji/00.html)

「十六童子」は本地が「菩薩」なので、「十六王子」との関連はよくわからないけど、何となく気になって・・・。

四国八十八ヶ所霊場第五十五番の「南光坊」も御本尊が「大通智勝如来」で、「航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する。」とあり、

縁起によると、大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697〜707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められた。
(http://www.88shikokuhenro.jp/ehime/55nankobo/)

と、行基絡みでもあるお寺なので、繋がりを感じられるわけで。

あ・・・「越智玉澄」「法楽所」で検索してたら、「玉澄は、夢の中で山野の神から「自分の眷属であり、使いである白鷺が飛び立って憩ったところに、必ず新しい温泉がある」との神意を授かり、その地を探して、今の道後温泉を発見したとされている。」とあり、「鷺大明神」はやはり「瀬織津姫」かと。
(古代「伊豫の湯」と湯之谷:http://homepage1.nifty.com/kisetunokaze/s_history/s_history10.html)

「別宮大山祇神社」について、

伊予国一宮の大山祇神社の別宮として創建されたもので、大山積大神を祀る。隣接する四国八十八箇所55番札所・南光坊とは、かつては一体のものであった。
(中略)
正治年間、大山祇神社の24の僧坊のうちの8坊が別宮に移され、別当寺・大積山光明寺を称した。それまで四国八十八箇所の55番札所は大三島の大山祇神社であったが、参拝不便のため別宮大山祇神社(光明寺)が札所とされた。
(別宮大山祇神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A5%E5%AE%AE%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%A5%87%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

とのことで、正治年間から「参拝不便」なのを理由として札所が移ったようだが、こちらを本来の「三嶋龍神」としていたのかも・・・。
(別宮大山祇神社:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/ehime/imabari/betsumiya_ooyama/ooyamazumi.html)
(別宮大山祇神社:http://www.geocities.jp/je5fbd/jinja02_1imabari.htm)
(別宮大山祇神社:http://goshuin.ko-kon.net/shokoku_jinja/38_bekku-ooyamadumi_imabari.html)

2011.01.27(Thu.)

いや〜、びっくりしましたよ、昨日は1日かけて「中原中也とダダイズム、京都時代」さんのサイトを拝見していて、まだ半分ほどしか読み終えてないけど、「賀茂探究」さんのサイトを拝見してから一層気になっていた「三島」から、かつて住んでいた平野区の「喜連」へ・・・。
(中原中也とダダイズム、京都時代:http://www.ten-f.com/index.html)

「大山積命」「事代主命」を祀る「三島鴨神社」に、伊予・伊豆などで「大山積命」を祀るきっかけがあったように思われ、それが鎌足の本拠地とされた「三島」と繋がるのではないかと検索していて、鎌足がなぜその地を得ることができたのかにウラがあるように思ったのだが、「中原中也とダダイズム、京都時代」さんのサイトによると、「蘇我氏」が関わっているような。
(三島の謎、蘇我氏と継体天皇妃:http://www.ten-f.com/sogashi-to-keitai.htm)

「蘇我倉山田石川麻呂」の兄弟で不比等の舅の「連子」が絡んでいるようで、「連子の孫に当たる「石足」から3代にわたって「年足」「名足」と「足」の一文字が引き継がれているのも不思議」とされており、また、「継体天皇」の子の名が「日本書紀」に「勾大兄皇子」(安閑天皇)と「檜隅高田皇子」(宣化天皇)とあり、「勾」「檜隅」が「「あの」鎌足の生地・高市郡内にある地名であることは一層興味をそそる符合」とされていることなど、仰る通りと思う、というか、できすぎているなと思えるほどで。
(蘇我連子:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E9%80%A3%E5%AD%90)
(石川石足:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9F%B3%E8%B6%B3)
(安閑天皇:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%96%91%E5%A4%A9%E7%9A%87)
(宣化天皇:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%8C%96%E5%A4%A9%E7%9A%87)

「鎌足」は「鎌子」と名乗ってた時期もあり、「ウィキペディア」で「欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏をおこなった中臣鎌子とは別人」と書かれているが、当時は「別人」であることがよくわからなかったのではないかと思われることや、「勾」「檜隅」の諱が「日本書紀」のみにあるというあたりに、不比等の目論見が表れているように思え、「蘇我連子」についての「『日本書紀』「天智天皇紀」3年5月条に死亡記事が見られるのが同時代史料に見える連子の最初で最後の記述である。」というのも気になりますね。
(中臣鎌子:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E9%8E%8C%E5%AD%90)

「蘇我連子」と「三島」の繋がりはよくわからないが、曾孫の「年足」の墓誌が「摂津国嶋上郡白髪郷」(現在の高槻市真上町)で見つかっており、嶋上郡の式内社として秦氏系の「神服神社」、物部氏系の「阿久刀神社」、土師氏系の「野身神社」、中臣氏の一支族?(中臣氏が多氏を乗っ取った?)の「太田神社」と、「「摂津国嶋下郡の三島鴨神社」と記されているのは嶋上郡に位置した三島江の「三島鴨神社」ではなく当社の「鴨神社」なのです。」という鴨氏の「鴨神社」などがあり、「行基プロジェクト」の関連氏族のテリトリーに中臣氏(藤原氏)が乗っ取りの足跡を残しているのが見えるようで。
(石川年足の墓:http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/daiou/17.html)
(神服神社:http://kamnavi.jp/en/settu/sinpuku.htm)
(阿久刀神社:http://kamnavi.jp/en/settu/akuto.htm)
(野身神社:http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hokusetu-nomi.html)
(太田神社:http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hokusetu-oota.html)
(鴨神社:http://kamojinja.web.fc2.com/kamojinja03.html)

上記URLの「三島の謎、蘇我氏と継体天皇妃」に、継体天皇は秦氏等の支援によって遷都されたのではないかとされていることや、「河内(の渡来系氏族)との関係も濃密であったことを窺わせます」と書かれていることから「喜連」に繋がっていくわけだが、「息長氏と「河内」と継体帝のえにし」には、橿原の「宗我都比古神社」の「由緒略記」に、「孝元天皇の御子彦太忍信命の孫にあたる竹内宿禰の第三子石川宿禰が蘇我の大家を賜って大阪河内から移り住み、姓を蘇我と改めた」とあるそうで、かつては「河内国」だった平野区「喜連」の「楯原神社」には、「武御雷男の子孫が国の名を「大々杼国」、郷の名を「大々杼郷」と名づけたが、神武帝から大々杼の姓を賜った。」ことなどが書かれた「家記」があるようで。
(息長氏と「河内」と継体帝のえにし:http://www.ten-f.com/okinaga-to-keitai.htm)
(河内の息長氏と「継体帝の血脈」を探る:http://www.ten-f.com/kawachi-to-okinaga.htm)
(楯原神社:http://kamnavi.jp/ym/hiboko/tatehara.htm)


楯原神社
神社の歴史はきわめて古く、崇神天皇の頃初めて祀られたといわれる延喜式内の古社であり、祭神はタケミカヅチノオオカミと大国主大神である。また、神武天皇が国内平定に用いた十握の剣を祀ったと社伝にある。もと字楯原(現在の喜連西1)にあったが、兵火にあい、現在の地に移った。
(平野区うぉ〜くらり〜 スタンプ帳より)


如願寺
崇峻天皇元年(588)、聖徳太子の創建として、もと喜連寺といわれた。阿弥陀寺・弥勒寺など、四方に荘厳な諸堂が建てられた大伽藍であったがその後、弘法大師により再建、如願寺と改められた。本尊聖観世音菩薩は平安時代の作で、大阪府有形文化財に指定されている。
(平野区うぉ〜くらり〜 スタンプ帳より)

かつて地下鉄谷町線「長吉出戸」を最寄駅とする場所に住んでいて、駅前のスーパーが遺跡のあった場所だったことなど、遺跡の多い地であり、1つ大阪よりの「喜連瓜破」駅の「喜連」は「伎人郷」が訛ったものとされていて、「瓜破」の由来は道昭や空海にまつわる伝承があったり、「瓜」の産地だったことによるものなどとされていて、「喜連瓜破」駅とは逆の隣の「長原」駅近くでも「長原遺跡」があったり、地名の由来となった「長江襲津彦命(葛城襲津彦命)」を祀る「志紀長吉神社」があって。
(長原遺跡:http://inoues.net/ruins2/nagaharaiseki.html)

「長原駅」の次が終点の「八尾南」駅で、近くの「八尾南遺跡」からは「排水用」の溝を伴った住居跡や樋、「龍」を描いた絵画土器などが出土しており、秦氏のテリトリーだったのではないかと思われ、「八尾」は物部氏のテリトリーとしても知られている場所かと。

話が少しそれましたが、河内「息長氏」の血筋が「継体天皇」に、そして「尾張氏」の血筋が「安閑天皇」に引き継がれ、ゆえに2008.04.04分での「黒姫山古墳」近くの「廣國神社」のように「蔵王権現」と同一視され、2009.05.06分の「小菅山八所権現」の「金峯権現」など、「瀬織津姫」と習合されることになるようで。

「中原中也とダダイズム、京都時代」さんの説では、「本朝皇胤紹運録」で「安閑天皇」の子とされる「豊彦王」が「蘇我稲目」ではないかとされていて、秦氏ゆかりの「大辟神社」に「豊彦王」と「守屋」が祀られていると、「神社覈録」などにあるそうで。
(宣化帝の出自と「稲」について考える:http://www.ten-f.com/senkatei-to-ine.html)
(小説、蘇我稲目が正体を見せた!:http://www.ten-f.com/iname-no-syotai.htm)
(大酒神社:http://www.genbu.net/data/yamasiro/oosake_title.htm)
(廣國神社:http://www33.ocn.ne.jp/~hagizin/hirokuni/zaou.html)

2007.05.26分などで書いたように、「陰陽の世界」という雑誌によると舞鶴市の「雄嶋」に祀られる「老人嶋明神」にはいろんな名を持っていると書かれていて、「一説に「ホアカリ」と継体天皇妃「目子郎女」」とされていたことから、「ホアカリ」と「継体天皇」の繋がりとともに、継体天皇妃「目子郎女」と「安閑天皇」「蔵王権現」「瀬織津姫」の血筋が繋がることを表しているように思われるわけで。

「豊彦王」で検索すると「巨勢氏」がヒットし、「本朝皇胤紹運録」によると「豊彦王」の母は、「継体天皇」を擁立したひとりとされる「許勢男人」の娘「香々有媛」で、同じく安閑天皇の妃「紗手媛」の妹となっているようだが、「許勢男人」の存在が疑問視する説があるとか・・・ただ、巨勢氏も行基らとの繋がりがあり、堺にも竹内街道沿いにテリトリーと思われる「金岡神社」があって、「本朝皇胤紹運録」が気になりますね。
(巨勢氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-37.html)
(巨勢氏:http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01227.htm)
(金岡神社:http://www.geocities.jp/engishiki01/settu/bun/st060107-01.html)

堺市内でも「中臣氏」(藤原氏)の乗っ取りらしき足跡が・・・。
(勝手神社:http://www.geocities.jp/engisiki/settu/bun/st060107-02.html)
(須牟地曽根神社:http://kamnavi.jp/mn/osaka/sumutisone.htm)
(露天神社:http://fishaqua.gozaru.jp/osaka_tuyutenjin.htm)

「能因」の歌に「瀬織津姫」が見えて、「西行」や「芭蕉」たちもまた同じような思いで詠んだのでは・・・あ、能因は「野田の玉川」でも詠んでいるということは、「玉川」に何かある?「井手の玉川」では藤原俊成が「山吹」とともに詠んでいて。
(伊勢姫と能因法師:http://www.city.takatsuki.osaka.jp/new/syoko/html/travel0007.html)
(ことばの季節:http://www.ris.ac.jp/kokubun/kotoba/naka2.html)
(多吉の狸日記:http://takiti.cocolog-nifty.com/tanuki/2006/10/post_2f1e.html)
(日本六玉川:http://www.ktr.mlit.go.jp/keihin/tama/know/property/12.htm)
(多賀城資料写真と解説:http://www.bashouan.com/piPhoto5.htm)
(井手の玉川:http://minami-lo.jp/member/sugiyama_6.html)

「玉川」の由来について、上記URLで「玉」の産地だからとされている場所もあったけど、「山吹」から「鉄」を連想し、21日に引用させていただいた「小豆」と呼ばれる「砂金を加工して作る」という「豆金」も「玉」なのではないかと思ったりして、繋がりがありそうな感じが・・・。


上記分を転送後も「中原中也とダダイズム、京都時代」さんのサイトを拝見していると、高槻の「笠森神社」から台東区谷中に勧請されたという「瘡守薬王菩薩」について書かれていて、太田道灌のように「疱瘡除け」として関西から勧請した人がいたんだなぁ、と。
(奉行になった隠密:http://www.ten-f.com/bugyo-to-onmitu.htm)
(笠森神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E6%A3%AE%E7%A8%B2%E8%8D%B7)
(笠森稲荷:http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/daiou/39.html)

勧請したという「能役者(猿楽)の家筋だったとされる大前氏」についてはよくわからなかったが、「能役者(猿楽)の家筋」であれば秦氏との繋がりが伺われ、「薬王菩薩」というと2009.07.24分でちょこっと書いた「法隆寺」金堂の「釈迦三尊像」の脇侍が「薬王菩薩・薬上菩薩」だそうだが、2010.02.07分での「湯尾峠」の「痘瘡の神様」は、「孫嫡子伝説」では「如意輪観音」のようで、それを安置した「光明童子」は「弁才天十六童子」の「船車童子」のようで、本地は「薬上菩薩」と書いてて、繋がりがあるようなそうでないような・・・。
(孫嫡子伝説:http://www.geocities.jp/hokuriku1970/yunoo.html)

「笠森」については、2010.04.10分で「笠森観音(千葉)と笠寺(名古屋)」を検証されているサイトを拝見していて、その共通項の1つに「芭蕉が句を詠む」ことが挙げられていて、三島江で詠まれたものがそれにあたるのなら、繋がりを示す芭蕉からのメッセージかも、と。

で、高槻の「笠森神社」は「地元の豪族・笠氏が稚武彦命と鴨別命を祀って創設されたと伝えられる。」とあり、「笠氏」が「吉備氏」の流れを汲むことから「稚武彦命」とその子の「鴨別命」が祀られたようで、「笠氏」は2010.10.09分で森氏の著書に書かれていた「笠百私印」から気になってて、その時に書いたように「菅」「鉄」に関する氏族と思われ、「疱瘡」も含めて「瀬織津姫」「ニギハヤヒ」に繋がるのでは・・・。
(稚武彦命:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%9A%E6%AD%A6%E5%BD%A6%E5%91%BD)
(吉備・笠・賀陽・上道・日奉部・和気:http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kibi.htm)
(笠森観音(千葉)と笠寺(名古屋):http://rizardon.com/~nakai/kasamori.htm)

うーん、「蔵王権現」と同一視されている「安閑天皇」が祀られている「廣國神社」のあるあたりは「河内鋳物師」の本拠地で、「鋳物」「芋」「疱瘡」の繋がりが見られる、というだけじゃ、説明不足ですよね・・・。
(鍋宮大明神:http://www33.ocn.ne.jp/~hagizin/hirokuni/imoji.html)

追記(2011.01.29):
「越智氏」と「吉備氏」が「兄弟氏族」とあり、「物部氏」とも繋がるということになりそうですね。
(越智氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-15.html)

2011.01.29(Sat.)

原因はこれか・・・「大山咋命」と「大山積神」(大山祇命・和多志大神)が同じであるかのように書かれてるけど、「大山咋命」は「大年神とアメノチカルミヅヒメの間の子である。」とあり、「大山積神」のところで「オホヤマツミ神の娘である神大市比売神との間に大年神と倉稲魂尊をもうけていると記している。」とあるから別の神ってことでしょ。
(大山咋命:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%92%8B%E7%A5%9E)
(オオヤマツミ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%A9%8D%E7%A5%9E)

秦氏と藤原氏が同じとされる背景として、上記のことがあるだけでなく、多氏が藤原氏(中臣氏)に乗っ取られたことが書かれた文献がないから、秦氏が賀茂氏を乗っ取ったように解釈されているようだが、三島の「阿為神社」は多氏による奉斎と思われ、それを乗っ取った藤原氏(中臣氏)が、多氏とともに集落を形成した氏族を支配したのでは・・・推測では「連子」にすり替わった「鎌足」によってではないか、と。
(阿為神社:http://kamnavi.jp/ym/osaka/ibaragiai.htm)
(阿為神社:http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/aijinja.htm)

「幣久良神社」について、「ある時、当社の神輿を子細があって附近の池(御手洗池)に埋めた。」とある「子細」は、藤原氏(中臣氏)に乗っ取られたことを表し、「瀬織津姫」が隠されたように思われるのだが。
(阿為神社(幣久良神社):http://bittercup.blog81.fc2.com/blog-entry-1892.html)

「播磨国風土記」に「昔、呉の勝[クレノスグリ]が韓の国から渡って来て、始め紀伊の国の名草の郡の大田の村に着いた。その後、分かれ来て摂津の国の三島の賀美[カミ]の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住して来た。これはもといた紀伊の国の大田をとって里の名としたのである。」とあるそうで、藤原氏(中臣氏)による多氏の乗っ取りとしか思われないのは、私がアンチ不比等だからというだけではないと思う。
(大田・太田について:http://kamnavi.jp/log/oota01.htm)
(播磨風土記:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%AD%E7%A3%A8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98)
(播磨風土記の世界:http://www.himeji-utimati.jp/history/harimafudoki.htm)
(播磨國風土記:http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/harimatop.shtml)

いつもの如く横道にそれてしまうのだが、「播磨國風土記」を書かれているサイトの「スクナヒコナと両面宿儺についてのトンデモ」での、スクナヒコナがインド人かも、という説は興味深いな、と。
(スクナヒコナと両面宿儺についてのトンデモ:http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/sukunahikona.shtml)

話を戻しますが、「中原中也とダダイズム、京都時代」さんのサイトの「秦氏と藤原氏、そして「三島」」に、「茨田堤の完成に寄与した秦氏が、霊験あらたかな事を証明して見せた大山積神を、鴨氏と三島氏の了解の下に祀ったと考えるのが自然です。」とあったことからの検索だったわけだが、「3世紀から4世紀にかけて、鴨氏の地盤を継ぐ形で「斯麻氏」が「嶋氏」に、更に「御嶋」から「三島氏」となって統合支配」したというのは、蘇我氏を装った「鎌足」によって先住の氏族が封じ込まれ、さらに「鎌足」の子という立場を利用した不比等が、中臣氏(藤原氏)も「三島連合の一員」であるのだからと、協力させたのではないかと思われるわけで。
(鴨神社:http://kamojinja.web.fc2.com/tayori.html)
(秦氏と藤原氏、そして「三島」:http://www.ten-f.com/hata-to-fujiwara-mishima.htm)

「日本書紀」にある「事代主神、八尋鰐になって三嶋溝くひ姫、或いはいわく、玉櫛姫に通い給う・・・」を信じるならば、「三嶋溝くひ姫」のいる地に「事代主神」がやってきたことになり、「三嶋溝咋耳」は秦氏か多氏の神と思われるので「事代主神」を受け入れた側で、そこに乗り込んで「御嶋」から「三島氏」にして統合支配したのが「鎌足」かと。
(「ヨド」の周辺:http://www.dai3gen.net/yodo.htm)
(玉櫛媛:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E6%AB%9B%E5%AA%9B)

「磐手杜神社」の宮司さんがおっしゃっていたという、茨木の「阿武山」と高槻の「安満山」と山崎の「天王山」が、「それぞれ大海に浮かぶ三つの嶋の姿に見えたから「三嶋」と名づけられた」ことと、「斯麻氏」、「呉の勝」がどう繋がるのかが不明だが、合祀されている「雲峯神社」が「役小角が峯頭白雲の立登るを見て」祀ったという「蔵王権現」が、「安閑天皇」「雷神」と習合しているということは、住民の方々が「瀬織津姫」であることを知ってのことではないかと思われて。
(安閑天皇と蘇我氏そして石川:http://www.ten-f.com/ankan-kumomime.htm)
(磐手杜神社:http://kamnavi.jp/en/settu/iwate.htm)
(磐手杜神社:http://bittercup.blog81.fc2.com/blog-entry-945.html)
(溝咋神社:http://kamnavi.jp/en/settu/mizokui.htm)
(溝咋神社:http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/hokusetu-mizokui.html)
(溝咋神社:http://bittercup.blog81.fc2.com/blog-entry-396.html)

「三島鴨神社」の社伝に「物部の韓国連が祭祀に協力したとしている」とあることや、風琳堂さんのブログにあった伊予で「大山積神」が「方便の神」として祀られる流れから、「呉の勝」や「斯麻氏」が物部氏と繋がる可能性もあり、鎌足・不比等によって物部氏・蘇我氏の足跡が消されただけでなく、記紀には載ってないという「稲爪神社」の御由緒にある「韓国軍の襲撃」では「荒羽祇神を逆利用」され、さらに御由緒を改竄されてしまったのでは。
(三島鴨神社:http://kamnavi.jp/en/settu/misimakamo.htm)
(三島鴨神社:http://bittercup.blog81.fc2.com/blog-entry-1093.html)
(稲爪神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%88%AA%E7%A5%9E%E7%A4%BE)
(予章記:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%88%E7%AB%A0%E8%A8%98)

「怨霊」が誕生するのもわかる気がする。


「大山積神」について、別の名を「吾田国主事勝国勝長狭命」とあり「大山積神の擬神体」とされていたので、どういうことなんだろうかと検索していると、
(大山祇神社:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/ehime/imabari/ooyamazumi/ooyamazumi.html)

長主山(ながぬしやま)・・・神代の昔、吾田の長屋の国主事勝国勝長狭という長い名前の神が、自分の領内の絶景であるというところがら、長狭が主宰する山という意味で、こう呼んでいたのだということです。
(開聞の昔話:http://kaimon.lolipop.jp/index.php?%E9%96%8B%E8%81%9E%E6%98%94%E8%A9%B1)

とあり、また、「宗像大菩薩御縁起」にある「磯良丸」のモデルが「鬱比袁麻呂」で、それが「吾田国主事勝国勝長狭」、そして「綿津見(ワタツミミ)」=「吾田国主」、「海神国=事勝国なんだな。つまり好古都国。」と書かれたブログがあって、はぁ?と。
(仮称リアス式:http://gownagownaguinkujira.cocolog-nifty.com/blog/)
(磯良丸:http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1107a.htm)
(好古都国(魏志倭人伝):http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D)

「吾田国主事勝国勝長狭」は「日本書紀」の第2の一書に出てくる「神武」が出会ったという人物のようだが、「塩土老翁」「猿田彦」「武内宿禰」ともされているようで、「阿多(薩摩)隼人の武将」とも書かれているサイトがあって。
(摩多羅神2:http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/2_J.html)

岡崎市の「六所神社」は、「松平氏(徳川氏)発祥の地である松平郷(現 豊田市松平町)の六所神社より祭神の勧請を受けて創建」とあり、「松平郷の六所神社は、鹽竈六所明神(鹽竈神社の六所宮の神)より勧請を受けたもの」だそうだが、「岡崎の六所神社はそのうち猿田彦命・塩土老翁命・事勝国勝長狭命の三神の分祀を受けた。」として、主祭神が「猿田彦命」「塩土老翁命」「事勝国勝長狭命」となっていて、「鹽竈六所明神」もよくわからずまたしても、はぁ?、と。
(岡崎市・六所神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%89%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%B8%82))
(塩竈神社:http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/miyagi/shiogamasi/shiogama_keidai/shiogama_keidai.html)

宮城の「鼻節神社」には、「鹽竈社縁起」によると「鹽竈六所明神」は「猿田彦命、事勝国勝命、塩土老翁、岐神、興玉命、太田命の同体異名の6座」と書かれていたが・・・。
(鼻節神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BC%BB%E7%AF%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

「高千穂神社」では、「境内社」の「稲荷社」に「事勝国勝長狭神と大年神を祀っている。」と・・・。
(高千穂神社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8D%83%E7%A9%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE)

滋賀の「多賀大社」では、摂社「胡宮神社」に「伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭」が祀られていて、「多賀社の南方2キロメートルにある小高い丘(神体山)に鎮座する。 授子・授産、鎮火の神として崇敬される。」と・・・。
(多賀大社:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E5%A4%A7%E7%A4%BE)

「笠沙路探訪」さんのサイトで、本来の神「三島龍神」と「俳優・オミサキ」とは繋がるような感じはするが、方便の神「大山積神」とは異なるように思えて、不比等の目論見にハマってしまってたのか?私・・・。
(天神の服属:http://www4.synapse.ne.jp/yatusiro/newpage17.html)

そういえば長野市の「加茂神社」は、「古伝では初代大本願上人が信濃下向の際、日頃信仰していた京都賀茂御祖神社(下鴨社)の御神霊を奉持し祀った」と伝えられているとあり、「善光寺」の初代大本願上人「尊光上人」は「聖徳太子妃。皇極天皇の命により蘇我馬子の娘が出家」したとされているので、その蘇我氏が三島で秦氏・賀茂氏のテリトリーを乗っ取るハズがないと思われ、「年足」のお墓しかないのも妙で、ならば「鎌足」が乗っ取ったと考えるのが自然なのでは。
(加茂神社:http://www.zenkojikai.com/shinetsu/s-183.html)
(善光寺上人:http://www.daihongan.or.jp/shounin/)

余談:約束事、というか、決まりみたいなのがあるんでしょうか・・・の会社の「T島」さんちは本家だそうで、分家は「T嶋」さんらしい。で、「M嶋」さんちは分家で、本家は「M島」さんだそうで。

鹿嶋市にある「鹿島神宮」や、三島市の「三嶋大社」などにも、そういうのがあるのかなぁ・・・。

2011.01.31(Mon.)

一昨日届いたML「西行辞典」の第159号を拝見してて、ふと頼朝と西行の出会いが気になって検索してみた。

「吾妻鏡」1186年 (文治2年 丙午)に、

8月15日 己丑
二品鶴岡宮に御参詣。而るに老僧一人鳥居の辺に徘徊す。
これを怪しみ、景季を以て 名字を問わしめ給うの処、佐藤兵衛の尉憲清法師なり。今西行と号すと。
仍って奉幣 以後、心静かに謁見を遂げ、和歌の事を談るべきの由仰せ遣わさる。
西行承るの由を 申せしめ、宮寺を廻り法施を奉る。二品彼の人を召さんが為早速還御す。
則ち営中に 招引し御芳談に及ぶ。
この間歌道並びに弓馬の事に就いて、條々尋ね仰せらるる事有り。
西行申して云く、弓馬の事は、在俗の当初、なまじいに家風を伝うと雖も、保延 三年八月遁世の時、
秀郷朝臣以来九代の嫡家相承の兵法を焼失す。
罪業の因たるに依って、その事曽て以て心底に残り留めず。皆忘却しをはんぬ。
詠歌は、花月に対し動感の折節、僅かに三十一字ばかりを作るなり。
全く奥旨を知らず。然らば是彼報じ申さんと欲する所無しと。
然れども恩問等閑ならざるの間、弓馬の事に於いては具に以てこれを申す。
即ち俊兼をしてその詞を記し置かしめ給う。縡終夜に専らせらると。
(http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma/118608.html)

とあり、まず日付が気になり、芭蕉が「月に名を包みかねてや痘瘡の神」と詠んだ「中秋の名月」の日に会い、「歌道」について頼朝が聞いたということや、西行が伝授した翌年から「鶴岡八幡宮」で「流鏑馬」が行われるようになったことなど、頼朝が「瀬織津姫」「ニギハヤヒ」に関する何かを聞きたがっていたように思えて。

「西行」と「慈円」「明恵」等との間にも「瀬織津姫」の存在が感じられ、そうした繋がりが見えたので、夢枕氏も書かれたのではないかと思えたり・・・。
(夢枕獏の描く西行:http://59155480.at.webry.info/200801/article_4.html)
(謎の宿神:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/wa/seireo02.html)
(ひと・流行・話題:http://book.asahi.com/clip/TKY200612190369.html)
(朝日新聞出版「一冊の本」:http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=12225)

「行基」と「西行」を繋ぐように詠んだ「世の人の見付ぬ花や軒の栗」に込めた芭蕉の想いとは・・・。
(須賀川:http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno09.htm)
(とかくして越え行くままに:http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/hosomichi006.html)

話は変わるが、行基ゆかりとされる「長国寺」と、その「長国寺」を再興したとされる「根津甚平」、そしてその近くにあるという「西行塚」について気になるんだが、いまいちよくわからなくて・・・。
(大井宿:http://www.cbr.mlit.go.jp/tajimi/douro/naka_douro3/nakasanndou6.html)
(大井宿:http://okamoto.u.cnet-ta.ne.jp/naksendo/n10day.htm)
(甚平坂:http://www.ja-higashimino.or.jp/hiroba/story/e/jinbei.html)

迷走はまだまだ続きそうです・・・。


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